第五章 第六章 : ・ 第七章・ : 第八章 第九章 第一〇章・ : 第一一章 世界は創造されたことを告げる。 神は無からその御言葉によってすべ てのものを創造したもうた。 人間の言葉に対して、神の御言葉は うつり変らない。 御言葉と父なる神とは等しく永遠で ある。 御言葉は原初にして永遠の真理であ るが、被造物は時間のうちにある。 御言葉は人間の心を照らすが、捉え 神は創造する前になにをしていたか という愚かな問い。 時間にとらわれた精神は永遠を知る ことはできない。 三 00 一一九五 第一二章 第一三章 第一四章・ : 第一五章・ : 第一六章・ : 第一七章 第一八章 第一九章 最初の答えーーー神はなにもしなかっ 第一一の答えーー創造に関しては、そ の「以前」はない。時間に関して は、神の永遠は時間を超越してい る。 時間を定義することはむずかしい。 過去と未来は存在しない。現在は延 長も持続もない。 現在だけが測ることができる。 未来と過去はどこに存在するか。 未来も過去も現在的である、予測さ れ、計画され、想い出される。 予言的知識の神秘的な性格。 こ 0 : M0t1 : 三 0 = 三品
第八章 : ・ 第九章 第一〇章 : ・ 第七章 : ・ 第一一章 第一二章 第一三章 : ・ だろうか。また、被造物を通して、 どのように神を認識するのだろう 、刀 肉体的なあるいは感覚的な力によっ ては、人は神を見出すことが出来な = = ロ憶の力。 学問に関する記憶。 学問は感覚を通して記憶のなかに取 り入れられるのではなくて、記憶の 深い内室から取り出される。 学ぶとはどのようなことだろうか。 数の記憶。 私たちは何かを記憶したということ をも、記憶の力によって、記憶する。 一一四九 : = 五 0 第一四章 : ・ 第一五章 : 第一六章・ : 第一七章 : 第一八章 第一九章 : ・ 記憶の力は、どのようにして、心の 状態をたくわえるのだろうか。楽し かったことを思いおこしても、私た ちは必ずしも楽しいとは限らないの だが、どうしてだろうか。 眼の前に存在しないものをも、私た ちは記憶のなかから呼びおこす。 忘却も記憶のなかにある。 記憶の力は偉大である。けれども、 神に到るためには、私たちは記憶を も越え出なくてはならない。 私たちは何かをなくしたとき、これ が記憶のなかからも失われると、見 つけ出すことが出来ないだろう。 思いおこすとはどのようなことだろ
442 否する。 一五一九年一月一二日、ドイツ皇帝マクシミーリア ン一世 (Maximilian I) の死。 六月一一八日、ドイツ皇帝カール五世の選挙。 七月四日ー一四日、ルターはライプチッヒ (Leipzig) で、エック (Eck) と論争する。 一五二〇年一月八日、「善行に関する説教」。 六月一五日、教皇レオ一〇世 (Leo X) は、 ルターにたいし、六〇日間の猶予をおいて の破門予告文書を出す。 一〇月六日、「教会の・ハビロン幽囚」。 一一月、「キリスト者の自由」。 一二月一〇日、ルターは教皇の破門予告文 書を、ヴィッテンベルクで焼く。 一五二一年一月三日、レオ一〇世はルターの破門文書 を出す。 三月六日、皇帝はルターを国会に召喚する。 四月一七日ー一八日、ルターは国会に出頭 し、あくまで自説を取り消さない。 五月四日ー翌年三月一日、ユンカー ルク (Junker Jörg) と名乗って、ヴァル トプルク (Wartburg) にかくまわれる。 五月八日、ルターの国外追放に関するヴォ ルムスの勅令。 一二月、ルターは新約聖書のドイツ訳を開 始する。 一五二二年三月六日、ヴィッテンベルクに帰る。 一五二三年二三年ー一一四年、旧約聖書のドイツ訳が部 分的に出る。 六月二三日、南部シ、ヴァルツヴァルト (Schwarzwald) に農民の一揆がはじまる。 一五二五年四月一九日、ルターは農民に和平を勧告す る。 五月一五日、各地の農民反乱は鎮圧される。 六月一三日、ルターは修道女カタリーナ・ フォン・、ポーラ (Katharina von Bora) と 一一一月終わり、「奴隷的意志」。 一五二九年一〇月一日ー四日、マールプルク (Mar- burg) で、ルターとメランヒトン (Melanch- ton) は、聖餐などに関し、ツヴィングリ (Zwingli) らと会談する。 一五三〇年六月一一五日、「アウクスプルクの告白」提 一二月三一日ー三一年二月二七日、シュマ ルカルデン (SchmaIkalden) 同盟の結成。 一五三四年 ドイツ聖書完成。 一五四六年二月一八日、マンスフェルト伯家の紛争を 処理するために滞在したアイスレーベンで を口 0
