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検索対象: 世界の大思想3 アウグスチヌス ルター
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1. 世界の大思想3 アウグスチヌス ルター

たかについても、私はあなたに告白するのを怠ってはならな 、学生のならわしであったから、かえって、よろしいとい いだろう。実は、この場合にも、あなたのみ旨は最も深くか うことになっていた。けれども、かような習わしがおこなわ くれ、そして私たちに対するあなたのあわれみは最もあらわれているのだから、学生たちは、ますます、あわれなものた 一であるが、私たちはあなたのかような業を思い見て、たたえということが、わかるだろう。実際、彼らはそれらの不法を、 なくてはならないのだからである。私がローマに行こうとしゆるされているかのように、おこなうのだが、しかしあなた たのは、友だちが、〔カルタゴの場合よりも〕もっと大きい収入の永遠なる法は決してそれらを許すはずがないのだからであ ともっと高い地位がローマでは得られると、私に約東して、 る。彼らは、そのようなことをおこなっても、罰せられはし ローマにゆくのをすすめたからではなかった。けれども、そないと思っているのだが、彼らが盲になって、そのようなこ の頃の私はかようなことにも心を動かしたかもしれなかっ とをおこなうということそれ自身が、すでに、彼らに対する た。だが実は、〔カルタゴの場合とはちがって〕、ローマでは規罰なのである。そして彼らは、自分らがおかした害悪とは比 律が正しく統制されていたので、若い学生たちは静かに学ぶ較にならない程に甚だしい害悪を、自分らの身にひきうける ことになるだろう。私は、学生の頃、そのような習慣を身に ことが出来、また自分の就いてもいない教師の講義に、厚か 。しなかっ つけようとは、少しも、思わなかった。しかし、教師となっ ましくも、ごたごたと押しかけるような学生ま、、 た。そして教師の許可なしには、学生はその講義をきくことてみると、今度は、学生たちのそのような習慣を我慢しなけ さえも全く許されなかったのである。私はそのように聞いてればならなかった。それゆえ、私は、よろこんで、ローマに したが、これがローマに渡ろうと私が決心した、最も大きい ゅこうとしたのである。ローマのことを知っているひとびと 理由であり、また恐らくただ一つの理由であった。実際、カ が、皆、そのような習慣がそこではおこなわれていないと、 言っていたからである。けれども本当に、「あなたこそは私 章ルタゴでは、これに反して、学生の乱行には恐るべきものが あり、甚だしい無軌道振りが発揮されていた。彼らは、恥をの希望であり、〔真に〕生きる者たちの地で私が受くべき分け 第 巻も外聞をもわきまえないで、〔教室に〕押し入って、まるで気 前でありたもう。」実は、私の魂をすくうために、あなたは 第狂いのように、規律を踏みにじっていたが、この規律は、も地上における私の住家を変えさせようとしたもうた。それ 白 ちろん、どの教師も、弟子たちが向上するために、定めたもで、カルタゴには私をなやますものを与えたまい、 のであった。学生たちは甚だ多くの不法をはたらいて、その は私をひきつけるものを与えたもうた。このために、私はカ 愚かさには驚くべきものがあった。それらの不法は、当然、 ルタゴからひき離されて、ロ 1 マに移されたわけである。た 法によって罰せられるべきであったが、しかしそれらは、も が、あなたはひとびとの手を通じて〔そのように取り計らいたも

