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検索対象: 世界の大思想29 サルトル
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1. 世界の大思想29 サルトル

て、われわれは、我有化のうちに、その象徴的価値より以外 ついで、それに触れることができるということである。 けれども、触れることは、おのずから、不十分なものであるの積極的な享受を、見いだすことができないであろう。我有 化は、一つの至高の享受 ( 自己自身の根拠であるような存在・ ことがあらわになる。必要なのは、それに乗ってプロムナー の享受 ) を指示するものでしかない。かかる至高の享受は、 ドに出かけることができることである。けれども、当てのな いこのプロムナードは、それ自身、不十分である。自転車をつねに、それを実現するためのすべての我有化的な態度のか なたに、存在する。それは、まさに、一つの対象を所有する 利用して、遠出をすることが必要になるであろう。そしてこ ことがそもそも不可能であるということの認知であり、その のことは、さらにわれわれを、いっそう長くいっそう完全な しっそこの対象を破壊してしまいた 利用、フランスを横断する長い旅行に、向かわせる。けれど結果、対自にとっては、、 いという激しい欲望が生じてくる。破壊するとは、私のうち も、そういう旅行そのものが、無数の我有化的な態度に分解 し、そのおのおのが、他のものを指し示す。結局、先がおわに吸収することであり、破壊された対象の即自存在に対し て、創作におけると同様、一つの深い関係を保つことであ かりになったことと思うが、自転車を私の所属とするために は、一枚の紙幣を手渡すだけでこと足りるが、この所有を実る。私が農園に火をつけたとしよう。農園を焼く烙は、この 現するためには、私の全生涯が必要になるであろう。対象を農園と私自身との融合を、次第に実現していく。この農園 . は、消減することによって、私へと変化する。突然、私は、 獲得するときに私が感じるのは、まさにそのことである。 創作の場合に見られる存在関係、しかも逆の存在関係を、発 - いかえれば、所有は、つねに死が未完に終らせるところの一 つの企てである、ということである。いまにして、われわれ見する。私は、燃える穀物倉の根拠である。私は、この穀物 はその意味をとらえることができる。というのも、象徴的な倉の存在を破壊するがゆえに、この穀物倉である。破壊は 創作よりもいっそうあざやかにーーー我有化を実現する。 関係を我有化によって実現することは不可能であるからであ る。事実、それだけとしてみれば、我有化〔我がものにするこ なぜなら、破壊された対象は、もはや、自己を浸透不可能な と〕は、具体的な何ものをももたない。それは、一つの現実ものとして示すためにそこに存在しはしないからである。破 ) 的な活動 ( たとえば、食う、飲む、眠る、など ) 、しかも個壊された対象は、かって自己がそれであったところの即自の 別的な欲求にとって象徴として役立つような一つの現実的な浸透不可能性と存在充足をもっている。けれどもそれと同時・ に、破壊されたこの対象は、私がそれであるところの無の不 活動ではない。むしろ反対に、我有化は、象徴という資格に おいてしか存在しない。我有化に対してその意味、その凝可視性と半透明性をもっている。というのも、この対象は、 集、その存在を与えるのは、その象徴性である。したがっ もはや存在しないからである。私がこわしたこのコツ。フ、こ )

