いう点にある。圧迫する階級の成員は、《主観ー彼ら》とい ^ 体験〉 Erlebnis である。 う一つの対象的な総体としての自分の前に、圧迫される階級 それゆえ、「われわれーという経験は、なるほど現実的な の全体を見ているにもかかわらず、それと相関的に、自分は経験ではあるにしても、さきのわれわれの研究によって得ら 圧迫する階級の他の成員たちとともに存在しているのだとい れた諸結果を変様させるような性質のものではない。「対象 ! う自分の側の共同性を、実感することができない。 これら一一われわれ」についてはどうか ? それは、直接、第三者に体 つの経験は、決して相互補足的なものではない。事実、圧迫存する。 いいかえれば、それは、私の「対他ー存在ーに依存 . される集団を「用具ー対象ーとしてとらえるためには、まする。「対象ーわれわれーが構成されるのは、私の「対他ー た、みずから自己を、かかる集団の「内的ー否定ーとして、 外部ー存在」を根拠としてである。「主観ーわれわれ」につ すなわち単に公平な第三者として、とらえるためには、圧迫 いてはどうか ? それは、他人としてのかぎりにおける他人 される集団の面前に、ただひとりで存在するだけで十分であの存在があらかじめ顕示されていることを、何らかのしかた る。ただ、圧迫される階級が、反抗あるいはその勢力の急激で前提する一つの心理的経験である。それゆえ、人間存套 な増大によって、圧迫する階級の成員たちの面前に、自己をは、「他人を超越するか、もしくは、他人によって超越され 〈まなざしーひと》として定立するときにはじめて、しかも、 るか」というこのディレンマから脱出しようとこころみて ただそのときにのみ、圧迫者は、自己を「われわれ」としても、むだである。意識個体相互間の関係の本質は、共同存在 . 体験するであろう。けれども、この体験は、恐怖と羞恥のう Mitsein ではなくて、相剋 conflit である。 ちにおいて、「対象ーわれわれ」として、生じるであろう。 対自と他人の対自との諸関係についてのこの長い記述の結。 それゆえ、「対象ーわれわれ」という体験と、「主観ーわれ末において、われわれは次のような確信を得た。対自は、た われ」という経験とのあいだには、何らの対称も存しない。 だ単に、自分がそれであるところの即自に対する無化とし 前者は、一つの現実的な存在次元の顕示であり、「対他 [ に て、また、自分がそれであらぬところの即自に対する内的否 . この無化 . ついての根原的な体験を単に内容的に豊富ならしめたものに定として、出現する一つの存在であるのではない。 的逃亡は、他人が出現するやいなや、完全に、即自によって 相当する。後者は、人工の加えられた一つの宇宙のなかに、 また一定の経済的な型をもった一つの社会のなかに没入して取り戻され、即自のうちに凝固させられる。ひとり対自のみ いる一人の歴史的な人間によって、実感される一つの心理的が、世界に対して超越的である。対自は「何ものでもないも 経験である。「主観ーわれわれ」という経験は、特殊な何もの」 rien であるが、この「何ものでもないもの」によって、・ のをも顕示しはしない。それは、まったく主観的な一つのもろもろの事物がそこに存するようになる。しかるに、他人 シメトリ
のうちにおける同様の相関的な経験を、ふくむものではない。 の偶然的な一つの出来事である。世界からやって来る個々の 、また、そういうわけで、「主観ーわれわれーについての私の経事情は、「われわれ」であるという印象を、この無差別的な 験は、かくも不安定である。なぜなら、この経験は、世界の超越の体験に付加することができる。しかし、いずれにして ただなかにおけるもろもろの個別的な組織を前提とするから も、ここで問題になっているのは、ただ単に、私だけを拘東 であり、それらの組織とともに消失するからである。実のとするまったく主観的な一つの印象でしかない。 訳注一アヴニュ・ド・ラ・モット・。ヒケとプールヴァ ころ、世界のなかには、私を「誰でもいい誰か」 quelconque ド・グルネルとの交叉地点にある地下鉄の駅名。