2. 世界の大思想3 アウグスチヌス ルター

も、感覚的なものに触れて、こすられることを願ってやまな かった。だが、この感覚的なものも、魂を持たなかったなら 、もちろん、私はそれを愛しはしなかっただろう。愛しそ して愛されるということは、私には、うれしく、殊に、愛す 三知恵の書一四ノ一一、詩篇九〇ノ三 ( 九一ノ lll) 参照。 る者の肉体を楽しなことが出来れば、非常に、うれしかっ 四ョブ記二ノ七ー八参照。 た。それで、私は友情の清い泉をみたらな情欲によってけが 三詩篇五八ノ一八 ( 五九ノ一七 ) 。 し、友情の美しい輝きを肉欲の地獄からわきおこる雲によっ 六詩篇二ノ九参照。 ておおってしまった。けれども、私は、そのように醜くそし 七ガラテヤ人への手紙五ノ二〇参照 てけがれておりながらも、なお虚ろな自負心にみたされて、 卑しくないように、そして上品であるようにと、願ってやま 第二章 なかったのである。しかも、私は愛欲のなかに落ち込んだ。 これにとらえられるのを望んでいたわけである。しかし、 二、私は演劇に心をうばわれてしまった。そこには、私の 「私の神よ、私をあわれみたもう者よ」、あなたは、まことに、 みじめさを映しているいろいろな似姿と、私の愛欲の火を燃 ま、 善でありたもうので、私のために、何と多くの胆汁をあの楽え立たせる薪とが、みち溢れていたからである。一体、人間 しさのなかにそそぎたもうたことだろう。私は、たしかに、 は悲しいことやいたましいことが自分に振りかかって来るの ′、、いり 愛された。そして、ひそかに、楽しさの鎖につながれ、よろを欲しないのだが、しかもかようなものを劇場で見て、それ こんで、苦しい繩目にかかったのである。だが、これは、ちに涙を流そうとするのたが、これは何故であろうか。けれど ようど真赤にやけた鉄の棒でなぐられるかのように、やがて、 も、観客はそれらによって悲しもうとするのである。したが ねたみ、ひがみ、恐れ、怒り、さらに争いなどによって、私って、この悲しみそれ自身が彼らの求める快楽たというわけ がなぐり倒されるためなのであった。 である。だが、これこそ、あわれむべき狂気の沙汰でないと すれば、一体、何だろうか。実際、ひとは、誰でも、かよう 一口ーマ時代の文化の中心地はアテナイとアレクサンドリア な感情に対して健全でなければ、ないだけ、ますます、そのよ とカルタゴであった。いま、アウグスチヌスは、心をおどらせ うなものに心を動かされるようになるのである。けれども、 ながら、この文化の中心地に来たわけである。 ひとが、自分自身、悲しみを受けるときには、その状態はあ 一一サルタゴ (Sartago 大釜 ) がカルタゴ (Carthago) と、 発音の上で似ているので、アウグスチヌスは得意なしゃれを飛 われと呼ばれ、他のひとびと〔のあわれ〕を心に感するときに なわめ ばしているのである。だから、大釜と文字通りに、訳しても、 何にもならないので、むしろ、「肥たご」とでも言った方がし やれになるかも知れないが、 しかし訳者はそこまで大胆にはな れなかった。