2. 世界の大思想29 サルトル

悪、われわれの憎悪、われわれの共感、われわれの魅惑など いうことである。それゆえ、そもそものはじめから、ねばね によって表現されるこの測り知れぬ普遍的な象徴体系を、わばしたものは、根拠づけられるべき一つの可能的な私自身と れわれよ、、、 ししカように考えなければならないであろうか ? して、あらわれる。はじめから、ねばねばしたものは、心的 この研究において前進するためには、或る若干の要請を放棄にさせられている。と言っても、決して、原始的なアニミズ しなければならない。特に、「ねばっきをこれこれの感情に ムのようなしかたで、私がそれに一つの霊魂を与えるという 帰することは、単に、一つの心像であって、一つの認識では 意味でもないし、私がそれに形而上学的な効力を与えるとい ないーというようなことを、われわれは、もはや、ア・。フリ う意味でもない。むしろ、ただ、それの物質性そのものが、 オリに要請してはならない。 また、い っそうくわしい知一つの心的な意味作用をもつものとして、私に対して現われ 識が得られるまでは、「物理的な素材を象徴的に生かすこと る、という意味である。 しかも、この心的な意味作用 を許すのは、心的なものである」とか、「人間的ないやらし は、ねばねばしたものが即自存在に対してもっ象徴的な価値 さについてのわれわれの経験は、《ねばねばしたもの》を有と、一つのものでしかない。ねばねばしたものにそれらすべ 意味的としてとらえることよりもより先きである」などとい ての意味作用を取り戻させるこの我有化的なしかたは、なる うことを認めるのを、われわれは、拒否しなければならな ほどそれが自由な企てであるにせよ、また、それが対自その ものの存在と同一視されるにせよ、一つの本格的なア・プリ 訳注「ねばっき」は物質的性質であり、「いやらしさ」は純粋に オリと見なされうる。というのも、事実、この我有化的なし 心的なものであることに注意しなければならない。 、こは、もともと、ねばねばしたものの存在のしかたに依存 するのでなく、むしろただ、ねばねばしたものの只の「そこ 根原的な企てに立ち戻ろう。根原的な企ては、我有化の企 にーある」にのみ依存するからであり、それの単なる「出会 てである。したがって、根原的な企ては、ねばねばしたものわれた現実存在」にのみ依存するからである。この我有化的 無 に強いてその存在を顕示させる。存在への対自の出現は、我なしかたは、それが我有化の単なる企てであるかぎりにおい 有化的な出現であるから、知覚されているねばねばしたもの て、また、それがいかなる点においても単なる ^ そこに存す 在 は、《所有されるべきねばねばしたもの》である。 しいかえる》と区別されないかぎりにおいて、さらにまた、いずれの 存 れば、私と、ねばねばしたものとの、根原的なきずなは、 方面から考察されるかにしたがって、それが単なる自由もし くは単なる無であるかぎりにおいて、他のあらゆる出会いの 「ねばねばしたものが理想的に私自身であるかぎりにおいて、 私は、ねばねばしたものの存在の根拠であろうと企てる」と場合と同様であるであろう。けれども、ねばねばしたものが

3. 世界の大思想29 サルトル

8 。存在欲求が、直接、対自を目標とし、対自に対して仲介 は、この対自と所有される即自との同一化を示す理想的な指 なしに「即自ー対自 [ の尊厳を与えようと企てるのに反し 示によってつきまとわれている。 所有関係において有力な項は、所有される事物の方であて、持っ欲求は、世界をとおして、対自をめざす。持っ企て が、存在欲求と同じ価値を実現しようとめざすのは、世界の る。私は、所有される事物のそとでは、所有する一つの無よ り以外の何ものでもない。私は一つの不完全なもの、不十分我有化を介してである。「世界ー内ー存在」とは、個別的な この対対象をとおして世界を所有しようとする企てである。しかし なものでしかない。それの充足と充実は、かしこに、 象のうちにある。所有において、この対象は、私のうちに吸現実には、持っ欲求をともなわないような存在欲求はない 収され、「私」でしかないが、この対象が根原的に即自であまた逆に、存在欲求をともなわないような持っ欲求はない。 るかぎりにおいて、それは「非ー私」である。したがって、 一方は、対自に対して端的に存在を賦与しようとする。他方 いいかえれば、対自とその 我有化は「即自ー対自」であろうとする企てそのものであは、自己性の回路をうち立てる。 る。所有する対自と、所有される即自との、この一対は、「み存在とのあいだに世界を挿入する。 あらゆる対自は自由な選択である。われわれの行為の一つ ずから自己を所有するために存在する存在」すなわちまさに 「神ーに相当する。われわれはこの関係が象徴的なものであ一つは、この選択をあらわしている。選択は、直接的にせ るという事実を、いかに強調しても、強調しすぎることはあよ、世界の我有化を介してにせよ、存在選択である。私の自 りえない。或る物品を私の所属とするためには一枚の紙幣を由は、神であろうとする選択であり、私のすべての行為はさ まざまなしかたでこの選択を表現している。われわれが選ぶ 手渡すだけでこと足りるが、この物品をあますところなく利 用しつくすことによって私の所有を実現するためには、私のところのものは、存在が自己をあらわにするときの一つのし かたである。したがって、各人の趣味や好みは、一つの存在 全生涯が必要になる。しかも所有は、つねに死が未完に終ら せるところの一つの企てである。象徴的な関係を我有化によ選択を象徴している。 って実現することは不可能である。むしろ、我有化は、象徴 Ⅲ存在を顕示するものとしての性質について という資格においてしか存在しない。我有化は、一つの至高 の享受を指し示すが、かかる至高の享受は、それを実現する ハシ「一ラールは『水と夢」その他の著作で「物質的想像 ためのあらゆる我有化的態度のかなたに存在する。 力」ということを言い出したが、想像力という語をこういう 欲求は、根原的に、存在欲求もしくは持っ欲求としてあら ところに用いるのは不適当であるし、諸事物とその素材の背 われる。けれども、持っ欲求は、還元不可能なものではな後に、われわれがそこへ投影するであろう「心像」を探り求

