249 存在と無 ての意味の多価であることを指示している。実存的精神分析っては、意識と拡がりを同じくするものである。けれども、 は、根原的な選択を規定しようとこころみる。この根原的な根本的な企てが、当人によって十分に体験 vécu され、かか 選択は、世界に面しておこなわれるものであり、世界のなか るものとしてまったく意識的であるにしても、それは決し て、この根本的な企てが同時に当人によって認識 connu さ における身構えの選択であるから、コン。フレックスと同様、 全体的である。根原的な選択は、コン。フレックスと同様、論れなければならない、という意味ではない。むしろ、まった 理に先行する。論理や諸原理に直面して、人格〔その人自身〕 くその反対である。おそらく読者諸君は、われわれが本書の ( 沢注 ) の態度を選ぶのは、この根原的な選択である。それゆえ、論緒論で、意識と認識とを区別するのに気を配ったことを、憶 えておられるであろう。なるほど、われわれも見たように、 理にしたがってこの根原的な選択に問いかけるなどというこ とは、問題になりえない。 この根原的な選択は、論理以前的反省は、一つの準ー認識と考えられうる。けれども、反省がお のおのの瞬間にとらえるところのものは、反省のつかむ具体 な綜合のうちに、実存者の全体を集約しており、かかるもの として、それは、無数の多価的な意味の、帰趨中心であ的な行為によってーーしばしば同時に幾つものしかたで る。 象徴的に表現されるままの、対自の企てそのものではない。 反省がとらえるところのものは、具体的な行為そのものであ われわれの二つの精神分析は、い ずれも、自己自身につい る。 てのそれらの訊問に着手するのに被実験者が特権的な位置に しいかえれば、それは個別的な欲求であり、この欲求は あるとは考えない。両者は、 : しすれも、反省の所与や他者のその特徴たる込みいった錯綜のうちに日付をもっている。反 証言を記録としてとりあっかうことによって、厳密に客観的省は、象徴と象徴化とを、同時にとらえる。なるほどたしか に、反省は、全面的に、根本的な企てについての存在論以前的 な方法であろうとする。もちろん、被実験者は、自己自身に ついて、精神分析的な訊問をおこなうことができる。けれど な一つの了解によって構成される。 しいかえれば、反省が反 も、彼はただちに、自己の特殊な位置のあらゆる特権を棄て省としての非措定的な自己意識でもあるかぎりにおいて、反 なければならないであろう。そして彼は、まさしく自分が他省は、この同じ企てであるとともに非反省的な意識でもある。 者であるかのごとくに、自己に問いかけなければならないでけれども、だからといって、反省は、象徴されるこの選択を あろう。事実、経験的精神分析は、原理的に被実験者の直観切り離し、それを概念によって定着させ、それだけを光のた だなかに置くために、必要な手段や技術を意のままにするこ のとどかないところにある無意識的な心的過程の存在という 要請から出発する。実存的精神分析は、無意識的なものとい とができるわけではない。反省は、或る大きな光によってつ らぬかれているが、この光が照らすところのものを表現する うこの要請をしりぞける。心的事実は、実存的精神分析にと
原注われわれは暫定的にこの定義を用いたけれども、この定義 は「飲みほされるコップ」についての措定的な意識であり、 がいかなる点で不十分であり誤っているかを、この第二部の第三 自己 ( についての ) 非定立的な意識である。したがって、こ 章で見るであろう。 の充満した渇きは、自分がそれについての意識であるところ 訳注《ルシェルシュ・フイロゾフィック》は一九三一年にアレ のそのコップへ向かって自己を超越させる。そして、この非 グザンドル・コワレ、スパイエ等によって創刊された哲学年誌。 措定的な可能的意識の相関者としての「飲みほされたコッ 一九三六年にサルトルの最初の哲学論文「自我の超越性」が掲載 。フ」は、「満たされたコップ」にその可能としてつきまとい、 された。 これを、「飲みほされるべきコツ。フーとして構成する。それ ゆえ、世界が無の即自的な相関者であるかぎりにおいて、 否定的な諸行為と自己欺瞞とを検討した結果、われわれは いかえれば、世界が必然的な障碍であるにもかかわらす、私 コギトの存在論的研究にとりかかることができたのである がこの障碍のかなたに、私自身を、 ^ それであるべきである〉 が、コギトの存在は、「対自存在であるものーとして、われ という形において私がそれであるところのものとして、ふたわれにあらわれた。