に抵抗することによって。資本主義社会では組合に加入し、 することによってである。彼の投企はそのとき、おそらく行 ストライキに賛成投票する等、のことによ 0 て ) によ 0 てそ為者自身が知らない現実性をもつにいたるが、その現実性は れをたえずのりこえるという限界内で、彼を定義する。とこそれが表明しかっそれが生み出す矛盾軋轢によって、諸事件 ろでこののりこえはただ実存者が自分の可能性に対してもっ の進行に影響を及ぼすのである。 関係としてのみ理解されることができる。元来ひとりの人間 原注現実的な調査をかさねてすすむ態度を欠いていたため、マ について彼が何で〈ある〉かを言うことは、同時に彼に何が ルクス主義は、いわば停止した弁証法を用いる。それは結局、人 できるかを言うことであり、その逆もまた真である。なぜな 間の諸活動の全体化を、デカルト流の合理主義の時間に他ならな ら彼の生活の物質的な条件が彼の可能性の分野を取りかこん い等質で無限に分割できる連続の内部で取り行う。この環境的時 でいるから ( 彼の仕事は辛すぎる、彼はあまり疲労している 間性は資本の流通過程を検討することが問題である場合には不都 合なものではない。なぜなら資本主義経済が、生産、貨幣の循 ので組合活動や政治活動の能力を示すことができない ) 。か 環、富の再分配、信用貸、〈複利〉、の意味として生み出すもの くて可能性の分野は行為者がそれを目指して自分の客観的な は、まさしくこの種の時間性なのであるから。かくてそれは資本 状況をのりこえる目的である。そして今度はこの分野の・方が 主義体制の産物とみなされることができる。しかしこの何でもっ 社会的、歴史的現実に密接に依存している。たとえば、すべて めこむことのできる容器を社会的発展の契機として記述すること が金で買われる社会では、教養の可能性は、もしも食費が予 は、現実の時間性 ( すなわち人間がその過去と未来とに対しても・ 算の五十。ハーセント以上を必要とするなら、労働者たちにと っ真の関係 ) の決定とは別ものである。現実の運動としての弁証 っては実際上なきにひとしくなる。反対に、ブルジョワたち 法は、時間そのものがもし弁証法的でないならば、すなわち、も しも人がそのあるがままの未来の或る行動を拒否すれば、くずれ の自由は、最も変化にとんだ消費部門に自分たちの収入のた 去ることであろう。歴史の弁証法的時間性をここで究めるには時 えず増大する部分をついやすことができる事実のなかに存す 間かかかりすぎる。わたしは、今のところ、その困難さを指摘し る。しかし、たといどのように切りつめられたものであると 間題を提出するにとどめたい。結局、人間も人間の活動もともに しても、可能性の分野はつねに存在し、かつまた、われわれ 時間のなかにあるのではなくて、時間は、歴史の具体的性格とし はそれを不確定な区域であると想像すべきではなく、反対 て、人間が、そのはじめの時間化を基盤にして、みずからっくる に、歴史全体にかかわり固有の矛盾を内包するしつかりした ものなのである。マルクス主義は〈進歩〉についてのプルジ置ワ 構造をもった領域と想像するべきなのだ。個人が自己を客観 的観念を批判し論破したとき、この真の時間性を予感していた。 化し歴史をつくるのに貢献するのは、与件を可能性の分野に プルジョワ的な進歩の観念は必然的に、出発点と到着点とを位置 づけることをゆるす等質の環境と座標とを内にふくんでいる。し 向ってのりこえて、すべての可能性のなかにある一つを実現
る対象的な構造が目的の光に照らされるとき、動機の名に値一つの目的、自己が世界の反対側から投企する一つの目的に いするものとなる。それゆえ、対自は、この動機についてのよって、自己に告げ知らせる存在者。かくのごときが、われ 意識である。けれども、動機についてのこの定立的な意識われのいうところの「自由な実存ーである。 世間一般の考えかたからすれば、自由であるとは、ただた は、企てとしての非措定的な自己意識である。しかも、動因 んに自己を選ぶという意味ではない。選択が自由であるとい は非措定的な自己意識にほかならない。その意味で、動機に われるのは、その選択がそれ以外でもありえたであろうよう ついての定立的な意識は、動因である。動機、動因、目的は、 なばあいである。私は友だちといっしょにハイキングに出か 一つの自由な意識の分ちがたい三つの項である。この自由な 意識は、自己の諸可能へ向かって自己を投企し、それらの可けた。