あって、それらのノイローゼでは、症状形成のメカ = ズムに . 期待するのです。ところが芸術家でない者は、空想の泉から 関する検討はまだどの点でも完結していないのであります。 快感を獲得することにひじような制限を受けております。仮 本日皆さんとお別れする前に、、 しましばらくのあいだ、き 借ない厳しい抑圧のために、これらの一般人はやむをえず、 わめて一般的な興味をひくに価する空想生活の一面にご注意かろうじて意識にのぼりうるお粗末な「白日夢」で満足する を向けていただきたいと存じます。すなわち、空想から現実のです。それが真の芸術家であれば、それ以上のことが思い へかえる路が存在するということであります。そして、それのままにできます。まず第一に、白日夢に手を加えて、あま はほかならぬ芸術であります。芸術家は、ノイローゼとあま りにも個人的なために他人に反感をおこさせるような点をな りかけへだたっていない内向者たる素質をもっています。芸くさせ、他人といっしょに楽しめるようなものにいたしま 術家はあまりにも強い欲動の欲求に駆り立てられ、名誉、権す。白日夢が禁断の泉からでたものであることがたやすく他 力、富、名声および婦人の愛を獲得したがるのですが、しか人にわからぬように、芸術家はまた白日夢をやわらげるすべ しこれらを満足させる手段をもっていません。そこで他の不を心えています。さらにまた、ある特定の材料が自分の空想 満な人びとと同じく、芸術家も現実を見捨てて、その関心の表象の生き写しになってしまうまで、その材料に形をあたえ すべてを、そのリビドーさえも、ノイローゼの入口ともなりか るというふしぎな能力をもっております。かっその場合、芸 ねないような空想生活の願望形成に転移するのです。芸術家術家は自己の無意識的な空想のこの表現に多大の快感獲得を 結びつける方法を知っている結果、抑圧は少なくとも一時は の発展の行きつくさきがノイローゼだということにならない この表現に圧倒されて放棄されてしまいます。もし芸術家が ためには、たぶんいろんなものが力をあわせなければなりま これらすべてのことをなしとげることができるなら、他人を すまい。ほかならぬ芸術家たちがノイローゼのためにせつか して無意識という近づきがたくなった自己の快感の泉からふ くの才能を部分的に制止されて悩む例がどんなに多いかは、 世間周知の事実であります。おそらくかれらの体質には、昇たたび慰藉や慰安を汲みとれるようにしてやり、他人の感謝 と嘆賞とを博し、そして最初はただ自分の空想のなかでしか 華への能力が強く、葛藤を決着させる抑圧の力がある程度弱 えられなかったもの、すなわち名誉、権力および婦人の愛を、 い点があるようです。しかし、芸術家は現実への帰路を次の ようなしかたで発見いたします。芸術家たけが空想生活をす今度は自分の空想によって実際に獲得するのであります。 る唯一の人間でないことよ、、 ーしうまでもありません。空想と いう中間国は人間一般の合意によって是認されているのであ 第二十四講ふつうの神経質 って、欠乏を嘆く者はだれでもこの空想から慰藉と慰安とを
ーゼには入らないで、不安ヒステリー症と称するものですが およそ症状の意味は、われわれの学び知ったように、患者の 患者たちは、その病像においてしばしばうんざりするほ 体験とのある関係中に存しているのです。その症状が個人的 な色彩の強いものであればあるほど、それだけ早くこの連関どの単調さで同一の特性を反復し、閉ざされた空間場所、大 を立てることができると期待してよろしいでしよう。その場きな広場、長い一本道や並木道をこわがります。知人が同道 合、無意味な観念と無目的な行為とに対して、その観念が正したり、車があとからついてきてくれたりなどすると、かれ 当なものとされ、その行為が目的にかなったものとされてい らは安心なのです。ところがこの同じ性質の土台のうえに、 た過去の状況を見つけだすことこそ、ほかならぬわれわれの個々の患者はかれらの個人的な条件、むしろ気まぐれとさえ 課題となります。