るところのものであるようにさせること」、あるいは「私をとは、信じないことである。意識の存在は、自己によって存 して ^ あるところのものである》というありかたにおいて在することであり、したがって自己を存在させることであ は、私のあるところのものであらぬようにさせること」であり、それゆえに自己を乗りこえることである。その意味で、 る。それゆえ、自己欺瞞が可能であるためには、誠実そのも意識はたえす自己からの脱出である。信念は非信念になる。 のが、自己欺瞞的であるのでなければならない。自己欺瞞の直接態は媒介態になる。自己欺瞞は、自分が信じるところの 可能性の条件は、人間存在が、存在以前的なコギトの内部構ものを信じないことにおいて、存在を避ける。自己欺瞞は自 造において、それのあらぬところのものであり、それのある分が自己欺瞞であることを自分自身で否定する。自己欺瞞は ところのものであらぬ、ということである。 人間存在のあらゆる企ての直接的な不断の脅威であり、意識 は自己の存在のうちに自己欺瞞の不断の危険を宿している。 Ⅲ自己欺瞞の《信仰》 この危険の根原は、意識が、その存在において、それがあら 自己欺瞞の本質的な問題は、信念の問題である。われわれぬところのものであり、同時に、それがあるところのもので は眠りにおちいるようなぐあいに自己欺瞞におちいり、夢みあらぬ、というところにある。 るようなぐあいに自己欺瞞的である。ひとたびかかるありか たが実現されると、そこからぬけだすことは、眼をさますこ とが困難であると同様に、困難である。自己欺瞞は、世界の なかの一つの存在形態であり、この存在形態は、ひとりでに 永続しようとする傾向をもっている。 意識の本性は、媒介態と直接態が同一の存在であるという 容ところにある。信じるとは、自分が信じているということを の意識することであり、自分が信じているということを意識す 無るとは、もはや信じていないことである。それゆえ、信じる 在こと ( についての ) 非措定的な意識は、信念を破壊するもの である。信念は、自己の破壊においてしか自己を実現しえな いような存在であり、自己を否定することによってしか、自 己に対して自己をあらわしえないような存在である。信じる
き、われわれは嘘をついているのではない。嘘をつく人は、 分にあてがう者は、自分の自己欺瞞 ( についての ) 意識をも 自分では真実を肯定しながら、自分のことばにおいてはそれっているのでなければならない。 というのも意識の存在は、 を否定し、さらに自分自身に対してはこの否定を否定する。 存在意識であるからである。したがって私は、私が自分の自 嘘をつく人は、だます意図をもっているのであり、この意図己欺瞞について意識している点では、誠実であるように思わ を自分に隠そうとはしない。虚偽は、私の存在、他人の存れる。しかしそうなると、自己欺瞞という心的構成そのもの 在、他人にとっての私の存在、および私にとっての他人の存が消え失せてしまう。さりとて、私がシニックにもことさら 在を前提としている。原理的な不透明さが、自分の意図を他自分をあざむこうとこころみるならば、私のこの企ては失敗 人に対しておおい隠してくれさえすればいいのであり、他人する。虚偽は後退し、まなざしのもとで崩壊する。自己欺物 が虚偽を真実ととりちがえてくれさえすればいいのである。 は、誠実とシニスムとのあいだでたえず動揺しているにもか 虚偽という事実によって、意識はつぎの二つの点を肯定す かわらず、やはり自律的な一つの形をあらわしている。自己一 る。意識は、本性上、他者に対して隠されたものとして存在欺瞞は、大多数の人々にとって、人生のあたりまえの姿であ する。また意識は、私と他者との存在論的一一元性を、自分のる。われわれは自己欺瞞のうちにあ「て生きることもでき ために利用する。 それに反して、自己欺瞞においては、私はほかならぬ私自 Ⅱ自己欺瞞的な行為 身に対して真実をおおい隠す。このばあいには、あざむく者 とあざむかれる者との一一元性は存在しない。