べる場合よりも、一層確かなのである。けれども、また、私魂や生命ではなくて〕、もろもろの魂を生かす生命であり、もろ たちがそれらの真実なものから推しはかって、他の何か非常もろの生命の生命である。私の魂の生命よ、あなたはあなた 自身によって生き、移り変りたまうことがないのである。 に大きい、そして限りもないものを思い見る場合よりも、ただ それらを思い浮かべるにすぎない場合のほうが、真実なもの 一一、その頃、一体、あなたは、私にとって、どこにいオ もうたのであろうか。私からどのように遠く離れて、いたも に一層近いのである。かように非常に大きいそして限りもな いものは、全く、存在しないのだからである。けれども、そうたのであろうか。私はあなたから遠く離れて、さまよって のころ、私はかようなうつろなものによって養われていたの いた。そして、私は蝗豆で豚を飼っていたが、しかし、私自 である。たから、本当は、養われていなかったわけである。 身にはこの豆さえも与えられなかった。文法家や詩人の だが、私の愛する愛よ、私は強くなろうとして、あなたをもと語る寓話は、ひとびとをおとしいれるわなよりも、どのよう めて思いこがれていたが、あなたは、私たちが天上に見る物にまさっていただろうか。確かに、詩や歌や「あまがけるメ 体的なものでもなく、またそこに見ることの出来ない物体的デア」の話は、〔マニ教における〕かの五つの元素よりも、役立 なものでもない。たしかに、それらのものはあなたが造りた つだろう。この五つの元素は、あの闇のなかの五つのほら穴 もうたものであり、しかもあなたがつくりたもうた最高のものために、さまざまに姿を変える、と言われているが、実 ののなかには、数えたまわないものなのである。それゆえ、 は、そのようなものは、全く、存在しはしない。しかも、そ 私のあの空想的なものどもから、物体的なものによって空想 のようなものを信ずる者を、かえって、殺すのである。しか されたものどもから、あなたは、何と遠く、かけ離れていた し、詩や歌は、実際、本当の糧に変えられることも出来る。 もうことだろう。実際、これらのものは全く存在しないので また、「あまがけるメデア」については、私はこれを歌った ある。それらの空想的なあるいは幻想的なものどもよりも、 けれども、この話が実際に存在したとは考えなかった。それ 章 実際に存在する物体的なものの感覚的な表象のほうが確実を誰かが歌うのを私は聞いたけれども、それをその通りに存 である。そしてこれらの表象よりも、〔実際に存在する〕物体在したとは信じなかった。ところが、私はあの五つの元素を 的なもののほうが確実である。けれども、あなたはかような信じたのであ % 。あわれなことだった。まことに、あわれな ことだった。私はどのような階段を通って地獄の底に引きす 物体的なものではない。また、あなたは物体的なものを生か 告す生命としての魂でもない。なお、物体的なものの生命は、こ り込まれたのだろうか。実際、私は真理を求めて、苦しみ悶 のように、物体的なものを生かすのたから、物体的なものよりえながら、私の神よ、あなたを求めていたのである。私はこ も一層確実な存在なのである。ところで、あなたは〔かような のことを、いま、あなたに告白しよう。実に、あなたは、私
れたからである。それゆえ彼は王であり祭司である。しか民である。」と言うところと同じである。それはキリスト者 が霊的にあらゆるものの支配者となるほどに、信仰によって 3 し、彼の国は地上的でもなければ、地上の財宝にあるのでも なく、たとえば真理・知恵・平和・歓喜・救済というような あらゆるものの上へ引き上げられることになる。いかなるも のもキリスト者にとって救いの妨げとはなりえないし、それ 霊的財宝にあるのであるから、本来霊的である。と言っても 現世の財宝が締め出しをくうというのではない。それはキリ のみかすべては彼に従属し、救いに役立っことは必定である ストが霊的、不可視的な支配者であるゆえに、われわれは彼 からである。聖。 ( ウロもロマ書第八章 ( 二八 ) において教え ている。「神は神を愛する者たち、すなわちご計画に従って を見ることをえないでも、天上・地上・地獄の一切のものは 彼に従属しているからである。