テーブルのところに駈けていって、女中を いいたいくらいのものを盛るので、それらの条件は関々の症 呼んだ例の婦人患者の強迫行為はこの種の症状にとって直接例によってたがいに直接矛盾しあっているのです。ある者は 模範となるものであります。しかし、それとは全然違った性もつばら狭い通りだけをこわがり、またある者は広い通りた 格の症状も存在いたします。しかも、ひじようにひんばんにけをこわがるといったぐあいです。一人は人通りの少ない往 存在しているのです。それらはその病気の「定型的ー症状と来しか歩けず、いま一人は人通りの多い往来しか歩けないと いったぐあいです。同じようにヒステリー症も、個人的な特 呼ばねばならぬもので、あらゆる場合にほぼ同じであり、個 性がいろいろたくさんあるにもかかわらす、たやすく歴史的 人差は消失しているか、少なくともいちじるしく目立たなく な体験へ還元することには抵抗するように見える、共通の定 なっているので、それらの症状を患者の個人的な体験と結び つけたり、個人の体験した状況と関係づけたりすることはむ型的な症状をもおびただしくもっております。われわれが診 つかしいのです。ここでふたたび目を強迫ノイローゼに向け断の方針を立てるのは、これらの定型的な症状によってであ るということを忘れないようにいたしましよう。さて、実際 るといたしましよう。すでに二番目の婦人患者の就眠儀礼で にヒステリー症のある症例において、一つの定型的な症状の さえ、それ自体多くの定型的なものをもっており、それでい てもちろんいわゆる歴史的解釈を可能ならしめるに足る個人原因をある体験または一連の類似した諸体験に帰着させたと いたします。例えば、ヒステリー性嘔吐を、嘔吐をもよおさ 析的な特質をそなえているのです。しかし、これらすべての強 せるような諸印象の結果だとしたといたします。ところがヒ 神迫症患者は、やることを反復し、所作をリズム化して、他の 所作から孤立させるという性癖をも 0 ています。かれらの大ステリ 1 性でないべつの嘔吐の症例において、分析の結果、 部分はあまりにもひんばんに洗います。広場恐怖 ( 場所恐一見そこに働いていると見えるまったく異種の一の体験を 怖、空間恐怖 ) にかか 0 ているーーーこれはもはや強迫ノイロ摘発したならば、われわれはまごっいてしまいます。すると
わち敵対的な、つまり陰性の感情転移を観察するのてありま ぬ、だがプラトニックな友情の提案になることもあります。 す。 感情転移を昇華し、それが一種の存在資格を獲得するまで、 それを形成するすべを心えている婦人は少なくありません。 まず第一に、感情転移は治療のはじめから患者におこって、 しばらくは治療作業の最も強力な推進力になっていることを そうでない婦人たちは、それをそのなまのまま、本源的な、 はっきり知っておきましよう。感情転移が医者と患者の協働 . 多くの場合実行できない姿であらわさざるをえないのです。 しかし、それは根本においてはつねに同じことであって、同のうえに行なわれる分析に好都合に働くかぎり、ぜんぜんそ 一の源泉から発していることはまごうかたなく明らかでありれは感知されませんし、また気にかけるにもあたりません。 ます。 やがて感情転移が抵抗に変ずる場合には、それに注意を向け 感情転移というこの新事実をわれわれはどこに入れようとずにはいられなくなり、それが二つの異なった、それも正反 しているのかと自問する前に、まずそれをすっかり記述して対の条件のもとで治療に対するその関係を変えてしまったこ おこうと思います。それではいったい、男の患者の場合はど とを認めるのです。その第一の条件とは、感情転移が自己に うなのでしようか。男の患者の場合には、とにかく性の違い 対する内的反抗を喚びさまさすにはいないほど愛情として強 くなり、それが性的欲求に由来しているしるしをはっきりと と性の牽引力というわずらわしいものから逃れることができ ると考えてよいように思われます。