自己欺瞞は、一 もし人間が自己欺瞞的でありうるはずだとすれば、人間は つの意識の統一を意味している。自己欺瞞は外から人間存在その存在においていかなるものであらねばならないか ? こ にや「て来るのではない。意識はみずからこのんで自己欺瞞の問いに答えるために、自己欺瞞的な行為をい 0 そう仔細に . を自分にあてがうのである。私は嘘をつく者としてのかぎり 検討してみよう。 においては真実を知っているのでなければならないが、この たとえば、ここに、はじめての逢いびきにやってきた娘が 真実は、私がだまされる者であるかぎりにおいて、私におお いるとしよう。彼女は、自分に話しかけているこの男が、ど い隠されている。私は、この真実をいっそう注意ぶかく私に んな意図をいだいているかを十分に知っている。彼女はおそ、 対して隠すために、この真実をきわめて正確に知っているの かれ早かれ、決断しなければならないときが来ることも知っ でなければならない。しかも、同一の企てのただ一つの構造ている。けれども彼女は、それをさし迫ったことだと感じた のうちで、そうであるのでなければならない。自己欺瞞を自 くない。彼女はただ相手の態度の鄭重で慎しみぶかい点だけ
それにしても、私は私自身の不安をまえにしていろいろなぬためにそれであることー r6t希,をu7n尊耳e ・ pas に、出会ラ 態度をとることができる。わけても、逃避的な態度をとるこ ことができるはずである。 とができる。心理的決定論はかかる逃避のための一つの努力 第二章自己欺瞞 である。心理的決定論は、人間の行為に一種の惰性と外面性 を与えることによって、行為を安定したものたらしめようと —自己欺瞞と虚偽 する。心理的決定論は、人間存在をして、不安のなかに露出 せしめるような超越を否定する。そうなると、われわれはも われわれは「緒論」で示した意識の定義をつぎのように書 はや「あるところのものである」よりほかにしかたがない。 きあらためてもいい。 「意識とは、それにとってはその存在 のうちにその存在の無の意識があるような一つの存在であ 心理的決定論は即自存在をふたたびわれわれのうちにみちび きいれる。このようにして、われわれは、自己を外から、他 る。」私の意識は一つの「否」として、世界のなかに出現す る。イロニーは「否ーをその本質的機能とする人間的行為で 人あるいは事物として、とらえようとこころみることによっ て、不安からのがれる。しかし、不安からの逃避は、不安をある。イロニーの人は、同じ一つの行為のなかで、自分の立 てるものを無効にする。彼は信じさせるが、信じてもらえる 意識する一つのしかたでしかない。不安は、実をいうと、お とは思っていない。彼は否定するために肯定し、肯定するた おい隠されもしないし、避けられもしない。それにしても、 めに否定する。ところで、意識がその否定を外に向けるので 不安をのがれることと、不安であることとは、まったく同一 のことではない。不安からのがれるために、私は私の不安でなく、自己自身に向けるような一つの態度がある。それが自・ 己欺瞞である。自己欺瞞は、人間であるかぎり誰しも免がれ ある。私は「不安ではない という形で、不安であることが えないものであり、意識の本質的構造に由来する。 できる。私は不安そのもののふところにあって無化的能力を 自己欺瞞はしばしば虚偽と同一視される。なるほど虚偽は 容用いることができる。この無化的能力は、私が不安をのがれ 一つの否定的態度である。しかし、このばあいの否定は、自 のるかぎりにおいて不安を無化するが、私が不安からのがれよ 知うがために不安であるかぎりにおいて、この能力は自減す己の意識そのものをめざすのではない。事実、虚偽の本質に は、嘘をつく当人が完全に真実を知りぬいていながら、それ 在る。これがいわゆる自己欺瞞 la mauvaise ま一である。自 存 己欺瞞においては、われわれは同一の意識の統一のうちで、 をいつわっている、ということがふくまれている。われわれ は自分が知らないことについて嘘をつきはしない。自分があ 不安からのがれるために不安である。われわれは、同一の意 識のうちで、存在と非存在との統一、すなわち「それであらざなかれていることに気づかすにその誤りを人に伝えると
