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検索対象: 世界の大思想29 サルトル
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1. 世界の大思想29 サルトル

138 にその形を与えるのである。、渇きについての意識の可能は、 界》 monde と呼ぶことにしよう。 飲むことについての意識である。さらに、われわれは「自己 訳注 soif comblée. 誤解してはならないがこの「充満した渇き」 は、満足を得てすでに渇きでなくなってしまった渇きではなく、 との一致」が不可能であることを知っている。なぜなら、こ まったく反対に、極限にまではりつめられた渇きである。 しし、カ・ の可能の実現によって到達された対自は、自分を、対自とし えれば、非反省的にではあるが我慢に我慢をかさねて我慢しきれ いいかえれば、諸可能のいま一つの地平をもつものとし なくなる寸前の、渇きの極致である。その他の欲望についても同 て、存在させるであろうからである。そういうわけで、飽満 様である。すぐ後の方では、これを「充満した空虚」とも呼んで こよ、、 しつでも失望感がともなう。《それだけなのか ? 》と いう有名な文句は、堪能が与える具体的な快楽を指すのでは なくて、自己との一致の消失を指すのである。それをとおし こここ 冫いたってはじめて、われわれは可能の存在様相を明 て、われわれは時間性の根原をかいま見る。というのも、こ らかにすることができる。可能とは、対自が、自己であるた の渇きは、自分の可能であると同時に自分の可能であらぬかめに、欠いているところの分である。したが「て、可能は可 らである。人間存在を自己自身からひき離すかかる無が、時 能としてのかぎりで存在するという言いかたは、適切でな 間の源泉に存在する。けれども、それについては、いずれまた い。少なくともその場合の存在という意味は、それが存在さ あとで述べよう。かんじんな点はこうである。欠如分としてれないかぎりにおいて《存在される》或る存在者の存在とい の対自すなわち可能が、世界の或る状態への現前としての対 う意味であり、別の言いかたをするならば、私のあるとこる 自であるかぎりにおいて、対自は、自分に欠けていてしかものものから、距離をおいて現われることである。可能は、た 自分自身の可能である「自己への現前」から、或る意味では とい否定される表象であっても単なる一つの表象として、存 何ものでもないものによ 0 て、別の意味では世界に存在する在するのではなく、欠如という資格で存在のかなたにある一 ものの全体によって、ひき離されている。そういう意味で、 つの実在的な存在欠如として、存在するのである。可能は、 対自が自己との一致を企てるときにのりこえるところの存在一つの欠如という存在をもつが、欠如としてのかぎりでは、 は、世界であり、人間が自分の可能と再会するためにのりこ存在を欠いている。可能は存在するのではない。可能は、ま えなければならない無限の存在距離である。われわれは、対さに対自が自分を存在させるかぎりにおいて、自分を可能な 自と、対自がそれであるところの可能との関係を、《自己性らしめるのである。可能は、図式的な素描によって、対自が の回路》 circuit de l'ipséitéと呼び、 この自己性の回路自分自身のかなたにおいてそれであるところの無の所在を、 によってのりこえられるかぎりにおける存在の全体を、《世規定する。いうまでもないが、可能は、はじめに対象的に措

