241 存在と無 ちに、全体的に自己を表現するのと、やや似ている。そうだ に、経験的な選択の「かなた」として、その無限の超越とし とすれば、われわれは、主人公の一つ一つの傾向、一つ一つ て、つねに経験的な選択から現われ出るはすのものである。 の素行のうちに、それを超える一つの意味作用を発見しなけそれゆえ、私が川でポートを漕いでいるとき、私は ればならない。主人公が或る一人の女に対して自己を歴史化 においても、いま一つの世界においてもーーポートを漕ぐと するのは、日付のはっきりした特殊なこれこれの嫉妬におい いうこの具体的な投企より以外の何ものでもない。けれど てであるが、この嫉妬は、それを解読しうる者にとっては、 も、この企てそのものは、私の存在の全体としてのかぎりに その主人公が自己を一つの自己自身として構成するときの、 おいて、個別的な種々の事情のもとにおける私の根原的な選 世界に対する全体的関係を、意味する。 いいかえれば、この択を表現している。この企ては、それらの事情のもとにおけ 経験的な態度は、それ自身、《或る叡知的な性格をもっ選択》る全体としての私自身の選択より以外の何ものでもない。そ の表現である。そうはいっても、それは別に神秘的なことがれゆえ、われわれは、或る特殊な方法によって、この企ての らではない。 またそこには、われわれが単にそれを思考うちに含まれるかかる根本的な意味、この企ての「世界ー内ー することしかできないような或る叡知的な次元があるわけで存在」の個人的な秘密でしかありえないようなかかる根本的 な意味を、引き出すように心がけなければならない。しこが もない。むしろわれわれは、ただ主人公の経験的な存在次元 だけを、そこにとらえ、そこに把握するであろう。 しい、カ、え って、われわれが或る主人公の種々の経験的な諸傾向のすべ れば、この経験的な態度が「叡知的な性格をもっ選択ーを意てに共通する根本的な企てを発見し引き出そうとこころみる 味するのは、この態度が、それ自身この選択であるからであのは、むしろそれらの諸傾向を比較することによってであっ る。事実、われわれがあとで見るであろうように、叡知的なて、それらの諸傾向の単なる総和もしくは再構成によってで 選択の特徴は、この叡知的な選択が、具体的経験的なおのおはない。それらの諸傾向のおのおののうちに、人格は全体と のの選択の超越的な意味作用としてしか存在しえないという して存在する。 ことである。 しいかえれば、この叡知的な選択は、まずはじ もちろん、可能的な人間が無限に存在すると同様に、可能 めに、それが何らか無意識的なもののうちにおいて、もしく 的な企ては無限に存在する。それにしても、もしわれわれが は思惟的な次元において行われ、ついで、観察されうるこれそれらの企てのあいだに共通する何らかの特徴を認め、それ これの態度のうちにあらわれる、というようなものではな らの特徴をいっそう広いカテゴリーに分類することをこころ 。叡知的な選択は、経験的な選択に対して、存在論的優位みなければならないとすれば、ます第一に、われわれにとっ をもつものでさえもない。むしろ、叡知的な選択は、原理的ていっそう研究しやすいもろもろの場合について、個別的な
この事実からして、、 しずれの精神分析も、人間を世界のうち な選択を、それそれのしかたで象徴化しており、またそれと 2 同時に、おのおのの人間的行為は、その偶因的性格やその歴において考察する。そして、或る人間が何であるかについて、 この根本的な選択を覆い隠しているがゆまずこの人の状況を考慮にいれずにこの人に問いかけること 史的機会のもとに、 ができる、などとは考えない。いずれの精神分析的研究も、 えに、われわれは、それらの行為を比較することによって、 主人公の生活を誕生からいまわのきわにいたるまで再構成し それらの行為がいずれもそれそれ異なるしかたで表現してい ようとする。両者はいすれも、見いだしうるかぎりのすべて る唯一の顕示を、出現させるであろう。