さきに「ラ・モ として指示する一群の形成物が存在する。まず、すべての道 ット・。ヒケ」と言ったのと同じ。 具がそれである。そこには、本来の意味の道具から、交通機 訳注一一 canaliser, canalisation は、広い意味での「道具ーを通 関、商店、等々を経て、「エレヴェーター ガス、水道、電 じて、私の諸可能性または私の超越を、誘導的に発現させること 気設備付アパート」にいたるまでの、すべてのものがふくま をいう。したがって、この「物質的な誘導ー les canalisations ma ・ れる。一つ一つのショウ・ウインドウ、一つ一つの陳列ケー térielles とは、「もろもろの事物を通じての誘導的発現」という スは、無差別的な超越としての私の姿を、私に指し示す。さ 意味である。 らに、他人たちと私との職業的技術的な諸関係が、私をやは り「誰でもいい誰か」として告げ知らせる。キャフェのポー ( 一 l) 「主観ーわれわれ」という経験は原初的な経験では イにとっては、私は「お客」であり、切符切りの駅員にとつありえないであろう ~ この経験は、他人たちに対する一つの ては、私は「地下鉄利用者」である。最後に、私が腰かけて根原的な態度を構成することができない。というのも、この いるキャフェのテラスの前で突発した街路上の事件は、私経験は、それが実現されるためには、反対に、あらかじめ二 を、やはり「無名の目撃者」として、《この事件を一つの外重の意味で他者の存在を承認しているのでなければならない 部として存在させるまなざし》として、指示する。私の見物 からである。事実、まず第一に、製造品が製造品であるの している演劇、もしくは私の参観している絵画の展覧会が、 は、この製造品が、これを造った生産者を指し示し、他人た 指示するところのものは、同様に、無名の観客である。まちによって決められた使用法を、指し示すかぎりにおいてで た、たしかに、私が靴を履いてみるとき、私が壜の栓をぬくし、よ、。ロ カオしカエされていない無生物については、彼は私自身 とき、私がエレヴェーターに乗るとき、私が劇場で笑うとでその用いかたを決め、私は私自身でそれに対して或る新た き、私は、私を「誰でもいい誰か」たらしめる。けれども、 な用法を当てがう ( たとえば、私が一つの石を金槌として用 この無差別的な超越の体験は、私にしかかかわりのない内密 いる場合がそれである ) のであるが、かかる事物の面前にお
2 四存在と年 とめざしているだけである。この経験は、「対他」の種々なの弱点は、強制のための確実にして苛酷な装備を自由に駆俾 る形態に密接に依存するものであり、「対他ーの諸形態のうすることができるにもかかわらず、この階級が、それ自身と ちの或る形態を経験的に豊かならしめるものでしかない。 しては深刻な無政府状態にあるということである。《ブール の経験がきわめて不安定である理由は、明らかに、そこにあジョア〉は、ただ単に或る種の型の社会の内奥において、明・ る。「主観ーわれわれ」というこの経験は、気まぐれに生じ確な特権と権力を自由にすることのできる或る種の《経済的 ては消え去り、われわれは、「対象ー他人たちのー面前に、 人間》としては定義されない。。 ^ フールジョア》は、内部的 もしくはわれわれにまなざしを向ける《ひと》の面前に、と には、自己が一つの階級に所属していることを承認しない意」 り残される。この経験は、相剋の決定的な解決としてではな識として記述される。事実、ブールジョアが自分の階級の他 く、この相剋そのもののさなかに構成される暫定的な緩和との成員たちとの共同で一つの「対象ーわれわれ」のうちに拘 してあらわれる。われわれは、相互主観的な全体が、一体に東されているものとして、自己をとらえることは、そもそも なった主観性として自己自身を意識するであろうような、一 ブールジョアの状況がこれを許さない。しかし、また一方、 つの「人類的なわれわれ」を望んだところで、むだであろ「主観ーわれわれーの本性そのものから見れば、「主観ーわれ う。