後の三巻が書き終えられたのは四〇一年だと、推定されてい る。そうだとすれば、『告白』が書き始められた頃、アウグ スチヌスは四十一「三歳であり、書き終えられた頃、四十・ 六、七歳だったわけである (). Augustinus, ミミ c 、ミぎミ trad. , par G. Bardy, pp. 577 ー 578 参照 ) 。この頃、アウグス チヌスはどのような姿をしていただろうか。ここでも、彼 は、まことに大胆に自分の姿を神と人の眼の前に告白するの であるが、私たちはその内容の説明を目次にまかせることに . しよう。 今泉三良 アウグスチヌスは、何のために、『告白』をあらわしたり だろうか。このことも、私たちには、明らかではない。けれ 村治能就 ども、ルソーは告白して、自分の正しさを示そうとしたが、 アウグスチヌスはそうではなかった。全くそうではなかっ アウグスチヌスは『告白』を、いつ、ロ述していたのだろ た。一体、アウグスチヌスにとっては「告白する」 (confiteri) うか。彼は『告白』第八巻一章でミラノのシンプリキアヌス とはどういう意味だろうか。それは、たしかに、自分の失敗・ のことに言い及んでいるが、この人を司教とは呼んでいな シン。フリキアヌスは、アンプロシウスの死 ( 三九七年四を告白することであるが、しかし同時に神の栄光をたたえる・ 月四日 ) とともに、その後をうけて、司教についたのであことである。告白は、したがって、讃美なのである。アウグ スチヌスもこの二重の意味で自分を語るのである。しかし、 る。シンプリキアヌスが司教だったとすれば、アウグスチヌ オいだろう。ま彼は神のあわれみをたたえるほうに重点を置いている。な スも彼が司教であることを語らないはすはよ お、この二重の意味の「告白する」が七十人訳の exomologe• た、第八巻三章では、彼はアンプロシウスを今もなおミラノ 題 の司教であると、語っている。それで、『告白』は三九七年 isthai (confiteri) に当るのである。 アウグスチヌスは自分が「埃と灰ーであることを、十分に よりも以前に、したがって三九六年に、書き始められただろ 解 う。おそくも、三九七年の初めには、書き始められただろわきまえていた。幼児のなかにも罪のしるしを見て、自分の 言—に ( オしがしかし自分もそのような罪のしるしのなか 3 う。だが、彼は何時書き終えたのだろうか。聖書のなかの神 学的な問題を取り扱っている第一一巻から第一三巻までの最 にあったたろうと、語っている ( 『告白』第一巻七章一一節 ) 解題 アウグスチヌス告白 Aurelius Augustinus 】 Confessiones. 400.
第六巻 彼はアン・フロシウスの説教を聞い て、少しずつ、誤謬から離れていっ 彼の母モニカが、もうミラノに来た。 彼自身は三十歳だった。アン・フロシウ スの説教に教えられて、彼は、次第 に、カトリックの教えを理解するよう になった。マニ教徒がそれを攻撃する のは間違いである。友人アリュビウス の性状のことを彼は語る。一層よい生 活に進もうと考えて、迷った。死と審 判を恐れて、日毎に、回心の生活に向 かおうと燃え立った。 第一章 アウグスチヌスはマニ教徒でもな く、カトリックの信者でもなかった。 第二章 殉教者の墓所における集会と飲食。 第三章 : アンプロシウスの仕事と研究。 第四章 こ 0 一旨 ・一三五 第五章 : 第六章・ : 第七章 第八章 第九章 第一〇章 アンプロシウスの説教を聞いて、ア ウグスチヌスはカトリック教会の教 えを理解することが出来るようにな っこ 0 聖書の権威とそれを学ぶ必要とにつ 乞食の満足を例にあげて、彼は野心 を抱く者のみじめさについて語る。 アウグスチヌスは競技に夢中になっ ているアリュビウスを改心させた。 アリュ。ヒウスは、また、剣闘士の気 ちがいじみた見世物に熱中したが、 しかし、以前は、これを嫌ってい 盗人だと思われて、アリュ。ヒウスが 捕えられた。 こ 0 一四五 一哭