4. 世界の大思想29 サルトル

283 存在と無 したことがある。心の争いは苛酷であった。実のところ、そ いましがた見たように、後者〔いけにえー煙草〕が前者〔風景 ) れまでは、私は、私の失おうとしている煙草の味をも、喫煙の象徴として存在するということである。してみると、煙草 という行為の意味をも、気にかけていなかった。一つの完全の破壊的な我有化という反応は、世界全体の我有化的な破 として、象徴的に、価値をもっていたのだということにな な結品作用ができあがっていたのである。私は、芝居を見な がら、朝は、仕事をしながら、夕方は、食事のあとで、煙草る。私がふかす煙草をとおして、燃えて煙になるもの、気体 を喫う習慣になっていた。煙草をやめると、芝居からはそのとなって私のうちに吸いこまれるものは、世界であったので 興味が、夕食からはその趣きが、朝の仕事からはその新鮮なある。煙草をやめるという私の決心を持ちこたえるために は、私は、一種の結品分解を実現しなければならなかった。 生気が、取り除かれるように私には思われるのであった。ど しいかえれば、私は、自分にもはっきりそうと言わずに、煙、 んなに私の眼をうばうような不意の出来事が起ろうとも、私 がもはや煙草を喫いながらそれを受けいれることができなく草を、もはやそれ自体すなわち「煙る草」より以外の何もの なって以来、その出来事は根本的に退屈なものであるように でもないものに、還元した。私は、世界に対する煙草の象徴、 思われるのであった。「煙草を喫うー私ー冫 「こよってー出会わ的なきずなを断ち切った。私は、私がパイ。フから切り離して ししカえれば、私がこ - れることがーできるーということ。」かくのごときが、あら芝居や風景や本を考えていたならば、、、、 の犠牲的な儀式とは別のしかたでそれらの対象を所有するこ ゆる事物のうえに普遍的に拡がっている具体的な性質であっ とに甘んじていたならば、芝居や風景や、私の読んでいる本 た。私はそれらの事物からこの性質を奪い去ろうとしている ように思われた。この普遍的な退屈のさなかにあっては、生から、何ものも取り除かれることがないであろうことを、 きることもあまり価値がないように思われるのであった。と まさらながら思い知るのであった。それを思い知った瞬間か ら、私の後悔は、ごく些細なものに還元された。私は、煙の ころで、煙草を契うことは、一つの破壊的我有化的な反応で ある。煙草は、《我有化される》存在の一つの象徴である。 匂い、私の指のあいだの火皿の熱、等々を、もはや二度と感 ~ というのも、煙草は、私の呼吸のリズムのうえで、《連続的じないであろうことをくやむのであった。まったく、突然、 な破壊》というしかたで破壊されるからであり、煙草は私の私の後悔は武装を解かれ、きわめて堪えやすいものになって うちを通過し、私自身のうちにおけるその変化は、焼きつく される固体から煙への変化によって、象徴的にあらわされる それゆえ、或る一つの対象において、根本的に、われわれ が我がものにしようと欲するところのものは、この対象の存一 からである。煙草を喫いながら眺めるときの風景と、この小 さな燔祭のいけにえとのあいだの、結びつきは、われわれが在であり、世界である。我有化のこの二つの目的は、実際に .

