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検索対象: 世界の大思想3 アウグスチヌス ルター
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1. 世界の大思想3 アウグスチヌス ルター

あげずに読んだ本当の理由だったかも知れない。だが、その 神に栄養を与えていたのである。彼が読んでいるときには、 その眼は紙面を走り、そして心は意味をさぐり求めていたひとが静かに読むようになった動機が何であったにしても、 ( 三 ) しかしロと舌は〔声を出さないで〕、休んでいた。実は、誰その動機は、たしかに、正しかっただろう。 四、けれども、彼のこころのうちに住まうあなたの極めて でも彼のところに入っていって、さしつかえなく、またたす ねて来た者を誰かが彼に取り次ぐという習慣もなかったか尊いことばから、私が知りたいと思っていることを、十分に ら、私たちは彼のところに行ったときに、しばしば、見たの 聞きただす機会は、たしかに、与えられなかった。ただ僅か たが、彼はそのように声を出さないで、読んでいた。声を出に、私は簡単な問題について聞くことが出来ただけだった。 して読むことは一度もなかった。そして〔そのようなときには〕私の心のなかの苦悩を彼に語るためには、彼に十分に暇がな くてはならなかった。だが、私は、そのようにひまのある彼 私たちは長い尸 、音も立てないで、坐っていて、結局、引き さがってしまうのであった。実際、そのように熱心な者を誰を、ねらったのだが、ついに一度も見つけることが出来なか ったのである。しかし、主の日〔日曜日〕には、いつでも、彼 ・が妨げようなどとし得るだろうか。そして私たちは多分こう が民衆に向かって「真理のことばを正しく説くので、私は ではないかと思ったのだが、アンプロシウスは他人の用事の . わすらわしさから解放されたので、自分の精神を休めるためそれを聞いた。それで、あの〔マ = 教の信者たち〕は私たちをあ ざむき、神の書物〔聖書〕に対してするい偽りの難題を仕掛け に、そのような僅かな瑕を得たわけだから、この暇までも他 の用事のためにさまたげられるのを、彼は好まなかったのだていたが、しかしそれらの難題は、すべて、解消され得るも のだということを、私は〔アンプロシウスのそのような説教によ ・ろう。また、彼が〔声を上げて読んだとすれば〕、読んでいる書 って〕、いよいよかたく、信ずるようになった。ところで、あ 〔物に何かよくわからないことが聿ロいてあるときには、熱むに ・その声に耳を傾けている者に聞きとがめられて、その点を説なたは霊的な子らを、カトリック教会という母から恩寵によ って、新たに造りたもうたのだが、あなたのこの霊的な子ら 明したり、あるいはさらに一層むすかしい問題を論じたりし なくてはならなくなるだろう。そうすると、このような余分は、「あなたは自身のすがたのように人間をつくりたもうた」 の仕事のために大切な時間が奪われてしまって、自分が読みということばによって、つぎのように考えてはいなかった。 たいと思っているほどに多くの書物を読むことが出来なくなすなわち、あなたも人間の肉体のかたちによって限られたも るだろう。だから、彼は、おそらく、これを恐れて、声をあうのだと、彼らは信じたり、考えたりしてはいなかった。私 は、実は、このことを知ったとき、霊的な実体がどのような げて読むのを避けたのだろう。けれども、また、彼の声は非 常に疲れ易かったので、この声を大切にするのが、彼が声をものであるかを、私はまだ、実際、かすかにも、またお・ほろ ( 一 1 ) ( 四 ) ( 五 )

