この技法は確かにいたって簡単ですが、しかしわたしの心あとで申しあげましよう。注意すべきは、われわれ自身が特 配するのは、皆さんがそれに猛烈な反対をなさりはしないか定の思いっきをひきだせるような場合があるということであ ります。しかし一般にわれわれは、夢を見た当人がなにも思 ということです。きっと皆さんはこうおっしやるでしよう。 いっかぬといい張ると、これを否認して、本人につめより、 「またしても新しい仮定ですか。もう三度目ですよ ! しか もなかでもこれこそ一番ありそうもない仮説です ! あなた必ずなにか思いつくに相違ないはずだと断言するでしよう。 は夢を見た人に対して思いつくものを問いただして、ほかなそして結局、われわれの言の正しいことを知るのです。かれ は夢に対するなにかある思いっきをもちだすでありましょ らぬ最初に思い浮かんだことが望む説明をあたえてくれると う。それがどんな思いっきかはどうでもよいことです。歴史 おっしやるのですか。しかし、その人はまったくなにも思い つかなくてもよいわけですし、またどんなことを思いつくか的と名づけられるようなある種の報告を、特にかれはなしが しれたものではありませんからね。なにを根拠にこのようなちでありましよう。「昨日おこったある出来事と同じです」 期待をなさるのか、どうもわたしたちにはわかりません。も ( われわれが見た二つの「生まじめな」夢の場合のように ) とか、「それは少し前におこったことを思いださせますーと っと批判的な態度をとったほうがよいだろうと思われるとこ ろで、それは実際あまりにも他カ本願的であります。それかというでしよう。こういうふうに夢をつい最近の印象に結 に、夢はたった一言いい違えるのとはわけが違い、多くの要びつけることは、われわれが最初考えたよりもはるかにひん 素からなりたっているんですよ。 いったいどの思いっきを信ばんになされることに気づくのです。最後に、かれはまたそ 用したらよいんですか」と。 の夢から、もっと遠い過去の、場合によってはずっとむかし 副次的な点では、すべておっしやるとおりです。夢は多くの出来事さえ思いだすにいたるのであります。 の要素から成立している点でも、いい違いとは違います。そ ところが主要な点では、皆さんのおっしやることはまちが れをあっかう技法も、そこのところは考慮しなくてはなりま っております。もし皆さんが、夢を見た人の最初の思いっき せん。そこでわたしは皆さんに、夢をその要素に分解し、各 が求める説明をあたえてくれるとか、その糸口を提供してく 要素をべつべつに検討することを提議いたします。そうすれれるに相違ないとかと考えるのは勝手な仮定であって、思い しい違いとの類比は回復できます。また一つ一つ夢の要つきというものはむしろぜんぜん任意なもので、求めるとこ 精素についてたずねた当人が、なにも思いっかぬと答えるかもろのものとは無関係である、それなのにわたしが勝手にそん しれない点でも、おことばごもっともであります。われわれなふうに期待するのは、無批判的な他カ本願の現われだとお がこの返答を承認する場合もあるのですが、それについては考えになるなら、それはとんでもない誤りたと申しあけるの
皆さんのいい分を考えてみましよう。この説明があらゆるわれわれの研究があらためてはじまるのであります。 場合のいい違いにあてはまると思っているのか、それともあ まず第一に、これがあらゆる場合のいい違いを解明するも る特定の場合だけにしかあてはまらないと思っているのか。 のであるかどうかという疑念でありますが、わたしはそうだ 同一の見解を、他のいろんな種類の失策行為、すなわち読みと信じたいのです。それは、なんらかのいい違いの場合を検 違い、書き違い、失念、とり違い、置き忘れなどにもおしひ討するたびに、い つもそのようにして解けるからでありま ろげてあてはめてよいものか。失策行為の心的本性がわかっす。しかしまた、いい違いはこのようなメカ = ズムなしには てみれま、、 ーしったい疲労、昻奮、放心、記銘カ障害というよ おこりえないということも証明できないのです。