同様に彼の聖職もわれわれが召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下 人びとにおいて見るように、外面的な動作や服装にあるのでさることを、わたしたちは知っている。」万事とはそれが生 なく、霊界において見えぬままになっている。それで彼は神であれ、死であれ、罪であれ、義であれ、善悪、その他何と いう名であれ、一切である。さらに、コリント前書第三章 ( 二 の前にたえす彼を信じる者達のためにとりなし、自己を犠牲 として捧げ、正しい祭司がなすべき一切をなしたもうのであ一以下 ) に、「すべては、あなたがたのものなのである。生 も、死も、現在のものも、将来のものも、ことごとくあなた る。彼は聖。 ( ウロがロマ書第八章 ( 三四 ) において「キリス がたのものである。」あらゆるものを所有し、使用するため ト・イエスは死んで、否、よみがえって神の右に座し、また に、われわれは地上の人間として、それを肉体のカで自山に わたしたちのためにとりなして下さるのである。」と語るよ うに、われわれのために、祈願したもうのである。同様にキするわけにはゆかない。なぜならばわれわれは肉体的に死な なければならす、何人も死を逃れられないからである。そこ リストはわれわれを内的に心の中において教えたもう。祈願 でキリストおよび彼の聖徒において見るように、われわれは することと教えることとは、祭司に属する二つの本来的な真 の職務である。それは同様に外的、世俗的、現世的な祭司死以外にも多くの苦を受けざるをえない。何となればこれ は、およそ肉体的な圧迫の中においてもひるまぬ霊的支配で も、祈ったり教えたりするからである。 第十五節さてキリストは栄誉と品格をもっ長子権を占めある。すなわち私は霊的方面から見て、何もなくても向上す ることができるから、死も苦悩もかならず私にとっては救い るように、彼はすべての彼の信徒たちとその特権を共有する のためになる。それはまったく崇高な、優れた品位であり、 がゆえに、彼らも信仰によってキリストと共に王であり祭司 真に絶対的な主権であり、霊的王国である。何となれば私が でなければならない。聖ペテロがペテロ前書第一一章 ( 九 ) に いかなる善いものも悪いものも益にならぬことな 一 ) ⅱじれば、 おいて、「あなたがたは祭司の国、聖なる国民、神につける
として、この世界の魂のうちにわれわれは感覚するのである と言うひとは別の一つを、自分のために取り出しているので 第二〇章 ある。「はじめに神は天と地を造りたもうた」というのは、 一一九、内部の眼にこういうものを見ることをあなたが許しすなわち、つくりまた働く、その、そもそものはじめにおい たもうた人たちゃ、あなたのしもべであるモーセは「真理て神は天と地とを混沌としてふくんでいる無形の物質もっく りたまい、この物質から形成されて〔天と地が〕いまやそのう の」霊において語ったと信ずる人たちが疑おうとしない、 れらすべての真実なもののなかからー、ーそこで、あるひとちにあるすべてのものとともに、は「きりと浮き上がり、は つきりと見えているということである、と一言うひとは、別の は、このすべてのもののうちから一つを自分のために取り出 一つを、自分のために、取り出しているのである。 して、「はじめに神は天と地を造りたもうた」というのは、 一ヨハネによる福音書一四ノ一七。 彼の言葉において神は知的 ナなわち、彼と同じに永遠な、》 な、または感覚的な、あるいは霊的な、また肉体的な被造物 第二一章 を造りたもうたということだと言う。また、「はじめに神は 天と地をつくりたもうた」というのは、すなわち、彼と同じ 三〇、これにつづく語句の理解に関することも同様であ に永遠な、彼の言葉において、神はそのうちに明白で周知の性 質をすべてふくんたこの物体的な世界、つまりこの魂全体をる。これらすべての真実な解釈のなかからあるひとつを自分 造りたもうたということであると言うひとは、その一つを自のために取り出して、あるひとは、「しかし地は目にみえす、 分のために、取り出しているのである。