存在と無 - みる会図書館


検索対象: 世界の大思想29 サルトル
471件見つかりました。

1. 世界の大思想29 サルトル

号を要求するがゆえに特殊な一一元性である。けれども、その の存在論的根拠としての、対自 pour-soi の存在法則は、「自 反面、この自己は、主語としてのかぎりにおいても、また目己への現前」というかたちのもとにおいて対自が対自自身で 的補語としてのかぎりにおいても、存在を指示しない。事あることである。 実、たとえば《彼は退屈している》〔彼は自己を退屈させている〕 かかる「自己への現前」は、しばしば存在充実として誤解 一一 s'ennuie の《自己》を考えてみれば、この《自己》された。哲学者たちのあいだにひろまっている先入主は、意 は半ば自分を開いて、自分の背後に主語そのものを現われさ識に対して最高の存在位を帰している。けれども、そのよう せている、ことがわかる。この《自己》 8 は、決して主語で な要請。 よ、現前という観念をいっそうくわしく記述していけ あるのではない。というのも、自己への関係をもたない主語ば、もはや維持されえなくなる。事実、あらゆる个・ ま、即自の同一性のうちに凝縮してしまうであろうからであ現前》には二元性がふくまれており、したがって少なくとも る。この《自己》 se は、実在の一つの安定した分節でもな潜在的な分離がふくまれている。存在の自己への現前には、 。というのも、この《自己》は、自分の背後に主語を現わ いわば存在の自己に対する剥離がふくまれている。同一物の れさせているからである。実をいうと、自己 s 。一は現実に存一致は、真の存在充実である。というのも、まさに、かかる 在するものとしてはとらえられえない。主語 su 」 et は自己で 一致において、同一物はいかなる否定性の入りこむ余地をも あることができない。な。せなら、自己との一致は、さきに言残さないからである。もちろん、同一律は、ヘーゲルが考え たように、矛盾律を呼びおこすことができる。「それである ったように、自己を消失させるからである。しかしそうかと いって、主語は、自己であらぬこともできない。というのも、 ところのものである存在」は、「それであらぬところのもの っ 自己は主語そのもののしるしであるからである。したが であらぬ存在ーでありうるはずである。けれども、ます、こ て、自己は、主語と主語自身との内在における理想的距離をの否定は、その他のすべての否定と同様、人間によって存在 . あらわしている。自己とは、それ自身との一致であらぬ一つ の表面にもたらされるのであって、存在そのものに固有の弁 無 のありかたであり、「同ーを「一」として立てることによっ証法によってもたらされるのではない。さらにこの矛盾律 て「同ーから脱れ出る一つのありかたであり、要するに、い は、存在と、その外なるものとの、関係をあらわしているに 在 ささかの差別もない絶対的凝集としての「同ーと、多様の綜すぎない。というのも、まさに、この矛盾律は、存在と、こ 存 合としての「一ーとのあいだの、つねに安定することのない の存在がそれであらぬところのものとの、関係に関する原理 であるからである。したがって、ここで問題になっているの 平衡状態にある一つのありかたである。それを、われわれは 「自己への現前」 présence äsoi と呼ぶことにしよう。意識は、即自存在に対して現前している人間、世界のうちに拘東

