212 ということを経験するのです。その差異がどこにあるかを示されることは、わたしも万々承知しております。たくさんの すためには、われわれの心理学的な知識をある程度深めなく ことをお話ししておけばそれだけあとに残るものも多いこと てはなりません。しかし、症状は症状の意味を知るとともに は、ある程度までは道理でありましよう。皆さんがわたしの 消失するというわれわれの命題はやはりあくまで正しいので お話ししたうちの本質的な点、すなわち症状の意味、無意識お よびこの両者間の関係に関する点を、あらゆる付随的な話を す。ただこの知識は、特定の目標をもった心的作業によって ぬきにして、はっきりと把握なさったとこう考えさせてくだ . だけ生ぜしめられるところの、患者の心内のある内的変化に もとづいていなければならぬというだけの話です。ここにおさい。皆さんはたぶんまた、次のこともおわかりになったこ一 とでありましよう。すなわち、われわれの今後の努力は二つ いて、われわれはやがて症状形成の力学という概念に総括さ の方向に向けられるたろうこと、つまり第一には、どうして人 れる諸問題に直面していることになります。 間は病気になり、どうしてノイローゼという生活態度をとる・ 皆さん ! ここで、わたしは次のような問いを立てずには にいたるか いられません。わたしの申しあげることは、皆さんにはあま これは臨床上の問題ですがーーーということ、 りにもあいまいでこみいったものと思われはしないか。何度第二には、ノイローゼの諸条件からどのようにして病的症 が発展するか も前の話を撤回したり限定したり、また思念の糸をたぐりだ これは心的力学の問題ですがー・ーというこ してはやがてまた途中で切ったりして、皆さんをいたずらに とを学び知るためであります。この二つの問題にとってもま た、必ずどこかで相ふれあう点があるに相違ありません。 混乱させはしていないかと。もしそうだとすれば、まことに 遺憾なことであります。しかし真理を守ることを儀牲にして 今日はもうこれ以上話をすすめようというつもりはありま までことがらを単純化することは、もともとわたしのはなは せんが、また時間がありますので、われわれの二つの分析の だ好まぬところですし、あまりにも対象が多方面にわたりもあるべつな性格にご注意を向けたいと思います。この性格り つれあっているという印象を皆さんが全面的にお受けになり完全な評価は、これまたあとになってはじめてできるのです ましても、わたしとしてはいっこうかまわないのであります。が、つまり、それは記憶の欠損、すなわち健忘症のことであ それにまた、一々の点にわたり、皆さんが目下ご利用になれ ります。すでにお話しいたしましたごとく、精神分析療法の る以上のことを申しあげているとしても、それはべつに損に 課題は、病因になっているすべての無意識的なものを意識鮑 はならないと思っております。とはいっても、聴講者や読者の なものに置き換えるという公式に要約することができます。 皆さんがわたしのお話ししたことを頭のなかで整理整頓し、 ところでこの公式が、患者の記憶の欠損を埋めてその健忘症 単純化し、自分がおばえておきたいと思うものだけを抜きだをとりのそくというべつの公式によって代置されるのを知 ?
