こころみるならば、この過去は、現在において、ポールの過ろのものにおいて、私があったところのものを、憎むことが できるのだろうか ? 私が私についてくだす判断は、私がそ 去であることが明らかになる。過去は、誰かの過去であるの れをくだすときには、すでに虚偽である。私はすでに別のも でなければならない。また、いまは亡きビエールについて、 のである。しかし、私はもはやすでに私があったところのも 「彼は音楽を愛していた」と私が言うとき、この過去はビエ ールの過去ではない。それは、。ヒエールの存命中、彼と現在のであらぬにしても、私は、対自の無化的統一のうちにおい て、それであるべきである。私が私の過去であらぬのは、私 を共にしていた私の過去である。故人。ヒエールの存在につい ては、今日、ただ私だけが、私の自由において、その責任者が私自身の過去であらぬためにそれであるべきであるかぎり である。「あった」が意味するのは、「現在的な対自は、みずにおいてであり、私が私自身の過去であるためにそれであら ぬべきであるかぎりにおいてである。 から自分の過去であることによって、自分の存在において、 それゆえ、私が私の過去であらぬことがでぎるのは、私が 自分の過去の根拠であるべきである」ということである。 私の過去であるかぎりにおいてである。私が私の過去であら 問題の結びめは、「あった」ということばのうちにある。 まず、「あった」ということばは一つの存在様相である。そぬというこの事実の唯一可能な根拠は、まさに、私が私の過 の意味で、私は私の過去である。私と私の過去とのあいだの去であるべきであるというこの必然性である。過去は、私を して、背後から、私のあるところのものであるように強いる この存在連帯を、私は断ちきることができない。死の瞬間に は、私はもはや私の過去でしかないであろう。死は私を私自存在論的構造でしかない。それが「あったーということばの 身に合体させる。死によって、対自がそっくり過去に滑り去意味である。過去とは、超出されたかぎりにおいて私がそれ ったかぎりにおいて、対自は永久に即自へと変化する。それであるところの即自である。事実性と過去とは同一のものを ゆえ、過去は、私がそれであるところの即自の、つねに増大示す一一つのことばである。過去は、事実性と同様に、私がそ 容していく全体である。しかし私が生きているかぎり、私は同れであらぬいかなる可能性もなしに、それであるべきである 即自の偶然性である。私が過去のなかにふたたび戻ることが の一性のありかたでかかる即自であるのではない。私はかかる できないのは、過去が即自であり、私が対自であるからであ 轗即自であるべきなのである。私の過去が世界のなかにはいっ る。過去は、或る意味で価値のありかたに似ているが、価値 在てくるのは、私が私の過去であるからである。 存 他方からいうと、私は私の過去であったのであるから、私とは逆に、即自によって取り戻された対自、即自によって凝 はもはや私の過去であるのではない。他者の恨みは、つねに固させられた対自である。 私にとって心外なものである。どうして人は、私があるとこ
は、何ゆえであるか ? また、一つの新たな対自が無から出う、存在にとっての必然性である。 現して、それがこの過去の現在となるのは、何ゆえである 現在は、「後」として自分を構成する一つの対自の「前」 になることによってでないならば、過ぎ去ることはできない であろう。一つの新たな現在の出現が、自分のあったところ 変化にはおのずから恒常性がふくまれているというのが、 の現在を過去化する。 いいかえれば、一つの現在の過去化が ・ハークリー的な観念論に対するカント的な反駁の骨子であっ た。ライプニツツによれば、変化そのものが、或る恒常的な 一つの対自の出現をひきおこし、その対自にとってこの現在 が過去になっていく。 主体のもっ諸属性の展開と考えられた。しかし、変化するも 一つの現在は、必然的に、この過去の ののかたわらに一つの恒常的なものがあるとしても、自分自現在であらねばならない。かかる変形は、ただたんに、現在 身、変化するものと停止しているものとの統一であるようなを冒すだけではない。さきだっ過去も、未来も、ひとしくそ ひとりの証人にとってでなければ、変化を変化として成り立の影響を受ける。現在の過去は、或る過去の過去すなわち大 過去になる。つぎに、現在は、もはや「それであるべきであ たせることができない。