3. 世界の大思想3 アウグスチヌス ルター

みずから欺かれ、また多くの人びとを欺いてこの邪教にひき期待もむなしく、かれがそこで出会ったのは病気と貧困であ った。たまたま、帝国の北都ミラノからローマの市長シンマ 入れることになる。その間、かれはカルタゴでの修学を終え クスへ修辞学の教授の選任を求めてきたが、アウグスチヌス たのち、一時、タガステに帰って教え、またふたたびカルタ ゴに出て修辞学の学校を開いたが、アリストテレスの書を読は、カ倆を認められてそれに選ばれ、赴任した。かれは、な み、当時の天文学的知識にも通じるにつれて、マニ教の合理おマニ教の信者ではあったが、かっての情熱はしだいに冷え て、一時、アカデミア派の懐疑論に傾いていた。マニ教の迷 的世界説明と称するものに疑いをいだぎはじめた。ことに、 マニ教の有名な学者ファウスッスとの面接にすべての問題の妄から脱出するためには、すべてを疑ってみることが必要で 解決を期待したが、それも裏切られた。この学者と会った一一一あったのである。 八三年の秋、カルタゴの学生の粗暴にたえられなくなってい さて、ミラノに移って、はじめは修辞学的関心からであっ たアウグス・チヌスは、帝国の首都に大きな名声を求め、母に たろうが、その地の有名な司教アンプロシウスの説教を聞い もいつわってローマに渡った。しかし、この地によせていたて、かれの深い学殖に感心するとともに、人格にも強くひき つけられた。とくに、マニ教が不合理だと非難してしりぞけ る旧約聖書の記事が比喩的解釈によって解き明かされるのを , ) 一、知って、これまでカトリックの教えに対していだいていた誤 - ~ 解を捨てるようになった。しかし、まだカトリックの教えの ン」 = 真理を悟「たわけではなく、また、肉の欲望になおかたくと 母らえられていた。そうしたとき、アウグスチヌスはたまたま 「プラトン派の書」 ( 新プラトン派のーーーおそらくプロチノス ヌの『エンネアデス』 ) を読んだ。そしてこれまでの物論的 スな考え方から解放されて、非物質的な存在を見る目を開かれ ウた。また、悪は実体ではなく、意志の背反による善の欠加に アすぎないことを教えられて、マニ教の二元論にたよることな しに、悪の問題を解くかぎを与えられた。こうして、知的に は、新プラトン派の哲学によって、カトリックの教えの真理 への道が開かれたのであるが、しかし知識が増し加わるとと

4. 世界の大思想3 アウグスチヌス ルター

437 アウグスチヌス年 三七六年一秋 ( か ) カルタゴで弁論術の教授の職につ く。以後九年間つづく。ロマニアヌスがし たがう。 ( 「告白』四ノ七ノ一一、「アカデミア派論駁」二ノ マニ教の友人や文学関係の友人と交わる。 多くの哲学者の著作や天文学関係の書物を 読む。 ( 「告白」四ノ八ノ一三、五ノ三ノ三以下 ) 三八〇年この頃、「美と適合について」 ( 散佚 ) を書 ( 「告白」四ノ一五ノ二七 ) 三八一年夏、マニ教の教師ファウストウスがカルタ = 年 ゴに来て、会談する。マニ教に疑いを抱 き、次第にはなれる。 ( 「告白」五ノ三ノ三、五ノ六ノ一一、四ノ一ノ 三八三年夏、母モニカに知られないまま、突然、ロ ーマに上京。大病にかかる。 ( 「告白」五ノ三ノ一四ー一五、五ノ九ノ一六 ) 三八四年秋、市長の推薦で、ミラノに来たり、弁論 術の教授に任命される。司教アンプロシウ スを訪ねる。その説教に魅せられる。はじ めはその文章にひかれ、ついで聖書の霊的 な理解をあたえられる。カトリックの洗礼 志願者となることを決意する。 ( 「告白」五ノ一三ノ二三、五ノ一四ノ二五、六 ノ四ノ六 ) 三八五年春、母モニカが来る。 ( 「告白」六ノ一ノ一 ) 一一月一三日、ワレンティアヌス二世に頌 詞を捧げる。 ( 「告白」六ノ六ノ九 ) 聖書とカトリック教会に対して共感を覚え ( 「告白」六ノ五ノ七ー八、七ノ一一 ) 三八六年年のはじめの頃、婚約。友人たちとの共同 生活の計画をたてる。 ( 「告白」六ノ一二ノ二一ー 二四 ) 二月ー六月、アンプロシウスと帝妃ュスチ アナのあいだに争いが生じ、四か月つづ く。アンプロシウスらは・ハジリカに立て籠 っこ 0 ( 「告白」九ノ七ノ一五 ) 五ー六月、新プラトン派のプロティノスの 「善について」「三つのヒポスタセイス ( 基 在 ) について」 ( ウイクトリヌスのラテン 訳 ) やポリフィリオスのものなどを読む。 テオドロスを訪ねる。 六月一七ー一九日聖ゲルワイスとプロタ イスの遺体を発見。