しうまでもなくそん めて、夢の領域をいちおう展望してかからなくてはなりませ が、夢の働きをこのように評価すれば、、 ん。いったいぜんたい夢とはなんでありましようか。これを なことは問題になりえません。ヴントやヨードレ ( 一八四九「一 ツの哲学者でヴィ 一つの命題に定義することは困難であります。でもだれにで ー ) やその他近世の哲学者たちがくわだてた夢 ン大学教授だった の記述を調べてごらんなさい。かれらは夢を軽視する意図をも知られている材料のことを述べればそれでよいのですか ら、あらためて定義をあたえようとは思いませんが、それに もって、夢の生活と覚醒時の思考との差異を数えあげること しても夢の本質的な点ぐらいははっきりさせておかなければ にあまんじ、夢における連想の崩壊、批判の廃棄、すべての なりますまい。では、夢の本質はどこに求められるでしよう 知識の排除、その他能力低下のさまざまな徴候を強調してい か。夢という領域を包なわく内には驚くほどの相違があり、 こ対し精密科学がなしたただ一つの貴重な貢 ます。夢の知識冫 献は、睡眠中に働く身体的な刺激が夢の内容にどんな影響をその相違は各方向にわた「ております。がしかし、われわれ およぼすかということであります。われわれは、つい最近亡がすべての夢に共通するものとしてあげることのできるもの くなったノルヴェーのヴォルド氏の実験的研究に関する二冊こそ、おそらく本質的なものにほかならぬでしよう。 そうです。あらゆる夢に共通している第一のことは、夢を の大著 ( 一九一〇年と一九一二年に独訳ざれました ) をもっ ております。この本はほとんど四肢の位置の変化が夢にどん見ているさいには眠っているということだと思います。夢を な結果を生するかを研究しているにすぎないといってよいも見ているのは明らかに睡眠中の心生活で、それは覚醒時の心 のですが、夢の精密な研究の模範として推奨に価します。さ生活とある点似ていますが、反面また大きな差異が目立ちま て、われわれが夢の意味を見いだそうとしているという話をす。これは、すでにアリストテレスの定義したところであり 聞いたら、精密科学はいったいなんというでしようか。おそます。おそらく夢と睡眠とのあいだにはもっと深い関係があ りましよう。 夢によって目をさますということはありがちで らく皆さんは、すでに精密科学がそれを述べたではないかと すし、ひとりでに目をさますときとか、むりに睡眠をさまた お考えになるでしよう。しかしわれわれはそんなことにびく ともするものではありません。失策行為に意味がありえた以げられるときとかには、夢を見ていることがよくあります。 ですから、夢は睡眠と覚醒の中間状態であるように思われま 上、夢にも意味がありうるわけであって、失策行為はひじよ す。そこで、われわれは睡眠にふれなくてはなりません。で うに多くの場合に精密科学の見落としていた意味をもってい は、睡眠とはなんでしようか。 るのです。それでは、古代人や民間の偏見を奉じて、古代の これは、いまなお大いに論議のまととなっている生理学上 夢占いの足跡を追うことにいたしましよう。 なによりもますわれわれは、われわれの課題の方向を見定または生物学上の問題であります。われわれはそれについて
を明らかにするためには、当人の知らぬような心的過程の存のだが、当人には知っていることがただわからないので、知 っていると自分で思っていないだけの話だという仮定は、ま 在をぜがひでも仮定するようにうながしてくれました。夢の んざら根拠のないものとはいいきれません。第一の糸口は睡 場合には、どうしても説明をどこかほかの領域から借りてこ なければならないうえに、 この場合なら皆さんもわりとたや眠をさまたげる刺激であり、第二の糸口は白日夢であり、そ すく催眠術からの転用をお認めくださるだろうという気持ちれから第三の糸口は催眠状態中に暗示された夢であります。 がわたしにはあるのです。われわれが失策行為をやる状態 さて、大いに自信を高めて、われわれの課題に立ちかえる といたしましよう。