この方法の最初の組 描は、フロイトおよびその弟子たちの精神分析によって、わの客観的資料、たとえば書簡、証一一一口、内面的日記、あらゆる・ れわれに提供される。それゆえ、ここでは、実存的精神分析種類の《社会的》情報などを、利用する。両者が復原しよう が、いわゆる精神分析から、いかなる点で影響を受けておとするところのものは、単なる一つの心的出来事であるより も、むしろ、幼年期の決定的な出来事と、この出来事のまわ 、いかなる点で根底的に異なっているかを、いっそうはっ 一対のものである。ここで りにおける心的結日作用という、 きりと示すのが適当である。 も、やはり間題なのは一つの状況である。おのおのの ^ 歴史 いすれの精神分析も、《心的生活》の対象的に認知されう るすべての表出と、まさに人格〔その人自身〕を構成する根本的》事実は、この観点からすれば、心的発展の要因と見られ . 的全体的構造との関係を、象徴するものと、象徴されるものると同時に、この心的発展の象徴とも見られる。なぜなら、 との関係と見る。いずれの精神分析も、遣伝的性向、性格と歴史的事実は、それだけとしては、何ものでもないからであ ) いうような、原初的所与は存在しないと考える。実存的精神る。歴史的事実は、それが受けとられるときのしかたに応じ てしか、働きかけない。また、それを受けとるときのこのし 分析は、人間的自由の根原的な出現より以前の何ものをも、 かたそのものは、個人の内的気質を象徴的に表現する。 認めない。それに反して経験的精神分析の主張するところに すれも、状況のラ 経験的精神分析と実存的精神分析は、い よれば、個人の原初的な気分は、その人の歴史より以前の処 ちにおける一つの根本的態度を探究する。この態度は、あら・ 女的な蜜蝋である。リビドーは、その具体的な定着のそとに おいては、何らかのしかたで何ものかのうえに自己を定着しゆる論理に先行するがゆえに、単なる論理的な定義によって うる一つのたえざる可能性より以外の何ものでもない。いずは言いあらわされえないであろう。それは、特殊な綜合の法 則にしたがって再構成されるのでなければならない。経験的 れの精神分析も、人間存在を一つのたえざる歴史化と見る。 そして、静的固定的な所与を発見するよりも、むしろ、この精神分析は、コンプレックスを規定しようとこころみるが、 これは、その名称そのものからして、それに関係のあるすべ 歴史の、意味、方向、有為転変を、あらわにしようとする。
249 存在と無 ての意味の多価であることを指示している。実存的精神分析っては、意識と拡がりを同じくするものである。けれども、 は、根原的な選択を規定しようとこころみる。この根原的な根本的な企てが、当人によって十分に体験 vécu され、かか 選択は、世界に面しておこなわれるものであり、世界のなか るものとしてまったく意識的であるにしても、それは決し て、この根本的な企てが同時に当人によって認識 connu さ における身構えの選択であるから、コン。フレックスと同様、 全体的である。根原的な選択は、コン。フレックスと同様、論れなければならない、という意味ではない。むしろ、まった 理に先行する。論理や諸原理に直面して、人格〔その人自身〕 くその反対である。おそらく読者諸君は、われわれが本書の ( 沢注 ) の態度を選ぶのは、この根原的な選択である。それゆえ、論緒論で、意識と認識とを区別するのに気を配ったことを、憶 えておられるであろう。なるほど、われわれも見たように、 理にしたがってこの根原的な選択に問いかけるなどというこ とは、問題になりえない。 この根原的な選択は、論理以前的反省は、一つの準ー認識と考えられうる。けれども、反省がお のおのの瞬間にとらえるところのものは、反省のつかむ具体 な綜合のうちに、実存者の全体を集約しており、かかるもの として、それは、無数の多価的な意味の、帰趨中心であ的な行為によってーーしばしば同時に幾つものしかたで る。 象徴的に表現されるままの、対自の企てそのものではない。 反省がとらえるところのものは、具体的な行為そのものであ われわれの二つの精神分析は、い ずれも、自己自身につい る。 