要するに、変化と恒常との統一が、 変化を変化として構成するのに必要である。しかし統一とい る」という形で自分の過去であるのではなく、「それである っても、たんなる外的な関係であるならば、まったく無意味べきであった」というありかたで、自分の過去である。過去 である。統一は存在統一であるのでなければならない。した と大過去とのあいだの結びつきは、即自的である。しかも、 がってかかる統一は、何よりもまず脱自的である。しかもそこの結びつきは、現在的な対自を根拠としてあらわれる。一 れは、対自が本質上、脱自的であるかぎりにおいて、この対つのかたまりに鎔接された過去と大過去との系列を支えてい 自を指し示す。 るのは、現在的な対自である。 人間存在が問題であるばあいに、必要なのは、絶対的な変 未来は、同じように、変形によって冒されるにしても、末 化であるが、かかる変化は、まさしく、変化する何ものかの来であることをやめるのではない。未来は依然として、対自 ない変化、持続そのものたる変化でありうる。現在的な対自のそとに、前方に、存在のかなたに、とどまっている。けれ にとっては、一つの新たな現在の過去になるという不断の必ども未来は過去の未来になる。未来は、直接的な未来か、遠 い未来かによって、新たな現在とのあいだに、二種の関係を 然性がある。そのばあい変化の根拠であるのは、対自の時間 性であって、時間性を根拠づけるのが変化であるのではな たもっことができる。直接的な未来のばあい、「私が待って ここで問題なのは、存在が全体的に自己を変形し、過去 いたのはこれだ」というように、現在は、過去に対してこの のなかに沈み行くと同時に未来へ向かって無から生じるとい 未来であるものとして、与えられる。けれども、現在は、こ
れが対自的に措定されるというかぎりに於いて、全体への統あった。第三の契機とは ( フローベールは法律をやることを 合のあたらしい水準でのそれらの偏向の純粋で端的な実体で承諾する。アシールと自分とはちがうことを確信するため ある。以上の理由で、一つの生活は螺旋状に展開される。そに、彼はアシールより劣ることを決意する。彼はこの劣等性 れはつねに同じ点を通過するが、しかもそれは、全体化と複の証拠として自分の将来の職業をいみきらい、観念主義的な 過剰代償行為に身を投じ、結局、代言人になるように追いっ 雑性との前と異なった水準でのことである。子供のとき、フ められ、〈ヒステリー型〉の発作を起してそれから逃れる ) ローベールは長兄によって父親の愛情を横取りされた。兄の アシールは父親のフローベールに似ていた。父親をよろこば当初の条件の豊饒化であり緊迫化である。各段階が、それだ すためにはアシールを真似する必要があった。子供はそれをけ切りはなしてみれば、くりかえしのようにみえる。ところ が、幼少期から神経的発作に至る動きは反対にこれらの与件 拒んでふてくされ遺恨に思った。大学に入ってもギュスター ヴは状況が変らぬのを見た。昔才気喚発の学生であった一家の不断ののりこえであった。結局それは、ギュスターヴ・ ( 原注一 ) アンガ 1 ジュマン の長たる医師を満足させるために、九つ年長のアシールは首フローベールの文学的参加にまで到り着く。しかしこれ らの与件はのりこえられた過去であると同時に、あらゆる操 席を占めた。もしも弟息子が父の評価を是が非でも得ようと 作を通じて、のりこえつつある過去として、すなわち、未来 ねがうなら、彼は長兄と同じ宿題に対して同じ点数をかせぐ 必要があった。彼はそれを拒否した、自分の拒否の意味をは としてあらわれる。われわれの役割はつねに未来である。そ つきり把えることさえなしに。これは名状しがたい抵抗感がれは各人によって、果すべき仕事、さけるべき落し穴、発揮 彼の勉学にブレーキをかけたことを意味する。彼はまずできすべき能力、等、としてあらわれる。或るアメリカの社会 る方の学生となるだろうが、これはフローベール家では面汚学者たちが主張するように、〈父性〉が一つの役割であるこ しであった。この第二の状況は大学というあたらしい因子に とはありうることだ。しかしまた或るわかい夫が自分自身の よって緊迫化させられた第一の状況以外のものではない、あ父親と一致したりその代りになったりするために、或いは逆 たらしい友人たちとのギュスターヴの接触は決定的な条件で に父親の〈態度〉をみずから引き受けて父親から解放される ために、父親になりたいとねがうこともまたありうる。とに はなかった。家族の問題が彼にとってはきわめて重大であっ かくこの過去の ( 或いは、いずれにしても、過去に於いて深 たので、彼は友人たちに心をかたむけることがなかったのだ。 彼が自分の友人たちの或るものが好成績をおさめたために鼻刻に体験された ) 両親との関係は、彼に対してあたらしい企 白なとすれば、それはただその友人の成功が兄アシール ( 全てという遁走の道としてのみあらわれる。父性が死にいたる 課目の優等賞を得た ) の優秀性を確証することになるからで まで彼の生涯の道をひらくのだ。もしもこれをしも役割とい