つまり、夢を見た当人はその夢について は、皆さんには正常なものと思われるに違いなく、そこには 知っている、ということはたいへん確率をましてきたのであ 催眠状態となんの類似性もありません。ところが催眠状態と 夢を見るための条件である睡眠状態とのあいだには、明瞭な ります。問題はただ、自分が知っているのだということを当 親近性があります。現に、催眠術は人工的催眠といわれるで人に気づかせて、それをわれわれに話すことができるように はありませんか。われわれは催眠術をかける相手に向かっ してやればよいのであります。われわれとて夢を見た当人 て、「お眠りなさい」といいますし、われわれのあたえる暗に、その夢の意味を即座にいえと要求しはいたしませんが、 示は、自然な睡眠中の夢にもなぞらえることのできるものでその人は自分の夢の由来、すなわちその夢を生みだしている あります。もろもろの精神状況は双方の場合とも相似ており 思考や関心の範囲を見つけだすことはできるでしよう。皆さ ます。自然の眠りのなかでは、われわれはわれわれの関心をんもおぼえておいでになりましようが、失策行為の場合に . は、どうしていい違いをやるようになったのかときかれたは 外界全体からひっこめますし、催眠術による眠りにおいて ずです。そしてその問いに対して最初頭に浮かんだ答えが、 も、これまたわれわれは外界から関心を遮断いたしますが、 われわれに解明の糸口をあたえてくれました。ところで夢の われわれに催眠術をかける人だけは例外で、その人とはあく まで関係を保ちつづけます。いずれにせよ、正常な状態にあ場合にもちいるわれわれの技法は、この例にまねた、いたって りながら催眠術の眠りと好一対をなしているのは、いわゆる簡単なものなのです。つまり今度もまた、どうしてそういう 乳母のうたたねで、この場合にも乳母と子供とは切っても切夢を見るようになったのかとたずね、それに対し最初に答え れぬ関係にあり、ただ子供によってだけ乳母の眠りがさまさてくれることをここでも夢の解明と見なそうというのであり れるのです。ですから、催眠中のある状態を自然の眠りの場ます。ですからその人が夢について知っていると思っている かいないかの区別は問題ではなく、両方の場合をただ一つつ 合に転用してくることは、決して無鉄砲なしわざではないと 思われます。夢を見た人も自分の見た夢について知っている場合のようにあっかうのであります。
る場合は、ほとんどすべて、妨害する意向が妨害される意向 神分析にとっては重大な課題がずっとはっきりしてくるから の反対を表現しているのです。つまり、その場合の失策行為 さきにもろもろの失策行為について述べたときに提出してとは両立し難い二つの意向の葛藤の表示なのであります。 おきながら、まだ解答をあたえていない最も興味ある問題「わたしは開会を宣するが、じつはむしろすでに閉会されて いることを望んでいる」というのがあの下院議長のいい違い は、おそらく次のようなものでありましよう。失策行為は異 なる二つの意向の干渉の結果で、そのうちの一方を妨害されの意味であります。ある政治新聞が買収されていると非難さ る意向、他方を妨害する意向と呼ぶことができると申しましれたとき、紙上で弁明をおこない、「読者は、本紙がつねに た。妨害を受けた意向については、これ以上問題にするにあ私利をかえりみず社会の福利を擁護してきたことを証言され たりませんが、いま一方の意向については、まず第一に、他るであろう」ということばがその記事の山になるはずでし た。ところが弁明文の起草をまかされた編集者は、「私利を 方の意向を妨害するものとしてあらわれるのはどんな種類の 意向であるかということ、第二に、妨害する意向と妨害されはかって」と書いてしまったのです。つまり、その編集者 は、「自分はそう書かなくてはならないが、しかし事実は違っ る意向とはどんな関係にあるかということ、この二点を知り ていることを知っている」と考えていたのです。ドイツ皇帝 たいと思います。 