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検索対象: 世界の大思想3 アウグスチヌス ルター
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1. 世界の大思想3 アウグスチヌス ルター

私自身は、他よりもまさろうとする空しい欲望によって、征て、私の少年時代だけを授けたもうたとしても、最もすぐれ、 この宇宙の創造者また支配者として最も善であるあなたに、 服されていたわけである。実際、かように私は他のひとびと 「私たちの神に、感謝を」私はささげよう。実際、私は、そ に対してずるいいつわりをおこなったが、しかしこれを他の ひとびとがおこなっているのを見つけたときには、これほどの時代にも、存在し、生命を持ち、また感覚や感情を持って いた。そしてあなたの最も秘められた統一性から私は自分の 堪え難く思い、はげしくとがめたものがあろうか。しかも、 私が見つけられて、とがめられたときには、〔おとなしく〕し存在を得ていたのだから、私自身におけるその統一性の跡で たがわないで、むしろ、あばれたのである。このようなことある私の存在が侵されないように、私は取りはからった。ま ・、子供らしいあどけなさだろうか。そうではない。主よ、そた、内的感覚によって、私のいろいろな感覚がうまくおこな うではない。私の神よ、私にそのように語るのを許したまい われるように、見守った。また、ささやかなことがらについ ますように。かような同じ罪が、〔年齢が加わりゆくとともに〕、 て思いめぐらした私のささやかな思惟のうちに、私は真理を 家庭教師や学校の教師から移り去り、またくるみや小さいポ見出して、よろこんだ。私は欺かれるのを嫌い、記憶の力も 1 ルや雀から移り去って、黄金や領地や奴隷を得るために知強く、弁舌もさわやかであり、友情にも温められていた。そ 事や国王へと移り変る。かような同じ罪が、年齢が加わりゆして苦しみ、卑しさ、愚かさを避けたのであった。この私の毓 くとともに、移り変るだけである。これは、ちょうど、教師ように生きているものにおいて、ほめ讃えられてはならない たちのむちに次いで一層重い罰が加られるようになるのと同ようなものが、一体、あるだろうか。けれども、これらは、 様なのである。それゆえ、私たちの王よ、あなたが「天国は すべて、私の神から賜わったもので、私が私自身に与えたも かような者の国である」と宣べて、謙虚のしるしとして認め のではない。それらは〔つねに〕、善いものであり、それらす たもうたものは、ただ、子供の低い身のたけにすぎなかった べてが私なのである。それゆえ、私を造りたもうた者は善で のである。 あり、「彼ー自身が私の善なのである。私は、それらすべて の善いもののために、「彼」をたたえて、歌おう。私はそれ 一詩篇三〇ノ二三 ( 三一ノ二一 l) 。 らすべてのおかげですでに少年でありえたのだから。だが、 = マタイによる福音書一九ノ一四。 私は罪を犯していた。「彼ー自身のうちにではなくて、「彼」 の造ったもの、言いかえると、私やその他のものどものう 第二〇章 ちに、快楽や名声や真理をもとめたからである。このように して、私は苦痛や困難や誤謬のうちに、おちいったわけであ 三一、けれども、主よ、たとえあなたが、みこころによっ 675