に固執する。彼女は男のふるまいを、現在あるとおりのもの て、男の欲情をたのしむことを自分に許す。いまでは、彼女一 としてのみ受けとる。彼女は、話しかけられることばのなか は自分の身体の現存を悩ましいまでに深く感じながらも、自 に、その表向きの意味より以外のものを読みとろうとしな分自身の身体ではあらぬものとして自己を実感する。自己蠍 。「僕はあなたをこんなにも讃美しています。」彼女はこの瞞のうちには、矛盾する概念を形づくる一種の技術、すなわ ことばからその性的な底意を取り去る。彼女は男の欲情を感ち或る観念とその観念の否定とを同時にふくむような概念を じとることをみずから拒む。彼女は欲情を欲情と呼ぼうとさ形づくる一種の技術がふくまれている。この技術は、事実性・ えしない。彼女は、男の欲情が、讃美と尊敬へ超出していくであると同時に超越であるという人間存在の二重性を利用す かぎりにおいてしか、それを認めようとしない。しかし、 る。自己欺瞞にとっては、事実性と超越との差異をそのまま、 まここで相手の男が彼女の手をにぎったとしよう。男のこの保存しながら、両者の同一性を肯定することがかんじんであ ~ る。事実性を超越であるものとして、また超越を事実性であ 行為は即座の決断をうながし、状況を一変させるかもしれな るものとして肯定するのでなければならない。『愛は、愛よ この手をにぎられたままにしておくと、自分から浮気に り以上のものである』というシャルドンヌの作品の標題に 同意することになるし、抜きさしならぬはめになる。さりと は、事実性としての愛と、超越としての愛が、同時にふくま、 て、手を引っこめることは、このひとときの魅惑をなしてい るこの不安定な調和を破ることである。決断の瞬間を、できれている。「ついに永遠がその人をその人自身に変ずるがご・ とく」というマラルメの有名な詩句においても、事実性とし るだけひきのばすことが必要である。娘は手をそのままにし てのその人と、超越としてのその人自身が、両者の差異のま ておく。けれども彼女は、自分が手をそのままにしているこ まに統一されている。自己欺瞞のもっ両義性は、私が事物と とには気づかない。 この瞬間、彼女は精神そのものである。 彼女は人生について語り、理想について語る。彼女は自己を同じありかたで私の超越であるということを肯定するとこう 容ひとりの人格として示す。そのまにも、手は生気なく、相手から来る。 のの熱い両手のあいだに休息する。手は同意もせず、抵抗もし 一般に自己欺瞞の反対と見なされている誠実の観念を考え てみよう。誠実は、要求であって、状態ではない。では、到・ 無オし 在この娘は男の行為を即自的に存在させることによって、そ達されるべき誠実の理想は何であるか ? 人間はまったく彼」 存 しいかえれば、自己自身との完 ) の武装を解除した。けれども彼女は、男の欲情を「それがあがあるところのものである。 るところのものであらぬもの」としてとらえるかぎりにおい 全な一致、これが誠実の理想である。けれどもこれはまさに . て、 いいかえれば男の欲情の超越を認知するかぎりにおい 即自の定義ではなかろうか ? 自己欺瞞がなりたっために
Ⅵ即自存在 第一部無の問題 : ・ 第一章否定の起原 Ⅲいかけ Ⅱ否定 Ⅲ無についての弁証法的な考えかた Ⅳ無についての現象学的な考えかた 無の起原 第二章自己欺瞞 —自己欺瞞と虚偽 Ⅱ自己欺瞞的な行為 Ⅲ自己欺瞞の《信仰》 第二部対自存在 : 第一章対自の直接的構造 —自己への現前 Ⅱ対自の事実性 Ⅲ対自と、価値の存在 Ⅳ対自と、諸可能の存在 自我と、自己性の回路 第一一章時間性 時間的な三次元の現象学 過去 現在 O 未来 Ⅱ時間性の存在論 静的時間性 時間性の動態 Ⅲ根原的時間性と心的時間性ー反省 第三章超越 対自と即自とのあいだの典型的な関係としての 認識 Ⅱ否定としての規定について Ⅲ質と量、潜在性、道具性 Ⅳ世界の時間 過去 現在 0 未来 認識 第三部対他存在 : 第一章他者の存在 題 Ⅱ独我論の暗礁 Ⅲフッセル、ヘーゲル、、 ノイデッガー Ⅳまなざし 第二章身体 対自存在としての身体ーー事実性 Ⅱ対他ー身体 ・ : 一石三ー吾三