5. 世界の大思想3 アウグスチヌス ルター

三九九年「三位一体論」を書きはじめる。 霊魂についてマニ教を駁す」を書く。 四〇〇年「マニ教徒ファウストウスを駁す一 ( 三三 三九一一年八月マニ教徒フォルトウナトウスと論争。 巻 ) 『洗礼についてドナトウス派を駁す」 「マニ教徒フォルトウナトウスとの討論」 などを執筆。 を書く。 四〇一年「告白」完成。「よい結婚について」「聖な 三九三年一〇月ヒッポの大宗教会議において「信仰 る童貞について」『教会の統一について」 と信条について」の講話を行なう。 など執筆。『創世記逐語解」 ( 一一一巻 ) を書 三九四年アリ、。ヒウス、タガステの司教になる。 きはじめる ( 四一五年完成 ) 。 「マニ教の門弟アディマントウスを駁す」 『キリスト教徒の戦い」を著わす。 四〇二年メガリウスをたてにとって、現在もマニ教 徒だと中傷した。へティリアヌスに対して 三九五年ヒッポの司教ウアレリウスの補佐司教とし 「ペティリアヌスの文書に対して」を執筆。 て叙階される。 「ヨ・フ記注解』「修道院の務め」を書く。 前年にひきつづき、『ガラテヤ人への手紙 講解』『ローマ人への手紙の諸問題』 ( 未完 ) 四〇四年マニ教フェリクスと公開討論。「マニ教徒 『虚言について」を執筆。「自由意志につい フェリクスとの討論』「善の本性について て」 ( 第三巻 ) 完成。 マニ教徒を駁す」を書く。 こっ頃、「教えの手ほどき』を書き、カルタ 四〇五年 三九六年ワレリウス死去し、ヒッポの司教となる。 ヌミディアの首座司教メガリウス反対す。 ゴ教会の助祭デオグラティアスに与える。 「山上の説教』『マニ教徒のフンダメンテ マニ教徒だったと非難するドナティストの 表 イと呼ばれる手紙を駁す』を書く。 文法家クレスコニウスを反駁する「クレス 年 コニウス反論」を執筆。 ヌ三九七年シンプリキアヌスに宛てて「諸問題につい て」を執筆。シンプリキアヌスにすすめら 四〇六年「マニ教徒セクンデイヌスを駁す」を書 れて「ローマ人への手紙」を研究、べラギ ウ ア ウス主義の克服をはかった。 四一一年カルタゴ会議でドナトウス派は異端とされ 三九八年末頃から、「告白」を書きつぐ。 ドナティストのフォルトゥニウスと論争。 四一一一年「罪人の報いと赦しおよび幼児の洗礼につ