2. 世界の大思想29 サルトル

いたのである。廊下のうすぐらい片隅は、私の身を隠す可能て、その結果、他のもろもろの関係や距離をもって、同様に 性を、その薄暗さのもつ一つの単なる潜在的性質として、その私には見えない一つの面をもっ他の諸対象のただなかに、別 ほの暗さの一つのいざないとして、私に指し示していた。対様に方向づけられた新たな複合のうちに、組織されるかぎり 象のかかる性質もしくは道具性は、ただその対象にしか属し においてである。それゆえ、「私」は、私が私の諸可能であ ていなかった。かかる性質もしくは道具性は、客観的理想的るかぎりにおいては、「私があらぬところの者であり、私が な一つの固有性として与えられ、われわれが状況とよんでい あるところの者であらぬ」のであるが、いまや、その私が、 るこの複合へのその現実的な所属を示すものであった。けれ何者かである。「私がそれであるところの者」 この者は ども、他者のまなざしとともに、それらの復合の一つの新た原理的に私から脱れ出るのであるが 私は、世界が私から な組織が生じ、最初の組織のうえに重ねられる。事実、見ら脱れ出るかぎりにおいて、世界のただなかにおいて、この者 れているものとして私をとらえることは、世界のうちに、世である。この事実からして、対象に対する私の関係、もしく 界から出発して、見られているものとして私をとらえること は対象の潜在性に対する私の関係は、他者のまなざしのもと である。他者のまなざしは、宇宙のなかに、私を浮き上らせ に解体する。そして、この関係は、その対象を用いる私の可 るのではない。他者のまなざしは、私の状況のふところにお能性として、世界のうちに、私にとってあらわれるのである いて、私をさがし求めにくる。他者のまなざしは、私につい が、しかしそのことは、私の可能性が原理的に私から脱れ出 るかぎりにおいて、 て、もろもろの道具との分解不可能な諸関係をしかとらえな いいかえれば、私の可能性が他人によっ 。もし私が、腰かけているものとして見られるならば、私て彼自身の諸可能性の方へ向かって超出されるかぎりにおい は、《或るー椅子のーうえにー腰かけているもの》と見られてである。たとえば、薄暗い片隅の潜在性が、私にとってこ るはずであり、私が、かがみこんでいるものとして見られるの片隅に身を隠すという与えられた可能性になるのは、他人 のは、《鍵孔のーうえにーかがみこんでいるもの》としてでが私の可能性を彼自身の可能性へ向かって超出し、この片隅 ある。等々。けれども、「私」のかかる他有化すなわちまなを懐中電灯で照らすかもしれないという、ただそれだけの事 ざしを向けられていることは、ついには、私の組織している実からしてである。他人のこの可能性は、そこに存在する。 在 世界の他有化をふくむ。私がこの椅子のうえに腰かけている私は、この可能性をとらえるのであるが、しかし、いわば不 存 ものとして見られるのは、私がこの椅子を決して見ないかぎ在な可能性として、他人における可能性として、私の不安に りにおいてであり、この椅子を見ることが私にとって不可能よって、《あまり安全でない》この隠れ場所を断念する私の であるかぎりにおいてであり、この椅子が、私から脱れ出決意によって、とらえるのである。それゆえ、私の諸可能性

3. 世界の大思想29 サルトル

要求された条件をみたしえない者の場合には、医術は彼に欠それを個人的な執念として体験した。すなわち飛行が違法の 3 けているもの、彼の人間性収奪となる ( このことは同時に医未来として、彼の可能性となったのだ。実は、彼は植民者が 術以外の他の多くの職業も彼には〈とざされている〉だけ原住民たちにすでにみとめている ( それはただはじめにそれ に、ますますそうである ) 。おそらく相対的貧困化の問題はを抹殺することが不可能だからのことにすぎぬが ) 可能性、 この見地から手をつけられる必要があろう。すべての人間 すなわち反抗、危険、醜聞、弾圧の可能性をえらんだのであ は、彼にとって実現不可能である可能事の総体によって、する。ところでこの選択は同時に彼の個人的投企と植民者に対・ なわち程度の差こそあれふさがれている未来によって否定的する原住民の闘争の現段階とを理解することをわれわれに可 に定義される。めぐまれていない階級にとっては、社会が文 能ならしめる ( 有色人種は受動的抵抗と不服従の時期をこえ 化的、技術的、物質的にゆたかになるごとに生活の低減、貧た。しかし彼が属する集団は個人的反抗とテロリスムをこえ 困化があらわれることになり、未来はほとんど全面的にふさ る手段をなお持ち合せていなかった ) 。このわかい反逆者は、 がれている。かくて肯定的にも否定的にも、社会的可能性は彼の故国での闘争が一時的に個人的行為を要請しているだけ しっそう個人そのものであり独自である。かくてこの人 個人の未来の図式的決定因として体験される。そして最も個に、、 人的な可能性でさえも社会的可能性の内面化であり、豊饒化物のかけがえのない独自性は一一重の未来の内面化である。す であるにすぎない ロンドン近郊の陣地で、一人の〈地上勤なわち白人の未来と彼の同胞のそれであり、この二つの未米 務員〉が飛行機をぬすんで、一度も飛行の経験がなかったの の矛盾が一つの投企のなかで引き受けられのりこえられる。 に、英仏海峡を飛びこえた。それは有色人種であった。彼に この投企は矛盾を火花のような東の間の未来、彼の未来に向〕 は搭乗員の仲間入りをすることが禁じられていた。この禁止って投げ出すが、この未来はただちに牢獄或いは事故死によ は彼にとって主観的貧困化となっていた。しかし主観的なも って破壊されるのである。 のはただちにのりこえられて客観性に移行する。この拒否さ アメリカの文化主義やカーディナーの理論に機械論的で時・ れた未来は彼にとって彼の〈人種〉の運命と英国人の人種的代おくれの様相を与えている点は、文化的行動や基本的意識 偏見とを反映していた。植民者に対する有色人種たちの一般 態度 ( 或いは、役割、その他 ) が、時間的なものである真の 的反抗が彼の内部ではこの禁止への個人的拒否によって表現生きた展望のなかで少しも理解されておらす、それどころ されたのだ。彼は白人にとって可能な未来はすべての人にと か、原因が結果を支配すると同じ仕方で人間を支配する過去 - って可能であると主張する。このような政治的な立場を、お的決定因として理解されている、ということである。もしも そらく彼ははっきりとは自覚していなかったが、しかも彼は人々が、社会は各個人に対して未来の展望としてあらわれ、