434 よび十四都市代表ははげしく抗議した。 ( このときから、改て、教会の全面的立て直しがはかられ、反改革連動が積極的 に進められることとなる。ルターの晩年は、苦難の連続であ 革派は「プロテスタント」とよばれるようになった。 ) また、 皇帝およびカトリック諸侯の勢力と対抗するために、改革派って、かれにとって、栄光の時期はすでに一五二〇ー二一年 をもって終わっていた。しかし、ルターは、最後まで、キリ 相互の団結をはかって、一五二九年十月、ヘッセン伯フィリ ップの主唱のもとに、ルターとッヴィングリとの会談が行な ストによりすがり、かれの説いた信仰を告白することを、一 われ、両者は福音的信仰の原則については意見の一致を見た五四六年一一月十八日、生まれ故郷のアイスレーベンで、その が、聖餐論については最後まで対立して、両派の協調の試み地上の生を終えるまでやめなかった。かれの事業のもっとも は不成功に終わった。ついで、一五三〇年一一月、帝国の統一着実な協力者であり、後継者であったメランヒトンは、「あ と平和のために国内の宗教信条を確立しようとする、皇帝力あかなしいかな、イスラルの戦車とその御者は去った」 ール五世の強い要求によって開かれたアウクスプルク国会と、かれの死を嘆いたといわれる。 に、プロテスタントとしては最初のものである『アウクスプ ルク信仰告白』が提出された。これは、メランヒトンが主と ルターは、アウグスチヌスの精神をうけつぐ膠道会に属 して起草したものであって、ルターは国会に出席を許されな し、若いときから、この偉大な教父に負うところがもっとも カったが、かげにあって督励した。この国会において、。フロ多かった。アウグスチヌスの書は、さきにいったように、ル テスタントとカトリックの協調が成るどころか、両者の対立ターがエルフルト修道院の書庫から借り出してもっとも熱心 はむしろ尖鋭化したが、その信仰告白は、ルター派教会の正に読んだものであり、かれの懐疑と絶望に拍車をかけたの 式の信条として採用され、翌一五三一年、ザクセン選帝侯ョ は、これまたさきこ 冫いったように、アウグスチススの教えた ハンとヘッセン伯フィリップを中、として成立するシュマル 「予定」から起こる間題、すなわち、自分ははたして救いに カルデン同盟の基本綱領となった。しかし、すでに農民戦争選ばれたものか、それとも永遠に呪われたものかということ の経過を通じて民衆の生活現実から離れ去っていたルターの であった。そしてルターは、「福音の再発見ーに到達したの 改革連動は、かれのいわゆる「キリスト者貴族」の権力にまち、アウグスチヌスの『霊と儀文について」の書のうちに、 すます強く結びついていった。そしてルター主義が若い生命神の義を、神がわれわれを義とすることにおいてわれわれに を失って、教条化しようとしていたとき、カトリック教会側与える義、われわれがそれによって義と宣せられるものと理 では、イグナチウス・ロヨラの努力によって、戦闘的なイエ解されていることに満足したと語っている。すなわち、この ズス会が創立され、一五四五年以来のトリエント会議におい 点に関しても、ルターは、アウグスチヌスから問題を与えら
415 解説 なすべきかを十分に知りながら、そのなすべぎことを ス欲し行ないえないということであった。かれは、子ど 像ウもの声を天来のものとして聞いて、聖書を読み、その 肖ア 命令に従うことができたことを、まったく神の大きな 古ンす恩寵と感じたのである。 を このアウグスチヌスの回心は、三八六年、すなわち一 ス手かれの三十一一歳の夏の終わりのことであったと考えう ス ウの れるが、かれは、当時、胸を病んでいたので、回心を ) 、 ' 場 ( グ一ギス ラヌ機会に教職から退いた。そしてミラノの郊外カッシキ ロ ペチ ←アクムにあった友人の山荘に、母モニカや友人たちと ) ともにこもって、聖書に親しみ、哲・ を開いて最初に目に触れる句を神の命令 学的談論をつづけて、信仰の真理の として読んだ。そこには、「宴楽と泥酔、 一 4 ュ 2 理解を深めようとした。