6. 世界の大思想3 アウグスチヌス ルター

一三、私はマニカエウスの教えに対して熱情を抱いていた〔の紐〕をゆるめ始めたのである。もっとも、彼自身はこのこ とを望んでもいなかったし、また気づいてもいなかった。実 貶が、そのようにして、この熱情も打ちくだかれてしまった。 ファウスッスは有名なマニ教徒であったが、私をなやましては、私の神よ、〔私がかかったわなの紐を彼がゆるめ始めたのは〕、 いた多くの問題について、彼さえもそのように無知であるこあなたがその手をもって私の魂をしりぞけたもうことがなか とが明らかとなったので、私は、ますます、マニ教の他の教ったからであるが、これはあなたの摂理の深い秘密によるこ 師たちについて学ぶ希望を失ったのである。ところで、そのとであった。そして、私の母は私のために、昼となく夜とな く、その涙とともに、心の血しおをあなたにささげ、あなた ころ、私は、すでに、弁論術の教師としてカルタゴで青年た ( 三 ) ちに文学を教えていたが、ファウスッス自身もこの文学に夢は「不可思議な仕方で」私をみちびきたもうたのである。私 中になっていた。それで、私は、彼のこの熱情のために、絶の神よ、あなたがそのように私をみちびきたもうたのである。 えず、彼のところをおとずれるようになった。そして彼と共実際、「人間の歩みは主によって定められ、そして主は人間 ( 四 ) にいろいろな書物を読みはじめた。これらの書物は、彼がうのゆく道をよろこびたもう」のだからである。また、あなた がつくりたもうたものを、あなたの手は、さらに新たに、つ わさに聞いていて、読みたいと望んでいた書物や、私自身が この救い くりたもうのであるが、このあなたの手のほかに、 彼のすぐれた才能にふさわしいと考えた書物であった。とこ ろで、私は、あらゆる努力をつくして、マニ教のなかに進みをつかさどるものがあるだろうか。 入ろうと決心していたのであったが、あのようなファウスッ 一詩篇七七ノ三七 ( 七八ノ三七 ) 、使徒行伝八ノ二一参照。 スを知るにいたって、その努力も全くはばまれてしまった。 = 詩篇一七ノ六 ( 一八ノ五 ) 。 三ョエル書二ノ二六。 もっとも、私はマニ教の信者たちから全く離れ去ったのでは 四詩篇三六ノ二三 ( 三七ノ二一一 l) 。 なかった。マニ教よりもすぐれたものが、私には、まだ見出 このマニ教に甘んじて、しばら されなかったかのように、 く、ここに止まろうと決心したわけである。実は、まだ、私 にとってもっと選ぶにふさわしいものが、光のように、あら われ出て来なかったから、そう決心したにすぎなかった。フ アウスッスは多くのひとびとにとって「死のわな」であっ た。そして私もこの「死のわな」のうちに捕えられていた。 けれども、そのようなわけで、彼も、私をとらえていたわな 第八章 一四、私は友だちにすすめられて、ローマにゆき、カルタ ゴで教えていたのと同じことを、また、ここで教えるのを選 ぶことになったが、実は、これもあなたがみちびきたもうた ことであった。けれども、どうして私がそうするようになっ