4. 世界の大思想29 サルトル

201 存在と無 してとらえるのでなければ、不可能であるからである。第一一し向けられ、いつまでたっても、他者のそれら二つのありか たの総体を一望のもとにおさめることができないしーーーなぜ に、予感されるこの可能性は、「対象ー他者」の可能性では しすれもそれ自身だけで充 ないからである。 いいかえれば、「対象ー他者ーの諸可能性なら、それら二つのおのおのは、 : 足しており、それ自身をしか指し示さないからである。 は、死せる諸可能性であり、そのような死せる諸可能性は、 他者のもっ他のもろもろの対象的な相を指し示すだけであるそうかといって、それら二つのありかたのいすれかにしつか なぜならそれら二つのおのお りつかまることもできない からである。私を対象としてとらえる本来の可能性は、「主 のはそれ自身の不安定をもっており、一方が崩壊しては他方 観ー他者」の可能性であるから、私にとって、目下のとこ がその廃墟から出現するといったぐあいだからである。永久 ろ、何びとの可能性でもない。かかる本来の可能性は、「対 に「対象」であって、金輪際、「主観」とならないものとし 象ー他者」の全面的な絶減の背景のうえに、私の「対他ー対 象性 , をとおして私が体験するであろうような一人の「主ては、死者があるだけであるーーなぜなら、死ぬとは、世界 のただなかにおける自己の対象性を失うことではないからで 観ー他者」が、出現する場合の、絶対的な可能性である。 しいかえれば、すべての死者は、そこに、世界のなか この絶対的な可能性は、それ自身を源泉としてしか発現ある。 に、われわれのまわりに、存在している。むしろ、死ぬと しな、 それゆえ、「対象ー他者」は、いわば私がびく は、或る他者に対して主観として自分をあらわすあらゆる可 びくしながら取りあっかう爆発物のごときものである。とい 能性を、失うことであるからである。 うのも、ひとがいつなんどきそれを爆発させるかわからない ここまでわれわれの研究を進めてきて、「対他存在」の本 し、ひとたびそれが爆発すれば、突如として、世界が私のそ 質的な構造が明らかになったいまでは、われわれは《なにゆ とに逃亡し私の存在が他有化されるのを私は体験する、とい え他人たちが存在するのか ? 〉というこの形而上学的な問い う不断の可能性を、私はそれのまわりに予感するからであ る。したが 0 て、私のたえざる関心は、他者をその対象性のを立てたくなるのも無理はない。事実、すでに見てきたよう に、他人たちの存在は、対自の存在論的な構造から導きださ うちに抑えつけておくことであり、「対象ー他者」に対する 私の関係は、本質的に、彼を対象のままにさせておくためのれうるような一つの帰結であるのではない。それは、たしか 一つの原初的な出来事であるが、形而上学的な秩序に属 種々の策略から成りたっている。けれども、それらのすべて しいかえれば、存在の偶然性 contingence のたくらみが崩れ去り、私があらためて他者の変貌を体験すする出来事であり、 るためには、他者の一つのまなざしがありさえすれば十分で de l'étre に属する出来事である。「なにゆえ」という問いが ある。かくして、私は、変貌から下落へ、下落から変貌へと指本質的に立てられるのは、かかる形而上学的な存在に関して