それはそれ うな契機になおどんな意義があるというのか。さらに、失策でかまわないのであります。そんなことはわれわれには理論 行為のたがいに競りあう二つの意向のうち、一方がいつも外的にどうでもよいことなのです。よしんば少数のいい違いの にでるのに、他方は必すしも外にでないことがはっきりわか 例たけしかーー実際にはそうではないのですがーー・・われわれ っているとすれば、外にでない意向を読みとるにはどうすれの解釈に服さないとしても、われわれが精神分析への手引き ばよいか。そしてまた、読みとったと思っても、それがたん のためにひきだそうと思う推論は少しも変わらないのですか にそうらしいというだけでなく、絶対そうに違いないのだと ら。第二の疑問、つまりいい違いに関して明らかになった説 どうして証明するのかーーご質問は、まあこんなところであ明を他の種類の失策行為にもおしひろげてあてはめていいか という問題ですが、これは前もって、あてはめていいとお答 りましよう。ほかにもまだおたずねになることがおありにな えしたいのです。今後書き違いや、やりそこないなどの実例 りますか、もしなければ、わたしのほうでさきをつづけま す。ここでもう一度ご注意をうながしておきますが、もともを検討するときになれば、皆さんもそれはなっとくされるで ありましよう。でもいまは技術的な理由から、この検討はい とわれわれには失策行為そのものはたいして問題ではなく、 われわれは失策行為の研究から、もつばら精神分析に役立っちおうさきに見おくり、その前にいい違いそのものをもっと 徹底的に論じてみるほうがよかろうと思うのであります。 ことのできるものだけを学びとろうと思ったにすぎません。 ですから、わたしは次のような間題を立てるのです。他の意 血行障害、疲労、昮奮、放心という従来の著者たちによっ 図ないしは意向をこのようにして妨害するのはどんな種類の てとり立てられてきた諸契機や、記銘カ障害の理論は、われ 意図ないしは意向であるのか、そして妨害するほうの意向とわれにとってもなおなんらかの意義をもちうるかという第一二 の間いは、すでに述べてきたいい違いの心的メカニズムを認 妨害されるほうの意向とのあいだにはどんな関係が存するの 容する以上、もっと立ち入った解答をあたえる価値がありま かということです。まずこの問題を解決してからはじめて、
い違いが実際そのとおりにおこったという証明にはならない ます。わたしがここに、わたしやわたしの一派の人が報告し のではないか、確かにそうかもしれないし、またそうでないか 解決したのではない実例をもちだしたのは、じつは下心がな もしれない、同じようにうまくあてはまる、いやもっとよくあ かったわけではないのです。ともかく、この二つの例とも、 解決を促進するためには、ある種の干渉が必要でありましてはまるべつの思いっきをするかもしれないではないかと。 た。すなわち、なぜそういういい違いをしたのか、そのいし だとすると、皆さんはなんだかんだとおっしやっても結局 違いをどう説明するのかと話し手にたずねてみなくてはなら はあまり心的事実を尊敬なさっていないのに驚かざるをえな いことになります ! 思ってもごらんなさい。だれかがある なかったのであります。もしそれをたずねないと、話し手は きっと自分のいい違いをそ知らぬ顔ですごしてしまい、べっ種の物質の化学的分析をこころみて、その物質の一成分につ いて、しかじかの重さをえたといたします。この重量から、 にそれを解き明かそうとはしてくれますまい。ところが、た ずねられると、とっさに頭に浮かんだ思いっきを述べて、そ一定の推論をひきだすことができます。ところで、皆さん、 いやしくも化学者たるものは、この単独にとりだされた物質 れを説明したのです。こうして、このちょっとした干渉とそ は、それとは違った重さだったかもしれないという理由をあ の成果、それがすでに一つの精神分析であり、われわれがこ れからさらにひろくおこなうであろうあらゆる精神分析的研げて、その推論にけちをつけようなどと考えつくでしよう か。