そのような理想は、断片的でまったく心理的な諸経験かわれ」についてブールジョアのもっている経験は、形而上学 ら出発して、極限にまで、すなわち絶対者にまでいたる移行的な力をもたない移ろいやすい経験でしかない。《フールジ によって、生み出された一つの夢想でしかありえないであろ ョア》は、一般に、諸階級が存在するということを否定す う。しかもさらに、この理想そのもののうちに、「対他存在」る。ブールジョアはプロレタリアなるものの存在を、煽動者 びほうさく の根原的な状態としての、超越個体相互間の相剋の承認が、 の行動に帰し、遺憾な事件に帰し、何らかの弥縫策によって ふくまれている。このことは、次のような外見上のパラドク償なわれうる不正に帰する。ブールジョアは、資本と労働と スの理由を明らかにしてくれる。圧迫される階級の統一は、 のあいだに利害上の連帯性が存在することを強調する : フー この階級が、第三者すなわち圧迫する階級たる無差別的な ルジョアは、階級的な連帯性に対して、いっそう広大な連帯 《ひと》の面前において、自己を「対象ーわれわれ」として性、たとえば国民的な連帯性を対立させ、そこでは、労働者 体験するという事実に由来するのであるから、それと対称的も資本家も相剋を停止する一つの共同存在のうちに積分され に、圧迫する階級は、圧迫される階級の面前において、自己ると主張する。その場合、問題なのは、しばしばそう言われ を「主観ーわれわれ」としてとらえる、という風に、われわてきたのとは違って、策略についてでもなく、状況の真相を れはえてして思いこみがちである。ところで、圧迫する階級見ようとしない愚かさについてでもない。むしろ問題はこう
228 象的な確認の結果によるのではなく、自己の狂愚の内面的な は、他人たちの諸行為を生じさせるのが私の諸行為である 弾力によるのである。それゆえ、製造品が他人たちを指し示か、それとも私の諸行為を生じさせるのが他人たちの諸行為 し、したがってまた私の無差別的な超越を指し示すのは、私であるかを、決定することができない 。「われわれーについ がすでに他人たちを知っているからである。それゆえ、「主ての経験は、「われわれーの一部をなす他人たちを、他人た 観ーわれわれーという経験は、他者についての根原的な体験ちとして、根原的に私に認識させることができないのである にもとづいて構築されるものであり、第二次的、従属的な経が、そのことを理解させるためには、以上の考察だけで十分 験でしかありえないであろう。 である。むしろ、まったく反対に、私と他者との関係につい ての経験が《共同存在》という形で実現されうるためには、 けれどもさらに、われわれがさきに見たように、自己を無 まず、他者が何であるかについての何らかの知識が存在する 差別的な超越としてとらえること、 ししかえれば、要する のでなければならない。他人が何であるかについてのあらか に、自己を《人類》の単なる事例としてとらえることは、い まだ、一つの「主観ーわれわれーの部分的な構造として自己じめの承認なしには、共同存在は、それだけでは、不可能で を把握することではない。事実、そのためには、何らかの人あるであろう。私は《 : : : とともに存在する》。よろし、 だが、誰とともにか ? さらにまた、かりにこの経験が存在 間的な流れのふところにおいて、自己を「誰でもいい誰か」 論的に第一次的なものであるにしても、われわれは、この経 として発見するのでなければならない。それゆえ、他人たち によってとりまかれるのでなければならない。また、われわ験の根本的な一つの変様のうちにおいて、まったく無差別的 れがさきに見たように、他人たちは、この経験においては決な一つの超越から、個々の個人についての体験へ、いかに して主観として体験されるのでもなく、対象としてとらえらて移行しうるかを、理解することができない。もし他人が何 らか別のしかたで与えられているのでないならば、「われわ れるのでもない。他人たちは、決して定立されるのではな い。なるほど、私は、世界のなかにおける他人たちの事実的れーについての経験は、みずから崩れ去り、私の超越によっ 存在から出発し、また他人たちの諸行為についての知覚からてとりかこまれた世界のうちにおける単なる諸「用具ー対 出発する。