5. 世界の大思想29 サルトル

幻 3 存在と無 である。持っ欲求は、実のところ、或る対象に対して、一種有でもありえたならば、実現されるであろうような存在の、 の存在関係にありたいという欲求、すなわち存在欲求に、還理想的指示として、存在する。それゆえ、我有化は、一つの 対自と、一つの具体的な即自とのあいだの、存在関係である 元される。 であろう。しかもこの関係は、この対自と所有される即自と この関係を規定するに当っては、科学者、芸術家、スポー ツマンの、それぞれの行為についてのさきの考察が、われわの同一化を示す理想的な指示によ 0 て、つきまとわれるであ れにとって大いに役立つであろう。われわれは、それらの行ろう。 訳注「可能 ()e possible) と、自己の可能である対自 ()e p 。日・ 為のおのおののうちに、一種の我有化的な態度を発見した。 soi qui est son possible) との、結合」という表現は、理解し しかも、おのおのの場合における我有化は、対象が、われわ にくいが、「可能的な対象と、可能的な対自との、結合」という れ自身の主観的な流出としてわれわれにあらわれると同時 意味に受けとっていいであろう。 に、また、われわれに対して無関心な外面性の関係にあるも のとしてわれわれにあらわれるという事実によって、特徴づ けられた。それゆえ、「私のもの」は、「私」の絶対的な内面 所有するとは、「私へと持っことー avoir moi である。 いいかえれば、〔私が〕対象の存在の本来の目的であることで 性と、「非ー私」の絶対的な外面性とのあいだにおける一つ ある。所有が完全な形で具体的に与えられている場合には、 の媒介的な存在関係として、われわれにあらわれた。それは、 同一の混合において、「非ー私になる私」であり、「私になる所有する者は、所有される対象の存在理由である。「私はこ の万年筆を所有している」ということは、「この万年筆は、 非ー私」である。けれども、この関係は、いっそうくわしく記 私のために存在する。この万年筆は私のために作られた」と 述されなければならない。所有しようとする企てにおいて、 いう意味である。さらに、根原的には、私の所有したいと思 われわれは、対自がそれであるところの可能性から無によっ う対象を、私のために作るのは、私である。「私の弓、私の て隔てられている一つの《非独立的な》対自に、出会う。こ 矢」というのは、私が私のために作った対象という意味であ の可能性は、対象を我がものにしうるという可能性である。 る。分業は、この最初の関係を褪色させるが、それを消失さ さらに、われわれは、対自につきまとう一つの価値に出会う。 かかる価値は、可能と、自己の可能である対自とが、同一性せはしない。「ぜいたく」は、この最初の関係の低下したも において結合することによって実現されるであろう全体的存のである。「せいたく , の原始的な形においては、私は、私 が私のために、私に属する人々 ( 奴隷、生来の家僕 ) に作ら 在の、理想的指示として、すなわちここでは、もし私が同一 物の分解不可能な統一において私自身であるとともに私の所せた対象を、所有する。それゆえ、「せいたく」は、原始的

6. 世界の大思想29 サルトル

定されるのではない。可能は、世界のかなたに自分を素描すは、それがあらぬところのものであり、それがあるところの る。可能は、私の現在的な知覚が自己性の回路のうちにおい ものであらぬ、ことになるであろう。そういうありかたは決 て世界からしてとらえられるかぎりで、私はこの現在的な知して「われ」 Je の存在様相ではない。事実、私が「われ」 覚に、その意味を与える。さりとて、可能は、知られざるも についてもつ意識は、決して「われ」を汲みつくすものでは の、もしくは無意識的なものでもない。可能は、非措定的意 ないし、また「われ」を存在にいたらせるのも、かかる意識 識としてのかぎりにおいて、自己 ( についての ) 非措定的意ではない。「われ」は、かかる意識以前にそこにあったもの 識の限界を素描する。渇き ( についての ) 非反省的な意識は、 として、つねに与えられているーー・また同時に、少しずつ開 欲望の目的としての「自己」を求心的に定立することなし 示されていくはずの深みをもつものとして、与えられてい に、望ましいものとしてのコツ。フの水からして、とらえられる。それゆえ、「自我」は、意識に対して、一つの超越的な る。けれども、可能な飽満は、「世界のただなかにおけるコ 即自として、人間的世界の一存在者としてあらわれるのであ ップ」の地平に、自己 ( についての ) 非措定的意識の非定立って、意識に属するものとしてあらわれるのではない。しか 的な相関者として、あらわれる。 し、それだからといって、対自は一つの単なる《非人格的な 観想である、などと結論してはならないであろう。「自我ー は或る意識を人格化する極であり「自我がなければ意識は 《非人格的な》段階にとどまる、などとは言えないのであっ 自我と、自己性の回路 て、むしろ反対に、或る条件のなかで、自己性 ipséitéの超 われわれは、《ルシェルシ = ・フイロゾフィック》に発表越的現象として、「自我ーの出現を許すのは、自分の根本的 ( 訳注 ) な自己性における意識である。事実、さきに見たように、即 した或る論文のなかで、「自我」 Ego が対自の領域に属する ものではないことを、示そうとこころみたことがある。それ自については、「それは自己である」と言うことさえ不可能 無 である。まったく単に、即自は存在する。そういう意味で、 をくりかえすことはやめよう。ここではただ、自我の超越の と 理由だけに注意しよう。要するに、《諸体験》 ErIebnisse を誤って意識の住人とされているこの「われ」 Je についても、 在 統一する極としての自我は、即自的であって、対自的ではな「われ」は意識の《われ》 Moi であると言うことはできよう 存 。もし自我が《意識に属するもの》であるならば、事実、 が、「われ」はわれ自身の「自己」であるとは言われないで 自我は、自分自身で、直接態の半透明性のうちにおいて、自あろう。それゆえ、反省されるものとしての対自の存在を一 分自身の根拠であるであろう。けれどもそうなると、自我つの即自へと実体化したために、人々は自己への反省運動を