の秩序の理由そのものとして、私を指示している。私が一つ自由である。私は生まれることによって場所を占めるが、し の場所を占めないということはありえない。人間存在は、根かし、私は私が占める場所についての責任者である。 (m) 私の過去 原的に、諸事物のただなかにおいて自己の場所を受けとると 過去は、現在を構成し未来を粗描するには無力である。そ ともに、人間存在は、それによって場所が諸事物にやって来 るところのものである。幾何学的な空間はまったくの無であれにもかかわらず、未来へ向かって自己を脱出する自由は、 自分の気の向くままに、自己に過去を与えることができない。 る。私に対してあらわれうる唯一の具体的な場所は、まさに さりとて、自由は過去なしに自分で自分を生み出すこともで 中心として考えられた私の場所によって規定される絶対的な 払がりである。この拡がりが私に対して援助的もしくは敵対きない。自由は、自己自身の過去であるべきであり、この過 的なものとしてあらわれるのは、何よりもます、私が、選択去は、とりかえしのつかないものである。過去は、距離をお いて私につきまとうが、私の方では、まともに振り返ってこ も必然性もなしに、私の「そこにーある」の絶対的な事実と して、私の場所を存在する j'existe ma place ・がゆえでしかれを注視することさえできない。過去は、われわれの諸行動 を決定しはしないが、少なくとも、そこから出発してでなけ ありえない。それにもかかわらず、私の場所を私に賦与し、 私を位置づけることによってこの場所を私の場所として規定れば、われわれが新たな決心をおこなうことができないとこ するのは、私の自由である。私の場所が私に対して意味をもろのものである。いかなる自由な超出も、過去から出発して でなければおこなわれえないであろう。その反面、過去とい つのは、私が為そうと企てるところのものとの関係において であり、私の「世界ー内ー存在 , 全体との関係によ 0 てであうこの本性そのものが、一つの未来の根原的な選択によっ て、過去にやって来るのである。特に、とりかえしがっかな る。場所に存在するとは、まず第一に、「 : : : から遠くに」 いという性格が過去にやって来るのは、私が未来を選択する もしくは「 : : : の近くに」存在することである。場所は、わ ことそのことによってである。 容れわれがそこに到達したいと思っているがいまだ存在しない 私の一切の過去は、緊急なもの、切迫したもの、有無をい の或る存在との関係において、はじめて一つの意味を与えられ わさぬものとして、そこに存在する。けれども、過去の意味 る。場所を規定するのは、この目的に対する近づぎやすさ、 しついかなる瞬間にや、過去が私に与える命令を、私の目的の企てそのものによ もしくは近づきがたさである。私は、、 在 って選ぶのは、私である。ひとたび引き受けた自己拘東は、 も、私自身を、私の偶然的な場所に拘東されている者として とらえる。けれども、私の偶然的な場所にその意味を与える私のうえに重くのしかかる。かって承諾した夫婦関係は、私 の諸可能性を制限し、私の行為を私に指示する。けれども、 のは、まさにこの拘東であり、しかもこの拘束こそが、私の