2. 世界の大思想3 アウグスチヌス ルター

ものの場合には〕、実物は外に残されて、例えば、声はひびき身は、空中に伝わりながら、耳にひびいて、すぐに、消えて しまう。このことは、私が、知っている通りである。ところ 渡って、やがて、消え去ってしまうのだ。しかし、その声は 耳を通って、痕かたを残し、心象としてとどめられる。それが、それらの声で意味されている事柄そのものには、からた のどの感覚も到達することが出来ない。私はそれを、自分の で、私は、実際には聞こえなくても、聞こえるかのように、 精神以外には、どこにも見ることが出来ない。そして私はそ 思いおこすのである。また、香りも空気のなかにただよい、 やがて、消え去るのだが、嗅覚を刺激して、記憶のなかにそれ自身を記憶のなかにたもつのであって、それの心象を保つ のではないのだ。その事柄そのものは、一体、どこから仏の の心象を送りこむのだ。それで、私はこれを思いおこして、 ・実際に嗅ぐかのように、かぐのだ。また、食物も、私たちなかに入りこんだのだろうか。出来れば、そのことがら自身 に語らせたいものだ。実際、私は自分の肉の戸口を、全髜 が、一度、腹のなかに入れてしまうと、もう、味を残さない 調べあげても、その事柄自身が入りこんで来た戸口を、見出 しかし記憶のなかでは、実際に味わうかのようである。 ・また、私たちがからだで触れて感覚するものも、私たちがこすことが出来ない。眼も、たしかに、「色のついたものだっ れから遠く離れているときでも、記憶によってこれを思い浮たら、・ほくらが取りつぎました」、とこう言う。耳も「音が したのでしたら、お知らせしたのは私たちょーと語る。鼻も かべることが出来るのだ。実際、このような感覚的なものに ついては、その実物が記憶のなかに移し入れられるのではな 「においや香りでしたら、私たちがお送りしたわーと、こう くて、それらの心象あるいは印象だけが、非常な速さで、と語る。味覚もこう言うのだ。「味でないのなら、・ほくに聞い らえられ、言わば、密室のような驚くべきところに貯えられ、 ても、無理だよ」。触覚もこう言うのだ。「物体や肉体のよう また驚くべき仕方で思い出され、取り出されるのである。 なものでないのなら、・ほくは触れなかったよ。触れなかった のだから、知らせなかったのだ」。それで、あの事柄そのも のは、どこから、どこを通って、私のなかに入って来たのだ 第一〇章 ろうか。どうして入って来たのだろうか。実は、私がそれら 一七、実は、「それは存在するか」、「何であるか」、「どのを学んだとき、他人の心に信頼したのではなくて、自分自身 の心のなかで、その通りだと思って、それらを真だと認め ようにあるか」という三種の問い方があると、誰かが言い、 た。そしてそれらを自分の心のなかに預けた。自分の心のな そして私がこれを聞くとしよう。それらの言葉は幾つかの音 かに、言ってみれば、貯えておいたのだが、これは、私が思 で組み立てられているのだが、これらの音あるいは声を私は いのままに、そこから引き出すためであった。〔ところで、私 心象として、記憶のなかにとどめるが、音あるいは声それ自