7. 世界の大思想29 サルトル

208 何ら意味をもたない。事実、かかる問いが前提しているのは、 う事実のうちに、またこの事実によって、明証的に体験され 全体に対して一つの観点をとることができるという可能性、 る。また、われわれの見たように、他者にとっての私自身の すなわち全体を外から考察することができるという可能性他有化に対する私の反応は、他者を対象としてとらえること を、われわれがもっているということである。けれども、そによってあらわされる。要するに、他者は、次の二つの形の れは不可能である。な。せなら、まさに、私は、、、 カカる全体をもとで、私にとって存在しうる。もし私が明証的に他者を体 根拠として、私がかかる全体のうちに拘東されているかぎり 験するならば、私は、彼を認識することができない。 もし私 において、私自身として存在しているのであるからである。 が他者を認識するならば、もし私が彼のうえに働きかけるな いかなる意識も、たとい神の意識にせよ、《裏側を見る》こ らば、私は、彼の「対象ー存在」にしか、世界のただなかに とはできなし これら二つの ししカえれば、この全体を全体としてのかぎおける彼の蓋然的な存在にしか、到達しない。 りにおいてとらえることはできない。なぜなら、もし神が意形を綜合することは、何としても不可能である。 識であるならば、神は全体のうちに積分されているからであ る。また、もし神が、その本性上、意識のかなたにおける一 つの存在、すなわち自己自身の根拠であるような一つの即自 であるならば、全体は、神にとって、対象としてしかあらわ れえない その場合には、神は、自己を取り戻そうとする 主観的な努力としての、その内的分裂を欠いているーーか、 もしくは、主観としてしかあらわれえない その場合に は、神はこの主観であらぬのであるから、神は、この主観を 知ることなしに、ただこの主観に遭遇することしかできな 。それゆえ、全体に対してはいかなる観点も考えられえな こ全体は《外》をもたない。全体の ^ 裏側》の意味を間う などということは、全然、無意味である。われわれは、もう これ以上さきへ進むことができない。 どうやらわれわれの叙述も終りに達したようである。われ われが知りえたところでは、他者の存在は、私の対象性とい