2. 世界の大思想29 サルトル

いままでの考察で明らかなように、絶対に切り離された一一うことすらできない。存在をもはやあらぬものとして意識し うるのは、意識だけである。意識からみれば、存在は余計な つの存在領域がある。一方は現象の存在であり、これは「即 ものである。意識はいかなるものからも即自存在をみちびき 自存在ーと名づけられる。他方は意識の存在であり、これは だすことができない。創造されず、存在理由ももたず、他の 「対自存在ーと名づけられる。現象の存在はいかなるばあいに も意識に対して働きかけることができない。その意味で旧来一つの存在とのいかなる関係をももたず、即自存在は永遠に の実在論はしりぞけられる。また他方、意識は超越的存在に余計なものである。 対して働きかけることができない。したがって旧来の観念論 はしりぞけられる。存在は、意識とちがって、自己原因 causa sui であることはできない。存在は自体である。このこと は、存在が受動性でも能動性でもないことを示している。存 在の即自状態は、能動や受動のかなたにある。同様に、存在 の即自状態は、否定や肯定のかなたにある。存在は「内在ー と呼ぶこともできない。なぜなら内在といえどもやはり自己 との関係であるからである。存在は自己との関係ではない。 存在は自体である。存在とは自己を実感することのできない 一つの内在であり、自己を肯定することのできない一つの肯 定であり、働きかけることのできない一つの能動性である。 というのも存在は自己自身とびったり粘着しているからであ る。存在はそれ自体においてある。 L'étre est en soi. 存在 はそれがあるところのものである。 L'étre est ce qu'il est. 存在はいかなる否定をも包含しない全き肯定性である。した がってそれは他性を知らない。存在は、決して或る他の存在 とは別のものとして自己を立てることをしない。存在は他の ものといかなる関係をももっことができない。存在はある。 そしてそれが崩壊するときにも、存在はもはやあらぬ、と言

3. 世界の大思想29 サルトル

のーただなかにー存在するもの」として開示される。超越性航跡より以外の何ものでもないし、未来においては、それは を失った対自は、取りかえしのつかないままに存在する。対それ自身の企てでありえないがゆえに、まったく存在しな 自の過去と、対自に対して共通現前的であった世界の過去と 。また、普遍的時間は、それがあらわれるやいなや、すで のあいだには、対自が自己自身の過去であるべきであるとい に超出され、自己に対して外的である。その点で、それは対 う点を除いては、何らの差異も存しない。 一つの過去しか存自の現在と符合する。ただ、一方は「自己に対する外面性ー 在しない。私の過去は、世界のなかにおける過去であり、過であり、他方は「自己を時間化する純粋な脱自ーである。 去的な存在の全体への私の従属である。 私の未来に対して顕示される即自の未来は、私によって現 前されている現実と、密接なつながりをもっている。即自の 普遍的時間の現在的次元は、運動をよそにしては、とらえ られないであろう。運動に関するエレア派のアポリアを避け未来は変様を受けた現在的な即自である。世界の未来は、私 るためには、通過とは何かを考察してみるのがいい。通過すの未来に対して開示される。世界の未来は、事物の恒常性 るとは、或る場所に存在すると同時に、その場所に存在しなや、本質から潜勢にいたるまでのもろもろの潜在性から、成 いことである。したがって運動は、「自己に対する外面性ー りたっている。世界とこのものたちが出現して以来、一つの という関係である。しかしこのような関係は、自己自身に対普遍的未来がそこに存する。しかし世界の未来的な状態は、 して自己自身の関係であるような一つの存在すなわち対自にすべて、世界にとって無差別的な相互外面性のままにとどま 対してしか顕示されない。 これをまったくの即自関係によっ っている。 て定義することは不可能である。「自己に対する外面性」は、 時間は、それが、自己を時間化する脱自的な時間性に対し 存在の一つの病いのごときものである。自体であると同時に てあらわれるかぎりでは、いずこにおいても、「自己に対す 自体の無であるというようなことは、即自的なこのものにと る超越ーであり、「前」から「後」への、また「後」から ってはそもそもありえない不可能性である。「自己に対する「前」への、指し向けである。しかしこの「自己に対する超 外面性」はいささかも脱自的ではない。動体がそれ自体に対越」も、時間が即自のうえでとらえられるかぎりにおいて、 してもっ外面性という関係は、無差別的関係であり、ひとり 時間はかかる超越であるべきであるのでなく、むしろかかる の証人によってしか発見されない。 ところで、普遍的時間を超越が対自によって時間のうちに存在されるにすぎない。時 たんなる現在として規定するのは、かかる運動である。ま 間のもっ粘着力は、自己自身へ向かっての対自の脱自的な企 ず、普遍的時間は、現在的な明減としてあらわれるのであるてすなわち人間存在の動的な粘着力の、客観的な反映であ から、過去においては、それは消失していく線、くずれ去る り、一つの幻影である。もしわれわれが時間をそれだけとし