何時間も歩いたすえ、私の疲労は増し加わり、ついに はとても耐えがたいまでになる。はじめのうち、私は抵抗す 能性によって自己を規定させる。 るが、やがて、突然、私はぐったりする。私はくじける。私 自由は、対自の存在と一つのものでしかない。人間存在が はリュックを道ばたに投げ棄て、そのかたわらにへたばる。 まさに自己自身の無であるべきであるかぎりにおいて、人間 存在は、自由である。ます第一に、人間存在は、自己を時間「つぎの宿場まで、我慢することができたであろう」と言う 化することによ「て、この無であるべきである。つぎに、人人もあろう。「なるほど、私は別様におこなうことができた 間存在は、何ものかについての意識として、と同時に、自己であろう。しかし、いかなる代償をはらってか ? 」この門し は、こう言いかえることができる。「私は、私がそれである 自身 ( についての ) 意識として、あらわれることによって、 ところのもろもろの企ての組織的な全体をいちじるしく変様 この無であるべきである。最後に、人間存在は、超越である ことによって、この無であるべきである。人間存在は、まずさせないで、別様におこなうことができたか ? 」 疲労は、それだけでは、私の決定をひきおこすことができ はじめに存在して、しかるのちにこれこれの目的に対して関 ない。疲労は、私が私の身体を存在するときのしかたでしか 係をもつような何ものかであるのではなく、むしろ反対に、 根原的に投企であるような一つの存在、すなわち自己の目的ない。疲労はまずはじめには、定立的な意識の対象であるの によって自己を規定する一つの存在である。自己の未来の光でなく、むしろ私の意識の事実性そのものである。私は、疲 に照らして、自己の過去を、伝統という形で決定する存在労という形で、私の身体 ( についての ) 一つの非定立的な意 者。自己の過去がただ一方的に自己の現在を規定することを識をもっている。この非定立的な意識と相関的に、しかも対 許さない存在者。自己が何であるかを、自己自身より以外の象的に、行く手の道ははてしないものとしてあらわれ、傾斜は いっそう険しいものとして、太陽はいよいよ焼けつくような 他のものによって、すなわち、自己がそれであらぬところの べつよう
に、位置を占めているが、それ自身のうちには前をも後をも る。私は、それであらぬことができるという不断の可能性の ふくまない。瞬間は不可分であり、無時間的である。 もとで、私の未来である。そこから私の不安が生じてくる。 しかし時間性は、ただたんに分離であるのではない。 対自は、自分がそれであるところの無によって、未来から引 き離されている。要するに、対自は自由である。自由である はの後にある」というとき、そこには、この順序そのもの とは、自由であるように呪われていることである。 のふところにおける両者の統一が前提されている。がよ りもよりさきであるということは、 << のうちにを指向する Ⅱ時間性の存在論 一つの不完全性があることを予想している。しかも、よりさ きという規定を << が受けるのは、においてである。は、 (<) 静的時間性 三つの時間的な脱自 ek-stases についての現象学的記述を自分の存在そのものにおいて、自分の未来のへと存在する のでなければならない。また逆に、は、よりあとという規 終えたので、今度は全体的構造としての時間性を考えてみよ 定を自分に与えてくれたのうちに、尾をひいているのでな う。まず、静的な観点からそれを考えることにしよう。 たいていの人は、時間性が継起 succession であることをければならない。 それにしても、かかる前後関係はひとりの証人によってし 認めている。継起は前後関係を原理とする一つの順序であ か立てられないのではあるまいか ? この証人が同時にに . る。前後にしたがって順序づけられた一つの「多」、これが 時間的な多数性である。前後の順序は、何よりもます、不可もにも存在しうるのは、この証人自身が時間的であるから 逆性によって定義される。そのばあい、人々は「前」のうちである。そうなると問題はあらためてこの証人に対して立て にも「後」のうちにも分離的形式を見ようとした。小説家やられることになる。反対に、この証人は、時間的遍在という 詩人が強調したのは、時間の分離力についてである。時は引無時間性にもひとしい賜ものによって、時間を超越すること ができるのだろうか ? ・一アカルトもカントも、ともにこのよ き離す。時は逃げ去る。時が悲しみをいやすのも、時が引き うな解決にとどまった。