ところが、事実は婦人患示すにいたった場合であり、第二の条件とは、感情転移が愛 . 者の場合と五十歩百歩であると答えなくてはならないので の欲動からではなくて敵意の欲動から成り立っている場合で す。婦人患者と同じく医者に愛着し、同じように医者の諸性あります。敵対的感情は一般には愛情よりもおそく、愛情の 質を過大に評価し、同しように医者への関心にふけり、日常背後からあらわれるものです。両者が同時に存立しているこ とは、われわれの他人に対する親密な関係の大部分を支配し 医者の近くにいるすべての者に対し同じように嫉妬をいだく のです。感情転移の昇華された諸形式は、男と男とのあいだ ている感情の双価性をみごとにうっしだしているものであり では、これらの欲動成分をべつの方面に使用するのとひきか ましよう。敵対的感情も、愛情と同じように、一個の感情的 えに顕在性同性愛の影がうすくなるに比例してひんばんにあ結びつきを意味することは、反抗が服従と同一のーーもちろ らわれ、直接性的な関係を求めることはそれに比例して稀れんそれは正反対な徴候をおびてはいますがーー依存関係を意 になってゆきます。医者はまた、男の患者において、婦人患味しているのとなんの変わりもありません。医者に対する敵 者の場合よりもひんばんに、一見これまで述べてきたすべて対的感情を「感情転移」の名で呼んでよいことは、われわれ のことに矛盾するように思われる転移のある現象形式、すな には一点の疑念もありません。なぜなら、治療の状況は決し
か上役の人とかに代置されてくるのです。ますます増加する ′ラノイア・ベルセクトリヤ がわかりました。少なくとも一度は、両人の仲は友情の域を このような経験から、追跡性偏執病は個体が過度に強くな 0 踏みこえたことさえあ 0 たのです。たまたま一夜をい 0 しょ た同性愛的欲動に対し自己防衛をやる形式であるとわれわれにすごしたのがき 0 かけで、かれらは完全な性交を行な 0 た は推論いたしました。愛が憎しみへ変わるのは、周知のようのです。この患者は、かれの年ごろとその人好きする人がら に、愛憎の対象の生命をおびやかす、重大な脅威になること とにふさわしい婦人に対して、ついそ一度だって心をひかれ がありますが、その場合、この変化は、抑圧過程のいつも決たことがありませんでした。一度はある美しい上品な娘と婚 ま 0 た結果であるリビドーの動きが不安〈置きかえられるの約までいたしましたが、かれが自分に愛情をいだいていない に応じているのです。例えば、これに関してわたしの行なっ という理由から、その娘はこの婚約を破棄してしまいまし た観察の、これまた最近の事例をお聞きください。ある若い た。数年後、はじめてある女を完全に満足させることに成功 医者がその故郷の地を追放されねばなりませんでした。これしたちょうどその瞬間に、かれの病気は突発したのです。こ まで無二の親友であったその地の某大学教授の息子の生命をの婦人が絶頂に達し夢中にな 0 てかれを抱きしめたときに、 おびやかしたからでした。このかっての友人がほんとうに凶急にかれは脳天のまわりに鋭利な刃物で切られたような痛み 悪な意図と悪魔的な力とをも 0 ているとその若い医者は考えを感じました。このときの感覚を、かれはあとでこう説明い たのです。そして、ここ数年自分の家族にふりかかったすべ たしました。まるで解剖のさいにをだして見せるときの切 ての不幸、あらゆる家庭的および社会的災厄をこの友人のせ開をやられているみたいだ 0 たとそして、例の友人が病理 いだとしたのです。ところが、それだけではなく、この悪い 学者であったものですから、自分を誘惑するためにこの婦人 友人とその父親の大学教授とは戦争さえもひきおこして、ロをおく 0 てよこしたのは、その友人以外にないとだんだんの シア軍を国内に侵入させた。こんな男は何度死刑に処しても うちにそう思いこむようになりました。