その物質成分の重さはまさにそうであってそれ以外の重 究の雛形であることがおわかりになったことと思います。 さではなかったという事実の前にはどんな人も屈服し、この さて、ようやく精神分析ということを皆さんの前にもちだ したのですが、そのとたんにもう、皆さんの心のなかに精神事実のうえに安んじて他の推論を立てるのであります。それ だのに、たすねられた人がある一つの定まったことを思いっ 分析反対の念が頭をもたげてきているのではありますまい いたという心的事実に対するときにかぎって、皆さんはそれ か。それとも、そう推測するわたしはあまりにも邪推深いの でありましようか。また、いい違いをした本人から聞きだしを承認しないで、べつなことだって思いついたかもしれない などとおっしやるのですか ! そういう皆さんはほかならぬ た返事なんかそれほどあてにはならぬと異議を唱えようとい っ 入う気がおありではありませんか。きっと皆さんは次のように 心の自由というまぼろしにとり憑かれて、どうしてもそのま 分お考えになりましよう。むろんそうたずねられれば、本人は ぼろしを捨て去りたくないというお気持ちがあるのです。残 精どうしていい違いをやったかを説明しようと努め、このよう念ながら、この点わたしは皆さんとまったく相容れない立場 に立つものであります。 な説明に役立つように思われさえすれば、ゆきあたりばった こう申しあげると、皆さんはこの点では折れてでられる りな思いっきをいうだろう、しかしそれだからといって、い
響をつきとめる最上のチャンスを提供するものではないか、 することをやめてしまっていたのですから。 そうでない夢の場合には、たいていそれは一段とむつかしい だからといって、この説を必ずしもすっかり捨ててしまう だろう、必ずしもどんな夢を見ていても目をさますとはかぎ にはあたりません。それどころか、この理論をさらにつづけ らないし、朝になって昨夜の夢を思いだすさいに、たぶん夜て発展させることもできるのです。いったい睡眠をさまた 寝ているときに作用したと思われる睡眠をさまたげる刺激をげ、心を刺激して夢を見るようにさせるのはなにかというこ どうして見つけだしたらよいのかと。かって、わたしはこのとは、明らかにどうでもよいことです。それは必ずしもつね ような音響の刺激をあとになって確認することに成功いたし に外からくる感覚的な刺激であるとはかぎらないとすると、 ました。もちろん、特殊の事情があったからではありますそのかわりに、内部器官から発するいわゆる内臓刺激が考え が。ある朝、わたしはチロルの高原で、ローマ法王が亡く られましよう。これはごく自然な推定で、夢の発生に関する なられた夢を見たことを意識しながら、目をさましました。 最も通俗的な見解にも合致するものです。夢は五臓の疲れ、 どうしてそんな夢を見たのか自分でもわかりませんでした とよくいわれます。が残念ながら、こうはいっても、夜寝て が、やがて妻が、今朝明けがたに、町中の教会や礼拝堂から いるときに作用したある内臓刺激は目ざめたあとではもはや カンカン鐘が鳴りわたったのをご存じですかとききました。 指摘できず、したがってもはや証明できなくなった場合もし いや、わたしはなにも知りませんでした。わたしの眠りはど ばしば推測できましよう。しかしわれわれは、どんなに多く ちらかといえばわりと深いほうですが、でもわたしはこうい の確実な経験によって、夢は内臓刺激に由来しているという われたので、自分の見た夢がわかったのです。夢についてあ考えが支持されているかを見のがそうとは思いません。内臓 とからそういうふうに教えられないでも、このような刺激が の状態が夢に影響をあたえることは、一般に疑いないところ 眠っている人に夢を見させるということは、はたして多いもであります。多くの夢の内容が膀胱の充満や生殖器の昻奮状 のでしようか、少ないものでしようか。おそらく、ひじよう 態と関係あることは、だれの目にも明らかであります。