第九章 第一〇章・ 第一一章 第五章 第六章・ : 第七章 第八章 : ・ なぜ、聖霊の名は第三節ではじめて あげられたか。 聖霊は愛によって魂たちを引きあげ る。 霊的な被造物は、もしも神が引きあ げたまわなかったら、堕ちる。神の うちにのみ安らぎはある。 聖霊は神に向かって魂を引きあげる 愛を与える。 天使たちはつねに神に向かって引き あげられている。 人間における三位一体の似姿ーー存 在と認識と意志。 創世記冒頭一一節における三位一体 生。 三至 三四九 三五 0 : 三五 0 ・三四九 第一八章 第一二章 第一三章 第一四章 第一五章 : ・ 第一六章 第一七章 : 創世記第一章一ー三の新しい解釈、 教会建設の似像として創造の物語。 地上の教会は天上の教会を希望のう ちに待っている。 希望をいだき辛抱すること。 創世記第一章六、「天穹ーは聖書を かたどる。「天穹の下のもろもろの 水」は天使たちをかたどる。 あるがままの神は神のみが知る。 創世記第一章九の「もろもろの水」 は信仰のない魂をかたどる。創世記 第一章一一 ー一二、乾いた地は信仰 あつい魂たちをかたどる、彼らの種 子はよい仕事をさす。 創世記第一章一四ー一八、もろもろ 三究 三五四 三五〈 : 三五〈
第一二章 第一三章 : 第一四章 : 第一五章 : ・ 第一六章 : 第一七章 : ・ 第一八章 第一九章 彼は学ぶことを強要された。けれど も、神はこのことをも、正しく、用 いたもうた。 彼はどんな勉強を、一番、よろこん 彼はギリシア語の勉強を嫌った。 神への祈り。 アウグスチヌスは青少年に対する教 育方法を非難する。 文芸による青少年教育に対して彼は 同様な非難を続ける。 人間は文法家の教える規則を守るよ うに努めながら、神の誡命と律法を 守ろうとは努めない。 ・四五 : ・四九 第二〇章 : 少年時代にもいろいろな悪があっ て、これらが、年齢がすすむととも に、移り変ってゆくのである。 彼は少年時代に神から受けたいろい ろな善いものについて、神に感謝を ささげる。 アウグスチヌスは青年時代に進み入っ て、その最初の年すなわち十六歳にな ったが、この年、彼は勉強を中止し て、両親の家で暮らしていた。そして いろいろな欲望のままに快楽に耽って いたが、彼はこのことを、非常な悲し みとともに、思いおこし、殊に、その 年に仲間たちと一緒に盗みを働いたこ とについては、極めてきびしく、自分 を責める。 第一章 : 彼は青年時代におけるいろいろな悪 を数えあげ始める。 第二章 : ・五四
第一三章 第一四章 第一五章 第一六章・ : 第一一章 第一二章 アリュビウスの公正とネ・フリヂウス の到着について。 アウグスチヌスは新しい生活に入ろ うとして、考えながら、思い悩んた。 結婚生活と独身生活とについてアウ グスチヌスとアリュ。ヒウスとの間に 見解の相違があった。 アウグスチヌスのために、妻が探し もとめられた。 彼は友人たちと共同生活を営もうと して、考えた。 同棲していた女性が去ったので、彼 はその代りに別の女性を引き入れ アウグスチヌスは、絶えず、死と審 判におびやかされた。 こ 0 一話 一吾 一五三 第七巻・ : 第三章 : 第四章 : ・ 第二章 : アウグスチヌスは壮年時代の第一歩、 すなわち三十一歳のときのことを思い おこす。まだ無知の闇のなかに落ち込 んでいて、神の本性についても、悪の 起源についても誤謬をおかしていたこ とについて、語る。悪の起源について 探究し、驚くべぎほどに、腐心した。 結局、神の正しい認識に到達したが、 しかし主キリストについては、まだ、 十分に理解することが出来なかった。 第一章 : 神は空間のなかに、限りもなく、ひ ろがる物体的なものだと、彼は考え ネプリヂウスは、討論によって、マ ニ教徒をまごっかせたが、そのとき の彼の論拠について。 自由な意志が罪の原因である。 こ 0 ・一六 0 一五九