それをもと 淫乱と好色、闘争と嫉妬を捨てて、ひる 歩くように、つつましく歩こうではない , , に書かれた一「三の哲学的対話篇 , や、アウグスチススと理性との対話、 か。あなたがたは主イエス・キリストを の形式をとる『ソリロキア』 ( 独語 着なさい。肉の欲をみたすことに心を向 録 ) 等、初期の諸作を読むと、かれ けてはならない」 ( 『ローマ人への手紙』 はなお新。フラトン派の哲学によって 一三の一三ー一四 ) としるされてあった。 この聖句を読み終わると、たちまち平安 。思われるが、しかしかれの回心はた の光ともいうべきものがかれの心にみち 、だ生き方のうえでの転回だけであっ あふれて、疑惑の闇はまったく消えうせ一 た。そしてかれは、もはや妻を求めるこ ふたのではなく、すでに当時から、新〕 しくカトリックの信仰の立場にたっ ともなく、また、この世の何ものにも希 て、世界と人生とに対する自分の見 望をかけなくなった。アウグスチヌスが もっとも苦しみ悩んでいたことは、何を 方の立て直しの努力をはじめていた・
とローマ人の意志とをもって対決した。そして自己をカトリ ックのキリスト者につくり上げるとともに、カトリック的キ リスト教思想をもっくり上げた。 アウグスチヌスの父は異教徒の / 。、トリキウス、母は篤信の カトリック教徒のモニカであって、かれはその出生からして キリスト教と異教との闘争にひき入れられていた。パトリキ 月部英次郎 ウスは、地方議会にも出て、税金のとり立てなどもしていた アウグスチヌスの時代は、世界史の大きな転回期に、異教といわれるが、自分の土地からあがる収入でどうやら暮らせ 的古代からキリスト教的中世への移り行きの時期に当た 0 てる程度であ「て、あまり裕福ではなか「たと思われる。アウ いた。すなわち、かれは三五四年十一月十一二日、ロー「領北グスチヌスは、初等教育を受けたのち、近くの「ダウラの町 に出て、二、三年間、主として典文学と修辞学 ( 弁論術 ) アフリカ、スミジア州の田舎町タガステに生まれたのであっ て、それは、キリスト教を公許したコンスタンチヌス大帝のを学んだ。 タガステに帰って、家にあること一年ののち、アウグスチ 息子コンスタンチウス二世の治世であったが、キリスト教の ヌスは、十七歳のとき、ロマニアヌスという、同郷の資産家 勝利はまだまったく確実とはいえなかった。かれの少年の頃 には、背教者ュリアススによる異教的反動が起こったのであの援助を得て、カルタゴに遊学することになった。カルタゴ は、フェニキア人が市をつくってからすでに千一一百年、当時 り、また、成人として、テオドシウス大帝によってキリスト は地中海沿岸の大貿易港として、首都ローマにつぐ人口をも 教がローマの国教として定められるのを見たが、その後も、 つ、富み栄える都市であるとともに、また、かってテルツリ 古い異教の神々の信仰はなお一般人のあいだに根深く存続し アヌス、キ。フリアヌス等を出した文化都市でもあった。アウ ていたのである。また、かれの老年期には、蛮族侵入の危険 グスチヌスは、この地で法律と修辞学を学んで、抜群の成績 がますます増大して、四一〇年、首都ローマは西ゴート王ア ラリックの軍によって略奪され、四三〇年八月一一十八日、アを挙げたが、大都会の誘惑に負けて、一時、放縦の生活に身 ウグスチヌスが死んだとき、かれがその地の司教であったヒをゆだねた。かれはある婦人と同棲して一人の男子を設け ッポ・レギウスの市は、ヴァンダル族に囲まれていた。このた。この婦人は身分がいやしかったために、正式の結婚は母 Ⅱような時代に、アウグスチヌスは、地上に生をうけ、時代をモニカ ( 父はもうなくなっていた ) によって認められなか ったが、この内縁関係は誠実な愛をもって守られて、その 動かしていた問題に、カルタゴ人の情熱とギリシア人の精神 解説