これ に多いともいえましようし、また少ないともいえましよう。 らの一見して明瞭な場合から、そうはっきりしていない場合 もはや刺激を確認できないときには、その夢が刺激からおこ に移っても、夢の内容から少なくとも、このような内臓刺激 ったという確信だってえられません。そうでなくても、睡眠が作用したという推測をひきだしてまちがいではありますま をさまたげる外部的な刺激は夢のほんの一部分を説明できる い。なぜなら、この内容中にこれらの内臓刺激の加工、表現、 だけで、反応としての夢全体を説明することはできないこと解釈と解されるものが見いだされるからです。夢の研究者シ がわかった以上、われわれはそういう刺激をあまり高く評価エルナーは一八六一年に、夢が内臓刺激に由来することをわ
り反対のことをいい違えた例の下院議長ーーかれは開会を宣 起させるとか、それが反対語と密接に結びついているとか、 それらの語からありふれた連想が生ずるとかという事情によしようと思ったことは明白ですが、閉会したがっていた気持 って、たいていの場合わたしの話は決してかきみだされるもちのあったことも同様に明白であります。それはじつに明瞭 ひょい のではありません。身体の疲の結果、連想傾向がそれ以外で、なんら説明すべき余地はありません。しかしまた、妨害 するほうの意向がもとの意向をゆがめるだけで、それ自身ぜ 冫しし違いがおこると、 の話の志向を圧倒するような場合こ、、、 一八三二ー一九二 ) の説をいまなお金科玉条とをせん外にでない場合に、そのゆがみから、どうして妨害す う哲学者ヴント ( 〇 るほうの意向を察知すればよいでしようか。 する人びとがあるかも知れません。もし経験がこれに矛盾し 第一系列の場合には、ひじように簡単確実なしかたで、つま ないとすれば、この説も十分聞くに価しましようが、事実は 冫。しし違いをおこしやすく り妨害を受けた意向をつきとめるのと同じしかたによって、 遺憾ながら、ある一連の場合こよ、、、 している身体的な条件がないこと、またある一連の場合に妨害するほうの意向を察知することができます。それは話し 、違、をおこしやすい連想が見つからないことは経験手から直接報告してもらえるからです。いい違えたあとで、 話し手は本来いおうと思っていた文句をすぐまたいいなおし の立証するところであります。 ます。 Das draut, いや das dauert vielleicht noch einen 第三の疑問は、わたしにはとくに興味があります。つま り、たがいに干渉しあう両方の意向はどんなふうにしてつき Monat. といったエ合にです。ところで、いい違いをさせる ほうの意向も、同じく本人の口からいわせることができま とめられるかという問題です。が、これがどれほど重大な問 いったいどうしてあなたははじめに draut なん 題であるかは、おそらく皆さんには思いもよらぬでありましす。「ねえ、 ていったんです ? 」と問えば、「 Das ist eine traurige Ges ・ よう。二つの意向の一方、すなわち妨害されるほうの意向は つねに疑いないものであります。失策行為をおかす人は、そ c 三 ch ( e. といおうと思ったんですよ」と答えるでしよう。そ れがわかっていて失策行為をや 0 たというからです。疑念をれから、もう一つのイ。「。 chwe 一 n といい違えたときでもやは り、・目分ははじめ Das ist eine Schweinerei. というつもり 抱かせるのは、もつばらいま一方の妨害するほうの意向であ ります。ところで、ある一連の場合には、このいま一方の意だったのが、少しことばをやわらげようと思って、ついべっ 向も同じく判然としていることは、すでに申しあげたはずのいいかたをしてしまったということをあかし立ててくれる 、違でしよう。ですから、いい違いをさせるほうの意向をつきと で、皆さんもきっとお忘れにはなってはいますまい。しし、 めることも、この場合はいい違いをさせられたほうの意向を いの効果を単独に承認する勇気さえあれば、妨害するほうの 意向はいい違いの効果によ 0 てそれとわかるのです。まるきっきとめるのとま 0 たく同じように確実にできたわけであり