けれども、私は、他人たちの事実性もしくは彼ら象」の把握をしか、生むことがないであろう。 の動作を、定立的にとらえるのではない。私は、他人たちの 以上の若干の考察は決して「われわれ」についての間題を 身体を、私の身体と相関的なものとして、他人たちの諸行為汲みつくそうとするものではない。それらは、ただ単に、 を、私の諸行為との結びつきにおいて開花するものとして、 「主観ーわれわれ」についての経験が何ら形而上学的な顕示 側面的に、非定立的に、意識するのである。したがって、私 としての価値をもつものではないということを、指摘しよう
るところの企ては、まさに、他人たちがそれであるところの超越としてのかぎりにおけるそれらの対自の超越を、直接的 企てであるからである。地下鉄のこの通路には、ずっと以前 に体験すること ( 「まなざしを向けられるー存在」の場合に から物質のうちに刻みこまれたただ一つの同じ企てしか存在おけるような ) から、由来するものでもない。むしろ、かか しないのであって、生ける無差別的な一つの超越がそこへ流る経験は、共同的に超越される対象と、私の身体をとりまく れこんでくるのである。私が孤独のうちに、誰でもいい任意もろもろの身体とについての、二重の対象化的把握によって の超越として私を実感しているかぎりにおいて、私は「無差動機づけられている、と言った方がいいであろう。特に、私 別的ー存在」についての経験をしかもたない ( たとえば、私 が他の人々とともに或る共同のリズムのうちに拘東されてい がただひとり私の部屋のなかにいて、罐詰に添えてある罐切て、私がこのリズムを生じさせるのに寄与しているという事 りを用いて、罐詰のふたを開けるときなどがそれである ) 。 実は、私が一つの「主観ーわれわれ」のうちに拘東された者 けれども、〔私の〕この無差別的な超越が、他人たちの超越と として私をとらえるように、 ことさら私をそそのかす一つの 結びついて、何らか任意の企てを企てるならば、しかも、こ動機である。それは、兵士たちの歩調をとった行進の意味で の他人たちの超越が、私の企てと同一の何らかの企てのうちあり、またポートのクルーのリズミカルな作業の意味であ に同じように没頭している現実的な現前として、体験される る。それにしても、注意しなければならないが、その場合、 ならば、そのとき、私は、私の企てを、同じ一つの無差別的 リズムは、自由に私から出てくるのである。それは、私が私 な超越によって企てられた無数の同一な企てのなかの一つの の超越によって実現する一つの企てである。リズムは、規則 企てとして、実感する。また、そのとき、私は、唯一の目標的な反復のベルスペクチヴにおいて、未来と現在と過去を綜 に向けられた一つの共同的な超越を経験する。私はこの共同合する。このリズムを生み出すのは、私である。けれども、 的な超越のつかのまの個別的な一例でしかない。私は、地下それと同時に、このリズムは、私をとりまく具体的な共同体 鉄が存在して以来、倦むことを知らずに《ラ・モット・ピ の作業もしくは行進の一般的なリズムと、融け合っている。 ( 訳生一 ) ケ・グルネル》駅の通路にざわめいているおびただしい人の このリズムは、かかる具体的な共同体によってしかその意味 流れのなかに、私を挿入する。けれども、心にとめておかなを獲得しない。そのことは、たとえば私の採りいれるリズム ければならないが、 ( 一 ) そのような経験は、心理的な秩序が《調子はすれ》であるときに、私が体験するところのこと に属するものであって、存在論的な秩序に属するものではなである。それにしても、他の人々のリズムによる私のリズム いかかる経験は、当のもろもろの対自の現実的な一つの統の包囲は、《側面的に》とらえられる。私は集団的なリズム を、用具として利用するのではない。また たとえば、私 一に、決して対応するものではない。また、かかる経験は、