424 じ、またアウグスチヌスの書を借り出して熱心に読ん こうして一年余エルフルトの修道院にあったが、翌 一五一〇年の十一月、ルターはもう一人年長の修道士 教とともにローマへ旅立った。アウグスチヌス会修道完 のの統合問題に関して教皇に上訴するための使者として であった。一一人は雪のアルプスを越え、その年の暮れ、 \ らべ歴史に名高いヴィア・カッシアにたどりついて、永遠 テの都をはるかかなたにながめやったとき、「聖なるロ ーマよ、祝福あれ」と叫んだといわれる。しかし、ル ~ 寿をヴターが見出した。ー「の現実はどうであ 0 たか。教皇 に会うこともできす、上訴の件も不成功に終わったけ れども、ローマに四週間ばかり滞在し、敬虔なカトリ ック教徒として、多くの聖堂をめぐり、聖蹟遺物をお 幼い頃からいだいていた聖なる都のイメージはこ がんだが、 称されたザクセン選帝侯フリードリヒが一五〇一一年秋に、ラ イプチッヒ大学と対抗させようとして創立したばかりであ「わされた。教皇とかれをとりまくものの豪奢な生活、司祭た て、神学部の聖書講座と人文学部の道徳哲学講座との二つはちの不信仰や無知にはただあきれるばかりであ 0 た。とく に、永遠の都の死んだような無気力きわまる生活とイタリア アウグスチスス会に委嘱されていたのである。それで、まだ 一一十五歳になるかならぬかの若い学僧ルターは、ヴィッテン人の怠惰は、興隆しつつある祖国ドイツの現状ときわだ「て ベルクに赴任して、アリストテレスの『 = 「「「ス倫理学』対照的に感ぜられた。こうした印象を受けて、一五一一年の 一月末か二月初めかに、伴侶とともにローマをたって、ルター、 を講し、学生の討論を指導するとともに、自分も学位をとる は四月にエルフルトの修道院に帰って、『命題集』の講義を ために、神学部の講義や演習に出席した。そして翌一五〇九 年三月には神学の・ ( ッカラウレウスとなり、夏学期から ( 当再開した。 ところが、ルターは同年の夏、ヴィッテンベルク修道院に 時の大学の習わしによって ) 聖書の講義をはじめたが、同年 秋、 = ルフルトによびかえされて、修道院で「命題集』を講移籍され、ここでかれの聴罪師ョ ( ン・フォン・シ = タウビ . オ t ・、にゾ
419 解説 救われると主張した。ペラギウスは、元来、実行の人であっ 威を確立された。 このドナッス派との論争がまだ結着を見ないうちに、それて、理論家ではなかったが、その弟子コエレスチウスは師の にもまして困難な問題が起こっていた。それはペラギウス派説をいっそう発展させ、四一一年頃、師弟同道して、北アフ リカに渡って来た。これに対して、アウグスチヌスは、さき との論争である。ペラギウスは、おそらくプリタニア生まれ に述べたとおり、自分の回心り経過からしても、神の恩寵に の修道者であって、四〇〇年前後にローマに来て住んでいた。 かれは、古典の教養が深く、厳格な修道生活を送って、当時よる救いのみを信じていたので、ペラギウスの説はキリスト 一般のキリスト者の生活の道徳的退廃を嘆いていた。そして教からその本質的なものを奪うものだと非難した。アウグス チヌスにとってよ、。、 ギリシア・ローマの道徳思想をもとに、人間は善行によって , ウロが「あなたの持っているもので、 もらっていないものがあるか」 ( 『コリント人への 第一の手紙』四の七 ) といっているように、人間 の持っているものはすべて神から与えられたもの であり、われわれの救いはわれわれの功績による 画ものではなく、神の無償の恩寵によるものであっ リた。さきに述べたドナッス派の分争は主としてア チフリカ教会の間題であったが、このペラギウス派 の異端はキリスト教世界全体の問題であった。ア 鷲に対してはげしい論陣を張 はウグスチヌスは、こ 」一スり、つぎつぎに一又論を公にして、神の寵と意志 チの自由等に関する説をうちたて、キリスト教の教 以理のうち、東方神学から論じ残されていた、人間 こ、少なくとも ウの本性をどう考えるかという問題冫 一つの、決定的な解決の方向を与えたのである。 なおまた、すでに四世紀の終わり頃からゲルマ 一物当 ン諸族はしばしばローマ帝国領内に侵入していた が、五世紀になるとその危険はとみに増大して、