ちはむしろこの書き違いをその男の本心の現われと認めて、 読み違いの場合には、、、 し違いや書き違いとははっきり区 、そ 捜査をおこすように当局を動かすべきではなかったでしよう 別されるある心的状況にぶつかります。たがいに競いあう両 か。そうしていれば、殺人犯を未遂におわらせたに違いない 意向の一方は、この場合ある感覚的な昻奮によって代置され のです。だとするとこの場合、失策行為についてのわれわれるので、おそらくそのためにこのほうの意向の抵抗力は他方 の精神分析学的な解釈を知らなかったことが、ある実際上のよりも弱いのです。読まねばならないものは、書こうと思っ 由々しい手ぬかりの原因になったのではありますまいか。とているもののように、自己の精神生活の所産ではないからで ころでこのような書き違いはもちろんわたしにしても、これす。したがって読み違いとは多くの場合、完全な代理形成に はあやしいそと思うでしようが、しかしそこにその男の本心 ほかならないのであります。それは読みとるべき語をべつの の現われを見て、そんな手がかりにするにはよほど重大な決語に代置するのですが、原文と読み違いの結果とのあいだに 意がいると考えます。事態はそれほど単純ではないのです。 内容上の関係があるわけではなく、一般には語が類似してい 書き違いは確かに間接証拠ではありますが、しかしそれだけるというだけのことです。リヒテンベルクが angenommen では捜査に着手するには不十分でありましよう。この書き違 ( 仮定すれば ) を Agamemnon ( ギリシャの英雄 ) と読み違 いは、この男が人間に病菌を感染させてやろうという考えをえたのは、このグルー。フの最もよい例であります。読み違い いだいていることを意味しているのは確かですが、この考えをひきおこす妨害するほうの意向を知ろうと思えば、読み違 がひとに危害を加えようとする明白な企図にでたものである えた原文は度外視しておいてよく、次の二つの問題から分析 か、それとも実際上なんら重大な意味もない空想にすぎない 的な検討をはじめればよいわけです。つまり、読み違いの結 ものであるかは、その書き違いだけからはそう簡単に決めら果に最も近い思いっきはどんなものであるかということと、 れません。のみならず、その書き違いをやった人間が、主観どんな状況において読み違いがおきたかということでありま 的に立派な理由をあげてこの空想をさえ否定し、自分のま 0 す。ときとすると、後者を知るだけで十分読み違いが解き明 たく思いもかけぬことだと提ねつけるということさえないと かされることもあります。例えば、ある種の生理的な必要か はいえないのです。われわれは後ほど心的実在と物的実在と ら不案内の町をうろついていると、ふと二階に出ている大き 分の差異をとりあげるつもりですが、そのときになれば、こう な看板に Closethaus ( 便所 ) と書いてあるような気がした 精いう可能性もいっそうよくわかっていただけると思います。 が、どうもそんな看板があんなに高い所にかかっているのは がそれにしても、この件もまた、ある失策行為が後日思いもおかしいと思い、気を落ちつけて読みなおしてみると、それ かけぬ意義をおびてきた一事例であります。 は Corsethaus ( コルセット屋 ) だったとわかるような場合