5. 世界の大思想29 サルトル

成していたばらばらの断片をもとにしては、私の存在の意味と欲するのは、即自存在の具体的な代表者という資格におい 四を発見することができない。それは、あたかも、或る種の精てである。つぎに、経験的に見れば、我有化された対象は、 神病患者が心ならすも経験するところのデベルソナリザシオ決して、ただそれだけのものとして価値をもつのでもなく、 ( 訳注 ) し力なる特 その個別的な使用として価値をもつのでもない。、、 ンと呼ばれる反省体験のうちに見られるごときものである。 それゆえ、われわれは、い ましがた我有化的綜合の一般的抽殊な我有化も、その際限なき延長を離れては、意味をもたな い。私が所有している万年筆は、すべての万年筆として、価 象的な意味を存在論によって規定したのであるが、この我有 化的綜合の意味を個々の場合において明らかにするために値をもつ。私がこの万年筆それ自身において所有しているの は、万年筆という類である。けれども、さらに、私がこの万 は、どうしても実存的精神分析に頼らなければならない。 訳注デベルソナリザシオン dépersonnalisation は、邦語で「人年筆のうちにおいて所有しているのは、書く可能性であり、 格感喪失」または「離人症」などと訳されている精神病的兆候。 或る形や或る色の線を引く可能性である ( な。せなら、私はこ その当人たけが感知する一種の錯覚で、自己の思考、感情、身体の用具と、私が使用するインクとを、一緒にして考えている 的感覚、行為、言語などが、自己にとって疎遠なものとなり、ま からである ) 。それらの線、その色、その意味は、紙、 その るで人ごとのように、あるいは自分のものではないかのように、 この万年筆のうちに凝〔 特殊な抵抗、その匂いなどとともに、 感じられる。 縮されている。あらゆる所有に関して、スタンダールが愛の さて、残るところは、所有されている対象の意味を、一般場合についてのみ記述したような結品作用的綜合が生じる。 的に規定することである。このことの研究をまってはじめ所有されている対象は、それそれ世界という背景のうえに浮〔 て、我有化的な企てに関するわれわれの認識は完了するはずかびあがることによって、世界全体をあらわす。それはあた かも、愛する女が出現するとき、彼女は、そのまわりの大空 である。しからば、われわれが我がものにしようとするとこ や浜辺や海をあらわすようなものである。それゆえ、この対 ' ろのものは、何であるか ? 容易にわかることであるが、まず抽象的にいえば、われわ象を我がものにするとは、世界を象徴的に我がものにするこ とである。誰れでも自分の経験に照らしてみれば、そのこと れは、もともと、対象のありかたを所有するよりも、むしろ この対象の存在そのものを所有することをめざす。事実、わが納得できるであろう。私は、そのことを立証するためでは ししカえれなく、ただ読者の研究をみちびくために、私の個人的な例を れわれが対象を我がものにしようと欲するのは、、、、 ば、対象が理想的にわれわれ自身であるかぎりにおいて、わここに引きあいに出そう。 何年か前のことであるが、私はもう煙草を喫うまいと決心 れわれがわれわれをこの対象の存在の根拠としてとらえよう