そのとき以来、かっ あきたらぬ、この悪人さえ死ねばいっさいの禍いはやむのだ ての友人のたくらみによって、自分はいろんな迫害の犠牲に とこの患者は確信したのです。しかも、この悪人に対するか なったのだと考えるようになったのでした。 れのむかしの愛情はいぜんとしてなお強かったので、この敵 ところで、追跡者が被追跡者と同性でない場合、つまり見 を至近距離から射ちたおす機会がたまたまあたえられたとき たところ、同性愛的リビドーの防衛というわれわれの説明に でも、手がしびれていうことをきかなか 0 たほどです。わた矛盾しているような場合は、どうなのでしようか。つい少し しがこの患者とちょ「と話しあいましたさいに、両人の友人前、わたしはこのようなある症例を研究する機会をもちまし 関係は遠くギムナージウム時代にさかの・ほるものであること た。そして、この外見上の矛盾から一つの確証をひきだすこ
って、なんなく明らかになります。「神さまは全知全能で、 なくともなにかをかたってくれるか、または立証してくれる どんなことでも見ぬいていらっしやると聞いておりましたの かするようにすれば、それが一番目的にかなっているように 思われます。どこにあまりゆがめられていない夢を実際に見で、いくらそうさせまいとしても、わたしは神さまのように つけだすことができるかは、経験がべつに教えてくれるわけなんでも知り、なんでも見ぬいているということをこの夢は でもありませんから、われわれは事実またまえのようにやる意味しているに違いありません」と彼女は申しました。この 実例はたぶんあまりに単純すぎるかもしれません。 決心をするで . しよう。 ある一人の疑い深い婦人患者のもっと長い夢ですが、 ところが、もう一つそのほかに、われわれの行手に便宜な 方法があるのを知「ております。つまり、夢全体の解釈をやその夢のなかで、ある人たちが「機知、に関する拙著 ( 』 の無意識との めて、夢の個々の要素だけを解釈するにとどめ、一連の実例 ) の話をし、そしてそれを大いにほめたてたので 関係』を指すラロ について、それらの要素が精神分析の技法を用いれば、どのす。それから談たまたまある「運河」のことにおよんだので すが、おそらく運河のことのでてくるべつの本だったか、そ ようにを明されるかを追究してみようとするのです。 C ある婦人の語ったところでは、この人は子供のときれとも運河と関係のあるなにかであったか : : : 彼女にはそれ がわからない : ・ : それはまったく不明瞭だったのです。 に、神さまが紙のとんがり帽子をかぶっていられる夢をよく ところで、皆さんはきっとこうお考えになりましよう、そ 見たそうです。皆さんは夢を見たその婦人の助けを借りない んな「運河」などという要素そのものがいかにも漠然とした で、これをどう解こうとなさいますか。ちょっと考えると、 ことだから、なんとも解釈のしようがないと。皆さんがそう まったく馬鹿げた話に聞こえます。でもこの婦人の話をよく 聞いてみると、もはや馬鹿けたものではないのです。この婦お考えになるのもごもっともですが、しかしそれは不明瞭た から困難なのではなく、あるべつの理由から、すなわちこの 人は食卓につくさいには決まってそんな帽子をかぶらされた のですが、それは兄妹のうちのだれかのお皿の盛りが自分よ 夢の解釈を困難にしているその同じ理由から不明瞭なので り多いのではないかをぬすみ見するくせがあったためだとい す。その夢を見た婦人は運河ということに対しなんにも思い 入うことであります。つまり、この帽子に馬車馬の目かくしの つきませんし、わたしもまたもちろんなんともいうことはで 分ような役目をさせようとしたものと察せられます。とにか きません。しばらくして後、じつはその翌日でしたが、彼女 精く、この夢の歴史的由来がやすやすとあたえられたわけであはたぶん運河に関係あることを思いついたと話しました。っ ります。この要素の、したがってまた短い夢全体の解釈は、 まり、それもまたひとの話のなかにでていた一つの機知だっ この婦人にさらに思い浮かんたことを話してもらうことによ たのです。ドーヴァ海峡を通る船上で、ある知名な著述家が