の過去の未来として対自であると同時に、現在は、対自とし と一体をなして生じるものであり、この対自は、世界への現 て、すなわち未来がそれであることを約東していたところの 前として自己を無化し、過去であるべきでありながら過去を ものであらぬものとして、自己を実感する。つぎに、未来が超越する。あたかも、現在はたちまち埋まってたえず再生す 遠くにあるばあい、未来は、新たな現在に対してどこまでも る不断の「存在の穴」であるかのごとくに、すべてが経過す 未来的である。けれども、もし現在がみずから自己をこの未る。また、あたかも、現在は即自の鳥もちに引っかからない 来の欠如として構成しないならば、この未来は可能というそ ためのたえざる逃亡であるかのごとくに、すべてが経過す の性格を失う。そのとき、前未来は、新たな現在に対してど る。即自の鳥もちは、もはやいかなる対自の過去でもないよ うでもいい可能となるのであって、この新たな現在そのものうな一つの過去のなかに現在を引きずりこむ即自の最後の勝 の可能となるのではない。前未来は、もはや自己を可能化し 利にいたるまで、現在をおびやかす。即自の最後の勝利と ないで、かえって可能としてのかぎりにおいて即自的存在をは、すなわち死である。死は、全体系の過去化による時間性 きのう 受けいれる。「昨日は、私が次の月曜日に田舎へ出発するとの根本的停止であり、即自による人生全体の奪回である。 いうことが、私の可能として、可能的であった。」未来は、 Ⅲ根原的時間性と心的時間性ーー、反省 時間的な経過につれて、即自へ移行するが、未来という性格 を決して失いはしない。 反省するものは、存在のきずなによって、反省されるもの 一つの新たな現在の出現と同時に、現在的な対自は過去に と一つに結ばれている。反省する意識は、反省される意識で 変形する。前ー現在の過去化は即自への移行であるが、一つある。けれども、反省が認識であるかぎりにおいて、反省さ の新たな現在の出現は、この即自の無化である。現在は、一れる意識は、反省する意識にとっての対象であるのでなけれ つの新たな即自ではない。現在は、あらぬところのものであばならない。 このことは存在分離を意味している。それゆ 容り、存在のかなたにあるところのものである。過去は消減さ え、反省する意識は、反省される意識で、あると同時にあら ぬ、のでなければならない。 のせられるのではない。過去は、それがあるところのものとな 存在への現前としての対自の出現のうちには、一つの根原 ったのである。過去は現在の存在である。 椛自分の無をすっかり出しつくしてしま「た対自。即自によ的な分散がある。すなわち、対自は、そとに、即自のかたわ 存 って奪回された対自。世界内で稀薄になっている対自。かく らに、三つの時間的な脱自のなかに、自己を失う。対自は自 のごときが、私のあるべきであるところの過去であり、対自分自身のそとにある。この対自存在は、自己の内奥において アヴァタール の化身である。けれども、この化身は、一つの対自の出現すら、脱自的である。反省は存在回復の試みとして、対自の
的ではない。自我は、意識に対して一つの超越的な即自としわれは、過去、現在、未来という時間の三つの次元がもつ意 て、人間的世界の一存在者としてあらわれるのであって、意味を、現象学的記述によってあらかじめ明らかにしておかな 識に属するものとしてあらわれるのではない。自我は自己性ければならない。しかし、それは一時的な仕事であって、そ の超越的現象であるにすぎない。意識は、自分が出現するやの目的はあくまでも全般的な時間性の直観に到達させるとこ いなや、反省という単なる無化的運動によって、自分を人格ろにある。 的ならしめる。或る存在に人格的実存を与えるのは、一つの (<<) 過去 自我を所有することではなくて、自己への現前として対自的 過去はもはや存在しない。存在するのはただ現在だけであ に存在するという事実である。第二の反省的運動としての自 る。そういう考えかたが一般に広くおこなわれている。。フラ 己生は、、 しっそう深い無化作用をあらわしている。対自は、 トンの『テアイテトス』にはじまり近代の心理ー生理学者に 対自の諸可能性のはるか遠方に、手のとどかないところにあ いたる脳髄痕跡説の根底には、この考えかたが横たわってい るかなたの「自己」である。自己性は、対自がかなたにおい る。デカルトもそう考えた。反対に、過去に一種の名誉的な てこの「自己」であらねばならないという自由な必然性であ存在を許す考えかたがある。ベルクソンによれば、或る出来 る。世界とは、人間存在が「自己」へ向かって超出するとき事が過去に向かうとき、この出来事は存在することをやめる にのりこえられるべき諸存在の全体であり、「そこから出発のではない。 この出来事はただ働きかけることをやめただけ して、人間存在が自分の何であるかを自分に告げ知らせるとである。持続は多様な相互浸透であり、過去はたえす現在と ころのものーである。世界はもともと私の世界である。世界組みあわさっている、という。