6. 世界の大思想29 サルトル

9 存在と無 に、食物摂取的な享受を指し示す。消費するとは、消減させ のテーブルのうえに《あった》このコツ。フは、いまもそこに ることであり、食うことである。それは、自己に合体させる ある。しかし、絶対的な透明性としてである。私は、すべて ことによって、破壊することである。私が私の自転車を乗り の存在を、このコップ越しに見る。映画製作者たちがスーパ まわすとき、私は、別のタイヤを見つけるのが困難だからと ーインポーズによって出そうと試みた効果も、それである。 いう理由で、タイヤを使いふるすことを苦にする場合もあ 破壊された対象は、即自の回復不可能性をもっているにせ よ、一つの意識に似ている。それと同時に、この対象は、積る。けれども、私が私の身体を以て楽しんでいる享受の姿 は、破壊的な我有化の姿であり、《破壊ー創作〉の姿である。 極的に私のものである。というのも、「私は私があったとこ この自転車は、滑るように進み、私を運びながら、その運動 ろのものであるべきであるーというただそれだけの事実が、 破壊された対象の消減を引きとどめているからである。私そのものによって、創作され、私のものたらしめられる。け は、私をふたたび創作することによって、その対象をふたたれども、この創作は、それが対象に伝える連続的な軽い損耗・ によって、対象のうちに深く刻印せられる。損耗はあたかも び創作する。それゆえ、破壊するとは、存在していたところ 奴隷の烙印のごときものである。この対象は、私のものであ , のものの存在の唯一の責任者として、すべての人に代って、 自己を引き受けることによって、ふたたび創作することである。なぜなら、それを使いふるしたのは、私だからである。 ( 原注 ) る。それゆえ、破壊は、我有化的な態度の一つにかそえられ私のものの損耗は、私の生活の裏側である。 原注プランメルは、すでにいくぶん使いふるされた衣服をしか て然るべきである。さらに、多くの我有化的な行為は、わけ 身につけないことを以て、みずからおしゃれと心得ていた。彼は ても、破壊可能という一つの構造をもっている。つまり、利 新しいものを嫌悪した。新しいものは《よそ行きの感じを起させ 用するとは、使いふるすことである。 utiliser, c'est user. る》。というのも、新しいものは誰のものでもないからである。 私の自転車を使用することによって、私はそれを使いふるす。 訳注プランメル Brummell ( 1778 ~ 1 田 0 ) はイギリスの有名な いいかえれば、我有化的な連続的創作は、部分的な破壊とい 伊達者。十九世紀に芸術家の自尊心の技巧的表現として流行した う特徴をもっている。この損耗 usure は、厳密に功利的な いわゆるダンディズムの風俗は、この人にはじまる。 しかし多くの 理由からすれば、困ったことかも知れないが 以上の考察によって、われわれは、通常、還元不可能なも 場合、それは、ほとんど享受に近い一種のひそかな喜びを起 のと見られている或る種の感情もしくは態度、たとえば「気 させる。というのも、この損耗は、われわれから来るからで ある。われわれは消費する。お気づきのことと思うが、《消前のよさ」が、いかなる意味のものであるかを、い 0 そうよく 費》というこの表現は、我有化的な破壊を指し示すと同時理解するであろう。事実、贈与は、一つの原初的な破壊形式

