知覚することができないと言うことによって、古代哲学が言 いうまでもなく、それは古代人の形面上学と手を切ること いあらわしているのは、まさにこのことである。けれども、 であったであろう。古代人は、決定的に知る唯一の方法しか もしわれわれが、変化する対象を、或る本質的な瞬間におい 認めなかった。彼らの科学は、散在的断片的な形而上学の て、すなわちその極点において、考察するならば、われわれ うちに存し、彼らの形而上学は、集中的体系的な科学のうち はこの対象がその知的形相に触れていると言うことができ に存するものであった。両者は、せいぜい、同じ類に属する る。この知的な、理想的な、いわば極限的な形相を、われわ二つの種であった。これに反して、われわれの仮説に立つな れの科学は独占する。しかも、こうして科学が金貨を所有すらば、科学と形而上学とは、相互補足的ではあるがたがいに るとき、科学は実質的には変化というこの小銭をにぎる。変相反する認識方法となるであろう。前者は、瞬間すなわち持 化は存在より以下のものである。変化を対象とする認識は、 続しないものをしかとらえないが、後者は、持続そのものを かりにありうるとしても、科学より以下のものであろう。 めざす。形而上学についてのかくも新しい考えかたと、伝統 けれども、時間のすべての瞬間を同位に置き、本質的な瞬的な考えかたとのあいだにあって、われわれが躊躇するのも 間とか、頂点とか、極点などを認めない一つの科学にとって当然であった。古代の科学のうえでこころみられたことを新 は、変化はもはや本質の減少ではなく、持続はもはや永遠性たな科学のうえでくり返したり、自然についてのわれわれの の冗漫になったものではない。 ここでは、時間の流れは実科学的認識が一挙に完成されたものであると想定したり、科 在そのものとなり、われわれの研究対象は流動する事物であ学的認識を完全に統一したり、ギリシア人がそうしたよう る。たしかに、流れる実在については、われわれはスナッ に、この統一に形而上学という名を与えたりしようとする誘 。フ写真をとるだけにとどまる。けれども、まさにそれゆえ惑は、大きいものであったにちがいない。それゆえ、哲学が に、科学的認識は、それを補足するいま一つの認識に訴えな切り開くことのできた新たな道とならんで、古い道も開かれ ければならないであろう。科学的認識についての古代の考えたままになっていた。物理学が進んだのはまさにこの道であ かたが、時間を、全永遠性から与えられる一つの形相の下落った。しかも、物理学が、時間から、やはり空間のなかに一 、こっこ挙に展開されうるものをしか、引きとどめておかなかったよ 退たらしめ、変化を、かかる形相の減少たらしめるにしナナ うに、この方向に進んだ形而上学は、必然的に、あたかも時 造のに反して、新たな考えかたを究極まで追求していたなら 創 間が何ものをも創造せず何ものをも消減させないかのごと ば、われわれは、時間のうちに、絶対者の前進的な成長を く、またあたかも持続が何らの効力ももたないかのごとく、 見、事物の進化のうちに、新たな形式の不断の創作を見るよ うになっていたであろう。 事を運ばなければならなかった。かかる形而上学は、近代人
細胞内の原形質の漸進的増大などをあげるであろう。けれど形成するもろもろの進化現象については、どうしたらそれら 1 も、そういう目に見える結果の背後に一つの内的な原因がかを数学的処理にゆだねることができるか、われわれにはかい くされている。生物の発達も、胚の発達も、持続がたえず登もく見当がっかない。それができないのは、ただわれわれの 録されることであり、過去が現在のなかに存続することであ無知に由来する、という人もあるだろう。しかし、それがで る。したがって、そこには、すくなくとも有機的記憶という きないということは、またこういうことを一小しているとも一一ⅱ ようなものがふくまれている。 える。すなわち、生体の現在の瞬間の在理山は直前の瞬間 只の物体の現在の状態は、もつばら、一瞬まえに起こったのなかに見いたされるものではない。その有機体の過去全 ことに依存する。科学によって規定され孤立させられた或る体、その遺伝、つまりきわめて長い歴史の総体をも、現在の 系内の、もろもろの質点の位置は、直前の瞬間における同じ瞬間に合体させなければならない。実のところ、生物学の現一 それらの質点の位置によって決定される。 いいかえれば、無状を、それどころかその方向をも示しているのは、上述の二 機物を支配する法則は、原理上、時間 ( 数学者が解する意味つの仮説のうち後者である。誰か超人間的な計算者の手にか での ) が独立変数の役目をするような微分方程式をもって表 かれば、生体さえも太陽系と同様に数学的処理にゆだねるこ わすことができる。生命の法則においても事情は同じであろとができるという考えについていえば、この考えは、ガリレ うか ? 