2. 世界の大思想3 アウグスチヌス ルター

告白第 4 巻第 6 , 7 章 この私が、彼が死んでも、なお生きているのを、もっと不思 議に思った。あるひとが自分の友のことを「自分の魂の半 分」と言ったが、うまいことを言ったものである。実際、私 も、私の魂と彼の魂とが「二つの肉体におけるただ一つの 魂」だと、思っていたのである。それで、私には生きること が恐ろしいものとなった。私は半分の魂だけで生きようとは 思わなかったからである。だが、また、私は、多分、死ぬこ とを恐れていた。というのは、〔半分の魂である私も死んでしま うと〕、私が非常に愛していた私の友も、全く、死んでしま うだろうからである。 一ョブ記三ノ二〇。イザャ書三八ノ一五。 一一オレステス (Orestes) とビュラデス (Pylades)O ホメロ スの詩やギリシア悲劇に出て来る人物で、殊に悲劇詩人工ウリ ビデス (Euripides, B. C. 485 ー 407 ~ 6 ) によって巧みに物語 られた ( 「タウリケのイ。ヒゲネイア」 lphigeneia en Taurois 参照 ) 。オレステスはトロイア攻囲軍の総帥アガメムノンの子。 母はクリュタイムネストラ。この母は、夫君アガメムノンの遠 征の間に、アイギストスと情を交わし、勝って帰った夫君を、 殺してしまった。このとき、オレステスは姉エレクトラに助け られて、フォキス王ストロ。ヒオスの許にのがれた。ここで、そ の王に育てられ、またその王子ピュラデスと水魚の交りを結ん た。この両人の深い友情がローマの詩人や作家の間でたたえら れたのである。 Ovidius, Ex Pont0, 3. Vergilius, Ae ・ neias 4. 47 : Cicero, Laelius ()e amicitia). 7. 24 参照。 三詩篇七〇ノ五 ( 七一ノ五 ) 。 四詩篇二四ノ一五 ( 二五ノ一五 ) 。 ホラチウス「歌集」 Horatius, Carmina. 1. 3. 8 ) 参照。 ( 五 ) 六オウイジウス「哀歌」 (Ovidius. Tristitia. 4. 4 , 72 ) 参昭 七ここからこの節の終りまでの言葉について、アウグスチ スは「再論」 (Retractiones. II, 6. 2. PL.. XXXII. co 一 . 732 ) のなかで述べている。「これはまじめな告自というより も、むしろ、軽々しい発言であるように思われる。けれども、 この愚かしい発言も「多分」 (forte) と付け加えられているか ら、少しは救われているかも知れない」。 第七章 一 . 二、おお、人間を人間らしく愛することを知らない気阯 いよ。おお、人間の運命をたえ忍ぶことも出来ない愚かな人 間よ。その頃、私はかような人間であった。それで、私は荒 れ狂い、ため息をつき、むせび泣き、こころを乱して、何の 安らいもなく、何の分別もなかった。実際、引き裂かれて血 に染まった魂を、私は持ち歩いていたのだが、しかし私のこ の魂のほうは私に持ち運ばれるのを嫌っていた。けれども、 私は自分の魂をどこに置いてよいか、わからなかったのであ る。私の魂は美しい森にも、遊ぶことにも歌うことにも、せ い香りのただよう景色にも、立派な食にも、性愛の快さに も、さらにまた書物にも、詩歌にも、満足することが出来な かった。私にはすべてのものが恐ろしかった。光さえも恐る しかった。どのようなものもあの友ではなかったのだから、 私には全く味気なくそしていとわしく、ただ身ぶるいと涙を たカこの身ぶるいと涙のうちにだけ、 誘うばかりであった。。 : 、、 僅かながら、私は安らうことが出来たのである。けれども、

