152 くべつのことを意味していたり、愛する人がじつはある別人義に帰してよいのです。このような願望が夢の形成者である の代役をはたすごまかしに用いられていたりすることもおこ ことは、ひじようにしばしばこれを立証することができま らぬとはいえないのです。 す。だれかがわれわれの実生活の行手をはばむとーー・複雑な ところでこの同じ事態にさいして、皆さんのうちにもっと生活関係にあっては、こういうことはひんびんとあるに違い ずっと真剣な他の疑問がわいてきて、こうおっしやるかもし ないのですがーーそのつど夢はただちにその妨害者を、たと れません。このような死の願望はかって存在したし、記憶に えそれが父親であれ、母親であれ、兄弟姉妹であれ、夫婦で よ「てそれは確認されるけれども、それではやはり説明になあれ、その他何者であろうと、殺すことをいとわないので らない、死の願望はとにかくとうに克服されていて、現在です。人間の本性がこれほどよこしまなことをふしぎに思うあ はたんなる感動をともなわぬ記憶として、無意識のなかに存まり、われわれは確かに夢の解釈のこの結果が正しいことを 在しているだけで、強力な欲動として存在しているわけでは おいそれと認める気にはなれませんでした。ところが、いっ ない、強力な欲動として存在しているという証拠はなにもな たんこのような欲望の起源を過去に求めるように教えられる い、だとすれ・よ、、 。しったいなんのためにそれは夢によって想と、たちまち個人の過去のある時期にはこのような利己主義 起させられるのかと。この問いは実際もっともであります。 があり、近親者に対してさえそのような願望が動いても、も これに答えようとすれば、われわれはずっと話のさきまわり はやなんら奇怪ではないということを発見するのです。この をして、夢の学説中最も重要な点の一つに対し、いやおうな 利己主義をしばしば赤裸々に示すこともあるが、ふつうには くはっきり意見を定めてかからなくてはならぬことになりま明らかな利己主義の芽生え、いやもっと正しくいえば利己心 しよう。しかしわたしはどうしてもわれわれの議論のわくをの名ごりを認めさせるのは、後には記憶の喪失におおわれる 守って、その疑問にはふれないでおかねばなりません。どう 人生のあの最初の数年における小児期であります。小児は最 か、当分この疑問をおひっこめ願います。そしてこの克服さ初は自分自身を愛するので、後になってはじめて他人を愛 れた願望が夢をひきおこすものであることは証明可能たとい し、他人のために自分の自我をいくぶんでも犠牲にすること う事実の立証に満足して、その他のよこしまな願望も同じくを学ぶのです。小児が最初から愛をよせるように見える人び 過去から導きだされるかどうかを検討しつづけてみようでは とも、はじめは小児にとってかれらが必要なのであり、かれ ありませんか。 らがいなくては困るから、つまりこれまた利己主義的な動機 だれかを亡きものにしたいという願望をつづけて見てみま から愛するのであります。もっとあとになってはじめて、愛 しよう。この願望は、たいてい夢を見た人の無制限な利己主の欲動は利己主義に依存しなくなるのです。事実、小児は称
を二本ほしいと思いました。すると、たちまち二本のソーセ のままだということが理解できないからなのであります。 第二の問題は、素人は同じく等閑に付しているが、第一の ージが実際そこにあらわれたのです。これが、第一の願望充 問題よりずっと重要で深刻な次の要素であります。願望の充足であります。そこで、亭主はおこって、腹立ちまぎれに、 しいと思いまし 足は確かに快感をもたらすに相違ないでしようが、しかしまそのソーセージが女房の鼻先にぶらさがれば、 た。すると、これも充たされて、ソーセージはおかみさんの た、だれにもたらすのかということが問題なのです。いうま でもなくそれはその願望をもっている当人にですが、しかし鼻先からどうしてもとれなくなったのです。