フッセルは問題を逆にして、 がなければ、自己性もなく、人格もない。また、自己性がな現在的な意識冫。、 こよ過去指向という働きがあり、これが過ぎ去 、人格がなければ、世界もない。世界に、世界としての統った意識をひきとどめ、それの消減をふせいでいる、とい 一と意味を与えるのは、対自の諸可能性である。 う。しかし、過去はもはや存在しないというデカルトの考え も、過去は存在するというべルクソンの考えも、ともに過去 第一一章時間性 を現在から孤立させ、過去の本性をそれだけ切り離して考え ている。彼らは意識に即自存在を賦与し、意識を「それがあ 時間的な三次元の現象学 るところのものである」と考えたのである。 対自が瞬間性を拒否し、自分の諸可能へ向かって自己を超「ポールは一九二〇年に高等理工科学校の学生であった」と 越していくのは、時間的な超出のうちにおいてである。われ私が書くときの「あった」était について、現象学的記述を
のーただなかにー存在するもの」として開示される。超越性航跡より以外の何ものでもないし、未来においては、それは を失った対自は、取りかえしのつかないままに存在する。対それ自身の企てでありえないがゆえに、まったく存在しな 自の過去と、対自に対して共通現前的であった世界の過去と 。また、普遍的時間は、それがあらわれるやいなや、すで のあいだには、対自が自己自身の過去であるべきであるとい に超出され、自己に対して外的である。その点で、それは対 う点を除いては、何らの差異も存しない。 一つの過去しか存自の現在と符合する。ただ、一方は「自己に対する外面性ー 在しない。私の過去は、世界のなかにおける過去であり、過であり、他方は「自己を時間化する純粋な脱自ーである。 去的な存在の全体への私の従属である。 私の未来に対して顕示される即自の未来は、私によって現 前されている現実と、密接なつながりをもっている。即自の 普遍的時間の現在的次元は、運動をよそにしては、とらえ られないであろう。運動に関するエレア派のアポリアを避け未来は変様を受けた現在的な即自である。世界の未来は、私 るためには、通過とは何かを考察してみるのがいい。通過すの未来に対して開示される。世界の未来は、事物の恒常性 るとは、或る場所に存在すると同時に、その場所に存在しなや、本質から潜勢にいたるまでのもろもろの潜在性から、成 いことである。したがって運動は、「自己に対する外面性ー りたっている。世界とこのものたちが出現して以来、一つの という関係である。しかしこのような関係は、自己自身に対普遍的未来がそこに存する。しかし世界の未来的な状態は、 して自己自身の関係であるような一つの存在すなわち対自にすべて、世界にとって無差別的な相互外面性のままにとどま 対してしか顕示されない。 これをまったくの即自関係によっ っている。 て定義することは不可能である。「自己に対する外面性」は、 時間は、それが、自己を時間化する脱自的な時間性に対し 存在の一つの病いのごときものである。自体であると同時に てあらわれるかぎりでは、いずこにおいても、「自己に対す 自体の無であるというようなことは、即自的なこのものにと る超越ーであり、「前」から「後」への、また「後」から ってはそもそもありえない不可能性である。「自己に対する「前」への、指し向けである。しかしこの「自己に対する超 外面性」はいささかも脱自的ではない。動体がそれ自体に対越」も、時間が即自のうえでとらえられるかぎりにおいて、 してもっ外面性という関係は、無差別的関係であり、ひとり 時間はかかる超越であるべきであるのでなく、むしろかかる の証人によってしか発見されない。 ところで、普遍的時間を超越が対自によって時間のうちに存在されるにすぎない。時 たんなる現在として規定するのは、かかる運動である。ま 間のもっ粘着力は、自己自身へ向かっての対自の脱自的な企 ず、普遍的時間は、現在的な明減としてあらわれるのであるてすなわち人間存在の動的な粘着力の、客観的な反映であ から、過去においては、それは消失していく線、くずれ去る り、一つの幻影である。もしわれわれが時間をそれだけとし