4. 世界の大思想29 サルトル

Ⅵ即自存在 第一部無の問題 : ・ 第一章否定の起原 Ⅲいかけ Ⅱ否定 Ⅲ無についての弁証法的な考えかた Ⅳ無についての現象学的な考えかた 無の起原 第二章自己欺瞞 —自己欺瞞と虚偽 Ⅱ自己欺瞞的な行為 Ⅲ自己欺瞞の《信仰》 第二部対自存在 : 第一章対自の直接的構造 —自己への現前 Ⅱ対自の事実性 Ⅲ対自と、価値の存在 Ⅳ対自と、諸可能の存在 自我と、自己性の回路 第一一章時間性 時間的な三次元の現象学 過去 現在 O 未来 Ⅱ時間性の存在論 静的時間性 時間性の動態 Ⅲ根原的時間性と心的時間性ー反省 第三章超越 対自と即自とのあいだの典型的な関係としての 認識 Ⅱ否定としての規定について Ⅲ質と量、潜在性、道具性 Ⅳ世界の時間 過去 現在 0 未来 認識 第三部対他存在 : 第一章他者の存在 題 Ⅱ独我論の暗礁 Ⅲフッセル、ヘーゲル、、 ノイデッガー Ⅳまなざし 第二章身体 対自存在としての身体ーー事実性 Ⅱ対他ー身体 ・ : 一石三ー吾三

5. 世界の大思想29 サルトル

凝固させ破壊する結果になる。そうなると、意識は、単に一 は、「反射」と「反射するもの」とのような単なる対自への 方的に自分の「自己」たる「自我」 Ego への指し向けであっ現前ではなくて、不在な現前 présence-absente であるから て、「自我」はもはや何ものへも指し向けないことになるで である。けれども、この事実からして、対自の存在構造とし あろう。人々は反省という関係を、単なる求心的な関係に変ての指し向けの存在が、さらにいっそう明瞭に示される。対 形し、さらにその中心を不透明な核たらしめた。これに反し 自は、対自の諸可能性のはるか遠方に、手のとどかないとこ て、われわれが示したところによれば、「自己」 s 。一は、原理ろにある、かなたの「自己」である。そして、自己性すなわ っ 的に、意識のうちに住むことができない。「自己」は、、 ち人格の第二の本質的な相を構成するのは、「われわれが現 てみれば、「反射」が「反射するもの」へ指し向け、「反射すに欠如という形においてあるところのものーで、かなたにお るもの」が「反射」へ指し向けるときの、その無限運動の理 いて、あらねばならないという、この自由な必然性である。 法 la raison である。定義のうえでは、「自己」は一つの理事実、自己との自由な関係としてでなくして、どうして人情 想であり、一つの極限である。そして「自己」を極限としてを定義することができようか ? 世界、すなわち「諸存在が 出現させるものは、存在典型としての存在の統一のうちにお自己性の回路の内部に存在するかぎりにおける、諸存在の全 いて、存在が存在に現前するときの、その無化的現実であ体 [ に関していえば、世界とは、人間存在が自己へ向かって る。それゆえ、意識は、自分が出現するやいなや、反省とい 超出するところのもの、すなわち、ハイデッガーの定義をか りるならば《そこから出発して、人間存在が自分の何である う単なる無化的運動によって、自分を人格的ならしめる。な ( 原注 ) ぜなら、一つの存在に人格的な存在 l'existence personnelle かを自分に知らせるところのもの》である。事実、私の可能 を与えるのは、一つの「自我」 これは人格の記号でしかである可能は、可能な対自であり、かかるものとして、「即・ の所有ではなくて、自己への現前として、対自的に 自についての意識」としての「即自への現前」である。世界 存在するという事実であるからである。しかし、そればかりの面前で私が求めるものは、私がそれであるところの一つの でなく、この最初の反省的運動は、つづいて第二の反省的運対自、世界についての意識であるような一つの対自との、一 動すなわち自己性をひきおこす。自己性において、私の可能 致である。けれども、現在的な意識冫 ことって非措定的には不 は、自己を私の意識のうえに反射し、私の意識をそれがある在的ー現在的であるこの可能は、それが反省されるのでない ところのものとして規定する。自己性は、反省以前的なコギかぎり、定立的な意識の対象としては、現在的でない。私の トの単なる自己現前よりも、 いっそう度の深い無化作用をあ渇きにつきまとう充満した渇きは、充満した渇きとしての自 この充満した渇き らわしている。というのも、私がそれであるところの可能己 ( について ) 意識しているのではない。