7. 世界の大思想29 サルトル

いいかえれば、他者が出現さ 実、所有が連続的な創作であるかぎりにおいて、私は、所有襲うことができないであろう。 される対象を、その存在において私によって根拠づけられるせようと欲する存在、「対他ー私」であるような存在、かかる ものとして、とらえる。けれども、一方、創作が流出である存在を、私はすでに所有しており、それを私は享受している ? それゆえ、所有は、さらに言うならば、他人に対する一つの かぎりにおいて、この対象は、私のうちに吸収され、「私」 でしかないが、他方、この対象が根原的に即自であるかぎり防禦である。「私のもの」とは、私がそれの自由な根拠であ において、それは「非ー私」であり、私に面しての私、対象るかぎりにおける「非ー主観」としての「私」である。 的な私、即自的な私、恒常的で浸透不可能な私、私に対して外 訳注「所有される対象のために、かえって私の方が他有化され る」という意味である。 面的無関心的な関係のうちに存在する私である。それゆえ、 私は、私が私に対して無関心的なもの即自的なものとして存 在するかぎりにおいて、私の根拠である。ところで、それこ しかしながら、われわれは、この関係が象徴的なものであ そはまさに、「即自ー対自ーの企てそのものである。なぜな り理想的なものであるという事実を、いかに強調しても、強 ら、この理想的な存在は、「対自としてのかぎりにおいて、 調しすぎることはありえないであろう。私は、私自身に対し 自己自身の根拠であるであろうような、一つの即自ーとして、 て私自身の根拠でありたいという私の根原的な欲求を、我有 もしくは、「自己の根原的な企てが、一つのありかたでなく 化によっては満足させることができない。それはあたかも、 フロイトの患者が、一人の兵士がツアー ( すなわち彼の父 ) して、一つの存在であるであろうような、すなわちまさに、 あるところのものである即自存在であるであろうような、一 を殺すのを夢で見ることによっては、彼のエディ。フス・コン つの対自」として、規定されるからである。してみると、明プレックスを満足させることができないのと同様である。そ らかに、我有化は、対自の理想の象徴、もしくは価値より以ういうわけで、所有は、所有者にとって、一挙に永遠のうち に与えられたものとしてあらわれると同時に、実現されるた 外の何ものでもない。所有する対自と、所有される即自と の、この一対は、「みずから自己を所有するために存在するめには無限の時間を要するものとしてあらわれる。利用とい AJ 存在」「それの所有が自己自身の創作であるような存在」すう行為は、いかなる場合にも、我有化的な享受を真に実現し 在 はしない。むしろ反対に、一つの利用行為は、他のもろもろ なわちまさに「神 [ に、相当する。それゆえ、所有する者は、 存 自己の即自存在、自己の外部存在を、享受することをめざの我有化的行為を指し示すのであるが、それらのおのおの す。所有によ 0 て、私は、私の対他存在に類する一つの対は、単に一つの呪文的な価値をしかもたない。自転車を所有 象ー存在を回復する。まさにそのことによって、他者は私をするとは、まず、それを眺めることができるということであ