は、人間存在は、「それがあるところのものであるのではなあることができない。「世界ー内ー存在 , としての人間存在 それがあらぬところのものでありうる」のでなければな は、「世界のーただなかにーおけるー存在」としての事物存 らない。もし人間が、彼のあるところのものであるならば、 在と同じしかたで存在することはできない。 自己欺瞞は決して生じえない。誠実の理想は「われわれがあ 他者の意識は、それがあらぬところのものである。私の意 るところのものであるべきである」という格言によ「て示さ識は、それがあるところのものであらぬ。この二つの条件の れるが、「あるべきである」というありかたは、。 とういうあもとでは、誠実の理想は、遂行不可能な課題、その意味その りかたであろうか ? 喫茶店のボーイのきびきびした身ぶり ものが私の意識の構造と矛盾するような課題でなくして、何 は、いささか正確すぎる。彼はいささか敏捷すぎる足どりで であろうか ? 自己のおかしたかすかすの過失を告白するべ いんぎん お客の方へや 0 てくる。彼はいささか慇懃すぎるくらいお辞デラストが、「私は私があるところのものであらぬ」という 儀をする。彼の声や眼は、客の注文に対するいささか注意の 意味で、「私はペデラストであらぬ」と言うならば、そのか あふれすぎた関心をあらわしている。彼は軽業師のような身ぎりで、彼は正しいであろう。しかし彼はこの「あらぬ」を 軽さでお盆をはこんでくる。お盆はたえず均衡を失った状態 「即自的にあらぬ」という意味に解する。彼は、このテープ になるが、、ポーイはそのつど腕と手をかるく動かして、たえ ルがインク壺であらぬというのと同じ意味で、「私はペデラ ずお盆の均衡を回復する。彼のあらゆる行為は、まるで遊戯 ストであらぬ」と言う。そのかぎりにおいて、彼は自己欺瞞 のように見える。彼は演じている。彼は戯れている。 いった的である。一方、このペデラストの告白を聞く誠実の代表者 い何を演じているのか ? 彼は喫茶店の、ポーイであることをは、「もはやこの人間があるところのものであらぬために、 演じているのである。同様に、、、 し力なる職業にも、それそれこの人間があるところのものである」ことを要求する。して のダンスがある。しかし喫茶店のボーイは、グラスがグラス みると誠実の目標も、自己欺瞞の目標も、さして異なるもの であるのと同じ意味で、喫茶店のポーイであることはできな ではない。誠実の目標は、「私があるところのものを私がみ い。彼はポーイの職務を完遂しようとしてもむだである。彼ずから告白し、その結果、ついに私が私の存在と合致するま でにいたらせること」、 しいかえれば「私は ^ 私があるとこ は、俳優がハムレットであるのと同様のしかたにおいてし か、ポーイであることができない。彼は、ポーイの即自存在をろのものであらぬ》というありかたで何ものかであるのであ むなしく実現しようとしている。 しいかえれば、彼がポーイ るが、私をして即自のありかたにおいてかかる何ものかであ であるのは即自のありかたにおいてではない。 , 。 彼よ、「それらしめることーである。自己欺瞞の目標は、「私をして、《あ であらぬものである」というしかたにおいてしか、、ポーイでるところのものであらぬ》というありかたにおいて、私のあ・