この場合にももう一度いい違いをこの種の失策行為の代表に rückhaltlos ( 腹蔵なく ) 真実をおっしやるようにと申し 的なものとして選ぶことを、そして第一の問題よりも第二のあげるつもりのある代議士が、自分の大胆さに恐懼する内心 の声をおさえることができす、ついいい違えて、 rückhaltlos 問題のほうにさきに答えることをお許し願います。 しい違いのさいには、妨害する意向と妨害される意向とはを rückgratlos ( 背骨なく ) といってしまったといわれま ( 原注 1 ) 内容のうえで関係をもっていることがあり、そのときは前者す。 ( 原注 1 ) 一九〇八年十一月のドイツ国会において。 には後者の反対、修正または補足がふくまれています。また すでにお話しした縮合や短縮の印象をあたえる実例におい これは一段と不明瞭な、もっと興味のある場 あるときは ては修正、追加あるいは継続が問題であって、それによって第 合ですがーーー・・妨害する意向は、妨害される意向と内容上なん 二の意向が第一の意向とならんで働いてまいります。事件の の関係もないこともあります。 この両方の関係のうち前者に対する例証は、われわれがす真相がわかってきた zum Vorschein gekommen がむし 、たん ろ忌憚なくいえば、それはワイセッ行為 Schweinereien だ でにお話した実例やそれと類似の場合になんなく見いだすこ ったという意向が働いて、 zum Vorschwein gekommen と とができます。いおうと思うことと正反対のことをいい違え
」と呼んでみても、明らかに大して エネルギーを「リビドー しさをもつものであることは、徴動だにするものではありま せん。というのは、この区別の根底は個体の特殊な活動としうるところはありません。性的機能はどんな小細工をろうし ての性欲の存在ということにあるからです。ただ問題になりても、心生活から消し去ることのできないものですから、そ んなふうにすれば性的なリビドーと非性的なリビドーという うるのは、このような区分けにわれわれはどんな意義をあた ことをいわなければならなくなりましよう。ところがリビド えているのか、またそのような区分けをどれほど有効なこと 1 という名は、われわれがいままでそうしてきたように、性 と見なそうとするのかという点であります。しかし、この問 生活の原動力のためにとっておくのが正当なのであります。 題に対しては、性欲動はその身体的および心的な発現におい ですから、性欲動と自己保存の欲動とを疑いもなく正当に て、われわれが性欲動に対立させている他の諸欲動とどの程 題よ、精神分 度に違い、それらの差異から生ずる結果がどんな意義をもっ区別できるのはどの程度までであるかという。ー ているかをつきとめればおのずから答えられるでしよう。こ析学にとってはたいして重要ではないと考えます。事実、精 の両欲動群のあいだの本質的な差異はとにかくほんとうには神分析学はその問題を取扱う資格がないのです。生物学の側 か、りよ、、 ーしうまでもなくそうした区別にある重大な意味があ 把握できないので、そうした差異を主張するどんな動機もも ることを示すいろんなよりどころが判明してまいります。な ちろんわれわれには欠けております。両者はただ個体のエネ ルギー源に対する名称としてだけわれわれにあらわれてくるぜなら、性欲は個体を乗りこえて個体を種属に結びつける唯 のであって、両者が根本において一つのものなのか、それと一の生体の機能だからです。この機能の行使は、個体のその も本質的に別個のものなのか、もし一つのものなら、いった他の営みと同じく、その個体に必ずしも利益をもたらすとは かぎらず、むしろ異常に高度な快感をえるかわりに、個体を がいに分かれたのかという議論は概念を手がかりにして行な うことのできないもので、どうしても概念の背後にある生物してその生命をおびやかして、ときにはそれを失わせる危険 学的な事実にもとづいてなされなくてはなりません。ところにおとしいれるということはまぎれもない事実であります。 門がそういう事実については、さしずめわれわれはほとんど知ですから、その生命の一部を子孫のために素因として保持す るためには、個体はまたおそらく他のどんな新陳代謝過程と 析るところがありませんし、かりにいくらかそれについて知っ 神ているとしても、それはわれわれの精神分析的課題にとっても違った、まったく特殊な新陳代謝が必要でありましよう。 それで結局は、自分自身を第一のものと見、自分の性欲を他 は問題になりますまい。 事実またわれわれが = ングの先例になら 0 て、すべての欲の諸欲動と同じく、自分を満足させる一手段と見る個体のご ときは、生物学的な見地からすれば、綿々とつづく世代系列 動は最初は一つだったと強調し、あらゆるものにあらわれる