3. 世界の大思想3 アウグスチヌス ルター

後の三巻が書き終えられたのは四〇一年だと、推定されてい る。そうだとすれば、『告白』が書き始められた頃、アウグ スチヌスは四十一「三歳であり、書き終えられた頃、四十・ 六、七歳だったわけである (). Augustinus, ミミ c 、ミぎミ trad. , par G. Bardy, pp. 577 ー 578 参照 ) 。この頃、アウグス チヌスはどのような姿をしていただろうか。ここでも、彼 は、まことに大胆に自分の姿を神と人の眼の前に告白するの であるが、私たちはその内容の説明を目次にまかせることに . しよう。 今泉三良 アウグスチヌスは、何のために、『告白』をあらわしたり だろうか。このことも、私たちには、明らかではない。けれ 村治能就 ども、ルソーは告白して、自分の正しさを示そうとしたが、 アウグスチヌスはそうではなかった。全くそうではなかっ アウグスチヌスは『告白』を、いつ、ロ述していたのだろ た。一体、アウグスチヌスにとっては「告白する」 (confiteri) うか。彼は『告白』第八巻一章でミラノのシンプリキアヌス とはどういう意味だろうか。それは、たしかに、自分の失敗・ のことに言い及んでいるが、この人を司教とは呼んでいな シン。フリキアヌスは、アンプロシウスの死 ( 三九七年四を告白することであるが、しかし同時に神の栄光をたたえる・ 月四日 ) とともに、その後をうけて、司教についたのであことである。告白は、したがって、讃美なのである。アウグ スチヌスもこの二重の意味で自分を語るのである。しかし、 る。シンプリキアヌスが司教だったとすれば、アウグスチヌ オいだろう。ま彼は神のあわれみをたたえるほうに重点を置いている。な スも彼が司教であることを語らないはすはよ お、この二重の意味の「告白する」が七十人訳の exomologe• た、第八巻三章では、彼はアンプロシウスを今もなおミラノ 題 の司教であると、語っている。それで、『告白』は三九七年 isthai (confiteri) に当るのである。 アウグスチヌスは自分が「埃と灰ーであることを、十分に よりも以前に、したがって三九六年に、書き始められただろ 解 う。おそくも、三九七年の初めには、書き始められただろわきまえていた。幼児のなかにも罪のしるしを見て、自分の 言—に ( オしがしかし自分もそのような罪のしるしのなか 3 う。だが、彼は何時書き終えたのだろうか。聖書のなかの神 学的な問題を取り扱っている第一一巻から第一三巻までの最 にあったたろうと、語っている ( 『告白』第一巻七章一一節 ) 解題 アウグスチヌス告白 Aurelius Augustinus 】 Confessiones. 400.

4. 世界の大思想3 アウグスチヌス ルター

116 彼はそれらのことについても知らなかったのに、全く厚かま語り、しかも自分が神的な者となったかのように説いて、そ しくも、それらを、あえて、教えようとしたのである。この のようないつわりに権威を持たせようとしたのだからであ ようなひとだから、彼は神をうやまうということについて知る。 ることなどは全く出来なかっただろう。確かに、世俗的なあ 九、キリスト者であるこの兄弟ゃあの兄弟が、そのような るいは自然的なことがらは、たとえ、確実なことであって世俗的な、あるいは自然的な問題については、知らなかった も、これをひとの前で述べ立てるのは、空しいことである り、あるいは問題を取りちがえたりしていることがあるが、 が、しかしあなたに告白するのは、神をうやまう所以なので私はかような場合に出会っても、兄弟たちが間違った意見を ある。ところが、マニカエウスはこの神をうやまう道から離語るままに、黙って、聞き流すことにしている。また、主よ、 れて、それらについて甚だ多くのことを語ったが、これは、 「あらゆるものの創り主よ」、あなたについてふさわしくない それらについて本当に学んだひとびとによって、彼が間違っ ことを信じない限り、兄弟たちが、たまたま、物体的なもの ているということが、指摘されるためだったのだろう。あるの位置や性質を知らないことがあっても、これが兄弟たちに いは、さらに、もっと秘められたことがらについては彼は理妨げになるとは私には思われないのである。けれども、その 解力を持たないということが、明らかに認められるためだっ ようなことが信仰の教えに、深く内面的に、つらなると、彼 たのだろう。だが、実は、彼自身は、ひとびとから、つまららが考えて、自分らの知らないことを、かたくなにも、あえ ない者だなどと思われるのを、望みはしなかった。むしろ、 て主張するときには、これは彼らにとって妨げとなるだろ 逆に、あなたを信ずるひとびとをなぐさめそして富ます聖霊う。がしかし、新しい人が成長して「全き人」となり、「さ ( 四 ) が、十分な権威とともに、親しく、自分自身のうちに住まっ まざまな教えの風に」、全く、吹きまわされなくなるまで》 ようらん ているのだと、説いて、ひとびとにそう信じさせようとしたそのような弱さは、信仰をそだてる揺籃のなかで、母のよう のである。そのようにして、マニカエウスが天や星についてな愛をもって支えられなければならないだろう。マニカエウ また太陽や月の運行について間違ったことを語っているの スはあのような間違った教えをひとびとに説いて、これを信 で、ひとびとは全く驚いてしまうのだが、しかしそれらの問 じたひとびとの教師として、かような教えの元祖として、指 題は宗教の教えに関するものではないだろう。けれども、彼導者あるいは首領として、あえて、こう語った。ひとびとが 自分に従うとき、〔本当は〕単に人間にしたがうのではなくて、 の企てが神をけがすおこないであったことは、極めて明らか であった。事実、彼は、おごり高ぶって、気でも狂っているあなたの聖霊にしたがっているのだと考えるように、と彼 かのように、自分の知らないことを〔勝手に〕述べて、虚言をは、あえて、語ったのである。だが、彼の教えがいつわりで