このコギトの存在は、われわれの見たと たび見いだすかぎりにおいて、世界は、本性上、私の世界で ころでは、価値および諸可能へ向かって自己を超越した。わ ある。世界がなければ、自己性もなく、人格もない。また、 れわれは、このコギトの存在を、デカルト的なコギトの瞬間 自己性がなく、人格がなければ、世界もない。けれども、こ性〔無時間性〕の実体論的限界内にとどめておくことができな のような人格への世界の所属は、決して反省以前的なコギト かった。けれども、まさにそれゆえに、われわれはいましが の場で定立されるのではない。世界はそれが認識されるかぎ た得た成果だけで満足することはできないであろう。コギト りにおいて私の世界として認識される、というような言いか が瞬間性を拒否し、自分の諸可能へ向かって自己を超越して たは、不条理であるであろう。それにしても、世界のかかる いくのは、時間的な超出のうちにおいてでしかありえない。 わたくし 《私性》 moiitéは、逃げ去りながらつねに現在的な一つの対自が、《あらぬ〉というありかたで、自分自身の諸可能で 無構造であり、この構造を私は生きるのである。私があるとこあるのは、《時間のうちにおいて〉である。私の諸可能が世 し J ろの自己 ( についての ) 可能的な諸意識は、諸可能について界の地平にあらわれてきて、世界を私の世界たらしめるの 在 は、時間のうちにおいてである。したがって、もし人間存在 の意識であるのであるが、世界がかかる諸可能によってつき 存 まとわれているがゆえに、世界は、私の世界 ( である ) わけが、みずから自己を、時間的な存在としてとらえるならば、 である。世界に、世界としてのその統一とその意味を与える また人間存在の超越の意味が、その時間性であるならば、わ のは、諸可能としてのかぎりにおけるかかる諸可能である。 れわれは、時間的なものの意義を記述し定着したうえでなけ
在を隠しているのではないが、さりとて存在をあらわにしてあるという関係を、うちたてるところにある。あらゆる意識 いるのでもない。存在者のいくつかの性質をとりのそいてそは、それが一つの対象に到達するために自己を超越するとい う意味で定立的なのであり、意識はまさにかかる定立そのも の背後に存在を見いだそうとしてもむだであろうし、対象に のにつきる。 向かってその存在をとらえたいと要求してもむだであろう。 存在者は現象である。存在者はそれ自体を示すのであって、 しかしそれと同時に、対象についてのあらゆる定立的意識 その存在を示すのではない。存在はただあらゆる開示の条件は、自己自身についての非定立的意識である。このばあい であるにすぎない。存在は「開示するための存在」であっ われわれは認識の優位という錯覚にとらわれてはならない。 て、開示された存在ではない。したがって、諸現象の存在意識の意識は、決してス。ヒノザのいうイデアのイデアではな は、存在現象に還元されえない。存在現象は、存在を呼び求 いし、アランが「知るとは、自分が知っているということを める。存在現象は、現象であるかぎりにおいて、超現象的な 知ることである」というような反省的な意味ではない。禾が 一つの根拠を要求する。存在現象は、存在の超現象性を要求このケースのなかのシガレットをかそえるとき、シガレット する。超現象性といっても、諸現象の背後に存在が隠されては私の意識に対して対象としてあらわれる。それと同時に、 いるという意味ではない。現象の存在は、たとい現象と同じ私は自分がかぞえていることを、それとなく、非措定的に意 ひろがりをもつにしても、現象的条件からのがれているので識している。これは反省されないままに過ごされている意識 なければならない。 である。このような反省以前的なコギトが、デカルト的なコ ギトの条件をなしている。かそえることの非措定的な意識 Ⅲ反省以前的なコギトと知覚の存在 が、私の加算行動の条件なのである。自己についての非定立 フッセルが示したように、あらゆる意識は、何ものかにつ的、非措定的な意識をあらわすのに、「についての」 de とい う語は少し強すぎるから、これを括弧に入れて、自己 ( につ 容いての意識である。超越的対象の定立でないような意識は存 いての ) 意識と書くことにしよう。われわれの国語では、た 一つのテーブル の在しない。意識は何らの内容をももたない。 自己意識は、何ものか んに自己意識と言ってしまってい、。 このテーブルは空間のな 鸞は、意識のなかにあるのではない。 についての意識にとって、唯一の可能な存在のしかたであ 在かに、窓のわきにある。テーブルの存在は、事実、意識にと って不透明の中心である。哲学の第一歩は、意識から事物をる。或る知覚、或る快楽、或る苦痛は、直接的な自己意識と 追放し、意識と世界との真の関係、すなわち意識は世界につしてしか存在しえないであろう。 ハイデッガーが現存在について言っていることばを、意識 いての定立的な意識 conscience positionnelle du monde で