これが第二の願 夢を見た人について、その人は自分の願望に対してまったく望充足ですが、この願望は亭主の望んだものであります。お 特殊な関係をもっていることはわれわれのよく知るところでかみさんにとっては、この願望充足ははなはだ不愉快なもの あります。夢を見た人は自分の願望を非難し、検閲いたしまであることはいうまでもありません。それからさきこの話が す。要するに、それらの願望を好まないのです。したがってどうなるかは、皆さんのよくご存じのとおりであります。夫 そのような願望の充足がかれに快感をもたらすわけがなく、 婦は畢竟一体でありますので、第三の願望は、ソーセ 1 ジが かえってその反対のものをもたらすだけでしよう。その場おかみさんの鼻先からとれるようにということでなくてはな 合、経験によって、この反対のものーーこれはいずれ説明さ りません。われわれはこのお伽話をまだ何度も他の点で利用 れなくてはなりませんが は不安の形をとってあらわれるすることがあろうかと思いますが、ここではただ、もし双方 の考えが一致していないなら、一方の人の願望充足は他方の ことがわかります。つまり、夢を見た人は自分の夢の願望に 対する関係において、いちじるしい共通点によって結びつけ人にとっては不愉快なものになりがちだという可能性を説明 られている二人の人物の合体になそらえられるのです。わたするためにお話ししただけであります。 しはこれ以上くわしく述べるかわりに、皆さんもよくご存じ さて、不安な夢をもっとよく理解するようになるのは、そ のお伽話を一つご披露申しあげれば、きっと皆さんはそのなれほど困難なことではありますまい。ただもう一つある観察 かにこれと同じ関係を見いだされることでしよう。ある幸運を借りて、それにもとづいていろいろ証例をあげることので の女神が貧しい夫婦に、お前たちの最も望む願いを三つかな きる一個の仮定を立てる決心をしさえすればよいのです。そ えてやろうと約東なさいました。二人は有頂天になって、その観察とは、不安な夢はぜんぜんゆがめられていない、いわ ば検閲をまぬがれた内容をもっていることが多いということ の三つの願いを慎重に選びだそうとしたのです。ところがお かみさんのほうは、隣りの小屋からローストしたソーセージ であります。不安な夢はしばしばむきだしの願望充足なので の匂いがしてきたのにつりこまれて、そのようなソーセージす。もちろん好ましい願望の充足ではなくて、いまわしい願
どくよこしまな、しかも放らつな性的願望にほかならぬとい 人がどんなに多いことでしよう。まったく、母親たちはこの うことを知るにいたったとき、皆さんがどんな驚きをもって願望をさまざまのーー幸いにも無害なーー行為に置き換えた それを受けとられたかを思いだされましよう。われわれがこ のであります。ですから愛する者に対する死の願望は、後に のような夢を、その夢を見た人のために解釈してやったとこ ははなはだ不可解に思われますが、それは愛する者との早期 ろ、幸いにもその人がこの解釈そのものに抗議しないとして の関係に由来しているのであります。 も、やはりその人は、自分はあくまでそんな願望とは無縁で 寵愛する長子の死を願っていると当然解釈される夢を見た あると思っているどころか、それとは反対のことを意識して 父親も同しく、かって自分がそういう願望をいだかなかった るのに、、 しったいどこからそんな願望がやってくるのかと とはいえぬことを思いださせられすにはいないのです。その 決まってたずねるのです。この願望の由来を立証するのに、 息子がまだ乳呑児だった時分、自分の選んだ結婚に不満だっ われわれはなにも臆する必要はありません。これらのよこし た夫は、まだ自分にとってなにものでもなかったこの赤ん坊 まな願望のうごめきは過去から、しばしばそれほど遠くはな が死んでくれたら、ふたたび自由の身になり、その自由をも い過去からきているのであります。今日ではもうそうでない っと楽しめるだろうとよく考えたものでした。