5. 世界の大思想3 アウグスチヌス ルター

さの報酬は生命と平和であるから、キリスト・イエスは、神して、供物であるとともに、祭司でもありたもうた。供物て と一つであるこの義しさによって、信仰のないひとびとをもあったから、祭司でありたもうたのである。さらに、「彼」 義しくして、彼らの死を取り去りたもうのである。このため はあなたから生まれたもうたにもかかわらず、私たちに仕え に、キリスト・イエスは、彼らと同じように、彼らとともに死たもうことによって、あなたのしもべである私たちを、あな の運命をわかち合おうと欲したもうたわけである。「彼ーは たの子らとしたもうのである。それゆえ、私は、当然ながら、 このことを昔の聖徒たちに示したもうたが、これは、彼らが「彼ーに極めて大きい希望をおいて、あなたが私の病いを、す ~ 「彼」の来たるべき受難を信じて、救われるのと同じように、 べて、「あなたの右に坐して、私たちのために執りなしたも 私たちも、すでにすぎ去ったその受難を信じて、救われるた うみ子」によって、いやしたもうようにと、乞いねがうので、 めであった。「彼。が仲保者であるのは、ひとでありたもう限ある。もしそうでないとすれば、私は絶望するほかはないだ りにおいてであった。ことばでありたもう限りでは、神とひろう。私の病いは数多くそして重い。本当に、数多くそして ととの間にあるものではない。事実、「彼ーは神と等しく、 重いのである。けれども、あなたから賜わる薬だけで、私の 神とともにある神であり、神と一つである神なのである。 病いには、十分すぎるのである。だが、もしあなたの「こと ばが肉となって、私たちのうちに宿りたもう」のではなかっ 六九、めぐみ深い父よ、あなたは「自分の独り子を惜しま たとすれば、あなたのことばはひととの結びつきから離れて ないで、私たち不信者のために、わたしたもうた」のである いたもうのだと、私たちは信じないわけにはゆかなかっただ から、あなたは、どんなに深く、私たちを愛したもうたこと だろう。私たちのために、あなたの独り子は「あなたと等しろう。したがって、私たちは自分自身のことに絶望するほか いようにと、固執することなく」、「十字架の死にいたるま はなかったただろう。 章で、あなたにしたがいたもうた」のであるから、あなたは、 七〇、私は自分の多くの罪にたまげ、みじめな姿に、重く、 どんなに深く、私たちを愛したもうたことだろう。ただ独り おさえられて、荒野にのがれようと、思いめぐらした。そう ) 巻「彼は死者たちのうちにあって、自由であり」、生命を「与えしようと企てた。けれども、そのとき、あなたが引き止めた る権利をもち、また、これをふたたび取りもどす権利を持ち」もうた。そして、私に語りたもうた。「キリストが、すべて 白たもう。私たちのために、「彼 , は犠牲者としてあなたにさのひとのために、死にたもうたのは、生きるひとびとが、も さげられるとともに、また、勝利者としてもあなたにささげはや、自分のために生きるのではなくて、自分のために死に . られたもうた。「彼」は犠牲者であったから、勝利者であっ たもうた者のために、生きるように、というのであった」。 たのである。また、「彼ーは、私たちのために、あなたに対 このように語って、私に力をあたえたもうたのである。主一 ( 五 ) ( た )