6. 世界の大思想29 サルトル

標」である。かかる価値は、私のすべての超出を超出し、私 として、たとえば崇高な諸行為の無限の向上の極限として、 与えられる。価値は存在のかなたにある。それにしても、わの超出を根拠づけるところの「かなた」であるが、まさに私 の超出はそれを前提しているのであるから、私は永久にそれ れわれがことばだけでは満足できないとすれば、存在のかな たにあるかかる存在は、少なくとも、何らかのしかたで存在へ向かって自分を超出することができない。かかる価値は、 をもっということを認めなければならない。そういうふうに すべての欠如者の「欠如を蒙むるもの」であるが、欠如分で 考えてくると、人間存在は価値を世界に到来させるものであはない。価値とは、自己が対自にとっての目標として対自の るということを、当然、われわれは認めなければならない。 核心につきまとうかぎりにおいて、この自己である。意識が ところで、価値は、一つの存在が自己の存在を超出してそのその存在そのものによってたえず自己を超出してその方へ向 方へ向かっていくところのものを、存在意味としてもってい かっていくこの最高の価値は、同一性、純粋性、恒常性など る。 いいかえれば、価値づけられた存在は、すべて、「 : の性格をそなえ、かつ自己の根拠であるかぎりにおける、自 へ向かっての」自己の存在からの離脱である。価値は、、、 しカ己の絶対的な存在である。そう考えてこそ、われわれはなぜ なるとき、いかなるところにおいても、すべての超出のかな価値が存在すると同時に存在しないものでありうるかを、理 たにあるのであるから、すべての存在超出の無条件的な統一解することができる。価値は、あらゆる超出の意味として、 と考えられうる。したがって、価値は、根原的に自己の存在「かなた」として、存在する。価値は、対自存在につきまと を超出する実在、超出を存在に生ぜしめる実在、すなわち人う不在な即自として存在する。けれども、われわれが価値を うまでもないが、価考察するやいなや、価値はそれ自身かかる即自存在の超出で 間存在と、一対をなしている。また、い 値は、すべての超出の無条件的な「かなた」であるのであるあることが明らかになる。というのも、価値は自己に即自存 から、根原的に、超出する存在そのものの「かなた」である在を与えるからである。価値は、それ自身の存在のかなたに はずである。なぜなら、ただそういうしかたでのみ、価値ある。というのも、価値の存在は自己との一致というありか 無 は、可能なすべての超出の根原的な「かなた」でありうるの たなので、価値はただちに、この存在を超出するからである。 であるからである。事実、もしあらゆる超出が自己を超出し価値は、その恒常性、その純粋性、その安定性、その同一 在 うるはずであるならば、超出する存在は、それが超出の源泉性、その沈黙を、自己への現前という資格においては要求し 存 そのものであるかぎりにおいて、ア・。フリオリに、超出されながらも、それらを超出する。また逆に、われわれが価値を ているのでなければならない。それゆえ、根原的に考えられ自己への現前として考察しはじめるならば、この現前はたち まち固体化し、即自へと凝固する。さらに価値は、その存在 た価値すなわち最高の価値は、超越の「かなた」であり、「目