253 存在と無 のを理解することであり、しばしば、瞬間的なものをさえも り利用したりすることを彼に許すものではない。それでは、 理解することである。或る一人の被実験者の場合に役立ったその権利はどこから彼に来るか ? もしコンプレックスが無 意識的であるなら、よ、、、、 方法は、この事実そのものからして、他の一人の被実験者の 。ししカえれば、もししるしが、このし 場合には用いられえないであろう。あるいは、同一の被実験るしによって示される当のものから、一つの堰によって分け ・者の場合でも、二度目には、用いられえないであろう。 隔てられているならば、被実験者がそれをみとめることがで ところで、まさに研究の目標は、一つの選択を発見するこ きるのは、なにゆえであろうか ? 自己をみとめるのは、無 とにあるべきであって、一つの状態を発見することにあるの 意識的なコンプレックスであろうか ? しかし、無意識的な ではないから、この研究は、機会あるごとに、自分の研究対 コンプレックスは、理解力を奪われているはずではないか ? 象が、無意識の闇のなかに埋もれている一つの所与ではなく もし無意識的なコン。フレックスに、しるしを理解する能力を て、自由で意識的な一つの決定であるということを、思いお 許さなければならないとすれば、それと同時に、この無意識 こさなければならないであろう。 意識的といっても、こ的なコン。フレックスを、意識的な無意識たらしめなければな の決定は、意識のうちに住んでいるのではない。むしろそれらないことになるであろう。事実、「理解する」とは、「自分 はこの意識そのものとまったく一つなのである。ーー経験的が理解したと意識する」ことでなくして、何であろうか ? 精神分析は、その方法がその原理よりもすぐれているかぎりむしろ反対に、呈示されたその姿をみとめるのは、意識的で において、しばしば、実存的発見の途上にある。とはいうもあるかぎりにおける被実験者である、とわれわれは言うべき のの、経験的精神分析はいつも途中で停止するきらいがある。 であろうか ? けれど被実験者は、呈示されたその姿 それにしても、経験的精神分析がかくして根本的な選択に近を、自分の真の感情と比較することがどうしてできようか ? づくとき、被実験者の抵抗は、突如として崩れる。そして、 というのも、自分の真の感情は、手のとどかないところにあ 被実験者は、あたかも鏡のなかに自分を見るかのように、自 り、自分はそれについて決して認識したことがないからで 分の前に示されている自分の姿を、突然、みとめる。被実験ある。せいぜい、彼にしてみれば、自分の場合についての精 者が心ならずももらすこの証示は、精神分析学者にとって貴神分析的説明は、一つの蓋然的な仮説であり、この仮説はそ 重なものである。つまり、精神分析学者は、そこに、自己のれによって説明されるかずかずの行為から、その蓋然性を引 目標に到達したしるしを見る。そこで彼は、、 しわゆる探求かき出してくる、と判断することができるくらいのものであろ ら、治療へ移っていくことができる。けれども、彼の原理やう。したがって、彼はこの解釈に対して、或る第一二者の位置 彼の最初の要請のうちにある何ものも、この証示を理解したすなわち精神分析学者その人と同じ位置にいるわけであり、 せき
この存在についての意識でもないし、自己についての意識で的内在である。 もない。そうかといって、この存在は意識から脱れ出ること しかしながら、この存在を、いままで述べたような抽象的 もできない。むしろ、意識が存在 ( についての ) 意識としてな諸イ 生格だけをもって意識に現前するものだと考えてはなら・ 存在をめざすかぎりにおいて、この存在はそこにある。この よい。具体的な意識。、 ま状況のうちに出現する。意識は、この インク壺やこの鉛筆の場合ならば、それらにその意味を与え状況についての、また状況内における自己自身 ( についての ) るのは意識であるが、この存在に対してその意味を与えるの単独の個別化された意識である。