6. 世界の大思想3 アウグスチヌス ルター

リストゆえに神と一致してよろこばしくかっ愉快であり、な ・、たた内的人間であり、全く霊的、内的になりきったとした んら酬いをもとめず、みずから進んで自由なる愛において神 ならば、もっともそんなことは世の終りまでありつこはない のだが、もしそうならば、君の言うとおりであろう。」と。来に仕えることが無上のよろこびとなるからだ。そこで彼はい ま自分の肉のうちに、世に仕えて自分が欲するものを求めて 世において完成をみるものは、この世において現在も未来も ただ発足であり進歩である。それで使徒はそれを primitias やまぬ執拗な我意を見出す。信仰はそれを好まないでこの我 spiritus すなわち霊の最初の実と呼ぶ。 ( ロマ書第八章一一三 意を抑え、防ごうとそれに一心に食いさがる。聖パウロがロ 「御霊の最初の実しそれゆえ冒頭に挙げた「キリスト者は万マ書第七章 ( 二二以下 ) において言うとおりである。「わた しは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの 物に仕えて何人にも使役される。」という言葉は右の意味で ある。言いかえればキリスト者は自由である場合は、何もす 肢体には別の律法のソ物 ) があって、わたしの心の法則 る必要がない。仕える身であるかぎりあらゆることをしなけに対して戦いをいどみ、そして肢体に存在する罪の法則の中 に、わたしをとりこにしているのを見る。」さらにコリント ればならぬ。それはどういう訳であるかこれから考えてみよ 人への第一の手紙第九章 ( 二七 ) に「自分のからだを打ちた 第ニ十節人間は魂の側からみれば、内的に信仰によってたいて服従させるのである。そうしないと、ほかの人に宣べ 十分義とせられ、もつべきものはすべてもつのであるが ( こ伝えておきながら、自分は失格者になるかもしれない。」さ の信仰と満足が来世にいたるまで必ずいよいよ高められなけらにガラテャ書第五章 ( 二四 ) に、「キリスト・イエスに属 ればならぬということは別として ) 、彼はそれでもなお地上する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてし においてこの肉体の生活にとどまり、自己の肉体を倒し、人まったのである。」 びとと交際しなければならない。そこでいよいよわざが行な 第ニ十一節しかし、前記のわざは、人間がそれによって 由われはじめる。ここで人間は安閑としてはおられず、肉体は神の前に義とせられるという考えからなされてはならない。 なぜならばこの誤った考えは、信仰のみひとり神のまえに義 の確かに断食、徹宵、労働およびあらゆる適度の修行をもって 者 であり、またそうあらねばならぬゆえに、信仰が許すはずが 駆使され、鍛錬されねばならない。肉体が内なる人と信仰と ス に従って、それと一致するために、またそれを邪魔したり反ないからである。かような誤った考えからではなく、ただ肉 抗したりしないためにである。肉体は強制されなければ、邪体が服従し、その悪欲から浄められ、もつばら悪欲に注意し てこれを除き去るという考えからわざはなされなければなら 魔したり反抗したりする癖がある。肉体を抑制するわけは、 よい。というのは、魂は信仰によって純潔であり神を愛する 内なる人が、自分のためこれほどまでに力を尽したもうたキ