7. 世界の大思想3 アウグスチヌス ルター

うたのである〕。ところで、このひとびとは、実は、死にほか にまで登らせようとしたもうた。そして母は私のために、来郁 る日も来る日も、顔を伏せて、地に涙を流していたが、この わならない生活を愛していたから、彼らがカルタゴでおこなっ たことは気ちがいじみており、ローマで私に約東したことは涙の流れも、私がその恩寵の水にきめられるときに、はじめ むなしいものたった。しかも、あなたは「私の歩みを正しくて、乾かされるのであった。ところで、彼女は私をつれない で、独りで帰るのを拒んだけれども、私は、やっと、彼女を する」ために、ひそかに、彼らのよこしまなおこないと私の 説き伏せ、私たちの船のごく近くにあった礼拝堂で彼女にそ 正しくないおこないとを利用したもうたのである。実際、 〔カルタゴでは〕、彼らは私の安らかさをさまたげ、彼ら自身の一夜をすごさせるようにした。この礼拝堂は、キ 1 フリア ( 四 ) はその恥ずべき乱行によってめくらになっていた。また、彼ヌスの記念のために建てられたものであった。私は、その らは私をこのローマの地にさそったが、ここでは彼ら自身は夜、こっそりと出発したが、彼女はそこにとどまって、祈り ながら、泣きぬれていたのである。ところで、私の神よ、彼 「地上のことをしか考えてはいなかった」。私のほうは、カル タゴでは、真実の不幸をのろい、ローマでは偽りの幸福にあ女が多くの涙をもってあなたに祈り求めたものは、あなたが 私に船で旅立つのをゆるしたまわないようにというのでなか こがれていたのである。 ったとすれば、一体、他の何であったたろうか。けれども、 一五、けれども、〔本当は〕何故に私はカルタゴを去って、 マにいったのたろうか。神よ、あなたはそれを知りたもあなたは深く思いめぐらして、彼女の願いの核心を聞き入れ たもうたが、彼女がそのとき祈り求めていたことには、みし うたが、しかし私にも私の母にもそれを示したまわなかった。 私の母は私が旅立つのを、非常に、なげいて、私から離れずをとどめたまわなかった。あなたは、私が彼女のつねに祈り に海のところまでついて来た。彼女は私をつれもどすか、そ求めていたような者になるようにと、取り計らいたもうたか らである。風が吹き出して、私たちの船の帆をふくらませ れとも私とともにローマにゆこうとして、はげしく私をとら えて、離さなかった。それで、私は彼女をあざむいた。順風た。岸辺は私たちの視野の外に消え去った。ところが、この ・がおこって、船が〔港から〕出発するまで、〔この船で旅立っ〕友岸辺で彼女は、その翌朝、悲しみのために正気を失い、嘆き だちと私は別れたくないのだと、うそを言ったのである。私もだえて、あなたの耳をおおったのである。けれども、あな たは彼女のこの叫びにも耳を傾けたまわなかった。実際、あ は母に、このような母に、うそを言って、にけてしまった。 げれども、あなたは、めぐみ深くも、私のこの罪をゆるした なたは私を私自身の欲望のままにまかせて、私の欲望を用い ながら、しかもこの欲望それ自身が減びるようにしたまい、ま ・もうた。私は厭うべき穢れにみちていたけれども、あなたは とのような私を海の水から守り、やがて、あなたの恩寵の水た私に対する彼女の余りにも肉親的な愛情も、義しく、悲し

8. 世界の大思想3 アウグスチヌス ルター

とローマ人の意志とをもって対決した。そして自己をカトリ ックのキリスト者につくり上げるとともに、カトリック的キ リスト教思想をもっくり上げた。 アウグスチヌスの父は異教徒の / 。、トリキウス、母は篤信の カトリック教徒のモニカであって、かれはその出生からして キリスト教と異教との闘争にひき入れられていた。パトリキ 月部英次郎 ウスは、地方議会にも出て、税金のとり立てなどもしていた アウグスチヌスの時代は、世界史の大きな転回期に、異教といわれるが、自分の土地からあがる収入でどうやら暮らせ 的古代からキリスト教的中世への移り行きの時期に当た 0 てる程度であ「て、あまり裕福ではなか「たと思われる。アウ いた。すなわち、かれは三五四年十一月十一二日、ロー「領北グスチヌスは、初等教育を受けたのち、近くの「ダウラの町 に出て、二、三年間、主として典文学と修辞学 ( 弁論術 ) アフリカ、スミジア州の田舎町タガステに生まれたのであっ て、それは、キリスト教を公許したコンスタンチヌス大帝のを学んだ。 タガステに帰って、家にあること一年ののち、アウグスチ 息子コンスタンチウス二世の治世であったが、キリスト教の ヌスは、十七歳のとき、ロマニアヌスという、同郷の資産家 勝利はまだまったく確実とはいえなかった。かれの少年の頃 には、背教者ュリアススによる異教的反動が起こったのであの援助を得て、カルタゴに遊学することになった。カルタゴ は、フェニキア人が市をつくってからすでに千一一百年、当時 り、また、成人として、テオドシウス大帝によってキリスト は地中海沿岸の大貿易港として、首都ローマにつぐ人口をも 教がローマの国教として定められるのを見たが、その後も、 つ、富み栄える都市であるとともに、また、かってテルツリ 古い異教の神々の信仰はなお一般人のあいだに根深く存続し アヌス、キ。フリアヌス等を出した文化都市でもあった。アウ ていたのである。また、かれの老年期には、蛮族侵入の危険 グスチヌスは、この地で法律と修辞学を学んで、抜群の成績 がますます増大して、四一〇年、首都ローマは西ゴート王ア ラリックの軍によって略奪され、四三〇年八月一一十八日、アを挙げたが、大都会の誘惑に負けて、一時、放縦の生活に身 ウグスチヌスが死んだとき、かれがその地の司教であったヒをゆだねた。かれはある婦人と同棲して一人の男子を設け ッポ・レギウスの市は、ヴァンダル族に囲まれていた。このた。この婦人は身分がいやしかったために、正式の結婚は母 Ⅱような時代に、アウグスチヌスは、地上に生をうけ、時代をモニカ ( 父はもうなくなっていた ) によって認められなか ったが、この内縁関係は誠実な愛をもって守られて、その 動かしていた問題に、カルタゴ人の情熱とギリシア人の精神 解説