自己が現前的であるのは、 は、意識ではない。むしろ、意識がそれであらぬという形で かかる具体的な意識に対してである。意識の具体的な性格〔 それであるところのこの存在がないならば、意識は意識であは、すべて、自己の全体のうちに、それそれの相関者をもっ らぬであろう。 いいかえれば、意識は欠如であらぬであろう。 ている。自己は個別的である。自己が対自につきまとうの 反対に、意識が自分なりにその意識としての意義をひき出し は、自己の個別的完成としてである。たとえば、一つの感情 てくるのは、この存在からである。この存在は、意識と同時 しいかえれ が感情であるのは、一つの規範の現前において、 に、意識の核心にも、意識の外にも、出現する。この存在ば、同型ではあるが、それがあるところのものであるよう は、絶対的内在における絶対的超越である。意識に対するこ な、一つの感情の現前においてである。この規範、すなわち の存在の優位があるわけでもないし、この存在に対する意識感情的自己の全体は、苦悩のまさに核心に、苦悩せられる欠 の優位があるわけでもない。両者は一対 coup 】 e をなしてい 如として、直接的に現前している。われわれは苦悩する。そ る。いうまでもなく、この存在は対自なしには存在しえない して十分に苦悩しないことについて苦悩する。われわれがロ : 、対自もまたこの存在なしには存在しえない。意識は、こ にしている苦悩は、決してそのまま、われわれが感じている の存在であるというしかたにおいてこの存在と関係する。な苦悩ではない。われわれが ^ 美しい》とか《みごとな》とか ぜなら、この存在は意識そのものであるからである。けれど《真の》苦悩と呼んでいるところの、われわれを感動させる も、この存在は、意識がそれでありえないところのものであ苦悩は、われわれが他人の顔のうえに、否、むしろ肖像画の る。この存在は、意識の核心において、また意識の手のとど うえに、彫像の顔のうえに、悲劇のお面のうえに、読みとる かないところにおいて、一つの不在として、一つの実現不可ところの苦悩である。それは、存在をもっている苦悩であ る。かかる苦悩は、まったく緻密な客観的なものとして、わ 能なものとして、意識そのものである。この存在の本性は、 自己のうちに、それ自身の矛盾をふくむことである。この存れわれに呈示される。かかる苦悩は、われわれの到来を待た 在と対自との関係は、全的超越において完成される一つの全ずに存在していた。かかる苦悩は、われわれがそれについて
かを、われわれはいっそうよく理解することができる。それ 何ら特権的な位置をもっていない。しかも、もし彼が精神分 析的仮説の蓋然性を信じるならば、この単なる信頼は、依然は、おのおのの人格が自己をして人格たらしめるときの、 いかえればおのおのの人格が自己の何であるかをみすから自 として彼の意識の限界内にとどまったままで、無意識的な諸 傾向をせきとめている堰の決壊を、ひきおこすことができ己自身に告げ知らせるときの、主観的な選択を、厳密に客観 る。精神分析学者は、もちろん、意識的なものと無意識的な的な形のもとで、明るみに出すための一つの方法である。実 ものとの突然の一致について、漠然とした観念をもってい 存的精神分析が探求するところのものは、一つの存在選択で る。けれども、精神分析学者は、積極的にこの一致を考え出あると同時に一つの存在でもあるのであるから、実存的精神 す手段を、みすから放棄した。 分析は、もろもろの個別的な行為を、性欲とか権力意志とい それにしても、被実験者の受けた照明は、一つの事実であったような関係に還元するのではなく、それらの諸行為のう る。そこには、明証をともなう一つの直観がある。精神分析ちにあらわされる根本酌な存在関係に、還元しなければなら ない。したがって、実存的精神分析は、はじめから、存在の 学者によってみちびかれたこの被実験者は、一つの仮説に自 了解へ向かってみちびかれる。実存的精神分析は、存在を見 分の同意を与えるよりも、より以上のことをしてくれる。 いだすこと、そして、この存在に面しての、存在のありかた いかえれば、彼は自分のあるがままの姿に触れ、自分のある がままを見る。このことは、被実験者が自分の深い傾向につを見いだすこと、より以外の他の目標を立ててはならない。 この目標に到達する以前に、立ちどまることは、実存的精神 いて意識的であることを決してやめなかったかぎりにおいて しか、あるいはむしろ、それらの傾向が自分の意識と区別さ分析には禁じられている。