たというわけです。そして最も手近な緩和策を提供したのな性格や、論理的および現実的な攻撃に対するその抵抗は、 ほかならぬこの関係のせいなのです。この妄想はそれ自身患 ・代たぶん通例妄想性嫉妬の発生に関与している移動のメカ ニズムだったのであります。年とった女である自分が若い男者の望んだものであり、いわば一種の慰藉なのであります。 に恋しているだけでなく、年とった自分の夫も若い娘と恋愛第三に、それがほかならぬ嫉妬妄想になって他の妄想になら 関係にあったとすれば、彼女はもちろん不貞という良心の呵なかったということは、疾病の背後にひそむ体験によって明 責をのがれることができたわけです。つまり、夫の不貞を空白に規定されているのです。彼女がその前日、腹黒い小間使 想することは、彼女のはげしい心の傷を冷やす膏薬だったの に向力い、もし自分の夫が不貞をおかせば、自分にはこれほ です。彼女自身の恋は彼女の意識にのぼりませんでしたが、 どおそろしいことはないといったのを皆さんはおぼえておい しかし彼女にそのような利益をもたらした彼女自身の恋心の でになりましよう。また皆さんは、意味ないし意図の解明と 反映は、いまや強圧となり、妄想となり、意識的なものとなその状況のなかにあたえられている無意識的なものに対する ったのであります。この恋心を否定する証明は、すべて当然関係において、われわれの分析した症状動作との二つの重要 なんの効果ももちえませんでした。なんとなればそれらの証な類似点をも見のがされはしますまい。 明はただ映像に向けられただけで、映像を濃くするのに役立 以上でもって、われわれがこの症例をきっかけに提出する ち、無意識の底にかくされていてふれることのできない原像ことのできたすべての問いに解答があたえられたわけではも には向けられていなかったからであります。 ちろんありません。この症例にはさらにいくつかの問題がっ さて、短い時間ではありましたがむつかしかった精神分析づいており、それらの間題のあるものは決してまだ解決でき るところまではいっておりませんし、また他の諸問題にして によってこの症例について理解できたところをまとめてみま 1 しょ .- っ . 0 、 しうまでもなく、われわれの調べが正確に行なわれもぐあいの悪い特殊事情のために解決されなかったものであ たと仮定してのことですが、わたしはこの場合皆さんの判断ります。例えば、なぜ仕合わせな結婚生活をおくっているこ に服することはできないのです。第一に、この妄想はもはやの夫人が婿に恋心をいだくにいたったのか、またほかに気休 析決して馬鹿げたものでも、不可解なものでもありません。そめを求めることもできぬわけではないのに、なぜそれがこの 神れは意味深長で、立派な動機があり、この婦人患者の強い感ように自分自身の状態を夫のうえに投影するというかたちで 情をともなった諸体験のつながりのなかに入っているのでおきているのか。こうした問題を提起するのは無用なことで す。第二に、それは他の諸徴候から推知されるある無意識的あり、気まぐれなことであると考えないでください。この間 な心的過程に対する反応として必然的なもので、その妄想的題に答えるだけの材料は、少なからずわれわれにはあるので