8. 世界の大思想29 サルトル

ろのものは、「私」と「非ー私ーと ( 思想の親密性、半透明性るときにしか発見されない。したがって、このノエマは、或 と、即自の不透明性、無差別性と ) の、この綜合である。そる点では、私によって存在に維持されるものとして、あらわ の意味において、私がそういうしかたで我がものにするのれる。世界の一つの面が顕示されるのは、私によってであ 、それが顕示されるのは、私に対してである。その意味で、 は、ただ単に、いわゆる芸術的な作品ばかりではない。私が 私は創作者であるとともに所有者である。といっても、決し 木の枝をけずってつくったこの杖も、やはり、二重のしかた て、私は、私の発見する存在の相を、単なる表象と見なすの で私に所属することになるであろう。まず第一に、それは、 私の意のままになる使用物、私の衣服あるいは私の書物と同ではない。むしろ、まったくその反対である。というのも、 様に私の所有している使用物として、第二に、私の作品とし存在のこの相は、私によってしか発見されないにもかかわら カ ^ われ て、私に所属するであろう。それゆえ、自分自身で制作したず、深く現実的に存在しているからである。ジイド、、、 工芸品を身のまわりに置くことを好む人々は、我有化に凝っわれはつねに開示しなければならない》と言ったような意味 ているのである。彼らは、享受による我有化と、創作によるで、私は、私がこの相を開示するのだと言うことができる。 我有化とを、ただ一つの対象のうえに、同一の統合のうちけれども、私は、私の思考の真理の性格のうちに、すなわち に、結びあわせている。われわれは、芸術的創作の場合か この真理の対象性のうちに、芸術作品の独立性に類似した一 ら、 ^ 自分で巻いた煙草がいちばんうまい》というシガレッ つの独立性を、ふたたび見いだす。この思考は、私がそれを 形成し、私からその存在を引き出してくるにもかかわらす、 + の場合にいたるまで、同一の企てが一貫しているのを見い だす。われわれは、のちほど、所有の下落ともいうべき「贅同時に、それが万人の思考であるかぎりにおいて、それ自身 沢ーと呼ばれる特殊な所有の型に関して、この同じ企てを見だけで、自己の存在を追求する。この思考は、一一重のしかた で「私ーである。なぜなら、この思考は、私に対して自己を いだすであろう。というのも、のちに見るであろうように、 贅沢は、所有される対象の或る性質を示すのではなくて、所あらわす世界であるからであり、また、この思考は、他の人 有の或る性質を示すのだからである。 人のあいだにおける私、他人の精神とともに私の思考を形成 本書の第四部の前置きで示したように、認識することも、 する私であるからである。同時に、この思考は、二重のしか やはり、我がものにすることである。それゆえ、科学的探求 たで、私に対して閉ざされている。な、せなら、この思考は、 は、我有化の一つの努力より以外の何ものでもない。発見さ私ではあらぬ存在 ( この存在が私に対して顕示されるかぎり れた真理は、芸術作品と同様、私の認識である。それは、一 において ) であるからであり、またこの思考は、そもそもそ つの思考のノエマであり、このノエマは、私が思考を形成すの出現のはじめから、万人の思考であり、無名の誰かに捧げ

9. 世界の大思想29 サルトル

現われ、そのねばつぎをくりひろげるのは、まさに、この我われに送りとどける。しかも、この意味作用は、ねばねばし 四有化的な企ての枠内においてである。それゆえ、このねばっ たものが、現に、世界をあらわにするところのものである きはーーねばねばしたものの最初の現われ以米ーーすでに一 かぎりにおいて、即自存在をわれわれに引き渡し、また、 つの求めに対する答えであり、すでに自己贈与である。ねば我有化が、ねばねばしたものを根拠づける一つの行為ともい ねばしたものは、すでに世界と私との或る融合の粗描としてうべき何ものかを粗描するかぎりにおいて、われわれ自身の あらわれる。ねばねばしたものが世界について私に教えてく 粗描をわれわれに引き渡す。その場合、一つの対象的な性質 れるもの、すなわち私を吸いこむ吸盤というその性格は、すとしてわれわれの方へ戻ってくるものは、物質的 ( 物理的 ) でに、一つの具体的な問いかけに対する一つの応答である。 でも心的でもなく、心的なものと物理的なものとの対立を超 ねばねばしたものは、自分の存在そのものを以て、自分の存越する一つの新たな本性である。というのも、この新たな本 在のしかたを以て、自分の全素材を以て、答える。しかも、 性は、そっくりそのままの世界の、存在論的な表現として、 ねばねばしたものが与える答えは、問いに対して完全に適応われわれにあらわれるからである。 しいかえれば、この新た な本性は、ひとたび物質的な組織もしくは「超越されるー超 していると同時に、不透明であり、解読不可能である。なぜ なら、この答えは、いわく言いがたいそのあらゆる物質性を越」が問題になるならば、世界のすべての「このもの」たち 豊かにそなえているからである。この答えは、それがまさにを分類するための表題として、自己を提供する。要するに、 ねばねばしたものをねばねばしたものとして把握すること 答えにかなっているかぎりにおいて、明白なものである。 いかえれば、ねばねばしたものは、私の欠いている分〔私の欠は、同時に、世界の即自にとって、自己を与えるときの或る 如分〕として、とらえられるままになる。ねばねばしたもの特殊なしかたを、作り出したことになる。この把握は、独自 なしかたで存在を象徴する。 は、或る我有化的な問い求めによって、触れられるままにな しいかえれば、ねばねばしたも のとの接触がつづくかぎり、われわれにとっては、あたか る。ねばねばしたものがそのねばっきをあらわにするのは、 かかる我有化的な粗描に対してである。また、他方、この答えも、ねばっきが、そっくりそのままの世界の意味であり、卩 自存在の唯一のありかたである、かのごとき観を呈する。ち は、不透明である。というのも、有意味的な形態が対自によ ようど、蜥蜴のなかまの原始的なものたちにとっては、すべ ってねばねばしたもののうちにめざめさせられるとき、ねば ねばしたものがこの形態を満たしにやってくるのは、そのあての対象が蜥蜴であるのと同様である。それでは、ここに選 ばれた例において、ねばねばしたものによって象徴される らゆるねばっきを以てしてであるからである。したがって、 し力なる「ありかた」でありうるか ? 私 ねばねばしたものは、充実した稠密な一つの意味作用をわれ「ありかた」は、、、 とかげ