7. 世界の大思想3 アウグスチヌス ルター

そして私の魂は、彼なしには、生きることが出来なくなって から離れることもなく、また、私たちは、たがい冫 こ、深く した。たが、あなたは、あなたから遠ざかりゆく者どもを、 じ合っていたからである。それで、彼が、全く精神をも感情 うしろから、追いかけたもう、そのように、あなたは「復讐をも失っていたときに、受けた洗礼のことを、私と一緒にな の神」でありたもうのだが、しかしまた、同時に、不可思議って、彼自身もあざけるだろうと、私は考えついたのであ にも、私たちをあなたに向けたもう、慈悲の神でもありたも る。ところが、彼は、すでに、洗礼を受けたことを、知って うのである。それで、あなたは、あのように、 この世から私 いた。そして私が彼の敵であるかのように、彼は私に対して の友を奪い去りたもうた。私にとっては、その友情は、当おそろしい顔付きになって、「もし君が自分の友人でありた あらゆる快楽よりも楽しいものであったが、しかし一年 いなら、そのようなことを自分に言うのを、止めたまえ」 ほども続きはしなかったのである。 と、きつばり、私に言ってのけた。私にとっては、非常に意 八、あなたを讃うべきことがらについては、誰が、自分ひ外な突然な忠告であったわけである。私は肝をつぶしてしま とりで経験したそのようなことがらたけでも、十分に、数え って、あわてふためいたが、しかしその興奮を、じっと、こ 上げることが出来ようか。私の神よ、あなたは、そのとき、 らえて、時を待っことにした。彼が元気を回復し、体力が十 何をなしたもうたのたろうか。また、あなたの審きの深みは分になれば、彼と共に、私の欲するままに、論することが出 ( 四 ) 何と測るべくもないものであったことか。私の友が熱病にか来るだろうからであった。ところが、彼は気狂いじみたこの かって、長い間、意識をうしない、汗にぬれて、死んだよう 私から引き離され、奪い去られてしまった。だが、これは、 になっていた。絶望だと思われたので、彼は、自分の知らな彼があなたの許にいて、やがて、私をなぐさめるためであ い間に、洗礼をほどこされた。けれども、私はこのことを大った。僅か数日後に、私がいなかったときに、彼は、また、 したことだとは思わなかった。そして彼の魂は、自分が知ら熱におそわれて、息をひきとってしまったのである。 ないでいる間に身体に施された洗礼よりも、むしろ、私から 九、この悲しみのために、私の心は闇にとざされてしまっ ( 五 ) 与えられた考えを、深く信しているだろうと、私は想像してた。どこを眺めても、眼に見えるものは、ただ死だけたっ いた。ところが、この想像は、全く、はずれたのである。実た。故郷も私をいためつける土地となり、父の家も、私には は、彼は死の危険から救われ、癒やされた。そこで、彼と話驚くほど息苦しい場所となり、また私が彼と一緒にしていた をすることが出来るようになると、すぐに、彼をあざけって ことは、どれ、皆、今は彼がいないので、私を狂わせるよ やろうと思った。彼がものを言うようになると、すぐに、私うな悩ましいものとなった。私の眼は、到る所で、彼をさ ' は彼と話すことが出来たからである。事実、私は彼のところし求めたが、しかしどこにも見出すことが出来なかった。そ

8. 世界の大思想3 アウグスチヌス ルター

これを養うために残された君の財産やよきわざなどは、聳に ばれたことにならうのである。そして不法にも暴君がこうし とって今なんの利益があろうか。見たまえ、かくして神の財 たことを要求しても、それは神に逆らわぬ間は、私にとって は次から次の人へと流れて共有的となり、各自はその隣人を 何でもない。」と。 第ニ十九節以上の事実から各自は確固たる判断を得、す自分自身であるかの如く迎えるようにならなければならぬ。 べてのわざや誠めのあいだに判別をなし、またどちらが盲目キリストはご自身がわれわれと同じであったかのように、わ とちらが正当な考えをもった高位れわれをご自身の生命のうちに受け人れたもうために、神の 的な非常識な高位の僧か、・ と財はキリストからわれわれの中に流れこむのである。そこで の僧かについて区別をつけることができる。なぜならば、・ 神の財は、それを必要とする人びとにむかって、われわれか のようなわざであっても、他人が神に背いて行なうことを強 いないかぎり、他人に仕え、あるいは彼の意志に従うことをら流れ出るようにしなければならない。私が私の信仰と義を も、隣人のために神のみまえにおいて捧げ、彼の罪をかば 目ざさないようなわざは、善きキリスト者のわざではない。 、彼の罪を負い、あたかもキリストがわれわれすべてにな そういうわけで本山僧会・教会・修道院・祭壇・弥撒・遺 贈、それになお断食や祈疇、ことに、ある聖徒らに捧げたそしたもう如く、隣人の罪が私のものであるかのように行な う。見たまえ、これが真実な姿の愛の性質である。しかし愛 れさえも、キリスト教的なものが少ないことを私は恐れる。 そのすべてにおいて各自がただ自己の利益のみを求め、これは信仰が真実である場合において真実である。それゆえ聖。 ( ウロはコリント前書第十三章 ( 五 ) において、愛がおのれの をもって自分の罪を償い、救いにいたると思い違いしている のを恐れるからである。こうしたことは、すべて信仰および利益を求めないで、隣人のそれを求めることを愛の特質とし ている。 キリスト者の自由にたいする無知から起こるのである。また 第三十節さきに述べられたすべてのことから、キリスト 人びとにそれを強い、かような風を称讃し、免罪符をもって 者というものは自己に生きないで、キリストと隣人との中 ごまかし、しかも信仰を決して教えない盲目的な高位の僧が 何人かいる。しかし、私は君に勧めて言う。君が何か寄進に、ただし信仰によってキリストの中に、愛によって隣人の し、祈り、断食しようと思うなら、自分のために善いことを中に生きるという結論が出て来る。信仰によってキリスト者 は自分を越えて神のうちに入り、愛によって神から出てふた するつもりでやるな。むしろそれを他の人達が利用するよう たび自分の下に向かってゆき、しかも常に神と、神の愛のう に無償で与えよ。彼らのためにそうするならば、君は真のキ リスト者である、と。神が信仰する君にすべてを与えたもうちにとどまっている。ちょうどキリストがヨハネ伝第一章 たその信仰を、君が十分にもっから、君の肉体を制し、また ( 五一 ) において「天が開けて、神の御使たちが人の子の上