こうしてわたしが到達した結論は、ノイローゼ一般は性機かったことが認められるのである。がしかし、だいたいの占 能の障害であること、しかもいわゆる現実ノイ〔ーゼは性的では今日でもなお正しいものであるように思われる。もしで 障害の毒産物の直接的なあらわれであり、精神ノイローゼは きればその後にもなお純然たる年少者の神経衰弱の症例に精 同じ性的障害の心的なあらわれであるという認識であった。 神分析的な実験を加えてみたかったのであるが、残念なこと こういう説を立てたことで、医者としてのわたしの良心は充にそういうめぐり合わせにならなかったのだ。誤解を避ける たされたのを感じた。従来の医学は生物学的に見てかくも重 ためにとくに強調しておきたいが、神経衰弱には心的葛藤や 要な性的機能に伝染だとか明白な解剖学的な外傷だとかのほ ノイローゼ的なコンプレックスが存在しないなどというつも かにはどんな傷害も認めようとしなかったのを思い これでりはもうとうない。わたしの主張するのはただ、神経衰弱患 ようやく医学の不備が埋められたように思った。さらに性欲者の症状は心的に決定されていないから、精神分析によって は決してたんに心的な事柄ではないということは医学的見解は解消できないということ、むしろそれは性的な化学過程障 にもプラスになった。性欲はまた肉体的な側面をもっていた害の毒物による直接的な結果だと見られなくてはならぬとい のであり、それにはある特殊な化学的過程があるとし、性的うことなのである。 興奮はまだどんな物質かはわからぬにしてもとにかくある特『ヒステリー研究』発表後の数年間に性欲がノイローゼにお 定特質があることによっておこると考えることができた。真 いて病因的な役割をはたしているというこの見解をかためた 性の特発的なノイローゼは、ある種の毒性作用をもつ物質が ので、医者の団体でそれについて幾度か講演をしたが、不信 注入されたりまた欠如したりすることによってひきおこされと反対の目で見られただけだった。それでも・フロイヤーは数 る中毒現象や禁断現象、あるいは甲状腺の産物によっておこ回その個人的な名声にものをいわせてわたしを ' ハックアツ。フ ることが一般に知られていをハセドー氏病などに対するほど しようとしてくれはしたものの、効果はなかった。それに性 には他のどの疾病群にも類似性を示さないということにも、 欲病因説を承認することは、事実またかれのゆきかたに反し 十分それなりの理由があるはすだった。 ていたことも見やすい道理だった。かれにしてみればその最 それから後わたしはもう現実ノイローゼの研究に立ちもど初の婦人患者に一見性的な契機がなんの役割も演じていなか る機会をもたなかったし、またわたしの仕事のこの部分は他ったことを引合いにだして、わたしに一撃を食らわすか戸ま の人によってもひきつがれることなくおわった。今日になっ どいさせるかすることもできたはずだ。ところがそうはしな て当時の結論をふり返ってみると、おそらくはるかに複雑な かったのである。なぜそうしなかったのか長いことわたしは ものだった事態から見て、最初の大ざっぱな図式化にすぎな解せなかったが、ようやく自分でこの婦人患者の症例を正し
とができたのです。ある若い娘があって、自分が一一度あいびそのどちらかであります。対象選択のナルシシズム型への強 きしたことを認めている男から追跡されていると思いこんで いリビドーの固着を、われわれはまた顕在的同性愛への素囚 おりましたが、事実この娘は母の代用物と解される一人の婦に数えて入れております。 人に最初妄想を向けていたのです。一一度目のあいびきのあと 今学期の最初の講義のときに、わたしがある婦人におこっ ではじめて、彼女は一歩をすすめて、同一の妄想をその婦人 た嫉妬妄想の症例についてお話ししたことを、皆さんはお・ほ からはずして、相手の男に移したのです。ですから、追跡者えておいでになりましよう。