これと似た多 にしても、かってはそうした願望があることを知り、また意数の憎悪心の動きに対しても、それが同じようなところから 識していたことは実証されます。ある婦人は、現在十七歳に きているのを実証できます。憎悪心の動きは、過去に属し、 なる一人娘が目の前で死んでくれればいいと思っていること かっては意識されていて、心生活のなかでその役割を演した を意味する夢を見たのですが、この婦人はわれわれの手引き ことのあるものへの追想にほかならぬのです。このことから によって、このような死の願望をやはりある時代に胸こ抱、 冫し皆さんは、ある人との関係においてこの種の変化がおこらな たことがあるのに気づいています。その娘というのは、まも かった場合には、つまり、この関係が最初から冷淡なものた なく離別した不幸な結婚から生まれたのでした。娘がまだお ったときは、そのような願望やそのような夢は存在するわけ わたしとてもこうし がないと推論しようとなさるでしよう。 門なかに宿っていたころ、その婦人はあるときはけしい夫婦喧 析嘩の末、狂乱のあまりその子を殺そうと思って、こぶしでお た帰結を承認するにやぶさかではありませんが、ただ皆さん 神なかを思いきり打ったことがありました。現在では子供らをに一言ご注意をうながしておきたいのは、夢のそのままの内 精 やさしく、いやおそらくはやさしすぎるほど愛している母親容ではなく、解釈後の夢の意味を顧慮されなくてはならぬと いうことであります。愛する人が死んだ顕現夢は、たんにお たちで、それにもかかわらず子供たちをいやいや受胎し、胎 内の生命がそれ以上発育しなければいいと願ったことのあるそろしい仮面をとっただけのことで、じつはそれとはまった
160 てくるのであります。 く発せられた質問だったからです。ご承知のように、人間は 双方の側からわれわれに明らかになったのは、夢の作業と新知識に対しては本能的に身を守ろうとするものです。この は本質的には思想を幻覚的な体験に置き換えることだという ような新知識はすぐに最小限のものに縮減され、できれば一 ことでありました。どのようにしてそういうことがおこりう個の標語に圧縮されるのも、こうした態度の現われにほかな るのかは、まことに不可解でありますけれども、これは一般 りません。新しい夢の学説にとって、願望の充足ということ 心理学の問題であって、ここで論ずべきことがらではありま が、つまりこの標語になったわけです。素人はさっそく、願望 せん。小児の夢から、夢の作業の目的は睡眠をさまたげる心 の充足はどうなったのかとたずねます。夢とは願望の充足た 的刺激を願望の充足によってのぞき去ることだということをそうたと聞くとすぐそうたずね、しかもそういう間いを立て 知りました。ゆがめられた夢については、それを理解するこ ることによって、願望の充足などではないではないかと自分 とができないうちは、この場合も同じだとは明言できなかっ で否定的な答えをひきだすのであります。素人は一も二もな たのです。しかしわれわれは最初から、ゆがめられた夢も幼 く重苦しい不安をひきおこすほど不快をともなった無数の自 児の夢と同一の観点から説明できるだろうと期待していたの分の夢の経験を思い浮かべるので、精神分析学の唱える夢学 であります。この期待が最初に的中したのは、もともとすべ説の主張がまゆっぱものに思われてくるのです。ゆがめられ インファンティル ての夢は 小児の夢であり、幼稚型の材料、すなわちた夢にあっては、願望の充足は公然とあらわれようはずがな 小児の心的な欲動やメカ = ズムをもって働くという洞察をえく、それはあらためてさぐらなくてはならぬのだから、夢を解 たときでした。夢のゆがみに十分通暁したと考える以上、次釈しないうちに欲望の充足を指摘することはできぬと右のよ に夢は願望の充足であると見る見解が、ゆがめられた夢に対 うな素人に答えるのはたやすいことであります。