7. 世界の大思想29 サルトル

177 存在と無 いだのあらゆる関係、たとえば「彼は彼女を愛している」 は、彼女にとって距離なしに存在する。したがって、二つの 「彼は彼女の夫である」「彼は彼女の生活を保証している」等 いずれの場合にも、遠さは、それらの本質的関係を変えるこ 等の関係が、そのまま保たれているかぎりにおいてしか、意とができないであろう。距離が小さいにせよ大きいにせよ、 味をもたない。わけても、不在は、ビ = ールの具体的な存在「対象ービ = ール、と「主観ーテレーズ , とのあいだには、 の存続を前提としている。死は、一つの不在ではない。 このまた「対象ーテレーズーと「主観ー。ヒ〒ール」とのあいだに 事実からして、。ヒエールとテレーズとのあいだの距離は、二 は、一つの世界の無限の厚みが存在する。「主観ー。ヒエール 人の相互的現前というこの根本的な事実に、何ら変化を及ぼ と「対象ーテレーズ」とのあいだには、また「主観ーテレー すものではない。事実、われわれが、この現前を、ビエール ズ」と「対象ービエール」とのあいだには、距離は、全然、 の観点から考えてみるならば、この現前は、まず、「テレ 存在しない。それゆえ、不在および現前というこの経験的な ズは対象ー他者として、世界のただなかに存在している」と概念は、。ヒエールのテレーズに対する、またテレーズの。ヒ工 いう意味であるか、もしくは第二に、「ピエールは、主観ー他 ールに対する一つの根本的な現前の、二つの特殊化である。 者としてのテレーズにとって、自分が存在している」のを感 この二つの概念は、それぞれ別々のしかたで、一つの根本的 じているという意味であるか、そのいずれかであることがわ な現前を言いあらわすことしかしないし、また、かかる現前 かる。ところで、第一の場合には、距離は偶然的な事実であによってしか意味をもたない。 ロンドンにいてもインドにし って、「。ヒエールは、一つの世界を全体として《そこに存すても、アメリカにいても、あるいはどこか無人島にいても、 。ヒエーレま、。、 る〉ようにさせている者であり、ピエールは、距離を存在さ ノリにとどまっているテレーズに対して、現前 せている者として、この世界に対して距離をもたずに現前し している。ピエールは、自分の死によってしか、テレーズに ている」というこの根本的事実に関しては、距離は何ら意味対して現前することをやめないであろう。というのも、一人 をもたない。第二の場合には、。ヒエールがどこにいようと、 の人間存在は、場所との関係において位置づけられるのでも 彼は、自分が、テレーズにとっては距離なしに存在している なく、経度や緯度によって位置づけられるのでもないからで ことを、感じている。なるほど、彼女が、彼から遠く離れてある。人間存在は、一つの人間的空間のうちに、たとえば いて、彼と自分とのあいだに一つの距離をくりひろげている《ゲルマントの方》と《スワン家の方》とのあいだに、自己 ( 訳生 ) かぎりでは、彼女は、彼から距離をおいて存在する。世界全を位置づける。人間存在はそのような《ホドロジー》空間の 体が彼を彼女から切り離している。けれども、彼が、彼女のなかに自己を位置づけるのであるが、この《ホドロジー》空 存在させている世界のなかの対象であるかぎりにおいて、彼 間をくりひろげることを可能ならしめるのは、スワンの直接