また、「はじめに神また形を成してはいないものであった、そして深淵のうえに は闇があった」というのは、すなわち、神の造りたもうたそ は天と地を造りたもうた」というのは、すなわち、彼と同じ の物体的なものがまだ物体的な事物の無形の物質で秩序もも に永遠な言葉において霊的ならびに肉体的な被造物の無形の たず光もなかった、ということだと言う。他の意味を取り出 物質を造りたもうたということであると言うひとは、他の一 してこう言うひともある、「しかし地は目にみえずまた形を つを取り出しているのである。「はじめに神は天と地を造り たもうた」というのは、すなわち、彼にひとしく永遠な、彼成していないものであった、そして深淵のうえには闇があ「 た」、というのは、すなわち、天と地とよばれた、この全体が の言葉において、神は物体的な被造物の無形の物質をつくり まだ無形で暗い物質であった、そしてこれらから物体的な天 たもうたのであって、その物質においてはまだ天と地が混沌 としており、これがいまやすでに区別され、形成されたものと物体的な地が、そのうちに肉体的感覚にとらえられる、す
405 解題 わば過去への回想にあったが、第一 0 巻では、司教になった par M. Charpentier, 2 tomes, Paris (Classiques Garnier). The Confessions of St. Augustine, by J. G. Pilkington. 著者が神の使徒としての現在の心境を内省的に語っている。 これに対して、第一一巻から第一三巻は、神の永遠を観てい Edinburgh, 1876 (St. Augustine ・ s 舅「 orks. vol. 14 ). るとされる。つまり、この神学的部分では、聖書、とくに旧 AureIius Augustinus, Bekenntnisse. übersetzt von A. Hoffmann (Bibliothek der Kirchenväter, Augustinus, 約聖書の世記第一章に著者独自のアレゴリカルな解枳をほ どこし、神の創造のみわざが万物に、とくに著者の生につ 7. Bd. ). アウグスチヌス『告白』 ( 服部英次郎訳、岩波文庫、上巻ねに働いていることを讃美しているのである。さらに、こま かに見ると、第一一巻では、告白の新しい対象として平書、 と中巻 ) 。 とくに旧約聖書の創世記第一章がとりあげられ、創造の観念 以上は故今泉氏の『告白」第一巻ー第一〇巻についての解に反対するマ = 教徒その他のひとたちに対して彼らが提出し た創造の「以前」の問題ーー神は創造する前になにをしてい 説の一部である。本全集では『告白』の全巻を完訳すること 同の本質の考察に入ってゆ たかという愚問に答えながら、 になったので、残された第一一巻ー第一三巻の三巻を村治が く。物体的 ( 天体 ) 連動にとらわれて外的にとらえられた世 担当した。 日一般の時間観念に対して、連動の持続をはかるのは、むし この三巻はいわゆる神学的部分であって、前九巻ないし一 ろ時間であり、この時間を意識の持続のうちに求めた。この 〇巻とのつながりーー統一が多くの学者たちによって問題に ようにし ( 、時間の内面化、意識化が行なわれ、過去、現 され、論議されている。しかしとにかく、アウグスチスス自 身が一三巻としてまとめて完成したこの著作のプランや統一在、未来を魂の意識の働き、つまりその様相として、記憶、 は、これを外的、文献的な一一一〔葉のつながりのうちにのみ求め注目、期待にかえしたことはあまりにも有名である。しかし ないで、むしろ、内面的なつながりのうちに読みとるべきで時間の真の理解は、分散する自己が仲保者によって、「あら あろう。これは、後述するように、アウグスチヌス個人の内ゆる時間の前にあらゆる時間を創造する」父なる神 ( 第三 0 章四〇 ) のもとへ集中統一されることによってのみ可能であ 省的、神秘的性格から理解しようとすることである。 劇述されているように、肉体的る。かくて、時間の木質は神の永遠性につながる。創造者ロ 第一巻から第九巻までは、 にも精神的にも罪と迷妄のなかにおちこんだ一個の人間が神ゴスと知恵は父なる神とともに永遠である。人間の認識が印 のめぐみと愛の救いにより次第に霊的にめざめ形成され、神象により分散的、変化的で時聞のうちにあるのに対して ( 第 小変墨であることが力 のもとに帰ってゆく過程をふりかえって語った、つまり、 七章九 ) 、神の認識は、包括