3. 世界の大思想3 アウグスチヌス ルター

四〇、そして「はじめにおいて造りたもうた」という言葉 たといっているかのように受け取るのであるさらにまた 「はじめにおいて」というのを、知恵において「あなたは天とを「はじめに造りたもうた」としか受け取らないひとは「天 地を造りたもうた」と理解するものたちのうちには、天と地と地」を元の物質、すなわち〔宇宙〕全体、つまり知的と感覚 的な被造物の物質と理解する以外に、天と地を本当の意味で そのものにおいて天と地の創造可能な物質、がこのように、 同じ名で呼ばれたのだと信ずるひともいる。他のひとはすで理解するてだてをもたないのである。じっさい、もしも天と に形をあたえられ区分された自然が、また他のひとは天の名地をすでに形を与えられた世界全体たと理解しようとすれ ば、たしかに彼にたすねることができるたろう。もしも神が によって、形をあたえられた霊的な同じ一つのものが、地の 名によって、形のない物体的な物質が意味されるのだと信ずはじめにこれを造りたもうたとしたら、つぎにはなにを造り る。しかし天と地の名のもとにまた形のない物質でそれから たもうのたろうか、と。そして世界全体の後になにも見出さ 天と地が形づくられると理解するひとたちもまた、一つの仕なければ、このために「そのあとになにもないなら、このは 方で同じことを理解しないで、あるひとは知的な被造物と感じめにというのはどのような仕方なのか」といやいや聞くこ 覚的な被造物が完成されるにいたるものと理解する。他のひとになるだろう。しかしはじめに形の無いものを、ついで形 とはその巨大な内部に目にみえわれわれの感覚に感ぜられる のあるものをと言うときは、少なくとも、なにが永遠におい 自然を含むこの現実の感覚的な物体的な塊りだけが引き出さて、なにが時間において、なにが選択において、なにが発生 れるものとしか理解しない。また「天と地」は、この個所で において先立つか、それをはっきりさせることができれば、 は、すでに秩序づけられ、区分された被造物をさしているの不合理ではない。永遠においてというのは、たとえば、神が だと信ずるひとたちも、一つの仕方で理解していない。あるすべてのものに先行するような場合である。時間においてと ひとはこの被造物は目に見えないものと目に見えるものであ いうのは、花が果実に先行するような場合である。選択にお るとし、他のひとは目に見えるものだけをみとめ、そのうち いてというのは、果実が花に先行するような場合である。発 には光り輝く天とあらゆるものをうちに含な暗い地をわれわ生においてというのは、音が歌に先行するような場合であ れは眺めるのだとする。 る。私がいまのべたこれらの四つの場合において最初と最後 の場合は理解するのが最もむずかしいが、中の二つの場合は 一ヨハネによる福音書八ノ二五。 理解するのは最もやさしい。じじつ、主よ、あなたの永遠は 変化するものを不変的に造りたもう、このゆえに、より先で 第二九章 あるから、これを観ることはまれな視覚であって、非常に困

4. 世界の大思想3 アウグスチヌス ルター

告白第 1 を第 20 阜・第 2 巻第 1 章 る。私のよろこびよ、私の誉れよ、私の頼りよ、私の神よ、 私はあなたに感謝する。あなたの賜物について、あなたに感 謝する。そしてまた、あなたの賜物を私のために守りたまい ますように。実に、あなたが、かように、私を守りたもうと き、あなたが私に賜うたものも、はじめて、大きくなり全き ものとなるであろう。私自身は、もともと、あなたとともに 在るであろう。私が在るということも、実際、あなたが私に 与えたもうたものなのだからである。 一コリント人への第二の手紙二ノ一四、八ノ一六。 ニ存在するものは、すべて、統一性を持っことによって存在 一、私は、もう、過ぎ去った自分のけがれたおこないと、 する。人間も存在する限り、統一性によって存在する。この統 肉の欲望によごれた自分の魂の・ことを、思い出そうと思う。 一性による存在が神の純粋な統一性の痕と考えられているので しかし、それは、私がそのようなけがらわしいことがらを愛 ある。 = 眼や耳などの感覚について、例えば、よく聞こえるようにするからではなくて、私の神よ、あなたを愛しようとするか らである。私はあなたの愛を愛するから、思い出そうとする 耳を声の方に動かし、よく見えるように眼を物に近づけると き、このように耳や眼を動かす力が、魂のうちにある内的感覚のである。私の思い出の苦さのうちに、私の通りすぎて来た だと、考えられているのである。 けがれ果てた道を、振り返って、私は、おお、偽ることのな い甘さよ、確かなまた幸いなる甘さよ、あなたがその甘さを 私のうちに注ぎたもうのを、〔こいねがい〕、また、私は、徒 らに、切り裂かれていたので、この散乱した状態から私をあ なたが寄せ集めたもうのを、〔こいねがうのである〕。私は、唯・ 一であるあなたに、そむいて、あまたの空しいことどものう ちに消えうせていたのだからである。実際、私は、かって若 かったころ、おそるべき快楽によって満足を得ようと、燃え 立って、荒々しくも、さまざまな暗い愛欲に耽って、恥すか しいとも思わなかった。それで、私の顔色は次第におとる 6 門