現にまた、 してもはたしてあてはまるかどうかを検討しなくてはなりま これらのゆがめられた夢の願望が検閲によって却下された禁 せん。 制の願望であり、それらの願望の存在することこそがまさに われわれは前講ではしめていくつかの夢に解釈をほどこし夢のゆがみの原因となったのであり、夢の検閲が干渉する動 ましたが、願望の充足ということはまったく考えに入れませ機となったのであることをわれわれは知っているからです。 んでした。きっと皆さんにしてみれば、一再ならず、夢の作 しかし素人批評家に対し、夢を解釈する前にその夢の願望充 業の目標たといわれる願望の充足はいったいどうなったのか足のことをたすねてはいけないということをわからせるのは とききたくてやきもきされたことだろうと信じます。この問 むつかしいことです。なにしろ、このことはいくらいっても いは重大であります。つまり、それは素人批評家の口からよ すぐ忘れられてしまうのだからで
170 て、夢の内容を形づくり、その内容に以前の願望充足というれを承認しようとしまいと、わたしはいまこれらの思想を、 形式をあたえたのであります。つまり、わたしはお芝居へ行前よりももっと厳格な意味で「昼の名ごりーと呼びましょ って、いままで禁しられていたものをなんでも見物してよい う。こうしていまや、わたしは昼の名ごりと夢の潜在思想と が、あなたはまだいけない、わたしは結婚しているが、あなをはっきり区別するのであります。すなわち、われわれの以 たは待たなくてはならないのだというわけであります。この 前のしきたりに一致させて、夢の解釈にさいしてわれわれの ようにして、現在の状況は正反対の状況に変えられ、むかし知るすべてのことをわたしは夢の潜在思想と称するのです の勝利が現在の敗北にとってかわるのです。ちなみに、好奇が、一方、昼の名ごりは潜在思想のほんの一部分にすぎない 心の満足は利己的な競争心の満足とからみあっております。 のです。そうすると、われわれの見解はほかならぬ次のよう ところでこの競争心の満足は顕現夢の内容を規定していて、 なことになります。つまり、昼の名ごりのうえに、これもま 夢の内容は事実、自分は劇場にいるが、友だちのほうは入場た無意識に属していたあるもの、すなわち強力ではあるが、 できなかったということになっています。この好奇心と競争抑圧されている願望の動きが付け加わったのであって、この 心の満足の場面に、背後に潜在思想のまだかくれている夢の願望の動きだけが夢を形成することができたのです。この願 内容のあの諸部分が、その場面とはびったりしない不可解な望の動きが昼の名ごりにおよ・ほす影響こそ、夢の潜在思想の 修飾となって積み重ねられています。夢の解釈は願望の充足その他の部分を作りだす。すなわち、もはや覚醒時の生活か ら理解できる合理的なものと見える必要のない部分を作りだ を描きだすのに役立っているものをすべて度外視し、右のほ のめかしにもとづいて苦痛な夢の潜在思想を再建しなくてはすのであります。 ならないのです。 昼の名ごりと無意識的な願望との関係を述べるのに、わた しま前景しは一つの比喩を用いたことがありますが、いまそれをここ わたしがこれから述べようと思う一つの考察は、、 にもう一度くり返すだけです。どんな企業においても、出資 におしだされてきた夢の潜在思想に皆さんの注意を向けさせ ることを目的としております。夢の潜在思想は、第一に、夢をひき受ける資本家と、企画をもっていてそれを実行に移す ことのできる企業家とが必要であります。夢の形成にとって を見る当人には無意識であること、第二には、完全に筋道の とおった脈絡のあるものであるから、夢の誘因に対する明白資本家の役割を演するのは、いつでももつばら無意識的な願 な反応であると解されること、第三に、それはある任意の心望であります。無意識的な願望は夢の形成のために精神的工 的な欲動または知的な操作たる価値をもちうること、この三ネルギーを供給いたします。企業家は昼の名ごりであって、 点をどうかお忘れにならぬように願います。夢を見た人がそこれは出資金の使いかたを決定いたします。ところで資本家