8. 世界の大思想29 サルトル

関して、一種の = ポケーをおこなうことである。しかし、カ個体相互のあいだの関係は、外面性である。 ントおよびその後継者たちは、依然として、他者の存在を肯 もし私がたんなる外面性のしかたで他者と関係しているの とりで 定する。ショー。 ヘンハウエルは、独我論者を「要害堅固な砦であれば、私の存在は他者の出現や消失によって何ら影響さ に閉じこもる狂人」と評したが、それこそは観念論の無力のれないであろう。他者は私に対して私の認識の対象としてし 告白にほかならない。われわれが他人の存在を措定するなら かあらわれないであろう。他者は私にとって一つの心像でし ば、たちまち観念論の枠は裂け、われわれはふたたび形而上かありえないであろう。私に対しても他者に対しても同時に 学的実在論におちいる。たがいに外面的にしか交渉をもたな外的であるようなひとりの証人のみが、心像と原像を比較 い閉ざされた多数の体系を立てるならば、われわれはふたた し、この心像が真であるかどうかを決定しうるであろう。し び実体という観念を立てることになる。結局、観念論は、独かもこの証人は、原像をつかむためには、私に対しても他者 我論的な仮説を拒否しようとすると、反転して独断的な実在に対しても、たんに外面性の関係にあってはならない。かか 論に帰着する。 る証人は、その存在の脱自的な統一において、ここに、私の 他者の存在についての問題の根原には、「他者とは、私でうえに、私自身の内的な否定として存在すると同時に、かし はあらぬ私である」という根本的な前提がひそんでいる。わ こに、他者のうえに、他者自身の内的な否定として存在する のでなければならないであろう。ライプニノッのばあいに見 れわれはここに、他者存在の構造として一つの否定をとらえ られるかかる神〈 0 依拠は、要するに内的←定〈 0 依拠であ る。他者とは、私ではあらぬ者、また私がそれではあらぬと る。神は、私自身でもあり他者でもあると同時に、私自身で ころの者である。この「あらぬ」は、他者と私自身とのあい もなく他者でもない。 たに支えられている分離要素として、一つの無を指示する。 この無は、関係の原初的不在として、根原的に、他者と私と 他者の存在についての積極的な理論は、私と他者との根原 のあいだのあらゆる関係の根拠である。実在論者は、或る物的な関係を一つの内的否定としてとらえる立場であるにして も、独我論を避けると同時に、神への依拠も無しで済ますこ 体が他の物体から切り離されていると同じしかたで、他者と 私が分離されていると考える。観念論者にとっても、一つのとができるような理論でなければならない。 表象体系はそれ自身によってしか限定されないのであるか Ⅲフッセル、ヘーゲル、、 ,. イデッガ ら、「自分ではあらぬものーとの関係を支えることはできな 一方は実在的な空間によって、他方は観念的な空間によ 現代の諸学説を検討していくならば、おのおのの意識をそ づて、私と他者とを分離させる。いずれのばあいにも、意識の出現そのものにおいて構成するような一つの根本的超越的

9. 世界の大思想29 サルトル

されている人間に、そうあらわれるような、外的な諸関係を信念をそれ自身から分っ分離は、それだけ単独にとらえられ 間なりたたせている一つの原理である。この原理は、存在の内うるものでもないし、単独に考えられうるものでもない。わ 的な関係にかかわるものではない。存在の内的な関係は、それわれがこの分離を明るみに出そうとすると、それは消失す れが他在を立てるかぎり、存在しない。同一律は、即自存在る。われわれはふたたび信念をまったくの内在として見いだ のふところにおけるあらゆる種類の関係の否定である。それす。けれども、反対に、われわれが信念を信念としてのかぎ に反して、自己への現前は、定かならぬ裂けめが存在のなか りにおいてとらえようとするならば、その裂けめは、われわ に忍びこんでいることを前提としている。この存在が自己にれがそれを見まいとするときにあらわれ、それを見つめよう・ 対して現前的であるのは、この存在が、完全には自己であら とするやいなや消えうせるというようなしかたで、そこに存・ ぬからである。現前とは、一致がたちまちくずれることであ在する。したがって、かかる裂けめは、まったく否定的なも る。なぜなら、現前は分離を前提とするからである。けれどのである。距離、時間の経過、心理的ないがみあいなどは、 もさしあたり、われわれが、主体をそれ自身から分離させるそれだけでとらえられうるし、かかるものとして肯定的な要〕 ものは何であるかと問うならば、それは何ものでもない、と素をふくんでいる。それらは単に一つの否定的な機能をもっ われわれは告白するほかはない。分離させるものは、普通な にすぎない。けれども、内部意識的な裂けめは、それが否定 ) らば、空間的な距離、時間的な経過、心理的ないがみあい するところのものの外においては、何ものでもないものであ一 あるいは単に居あわせた二人の個性などであり、要するに、 り、われわれがそれを見ないかぎりにおいてしか、存在をも 一定の性質をも 0 た実在である。けれども、いまここで問題っことができない。存在の無であるこの否定的なもの、何も になっている「自己への現前」の場合には、何ものも、信念かもいっさいを無化することのできるこの否定的なもの、そ ( についての ) 意識を信念から分離させることはできない。 れが無 néant なのである。どこにおいても、われわれは虹 というのも、信念は、信念 ( についての ) 意識より以外の何をそのような純粋な姿でとらえることはできないであろう。 ものでもないからである。反省以前的なコギトの統一のなか 他の場合には、いたるところ、われわれは何らかのしかた このコギトにとって外的な性質をもった要素をもちこむ、で、無に対して、無としてのかぎりにおける即自存在を、与・ えないわけにいカオし 、よ、。しかし、意識の核心に出現する無 ことは、その統一を破り、その半透明性を破壊することにな るであろう。そうなると、意識のうちには、意識がそれについ は、存在するのではない。それは存在される llestété. ので ( 沢注 ) ての意識ではないような何ものか、それ自体では意識としてある。たとえば、信念は一つの存在といま一つの存在との隣 存在しないような何ものかが、存することになるであろう。 接ではない。信念は、それ自身の自己現前であり、それ自身