てのそれらの訊問に着手するのに被実験者が特権的な位置に しいかえれば、それは個別的な欲求であり、この欲求は あるとは考えない。両者は、 : しすれも、反省の所与や他者のその特徴たる込みいった錯綜のうちに日付をもっている。反 証言を記録としてとりあっかうことによって、厳密に客観的省は、象徴と象徴化とを、同時にとらえる。なるほどたしか に、反省は、全面的に、根本的な企てについての存在論以前的 な方法であろうとする。もちろん、被実験者は、自己自身に ついて、精神分析的な訊問をおこなうことができる。けれど な一つの了解によって構成される。 しいかえれば、反省が反 も、彼はただちに、自己の特殊な位置のあらゆる特権を棄て省としての非措定的な自己意識でもあるかぎりにおいて、反 なければならないであろう。そして彼は、まさしく自分が他省は、この同じ企てであるとともに非反省的な意識でもある。 者であるかのごとくに、自己に問いかけなければならないでけれども、だからといって、反省は、象徴されるこの選択を あろう。事実、経験的精神分析は、原理的に被実験者の直観切り離し、それを概念によって定着させ、それだけを光のた だなかに置くために、必要な手段や技術を意のままにするこ のとどかないところにある無意識的な心的過程の存在という 要請から出発する。実存的精神分析は、無意識的なものとい とができるわけではない。反省は、或る大きな光によってつ らぬかれているが、この光が照らすところのものを表現する うこの要請をしりぞける。心的事実は、実存的精神分析にと
245 存在と無 あらわすものであり、そこから出発して人間は自己の何であ欲求は、今度は、われわれの意識的生活のよこいとをなす虹 るかを自己に告げ知らせる。人間であるとは、神であろうと数の具体的な欲求の意味として、あらわれる。それゆえ、わ することである。ある、よ、、、、 し冫ししカえれば、人間は根本的れわれはきわめて複雑な象徴的建築のまえに立っているわけ に、神でありたいという欲求である。 であり、この建築は少なくとも三段階になっている。経験的・ 訳注「心情に感じられる神 [ Dieu sensible au cæur は、。ハス な欲求のうちに、私は、一つの具体的根本的な欲求の象徴化 カルの有名なことば。「パンセ」二七八。 を見分けることができるが、この具体的根本的な欲求は、 その人自身であり、その存在において存在が間題であること けれども、もしそうだとすれば、もし人間がその出現そのをその人自身が決定したときのしかたをあらわすものであ ものにおいて、あたかも自己の限界へ向かうごとく神へ向か る。しかも、この根本的な欲求は、今度は、「存在欲求」一 わせられているならば、もし人間が神であることをしか選ぶ般という一つの抽象的、意味作用的な構造を、世界のうち・ ことができないならば、自由はどうなるのか ? ・そう反問すに、その人自身をとりまく独自の状況のうちに、具体的にあ る人もあろう。なぜなら、自由とは、自己自身の諸可能性をみらわす。そしてこの構造は、その人自身のうちにおける人間 ずから創造する一つの選択より以外の何ものでもないはずで存在と考えられなければならない。まさにそれこそは、彼と」 あるのに、ここでは、人間を《規定する》ところの神であろ他者との共通性 communautéをなすところのものであり、 うとするこの原初的な企ては、一つの人間的 ^ 本性》 nature 「単に、比較されえないもろもろの個別性があるばかりでな もしくは ^ 本質〉 essence こ、 冫かなり近似しているように思 、人間の一つの真理がある」という主張を可能ならしめる、 われるからである。それに対して、われわれは、まさにこう ところのものである。絶対的な具体性、完全性、全体として 答えるであろう。かりにこの欲求の意味が、最後の拠りど の現実存在は、それゆえ、自由な根本的欲求すなわちその人 ころにおいて、神であろうとする企てであるにしても、この自身に属する。