わりに対しどんなに嫌悪が感じられるか、または少なくとも ことに起因しているのであります。教育によるこの抑制はい わば理論化されて、大人はっとめて小児の性の発現のある部そういわれているか、そしてそれに向けられた禁匍にどれほ ど力がおかれているかは皆さんもご承知のとおりでありま 分を看過し、他の部分は解釈を変えることによって、それに は性的な性質はないとし、やがては全体を否認する説を唱えす。近親相姦のこの恐怖を説明するのに、じつにおびただし い努力が払われてまいりました。なかには、同種交配は品種 ます。はじめに子供部屋で子供たちのあらゆる性的ないたず らをひどくおこりつけたくせに、次には机に向かうと同じ子の質を低下させるから、この禁制によって心的に代表される ことは育種に対する自然の配慮であるという説を弄したり、 供たちの性的な純潔さを弁護するのは、しばしば同一人なの であります。子供たちが放任されるさいとか、誘惑の影響をまたごく幼いときからいっしょに暮らしていることによっ 受けるさいとかには、かれらはよく倒錯的な性活動をじつに て、性的欲望は家族の人びとには向けられなくなるのだと主 みごとにやってのけることがあります。大人がこれを「子供張したりする者があります。両方の場合とも、とにかく近親 らしいことーであり、「児戯ーであるとして重く見ないのは、相姦の回避は不動なものとして確保されたとしているのです もちろん正しいことです。なぜなら小児は道徳の法廷や法律から、それならいまさらなんのために厳しい禁制を必要とす るのか、ちと了解に苦しむところであります。その禁制はむ の前で、一人前の責任ある者と判定することはできないから です。しかしそれにもかかわらす、これらのことがらはあく しろ強い欲求の存在を暗示するようなものだからです。精神 まで存在するのであって、もって生まれた体質の徴候として分析による検討の結果、近親相姦的な愛の選択こそはむしろ も、後の発育をひきおこし促進するものとしてもその意義を最初の選択であり、ごくふつうな選択であって、後になって もち、小児の性生活を、したがってまた人間の性生活一般をようやくそれに対する抵抗がはじまるのだということがはっ われわれに解明してくれるものであります。ですから、われきりしてきたのであります。そしてこの抵抗を個人心理学か われがゆがめられた夢の背後にこれらすべての倒錯的な願望ら導きだしてくることはたぶんできますまい。 の動きを見つけだすのは、つまり夢がこの領域でもまた幼 児童心理学を掘り下げてみた結果、夢を理解するうえにわ れわれのえたところを総括してみましよう。すなわち、忘却 析稚型の状態へ退行したことを意味するにすぎないのであり された小児体験の材料は夢にあらわれやすいことを知ったた 神ます。 精 これら禁制の願望のうちでとくに強調すべきものに、なおけでなく、また小児の心生活はそのあらゆる特性、その利己 心、その近親相姦的な愛の選択等々とともに、夢にとって、 近親相姦の願望、すなわち両親や兄弟姉妹との性交に向けら れた願望があります。人間社会においてはこのような性の交したがって無意識のなかでなお存続しているということ、ま ンティル インファ
224 これに対して、これまでのところ、ただ一つの答えしかあた人は熱愛している夫と離れて、夫の性的な欠陥と虚弱とのた えられていません。抵抗を検討したさいに、抵抗は自我のカ、 めに生活を共にすることができなかったのであります。彼女 すなわちわれわれにわかってはいるが、しかも潜在的なもの は夫に対して貞操を守らねばなりませんので、夫のかわりの である性格の諸特性からでていることを知りました。つま男を求めるわけにはまいりませんでした。彼女の強迫症状は り、抑圧を作りだしたのもこの力なのであります。