5. 世界の大思想3 アウグスチヌス ルター

力いっそう、明らかになるのだ。快楽の欲は美しいもの しい名をまとうているのだ。この〔好奇心という〕欲は知ろう とする欲望であるが、知ろうとする場合には、いろいろな感や、快い音や声、よい香りゃうまいものや、しなやかなもの 見のなかでは、眼が首位を占めているから、それは、神のこを求めるのだが、好奇心はこれらとは反対のものをも求める のだ。しかし、〔自分から進んで〕苦しもうというのではなく とばに従って、「眼の欲ーとも呼ばれている。見るというこ とは、本来、眼に属する働きである。けれども、私たちがそて、ためしてみよ、つとするのだ。経験によって知ろうとする の他の感覚をも、知るために、用いる場合には、やはり、こ欲望にかられて、求めるのだ。引き裂かれた死体に見人っ れらの感覚にも見るという言葉を使うのである。事実、「どて、ひとびとはどんな快楽を味わうのだろうか。ぞっとし んなに火花が散ってるかを聞け」とか、「何とよく光るかをて、眼をそむけるだけではないだろうか。けれども、そのよ うな死体が、どこかに、ころがっていると、ひとびとは走り 哽げ」とか、「何とよく輝くかを味わえ」とか、「何とよく閃 寄ってゆく。そうして、びつくりして、顔色をかえるのだ。 めくかに触れよ」とかいうようには、私たちは言わない。 これらについては、すべて、「見よ」と言うのだ。私たちはその上、これを、夢にでも、見はしないたろうかと、気にや 「何とよく輝くかを見よ」と言うだけではない。輝くというむ。たから、それらのひとびとは、ちょうど、眼ざめている のに、だれかに、無理強いされて、やむを得ず、その死体を ことは、ただ、眼だけが感するところのものだが、さらに、 見たかのようだ。そうでなければ、きれいだという評判につ 「どんな音だか、見てくれたまえ」とか、「どんな香りだか、 られて、かけ寄ったかのようだ。眼の感覚だけではなく、そ 見てくれたまえ」とか、「どんな味だか、見て下さい」とか、 「何と硬いことか、ごらんなさいーなどとも、私たちは言うの他の感覚でも同じことであるが、これらについても述べる と、長くなりすぎるだろう。この好奇心という、病気のため のである。かようなわけで、感覚によって営まれる経験は、 に、劇場でも、すごいものが上演される。また、この同し病 すでに述べられたように、一般に、「眼の欲」と呼ばれるの である。見るという働きについては、眼が優位をしめるのだ気のために、私たちの眼の前によこたわる自然についても、 私たちはその秘密をさぐろうとする。だが、それを知りえて が、その他の感覚も、私たちが何かを知ろうとして、用いる も、何も利益はないのだ。けれども、人間は、ただ知ることだ ときには、眼になそらえて言えば、見るという働きをするこ けを、望んでいるのだ。ただ知るという目的だけで知るなど とになるからである。 ということは、如何にも、堕落したことであるが、しかしこ 五五、ところで、いま私が述べたことから、快楽の欲が、 感覚を通して、どのように、くりひろげられるか、また、好の目的のためにひとびとは魔術を用いて、何かをさがすのだ 寄心が、感覚を通して、どのように、くりひろげられるか が、これも好奇心という病気のせいなのだ。信仰の領域でさ