経験的な欲求は、それの一つの象徴化でしか 欲求は決してこの意味によって構成されるのではない。むし ない。経験的な欲求は、根本的な欲求を指し示し、根本的な ろ反対に、 この欲求は、つねに、自己の諸目的の個別的な案欲求から自己の意味を引き出してくるが、それ自身は依然と 出である。事実、それらの目的は、個々の経験的な状況から して部分的であり、還元可能なものである。な。せなら、経験 出発して追求される。しかも、環境を状況として構成するの的な欲求は、それ自身によっては理解されえない欲求である は、まさにこの追求である。存在欲求は、つねに、存在のし からである。他方、存在欲求は、その抽象的純粋性において かたの欲求として実現される。しかも、存在のしかたのこの は、根本的具体的な欲求の真理であるが、しかし現実として
は、この統計を計算によって生産の統計にむすびつければ の用語でしか考えられず、ただ、疎外された実存として、物 ( 各生産総合体に於ける結核の症例の数に比例した生産の量化された人間的現実として、了解されることができるばかり 的変化 ) 事足りる。しかしこの法則、宣伝ポスターのうえに である。この対立関係をのりこえる契機は、知のなかにその 読みとることができたまさにその法則は、結核患者に全面的ド ョ定立的基盤として当然了解をふたたび統合するべきであ に閉め出しをくわせ、病症と工場生産の数量との間の媒介者る。別の言葉でいえば、人間学の基盤は実践的知の対象とし としての基本的役割までも拒否することによって、あたらし てではなく、その実践の一契機として知を生む実践的有機体 い二重の疎外現象を露呈している。すなわち社会主義的社会としての、人間自体である。そして、具体的実存として、人間 に於いては、その成長のある時期には、労働者は生産のためを人間学の内部に、その不変の支えとして統合することは、 に〔人間から〕疎外される。また実践的理論の秩序のなかで人必然的に哲学の〈現実世界化〉の一段階としてあらわれる。 間学の人間的基盤が知によって併呑されてしまう。 この意味で人間学の基盤は ( 歴史的にも論理的にも ) この統 まさしくこの人間の排除、マルクス主義的知からの人間排合に先立っことはない。もしも実存がその自由な自己理解に 除こそ、知の歴史的全体化の外側に於いて、実存主義的思惟於いて疎外とか搾取とかの認識 ~ こ先行するのであれば、実践 の復活をもたらさねばならなかった所以である。人間的学問 的有機体の自由な発達は歴史的にその現在の堕落や動きのと が非人間的なもののなかで凍りついてしまい、人間的現実がれぬすがたに先行したのだと考えねばならぬだろう ( そして その学間の外で自己を了解しようとっとめるのである。しか このことが確認された場合でさえ、この歴史的優先性はわれ し、今度は、対立は直接に綜合的のりこえを要請するようなわれの理解をほとんど進歩させることはないであろう。な。せ 性質のものである。マルクス主義は、もし自己のうちにその なら消えてなくなった社会の回顧的研究は、今日、原状復元 基盤として人間そのものをふたたび統合しなければ、非人間 の技術の照明のうちに、われわれを東縛している疎外を通し 的人間学に堕してしまうであろう。しかし実存そのものに他て行われるのであるから ) 。或いは、もしも論理的先在性に 爿ならぬこの了解は、同時にマルクス主義の歴史的運動、その こだわるとすれば、投企の自由性は現代社会の疎外のもとで の運動を間接的に照明する概念 ( 疎外、その他 ) を通して明ら も十全な現実性をそなえて再発見されえられるであろうし、 かになり、また同時に社会主義的社会のもっ矛盾から生まれまた人間は具体的でその自由を内包した実存から、弁証法的 て、人間に遣棄のすがた〔被投性〕 délaissement すなわち実に、現代社会のなかでその実存を変貌させて行く種々様々な 存と実践的知との通約不可能性、を開示してみせるあたらし変質現象へと移行して行くことができる、と考えねばならな い疎外現象を通して明らかになる。この遣棄はマルクス主義 いだろう。このような仮定は馬鹿けている。たしかに、人は