み俿解題 「草は種をもっ」 ( 創世記第一章一一九 ) にしても、信徒たちのや弁明や防衛や他者への攻撃などの外的要素のいすれもが決 神の使いたちへの精神的な援助と解する。「みよ、すべては定的でないこと、むしろ、全巻を通じて、主への祈り、恩寵 非常によい」 ( 同上第一章三一 ) については、創造が神の善 への服従、聖書についての省察、使徒的な意図、主の彼個人 ・意によるものであることを示していると解する ( 第一一三章四への働きかけの感情など、きわめて内的な要素が目立ちそれ 主 ) 。敬虔な人たちがすべての被造物はよいとするのは、神らによって全巻が構成されていることにつながるのである。 の霊が人間のうちでみているからであるとする。これは善い 『告白』の風土は内面的、内省的であって、これはアウグス ものはすべて神から来たり、善くないもの、嘘を語ることな チヌスそのひとの神秘的な人格を反映しているにほかならな どはすべての人間に山来するということである。ここに内的 この神秘的な人格によって全巻は内的に統一されている ということを、ソリニャックにしたがって、みとめたい。 に深淵をもつ人間存在には多様性においてすべてを言表し、 理解するという限界があることをアウグスチヌスは鋭くとら したがって『告白』全巻のプランはソリニャックの提示し たように、左の二部に分けられよう。 えていることが知られるであろう。最後に、創造のすべての 仕事を終えられて、七日目の休息に入られる神について、主 第一部 ( 第一巻ー第八巻 ) 罪と回心 なる神に、アウグスチヌスは休息の平和、安息日の平和、タ 第一巻ー第四巻道徳的ならびに知的な迷い べのない平和をあたえたまえと祈る。第七日の日は永遠につ 第五巻マニ教からの離脱と ( 神への ) 帰還の開始 らく生命の安息日であって、神がわれわれにあたえた仕事の 第六巻ー第八巻知的ならびに道徳的な回心 あとに、人間たちも神のなかに休息しようと渇望し熱望する 第一一部 ( 第九巻ー第一三巻 ) 回心した者 のである。これはみすからの魂と、とりわけ神との対話をつ 第九巻アウグスチヌスの受洗と母モニカの死 ( オステ づけているアウグスチヌスがつねに求めた「汝のなかにのみ ィアにおける母とともにした神秘的体験 ) やすらぎと憩いがある」というモティーフのぎりぎりの確認 第一〇巻アウグスチヌスの内的心境 にほかならないであろう。 第一一巻ー第一三巻聖書についての省察 なお、『告白』全巻の著述ないし編集時期については、文 永遠を観るといわれる第一一巻から第一三巻の三巻は、罪 と迷妄の遍歴を生ぎてきた司教アウグスチヌスが、いまもな献的には、第一〇巻第三章三ー四と第四章五ー六において、 はじめの九巻に対する読者に二種類あることを区別し、意識 お、渇望してやまない神の永遠の観想のうちにおける休息と しているところから、この九巻が、限られた範囲だが、すで やすらぎをあらわに示しているわけである。そしてこれが、 「告白』を書いた動機として外のものたちに対する自己弁護に読まれていたことが知られる。アウグスチヌスはさらに著
第三〇章 : 第三一章 : 第二九章 第一一七章 : 第二八章 : これら物質的な援助はどんな精神で 受けとられねばならないか。使徒。ハ ウロは彼がうけとる善行よりも弟子 たちの善意をいっそうよろこぶ。 使徒でないものはこれらの果実 善意を味わわない。 創世記第一章三一「みよ、すべての ものは大変よい」、個々のものはよ いがすべてをよせると非常によい。 永遠的な神の御言葉と聖書の時間的 な語り方。神は時間的な被造物の善 さを、時間的でなく、見る。 すべてのものは神の被造物でないと するマニ教の誤り。 