が舞台のうえの踊り子たちを眺めるときのようにーー私は集ではあるが、他人たちとの具体的な一つの存在論的関係を根 団的なリズムを眺めるのでもない。集団的なリズムは、私を拠としてあらわれるのではなく、、、 し力なる ^ 共同存在》をも とりまき、私にとっての対象となることなしに私を巻きこ実現しはしない。 ここでは単に、他人たちのただなかにおい む。私は私自身の諸可能性へ向かってこのリズムを超越するて私が私自身を感じるときの一つのしかたが問題であるにす のではない。むしろ、私は私の超越を、このリズムの超越のぎない。もちろん、この経験は、すべての超越個体の絶対的 なかに注ぎこむのである。私自身の目的ーーこれこれの作業形而上学的な統一の象徴として、求められることもあるであ をなしとげること、これこれの場所に到達することーーは、 ろう。事実、この経験は、もろもろの超越個体の根原的な相 〈ひと》の目的であり、これは、この集団そのものの目的と剋を停止させ、彼らを世界へ向かって集中させるように思わ 異なるものではない。それゆえ、私が生じさせるリズムは、 れる。その意味で、理想的な「主観ーわれわれ」は、自己を 私との結びつきにおいて、側面的に、集団的なリズムとして生地上の主人たらしめる人類の「われわれーであると言っても じる。このリズムは、それが集団のリズムであるかぎりにお しいであろう。けれども、「われわれ」というこの経験は、 いて、私のリズムであり、また逆にこのリズムは、それが私依然として、個別的な心理の地盤にとどまっており、もろも のリズムであるかぎりにおいて、集団のリズムである。まさろの超越個体の望ましい統一の単なる一つの象徴であるにす にそこに「主観ーわれわれ」の経験、すなわち「結局、それぎない。事実、この経験は、決して、一人の単独な主観性 はわれわれのリズムである」という経験の動機がある。けれが、もろもろの主観性をもろもろの主観性として側面的現実 ども、このことは、われわれの知っているように、あらかじ的に把握することではない。もろもろの主観性は、依然とし め一つの共同の目的や共同の用具を受けいれることによっ て、手のとどかないところにとどまっており、たがいに根本的 て、私が、私自身を無差別的な超越として構成し、かくしてに分離させられている。私が私自身から離れるのでもなく、 私自身の個人的な諸目的を、現に追求されている集団的な諸他人たちが彼ら自身から離れるのでもなしに、私をして、「わ 無 目的のかなたに放棄するのでないかぎり、不可能である。それわれーという経験を、他のもろもろの超越個体によって延 れゆえ、「対他ー存在」の体験においては、一つの具体的現長され支持されているものとして、とらえるように仕向ける 在 のは、もろもろの事物やもろもろの身体であり、私の超越の 実的な存在次元の出現が、この体験そのものの条件であるの ( 訳注二 ) 存 に反して、「主観ーわれわれ」の経験は、一つの単独の意識物質的な誘導である。私は、私が一つの「われわれーの一部 のうちにおける単なる心理的主観的な出来事であり、この出をなしていることを、世界から教えられる。そういうわけで、 来事は、この意識の構造の内密な一つの変様に対応するもの 「主観ーわれわれ」についての私の経験は、決して、他人たち
私は、他者が私の手の届かないところにある諸経験の結合体 体系のふところにおいて、他者というこの表象を問題にする 系であるかぎりにおいて他者をめざす。そうなると、私は私 ことにしよう。 の経験の場を根本的に超越する。他者は、或る意味で、私の 私の経験のなかへの他者の出現は、身振りや表情や行為な どの組みあわさ「た形態の現前によ「てあらわれる。それら経験の根本的な否定としてあらわれる。他者は私を対象とし の形態、それらの現象は、原理的に私の経験のそとにある経てとらえる者である。それゆえ、認識主観としての私は、先 方の主観を対象として規定しようとするが、先方の主観は、 験、私にとって近づきえない一つの統一体に属する経験を、 私のもっ主観という資格を否定し、先方は先方で私を対象と 指し示すものである。そこにあるのは現象の多元性である。 して規定する。 