そして、われわれの話も終りに が被追跡者の同性であるという条件は、本来はこの症例にお近づいてまいりましたので、皆さんとしては、われわれが妄想 いても厳重に守られていたわけです。この患者が弁護士や医を精神分析学的にどう説明するかをお聞きになりたいと思っ 者に訴えたことばのなかでは、自分の妄想のこの前段階のこ ておいでになるでしよう。しかし、わたしがそれについて中 とにふれませんでしたので、その結果一見われわれの偏執病しあげられることは、皆さんの期待しておいでになるよりも 理解に矛盾するように思われたのであります。 ずっと少ないのです。妄想が論理的証明と現実的経験とによ 同性愛的な対象選択は、本来、異性愛的な対象選択よりも ってはつかみえないことは、ちょうど強迫観念の場合と同じ ナルシシズムに近いものです。もしこのとき不都合なほど強ですが、それは、妄想ないしは強迫観念によって代理され、 い同性愛的な欲動が拒否される場合には、ナルシシズムの帰おさえつけられている無意識との関係によって説明がっきま る路はわけても容易になります。わたしはこれまで恋愛生活す。妄想と強迫観念とのあいだの差別は、両疾患の生する局 のもろもろの根底について、われわれの知る範囲内で皆さん所とダイナミックスとにもとづくものなのであります。 ラノイア に申しあげる機会をほとんどもちませんでしたが、いまもま 偏執病の場合におけると同様に、メランコリー ~ しいますと、これについては種々さまざまな臨床の型が記 たそのような機会を見つけることはできますまい。わたしは ただ、対象選択、すなわちナルシシズム的段階の後になされ述されておりますがーーの場合にも、われわれはこの疾患の るリビドー発達における進歩は、相異なゑ一つの型にしたが内的構造を瞥見することができるある個所を見つけだしまし た。そして、このようなメランコリー患者たちを最もひどく 析っておこるということだけをもつばら強調しておきたいと思 神います。つまり、自分の自我のかわりに自分の自我にできる悩ますところの自責は、本来は他人、すなわちかれらが見失 った性的対象かまたはその罪過のためにかれらにとって無価 だけ似ているものがあらわれるナルシシズム型にしたがう 四か、他の生活欲求を充たしてくれるために貴重となった人物値になってしまった性的対象に向けられていることを認めま がリビドーによっても対象に選ばれる依存型にしたがうか、 した。このことから、メランコリー患者は確かにそのリビド
シス作業のすべてよりも強力なのだということを教えられ く解釈し、プロイヤーが前に吐いた二、三の言葉にしたがっ た。しかも、この個人的な感情関係という契機はどうにも手・ てかれの治療の成行きを再構成することを学んではじめてそ の下しようのないものだったのだ。もう一つは、ある日、自 のなそが解けた。つまり、カタルシス療法が一段落ついたと 思われた後で、その少女に突然「感情転移の愛情」ともいう分が長いことそうではないかと推測していたことをあからさ まに事実として見せつけられるような経験をしたことであっ べき状態がおこったのに、プロイヤーはこれをもはや彼女の 病気と関連づけて考えようとしないで、逆におどろいて彼女た。というのは、あるときひじようにおとなしくて、自由自 から手をひいてしまったのだった。こんないきさつがあって在に催眠術のかかる婦人患者が疼痛発作をおこしたので、そ みれば、いまさらなにを好んで過去の災難を思いかえすようれをその誘因にまで還元して彼女を苦しみから解放してやっ た。すると、彼女は目がさめたとたんにわたしの首に抱きっ な厭なことをする必要があろうか。かれはわたしの説を認め たものか、それとも手厳しく批判を浴びせたものかとしばら いたのだ。運よく不意に召使が入ってきてくれたから助かっ く迷っているうちに、こうした緊迫した瀬戸ぎわに必ずとい たものの、でなければ患者といやなやりとりせずにはすまな ってよいほどおこる偶然事が重なり合ってきて、わたしたち かっただろう。