デカルトのばあいには、神とその連 離すからである。あいついで継起する「後ーの無限の分散に おいて遠ざかっていく必然性が、人々を感動させたのであ続的創造、カントのばあいには、 Je Pense すなわち純粋統 る。分離の前提からすると、世界や人間についての時間的な覚とその綜合的統一の諸形式が、それである。いずれにして 姿は、「前」と「後」という粉微塵の状態に崩壊するであろも、無時間的なもの ( 瞬間 ) にその時間性を与える役目をす う。かかる粉砕の単位すなわち時間的なアトムが、瞬間であるのは、一つの無時間的なもの ( 神、純粋統覚 ) であるとい る。瞬間は或る一定の諸瞬間の前に、そして他の諸瞬間の後うことになる。だが、もし時間が実在的であるならば、ベル
不断の可能性である。自己自身に対して自己自身の根拠であは、対自を、「将来において、過去において、世界のなかに、 ろうとする対自の努力、自己自身の逃亡を内部において回復自己自身から距離をおいて、つねにこの自己である存在ーと し支配しようとする対自の努力、自己を逃れる逃亡としてこ して発見する。反省は、それが自己性の独自のしかたとし の逃亡を時間化する代りに、 この逃亡であろうとする対自の て、歴史性として、自己を開示するかぎりにおいて、時間性 努力は、当然、挫折に終らざるをえない。反省とは、まさに をとらえる。 この挫折である。 われわれが根原的時間性と呼ぶのは、かかる純粋な反省に 反省には、純粋な反省と不純な反省がある。純粋な反省と よってとらえられる時間性である。それに反して、心的時間 は、反省される対自に対する、反省する対自の、たんなる現性は、不純な反省によって構成される。心的時間性は、心的 前である。これが反省の根原的な形である。明証という点で な諸事実の継起として、相互主観的な実在として、科学の対 純粋な反省がもっている資格は、反省する意識は反省される象として、人間的な諸行動の目的として、あらわれる。かか 意識であるということである。もしそこから離れるならば、 る心的時間性は、明らかに派生的な時間性であるが、根原的 反省は正当化されない。たしかに反省は一つの認識である。 時間性から直接に生じることはできない。根原的時間性は、 認識するとは自己を対象ではあらぬものたらしめることであ自己を時間化することしかできないからである。一方、心的 る。しかるに、反省する意識は、反省される意識から自己を時間性は自己を時間化することができない。心的時間性は、 完全に切り離すことができない。反省にあっては、認識は全不純な反省によって、根原的時間性が即自に投影されたもの 体的な認識であり、一つの閃光的な直観である。さらに、反である。 省される意識は、反省する意識の過去であり、その未来であ る。デカルトのコギト・エルゴ・スムは決して瞬間のなかに 第三章超越 制限されない。疑いは自己の背後に過去を指し示すと同時 に、自己の前方に将来へ向かっての企てである。反省の権利 対自は、自分の存在において、対自と即自との関係の責任 は、過去に、将来に、現前に、対象にまで、ひろげられなけ者である。対自は、根原的に、即自との関係を根拠として生 ればならない。反省は対自の存在のしかたであるから、時間 じる。超越の問題は、対自と即自との関係が対自の存在の構 成要素であるかぎりで、対自を、即自との関係そのもののう 化として存在するのでなければならない。反省は一つのディ アスポラ的な現象である。かくして、純粋な反省は、対自ちにおいて記述することである。 を、その全体分解的な全体のうちに発見する。純粋な反省
原注われわれは暫定的にこの定義を用いたけれども、この定義 は「飲みほされるコップ」についての措定的な意識であり、 がいかなる点で不十分であり誤っているかを、この第二部の第三 自己 ( についての ) 非定立的な意識である。したがって、こ 章で見るであろう。 の充満した渇きは、自分がそれについての意識であるところ 訳注《ルシェルシュ・フイロゾフィック》は一九三一年にアレ のそのコップへ向かって自己を超越させる。そして、この非 グザンドル・コワレ、スパイエ等によって創刊された哲学年誌。 措定的な可能的意識の相関者としての「飲みほされたコッ 一九三六年にサルトルの最初の哲学論文「自我の超越性」が掲載 。フ」は、「満たされたコップ」にその可能としてつきまとい、 された。 これを、「飲みほされるべきコツ。フーとして構成する。