や嫉妬は、ひとりの女を所有したいというただそれだけの欲ない。存在欲求は、個々の具体的な企てや欲求のうちにその 望に還元されるものではなく、その女をとおして世界全体をつど全面的に姿をあらわす。ところで、対自が根原的に欲求 独占しようとめざすものである。これが、スタンダール的なするところの存在は、自己自身に対して自己自身の根拠であ クリスタリザシオンの意味である。ひとりの人格は一つの全るような一つの即自である。対自は、対自のままにとどまり 体であるから、そこに発見されるもろもろの欲望や傾向を寄ながら、「あるところのものであるような一つの存在」であ せ集めてその人の人格を再構成しようとしてもためである。 ろうと企てる。対自が根原的にめざしているのは、「即自ー むしろ反対に、欲望や傾向の一つ一つのうちに、人格は全体的対自」というこの不可能な理想である。われわれが神と名づ に自己を表現する。個々の企てのうちには、個別的な種々のけうるのはこの理念である。その意味で、人間は、神である 事情のもとにおける当人の根原的な選択があらわれている。 うと企てる存在である。 ハイデッガーは、人間の投企を、本来的と非本来的とに分 われわれが「実存的精神分析」と呼ぶところのものは、経 けたが、それらをい 0 そう根本的な投企へ向かって超出する験的な諸行為のうちに、真に還元不可能なものを読みとる方 ことがかんじんである。一つの対自の根原的な企ては、この法である。人間は一つの全体であ 0 て、一つの集合ではな 対自自身の存在をしかめざすことができない。対自とは、 、というのが、実存的精神分析の原理である。実存的精神 「存在投企という形のもとで、その存在において、その存在分析は、たしかにフロイト流の経験的精神分析から影響を受 が間題であるような存在ーである。対自は、存在論的には けているが、両者のあいだには根底的な差異がある。いずれ 「存在欠如」としてあらわされる。価値は「欠如を蒙むる存の精神分析も、心的生活の表出と、人格の全体的構造との関一 在全体ーとして対自につきまとう。それとともに、可能は、 係を、象徴するものと、象徴されるものとの関係と見る。ま 「対自の欠如分ーとして対自に属する。対自は、自分が欠如 た、両者はいずれも状況のうちにおける一つの根本的態度を であるがゆえに選ぶ。自由は欠如と一つのものでしかない。 探求する。しかし、実存的精神分析は、人間的自由の根原的 われわれは存在投企に到達するとき、もはやそれ以上にさか な出現より以前の何ものをもみとめない。実存的精神分析 年 のぼることができないで、明らかに還元不可能なものに出会は、無意識的なものというこの要請をしりそける。心的事実 う。それゆえ、経験的に観察されうる欲望や傾向のおのおの は、実存的精神分析にとっては、意識と拡がりを同じくす 存 のうちに表現される根原的な企ては、存在投企であり、存在る。実存的精神分析は、経験的精神分析と異なって、リビド 欲求である。とはいえ、存在欲求がまずはじめに存在して、 ーとか権力意志というような心理ー生物学的な残滓を許さな ついでそれが個々の具体的な欲求になってあらわれるのでは 。実存的精神分析は選択にまでさかのぼるが、かかる選呎
475 解説 らの脱出である。人間のこの具体的現実的な姿を見失うと、 実践は、歴史的弁証法の唯一の具体的な基礎である。この段 たんなる事物としての人間しか、歴史に登場してこないこと階における弁証法は「構成する弁証法」として特徴づけられ になる。人間は経済的諸条件によって全面的に決定されてし る。しかし人間と人間とのあいだに相互性という人間関係が まうことになるし、条件反射の総計でしかないことになる。 成立するためには、主体的実践が自己を疎外して「惰性的ー しかし、相反する分子力の衝突からは、歴史は生じない。企実践」とならないわけにいかない。たんなる集合としての社 てのないところ、超出のないところ、要するに実践のないと会的存在は、階級的存在をもふくめて、この「惰性的ー実践」 ころに、歴史はない。