したがう一物体であるかぎりにおいて、それらの可能性は、・ 去から分かっこの何ものでもないもの rien として、自分自 外から私のところへやってくる。それらは私の可能性ではな 身のうちに無 néant をたずさえているということである。 い。私は道の小石に気をつける。できるだけ、崖っぷちから【 意識は、自分の過去に対して、この過去から無によって切り 離されたものとして、みずから自己を構成するのでなければ離れて歩みを進める。私は危険を遠ざけるための未来の行為・ ならない。意識は、存在のこの裂けめの意識であるのでなけを企てる。それらの行為は私の可能性である。私が或る行為 ればならない。自由とは、自己自身の無を分泌することによを可能なものとして立てるとき、この行為はまさに私の可能 この行為を持続させるものは何もないこと って自分の過去を場外に出す人間的存在である。意識は、片であるがゆえに、 時もたえることなく、みずから自分の過去存在の無化としてを、私は了解している。私がいま全力をつくして身がまえて いるのは、私がやがて小径の曲り角にさしかかるであろう末 自己を生きる。自由において、人間は無化という形のもと で、自己自身の過去である。同様に、人間は無化という形の来に向か「てである。未来の私の存在と、現在の私の存在と のあいだには、すでに一つの関係がある。しかしこの関係の もとで、自己自身の将来である。 ふところに、無が滑りこんできている。私は、私があるであ ところで、人間が自分の自由を意識するのは、不安におい てである。不安が、存在意識としての自由のありかたであろうところのものでは、いまはあらぬ。私は、「それであら - ぬ」 ne l'é ( repas というしかたで、私があるであろうところ一 る。キルケゴールは罪のまえにおける不安を、自由のまえに のものである。あらぬというしかたで自己自身の未来である おける不安として特徴づけた。不安が恐怖から区別されるの は、恐怖が世界の諸存在についての恐怖であり、不安が自己という意識こそ、まさにわれわれが不安と名づけるところの ものである。私は断崖に近づく。私のまなざしが深淵の底に一 のまえにおける不安であるということによってである。めま さがし求めるのは、「私ーである。この瞬間から、私は私の いが不安であるのは、私が断崖に落ちはしないかと恐れるか 容ぎりにおいてではなく、私がみずから断崖に身を投げはしな諸可能とたわむれる。私の眼はありうべき私の墜落を模倣 し、これを象徴的に実感する。 のいかと恐れるかぎりにおいてである。私はいま或る断崖に沿 こみち 「将来のまえにおける不安ーと同様に、「過去のまえにおけ 「た狭い小径のうえにいる。この断崖は死の危険をあらわし る不安」がある。この不安は、一一度とふたたび賭博をしまい 在ている。私は石ころにつまずいて深淵のなかに落ちこむかも と心に誓っていたのに、賭博台に近づくと、たちまちその誓 . 、径の脆い土が私の足もとで崩れるかもしれな 「しれない 4 いが水の泡になってしまうのに気づく睹博者の不安である。 そういう予想をするとき、私は一つの事物となる。私は 「二度と賭博をしまい」という昨日の決心はつねにそこにあ それらの可能性に関して受動的である。私もまた万有引力に かど
る発展過程の産物であると証明し、それによって自然に対す真に弁証法的な理想とをくらべてみれば、以上のことは十分 ( 原注 ) に理解できる。階級闘争の場合においては、実際にプロレタ 3 る形而上的概念に致命的な一撃をあたえた」と。 リアートは、階級なき社会という統一の中にブルジョア階級 原注工ンゲルス「・デューリング氏の科学の変革」〔反デュー を吸収するだろう。生存竸争の場合には、強者は一も二もな リング論〕第一巻。一一ページ。コート版。一九三一年。 く弱者を消減させてしまう。つまり偶然のもたらす優越は発 しかします明らかなのは、自然の歴史なる概念そのものが展しないのである。それ自身では動こうとせず、遺伝により ばかげているということだ。歴史は、過去のあったがままの何の変化もなく次へと移る。それは一つの状態であって、 変化によって、あるいはあったがままの行為によって、成立とうてい、内的ディナミスムによってみずからを変革し、す するものではない。現在の立場に立ち、ある意図をもって過 ぐれた有機体のある階級を生みだせるものではない。ただ、 去を再把握し、はじめて歴史はその意味を明らかにする。し いま一つべつの偶然の変化が外部からやってきて自分に加わ たがって人間の歴史以外にはどのような歴史もないはすであるだけのことである。そして切りすての過程が機械的に繰り る。のみならす、もしダーウインが、生物の種があるものか返し行なわれるのである。