できました。その結果われわれは友人となり、今日にいたる ころが一度発表したことを固執したり、おいそれと撤回しな まで変わらぬ友情をもちつづけております。しかしその後た かったりする人は、今度はわがままでいこじたといわれるの えてひさしく論争をこころみたことがありませんが、それであります。このようにど 0 ちみちたがいに正反対な批判の は、レーヴ = ンフェルトの場合と同じなりゆきになるという矢おもてに立たなければならぬ以上、自分の態度を変えない 確信がもてなかったからであります。 で、自己の判断のよしとするとおりにふるまう以外にどうし さて、文筆上の討論をこのようにしりそけるのは、頑とし ようもないではありませんか。わたしはそうしようと決心し て異論をうけつけないわがままな、あるいは学問の世界でよております。そしてわたしの立てるあらゆる学説を、自分の くもちいられる日常語でいえば、「いこじ」な態度の表明に経験を一歩すすめるたびごとに変更し是正することをやめな ほかならぬときっと皆さんはそう判断されるでしよう。それ いつもりです。しかし基本的な見解については、これまでな に対して、わたしはこうお答えしたいと思います。皆さんに んらの変更を加える必要も見いだしませんでしたし、おそら しても、もし苦心の研究によってある確信をえられたあかっ く今後もその必要はないだろうと思っております。 きには、当然ある程度頑としてこの確信を固執されるであり それではいよいよ、ノイローゼの諸現象を精神分析学がど ましようと。さらにわたしは自分の研究をすすめるうちに、 のようにとらえているかをご披露中しあげる段階になりまし 二、三の重要な点に関して見解を変更、是正し、新しい見か た。この場合、類比のためにも対照のためにも、すでに取扱 たに変え、しかもそのつどもちろんそのことを公けに表明し った諸現象を糸口にして話をはじめるのが自然でありましょ てきたと断言できます。とこ . ろで、このような率直な態度をう。つまり、わたしの治療時間中に多数の人びとがやる症状 とった結果はどうだったでしようか。ある人びとはわたしの動作をとりあげることにいたします。医者の治療室をおとす この自己訂正をまったく知らないで、もはやわたしにとってれて、わすか十五分ほどのうちにその長い一生の苦悩をうち とっくに前とは違っている主張をたてにとって、今日もなお明ける人たちを、もちろん精神分析医とてもどうこうしてや わたしを批判しています。またある人びとはかならぬこのれるものではありません。ほかの医者なら、「べつだんお悪 析わたしの主張を非難し、だからあの男のいうことはあてにな いところはありませんねーと意見を述べて、「まあ軽い水治 分 神 らないと公言してはばからないのです。二、三度自分の見解療法でもやるんですな」などとすすめるところですが、分析 を変えると、世間はその人を全面的に信用するに足らぬ、な医にはもっと深い知識があるのですから、そうよ、 部ぜならそういう人の立てる最も新しい主張だってまた当然まのです。そんなわけで、われわれ医者なかまの一人は、きみ ちがっているかもしれぬからだというではありませんか。と は処方をだしている患者にどんな処置をほどこしているのか
、 339 精神分析入門 おいてだけ可能なやりかたとがどの点で違っているかを、 発見の客観的確実性を疑わしくする危険はやはり存すると。 まやわたしは皆さんに明らかにしたと思っております。皆さ治療に役立つものは研究の価値を損じてしまう。これが、最 んは事実また、分析療法はその効果がぎりぎりのところまで もしばしば精神分析に対して唱えられてきた異議でありま あくまで計算してかかることができるのに、一方催眠療法です。正直のところ、この非難はまとをはすれてはいますが、 はその成果の気まぐれさが目立っ点を、暗示を感情転移に帰といっていちがいに筋違いだとして撥ねつけることもできま 着させることによっておのずからご了解になりましよう。催せん。しかし、もしかりにこの異論が正当たとするなら、精 眠術を用いるさいには、われわれ医者は患者の感情転移能力神分析は、じつのところ、とくに巧みに偽装した、とくに有 の状態には左右されますが、患者の感情転移能力そのものに効な暗示療法の一種にほかならぬことになり、われわれは生 影響をあたえることはできません。催眠術をかけられる者の活感化や精神力学や無意識に関する精神分析の主張をすべて 感情転移は陰性であるか、または、たいていの場合そうであたわいないものととってよいことになりましよう。事実、精 るように、双価性のものでありましよう。