第一三章 : ・ 第一四章 第九章 : 第一〇章 : 第一一章 : 第一二章 みをいやされた。 人間的な友情について。神を愛する 者は幸福である。 被造物はすぎ去りゆくものであるか ら、魂は被造物のうちには安らうこ とが出来ない。 創られたものは、すべて、不動では ない。ただ神たけが不動である。 しかし私 愛は非難されはしないカ たちは好ましいものどもをも、神に おいて、愛すべきである。 愛はどこから生ずるのか。 『美しさとふさわしさについて』と いう書物をアウグスチヌスはヒエリ ウスにささげた。彼はどうしてヒ工 リウスを愛したか。 一 0 三 : ・究第五巻 彼は物体的なものの表象に魂を曇ら されて、霊的なものを理解すること が出来なかった。 アリストテレス『範疇論』や自由人 にふさわしい学芸の書物を、彼は、 ひとりで、読んで理解した。 アウグスチヌスは二十九歳のときのこ とを語る。マニ教徒ファウスッスの無 学を知って、この派の学問をきわめよ うとする意図を捨てた。その頃、ロー マで弁論術を教えていたが、やがてミ ラノに移り、同じように弁論術を教え た。彼はアンプロシウスの説教を聞い て、次第に、眼がさめて来た。それ で、マニ教から離れて、洗礼志願者に なろうと決心し始めた。 第一章 : 彼は魂を燃え立たせて、神をたたえ ようとする。 第一五章 : ・ 第一六章 : ・一 0 五 ・一 0 七
第五章 : ・ 第八章 第九章・ : 第六章・ : 第七章 神は朽ちないものでなくてはならな 彼は、さらに、悪がどこから生する か、悪の源は何であるかと、たずね 彼は占星家のうらないを投げ捨て 悪はどこから起こるのかと、たずね て、彼は、あわれにも、ひどく心を いためた。 神は、そのあわれみをもって、どの ようにアウグスチヌスを助けたもう 。フラトン派の書物のなかで、アウグ スチヌスは永遠なることばが神的な ものであるのを見出したが、しかし 永遠なることばの受肉による謙虚と こ 0 こ 0 第一一章 : 第一〇章 : 第一二章 第一三章 第一四章 第一五章・ いうことを見出しはしなかった。 アウグスチヌスは神的なものを、こ れまでよりも一層明らかに、知るよ うになった。 被造物は存在するとともに、また、 存在しないのであるが、どのように してであろうか。 存在するものは、すべて、善であ る。 創られたものは、すべて、神をたた える。 人間は、その精神がすこやかである ならば、神のどのような被造物にも 不満を感じない。 被造物においては真理と虚偽とが、 どうして、まじり合っているのだろ ・一七三 一芸
401 キリスト者の自由 に上り下りするのを、あなたがたは見るであろう。」と言い たもうとおりである。見たまえ、それがあらゆる罪・律法・ 誡めから心を解放する真の、霊的な、キリスト者の自由であ る。この自由は天が地の上にあるように、あるゆる他の自由 に勝る。神よ、われわれがこの自由を真に理解して保つこと を許したまえ。ア 1 メン。 訳注 こ ( 三八三頁 ) ルカによる福音書二・三四。「ごらんなさい。 の幼な子は、イスラエルの多くの人を倒れさせたり立ちあがら せたりするために、また反対を受けるしるしとして、定められ ています。」 = ( 三八三頁 ) 一五二〇年九月六日付 ( 実際は一〇月一二日以後 のはす ) 、レオ一〇世に宛て、教皇の人格が中傷されているに もかかわらす、自分は教皇を信頼し、非キリスト教的分子にた いする攻撃に理解をもたれることを期待する旨を述べる。 三 ( 三翁頁 ) ルターが書いた物の初めによく見られる。 四 ( 三翁頁 ) ドイツ語は fromm ( 敬虔な ) であるが、ラテン 文中この語に相当する iustus と同様、「義」の意味もある。 三 ( 三八五頁 ) 現今の聖書では、詩篇一一九・一以下。 六 ( 三八五頁 ) アモス書八・一一。主なる神は言われる、「見よ、 わたしがききんをこの国に送る日が来る、それはバンのききん ではない、水にかわくのでもない、主の言葉を聞くことのきき んである。」 七 ( 三八六頁 ) 神学上の義認論 (Rechtfertigungslehre) に属す る。神が人を審判して、その無罪を認めて罪科から宥すという 説である。 ( ( 三尖頁 ) 「契約」は、旧約聖書に出ているドイツ語の Bund に当り、神とイスラエルの民との間で結ばれた契約を指す。 九 ( 三八七頁 ) 出エジプト記二〇・一七。「あなたは隣人の家を むさばってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、 ば、またはすべて隣人のものをむさほってはならない。