れるところでした。夢を失策行為と結びつけて考えた以外、 いずれにせよ、とにかくなお、小児の夢のようにたやすく われわれの研究にはこれといってとり立てるほどの特色はあ願望の充足と認められる、ゆがめられていないある種の夢が りませんでした。精神分析の諸前提をぜんぜん知らないどんあります。すなわち、一生を通じて、のつびきならぬ身体的 な欲求ーー飢え、渇、性欲ーーによってひきおこされる夢、 な心理学者でも、小児の夢をこのように説明できないはずは なかったのです。それだのに、なぜだれもそれをしなかったつまり内的な身体的刺激に対する反応としての願望充足であ のでしようか。 ります。例えば、わたしは生後十九カ月になる女の子が見た イソフアソティル もし幼稚型の夢のようなものだけが夢のすべてだとす一つの夢を書きとめておきましたが、その夢は自分の名まえ れば、問題はすでに解決ずみで、われわれの課題も片づいてもならんだ献立表 ( アンナ・エフ、イチゴ、スグリ、オムレ ノ、パンがゆ ) でできていて、お腹をこわしたために一日絶 いるはすです。それも夢を見た当人にいろいろ問いただした り、無意識的なものの力を借りたり、自由連想をもちたした食させられた空腹の反応と見られ、しかも腹こわしの原因が ほかならぬ夢に二度出てくる果実 ( イチゴとスグリ ) だった りなどしないでもです。ところがわれわれの課題は、明らか になおつづいているのであります。すでにくり返し経験したのです。同じときに、この子の祖母もーーー祖母の年齢に孫娘 の年を加えると、ちょうど七十になるのでしたが・ーー遊走腎 とおり、普遍的にあてはまるといった諸性格は、ある種のか ぎられた夢に対してしか確認されませんでした。ですからわらしいというので一日絶食しなければなりませんでしたが、 彼女はその晩、お客に招かれて、山海の珍味を前にだされて れわれにとっては、小児の夢から推論された一般的性格は、 いる夢を見たのです。飢餓が付きものの囚人とか、旅行や探 はたしてそれほど根拠のあるものかどうか、それらの一般的 性格は、その顕現内容から日中の願望の残りに対する関係を険にでて欠乏にたえねばならぬ人びとについて観察してみる と、こうした条件のもとでは、必ずといってよいほどこれら 認めることのできないような見すかしがたい夢にもあてはま るかどうか、ということが問題になってまいります。これらの欲求を満足させる夢を見るということを教えられます。例 一八三二ー一九 0 一。ス ・ノルデンスキ = ーレド ( の別種の夢は大きくゆがめられてきているから、さしあたりえば、オットー ノヴェ 1 デンの極地探険家 はその著『南極』 (Antarctic, 1904 ) のなかで、自分ととも あてはまるともあてはまらぬともいえないと考えます。だか に越冬した乗組員に関してこう報告しています ( 第一巻、三 らまた、このゆがみを明らかにするには、たったいまえられ たような小児の夢の理解には必すしも必要としなかった精神三六ページ ) 。 分析の技法を用いなくてはならぬだろうと予想されるのであ「われわれの心の奥底にひそむ考えをひじようによく示して いたのは、われわれの見た夢であった。それこそ現在ほどさ ります。
に都合が悪いと、急に、当人のいうことなんかあてにならな分析者が報告すべきことをもち合わせていない場合も当然同 、信用するにはあたらぬと主張なさると。 じでありますがーーこちらで推測した意味は直接証明できな 確かに、おおせのとおりであります。ところで、そうおっ いことは認めるといたしましよう。そうすると、裁判の場合 しやるなら、これも同じく不らちだということになる類似の のように間接証拠にたよるわけですが、そもそも間接証拠と 一例をお目にかけましよう。被告が裁判官の前で犯行を自白いうものはわれわれの判定の確率をときには増大さすことも すれば、裁判官はその自白を信じます。ところが、もし犯行あれば、またときには減少さすこともあります。法廷では、 を否認すると、裁判官は被告の言を信じません。でなかった実際上の理由から、間接証拠にもとづいてでも有罪の判決を ら、そもそも裁判などありえませんからね。ときには誤審が くださなくてはなりません。われわれにはそんな必要はない あっても、皆さんもやはりこの制度は承認なさるに違いありのですが、といってまた、必ずしもそうした間接証拠の利川 ません。 を断念しなくてはならぬものでもありません。