すなわち、患者は神分析の反対者たちはそう考えているのであって、わけても、 特殊な態度をとることによって自分の感情転移をあらかじめ性的体験そのものではないまでも、性的体験の意義に関する 防いだかもしれません。それについてはわれわれはなにも知ことはすべて、われわれが自分たちの堕落した空想のなかで らないのです。精神分析においては、われわれは転移そのも このような推測をやってから、患者たちにそれを「説きっ のに働きかけ、転移にさからっているものをなくし、われわけ」たのたというのです。これらの非難は、理論の助けを借・ れの活用しようと思う道具をととのえるのです。こういうふ りるよりも経験をひきあいにだすことによって、よりたやす うにして、暗示の力をまったくべつな目的に利用することが く反駁することができます。自分で精神分析をやってみた者 できるようになります。つまり、暗示の力を完全に掌中にお は、そんなふうにして患者に暗示をあたえることなどできな さめるのです。患者は自分だけで、すなわち自分勝手に暗示 いことは、何度も確かめることができたはずであります。思 されるのではなくて、患者が暗示の影響を受け入れるかぎ者をある種の学説の信奉者にして、医者のおかすかもしれぬ り、われわれのほうでその暗示を自由にあやつるのでありま誤謬の一端をになわせることは、もちろん決してむつかしい す。 ことではありません。そういう場合、患者は患者でない者の ところで、皆さんはこうおっしやるかもしれません、われような、つまり弟子のような態度をとりますが、しかしそれは われが精神分析の推進力を転移と呼ぼうが、暗示と呼ばう医者が患者の知性にだけ影響をあたえるにすぎないで、患者 が、いずれにせよ患者に影響をあたえることは、われわれの の病気に影響をあたえはしなかったということなのです。と
に都合が悪いと、急に、当人のいうことなんかあてにならな分析者が報告すべきことをもち合わせていない場合も当然同 、信用するにはあたらぬと主張なさると。 じでありますがーーこちらで推測した意味は直接証明できな 確かに、おおせのとおりであります。ところで、そうおっ いことは認めるといたしましよう。そうすると、裁判の場合 しやるなら、これも同じく不らちだということになる類似の のように間接証拠にたよるわけですが、そもそも間接証拠と 一例をお目にかけましよう。被告が裁判官の前で犯行を自白いうものはわれわれの判定の確率をときには増大さすことも すれば、裁判官はその自白を信じます。ところが、もし犯行あれば、またときには減少さすこともあります。法廷では、 を否認すると、裁判官は被告の言を信じません。でなかった実際上の理由から、間接証拠にもとづいてでも有罪の判決を ら、そもそも裁判などありえませんからね。ときには誤審が くださなくてはなりません。われわれにはそんな必要はない あっても、皆さんもやはりこの制度は承認なさるに違いありのですが、といってまた、必ずしもそうした間接証拠の利川 ません。 を断念しなくてはならぬものでもありません。科学は厳密な なるほど、ではあなたはいったい裁判官なんですか、そし証明を経た定理ばかりから成り立っているように思うのはあ ていい違いをおかした者は、あなたの前にひきだされた被告やまりであり、またそうでなくてはならぬと要求するのは不 だとおっしやるのですか。そもそもいい違いは犯罪なんです当であるといえましよう。こんな要求は、その宗教的教理聞 、カ 答にかえるに、たとえ学問的なものであるにせよ、なんらか そう皆さんからつめよられても、なにもこの比較をひっこ の他の教理問答をもってしようという欲求をもっ権威欲の気・ めるにはおよびますまい。しかし、まあどうです、失策行為持ちをあおるだけなのです。科学には、その教理間答書中に という一見はなはだ罪のない問題でも、多少深く追求してゆおさめられた絶対確実な命題というものはほんのわずかしか くと、なんという根本的な意見の相違に達したことでありま なく、それ以外はどうやらある程度の蓋然性にまで達した主・ しよう。