人間は、何よりもます、一つの状況の に属する。そこでは人間は「自己外ー事物内ー存在ーでしか 超出によって、 いいかえれば、自己がそれたらしめられたと この段階は、個人的実践の「構成する弁証法」に対し ころのものを以て、みすから何をつくることができるかによて、「反ー弁証法」として特徴づけられる。しかし真の共同 って par ce qu'il parvient faine de ce qu'on a fait de lui 体としての集団的実践を実現するためには、「甯性的ー実践」 特徴づけられる。 を否定して、自由と必然性とがもはや一 - つのものであるよう 『生けるメルロー さら ーポンテイ』のなかで、サルトルは、自分と な「構成される弁証法」に到達しなければならない。 彼とのあいだの相違点の一つに触れて、こう言っている。「私 に、集団から歴史へ移行することによって、弁証法的理性の はいつでも《真理》は一つであると思ってきたし、いまでも全体化は、一つの真理にいっそう近づくことができる。 そう思っている。それに反してメルロー ーポンティは、数多 マルクスは『ユダヤ人問題』のなかで、「あらゆる解放は、 くの展望をもっことに自己の安心感を見いだしていた。彼は人間的世界を、その諸関係を、人間自身へ復帰させることで そこに存在の多面性を見ていたのである。」サルトルは、『弁ある。現実の個別的人間が、個別的人間のままで、自己の経 証法的理性の批判』を通じて、一つの全体的な人間学をうち験的な生活において、自己の個人的な労働において、自己の たてることをめざしている。そのためには、人間についての個人的な諸関係において、類的存在 Gattungswesen となっ 〈一つの真理》が存在するのでなければならない。経験的な たときはじめて、人間解放は成就される」と言っているが もろもろの真理の集合ではなく、それらの諸真理を一つの全サルトルの意図は、あくまでも人間を見失わない実存主義の 体性にまで統合する全体化的な真理を得させてくれるもの、 立場に立ちながら、ドグマ化した現代のマルクス主義を超え それこそは彼が弁証法的理性と呼ぶところのものである。彼て、マルクスのこの人間解放を、自己の企てとして生かそう はまず個人的実践がすでにその全体化と否定作用とによってとするところにある。 弁証法的構造をもつものであることを明らかにする。個人的
原注この場合、誤謬は、理解〔了解〕が主観的なものに〔意識は間接的で理解力のある認識のうえに直接的で概念論的な訒 を〕送りかえすと信ずることであろう。なぜなら主観的なものと識を築きながらしかも決して具体的なもの、すなわち歴史を 客観的なものとは、知の対象物としての人間の、対立的で補足的 はなれることのない、或いはもっと精確にいうならば、知っ な二つの性格なのだから。実は間題は、行動であるかぎりに於い たものごとを理解する、ただ一つの同じ運動である。このよ ての、すなわちそれが生み出す諸結果 ( 客観的なものと主観的な うに、知解をたえず理解のなかに溶解することと、また、逆 もの ) とは原理的に別のものとしての、行動それ自体なのである。 に、知解のなかに理性的非知の次元として理解を導入するた 訳注実践的惰性態 le pratico-inerte はサルトルの造語であり、 めに、知のさ中にたえずふたたび降りて行くこととは、問い 「弁証法的理性批判」の記述の〈鍵となる言葉〉の一つである。 複雑な内容を有しており、ここにその内容を誤解を生ずることな かける者と、問いかけと、問いかけられるもの、とがその内部・ しに解説することは不可能である。 では一体をなしている一個の学問の両義性そのものとなる。 以上の考察によって、なにゆえわれわれがマルクス主義哲 . しかしこの反省的操作は、もしその内容がひとり立ちで存 学とのふかい一致を公言しながら同時にとりあえず実存主義〕 在することができ、具体的、歴史的で、状況によって厳密に しささかも的思想の自律性を維持できるのか、ということを理解するこ 限定された行動からはなれ去ることができれば、、 とができるだろう。