いや、少彼女の熱望しているものを彼女にあたえ、夫の能力を高め、 なくともこれらの力が抑圧に関与したのであります。それ以夫の虚弱、なかんすくそのインポテンツを否認し訂正してお 上のことは、すべてまだわれわれにはわかっておりません。 ります。この症状は根本において願望の充足であることは、 われわれがその症状を立ち入って検討したさきの二つの症夢の場合とまったく変わりありません。しかも夢ではいつも 例において、分析によってこれらの患者の性生活の内奥の秘そうとはかぎらないのですが、彼女の症状は性愛的な願望の 密を教えられたことは、皆さんもおぼえておいでになりまし充足なのです。第二の娘の患者の場合には、その就眠儀礼は よう。第一の症例では、そのほかに検討された症状の意図な両親の性的な交わりを妨害しようとする、あるいはその交わ いしは意向をとくにはっきりと認めました。おそらく第二のりから新たに子供の生まれてくるのを阻止しようとするもの 症例においては、その意図ないし意向は、後にお話しするはずであることは、皆さんも少なくともお察しになれましたでし のある契機のために多少ともおおいかくされていたに違いあよう。またたぶん、その儀礼はとどのつまり自分自身を母親 りません。さて、われわれがこの両実例について見たと同じ の地位におこうとすることを目ざしていることも、おわかり ことを、われわれの分析する他のすべての例においても見る になったはずです。つまり、これまた性的な満足の妨害物を でしよう。そのつどいつも、われわれは分析によって患者のとりのそくことであり、自己の性的な願望を充足することで 性的体験ないしは願望にたどりつくでしようし、またいつもあります。そこに暗示されている複雑な関係については、い 決まってかれらの症状が同じ意図に奉仕していることを確認ずれそのうちにお話し申しあげるでありましよう。 せずにはいられないでしよう。この意図というのが性的な願 皆さん ! あとになってこれらの主張の普遍性に制限をつ 望の満足であることをわれわれは知らされるのであって、症けねばならぬような事態をあらかじめ防いでおきたいと思い 状は患者の性的な満足に奉仕しており、かれらが実生活におますので、わたしがここで抑圧、症状形成および症状解釈に いてこと欠いているこの性的な満足の代償物なのでありま関して申しあげることはすべて、不安ヒステリー、転換ヒス す。 テリーおよび強迫ノイローゼという三つの型のノイローゼか 第一の婦人患者の強迫行為を考えてみてください。この婦 らえたもので、さしすめまたこれらの三つの型のものにしか
望の充足ではありますが。検閲にかわって、不安があらわれしかしそれだからといって、必ずしも夢の本質が変わったわ インファンティル たのです。幼稚型の夢は許容された願望の公然たる充足けではありません。われわれは夢を、われわれの睡眠を妨害 から守ろうとする夜警または眠りの番人にたとえました。夜 であり、ゆがめられたふつうの夢は抑圧された願望の擬装さ れた充足だといえますが、他方不安な夢に対してはただ、そ警だって、眠っている人たちの目をさまさせることがありま れは抑圧せられた願望の公然たる充足であるという方式だけす。すなわち、妨害または危険を自分の力だけで追い払うに はあまりにも弱すぎると思う場合がそれです。それにもかか が成り立ちます。不安とは抑圧された願望が検閲よりももっ と強くあらわれたこと、抑圧された願望が検閲に抗してそのわらず、夢が重大な成行きを見せ、不安に向かいかけるとき でさえ、うまく眠りつづけられることも往々にしてあります。 願望充足を貫徹した、ないしはまさに貫徹せんとしつつあっ たということの徴候なのであります。抑圧された願望にとつわれわれは睡眠中に、どっちみち夢にすぎないのだとひとり て願望の充足であるものは、検閲する側に立っているわれわごとをいいながら眠りつづけます。 れにとってはただ苦痛な感覚をひきおこす因であり、それを 夢の願望が検閲を圧倒することができるのは、どんなとき でしようか。