10. 世界の大思想29 サルトル

ことを、私は期待している。私の問いは、非存在に関する判た。彼は待っていてくれるだろうか ? 私は契茶店の店内を 断以前的な一種の了解をふくんでいる。 眺める。そのとき喫茶店の内部は、お客、テー・フル、腰掛、 判断的でない多くの行為が、存在にもとづく非存在のこの鏡、光線、煙った雰囲気、騒々しい人声、皿のふれあう音な ような直接的了解を、その純粋性において示してくれる。た どをふくめて、それ自体、一つの存在充実である。しかし、 とえば、破壊を考えてみよう。或る意味で、破壊が遂行されそれらのいずれの対象が私に対して浮かびあがってくるか るのは人間によってである。地殻の収縮も、嵐も、破壊する は、私の注意の方向に依存している。知覚のさいには、つね に一つの背景のうえに一つの形態が形成される。私はお客の のではない。嵐の前と後とで、存在は何ら減少しはしない。 様子が変っただけである。しかも、変ったと言いうるために顔につぎつぎに眠をそそぐ。それらの顔は、「。ヒエール、日 は、「もはや : : : ない」という形で過去と現在を比較する一ら」と、一瞬、私の注意をひくが、ビエールの顔ではないた 人の証人がなければならない。破壊があるためには、まず、 めに、ただちに背景へと没してしまう。。ヒエールは店内のど 人間と存在との或る関係、すなわち超越がなければならな こにもいない。彼の不在はその契茶店を消失状態に凝固させ 、。この関係のなかで、人間が一つの存在を、破壊されうる る。店内のすべてはもはや背景でしかない。 この無化的背景 ものとしてとらえるのでなければならない。 このことは、存のうえに無として浮かびあがってくる形態が、。ヒエールであ 在のなかから一つの存在を限定的に切り出すことを前提とし る。背景の無と、無としての形態。「。ヒエールはそこには、 ている。当の存在は、それであって、それ以外の何ものでも ない」という判断の根拠になるのは、この二重の無化であ ない。一つの存在が脆いのであって、全存在が脆いのではな る。非存在は否定的判断によって事物に到来するのではな 。都市をして破壊可能なものたらしめるのは人間である 。反対に、否定的判断は非存在によって条件づけられ、支 が、それは人間が都市を脆きもの、貴重なものとして措定すえられている。「否ーを言うことができるための必要な条件 は、非存在が、われわれのうちとそとにおける不断の現前で るからである。破壊の前提には、無としてのかぎりにおける 無の、判断以前的な了解がある。 あるということである。無は存在につきまとう。「 néant この問題にけりをつけようと思うならば、否定的判断をそ hante l'é ( 月 e. れだけとして考察してみればしし 否定的判断が存在のふと Ⅲ無についての弁証法的な考えかた ころに非存在を出頭させるのか ? それとも、否定的判断は それにさきだっ発見をたんに固定させるにすぎないか ? 私 存在と非存在とを、現実の一一つの相互補足的な構成要素と はピエールと四時に会う約東になっている。私は遅くなっ して、いわば光と闇のようなものとして、考えようとする立