6. 世界の大思想3 アウグスチヌス ルター

も、感覚的なものに触れて、こすられることを願ってやまな かった。だが、この感覚的なものも、魂を持たなかったなら 、もちろん、私はそれを愛しはしなかっただろう。愛しそ して愛されるということは、私には、うれしく、殊に、愛す 三知恵の書一四ノ一一、詩篇九〇ノ三 ( 九一ノ lll) 参照。 る者の肉体を楽しなことが出来れば、非常に、うれしかっ 四ョブ記二ノ七ー八参照。 た。それで、私は友情の清い泉をみたらな情欲によってけが 三詩篇五八ノ一八 ( 五九ノ一七 ) 。 し、友情の美しい輝きを肉欲の地獄からわきおこる雲によっ 六詩篇二ノ九参照。 ておおってしまった。けれども、私は、そのように醜くそし 七ガラテヤ人への手紙五ノ二〇参照 てけがれておりながらも、なお虚ろな自負心にみたされて、 卑しくないように、そして上品であるようにと、願ってやま 第二章 なかったのである。しかも、私は愛欲のなかに落ち込んだ。 これにとらえられるのを望んでいたわけである。しかし、 二、私は演劇に心をうばわれてしまった。そこには、私の 「私の神よ、私をあわれみたもう者よ」、あなたは、まことに、 みじめさを映しているいろいろな似姿と、私の愛欲の火を燃 ま、 善でありたもうので、私のために、何と多くの胆汁をあの楽え立たせる薪とが、みち溢れていたからである。一体、人間 しさのなかにそそぎたもうたことだろう。私は、たしかに、 は悲しいことやいたましいことが自分に振りかかって来るの ′、、いり 愛された。そして、ひそかに、楽しさの鎖につながれ、よろを欲しないのだが、しかもかようなものを劇場で見て、それ こんで、苦しい繩目にかかったのである。だが、これは、ちに涙を流そうとするのたが、これは何故であろうか。けれど ようど真赤にやけた鉄の棒でなぐられるかのように、やがて、 も、観客はそれらによって悲しもうとするのである。したが ねたみ、ひがみ、恐れ、怒り、さらに争いなどによって、私って、この悲しみそれ自身が彼らの求める快楽たというわけ がなぐり倒されるためなのであった。 である。だが、これこそ、あわれむべき狂気の沙汰でないと すれば、一体、何だろうか。実際、ひとは、誰でも、かよう 一口ーマ時代の文化の中心地はアテナイとアレクサンドリア な感情に対して健全でなければ、ないだけ、ますます、そのよ とカルタゴであった。いま、アウグスチヌスは、心をおどらせ うなものに心を動かされるようになるのである。けれども、 ながら、この文化の中心地に来たわけである。 ひとが、自分自身、悲しみを受けるときには、その状態はあ 一一サルタゴ (Sartago 大釜 ) がカルタゴ (Carthago) と、 発音の上で似ているので、アウグスチヌスは得意なしゃれを飛 われと呼ばれ、他のひとびと〔のあわれ〕を心に感するときに なわめ ばしているのである。だから、大釜と文字通りに、訳しても、 何にもならないので、むしろ、「肥たご」とでも言った方がし やれになるかも知れないが、 しかし訳者はそこまで大胆にはな れなかった。