8. 世界の大思想29 サルトル

在欠如としてのかぎりにおいてしか存在しえないような一つ に、石在欲求が具体的なもろもろの欲求のうちに見いだす象 の存在欠如の、内的な限界として、存在する」と言うのも、 徴的な表現のほかには、何ものも存しない。まず最初に一つ あるいはまた「自由は、出現することによって自己の可能をの存在欲求があってついで幾多の個別的な感情があるわけで 規定し、まさにそのことによって自己の価値を限界づける」 はない。むしろ反対に、存在欲求は、嫉妬、貪欲、芸術愛 と言うのも、存在論的に見れば、結局同じことである。それ好、卑怯、勇気、そのほか偶然的経験的な無数の表現のうち ゆえ、われわれは、存在投企 pro 」 et d'étre に到達するとき、 においてしか、またそれらによってしか、存在しないし、自 もはやそれ以上にさかの・ほることができないで、明らかに還己を現わさない。そしてそれゆえにこそ、人間存在は、つね 元不可能なものに出会う。なぜなら、明らかにわれわれは、 に、或るこれこれの人間によって、或る独自な人格によって 存在より以上にさかのぼることができないからであり、存在現わされるものとしてしか、われわれのまえにあらわれな 投企、可能、価値と、他方、存在とのあいだには、何らの差異 訳注「対自存在」Ⅲ「対自と、価値の存在ー ( 一一八ページ訳注 も存しないからである。人間は、根本的に、存在欲求 désir 参照 ) 。なお、ここで「存在欠如」 <manque 円 6 e 》といってい d'étre であり、この欲求の存在は、経験的な帰納によって確 るのは、さきに「欠如分を欠いている者」「欠如者」 <ce quoi かめられるはずはない。 この欲求の存在は、対自の存在につ manque ce qui manque> もしくは「現実存在者」 <existant 》 いてのア・。フリオリな記述から引き出される。というのも、 といっているのに当る。ここで「欠如を蒙むる存在全体ー <la 欲求は欠如であるからであり、対自は、自己自身に対して自 totalité d'étre manquée> といっているのは、さきに「欠如を蒙 己自身の存在欠如であるような存在であるからである。経験 むるもの」 <le manqué> といっているのに当る。さらに、ここ 的に観察されうるわれわれの諸傾向のおのおののうちに表現 で「対自に欠けている分」 <ce qui lui manque 》といっている される根原的な企ては、それゆえ、存在投企である。あるい のは、さきに「欠けている分」 <ce qui manque 》もしくは「欠 は、言うならば、おのおのの経験的な傾向は、根原的な存在 如分」 <manquant> といっているのに当る。 投企に対して、あたかもフロイトの場合に、意識的な諸傾向 とが、コンプレックスや根原的なリビドーに対してある関係と ところで、この欲求の対象たる存在に関しては、われわれ 在 同様、一つの象徴的な表現関係、象徴的な堪能関係においては、それが何であるかを、ア・。フリオリに知っている。対自 存 ある。そう言ったからとて、存在欲求がまずはじめに存在しは、自己自身に対して自己自身の存在欠如であるような存在 て、ついでそれが、ア・ポステリオリなもろもろの欲求によである。また、対自が欠いている存在は、即自である。対自 って自己を表現させる、という意味ではない。むしろ反対は即自の無化として出現する。そしてこの無化は、即自へ向

9. 世界の大思想29 サルトル

131 存在と無 るところのものである、という一つのありかたとしての可ヒ ロ能て、用いられるのがつねである。そういうふうに定義する を、出現させる。それゆえ、対自は、価値によってつきまと と、可能は、認識に対してしか可能的でないことになる。と われ、自分自身の可能へ向かって投げ企てられることなしに いうのも、われわれはその可能を肯定することも否定するこ は、あらわれえない。それにしても、対自がわれわれにその ともできないからである。そこから、可能に対して二つの態 諸可能を指し示すやいなや、ただちにコギトは、対自がそれ度が生じる。一方では、スビノザのように、諸可能はわれわ であらぬというしかたで、それであるところのものへ向かつれの無知に対してしか存在しないのであって、無知が消失す て、われわれを追い出す。 れば、その諸可能も消失する、と考えることができる。この 訳注 le possible は「可能的なもの」あるいは「可能事」と訳場合には、可能は、完全な認識にいたる途中の主観的な一段 してもよいが、この訳書では、単に「可能ーという訳語を当てる 階でしかない。可能は、或る心的なかたちの実在性をしかも ことにしこ。 たない。欠陥のある混乱した思考としてのかぎりで、可能は しかし、人間存在が自分自身の諸可能性 possibilités であ一つの具体的な存在をもつが、世界の特質としての存在はも たない。他方、ライプニツツ流に、無限な諸可能を、神的悟 ると同時にあらぬのはなぜであるかをいっそうよく理解する 性の思考対象たらしめることもできる。そうなると、それら ためには、可能というこの観念に立ち戻って、これを明らか の諸可能に、いわば絶対的な実在性が付与される。そして、 にするように試みなければならない。 可能の場合も、価値の場合と同様である。つまり、可能のそれらの諸可能のなかから最善の体系を実現する能力を、神 「存在」を理解するのが、最も難しいことなのである。なぜ的意志に対して保留しておくわけである。この場合、モナッ なら、可能は、存在の単なる可能性であるから、存在に先き ドの知覚の連鎖は厳密に決定されているにしても、また、全知 だつものとして与えられるが、それにもかかわらず、可能 なる存在はアダムの決意をその実体の命題そのものから出発 は、少なくとも可能としてのかぎりでは、存在をもっている して確実に設定することができるにしても、《アダムが林檎 、、こよ、不条 のでなければならないからである。《彼が来ることは可能でをもぎとらないことは可能である》という言しカナー 理ではない。それはただ、神的悟性の思考においては、共存 ある》というような言いかたをわれわれはするではないか ? ライプニツツ以来、 ^ 可能的》を ss 一 b 一 e ということばは、出可能ないま一つの体系があって、そこではアダムが知恵の木 来事を確実に規定しうるような厳然たる因果系列に決して拘の実を食わなかったものとして存在している、という意味で 東されない一つの出来事、しかも、それ自身に対しても当のある。しかしこの考えかたは、ス。ヒノザの考えかたとそれほ ど異なっているであろうか ? 事実、可能の実在性は、まっ 体系に対しても何ら矛盾をふくまない一つの出来事につい