262 ところに見いだされるのも、やはり決して偶然ではない。と考えるときに、くそまじめなのである。 いうのも、革命家たちは、くそまじめだからである。ます、 訳注「くそまじめな精神」とは、そのつどみずから選ぶ自由な 精神とはまったく反対の精神である。立札があるから芝生にはい 彼らは、自分たちを圧しつぶすこの世界から出発して、自己 らない、命じられたから実行する、というような融通のきかない を認識する。彼らは、自分たちを圧しつぶすこの世界を変え 精神がこれである。 ようと欲する。その点で、革命家たちは、もとの敵対者たち、 ( 訳注一 ) すなわち所有者たちと、一致している。というのも、所有者 遊戯は、事実、キルケゴール的なイロニーと同様に、主観 たちは、やはり、世界のなかにおける自分たちの地位から出性を解放する。実のところ、人間がその最初の起原であるよ 発して自己を認識し、自己を評価するからである。それゆうな一つの活動、人間が自己自身をそれの原理として立てる ような一つの活動、立てられた原理に応じてのみ帰結をもち え、くそまじめな思想は、いずれも、世界によって濃厚にさ うるような一つの活動でなくして、そもそも遊戯とは何であ せられており、凝固させられている。くそまじめな思想は、 世界のために人間存在を辞任することである。くそまじめなろうか ? 或る人間が自己を自由なものとしてとらえるやい なや、そして彼が自己の自由を行使しようと欲するやいな 人間は、《世界に属して》おり、もはや自己のうちに何らの くそまじめな人間は、もはや、世や、彼の不安がその他の点でいかなるものでありうるにせ ~ 拠りどころをももたない。 しいかえれば、彼は、事実、 界から脱出する可能性をさえも考えてみない。なぜなら、彼よ、彼の活動は遊戯的である。 ( 訳注一一 ) はみすから自己に対して、岩の存在類型、堅固、惰性、「世界その活動の最初の原理である。彼は「所産的自然」から脱れ のーただなかにーおけるー存在」の不透明性を、与えたから出る。彼は自分自身で、自分の諸行為の価値と規則を立て る。彼は自分自身で立て自分自身で定めた規則にしたがって である。したがって、言うまでもないが、くそまじめな人間 しか、支払うことに同意しない。そこからして、或る意味で は、自分の自由の意識を、自己自身のおくそこに埋葬してし は、世界の《実在性の乏しさ》 peu de ま a = ( 6 が由来する。 まっている。彼は自己欺瞞のうちにある。彼の自己欺瞞は、 自己を自己自身の眼に一つの帰結として示すことをめざしてそれゆえ、遊戯する人間は、自分の行動そのもののうちに、 いる。彼にとっては、すべてが帰結であり、決して原理 ( 始自己を自由なものとして発見しようとしながらも、決して、世 . め ) は存在しない。そういうわけで、彼は自己の諸行為の帰界の一つの存在を所有することは望みえないであろう。彼の 目標は、彼がそれを、スポーツによってめざすにせよ、演戯 結に対して、きわめて注意ぶかい。マルクスは、彼が主観に によってめざすにせよ、あるいはいわゆる勝負によってめざ - 対する対象の優位を主張したときに、「くそまじめな人間」 の最初のドグマをうち立てた。人間は、自己を一つの対象とすにせよ、一種の存在としての自己、すなわち、まさにその・
15 ゑ 。というのも、私の自由は私の諸可能を噛るからであり、 訳注二「自己性の回路」 circuit de 一・ぎ séまは、対自と、対自 がそれであるべきである可能性との関係である。欠如者としての それと相関的に、世界のもろもろの潜在性が、ただ単に自己 対自は、可能としての「全体的自己」一へ向かって自分を超越 ) を指示し、自己を提供するからである。それゆえ、私は、真 するが、ついでこの全体的自己から出発してふたたび現実存在煮 に私を、「状況のうちに存在するもの」として定義すること としての自己へ立ち戻ってきて、自分を欠如者として規定する。 ができない。というのも、第一、私は、私自身についての定 この循環を自己性の回路という。「潜在性ー potentialitéは、対自 立的意識ではあらぬからである。つぎに、私は、私自身の虹 の可能性 possibilitéに対応する即自の側の可能性ともいうべき であるからである。その意味においてーーーまた、私は、私が ものである。事物のもっ潜在性のうち、不変な極の方が恒常性 あらぬところのものであり、私があるところのものであらぬ permanence と呼ばれ、変っていく方の質料的な層が潜勢で巳 s ー がゆえに 私は、私を、「真に、扉のところで盗み聞きを sance と一呼・はれる。 ( 訳注三 ) 訳注三私が真に盗み聞きしつつあるときには、私は自分が盗み しつつあるもの」として定義することさえできない。私は、 聞きしつつあるものであることに気づいていないし、逆に、私が 私のあらゆる超越によって、私自身についてのかかる暫定的 盗み聞きしつつあることに真に気づいているときには、私は盗み な定義から、脱れ出る。さきに見たように、自己欺瞞 mau- 聞きしつつあるものであるのではない。しかるに、自分が盗み聞 ーま一の起原は、そこにある。それゆえ、ただ単に、私 きしつつあることに気づかないときに、自分は真に盗み聞きしつ は私を認識することができないばかりでなく、私の存在すら つあるものではないと思いこみ、自分が盗み聞きしつつあること も、私から脱れ出るーーもっとも、私は、私の存在からのか に気づいているときに、自分は真に盗み聞きしつつあるものであ かる脱出そのものであるのではあるが 。私はまったく何 ると思いこむ。それが、自己欺瞞である。 ものでもあらぬ。そこには、世界のなかに浮かび出る或る一 つの客観的な総体、一つの実在的な体系、一つの目的のため ところが、突然、廊下で足音のするのが聞こえた。誰かが の諸手段の配置、といったようなものをとりまいて、それを私にまなざしを向けている〔誰かが私を見ている〕。このこと 成り立たせているところの、一つの単なる無より以外の何も は、何を意味するであろうか ? それはこうである。私は、 のも存しない。 突然、私の存在において襲われる。本質的な変様が私の構造 のうちにあらわれる。 この変様を私がとらえて、概念的 訳注一一〇七ページの訳注で指摘しておいたように、この個 に定着させることができるのは、反省的なコギトによってで 所は、いっそう強く「私は私の諸行為を存在するーと訳すべきで あろう。以下のところでも、 6 ( 「 e をイタリックで強調しているある。 場合 ( 訳文では傍点のついている場合 ) には、同様である。 まず、この場合、私は、私 moi としてのかぎりにおいて 1
の世界の対象として凝固させるという事実そのものによっ 示するのは、羞恥もしくは自負である。また、私をして、 て、その出血はくいとめられ、局所化されていたからであ 「まなざしを向けられている者」の状況を、認識させるので る。かくして、一滴の血も失われすに、すべては、私の人り なく、生きさせるのは、羞恥もしくは自負である。ところ こむことのできない一つの存在のうちにおいてではあるにせ で、羞恥は、この章のはじめに指摘したように、自己につい よ、回復され、隈どられ、局所化されていた。ところが、こ ての羞恥である。羞恥は、「私は、まさに、他者がまなざし この逃亡は外部 こでは、反対に、この逃亡ははてしがない。 を向けて判断しているこの対象である」ということの承認で に自己を失う。世界は世界のそとに流出し、私は私のそとに . ある。私は、私の自由が私から脱れ出て、与えられた対象に なるかぎりでの、この私の自由についてしか、羞恥をもっこ流出する。他者のまなざしは、この世界における私の存在の 、よここ、この世界でありながら同時にこの世界のかなたに . とができない。それゆえ、もともと、私の「まなざしを向けカオオ冫 られている自我」 ego-regardéと私の非反省的な意識とのきあるような一つの世界のただなかに、私を存在させる。私が ( 訳注 ) それであるところのこの存在、羞恥が私にあらわにしてくれ ずなは、認識のきずなではなくして、存在のきずなである。 私は、私がもちうるあらゆる認識のかなたにおいて、或る他るこの存在と、いかなる種類の関係を、私は県つことができ るであろうか ? 人が認識しているところの「この私」である。しかも、私 しうまで 訳注以下に「この存在ー cet étre といっているのは、、 は、他者が私から奪って他有化した一つの世界のうちにおい もなく、私の「まなざしを向けられている自我ー ego-regardéの て、私がそれであるところの「この私」である。