9. 世界の大思想3 アウグスチヌス ルター

師たちを恐れてはいないのだから、彼らは私に反対して叫ん空しい見ものだったのである。 ではならない。実際、私は、神よ、私が心に欲するところ矼 一けれども、アウグスチススのギリシア語の知識は、これを を、あなたに告白し、私の悪い道をしりそけ、あなたの善い 読んで理解するには、十分だった。しかし、当時の知識人は、 ラテン語とギリシア語について、ともに、自由に読み書き話す 道を愛して、安んじているのである。文法学を売るひとびと のが普通であった。 も買うひとびとも、私に反対して叫んではならない。確か = 初級の教師 (primus magister) は読み書きと算術を教え に、詩人は、かって、アエネアスがカルタゴに来たと、語っ る。文法家 (grammaticus) は文学や語学を教える。さらに てはいるのだが、これが本当かどうかと、彼らに私が問いた その上に弁論術の教師がある。 だすならば、余り学問のない者は知らないと答えるだろう 三詩篇七七ノ三九 ( 七八ノ三九 ) 。 が、学問のある者はそれが本当だということを否定するだろ 四ローマ第一の詩人ウエルギリウス (Vergilius, B. C. 70 ー、 う。だが、アエネアスという名がどのような文字で書かれる 19 ) の叙事詩「アエネイス」 (Aeneis) の主人公がアエネアス (Aeneas)0 この主人公はギリシア最古の詩人ホメロス (Home- のかと、私が問うならば、これを学んだ者は、すべて、私に 「 os ) の叙事詩「イリアス」 (llias) で歌われている人物で、 一正しく答えるだろう。実は、〔人間の社会では〕それらの記号は トロイア戦争で、トロイア城を守って、勇敢にたたかった。け ひとびとの間で、相互の合意と約東によって、定められてい れども、破られて、流浪の旅にのばり、結局、運命にしたがっ るので、この合意と約東に従って彼も答えるであろうから。 て、イタリアのラチウムにたどりつき、ローマ民族の基礎を打 さて、また、読み書きと詩人のその物語との二つのうちで、 ち建てた。『アエネイス」はかような伝説的な勇将を歌ったも どれを忘れる方が、この世の生活に一層大きい不便をひとび の。ジドー (Dido) はチュロスの王女であったが、結婚生活・ とに与えるだろうか。私がそうたすねる場合にも、自分自身 に破れて、アフリカにのがれ、カルタゴの町を建てた。こ 0 を全く忘れてしまっているような者でない限り、どう答える で、アエネアスを知り、はげしく恋したが、彼は、定められた 、章 ように、カルタゴを後にして、イタリアに向かったので、彼女 べきかを知らないようなひとがあろうか。それゆえ、私は、 第 は自殺したのである。 少年時代に、罪を犯したのである。事実、あの役立っ知識よ 巻 五ヨハネによる福音書六ノ三五、四八、五九参照。 りもこの空しい物語を好み、あるいは、むしろ、前者を嫌い 第 六詩篇七二ノ二七 ( 七三ノ二七 ) 。 後者を愛したのだから。「一に一たす二」、コ一に二たす四」 詩篇三九ノ一六 ( 四〇ノ一五 ) 。 告は、当時、私にとって憎らしい歌であり、これに反して戦士 〈ヤコプの手紙四ノ四参照。 たちで充たされている木馬やトロイアの炎上や「他ならぬク 九ウエルギリウス「アエネイス」六ノ四五七。 レウサの亡霊」は最も楽しい見ものであった。〔だが、本当は〕 一 0 十二章注六参照。