9. 世界の大思想3 アウグスチヌス ルター

2 お れども、それらの光や音などが、すべて、それ自身、そこにみつを好み、ざらつ。ほいものよりも滑かなものをよろこぶの だが、この時にも、実際に味わったり、ふれたりしないで 入って来るのではなくて、いろいろなものが感覚されて、そ も、ただ思いおこすだけで、十分なのだ。 れらの心象または印象だけがそこに入りこむのだ。そして私 たちが考えるとき、それらを思いおこすために、そこにある 一四、私は、自分の内部で、記憶という広々とした庭のな のだ。それらの心象または印象が、どのようにして、つくら かで、このようなことをする。そこには、天も地も海も、ま れるかについては、誰が答え得ようか。けれども、どの感覚 た、これらのなかで私が感覚できたものもすべて貯えられて を通って、それらの心象または印象がとらえられ、内に運び いる。もっとも、忘れたものは別た。また、記憶の庭では、 こまれ、たくわえられるかは、誰にも、明らかなことだ。実私は自分自身にも出会うのだ。私は何を、いつ、どこで、し 、際、私は暗闇のなかに、だまっていても、思うままに、記憶たかを、また、したときに、どんな気分だったかを、思いお のなかからいろいろな色を取り出して、白と黒を、あるいは、 こすわけだ。記憶の庭には、私が経験したものも、私が他か その他どのような色をも、望み通りに、区別することが出来ら聞いて、信じたものも、すべて、含まれていて、私はそれ る。また、私は眼で見たものを取り出して、考えるとき、音 らを思いおこすことが出来る。さらに、この同じ記憶の蔵か ・がそこに飛びこんで来て、邪魔をするようなこともない。そら、自分で経験したいろいろなものの印象や心象を、また他 れらの音も、むろん、そこにあるのだが、別のところに並べ人から聞き、自分の経験に照らして見て、信じたさまざまな ことがらの印象や心象を、数多く、取り出して、それらを過 られてあるかのように、その場合にはかくれているのだ。だ が、それらの音も、私が望んで、呼び出せば、すぐに、出て去と結びつけ、こうして、将来の行為や未来の事件や希望にも 考え及ぶのた。このように、また、生じないことがらについ くる。舌も音を立てす、のども音を出さない時でも、私は、 - 思いのままに、歌うことも出来る。この場合、いろいろな色ても、私は、現在のものであるかのように、考えるわけだ。 の心象が、やはり、そこにあるのだが、耳から流れこんだ別私の精神の大変に大きい奥の間には、そのように多くの、そ のように大きい、さまざまなことがらの心象や印象が、みち の宝ものを、記憶の蔵から私が取り出しているときには、こ れをさまたげることもなく、さえぎることもないのだ。同じみちているのだが、ここで私はひとりごとを言うのだ。「こ ように、他の感覚によって運びこまれ、積みあげられたさまれをやって、それから、あれをやろう」。こうして、私はこ の結果やあの結果を引き出してみるのだ。「おお、こんな結 ざまな心象についても、私は、望み通りに、思いおこして、 実際に香りをかがないでも、ゆりの花の香りをすみれの花の果がおこったとしたら」。「どうか、神よ、そんなことがおこ りませんように」。私が、このように、独り言を言って、語 かおりから区別することが出来る。また、私は果汁よりも蜂