結局マルクス主義が今日、歴史的であり くり返されることを必要とせず、変貌して形式的知となるだ ろう。〈実存の思想〉の真の役割は、いまだかって存在した同時に構成的でもある可能性をもっただ一つの人間学として 現われていることにはうたがいがない。同時に、それは、人・ こともない抽象的な〈人間的現実〉を記述することではなく、 間を、その全体性に於いて、すなわちその条件の唯物性をも 人間学にたえず探究の過程としての実存的次元を呼びもどす ととして取り上げるただ一つの人間学である。人間学にはこ ことである。〔現在〕人間学は対象物だけを研究している。 れ以外の出発点を提示することはできない。なぜならそんな ところで人間とは、それを通して対象化一 e devenir-objet が 人間に及ぶ存在である。人間学は人間的対象物の研究に対象ことをすればその研究の対象として別の人間を提供すること になってしまうだろうから。マルクス主義が、その意に反し 化の種々様々な過程の研究を置きかえるとき始めてその名に 相応しいものとなるだろう。人間学の役割は理性的で理解カてのことではあるが、その探究から、問いかける者を排除し しⅢいかけられるものを絶対的な知の対象としてし に富む非・知のうえにその知を築くことであり、すなわち歴てしま、 史的全体化は人間学が自己について無知であるかわりに自己まう傾向をもっかぎり、われわれはマルクス主義的思惟の連 動の内部に、断層のようなものを見出すであろう。われわれ を理解するとき始めて可能になるだろうということである。 自己を理解し、他人を理解し、存在し、行動すること、これの歴史社会を記述するためにマルクス主義的探究が活用して
り、個別化されない超越である。われわれがそのような「主て発見するのでなければならない。それゆえ、他人たちによ 観ーわれわれ」に属していることを、われわれに告げ知らせ ってとりまかれるのでなければならない。 この経験において るのは、世界である。ことに、世界のなかにおけるもろもろ は、私は、他人たちの身体を、私自身の身体と相関的なもの の製造品、設備、機関などの存在である。たとえば、交通機として、ただ側面的に、非定立的に意識するにすぎない。 関や製造品は、私の超越の姿を、誰でもいい任意の超越とし それゆえ、「主観ーわれわれーという経験は、きわめて不 て、私に指し示す。 安定なものであり、気まぐれに生じては消え去る。われわれ けれども、そのような経験は、心理的な秩序に属するもの は「対象ー他人たち」の面前に、もしくは「まなざしを向け であって、存在論的な秩序に属するものではない。「主観ーわるひとーの面前に、とり残される。たしかに、 この経験は、 れわれーの経験は、一つの単独の意識のうちにおけるたんな根原的な相剋のさなかに構成される暫定的な緩和としてあら、 る心理的主観的な出来事であり、現実的な一つの共同存在にわれることはある。しかし、相互主観的な全体が一体になっ 対応するものではない。なるほど、「主観ーわれわれーの経 た主観性として自己を意識するであろうような一つの「人第 験は、もろもろの超越個体の根原的な相剋を停止させるよう的なわれわれ」は、それを望んだところで、むだであろう。 な絶対的形而上学的な統一を、われわれに希求させることも あろう。しかし、人類を地上の主人たらしめる理想的な「主 対自は、ただたんに、自分がそれであるところの即自に対 観ーわれわれ」は、望ましい統一のたんなる象徴であるにすする無化としてのみ出現するのではない。対自の無化的逃亡 ぎない。 は、他人が出現するやいなや、即自によって取り戻され、即・ さらに、「主観ーわれわれ」という経験は、原初的な経験自のうちに凝固させられる。対自のこの第一一の相貌は、対自 ではありえない。なぜなら、この経験をもっためには、あらの外部をあらわすものである。