10. 世界の大思想29 サルトル

の内的な関係が、対自の存在不足に由来するからである。明 訳注 possédéは、普通、「憑かれた人ー「狂人」の意味をもっ が、これはいうまでもなく「悪魔によって所有されている人 , と らかに、所有されている対象は、実在的には、我有化的な行 いうところから来ている。 為によって、何ら影響されない。認識される対象が、認識に しいかえれば、所有さ よって影響されないのと同様である。 れている対象は、手も触れられないままにとどまっている 所有されているものと、所有する者との、この存在論的、 ( ただし、所有されているものが、一人の人間存在、一人の 内的なきずなは ( 烙印というような慣習は、しばしば、この きすなを具体化しようとしたこころみであるが ) 、我有化に奴隷、一人の娼婦、等々である場合は、別として ) 。けれど ついての《実在論的な》理論によっては、説明されえないでも、所有されているというこの性質は、それにもかかわら あろう。実在論は、「主観と対象とを、それそれ、それ自身ず、観念的には、やはり対象の意味作用に影響をおよぼさず にはいない。要するに、対象の意味は、この所有を対自に反 によるそれだけとしての存在をもっ二つの独立した実体と、 見なす学説」として規定されるが、もしこの規定が真である射するということである。 もし所有する者と所有されているものとが、対自の存在不 ならば、われわれは、我有化をも、その一つの形態である認 識をも、理解することができないであろう。両者はいずれ足にもとづく一つの内的関係によって結ばれているならば、 も、主観と対象とをかりそめに結びつける外的な関係にとど当面の問題は、両者が形成するこの一対の本性と意味とを決 まるであろう。けれども、われわれがさきに見たように、実定することである。事実、内的な関係は、綜合的な関係であ るから、所有する者と所有されているものとの合一をもたら 体的な存在は、認識される対象に帰せられなければならな 。言うところの所有についても同様である。つまり、それす。いいかえれば、所有する者と、所有されているものと 自体において〔即自的に〕存在するのは、所有されている対象は、観念的に、唯一の実在を構成する。所有するとは、我有 化のしるしつもとに、所有される対象と合一することであ である。この対象は、恒常性によって、いわゆる無時間性に よって、存在充足によって、要するに、実体性によって、規る。所有したいと思うのは、かかる関係によって或る対象と 合一したいと思うことである。それゆえ、或る個別的な対象 定される。してみると、非独立性を置かなければならないの は、所有する主観の側にである。一つの実体は、他の一つのを欲求することは、ただ単に、この対象についての欲求では ししカえれば、対 ない。それは、或る内的な関係によって、、、、 実体を、我がものにすることができないであろう。しかも、 われわれが事物について、 ^ 所有されている》という或る種の象とともに《所有するものー所有されるもの》という一体を 性質をとらえるのは、もともと、対自とその所有たる即自と構成するようなしかたで、その対象と合一したいという欲求