10. 世界の大思想3 アウグスチヌス ルター

は〔どうかというと〕、そのひと自身もそのような不法行為がお 一七、ネプリヂウスもカルタゴの近くの故郷を去り、幾度 こなわれるのを、欲してはいなかったが、しかし公然と拒みも住んだことのあるカルタゴをも去って、ミラノに来た。そ はしなかった。長官は彼に責任を押しやって、彼がそれを自れで、彼は父の豊かな家屋敷をもまた母をも残してぎたので 分に許さないのたと、弁解していたのである。実際、もし長ある。彼の母は、息子の後を追って来ることもなかった。 官が許したとすれば、もちろん、アリビウスは〔これに反対〔どうしてミラノに来たかというと〕、彼は、私と一緒に、真理 して〕、職を去っただろう。しかし、彼も、ただ一度だけ、学と知恵を、出来る限り、熱心に研究しながら、生活するため 問に熱心であったために、あやうく、誘惑されそうになったであった。そしてその他の理由があったのではなかった。彼 ことがあった。彼は役得として、特に安く、書物を写させよ も幸福な生活を、はげしく、もとめ、非常にむずかしいいろ うとしたのである。けれども、彼は正義の観念に照らしてみ いろな問題を、非常に鋭く、きわめようとして、私と同じよ て、自分の考えを、そのようなことよりも一層善いものに、 うに、ため息をつき、私と同じように、宙に迷っていたの 向けた。というのは、彼は、自分の権力で、そのようなこと である。このようにして、三つの餓えたロがそろったわけで、 、こ、その貧しさをなげき合い、「あなたが時にしたが ー、刀し第ー をなしうるのだが、この権力よりも公正のほうを、自分にと ( 五 ) って、一層有益だと、判断したのである。それで、この公正 って、それらに糧を与えたもう」ように、あなたを待ちわび の観念にしたがって、彼はそのことを思いとどまったわけで ていたのである。私たちがこの世の営みのなかで、かよう ある。しかし、これは、確かに、小さいことである。けれど に、苦しんでいるのは、あなたのあわれみの結果なのではあ も、「小さいことに忠実な者は、大きいことにも忠実であるが、しかしその苦しさのただなかで、どうして苦しまなく る」。そしてあなたの真理の口から出ることばは、決して、 てはならないのかと、その苦しみの目的を考えていると、何 もかもまっ暗になってしまうだけであった。私たちは溜息を . 章むなしいものではないだろう。「もしあなたがたが不正な富 つきながら、自分らの身を振り返ってみて、「何時までこう に忠実でなかったならば、誰が真の富をあなたがたにまかせ なのか」と言うことしか出来なかった。それで、私たちは、 巻るであろうか」。また「あなたがたが他人のものに忠実でな いかったならば、誰があなたがたのものをあなたがたに与える何度も、そう言った。そして、そう言いながら、しかし、こ ( 四 ) の世の営みを捨てはしなかった。この世の営みを捨てたとき 白であろうか」。当時、彼の心の持ち方はそのようであった。 【告 に、私たちがたよることの出来る確実なものが、私たちに そして、私に寄りすがっていた。しかし、私と同じように、 は、まだ明らかではなかったからであった。 物どのような生き方をすべきであるかという問題では、彼もま よっていた。 一口ーマの西帝国の財務長官 (comes sacrarum largi ・