科学は厳密な なるほど、ではあなたはいったい裁判官なんですか、そし証明を経た定理ばかりから成り立っているように思うのはあ ていい違いをおかした者は、あなたの前にひきだされた被告やまりであり、またそうでなくてはならぬと要求するのは不 だとおっしやるのですか。そもそもいい違いは犯罪なんです当であるといえましよう。こんな要求は、その宗教的教理聞 、カ 答にかえるに、たとえ学問的なものであるにせよ、なんらか そう皆さんからつめよられても、なにもこの比較をひっこ の他の教理問答をもってしようという欲求をもっ権威欲の気・ めるにはおよびますまい。しかし、まあどうです、失策行為持ちをあおるだけなのです。科学には、その教理間答書中に という一見はなはだ罪のない問題でも、多少深く追求してゆおさめられた絶対確実な命題というものはほんのわずかしか くと、なんという根本的な意見の相違に達したことでありま なく、それ以外はどうやらある程度の蓋然性にまで達した主・ しよう。この見解の相違は、目下のところ、まだこれを完全張ばかりなのです。このように、一歩でも確実性へ近づくこ にとりのそくことはむりです。わたしは裁判官と被告との譬とに満足し、究極の確証は欠けていても、組織的な研究を継 . 入え話にもとづいて、一時的な妥協を皆さんに中しでます。被続できることこそ、かえって科学的な考えかたを示すものに 分分析者のほうで失策行為の意味を自分から承認する場合に ほかならないのであります。 精は、それはなんらの疑いをいれる余地もありません。これは しかし、もし被分析者の供述が失策行為の意味をそれ自身・ ひとっ皆さんにご承認していただきましよう。そのかわりで解明してくれない場合には、われわれの解釈をささえる に、わたしのほうでは、被分析者が報告をこばむ場合ーー被点、すなわちわれわれの論証に対する間接的証拠をどこから -
たのである。この学問はそれたけではある問題を完全に解き うることはごく稀れであるものの、さまざまな学問の領域に 一九三五年の補遺 重要な貢献をする使命をおびているように思われる。精神分 析学の応用分野は心理学のそれにおとらぬほどひろいものが わたしの知るかぎり、本『自伝』叢書の刊行者は何年か経 あるとともに、心理学は精神分析学によっていちじるしく影 ってからそのうちの一冊に続編が書かれることになろうなど 響範囲を補足されたことは疑いない。 とは考えてもみなかったにちがいない。たぶん本編をもって こうし さてこうしてわたしは自分のささやかな生涯の仕事をふり 嚆矢とするだろう。きっかけはアメリカの出版者から以前の 返ってみてこういうことができる、自分はいろいろと最初のわたしの小著を新版で読者に提供したいとの懇望があったか 糸口をつくり、少なからぬきっかけをあたえたのであって、 らである。この小著というのは最初一九二七年にアメリカの やがて将来そこからなにものかが生じてくるだろうと。それ・フレンターノ社から『自伝風研究録』 ()n Autobiographi ・ が刮目すべきものとなるか、それともとるに足りぬものにお cal study) なる表題で出版されたものだが、まずいことに わるかは、わたし自身にも知ることができないのである。だ もう一編べつの所論『素人による精神分析の問題』 (The が、自分はわれわれ人類の認識における重大な一進歩を画す p 「 oblem 。 ( Lay ・ Ana1yses) と組み合わされたために、後者 るための道をひらいたのだという希望的な感慨を述べること のかげにかくれてしまったのだ。『自伝』を一貫しているの はゆるされよう。 はわたしの生涯の閲歴と精神分析学の歴史とこの二つの題目 ( 原注 1 ) 一九 = 一五年の追記ーーこの考えはは「きり撤回してであるが、両者は密接に結ばれ合っている。つまり、この 『自伝』は精神分析学がどのようにしてわたしの人生内容と おきたいと思う。ストラットフォード生まれのウィリャム・シェ ークス。ヒアという俳優が、長いあいだかれの筆になるとされてき なっているかを示しているのだが、そのさいわたしは自分の たあの作品の作者であるとはもう信じられない。 