これに対する条件は、夢の願望の側からも、夢 防ごうとする因であるにすぎないということがわかってまい ります。そのさい夢のなかにあらわれる不安は、ふだんおさの検閲の側からも充たすことができます。願望は不明な理山 からいっか過大に強くなるかもしれませんが、しかし夢の検 えられていたこれらの願望の強さに対する不安であるといっ てもよろしいでしよう。なぜこの防禦が不安という形であら閲のしかたのほうにもっとしばしば力関係のこの移動の責任 があるという印象を受けます。検閲は場合場合によってそれ われるのかということは、夢の研究たけからでは推論するこ とはできません。不安は明らかにべつな個所で研究しなくてぞれ違った強さをもって働き、あらゆる要素をそれそれ程度 の違ったきびしさをもって取扱うことはすでにお話しいたし はなりません。 ゆがめられなかった不安な夢にあてはまることを、部分的ました。いまここに、検閲は一般にきわめてまちまちであ り、同一のいとうべき要素に対し必ずしもいつも同じきびし 門にゆがめられた不安の夢や、その苦痛な感じはたぶんほとん 析ど不安に近いものだと思われる不快の夢にも仮定してさしっさでのそむとはかぎらぬという仮定を付け加えたいと思いま 神かえありません。不安な夢は、ふつうまた目をさまさせる夢・す。そういうわけで、検閲は自分を奇襲しようとねらってい る夢の願望に対し、いっかは自らの無力をさとるという事態 でもあります。夢の抑圧された願望が、検閲に抗して完全に になったときに、ゆがみのかわりに、不安を呼びさまして睡 充足されないうちに、われわれは眠りを中断するのがつねで 眠状態を放棄するという自分に残された最後の手段を用いる あります。この場合には、夢の仕事は失敗したわけですが、
のであります。 理性的なことばは、この事態の安んずべきことを思わせま す。ですから、われわれはその夢を放任して眠りつづけるの そのさいどうも奇妙なのは、なぜこれらのよこしまな、い であります。 まわしい願望がほかでもない夜分にわいてきて、われわれの 眠りをさまたげるのかがじつはまだわれわれにかいもくわか 第三に、自分の願望に反抗する夢を見る者は、二人の別々 っていないということであります。それは結局睡眠状態の本な、しかしなんらかのしかたで密接に結びついた人物の合体 性によるものだという仮定を立てるよりほかには、なんとも になそらえられるという見方を思いおこされるなら、どうし 答えようがありません。日中には検閲の重い圧力がこれらの て願望の充足によってきわめて不快なこと、すなわち懲罰が 願望のうえにのしかかっていて、これらの願望がなんらかの おこなわれるのかといういま一つの可能性も理解できるとお 作用を発揮することが一般にできなくなるのです。夜分に考えになれましよう。ここでまたしても、三つの願望につい は、この検閲はおそらく心生活のその他すべての関心と同じてのあのお伽話を借りて説明することにいたします。皿のう 、眠りたいというただ一つの願望に都合のよいように停止えのローストしたソーセージは第一の人物、すなわちおかみ させられるか、あるいは少なくともその力ははなはだしく低 さんの直接の願望充足であり、おかみさんの鼻先にぶらさが ったソーセージは第二の人物、すなわち亭主の願望充足であ 下させられます。禁止された願望がふたたび活動できるの は、夜分に検閲力がこのように低下するおかげなのです。不 りますが、同時にそれはまたおかみさんの愚かしい願望に対 眠を訴える神経質の者で、この不眠は最初は自分で望んだもする懲罰でもあるのです。ノイローゼ患者のあいだに、われ のだったと告白する者があります。かれらは夢を見ることをわれはその場合、お伽話のなかにだけまだ残っている第三の おそれるために、つまり検閲力のこの低減の結果をおそれる願望の動機になっているものを見つけだすでしよう。ところ ために、安心して眠りこめないのであります。