それ ゆえ、世界が無の即自的な相関者であるかぎりにおいて、 否定的な諸行為と自己欺瞞とを検討した結果、われわれは いかえれば、世界が必然的な障碍であるにもかかわらす、私 コギトの存在論的研究にとりかかることができたのである がこの障碍のかなたに、私自身を、 ^ それであるべきである〉 が、コギトの存在は、「対自存在であるものーとして、われ という形において私がそれであるところのものとして、ふたわれにあらわれた。このコギトの存在は、われわれの見たと たび見いだすかぎりにおいて、世界は、本性上、私の世界で ころでは、価値および諸可能へ向かって自己を超越した。わ ある。世界がなければ、自己性もなく、人格もない。また、 れわれは、このコギトの存在を、デカルト的なコギトの瞬間 自己性がなく、人格がなければ、世界もない。けれども、こ性〔無時間性〕の実体論的限界内にとどめておくことができな のような人格への世界の所属は、決して反省以前的なコギト かった。けれども、まさにそれゆえに、われわれはいましが の場で定立されるのではない。世界はそれが認識されるかぎ た得た成果だけで満足することはできないであろう。コギト りにおいて私の世界として認識される、というような言いか が瞬間性を拒否し、自分の諸可能へ向かって自己を超越して たは、不条理であるであろう。それにしても、世界のかかる いくのは、時間的な超出のうちにおいてでしかありえない。 わたくし 《私性》 moiitéは、逃げ去りながらつねに現在的な一つの対自が、《あらぬ〉というありかたで、自分自身の諸可能で 無構造であり、この構造を私は生きるのである。私があるとこあるのは、《時間のうちにおいて〉である。私の諸可能が世 し J ろの自己 ( についての ) 可能的な諸意識は、諸可能について界の地平にあらわれてきて、世界を私の世界たらしめるの 在 は、時間のうちにおいてである。したがって、もし人間存在 の意識であるのであるが、世界がかかる諸可能によってつき 存 まとわれているがゆえに、世界は、私の世界 ( である ) わけが、みずから自己を、時間的な存在としてとらえるならば、 である。世界に、世界としてのその統一とその意味を与える また人間存在の超越の意味が、その時間性であるならば、わ のは、諸可能としてのかぎりにおけるかかる諸可能である。 れわれは、時間的なものの意義を記述し定着したうえでなけ
的ではない。自我は、意識に対して一つの超越的な即自としわれは、過去、現在、未来という時間の三つの次元がもつ意 て、人間的世界の一存在者としてあらわれるのであって、意味を、現象学的記述によってあらかじめ明らかにしておかな 識に属するものとしてあらわれるのではない。自我は自己性ければならない。しかし、それは一時的な仕事であって、そ の超越的現象であるにすぎない。意識は、自分が出現するやの目的はあくまでも全般的な時間性の直観に到達させるとこ いなや、反省という単なる無化的運動によって、自分を人格ろにある。 的ならしめる。或る存在に人格的実存を与えるのは、一つの (<<) 過去 自我を所有することではなくて、自己への現前として対自的 過去はもはや存在しない。存在するのはただ現在だけであ に存在するという事実である。第二の反省的運動としての自 る。そういう考えかたが一般に広くおこなわれている。。フラ 己生は、、 しっそう深い無化作用をあらわしている。対自は、 トンの『テアイテトス』にはじまり近代の心理ー生理学者に 対自の諸可能性のはるか遠方に、手のとどかないところにあ いたる脳髄痕跡説の根底には、この考えかたが横たわってい るかなたの「自己」である。自己性は、対自がかなたにおい る。デカルトもそう考えた。反対に、過去に一種の名誉的な てこの「自己」であらねばならないという自由な必然性であ存在を許す考えかたがある。ベルクソンによれば、或る出来 る。世界とは、人間存在が「自己」へ向かって超出するとき事が過去に向かうとき、この出来事は存在することをやめる にのりこえられるべき諸存在の全体であり、「そこから出発のではない。 この出来事はただ働きかけることをやめただけ して、人間存在が自分の何であるかを自分に告げ知らせるとである。持続は多様な相互浸透であり、過去はたえす現在と ころのものーである。世界はもともと私の世界である。世界組みあわさっている、という。フッセルは問題を逆にして、 がなければ、自己性もなく、人格もない。また、自己性がな現在的な意識冫。、 こよ過去指向という働きがあり、これが過ぎ去 、人格がなければ、世界もない。