霊的な人たちにとってすべての被造 物がよいのは神の霊が人間のうちに あってすべての被造物を見るからで : 三芸 : 三 三茜 三芸 : 三茜 第三一一章 : 第三三章 : 第三四章 : 第三五章 : 第三六章・ 第三七章 : ・ 第三八章 : ある。 すべての創造物に対する恩寵のはた らき。 無をはじめ、すべてのものは造られ た。物質はその形と同時に造られ た。被造物の朝と夜。 創造の比喩的解釈の要約。 最後の祈り。第七日目の休息、それ が予示するもの、われわれに平安を 与えたまえ。 祈り ( つづき ) 、夜なしの昼。 祈り , ( つづき ) 、われわれにおける 神の憩い 祈り ( つづき ) 、神の永遠の観照、 働きと体息。 : 三天 : 三 : 三究 : 三芫 ・三芫
で、一五二二年から一一三年にかけて、南ドイツの騎士ジッキかわりもないことを、その言行によって証明したのである。 さきに、ジッキンゲン等の騎士団が没落し、ついで、農民 ンゲンの反乱が起こって、ルターはこれを糺弾したが、それ 戦争が悲惨な結果に終わった頃、ルターはまたエラスムス等 から一年後にライン地方の農民が武器をとってたち上がり、 の人文主義者ともたもとをわかたねばならなかった。エラス 農民戦争にまで発展した。ドイツ農民の反乱は、遠い過去に 根をもつものであって、この時代には一五二四年から一一五年ムスは、最初、ルターの改革運動を支持していたが、それが ローマ教会と正面衝突するに至っては、追従することができ にわたったが、その前期と後期とでは、その様相がすっかり ちがっていた。すなわち、前期では、上部シヴァーベンのなくなった。とくに、人間がまじめな意志によって歩一歩道 比較的富裕な農民の連動で、かれらはルタ 1 ・の強力な支持者徳的に向上しうると確信していたエラスムスにとっては、ル ターの「信仰によってのみ」救われるという説は許しがた、 であり、キリスト者同盟を結んで、領主たちと対抗した。ル ターは、領主たちには、農民の要求が正当であるかぎり、こ人間蔑視と思われた。エラスムスは、一五二四年、『自由意 志論」をもって、人間の自由意志を擁護し、ルターは、翌一 れを認めるべきだと説き、また、農民に対しては、為政者が 邪悪で不正であることは暴動の弁明にはならないと戒め、ど五二五年十一一月、『不自由意志論』をも「て反論し、ルター は人文主義者たちと訣別した。なお、ルターは、その年六 こまでも公正と平和によって解決すべきだと説いた。そして 月、かねての主張にしたがって、修道院を脱出したカタリー このルターの勧告をシュヴァーベンの農民もだいたいうけい ナ・フォン・ポーラと結婚した。それは神の欲するところで れたので、ルターの調停は成功したように見えた。しかし、 丿ンゲンに移さあり、人間の本性に必然であると信じたのである。 農民戦争も、後期になって、舞台がチ、ー 農民戦争の結末は、領主の権力を増大させ、教会に対する れ、反乱の主体が富農層から貧農層になると、様相が一変し 政治的権力者の支配を強化して、ドイツ的な地方教会組織を ・ミュンツアーの指導する再洗礼 た。これらの農民はトマス 派に属し、反ルター的で、破壊的な暴徒に化していった。こ生み出すことになった。一五二六年夏のシ、。 ( イエル国会 れに対して、ルターは『殺人掠奪の農民徒党を排撃する』をで、改革派諸侯は、さきのヴォルムス勅命を一時停止させ、 説 書いて、農民たちの主張する財産の共有が聖書によって支持主権者がその領邦の宗教を決定する ( Cu 一 us regio. eius reli- されていないことを明らかにし、領主に向かって、「農民を gio) という原則が一時的に採択された。その後、一五二九 解 手当たり次第打ち殺し絞め殺し刺し殺せ」と激越な勧告を行年、第二回シ : ( イエル国会において、ローマ・カトリック なった。ルターは、その教えるキリスト者の自由が霊的・内の信仰とその教会繝度を正当なものと認める、反動的政策が とられたとき、ザクセン選帝傑ヨハンをはじめ改革派諸侯お 面的な自由であって、人間の政治的・社会的自由とは何のか