10. 世界の大思想29 サルトル

14 き 対象となりつつあることを、発見することができないからでくることができない。要するに、私が他者を、世界のなか ある。この顕示は、私の宇宙が対象ー他者にとっての対象で に、「蓋然的に一人の人間であるもの」としてとらえるとき、 あるという事実から由来するものではありえないであろう。 私のこの把握が指し示しているところのものは、「他者によ もしそうだとすると、あたかも、他者のまなざしは、芝生やって見られている」という私の不断の可能性であり、「私に その周囲の諸対象のうえをさまよったあげく、一定のすじみよって見られているその対象に、取って代ることが、私を見 、ちをとおって、私のうえにそそがれる、というようなことにている一人の主観にとっていつでも可能である」という不断 なる。私の指摘したように、私は或る対象にとっての対象で の可能性である。《他者によって見られている》étre ・ vu-par- はありえないであろう。そこには、他者の根本的な転向があ autrui ことは、《他者を見ている》 vo デ au 肓巳ことの真理 ( 訳注 ) って、これが他者をして対象性から脱出させるのでなければ である。それゆえ、他者という観念よ、、、 ノ ~ し力なる場合にも、 ならない。それゆえ、私は、他者が私に投げかけるまなざし世界外にある孤独な一つの意識、私が考えてみることもでき を、彼の対象的存在の可能的なあらわれの一つと見なすこと ないような一つの意識を、めざすものではありえないであろ はできないであろう。他者は、彼が芝生を眺めるようなぐあう。つまり、人間は、世界との関連において、また私自身と いに、私を眺めることはできないであろう。さらにまた、私の関連において、定義される。人間は世界のなかの対象であ の対象性は、それ自身、世界の対象性から、私にとって、由るが、この対象は、宇宙の一つの内的流出、一つの内出血 来することはできないであろう。というのも、まさに、私 hémorragie interne を起させるような対象である。また人 は、一つの世界をそこに存するようにさせる者であるからで 間は主観であるが、この主観は対象化へ向かう私自身のかか あり、原理的に、自己自身にとって対象たりえない者である る逃亡のうちにおいて、私に対してあらわになる主観であ からである。それゆえ、《他者によって見られている》ét 月 e ・ る。けれども、他者と私自身との根原的な関係は、ただ単 vu-par-autrui と私が呼ぶところのこの関係は、なかんずく に、私の宇宙における一つの対象の具体的な現前をとおして 人間という語によって意味される諸関係のなかの一つであるめざされる一つの不在な真理であるのではない。 この根原的 どころか、対象ー他者の本質からも、私の主観ー存在から な関係は、また、私があらゆる瞬間に経験する具体的日常的 も、導き出されえないような、一つの還元不可能な事実を示 な一つの関係でもある。つまり、 いかなる瞬間にも、他者 すものである。けれども、それに反して、対象ー他者という は、私にまなざしを向けている。それゆえ、他者についての 概念が一つの意味をもつべきであるならば、この概念は、かあらゆる理論の基礎ともなるべきこの根本的な結びつきを、 かる根原的な関係の転向と低落とからしか、その意味を得て具体的な事例にもとづいて、記述しようとこころみること