世界に、世界としての統った意識をひきとどめ、それの消減をふせいでいる、とい 一と意味を与えるのは、対自の諸可能性である。 う。しかし、過去はもはや存在しないというデカルトの考え も、過去は存在するというべルクソンの考えも、ともに過去 第一一章時間性 を現在から孤立させ、過去の本性をそれだけ切り離して考え ている。彼らは意識に即自存在を賦与し、意識を「それがあ 時間的な三次元の現象学 るところのものである」と考えたのである。 対自が瞬間性を拒否し、自分の諸可能へ向かって自己を超「ポールは一九二〇年に高等理工科学校の学生であった」と 越していくのは、時間的な超出のうちにおいてである。われ私が書くときの「あった」était について、現象学的記述を
のーただなかにー存在するもの」として開示される。超越性航跡より以外の何ものでもないし、未来においては、それは を失った対自は、取りかえしのつかないままに存在する。対それ自身の企てでありえないがゆえに、まったく存在しな 自の過去と、対自に対して共通現前的であった世界の過去と 。また、普遍的時間は、それがあらわれるやいなや、すで のあいだには、対自が自己自身の過去であるべきであるとい に超出され、自己に対して外的である。その点で、それは対 う点を除いては、何らの差異も存しない。 一つの過去しか存自の現在と符合する。ただ、一方は「自己に対する外面性ー 在しない。私の過去は、世界のなかにおける過去であり、過であり、他方は「自己を時間化する純粋な脱自ーである。 去的な存在の全体への私の従属である。 私の未来に対して顕示される即自の未来は、私によって現 前されている現実と、密接なつながりをもっている。即自の 普遍的時間の現在的次元は、運動をよそにしては、とらえ られないであろう。運動に関するエレア派のアポリアを避け未来は変様を受けた現在的な即自である。世界の未来は、私 るためには、通過とは何かを考察してみるのがいい。通過すの未来に対して開示される。世界の未来は、事物の恒常性 るとは、或る場所に存在すると同時に、その場所に存在しなや、本質から潜勢にいたるまでのもろもろの潜在性から、成 いことである。したがって運動は、「自己に対する外面性ー りたっている。世界とこのものたちが出現して以来、一つの という関係である。しかしこのような関係は、自己自身に対普遍的未来がそこに存する。しかし世界の未来的な状態は、 して自己自身の関係であるような一つの存在すなわち対自にすべて、世界にとって無差別的な相互外面性のままにとどま 対してしか顕示されない。 これをまったくの即自関係によっ っている。 て定義することは不可能である。「自己に対する外面性」は、 時間は、それが、自己を時間化する脱自的な時間性に対し 存在の一つの病いのごときものである。自体であると同時に てあらわれるかぎりでは、いずこにおいても、「自己に対す 自体の無であるというようなことは、即自的なこのものにと る超越ーであり、「前」から「後」への、また「後」から ってはそもそもありえない不可能性である。「自己に対する「前」への、指し向けである。しかしこの「自己に対する超 外面性」はいささかも脱自的ではない。動体がそれ自体に対越」も、時間が即自のうえでとらえられるかぎりにおいて、 してもっ外面性という関係は、無差別的関係であり、ひとり 時間はかかる超越であるべきであるのでなく、むしろかかる の証人によってしか発見されない。 ところで、普遍的時間を超越が対自によって時間のうちに存在されるにすぎない。時 たんなる現在として規定するのは、かかる運動である。ま 間のもっ粘着力は、自己自身へ向かっての対自の脱自的な企 ず、普遍的時間は、現在的な明減としてあらわれるのであるてすなわち人間存在の動的な粘着力の、客観的な反映であ から、過去においては、それは消失していく線、くずれ去る り、一つの幻影である。もしわれわれが時間をそれだけとし