他者のいだいている怒りは一つの現象であり、私が知覚して かくして観念論の立場では、他者は構成的概念とも見なさ いる激昻した表情はいま一つの現象である。カントのいう因 果性は、根本的に切り離された二つの経験のあいだの橋渡しれないし、規制的概念とも見なされない。私は他人を対象と をつとめることができるだろうか ? 因果性が私の時間と他して構成するが、それにもかかわらず、他人は直観によって 人の時間とを統一するなどということは、どうして認められは与えられない。私は他人を主観として立てるが、それにも ようか ? 一一人の時間は原理的に無関係である。時間の普遍かかわらす、私が他人を考察するのは私の思考の対象として 性は、カントにおいては、時間的な経験の可能性の条件が何である。解決の道は二つしかない。他者の概念を取り除い て、かかる概念が私の経験の構成にとってまったく無用であ びとにとっても妥当するということを意味するだけであっ ることを立証するか、それとも、経験外における他者の存在 て、各人の時間の交通不可能な相違を除き去ることはできな 。意識相互間の関係は、本性上、考えられないのであるかをみとめるか、そのいすれかである。第一の解決は、独我論 ら、他者という概念は、われわれの経験の構成的原理ではあ solipsisme の名で知られる。独我論が私の存在論的な孤独 睿りえない。それでは、他者は、規制的原理として成立しうるの肯定として言いあらわされるならば、この解決はまったく のであろうか ? 対象ー他者についての私の知覚は、もろもろばかげている。なぜなら、それは「私のほかには何ものも存 の表象の整合的な一体系を指し示すが、この体系は私の体系在しない」ということに帰着するからである。けれども、こ ではない。私の諸経験を通じて私がたえすめざすところのもの解決は、経験の地盤をまもり、他者という概念を使用しな 存 いための、実証的な試みとしてあらわれるばあいもある。ワ のは、他者の感情、他者の考え、他者の意欲、他者の性格で トスンの行動主義心理学でさえ、独我論を作業仮説として採 ある。というのも、他者は、たんに私が見るところの者であ るばかりでなく、私を見るところの者でもあるからである。 用する。それは、私の経験外にあるような表象体系の存在に
幻 nous ( われわれ ) は、主語のときも、直接補語もしくは間接補語う。囚人たちは、怒りと羞恥で息がつまりそうになる。いう のときも、同じく n 。 u 。であ 0 て、形のうえの変化はない。けれまでもなく、ここで問題になっているのは、一つの共同の羞 リ J も、 ~ 央塹やドイツでは、 we か uSAJ な・、 wir か uns となる。 恥、共同の他有化である。しからば、他人たちと共同で、自 ーンズの英訳は、主観〔主語〕の意味になる場合 したがって、バ 。し力にして 己を対象として体験することが可能であるのよ、、、 を we 、対象〔目的語〕の意味になる場合を us と分けて訳して であろうか ? それを知るためには、われわれの「対他ー存 おり、両者を兼ねた意味のときには we を用いている。シュトレ ラーの独訳は Wi 「だけで通しているが、そのため「対象ーわれ在」の基本的特徴に立ち戻らなければならない。 いままでわれわれが考察してきたのは、私がただひとり われ」を言いあらわす文句は受動態に言いかえられている。なお <Nous les regardons. 》 <lls nous regardent. 》の les および nous で、ただひとりの他人の面前にいるときの、単純な場合であ ほどちらも直接補語であるが、邦訳では「まなぎし」 regard な る。その場合には、私が彼にまなざしを向けるか、もしく る語を生かすために、間接補語であるかのように訳さなければな は、彼が私にまなざしを向けるかの、いずれかである。私は らなかった。しかし、いずれにしても、それが対象〔目的語〕で 彼の超越を超越しようとこころみる。もしくは、私は私の超 あることには変りがない。 越を「超越されるー超越ーとして体験し、私の諸可能性を 「死せるー諸可能性」として感じる。