405 解題 わば過去への回想にあったが、第一 0 巻では、司教になった par M. Charpentier, 2 tomes, Paris (Classiques Garnier). The Confessions of St. Augustine, by J. G. Pilkington. 著者が神の使徒としての現在の心境を内省的に語っている。 これに対して、第一一巻から第一三巻は、神の永遠を観てい Edinburgh, 1876 (St. Augustine ・ s 舅「 orks. vol. 14 ). るとされる。つまり、この神学的部分では、聖書、とくに旧 AureIius Augustinus, Bekenntnisse. übersetzt von A. Hoffmann (Bibliothek der Kirchenväter, Augustinus, 約聖書の世記第一章に著者独自のアレゴリカルな解枳をほ どこし、神の創造のみわざが万物に、とくに著者の生につ 7. Bd. ). アウグスチヌス『告白』 ( 服部英次郎訳、岩波文庫、上巻ねに働いていることを讃美しているのである。さらに、こま かに見ると、第一一巻では、告白の新しい対象として平書、 と中巻 ) 。 とくに旧約聖書の創世記第一章がとりあげられ、創造の観念 以上は故今泉氏の『告白」第一巻ー第一〇巻についての解に反対するマ = 教徒その他のひとたちに対して彼らが提出し た創造の「以前」の問題ーー神は創造する前になにをしてい 説の一部である。本全集では『告白』の全巻を完訳すること 同の本質の考察に入ってゆ たかという愚問に答えながら、 になったので、残された第一一巻ー第一三巻の三巻を村治が く。物体的 ( 天体 ) 連動にとらわれて外的にとらえられた世 担当した。 日一般の時間観念に対して、連動の持続をはかるのは、むし この三巻はいわゆる神学的部分であって、前九巻ないし一 ろ時間であり、この時間を意識の持続のうちに求めた。この 〇巻とのつながりーー統一が多くの学者たちによって問題に ようにし ( 、時間の内面化、意識化が行なわれ、過去、現 され、論議されている。しかしとにかく、アウグスチスス自 身が一三巻としてまとめて完成したこの著作のプランや統一在、未来を魂の意識の働き、つまりその様相として、記憶、 は、これを外的、文献的な一一一〔葉のつながりのうちにのみ求め注目、期待にかえしたことはあまりにも有名である。しかし ないで、むしろ、内面的なつながりのうちに読みとるべきで時間の真の理解は、分散する自己が仲保者によって、「あら あろう。これは、後述するように、アウグスチヌス個人の内ゆる時間の前にあらゆる時間を創造する」父なる神 ( 第三 0 章四〇 ) のもとへ集中統一されることによってのみ可能であ 省的、神秘的性格から理解しようとすることである。 劇述されているように、肉体的る。かくて、時間の木質は神の永遠性につながる。創造者ロ 第一巻から第九巻までは、 にも精神的にも罪と迷妄のなかにおちこんだ一個の人間が神ゴスと知恵は父なる神とともに永遠である。人間の認識が印 のめぐみと愛の救いにより次第に霊的にめざめ形成され、神象により分散的、変化的で時聞のうちにあるのに対して ( 第 小変墨であることが力 のもとに帰ってゆく過程をふりかえって語った、つまり、 七章九 ) 、神の認識は、包括
る。ここに、時間論は、はじめに天と地を創造した神の永遠る。創造の中心にある人間の創造は霊的な人間の創造であ のみわざの問題に移ってゆく ( 第三〇章四一 ) 。 る。三位一体性の似姿をもって人間は造られるが、神に向か って、愛をもたらす聖霊がつねに上へとひき上げなければ、 第一二巻では、創世記第一章第一節の、はじめに創造され た「天と地」についての省察が行なわれる。マニ教と訣別し霊のままのものは幸福な生を保つことはできない。つねにす たアウグスチヌスは物質を、まず神が「無から」創造した目べり堕ちて暗い深淵となる可能性にさらされている ( 第八章 にみえない無形のものと解する。