10. 世界の大思想3 アウグスチヌス ルター

398 無償でただ憐れみをもって、キリストに由り、キリストに・。 のとして残されているからだ。ゆえにパウロはキリストを一 つの例に挙げて言う。「キリスト・イエスにあっていだいて いて、ありあまる義と救いとをケえたもうたのだから、今後 はそのとおりであると信じる以外に、何物をも必要とはしな いるのと同じ思いを、あなたがたの間でも互いに生かしなさ 。ああ、それならば私にありあまる財産を与えたもうこの キリストは神のかたちであられたが、神と等しくあるこ ような父にたいして、私の方からも彼が好むことを、自由に とを固守すべきこととは思わず、かえって、おのれをむなし ゅうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様喜んで、無報酬でしてあげよう。私の隣人にたいしてもま は人と異ならず、おのれを低くして、死にいたるまで、しかも た、キリストが私にキリストとなりたもうたように、キリス 十字架の死にいたるまで従順であられた。」。ヒリ。ヒ人への手 トの役目をなし、隣人にとって必要な、有益な、救いに有用 ルターによれば、「あなたがたはキリストにおいて見るよう とおもわれることだけをなそうと思う。いすれにせよ、私は / な心となりなさい。彼は神の姿のままで満ち足り、彼の生 活とわざと受苦が、義とされ、救われるためには、自分にとって必要はなかった 自分の信仰によりキリストにおいてあらゆるものを十分にも ・が、すべてを断念し、僕のようにふるまい、すべてを行なって忍び、ただわれわ . れの益のみを見、かくして自由の身な っているのだから。」見よ、そのとおり、信仰から神への愛 らわれわれのために僕となった。」 第ニ十七節このように、キリスト者はその首たるキリス と喜びとが生まれ、愛からして隣人のため無報酬で仕える自 トの如く自己の信仰に十分満足し、それをいよいよ増し加え由な、よろこび勇む生活が起こってくる。なぜならば、われ われの隣人が窮迫して、われわれの余剰を必要とするよう るべきものである。信仰は彼の生命、義、救いであり、キリ に、われわれは神のまえで窮迫し、その恩恵を必要としたか ストと神とがもちたもうところのすべてのものを彼に与える らである。それゆえ神がキリストによってわれわれを無報酬 からである。それは前述のとおりである。聖パウロもまたガ ラテャ書第一一章 ( 二〇 ) において「生きているのは、もはやで助けたもうたように、われわれも肉体とそのわざによって わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられひたすら隣人を助けなければならない。このようにキリスト るのである。」という。かくしてキリスト者はいまや自由で者の生活というものが、いかに崇高な、気高い生活であるか あるが、それゆえにこそ隣人を扶けるために喜んでその下僕をわれわれは見る。もっともこの生活は、悲しいかな、今で は世界全体において熱がないばかりでなく、もはや人に知ら となり、神がキリストによって自分を遇せられたように隣人 を待遇しなければならない。ただし、すべて無報酬で、ただれもせず、説きすすめられもしないのである。 第ニ十八節これとおなじ趣旨をわれわれはルカ伝第一一章 神のよろこびのみを求め、そして次の如く考えなければなら ない。「よろしい。わが神は、取るにも足らぬ、罰せらるべき ( 二二以下 ) において読む。処女マリヤは六週間の後に会堂 に行き、すべて他の婦人らのように律法に従って身の潔めを 人間であるこの私のために、なんの取得もないのにまったく