それにしても、対自は、たん に、もろもろの存在者の存在を問い求める存在であるばかり かじめ他者の存在を承認しているのでなければならないから である。もろもろの設備や製造品は、その本質的な構造によでなく、存在者としてのかぎりにおける存在者のうえに、存 在的な変様をおこさせるような存在でもある。「働きかける」 って、すでに、私を他人の現前に置く。私が私自身、無差別 agir というこの不断の可能性は、明らかに、対自の本質的 的な超越として私を実感しうるのは、他人が私を無差別的な 超越としてあらかじめ設定しているからである。また、自己な特徴の一つである。しからば、そもそも、働きかけると 。いかなることであるか ? ・ を無差別的な超越としてとらえるためには、何らかの人間的 な流れのふところにおいて、自己を「誰でもいい誰か」とし
こみたいとねがう。 いる諸観念自体ーーすなわち、搾取、疎外、物神化、物化、 かくて実存の理解がマルクス主義的人間学の人間的基礎と 等ーーが、まさに、最も直接的に実存的構造の方へと〔意識 を〕送りかえす観念なのである。実践の観念そのものおよびしてあらわれる。しかしながら、この領域では、帰結のひど い混乱を警戒する必要がある。結局、知の秩序のなかでは、 弁証法の観念はーーお互いに不可分にむすびついているが 原理に関する認識や学問的体系の基礎は、それらのものが 知についての主知主義的考え方と矛盾するものである。 大概の場合そうであるがーー経験的決定因の後に明らか そして、原理的な点に関していえば、労働は、人間によるそ になった場合でさえ、最初に陳述される。そして、土台を同 の生命の再生産と同様に、もしもその基本的構造が〈前方へ めた後に建物をたてるのと同じような仕方で、それから知の のー投出〉〔投企〕でないなら、よ、、、 ーし力なる意味も保ちえない。 このような欠乏症ーーそれは事件にかかわるもので教義の原決定因が演繹される。しかしこれは基礎そのものが認識であ 理そのものにかかわるものではないがーーが原因で、実存主るからであり、それから経験によってすでに承認ずみのいく 義は、マルクス主義の内部にあって、また、同じ与件と同じ つかの命題を演繹できるのは、実はそれらの命題をもとにし 知をもととしていながら、 たとえ実験としてでもーー歴てそれが最も概括的な仮設として帰納されたからである。こ 史の弁証法的な解読を自分流にこころみなければならない。 れに反して、歴史的、構造的人間学としてのマルクス主義の 基礎は、人間自身であり、この場合、人間的実存と人間的な それはなに一つことあたらしく疑問視するわけではないが、 ただし、まさしくマルクス主義のものではなく、外部からこ ものの了解とは不可分である。歴史的にみれば、マルクス主 の全体的な哲学のなかに持ち込まれた機械論的決定論につい 義的知はその発達の或る一契機に於いて基礎を生み出し、そ ては別である。実存主義もまた、生産様式と生産関係をもと の基礎は仮面を被ったままあらわれた。それは理論の実践的 として、人間をその階級と、その階級と他の階級との間の対根拠としてではなく、すべての理論的知識を原理的にしりそ 立矛盾との中へ位置づけようとする。しかしそれはこの〈位けるものとしてあらわれている。同様に、実存の独自性はキ 題ュアシオン 置づけ〉を実存、すなわち了解、をもととしてこころみるこ エルケゴールの場合、原理的に、ヘーゲル的体系の ( すなわ 。ドしカける者として、」、、 のとができる。それよ引、、 しカけられるもち、全体的知の ) 外に身を持するものとして、いささかも思 法のおよび問いかけとみずからなる。それは、キエルケゴール惟されることはできず、ただ信抑の行為のなかで体験される がヘーゲルにしたように、普遍的知に個人の非理性的独自性ことができるだけのものとしてあらわれた。その場合、知の を対立させはしない。けれどもそれは知そのものおよび概念内部へその基礎として、知られていない実存をふたたび組み の普遍性のなかに人間的事件ののりこえがたい独自性をもち入れるという弁証法的手続きは、こころみられることができ シチ