7. 世界の大思想3 アウグスチヌス ルター

99 告白第 4 巻第 10 , 11 章 当は、安らう・ヘき場所がない。そのようなものは動かないも神のことば自身がお前に、帰って来るようにと、叫びたう のだ。そこは乱されることのない安らいの場所だ。そこで のではなくて、逃げ去るものだからである。誰がそのような ものの跡を、肉の感覚で、追いかけることが出来ようか。そは、愛自身が〔その愛する者を〕見捨てないかぎり、〔その愛する のようなものが眼の前にあるときでさえも、誰がそれをとら者から〕見捨てられることはないのだ。この通り、〔地上にお いては〕ある事物は過ぎ去り、そしてその代りに他の事物が えて、わが物とすることが出来ようか。肉の感覚は、〔どこま でも〕、肉の感覚なのだから、実際、〔そのように逃げゆくものあらわれ出る。しかし、地上の世界全体は、そのようにし を捕えるためには、余りにも〕速さを欠いているのである。肉て、そのあらゆる部分から成り立つのだ。だが、「私はどこ の感覚もそれ自身にふさわしい限界を持つのである。肉の感かに去りゆくだろうか」と神のことばは語りたもう。ここ 覚は、〔これによって感覚されるのにふさわしく〕造られたものをに、神のことばに、お前の住家を定めよ。お前が神のことば 感覚するためには、十分であるが、定められた発端から定めから受けたすべてのものを、神のことばにゆだねよ。私の魂 られた終局に向かって、甚たすみやかに、馳せゆくものを、 よ、お前は、とうとう、あの偽りと欺きに疲れてしまったの 引き止めるためには、十分ではない。たしかに、すべてのも だ。お前が真理から受け取ったすべてのものを、真理にゆだ のはあなたのことばによって造られたのであり、そしてこのねよ。そうすれば、お前は、もう、何ものをも失うことがな ( 四 ) ことばからすべてのものは「ここからここまで」という声を いだろう。腐っているお前も、また再び、花を開くだろう。 聞くのたからである。 お前の病いも、みな、癒やされるだろう。また、お前のなか 一詩篇七九ノ八 ( 八〇ノ七 ) 。 の減びゆくものも、再び興され、新たにされて、お前に固く 一一アンプロシウス讃歌 (PL. XVI, col. 1473 ) 参照。本書第 結び合わされるだろう。それで、そのように滅び去るもの自 九巻一二章三二節では「神よ、あらゆるものを創りたまい」と 身は低いところに降りゆくけれども、お前をその低いところ 訳した。 へ連れ去ることは、もはや、ないたろう。かえって、かよう 三詩篇一四五ノ一ズ一四六ノ一 ) 参照。 なものも、お前と共にとどまり、「永遠に立ち、絶えす止ま 四ョブ記三八ノ一一参照。 りたもうー神のもとに止まるだろう。 一七、何故にお前は、みにくくも、さかさまになって、お 間の肉にしたがうのか。むしろ、お前のほうが一廻りして、 この〔たたしい〕お前にお前の肉を従わすべきだ。お前が肉に よって感じるものは、どれも、部分として存在するものにす 第一一章 一六、私の魂よ、空しいものであることを止めよ。お前の 空しい騒ぎによって心の耳をつん・ほにするな。お前も聞け。

8. 世界の大思想3 アウグスチヌス ルター

かに、私はすべてのものを見てまわって、それらのものを見 て賜わったのだと信じているからだ。また、あなたの恩寵に よって賜わったのだと信じるとしても、これを兄弟たちととわけ、それそれのものを、その価値にしたがって、はかろう と、努めた。それで、それらのなかのあるものどもを、私は、 もに喜ばないで、他のひとびとがあなたの恩寵にあずかる と、これをねたむのだからである。私はかようなあらゆる種感覚が告げるままに、受け取って、しらべた。また、他のあ るものどもは私自身とまじり合っているのに、気がついたの 類の危険と苦難のなかにあって、心は、おののき、ふるえて いるのだが、あなたはこれに眼をとどめたもう。それで、私で、それらを私に知らせたいろいろな感覚それ自身をも調べ、 は傷を、もう、増し加えることもなく、あなたによって、次これらを数えあげた。それから、私は、やっと、記憶という 大きいいろいろな蔵のなかで、あるものどもを、よく、調べ 第に、いやされてゆくのを、感ずるのである。 上げ、また、あるものをしまい込み、また、あるものをそこ から思い浮かばせた。けれども、そのようなすべてのものを 第四〇章 見出したのは、私自身ではなかった。また、私はそのように 六五、真理よ、あなたは私とともに歩きたまわなかったこ探しもとめたが、そのとき、探し求めた者は私自身ではな 。言い換えると、私は自分のカで、そのように、さがし廻 とがあるだろうか。私は、この低い地上で、見ることの出来た ったが、この私の力は私自身ではない。けれども、そのカ すべてのものを、あなたのもとに申し出て、あなたにうかが は、また、あなたでもない。あなたは永遠に止住したもう光 ったのであるが、あなたは、いつでも、私に、さけなくては だからである。私はすべてのものについて、それらは存在す ならないものと求めなくてはならないものとを、教えたもう たのである。私は、感覚によって、出来る限り、外の世界をるかどうか、それらは何であるか、それらは、どのように、 見廻した。また、自分の肉体を生かしている生命にも、自分評価さるべきかというようなことを、その光にうかがった。 自身のいろいろな感覚にも、私は眼をとめた。それから、私そうすると、あなたは教えたまい、また命じたもうて、私は は記憶のなかに、奥深く、進み入って、多くのいろいろな部それに聞いたのである。私は、しばしば、そのように、あな たにうかがっている。そしてそこに喜びを見出すのだ。やむ 屋を見出した。そこには驚くべき程に無数の富が、さまざま に、たくわえられて、みちあふれていた。私はそれらを眺めを得ない仕事から解放されて、ひまになると、私は、そのた て、たまげてしまった。あなたに助けられないでは、私はそれびごとに、その喜びのなかに逃れて、休むのだ。あなたにう らのどの一つをも見わけることが出来ないにもかかわらず、かがいながら、私はそれらのすべてのものを探しまわるのだ それらのどの一つもあなたではなかったのだからである。確が、私の魂にとって安らかな場所を、私はあなたのなかにし