それ以来、この患者とは暗黙の了解で催眠療 はついに袂を分かってしまったのである。 法をつづけるのをやめてしまった。わたしは冷静な科学者の さて一般的な神経質のいろんな形ととっ組んでいるうち端くれだから、自分が女に好かれるたちだから偶々こんなこ に、さらにカタルシスの技法に改変を加えることになった。 とがおこったのだなどと自惚れるはずはなく、いまこそ催眠 わたしは催眠術をやめて、その代わりに他の方法を使ってみ法の背後に働いている神秘的な要素の本性がっかめたそと思 ようとしたが、それはこれまでヒステリー様の状態だけしか った。この要素をとり除くため、あるいは少なくとも切り離 治療の対象にされていなかったのをなんとか打破したいと思すために、どうしても催眠法をやめなければならなかったの である。 ったからである。また経験をますにつれて、たとえカタルシ スのためだけに催眠術を用いる場合でも、二つの重大な懸命 とはいえ、催眠術はカタルシス療法にたいへん役立った。 伝 がわいてきたのだ。一つは、患者に対する個人的関係がしっそれは患者の意識野をひろげ、患者が覚醒時に知ることので くりいかなくなると、せつかくのよい結果でさえ急に拭い去きなかったことを知るようにさせることができた。この点で ったように失われてゆくことであった。それでもなんとかふ催眠術に代わるものは容易にありそうもなかったのだ。こう して困り果てているとき、以前によくべルネームのところで 砺たたび和解の道を見いだせれば、よい結果はとりもどせた : 、それにしても個人的な感情関係のほうがやつばりカタル 見せられた実験の記憶がうまくよみがえってきてくれたので
催される集会にいつもきちんと顔をだしていた。ところで、 き若い奥さんが笑いながら、つい最近自分が体験したことを 二、三カ月前、市の劇場で、ぼくの戯曲が上演されるとの話してくれました。彼女は旅行から帰った翌日、夫が勤めに 確約をえてからは、決まってぼくは例の集会を忘れてしまっ 行ったあいだに未婚の実妹を訪れ、娘時代のように連れ立っ た。この問題に関するきみの本を読んだときに、・ほくはそれて買物にでかけたのです。ふと往来の向こう側にいる一人の が恥すかしくなり、その会の連中にもう用がなくなれば、さ 紳士が目にとまったので、妹をこづきながら、「ごらん、あそ っそく集会にでないのはじつに卑劣な根性だと自分をとが こに *-äさんが歩いていらっしやるわ」といいかけました。彼 め、次の金曜日にはどんなことがあっても忘れまいと心に誓女は、この紳士が数週間前から自分の夫になっていたことを った。ぼくは幾度もこの決意を思いかえし、いよいよそれを忘れていたというのです。この話を聞いてわたしは思わず身 実行して集会の開かれている室のドアの前に立った。ところぶるいしましたが、あえてこの結婚はどうなるだろうなどと は考えませんでした。何年か経ってはじめて、わたしはこの が驚いたことには、ドアはかたくしまっていた。会はすでに おわっていたのだ。じつは日をまちがえたので、その日はも結婚が不幸な結果になったと聞いて、このちょっとした話を う土曜日だったというわけだ。」 思いだしたのであります。 これと同じような観察を集めれば、・ すいぶんおもしろいの メーデルによると、あるご婦人が結婚式の前日、婚礼の衣 ですが、まあさきへすすむといたしましよう。そして次に諸裳を着てみることを忘れてしまい、その晩おそくなってから 君にちょっとご紹介しようと思う例では、われわれの解釈のやっとそれに気がついて仕立屋をすっかりあわてさせたとい 正しさは、ずっと後になってから実証されるのを待たなくてうことです。メ 1 デルは、このご婦人がその後まもなくその はなりません。 夫と別れてしまったこととこの失念とをつながりあるものと これらの事例の主要条件は、、 しうまでもなく、現在の心的見ています。ーーわたしは、現在夫と離婚しているあるご婦 状況がわれわれにはかいもくわかっていないか、あるいは確人が自分の財産管理の書類に、実際に離婚する数年前から、 かめようがないということであります。