て」というのは、霊のなかに人らないで、肉体や物体にとりま的なものについては、その部分はその全体よりも小さく、そ かれていることを示す。 してそれが無限だとしても、そのある部分は一定の空間によ って限定されるから、この部分は、無限にひろがっているも のそれ自身よりも、小さい。また、分量的なものは、どの点 第七章 においても、全体として存在するのではなくて、〔単に部分と して存在するにすぎない〕。しかし、霊も神もそのようなもので 一二、実際、私は、物体的なものの他には、真に存在する はない。ところで、私たちが存在する所以のものが、私たち ものを知らなかった。それで、悪はどこから生ずるか、神は における何であるのか。私たちが、聖書のなかで、「神の像 物体的な姿によって限定されているか、また髪や爪を持って ( 四 ) いるか、さらに、ひとびとが同時に多くの妻を持ち、人間をのように」と語られているのは、何故であろうか。私は 殺し、動物を犠牲としてささげても、彼らはしい人間であれらについても、少しも、知らなかった。 一三、私は、また、真の内的な義しさをも知らなかった。 るのか かように、あの愚かな詐欺師たちから問われたの この内的な義しさは〔人間の〕習慣にしたがって裁くのではな だが、そのとき、ちくりと針でさされたように感じて、かよ うなひとびとのことばにうなずいた。私はそのようなことをくて、全能な神の最も正しいおきてに従って裁くのである。 そして多くの国々の習俗も多くの時代の習俗も、それぞれ、 知らなかったので、彼らにまどわされて、真理から離れてい ったのだが、しかも真理に向かって進んでいるのだと、思っその最も正しいおきてにしたがって、それそれの国にふさわ ていたわけである。たしかに、悪は善が欠けること以外の何しく、それそれの時代にふさわしく、形成されるのである。 とこにもいつもあって、時と ものでもなく、そして善が、すっかり欠けてしまえば、無にけれども、このおきて自身は、・ ところによってかわらない。そしてこのおきてによって、ア 帰するのだが、私はこのことを知らなかったのである。だ が、その頃、私はこのことをどうして知ることが出来ただろ・フラ ( ムもイサクもヤコプもモーセもダヴィドも、その他神 うか。私の見る力は、肉体の眼によっては、もちろん、物体のロによって讃えられたひとびとも、義しいとされたのであ 的なものを越えることがないが、心の知るはたらきによってる。だが、かようなひとびとも、愚かなひとびとに裁かれる も、幻想的な空想的なもの以上に出ることがなかったからでと、義しくないと言われるだろう。実際、浅はかなひとびと 告ある。神は霊であって長さや広さによって量られる肢体を持は「人間の審判によって裁き」、自分らの習俗を基にして全 っことなく、〔一般に〕分量的な存在ではないのであるが、私人類のさまざまな習俗を、〔正しいかどうかと〕測ろうとするの はかようなことをも、まだ、知らなかった。たしかに、分量 である。かような浅はかなひとびとの審判をたとえて見れ ( 五 )
また物体によって一つの仕方で表わされていることが精神にす。また乾いた地のような敬虔な魂たちの熱心さのうちに よって多様な仕方で理解されることを私は知っている。みも、種をもっ草や果実をもたらす樹木のような現世の生命の ( 四 ) よ、神と隣人の単純な愛が、いかに多くの秘蹟によってまた ために働くあわれみの業のなかにも見出す。また天の光るも 無数の言葉によってまた各人の言葉においては無数の言い表のたちのような「有用性」をはっきり目的とした霊的な賜物 わし方によって物体的に表わされていることか。このように のうちにも見出す。また生きた魂のように節制に留意して形 して、海の生んだものたちは生まれかっ殖えている。これをづくられた感情のうちにも見出す。これらすべてのものにお 読むあなた方は誰もさらに注意してくれ。みよ、書物が一つ いてわれわれは多様性と生産の豊穰と増殖に出会うのであ の仕方でのべそして音声が一つの仕方で響かせていること、 る。しかし、一つのものが多くの仕方でのべられ、また一つ すなわち、「神ははじめに天と地を造りたもうた」という言 の陳述が多くの仕方で理解されるといったように、そのよう 葉は多くの仕方で理解されはしないか。これは誤謬にあざむに生まれかっ殖えるものは物体的に示されたしるしや知的に かれてではなくて、むしろ真実の理解にはもろもろの種類が考え出されたことどもにおいてしかわれわれは見出さないの ( ( あるからである。