一身上の出来事は精神分析学という学問に対する関係に比べ = イの著書「シ , ークス。ヒア検証』 (Shakespea 「。 ldentified) れば関心に価する事柄ではないとする考えにしたがってお が公刊されて以来、わたしはこの匿名の作者というのはどうも り、これはあくまで正しいと信じている。『自伝』執筆の直 オックスフォード伯エドワード・ド・・ウェール、ら , レい AJ ほば確 前のころは、悪質の病気の再発のため余命いくばくもあるま 信している。 いと思われた。ところが一九二三年に受けた外科手術のおか 1 ・クライン夫 ( 原注 2 ) 一九三五年の追記ー・・ー・その後メラニ 人とわたしの娘アンナ・フロイトの仕事によって、この小児分げで生命をとり止め、すっかり苦痛がなくなったわけではな 析の部門が力強い飛躍ぶりを見せたのである。 いにしても、ともかく仕事をつづけられるようになった。そ
とならなかったのに、なぜ夢の体験が視覚的なのでしよう じめな夢は、ある婦人の見た夢なんですが、「夫から〈ビア・ か。あるいは演説の夢を見る場合、睡眠中に、会話や会話に ノの調律をさせなくてもいいのかね〉ときかれて、〈無駄で 似た物音がわれわれの耳に入ってきたということが立証されすわ、どっちみち革を新しくとりかえなくちゃならないんで るでしようか。そういう 立証はできないとわたしはきつばり すもの〉という」のです。この夢はその前日、夫婦のあいだ 断言いたします。 でとり交わされた対話をだいたいそのままくり返しているも 夢のもろもろの共通点からはもうこれ以上問題をさきへすのでした。これら二つのきまじめな夢から、われわれはなに すめることができないとすれば、今度はその相違点をあげを学びとるでしようか。それは、日常生活または日常生活に て、その点からやってみようかと思います。夢は確かにしば つながりのあることがらが夢のなかでくり返されている、と しば無意味で、混乱しており、不条理でありますが、しか いうことにほかなりません。もしこのようなことが夢につい し、意味深長な夢、きまじめな夢、筋道のとおった夢も存在て一般的にいわれるとすれば、これは確かにたいしたことで しております。後者の意味深長な夢が、はたして意味のない しよう。しかしそんなことはいえませんし、実際またこれは 夢を説明してくれるかどうかを見てみましよう。わたしが最少数の夢にしかあてはまらないのです。たいがいの夢では、 近聞いた筋道のとおった夢をご紹介いたしますと、それはあ前の日の出来事とのつながりはなにも見いだされませんの ヴィ で、この点から意味のない不条理な夢を説明する手がかりは る青年の見た夢であります。「ぼくがケルントナー通り ( の銀座ともい励べ ) を散歩していたところ、そこでば 0 たり氏えられません。われわれはただ、一つの新しい課題に当面し たことを知るだけであります。われわれの知ろうとするの に会ったので、しばらく連れ立って歩いてから、ひとりにな は、夢がなにを意味するかということばかりではなく、いま ってレストランに入った。すると、二人の婦人と一人の紳士 とが・ほくのテー・フルに坐った。最初はむっとしたので、かれの例のように、もし夢がはっきりある意味を語るとするなら らの顔を見ないようにしていた。そのうちふと見やると、な ば、なぜ、またなんのためにこの既知の事実、つい最近体験、 したことが夢のなかでくり返されるのかということをも知ろ かなか感じのいい人たちであることに気がついた」というの うと思うのです。 です。青年はそれから、夢を見た夜の前の晩、いつも歩き慣れ たケルントナ 1 通りを実際に歩いて、そこで事実ばったり これまでこころみてきたようなことをこれからさきもつづ 氏に会ったのだと付言しました。夢の後半部については、直けてゆくのは、きっと皆さんもわたし同様にお倦きになるこ 接それらしい事実は思いだせなくて、かなり以前の体験とあとだろうと思います。解決に通ずる一つの道さえもどう踏み る種の類似をもっていただけでした。もう一つ、もっときま だしていいかわからないとすれば、ある問題に対しどれほど