実存的精神分析は、存在の了解を 利用するであろうが、この了解は、研究者自身が人間存在で れないかぎりにおいてしか、真に理解されえない。その場合、 〔従来の〕精神分析学的解釈は、われわれがさきに見たようあるかぎりにおいて、研究者を特徴づけるものである。ま た、実存的精神分析は、存在を、そのもろもろの象徴的表現 に、被実験者に、自分のあるがままの姿を、意識するように させるのではない。むしろ〔従来の〕精神分析学的解釈は、彼から取り出そうとするのであるから、実存的精神分析は、も に、あるがままの姿を認識するようにさせるのである。それろもろの行為の比較研究を基礎として、それらの行為を解読 ゆえ、被実験者の最後の直観を決定的なものとして主張するするための象徴解釈を、そのつどあらたに再発明しなければ ならないであろう。成功の基準は、実存的精神分析にとっ ことは、結局、実存的精神分析の間題に帰着する。 以上の比較からして、実存的精神分析は、もしそれが存在て、その仮説が説明し統一することを許してくれる多数の事 - 達された終極の還元不可能性に 実 - にあるとともに、また、リ しうるはずであるならば、いかなるものであらねばならない
かたがそれである。 頭するのでなければならない。事実、反省的意識は、反省さ れる体験をその欠如的本性において措定し、同時に価値を、 根原的出現における価値は、決して対自によって立てられ「欠如を蒙むるもの」という手のとどかない意味として、取 るのではない。つまり、価値は対自と同質である。 り出してくる。それゆえ、反省的意識は、本来、道徳的意識 ( 良心 ) と言われていい。 というのも、反省的意識は同時に うのも、自己の価値によってつきまとわれていないような意 識は、そもそも存在しないからであり、広い意味での人間存価値を開示することなしには出現しえないからである。もち 在は、対自と価値とをふくんでいるからである。価値が対自ろん、私は、私の反省的意識において、私の注意を価値に向 によって立てられることなしに対自につきまとうのは、価値けようと、価値を無視しようと、あくまでも自由である が一つのテーゼの対象ではないからである。事実、価値がそたとえば、このテーブルのうえで私の万年筆と私のシガレッ のような対象であるためには、対自がそれ自身に対して措定 ト・ケースとのいすれに特に注目するかは、私の自由である 対象であるのでなければならないであろう。というのも、価のと同様である。けれども、価値は、それが綿密な注意の対 値と対自とは、一対をなす同質的統一においてしか、出現し象であろうとなかろうと、やはり存在する。 えないからである。それゆえ、自己 ( についての ) 非措定的 それにしても、反省的なまなざしが価値をあらわれさせる 意識としての対自は、ライプ = ツツの場合にモナッドが《た唯一のものである、と結論してはならないであろう。また、 だひとり、神に直面して》存在するのとはちがって、価値に われわれは、類推的に、われわれの対自の諸価値を、超越の 直面して存在するのではない。したがって、その段階におい 世界に投影してはならないであろう。もし直観の対象が、人 ては、価値は認識されるのではない。というのも、認識は、 間存在という一つの現象、しかも超越的な一つの現象である 意識の面前に対象を立てることだからである。価値は、ただ、 ならば、かかる対象は、ただちにその価値をともなって与え 存在意識として自己を存在させる対自の非措定的な半透明性られる。なぜなら、他者の対自は一つの隠された現象でもな とともに、与えられる。価値はいたるところに存在しながら、 く、類推の帰結としてのみ与えられる現象でもないからであ と どこにも存在せず、《反射ー反射するもの》の無化的関係の核る。他者の対自は根原的に私の対自に対して自己をあらわ 在 むに、現前しながらしかも手のとどかないところにあり、たす。さらに、後に見るであろうが、対他を ur-au u 一として 存だ私の現在的存在をなすこの欠如の具体的意味としてのみ体の他者の対自の現前は、対自が対自として構成されるときの 四験される。価値が一つのテーゼの対象になるためには、価値必要条件である。そして、対他のかかる出現において、価値 によってつきまとわれる対自が、反省のまなざしのまえに出は、異なるありかたではあるにせよ、対自の出現におけると