この見解の相違は、目下のところ、まだこれを完全張ばかりなのです。このように、一歩でも確実性へ近づくこ にとりのそくことはむりです。わたしは裁判官と被告との譬とに満足し、究極の確証は欠けていても、組織的な研究を継 . 入え話にもとづいて、一時的な妥協を皆さんに中しでます。被続できることこそ、かえって科学的な考えかたを示すものに 分分析者のほうで失策行為の意味を自分から承認する場合に ほかならないのであります。 精は、それはなんらの疑いをいれる余地もありません。これは しかし、もし被分析者の供述が失策行為の意味をそれ自身・ ひとっ皆さんにご承認していただきましよう。そのかわりで解明してくれない場合には、われわれの解釈をささえる に、わたしのほうでは、被分析者が報告をこばむ場合ーー被点、すなわちわれわれの論証に対する間接的証拠をどこから -
皆さん ! われわれは前回の論議でひじように困難な一仕快感原則だの、やれ現実原則だの、やれ系統発生的に獲得さ 事をすませましたので、わたしはしばらくこの題目を離れれた所有物だのといった、きわめて広汎な観点をもちだし て、皆さんのいい分をお聞きすることにいたします。 て、皆さんにあることがらの手ほどきをするかわりに、皆さ というのは、皆さんが内心不満をいだいていられることをんの期待とますますかけ離れたことをあわただしく走り書的 よく承知しているからであります。そもそも皆さんがお考え に中しあげたのでした。 になっていた「精神分析入門」は、もっとおもむきの違った なぜわたしはノイローゼ論の入門において、皆さんご自身・ ものだったに違いありません。皆さんは理論ではなく、生ま の知っておいでになる神経質の問題と、とうに皆さんの関心 なましい実例が聞けるものと期待しておいでになったのでを喚びさましたことがらとからはじめなかったのでしよう す。わたしが前に一度「一階と二階で」という比喩をもちだ か。なぜ神経質者の独特な本質、対人関係と外的影響とに対 しましたとき、自分らはノイローゼの原囚については多少とするかれらの不可解な反応、その刺激性、移り気および無能 も理解できたが、ただそれが現実的な観察であって、作り話からはじめなかったのでしようか。な。せ比較的単純な日常の でなかったらとこう皆さんはおっしやるのです。あるいは、 諸形式の理解から、一歩一歩、神経質のなそのような極端な わたしが講義のはじめに二つの症状ーーーこれも作り話だなど現象の問題にまで順を追って皆さんをお連れしなかったので と思わないでください の話をし、それらの症状の除去お 1 レよ、つ、か よびそれと患者の生活との関係を解明いたしましたとき、自 そうです、皆さん、わたしは決して皆さんのいい分がまち 分らには症状の「意味」はよくわかったが、ああいうふうに がっているなどということはできません。わたしは自分の叙 話をつづけていって欲しかったのだとこう皆さんは思ってお述の技術においてそれほどうぬ・ほれてはいませんから、その いでです。ところがわたしはそういうふうにしないで、くだ欠点のいずれをもある特殊な魅力だなどといいふらしたりは くだしくてわかりにくい、しかも未完成の理論を中しあけ、 いたしません。自分でももっとべつなやりかたをしたほうが さらに次つぎと新しいことを補足してゆき、まだ皆さんにご 皆さんにはよかっただろうと思いますし、事実またそうする 入紹介しなかった諸概念を使って話し、記述的な描写からダイ つもりでいたのです。しかし、ひとはそのもっともな意図を 分ナミックな見解に、さらにダイナミックな見解からいわゆる必ずしもつねに遂行できるとはかぎりません。素材そのもの 精「経済的な」見解へと入りこんで、そのさい使用した術語の のなかに、しばしばそれに左右されて最初の意図を変更させ 多くが同一の意味なのに、ただ口調がよいという理由だけで、 られるにいたるようなものがふくまれていることがありま 次つぎと違ったものを用いて皆さんの理解を困難にし、やれす。よく知っている材料を整理するといったような、なんで