これは、はじめの「地」と九、第九章一〇 ) 。人間のなかの三位一体性の似姿は存在と 知識と意欲であるが、これによって人間は逆に全能な三一性 「深淵のうえの闇」である。無形の物質は時間に服さない。 の観念を形づくることができるのである ( 第一一章、第二二 無時間である。同じく被造物で、時間に服さない天につ 章三一 l) 。ついで、創世記第一章第一節から第二一節一 て、アウグスチススは「天の天ーの独自な精神的な解釈を提 て、教会建設をはじめとして、アレゴリカルな解釈が展開さ 出する。これは注目に値する。「天の天ーはロゴスとも神と も異なる。したがって無時間ではあるが、永遠ではない ( 第れる。天と地は教会の心と肉とされる。天穹は聖書を、天穹 の下の水は天使たちを、もろもろの水は不信仰の魂たちを、 一五章一一〇ー二一 ) 。主が住み、照らす天として、天なる 乾いた地は信仰のあつい魂たちをかたどる。また匍うものた エルサレムとして、新。フラトン派 ( 。フロティノス ) の英知 ( ヌース ) 界と詩篇や聖。 ( ウロのキリスト教的信仰が重なりちはサクラメントを、海の怪獣は奇蹟を、飛ぶものたちは福 合っている。この巻の後半第一六章以下では、聖書を解釈す音の使いたちをかたどる。また、もろもろの光り輝くもの、 る態度の慎重でなければならないことが警告される。そし星たちはよい作物をかたどる。さらに生ける魂はキリスト者 て、いろいろの正当な解釈の成り立っこと、各人は解釈に選 の魂を、獣たちゃ蛇たちゃ鹿たちは魂自身のはたらきと行為 択の自由のあること、しかもこのことは神の愛 ( 隣人愛 ) とをかたどる。創世記第一章二六の神の像に似せて人間は造ら れたとは精神において新たにされ、造りかえられ、霊的にな 真理の光のもとにのみ可能であることが強調されているが ここからわれわれはアウグスチヌスの真の自由と同胞的な平ったという意味に解釈する。この霊的な人間は三位一体の真 和を求める精神が汲みとれるであろう。 理を他のものにたよらすに、みすからで知ることができ、判 第一三巻は神の善意へのよびかけにはじまる。神に対して断 ( 審くことの ) できるものについては判断することができ る。しかしこの判断には限界がある。大空が成る前のこと なんら寄与するところのない、被造物としての無形の霊的な ものが光のほうに向きをかえさせられ、形をあたえられ、精や、世の騒々しい民たちの誰が神の恩寵にかかわるかという 神化される。神の善意ある恩恵、慈愛の豊かさが讃美されことについては判断できない ( 第一一二章、第二三章 ) 。また
第一三章 第一四章 第一五章 第一六章・ : 第一一章 第一二章 アリュビウスの公正とネ・フリヂウス の到着について。 アウグスチヌスは新しい生活に入ろ うとして、考えながら、思い悩んた。 結婚生活と独身生活とについてアウ グスチヌスとアリュ。ヒウスとの間に 見解の相違があった。 アウグスチヌスのために、妻が探し もとめられた。 彼は友人たちと共同生活を営もうと して、考えた。 同棲していた女性が去ったので、彼 はその代りに別の女性を引き入れ アウグスチヌスは、絶えず、死と審 判におびやかされた。 こ 0 一話 一吾 一五三 第七巻・ : 第三章 : 第四章 : ・ 第二章 : アウグスチヌスは壮年時代の第一歩、 すなわち三十一歳のときのことを思い おこす。まだ無知の闇のなかに落ち込 んでいて、神の本性についても、悪の 起源についても誤謬をおかしていたこ とについて、語る。悪の起源について 探究し、驚くべぎほどに、腐心した。 結局、神の正しい認識に到達したが、 しかし主キリストについては、まだ、 十分に理解することが出来なかった。 第一章 : 神は空間のなかに、限りもなく、ひ ろがる物体的なものだと、彼は考え ネプリヂウスは、討論によって、マ ニ教徒をまごっかせたが、そのとき の彼の論拠について。 自由な意志が罪の原因である。 こ 0 ・一六 0 一五九