182 だつであろう一つの論拠は、「対他存在は、対自の存在論的は、歴史化である・・ー・・・なぜなら、私は他者への現前として私 構造の一つではない」ということである。事実、われわれを時間化するからであるーーと同時に、あらゆる歴史の条件 であるから、われわれはそれを歴史以前的な歴史化と呼ぶこ は、一つの帰結を一つの原理からひきだすようなぐあいに、 「対他存在」を「対自存在」から、また逆に「対自存在」をとにしよう。われわれがここでこの出来事を考察するのは、 「対他存在」から、導びき出そうと思っても、不可能である。 そういう資格、つまり同時性の歴史以前的な時間化という資 もちろん、われわれの人間存在は、対自であると同時に対他格においてである。歴史以前的といっても、この出来事が であることを要求するものであるが、しかし、われわれの目史にさきだっ或る時間のうちにあるという意味ではない。 むしろ、こ・ 下の研究は、一つの人間学を構成することをめざしているの そういうことは、無意味なことである。 ではない。あらゆる対他から完全に自由であって、対象とな の出来事は、歴史を可能ならしめることによって自己を歴史 る可能性など微麈もなしに存在するような、一つの「対自」化するような、かかる根原的な時間化の一部をなす、という を考え出すことも、おそらく不可能ではないであろう。けれ意味である。われわれが「対他存在」を研究しようとするの は、事実としてーー。第一の、不断の事実としてーーであっ ども、そういう「対自」は、《人間》ではないであろう。 まの場合コギトがわれわれに顕示してくれるのは、ただ単て、本質的必然性としてではない。 ( 訳注一 ) われわれはさきに、内的な型の否定と、外的な否定とを、 に、「自己の対自存在との結びつきにおいてあるわれわれの 存在は、また、他者にとっても存在する、ということが認め区別する差異を見た。特に、われわれが指摘したように、或 る一定の存在についてのあらゆる認識の根拠は、対自が、自 そしてこのことは、疑いの余地がないー られる。 こ対して顕一小分の出現そのものにおいて、この存在であらぬものとして、 う、一つの事実的必然性である。反省的な意識冫 存在するべきであるときの、根原的な関係である。対自がら される存在は、「対自ー対他」である。デカルト的なコギト のようにして実現する否定は、内的な否定である。対自は、 は、一つの事実、すなわち私の存在という事実についての、 絶対的な真理を肯定することしかしない。同様に、われわれ自分のまったき自由において、かかる内的な否定を実現す る。 がここで用いる幾ぶん拡張されたコギトは、他者の存在およ いっそう適切にいえば、対自は、それが自己を有限なも び他者にとっての私の存在を、一つの事実として、われわれのとして選ぶかぎりにおいて、かかる否定である。けれど ~ に顕示する。それが、われわれの言いうるすべてである。私も、この否定は、ふたたび対自を、対自がそれであらぬとこ ろの存在に、分ちがたく結びつける。そこで、われわれはっ の「対他存在」も、私の意識の「存在への出現」と同様に、 一つの絶対的な出来事という性格をもっている。この出来事ぎのように書くことができた。「対自は、それがその存在に
( 原注 ) は空間と時間とを等質の連続的媒質として利用しているが、 多様性よりも、人間的現実の意味そのものに触れる、より深 しかしそれは時間についても空間についてもまた運動につい い矛盾からはるかに多く由来している。もし人間学が一個の ても疑問をいだいたことはない。 これと同様に、人間につい 有機的全体となるべきものであるなら、この矛盾を克服すべ ての諸学が人間について疑問をいだいたことはなかった。そきであり この矛盾の根源は知のなかにはなく現実自体の れらの学間は人間的事象の発展と関係とを研究し、人間は、 なかにひそんでいるーーみずから自己を構造的で歴史的な人 間学として構成せねばならない。 その内部に個々の事象 ( 社会や集団の諸構造、制度の進化 等 ) が構成される意味的 ( 意味化によって決定される ) 媒質 原注合理的人間学では、方法は秩序づけられ、統合されること のようなものとしてあらわれる。かくて、経験が任意の集団 も可能であろう。 に関する事象の完全な集成を与えたであろうこと、人間学的 この統合の仕事は、もしも、人間的本質とでも呼びうるよ 諸学が客観的で厳密に定義づけられた関係によってこれらの うなもの、すなわち、それにもとづいて究めようとする対象 諸事象を結びつけたであろうこと、をわれわれが仮定すると 物にはっきりした位置を割りあてることができるような決定 しても、あるがままの〈人間的現実〉は、幾何学や、力学の 因の確乎たる総体、を明らかにすることができれば、容易なこ 空間と同様に、われわれには近づきえないものであろう。そ とになるであろう。しかし、この点については大部分の研究 れは、研究がそれを明るみに出そうとねらうのではなく、法者の間では一致した見解があり、ーー共時的な見地から取り 則を構成し機能的な関係や過程を明らかにすることをねらっ 上げられた場合のーー諸集団の多様性と、各社会の通時的な ている、という根本的な理由による。 