一すな わちモ ! セの十誡の最後のもの。 一 0 ( 三公頁 ) 工ペソ人への手紙五・三〇ー三二。「わだしたち は、キリストのからだの肢体なのである。それゆえに、人は父 母を離れてその妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきであ る。この奥義は大きい。それは、キリストと教会とをさしてい ( 三兊頁 ) 前記のモーセの十誡の第一のもの。 一 = ( 三兊頁 ) 申侖記二一・一五ー一七における初穂、レビ記 二三・一〇ー一一などにおける燔祭に供えられる当歳の雄の小 羊が例に挙げられる。 。ルターは一五三〇年頃イ ( 三九一頁 ) イソップ寓話の一つ ソップ寓話の普及版を計画した。 一四 ( 三九一一頁 ) 大体第一二節のこと。 一五 ( 三九七頁 ) これらは七秘蹟の一つである悔悛に属するか、 不完全とは別な完全な「痛悔」は、神への愛から出発して犯し た罪を心からくやむ。「告白」 ( 懺悔と区別される ) は、前者が 書類で裁かれるのとちがって、口頭で罪を聴罪司祭に告げる。 「滅罪」は祈りをもってする。 一六 ( 三犬頁 ) 主の祈り ( マタイによる福音書六・九ー一三 ) にあるように、神を「われらの父よ -J と呼びかける。 ー二三。それから、 一七 ( 三査頁 ) ルカによる福音書二・二二 モーセの律法による彼らのきよめの期間が過ぎたとき、両親は
私の魂をそそぎ出すとき。しかも私の魂はいまたに悲しいの だ。すべり落ちて淵となる、あるいはむしろ自分が淵である ことを感じるからである。私の足もとで夜あなたがともされ た私の信仰は魂に言う。「なにゆえ、お前は悲しいのか。そ して、なにゆえ、私を煩わすのか。主に希望をつなげ。彼の 言葉はお前の足にとって提灯なのだ」。そして不義の母、夜 われわれもま がすぎるまで、主の怒りがすぎ去るまで、 ! 」であった、この暗 た怒りのたちであって「かっては 一 0 コリント人への第一の手紙一四ノ二〇。 = ガラテヤ人への手紙三ノ一。 黒の残涬を「罪のために」死んた肉体のうちにわれわれはひ 一一一使徒行伝二ノ二以下参照。 「日が凉しくなり、影が遠くにしりそく きずっている 一三知恵の書九ノ一七。 まで」、希望をいだき、たえしのべ。「主に希望をつなげ。朝 言詩篇六七ノ一九 ( 六八ノ一八 ) 。マラキ書三ノ一〇。 には私は立ちあがって眺めるであろう。つねに彼をたたえる 一五詩篇四五ノ五 ( 四六ノ四 ) 。 であろう。朝には起立して私の顔の救いである私の神をみる 一六ヨハネによる福音書三ノ二九。「彼女」「花嫁」とは教会。 であろう」。神は「われわれのうちに宿る御霊のためにわれ 一七ローマ人への手紙八ノ二三。 われの死すべき肉体をも生きかえらせたもうたであろう」。 詩篇四一ノ八 ( 四二ノ一七 ) 。 究コリント人への第二の手紙一一ノ三。 内なるわれわれの暗黒と流動の面をあわれみをもって覆うた ニ 0 ヨハネの第一の手紙三ノ二。 からである。彼からわれわれはこの世の遍歴において「担保 一 = 詩篇四一ノ四 ( 四二ノ三 ) 。 をえた」、それで、いままでは、われわれは「希望によって 救われ」ている。 . そして「かってはそれであった」けれども 夜や暗黒の子たちではなく、光の子たちと日の子たちとさ 第一四章 れ」たのだが、いまは「光」になったのである。この光の子 たちとわれわれのあいだを、いままでは、この不確かな人間 白一五、そして私もまた言う、『わたしの神よ、あなたはど こおいては、あなただけが区別したもうのである。あ の知識ー こにおられるのか』と。見よ、あなたがどこにおられるか なたは「われわれの心をためし」「光を昼と名づけ、暗黒を を。私はあなたを少しは呼吸する、「よろこびと告白 ( 讃美 ) の声を出し、祭りの日を祝う歌をうたいながら」私の表面に夜と名づけたもう」のである。いったい、あなた以外の譓が = ローマ人への手紙八ノ二三。 三詩篇四一ノ八 ( 四二ノ七 ) 。 四コリント人への第一の手紙三ノ一。「そのひとしはバウロ。 五ビリビ人への手紙三ノ一三。 六コリント人への第二の手紙五ノ四参照。 詩篇四一 ( 四一 l) ノ二以下。 ^ コリント人への第二の手紙五ノ二。 九ローマ人への手紙一二ノ二。 ( ヒ )