しかしだからで、このような懲罰の意向は人間の心生活のうちにはたくさ といって検閲のこの停止がひどい不注意を意味するものでな んあります。これはひじように強い意向であって、苦痛な夢 いことは、皆さんもたぶんたやすくご了解になりましよう。 の一部の責任はこの意向にあると考えてよろしいのです。お 冫いたって、自慢の願望充足もこうし 睡眠状態はわれわれの運動性を麻痺させます。われわれのよそらく、皆さんはこここ こしまな意図は、たとえそれがうごめきはじめても、それこ てもうほとんどあますところなく説明されたとおっしやるで そ実際にはなんの害もない夢を結ぶ以上にはでないのです。 しよう。でももっと仔細にごらんになれば、皆さんは自分た そして眠っている人がどっちみち夢にすぎないのだという、 ちの言の正しくないことをご承認なさるに違いありません。 あの夜には属しても決して夢の生活には属しない、きわめて後に引証されるような夢のいろいろ多様なありかたに対比し
ことをさしひかえたいと思います。なにしろ、一つの無意識 その人が企画と専門的知識とをもっていることもなきにしも でさえ、そんなものは絵空事だといってやつつけられている あらずですし、企業家自身が資本を所有していることだって あります。こういういいかたは実際の事態を単純化してくれのです。そこへ、二通りの無意識を考えてはじめて問題が解 ますが、しかしその事態の理論的な理解を困難にしてしまう決できるなどといいだしたら、はたしてなんといわれるかし でしよう。国民経済学では、いつでも一人の人を資本家と企れたものではありませんから。 ここで、いちおう話をうち切ることにいたします。いまま 業家の二つの面に分けて考え、こうしてわれわれの比喩の出 で皆さんがお聞きになったことは、ほんの不完全なことにす 発点となった基本の事態がふたたび作りだされるのです。夢 ぎませんでしたが、でもこの知識はひきつづきわれわれ自身 の形成の場合にも、それと同じ偏差が生じてまいりますが、 か、それともわれわれのあとにつづく人びとによって明らか それをこれ以上追及することは皆さんにおまかせするといた にされるであろうと考えれば、そこにまたおのずから希望が しましよう。 この問題においてこれ以上さきへすすむことはできませわくではありませんか。そして、われわれ自身にしても、十 ん。というのは、たぶんもうずっと前から、皆さんはある疑分驚くべき新事実を学び知ったではありませんでしようか。 惑に心をかきみだされておいでになったでしようからです。 第十五講諸種の疑点と批判 その疑惑に、ひとっ耳を傾けねばなりますまい。昼の名ごり は、実際に夢を作りあげる力をもっためには、そのうえに付 皆さん ! いよいよ夢の話をおわるにあたり、ぜがひでも け加わらねばならぬあの無意識的な願望と同じ意味で、実際 無意識なのであろうかという疑問ですが、皆さんの予感は正これまでにえた新事実と新見解とに関するごくありふれた疑 惑や疑点を論じておかなくてはなりません。皆さんのうちわ しいのです。ここにこそ、全問題の核心があるのですから。 たしの講義を注意深くお聞きになったおかたは、それに対す 昼の名ごりは、無意識的な願望と同じ意味において無意識な る若干の材料をご自分でお集めになられたことでありましょ のではありません。夢の願望のほうはある他の無意識、すな インファンプイル 析わちわれわれが特別なメカニズムをそなえた幼稚型のも C われわれの夢の解釈作業の諸結果は、いくら分析技法 神のに由来していると認めたあの無意識に所属しています。無 意識のこの両方式を別々の名称で相互に区別すれば、それはを正確に守っても、多くのあいまいな点を許しているため に、顕現夢を潜在思想に確実に翻訳する試みは結局は失敗に 一番適切であるに違いありません。しかしわれわれはやは り、ノイローゼという現象部門に精通するまでは、そうするおわるのではないかという印象を受けられたかもしれませ