進化とが、一つの概念論的知の上に人間学を打ちたてること ( 訳注 ) しかし、人間学は、その発展の或る種の契機に於いては、 を禁じている。たとえばミュリア族 les Muria と現代社会 ( 擬人観の組織的拒否によって ) 自分が人間を否定している の歴史的人間とに共通の〈人間性〉を発見することは不可能 こと、或いは ( 人類学者がたえずするように ) 人間を予め想であろう。しかし逆に、現実的な意志疎通と、また場合によ 定してしまっていること、に気がつくという意味では、暗黙っては、相互理解とが、同じくらいかけへだたった存在者の のうちに人間的現実とは何であるかを知ろうともとめている 間に ( たとえば、人種学者と自分たちのゴテュル Gothul に のである。人種学者或いは社会学者ーー・・彼らにとって歴史とついて語るミ = リア族の若者たちとの間に ) 成立するし、ま は筋道を乱してしまう動きに他ならない場合が多すぎる た成立しうる。人間学の動きがあらたにそしてあたらしい形 イデオロギー と、歴史家ーー彼にとっては諸構造の恒久性そのものが不断のもとに、存在の〈思想〉を生み出させるのは、これら一一つ の変化であるーーとの間の本質的相違と対立は、方法の多種の対立的な性格 ( 共通の本生よよ、 イ。オしが、意志疎通はつねに可
は、創造されたものであるから、被造物の偶然性にあずか とどかないところに残る。これが対自のうちに事実性として る。けれども、かかる実体は存在する。かかる実体は、たと残存している即自的なものである。またそれゆえに、対自は い対自をその属性としているにせよ、その積分的全体におい 一つの事実的必然性をしかもたない。、、、 ししカえれば、対自 ては、やはり即自的性格を保っている。デカルトの実体論的 は、自分の意識存在〔意識であること〕étre-conscience もし 錯覚といわれるものがそれである。これに反して、われわれくは存在〔現実存在〕 existence の根拠ではあるが、決して自 にとっては、対自の出現、すなわち絶対的な出来事は、まさ分の現前 présence を根拠づけることはできない。それゆ に、一つの即自が自己を根拠づけようとする努力を指し示す。 え、意識は、自分を存在させないわけにはいかないがい 対自は、存在が自己の偶然性をとり除こうとする一つの試み たん存在するや、自分の存在について、意識は全面的に責任 に相当する。けれども、かかる試みは即自の無化におわる。 を負うことになる。 というのも、即自は、その存在の絶対的な同一性のなかに、 自己 soi という無化的反省的な指し向けを導きいれることな しには、したがってまた対自へと転落することなしには、自 Ⅲ対自と、価値の存在 分を根拠づけることができないからである。それゆえ、対自 は、即自の減圧的解体に相当する。即自は、自分を根拠づけ 人間存在の研究は、コギトから始められなければならな ようとするその試みのうちに、自己を無化し、自己を失う。 しかし、デカルト的な ^ 私は思考する》は、時間性の瞬 したがって、対自を属性とするような実体などというものは 間的な〔無時間的な〕とらえかたにおいて、考えられている。 存在しない。思考を生み出すが、その生み出すはたらきのうわれわれは、コギトのふところに、かかる瞬間性を超越する ちに自己を使いはたすことのないような、実体などというも手段を見いだすことができるであろうか ? もし人間存在が のは存在しない。ただ、対自のうちには、いわば存在の思い 「私は思考する」の存在にかぎられるならば、人間存在は瞬 無 出のごときものが、その「世界への理由づけられない現前」 間的な真理をしかもたないことになるであろう。たしかに、 ととして残っている。即自存在は自己の無を根拠づけることは デカルトの場合には、人間存在は一つの瞬間的な全体であ 在できるが、自己の存在を根拠づけることはできない。即自存る。というのも、人間存在は自分では、将来についてのいか 存在は、その減圧において、自己を一つの対自へと無化する。 なる抱負をも立てないからである。また、人間存在を或る瞬 そしてこの対自は、対自としてのかぎりで、自己自身の根拠 間から他の瞬間に移行させるには、一つの連続的《創造》の となる。けれども、その即自的偶然性は、依然として、手の 行為が必要であるからである。けれども、そもそも瞬間の真 っ