9. 世界の大思想3 アウグスチヌス ルター

こぶのだ。だが、ギリシア人もそれを、ギリシア語で、聞くである。それでは、私たちが弁論術を記憶する場合と同じ仕 ときには、私たちと同じように、よろこぶだろう。実際、幸方で、それを記憶するのだろうか。そうでもない。確かに、 福な生活そのものはギリシア語でもなく、ラテン語でもなくひとびとが弁論術に、まだ、通じていないときにも、弁論術 て、ギリシア人もラテン人も、その他の言葉を語るひとびとのことを思いおこし、そして多くのひとびとが弁論術を身に も、みな、同じように、熱心に求めるところのものなのであっけようと、望んでいる。だから、明らかに、そのようなひ る。それゆえ、ひとびとは、すべて、幸福な生活のことを知とびとも弁論術のことを知っているのだ。しかし、らは、 っているのだ。それで、ロを揃えて、それらのひとに「幸福耳や目などの肉体的感覚によって、他人が弁論術に通じてい であるのを欲するか」と問うことが出来れば、彼らは、何のるのを知り、これをよろこんで、自分らもそうなろうと望む ためらいもなく、すぐに、「欲するーと答えるたろう。けれのだ。もっとも、彼らも、単に肉体の感覚だけによってでは ども、幸福な生活という名によって示されるものそれ自体なく、さらに、心のうちでも、弁論術を知るのでなければ、 よろこぶこともないだろう。よろこばなければ、自分もそう が、彼らの記憶のなかに貯えられていないならば、彼らも、 そのように、答えはしないだろう。 なろうとは思わないだろう。ところが、幸福な生活は、私た 一コリント人への第一の手紙一五ノ二二参照。 ちが肉体の感覚によって、他人のどこかに認めることが出来 るようなものではない。それでは、私たちが喜びを記憶する 場合と同じように、幸福な生活をも記憶するのだろうか。お 第二一章 そらくは、そうだろう。事実、私は悲しいときにも、よろこ 三〇、誰かがカルタゴを見て、これを記憶する場合と同じびを思いおこすのだが、これと同じように、私はみじめであ 仕方で、幸福な生活をも記憶のなかにとどめることが出来る りながらも、幸福な生活を思い浮かべるのだ。また、私は自 だろうか。そうではない。幸福な生活は、眼で見られるもの分の喜びを、肉体的な感覚によって、見たのでもなく、聞い たのでもなく、かいだのでもなく、味わったのでもなく、触 巻ではないのだ。それは物体のようなものではないからだ。そ このよろこびを心 れたのでもなくて、私がよろこんだ時に、 れでは、私たちが数を記憶する場合と同じ仕方で、それを記 意こ結びついた のなかで経験し、そしてこの喜びの観念が記↑冫 白憶するのだろうか。そうでもない。事実、ひとは数を知っ ルロ て、さらに、これを得ようとはしないが、幸福な生活のことのである。それで、私はそれを思い出すことが出来るのた しかしいろいろなものが起縁となって、それを思いおこ を知るときには、知るがゆえに、それを愛して、さらに、これが、 を自分のものにし、自分自身が幸福であるように、欲するのすのたから、そのようなものがちがうに従って、思い出しな