その場合、われわれしばしば娘時代の姓を署名していた事実を知っております。 邸の解釈は一種の推測以上にでないので、そんなものをわれわ また、新婚旅行中に結婚の指輪を紛失したご婦人を知っ 分れ自身もあまり重要視しようとは思いません。ところがあとていますが、そういうご婦人のその後の結婚生活を見ていま 精になって、われわれの解釈がすでにその当時どんなに正しかすと、この偶然の出来事にも意味があったことを知るのであ ったかを示すような事態がおこってまいります。かってわた ります。それほど悪い結果にはなりませんでしたが、なおも しはある若夫婦の宅に客となったことがありますが、そのと っと極端な実例もあります。それはある有名なドイツの化学
152 くべつのことを意味していたり、愛する人がじつはある別人義に帰してよいのです。このような願望が夢の形成者である の代役をはたすごまかしに用いられていたりすることもおこ ことは、ひじようにしばしばこれを立証することができま らぬとはいえないのです。 す。だれかがわれわれの実生活の行手をはばむとーー・複雑な ところでこの同じ事態にさいして、皆さんのうちにもっと生活関係にあっては、こういうことはひんびんとあるに違い ずっと真剣な他の疑問がわいてきて、こうおっしやるかもし ないのですがーーそのつど夢はただちにその妨害者を、たと れません。このような死の願望はかって存在したし、記憶に えそれが父親であれ、母親であれ、兄弟姉妹であれ、夫婦で よ「てそれは確認されるけれども、それではやはり説明になあれ、その他何者であろうと、殺すことをいとわないので らない、死の願望はとにかくとうに克服されていて、現在です。人間の本性がこれほどよこしまなことをふしぎに思うあ はたんなる感動をともなわぬ記憶として、無意識のなかに存まり、われわれは確かに夢の解釈のこの結果が正しいことを 在しているだけで、強力な欲動として存在しているわけでは おいそれと認める気にはなれませんでした。ところが、いっ ない、強力な欲動として存在しているという証拠はなにもな たんこのような欲望の起源を過去に求めるように教えられる い、だとすれ・よ、、 。しったいなんのためにそれは夢によって想と、たちまち個人の過去のある時期にはこのような利己主義 起させられるのかと。この問いは実際もっともであります。 があり、近親者に対してさえそのような願望が動いても、も これに答えようとすれば、われわれはずっと話のさきまわり はやなんら奇怪ではないということを発見するのです。この をして、夢の学説中最も重要な点の一つに対し、いやおうな 利己主義をしばしば赤裸々に示すこともあるが、ふつうには くはっきり意見を定めてかからなくてはならぬことになりま明らかな利己主義の芽生え、いやもっと正しくいえば利己心 しよう。しかしわたしはどうしてもわれわれの議論のわくをの名ごりを認めさせるのは、後には記憶の喪失におおわれる 守って、その疑問にはふれないでおかねばなりません。どう 人生のあの最初の数年における小児期であります。小児は最 か、当分この疑問をおひっこめ願います。そしてこの克服さ初は自分自身を愛するので、後になってはじめて他人を愛 れた願望が夢をひきおこすものであることは証明可能たとい し、他人のために自分の自我をいくぶんでも犠牲にすること う事実の立証に満足して、その他のよこしまな願望も同じくを学ぶのです。小児が最初から愛をよせるように見える人び 過去から導きだされるかどうかを検討しつづけてみようでは とも、はじめは小児にとってかれらが必要なのであり、かれ ありませんか。 らがいなくては困るから、つまりこれまた利己主義的な動機 だれかを亡きものにしたいという願望をつづけて見てみま から愛するのであります。もっとあとになってはじめて、愛 しよう。この願望は、たいてい夢を見た人の無制限な利己主の欲動は利己主義に依存しなくなるのです。事実、小児は称