われわれは一対をなし ている。われわれは一対一の相互的な状況のうちにいる。け (<) 対象ー《われわれ》 れども、この状況は、二人のうちのいすれか一方にとってし われわれは、それら二つの経験のうち、第二の経験を検寸 か、対象的存在をもたない。事実、われわれの相互的関係の することからはじめよう。事実、この第二の経験の意味をと らえることの方がいっそう容易であるし、この第二の経験は裏面などというものは、そもそも存在しない。ただし、われ 第一の経験の研究に近づく道としてわれわれに役だつであろわれは、いままでのわれわれの記述においては、「私とこの う。ますはじめに指摘しておかなければならないが、「対象ー他人との関係があらわれるのは、私および彼と、すべての他 われわれ」はわれわれを世界のなかにおとしいれる。われね人たちとの関係という無限の背景にもとづいてである」とい れは羞恥によって一つの共同的な他有化として「対象ーわれう事実を考慮にいれなかった。いいかえれば、「私ーと「彼」 との関係があらわれるのは、「私および彼」と「もろもろの われーを体験する。そのことは、次のような意味深長なエ。ヒ ソードによって示される。漕役囚人たちが船を漕いでいると意識個体の準ー全体性」との関係という無限の背景にもとづ いてである、という事実を考慮にいれなかった。しかし、た ころへ、着飾った一人の美しい婦人が船を視察しにやってき だそれだけの事実からして、私がいままで私の「対他ー存 て、彼らのぼろ着、彼らの苦役、彼らの悲惨を見るとしょ ガレリアン 一三ロ
253 存在と無 のを理解することであり、しばしば、瞬間的なものをさえも り利用したりすることを彼に許すものではない。それでは、 理解することである。或る一人の被実験者の場合に役立ったその権利はどこから彼に来るか ? もしコンプレックスが無 意識的であるなら、よ、、、、 方法は、この事実そのものからして、他の一人の被実験者の 。ししカえれば、もししるしが、このし 場合には用いられえないであろう。あるいは、同一の被実験るしによって示される当のものから、一つの堰によって分け ・者の場合でも、二度目には、用いられえないであろう。 隔てられているならば、被実験者がそれをみとめることがで ところで、まさに研究の目標は、一つの選択を発見するこ きるのは、なにゆえであろうか ? 自己をみとめるのは、無 とにあるべきであって、一つの状態を発見することにあるの 意識的なコンプレックスであろうか ? しかし、無意識的な ではないから、この研究は、機会あるごとに、自分の研究対 コンプレックスは、理解力を奪われているはずではないか ? 象が、無意識の闇のなかに埋もれている一つの所与ではなく もし無意識的なコン。フレックスに、しるしを理解する能力を て、自由で意識的な一つの決定であるということを、思いお 許さなければならないとすれば、それと同時に、この無意識 こさなければならないであろう。 意識的といっても、こ的なコン。フレックスを、意識的な無意識たらしめなければな の決定は、意識のうちに住んでいるのではない。むしろそれらないことになるであろう。事実、「理解する」とは、「自分 はこの意識そのものとまったく一つなのである。ーー経験的が理解したと意識する」ことでなくして、何であろうか ? 精神分析は、その方法がその原理よりもすぐれているかぎりむしろ反対に、呈示されたその姿をみとめるのは、意識的で において、しばしば、実存的発見の途上にある。とはいうもあるかぎりにおける被実験者である、とわれわれは言うべき のの、経験的精神分析はいつも途中で停止するきらいがある。 であろうか ? けれど被実験者は、呈示されたその姿 それにしても、経験的精神分析がかくして根本的な選択に近を、自分の真の感情と比較することがどうしてできようか ? づくとき、被実験者の抵抗は、突如として崩れる。そして、 というのも、自分の真の感情は、手のとどかないところにあ 被実験者は、あたかも鏡のなかに自分を見るかのように、自 り、自分はそれについて決して認識したことがないからで 分の前に示されている自分の姿を、突然、みとめる。