10. 世界の大思想3 アウグスチヌス ルター

10 り 四ノ二三参照。 ぎない。実は、かような部分はすべて、全体の部分として存 三詩篇一〇一ノ一三、二七 ( 一〇二ノ一二、 在するのたが、お前は〔その肉によっては〕その全体を知ること 第一の手紙一ノ二三参照。 がないのだ。しかも、そのような部分にお前はよろこんでい るのだ。しかし、お前の肉の感覚は全体をとらえることが出 来るのだろうか。だが、お前の肉の感覚も全体の部分に、た 第一二章 だしくも、制限されて、〔全体を知ることが出来ないという〕罰を お前に加えているのではないたろうか。だから、むしろ、お 一八、もし物体的なものが、〔私の魂よ〕、お前をよろこば 前は眼の前に存在するものを、すべて、越え出て、全体の一すならば、そのようなもののために神を讃えよ。そしてお前 層大きいよろこびを味わうようにすべきだ。実、私たちがの愛をそれらのものから、それらを造りたもうた者に向けか 語ることばをも、お前はその同じ肉の感覚によって聞くの えよ。そうでないと、お前はそのようなものをよろこんで、 だが、その際多くの音節がとどまって動かないのを、お前は そのためにお前自身は、それらを造りたもうた者からは、よ 欲しないだろう。かえって、一つの音節が飛び去り、他の音 ろこばれないだろう。もし多くの魂がお前をよろこばすなら 節が〔それに代って〕現われ出、このようにして私たちの語る ば、お前はそれらをも神において愛すべきだ。それらの魂 ことばの全体が聞かれるようにと、欲するだろう。一つの全 も、それら自身としては、動き変わるものであって、たた神 体をつくり上げるすべての部分が、みな、同時に存在するの のもとにある限りで、固く常にとどまるだけなのたからた。 でないときには、それらの部分については、それらの音節のそうでないと、それらも過ぎゅき、減び去るのだ。それゆえ、 場合と同じことが、いつでも、言われ得るのだ。私たちはも お前はそれらを神において愛さなくてはならないだろう。そ し全体を感覚することが出来るならば、一つ一つの部分より して出来る限り、多くの魂を、お前と一緒に、神へと連れゆ も、この全体のほうを一層よろこぶだろう。だが、あらゆる き、それらの魂にこう言わなくてはならないだろう。「私た ものを造りたもうた者は、これらの全体よりも、はるかに、 ちは神を愛しよう。彼自身がこれらすべてを造りたもうたの すぐれたもうのだ。そして「彼」が私たちの神であり、この であるから。彼は私たちから遠く離れていたもうのではない 神は過ぎ去りたもうことがない。何ものもその後をつぎ得な から」。実際、神は造りたもうて、この造りたもうたものか いのだからである。 ら立ち去りたもうたのではない。造られたものは、すべて、 「彼ーから出て、しかも「彼ーのうちに在るのだから。見よ、川 一ヨハネによる福音書一四ノ二三参照。 = 詩篇一〇二ノ三 ( 一〇三ノ三 ) 参照。マタイによる福音書真理が香りを放っところに、「彼」はいたもうのである。 二六 ) 、ペテロの