人間の生んだ子らは、このように、生まれである。物体的に示されたしるしとはもろもろの水から生み かっ殖えるのである。 出された世代であって、それには肉の淵が必然的な原囚にな 三七、このようにしてまた、もしもわれわれが事物の本性っているとわれわれは理解したが、知的に考え出されたこと そのものを寓意的にでなくて、その本来の意味で考えようと どもとは人間の世代であって、それには理性の生産的である ことが原因になっているとわれわれは理解した。それゆえ、 するならば、「お前たち、生まれかっ殖えよ」という言葉は 種子から生ずるものすべてにあてはまる。しかしこれらを比またこれらの種類のいずれにおいても、主よ、あなたは「生 これがたしかに まれかっ殖えよ」と言いたもうたのだとわれわれは信じたわ 喩的にのべられたものとして扱うならば 水に住むものや人間の生んだ子にしかあの祝福を与えなかつけなのである。なぜなら、この祝福の言葉において私はあな た書物の意図だと思うがーーわれわれはなるほど多様性を天たがわれわれに与えたもうた能力と権力を受け取るからであ って、この力は一つの仕方で理解されるものとしてわれわれ と地のような霊的や物体的な被造物のなかにも見出す。また がとったものを多くの仕方で言い表わし、同時に漠然と一つ 光や暗闇のような正しいまた不正な精神のなかにも見出す。 また水と水とのあいだに固定された大空のような、律法をわの仕方でのべられたものとしてわれわれの読んだものを多く の仕方で理解しうるものなのである。このようにして、海の れわれの用に供した聖なる作者のうちにも見出す。また海の ような苦い味のするもろもろの民の集まりにおいても見出もろもろの水は満たされるのであるが、それはさまざまな表 ( 五 )
がこれまで神を神自身のためにではなく、かれ自身のために れたのであり、また、かれ自身の言葉のとおり、同じような 解決に到達したかに見える。しかし、ルターは、アウグスチ求めていたことを反省した。そしてこの自己愛そのものが彼 にとっては罪であった。回、いは、アウグスチヌスのばあいに ヌスからの延長線の上に立つものであったろうか。アウグス チヌスは、『告白』の書が十分に語っているように、若い頃、は、キリスト教への回心であったが、ルターのばあいには、 肉欲に耽り、世俗的栄誉を求めていたが、新プラトン派の書キリスト教内の回心であった。すなわち、アウグスチヌスに を読んで、非物質的な存在を見る目を開かれ、地上的・肉的おいては、「邪欲ー ( コンクビスケンチア ) といえば、肉に かかわる ( とくに性的な ) 欲望であったが、ルターにおいて なものから天上的・霊的なものの追求に向かった。アウグス チヌスの回心について、新。フラトン説への回心とキリスト教は、自己追求を意味していた。したがって、神への愛も、自 己の幸福のためのものであるかぎり、邪欲である。そしてこ への回心を区別して、前者を重んじ後者を軽んずることは、 の自己愛を否定するところに、「キリスト者の自由」が成り 少なくともアウグスチヌス自身の理解としては正しくはない しかし、アウグスチヌスの思想の、いな、かれの生活の立つのであった。 キリシア思想以来の、幸福の追求がつねに強くは 根底には、・ たらいていた。そしてその追求の対象は地上的で肉に属する ものから、天上的で霊に属するものに移ったけれども、幸福 の追求そのものは、終生、変わらなかった。この点、アウグ スチヌスの宗教が「幸福宗教ーと評されるのももっともであ って、「何人も幸福を求めないものはない」というのがつね にかれの大前提であり、「幸福」はかれの書のいたるところ で語られているのである。 ルターが学業を中途で捨てて修道院入りを決意したのは、 説 さきに述べたとおり、死の恐怖からであった。死が不幸であ るかぎり、それからの救いを求めることもまた、幸福の追求 解 であるといえるであろう。しかし、アウグスチヌスが回心後 も幸福の追求をやめなかったのに対して、ルターはそれを否 定した。すなわち、ルターは、修道院にはいったのち、自分