エンゲルスは不注意からああした ら他のものヘ次々と派生して来ていることを示したとするな ことを言ったのだ、と結論すべきだろうか ? いやそれと ら、は、彼の試みた説明は機械論的なものであって弁証法的な も、もともと誠意をもって言ったことではないのか : : : 。要 ものではない。彼は各個体のあいだにある差別を些少変異のするに、自然が歴史をもっていることを証明するため、エン 理論によってわれわれに説明する。こうした変異のおのおのゲルスは科学上の一つの仮説を利用しているのだが、その仮 は、彼の考えでは、ある「発展過程ーの結果ではなく機械的説なるものは、博物学全般を機械的連繋にまで連れもどす抜 な偶然の結果なのだ。同一種属のグループにおいて、中のあきさしならぬ宿命を背負っているのだ。 るものが身長、体重、カ、あるいは何らかの特異な細部にお ではエンゲルスは、物理学の領域ではもっと本気になって いて他のものより優れていることも、統計的にみてありえぬ事を語っているか ? ・彼は次のようにのべている。「物理学 ことではない、というのである。生存競争についていえば、 にあっては、あらゆる変化は量から質への移行、物体に固 相反するものを融合させ、新しい綜合を生みだすことはでき有 ( ? ) の、あるいは他からその物体に伝えられる運動 ないだろう。生存競争によってえられるところは純粋に否定何らかのかたちの運動の量から質への移行である。すなわ 的なものである。なぜならそれは最弱者を決定的に切りすてち、たとえば、水の温度ははじめのうちは水の液体状態にた てしまうからだ。生存竸争のもろもろの結果と階級闘争なる いし何の意味ももっていないか、温度を上昇あるいは下降さ
不断の可能性である。自己自身に対して自己自身の根拠であは、対自を、「将来において、過去において、世界のなかに、 ろうとする対自の努力、自己自身の逃亡を内部において回復自己自身から距離をおいて、つねにこの自己である存在ーと し支配しようとする対自の努力、自己を逃れる逃亡としてこ して発見する。反省は、それが自己性の独自のしかたとし の逃亡を時間化する代りに、 この逃亡であろうとする対自の て、歴史性として、自己を開示するかぎりにおいて、時間性 努力は、当然、挫折に終らざるをえない。反省とは、まさに をとらえる。 この挫折である。 われわれが根原的時間性と呼ぶのは、かかる純粋な反省に 反省には、純粋な反省と不純な反省がある。純粋な反省と よってとらえられる時間性である。それに反して、心的時間 は、反省される対自に対する、反省する対自の、たんなる現性は、不純な反省によって構成される。心的時間性は、心的 前である。これが反省の根原的な形である。明証という点で な諸事実の継起として、相互主観的な実在として、科学の対 純粋な反省がもっている資格は、反省する意識は反省される象として、人間的な諸行動の目的として、あらわれる。かか 意識であるということである。もしそこから離れるならば、 る心的時間性は、明らかに派生的な時間性であるが、根原的 反省は正当化されない。たしかに反省は一つの認識である。 時間性から直接に生じることはできない。根原的時間性は、 認識するとは自己を対象ではあらぬものたらしめることであ自己を時間化することしかできないからである。一方、心的 る。しかるに、反省する意識は、反省される意識から自己を時間性は自己を時間化することができない。心的時間性は、 完全に切り離すことができない。反省にあっては、認識は全不純な反省によって、根原的時間性が即自に投影されたもの 体的な認識であり、一つの閃光的な直観である。さらに、反である。 省される意識は、反省する意識の過去であり、その未来であ る。デカルトのコギト・エルゴ・スムは決して瞬間のなかに 第三章超越 制限されない。疑いは自己の背後に過去を指し示すと同時 に、自己の前方に将来へ向かっての企てである。反省の権利 対自は、自分の存在において、対自と即自との関係の責任 は、過去に、将来に、現前に、対象にまで、ひろげられなけ者である。対自は、根原的に、即自との関係を根拠として生 ればならない。反省は対自の存在のしかたであるから、時間 じる。超越の問題は、対自と即自との関係が対自の存在の構 成要素であるかぎりで、対自を、即自との関係そのもののう 化として存在するのでなければならない。反省は一つのディ アスポラ的な現象である。かくして、純粋な反省は、対自ちにおいて記述することである。 を、その全体分解的な全体のうちに発見する。純粋な反省