に当てはめるならば、意識の本質 essentia は、意識の実存「知覚されること」の存在は、「知覚する者」の存在に還元 existentia からして理解されなければならない。意識の実存されえないということを、われわれは認めなければならな 。知覚されることの存在は、知覚する者の存在と相対的で は意識の本質をふくんでいる。意識についての法則はありえ ある。ところで、知覚されることの様相は、受動的な様相で ない。意識はそれ自身によってしか限定されない。しかし、 意識の特徴を示すのに「自己原因」 cause des 。一という表現ある。それゆえ、もし現象の存在がその知覚されることのう 。むしろ「意識はそれ自身によって実ちに宿るとすれば、この存在は受動性である。しかし、知覚 を濫用しない方がいい すること〔知覚作用〕を月 c 一を月 e が、存在に関して、知覚さ ~ 仔する」 la conscience existe par SO 一 . と一一一一口うべきである。 れるもの〔知覚対象〕 perceptum に作用を及ぼすことは不可 といっても、意識は無からひきだされるという意味ではない。 能である。なぜなら、作用を及ぼされるためには、知覚され 意識以前に「意識の無」が存在することはありえない。意識 の実存以前には、ただ充実した存在が考えられるだけであるものは、存在をいただく以前に存在しているのでなければ ならないからである。 る。 知覚や認識は、完全に能動性であり、完全に自発性であ Ⅳ知覚されることの存在 る。意識が何ものにも働きを及ぼすことができないのは、ま さにそれが純然たる自発性であるからである。したがって、 われわれは事物をそのもろもろの現象の全体に還元した。 ついでわれわれはそれらの現象が、それ自体もはや現象でな「存在するとは知覚されることである」 esse e 。 ( を月 ci とい う・ハークリーの命題は、意識すなわち何ものにも働きを及ぼ い存在を要求することを確かめた。「知覚されることーを cipi は、「知覚する者」「 cipiens を指し示し、この「知覚すことのできない純然たる自発性が、自己の存在の無を自己 する者」の存在は意識としてわれわれに顕示された。われわのうちに保ちながら、超越的な無に存在を与えるという、不 ナししカえれば、あ条理なことを要求する結果になる。フッセルはノエシスにヒ れは認識の存在論的根拠にまで到達しこ。、、、 ュレー的底層という受動性を導きいれたが、このような雑種 らゆる現象がそれに対して相対的であるような絶対者にまで 的存在は、意識の方からも忌避され、世界の一部をなすこと 到達した。われわれは一つの超現象的な存在にぶつかった。 もできないであろう。 しかし、それははたして存在現象の指し示す存在であろう 知覚される存在は意識の前面にあるのであり、意識はそれ か ? それははたして現象の存在であろうか ? 意識の存在 に到達することができず、また知覚される存在は意識に入り は、現象としてのかぎりにおける現象の存在を根拠づけるの こむことができない。現象の存在 esse は、それの知覚され に、十分であろうか ?
き、われわれは嘘をついているのではない。嘘をつく人は、 分にあてがう者は、自分の自己欺瞞 ( についての ) 意識をも 自分では真実を肯定しながら、自分のことばにおいてはそれっているのでなければならない。 というのも意識の存在は、 を否定し、さらに自分自身に対してはこの否定を否定する。 存在意識であるからである。したがって私は、私が自分の自 嘘をつく人は、だます意図をもっているのであり、この意図己欺瞞について意識している点では、誠実であるように思わ を自分に隠そうとはしない。虚偽は、私の存在、他人の存れる。しかしそうなると、自己欺瞞という心的構成そのもの 在、他人にとっての私の存在、および私にとっての他人の存が消え失せてしまう。さりとて、私がシニックにもことさら 在を前提としている。原理的な不透明さが、自分の意図を他自分をあざむこうとこころみるならば、私のこの企ては失敗 人に対しておおい隠してくれさえすればいいのであり、他人する。虚偽は後退し、まなざしのもとで崩壊する。自己欺物 が虚偽を真実ととりちがえてくれさえすればいいのである。 は、誠実とシニスムとのあいだでたえず動揺しているにもか 虚偽という事実によって、意識はつぎの二つの点を肯定す かわらず、やはり自律的な一つの形をあらわしている。自己一 る。意識は、本性上、他者に対して隠されたものとして存在欺瞞は、大多数の人々にとって、人生のあたりまえの姿であ する。また意識は、私と他者との存在論的一一元性を、自分のる。われわれは自己欺瞞のうちにあ「て生きることもでき ために利用する。 