なぜなら、 意味である。 他者のまなざしは、私の存在ばかりでなく、これと相関的 まず第一に、そこには一つの存在関係がある。私はこの存 に、壁、扉、鍵孔などをも、抱擁するからである。私はそれ らの道具ー事物のただなかに存在しているのであるが、それ在である。かたときも、私はそれを否定しようなどとは思わ オい。私の羞恥が一つの告白である。あとから、私は、それ らすべての道具ー事物は、原理的に私から脱れ出る一つの顔よ を、他人の方へ向ける。それゆえ、私は、他人の方へ向かつを私におおいかくすために、自己欺瞞を利用することもでき よう。しかし自己欺瞞も、やはり一つの告白である。という て流出する一つの世界のただなかにおいて、他人にとって、 私の自我 ego である。けれども、さきに、われわれは、対のも、自己欺瞞は、私がそれであるところの存在から逃れる ための一つの努力であるからである。けれども、私がそれで 象ー他者の方へ向かっての私の世界の流出を、「内出血」と 呼ぶことができた。というのも、事実、私のこの世界が他者あるところのこの存在についていえば、私は、《あるべきで の方へ向かって出血するときにも、私の方ではこの他者を私ある》というありかたで、この存在であるのでもなく、《あ
いるにもかかわらず、現象学者 phénoménologue というよ りもむしろ現象論者 phénoméniste と呼ばれる方がふさわし 。そして、彼の現象論はたえずカント的観念論に沿って進 む。ハイデッガーは、本質をメガラ学派的、反弁証法的に孤 立させるにいたるかかる記述の現象論を避けようとして、コ ギトを経ずに、ただちに実存的分析にとりかかる。けれど も、《現存在〉 Dasein は、もともと意識次元を欠いていたの であるから、この次元を決して回復することができないで あろう。ハイデッガーは、人間存在に自己了解を付与し、こ 「否定ーはわれわれを「自由」へ向かわせ、「自由ーはわれの自己了解を、自己自身の可能性の《脱自的投企》 pro- 」 et われを「自己欺瞞」へ向かわせ、「自己欺瞞」はさらにわれ ekstatique として定義する。われわれとしても、この投企の われをその可能条件としての「意識の存在」へ向かわせた。 存在を否定するつもりはない。けれども、それ自身において、 そこで、本書の緒論でわれわれがこころみた記述を、いまま了解であること ( についての ) 意識でないような了解とは、 ・での章でうち立てた要求の光にてらして、もう一度とりあげ いかなるものであろうか ? 人間存在のこの脱自的性格は、 ( 訳注一 ) ることにしよう。 いいかえれば、反省以前的なコギトの領域もしそれが脱自的な意識から生じるのでないならば、ふたた に立ち戻らなければならない。けれども、コギトは、ひき渡び盲目的な擬物論的な即自におちいる。実をいうと、コギト すことを求められるものをしか、ひき渡さない。デカルト から出発しなければならないのであるが、しかしこのコギト は、《私は疑う、私は思考する》という「ギトの機能的な面については、或る有名な文句をもじって言うならば、「コギ について、コギトに問いかけたが、この機能的な面から存在 トはどこへでも連れていってくれるが、ただしそうなると、 無的弁証法へ何ら導きの糸なしに移行しようとしたために、実コギトから離れる」と言うことができよう。或る種の行為の ( 訳注一 l) 体論的誤謬におちいった。フッセルは、この誤謬をいましめ可能条件に関するわれわれのこれまでの研究が目的としてい っ 在として、慎重に、機能的記述の面にとどまった。したが たのは、ただ単に、コギトの存在についてコギトに問いかけ 存て、彼は現われとしてのかぎりにおける現われを、単に記述ることができるように準備することであり、瞬間性から脱し することから一歩も出なかった。彼はコギトのうちに閉じこて人間存在の構成する存在全体へ向かう手段を、コギトその も「た。フッセルは、自分ではそう呼ばれることを否認してもののうちにおいて見いださせてくれるような、弁証法的方 対自存在 —自己への現前