被実験ある。せいぜい、彼にしてみれば、自分の場合についての精 者が心ならずももらすこの証示は、精神分析学者にとって貴神分析的説明は、一つの蓋然的な仮説であり、この仮説はそ 重なものである。つまり、精神分析学者は、そこに、自己のれによって説明されるかずかずの行為から、その蓋然性を引 目標に到達したしるしを見る。そこで彼は、、 しわゆる探求かき出してくる、と判断することができるくらいのものであろ ら、治療へ移っていくことができる。けれども、彼の原理やう。したがって、彼はこの解釈に対して、或る第一二者の位置 彼の最初の要請のうちにある何ものも、この証示を理解したすなわち精神分析学者その人と同じ位置にいるわけであり、 せき
れーであることを意識している必要はない。一ⅱ 唯でも知ってい れわれは彼らにまなざしを向ける》と言うときの「われわ ることだが、日常の対話にこういう形をとることがよくあれ」は、《彼らはわれわれにまなざしを向ける〉と言うとき る。《われわれは、とても不満なのだ。〉《とんでもない。その「われわれ」と、同じ存在論的次元に存在することができ ういうことはあなただけでおっしゃい。〉このことは、「われないであろう。ここでは、主観性としてのかぎりにおける主 われ , というさまよえる意識が存在することを意味している観性は、問題になりえないであろう。 ^ 彼らは私にまなざし それにもかかわらず、この意識は、、、 カカるものとして、 を向ける》という文句において、私が指示しようとしている ま「たく正常な意識である。もし事情がそのようなものであのは、私が私を、「他者にとっての対象ーとして、「他有化さ るならば、或る一つの意識が一つの「われわれーのうちに拘れた私」として、「超越されるー超越」として、体験すると 東されていることを意識するためには、この意識と共同関係 いうことである。もし《彼らはわれわれにまなざしを向け にはいる他のもろもろの意識が、何らか別のしかたで、まずる》というこの文句が、一つの現実的な経験を指示するはす はじめに、この意識に対して与えられていたのでなければなであるならば、この経験において、私は、私が他の人々とと らない。いいかえれば、他のもろもろの意識が、「超越するー もに、他有化されたもろもろの〈私》たちという「超越され 超越ーもしくは「超越されるー超越」という資格で、まずは るー超越」の共同体のうちに拘東されていることを、体験す じめに、この意識に対して与えられていたのでなければなら る。この場合、「われわれ」は、共同の「対象ー存在」たち ない。「われわれーは、「対他ー存在」一般を根拠として、特についての一つの経験を指し示す。それゆえ、「われわれ , 殊な場合に生み出される或る特殊な経験である。「対他ー存についての経験には、根本的に異なる二つの形態がある。そ 在」は、「共他ー存在」に先きだっとともに、これを根拠づして、この二つの形態は、まさに、対自と他人との基本的な ける。 関係を構成している「まなざしを向けるー存在」と「まなざ さらに、そればかりでなく、「われわれ」を研究しようとしを向けられるー存在」とに、それそれ対応するものであ する哲学者は、あらかじめ心を用いて、自分が何について語 る。われわれがこれから研究していかなければならないの と は、「われわれ」のこの二つの形態である。 っているのかを知らなければならない。事実、ただ単に、一 在 つの「主観ーわれわれ」が存在するだけではない。文法がわ ( 訳注 ) 訳注フランス文法でいう補語 c 。 mp ment はきわめて範囲の広 存 れわれに教えてくれるように、一つの「補語ーわれわれ」す いものであるが、ここでは目的補語 ( 直接もしくは間接 ) com ・ Ⅱなわち「対象ーわれわれーも存在する。ところで、いままで plément d ・ 0 三 e ( (direct ou indirect) の意味である。英語の直 述べてきたところからして、容易にわかるはずであるが、《わ 接目的語あるいは間接目的語に当る。ところで、フランス語の