それに反して、自己欺瞞においては、私はほかならぬ私自 Ⅱ自己欺瞞的な行為 身に対して真実をおおい隠す。このばあいには、あざむく者 とあざむかれる者との一一元性は存在しない。自己欺瞞は、一 もし人間が自己欺瞞的でありうるはずだとすれば、人間は つの意識の統一を意味している。自己欺瞞は外から人間存在その存在においていかなるものであらねばならないか ? こ にや「て来るのではない。意識はみずからこのんで自己欺瞞の問いに答えるために、自己欺瞞的な行為をい 0 そう仔細に . を自分にあてがうのである。私は嘘をつく者としてのかぎり 検討してみよう。 においては真実を知っているのでなければならないが、この たとえば、ここに、はじめての逢いびきにやってきた娘が 真実は、私がだまされる者であるかぎりにおいて、私におお いるとしよう。彼女は、自分に話しかけているこの男が、ど い隠されている。私は、この真実をいっそう注意ぶかく私に んな意図をいだいているかを十分に知っている。彼女はおそ、 対して隠すために、この真実をきわめて正確に知っているの かれ早かれ、決断しなければならないときが来ることも知っ でなければならない。しかも、同一の企てのただ一つの構造ている。けれども彼女は、それをさし迫ったことだと感じた のうちで、そうであるのでなければならない。自己欺瞞を自 くない。彼女はただ相手の態度の鄭重で慎しみぶかい点だけ
定されるのではない。可能は、世界のかなたに自分を素描すは、それがあらぬところのものであり、それがあるところの る。可能は、私の現在的な知覚が自己性の回路のうちにおい ものであらぬ、ことになるであろう。そういうありかたは決 て世界からしてとらえられるかぎりで、私はこの現在的な知して「われ」 Je の存在様相ではない。事実、私が「われ」 覚に、その意味を与える。さりとて、可能は、知られざるも についてもつ意識は、決して「われ」を汲みつくすものでは の、もしくは無意識的なものでもない。可能は、非措定的意 ないし、また「われ」を存在にいたらせるのも、かかる意識 識としてのかぎりにおいて、自己 ( についての ) 非措定的意ではない。「われ」は、かかる意識以前にそこにあったもの 識の限界を素描する。渇き ( についての ) 非反省的な意識は、 として、つねに与えられているーー・また同時に、少しずつ開 欲望の目的としての「自己」を求心的に定立することなし 示されていくはずの深みをもつものとして、与えられてい に、望ましいものとしてのコツ。フの水からして、とらえられる。それゆえ、「自我」は、意識に対して、一つの超越的な る。けれども、可能な飽満は、「世界のただなかにおけるコ 即自として、人間的世界の一存在者としてあらわれるのであ ップ」の地平に、自己 ( についての ) 非措定的意識の非定立って、意識に属するものとしてあらわれるのではない。しか 的な相関者として、あらわれる。 し、それだからといって、対自は一つの単なる《非人格的な 観想である、などと結論してはならないであろう。「自我ー は或る意識を人格化する極であり「自我がなければ意識は 《非人格的な》段階にとどまる、などとは言えないのであっ 自我と、自己性の回路 て、むしろ反対に、或る条件のなかで、自己性 ipséitéの超 われわれは、《ルシェルシ = ・フイロゾフィック》に発表越的現象として、「自我ーの出現を許すのは、自分の根本的 ( 訳注 ) な自己性における意識である。事実、さきに見たように、即 した或る論文のなかで、「自我」 Ego が対自の領域に属する ものではないことを、示そうとこころみたことがある。それ自については、「それは自己である」と言うことさえ不可能 無 である。まったく単に、即自は存在する。そういう意味で、 をくりかえすことはやめよう。ここではただ、自我の超越の と 理由だけに注意しよう。要するに、《諸体験》 ErIebnisse を誤って意識の住人とされているこの「われ」 Je についても、 在 統一する極としての自我は、即自的であって、対自的ではな「われ」は意識の《われ》 Moi であると言うことはできよう 存 。もし自我が《意識に属するもの》であるならば、事実、 が、「われ」はわれ自身の「自己」であるとは言われないで 自我は、自分自身で、直接態の半透明性のうちにおいて、自あろう。それゆえ、反省されるものとしての対自の存在を一 分自身の根拠であるであろう。けれどもそうなると、自我つの即自へと実体化したために、人々は自己への反省運動を