或る生体の状態についての説明は、その直前の状態 イの物理学上の諸発見以来しだいに明確な形をとるにいたっ のなか冫 こあますところなく見いだされるであろうか ? もし た或る種の形而上学から徐々に生まれてきたものである。け 生体を他の自然物と同じに扱い、自説を擁護する必要から、 れども、あとでわかるように、 この形而上学はつねに人間精 化学者や物理学者や天文学者の研究する人為的な系と生体と神の自然的な形而上学であった。この形而上学は一見したと を同一視することを、ア・。フリオリに認めてかかるならば、 ころ明晰であり、われわれはそれを真理と見なそうとやっき そうであろう。けれども、天文学や物理学や化学においては、 になっているし、多数のすぐれた人々は証明なしに進んでそ 前述の命題のもつ意味はきわめて明確である。当の科学にとれを承認しているなど、要するにこの形而上学がわれわれの って重要な、現在の諸様相は、直前の過去の関数として計算思想に働きかける誘惑はいろいろである。しかしそれだけ に、われわれとしてはこの形而上学を警戒しなければならな することができる、ということをその命題は意味している。 生命の領域では、決してそういうことはない。 いであろう。この形而上学がわれわれにとって魅力をもっと ここで計算の 力が及ぶのは、せい。せい、或る種の有機的壊廃の現象に関し いうことは、そもそも、それがわれわれの生来の或る傾向を てである。反対に、有機的創造、つまり本来の意味で生命を満足させていることの十分な証拠である。けれども、あとで
263 創造的化 ナ求めた。意識は本能の側ではこの出口を見いださなかった し、知性の側でも、動物から人間への突然の飛躍によってし か到達されなかった。」したがって、最後の分析においては、 人間こそが、地球上における生命の有機的組織全体の存在理 由であるといえよう。けれども、これは一つの言いかたでし かないであろう。実際は、或る存在の流れと、それに対抗す る流れがあるにすぎない。そこから、あらゆる生命進化が出 てくる。そこで、これら二つの流れの対立を、もっと近よっ て考察しなければならない。そうすれば、おそらくわれわれ はその共通の源泉を発見することができよう。そのことによ って、われわれは形而上学の最も薄暗い領域にも、はいって いくことができるにちがいない。けれども、われわれがたど らなければならないこの二つの方向は、一方では知性のなか に、他方では本能と直観のなかに、はっきりと示されている から、われわれは道に迷うおそれはない。生命の進化を見わ たすならば、認識についての或る種の考えかたと、また或る 種の形而上学が、われわれに示唆されるであろう。この二つ は相互に含みあっている。この形而上学とこの批判は、それ らがひとたび明らかになるならば、こんどは、進化の総体に 何らかの光を投ずることができるであろう。
ような唯一の完全な科学を考える。一方にとっても、他方に の相互依存、心理状態にとっての大脳基体の必要を、われわ 3 とっても、真理もしくは実在は、永遠性のうちに全体的に与れに示してくれるが、それ以上のことは何も示さない。 えられていることになるであろう。両者はともに、つぎつぎの項がいま一つの項と連帯的であるからといって、両者のあ に自己を創造していくような実在の観念、すなわちまさに絶 いだに等価が成立するということにはならない。或る機械に 対的持続という観念を嫌悪する。 或るネジが必要だからといって、また、ネジをそのままにし さらに、科学から発したこの形而上学の結論が、一種の石ておけば機械は運転するが、ネジをはすせば機械がとまるか 投げによって科学の内部にまで跳ね返ってきたことは、容易らといって、ネジが機械の等価物だということにはならない に示されるであろう。われわれのいわゆる経験論にも、やは であろう。この対応が等価であるためには、ネジの一定部分 りそれが滲透している。物理学と化学は、惰性的物質をしか が機械のどこかの部分に対応するのでなければならないであ 研究しない。生物学は、それが生物を物理的、化学的にとりろうーーあたかも逐字訳において、章が章に、文が文に、語 あっかうかぎり、生物の惰性的な側面をしか考察しない。し が語に 一つ一つ対応するように。ところで、意識に対する たがって、機械論的説明は、その発達にもかかわらず、実在脳の関係は、それとはまったく別であるように思われる。心 的なものの一小部分をしか包括しない。実在的なものの全体理状態と大脳の状態とのあいだの等価という仮説は、われわ はこの種の諸要素に分解されるとか、あるいは少なくとも、 れが前の著作で立証しようとしたように、ただたんにまった 機械論は世界のなかに生起するものの完全な解釈を与えるこ くの不条理をふくむばかりでなく、偏見なしに事実をしらべ とができるなどと、ア・。フリオリに想定することは、或る種れば、一方と他方の関係は、まさに機械とネジの関係である の形而上学、すなわちスビノザやライ。フニツツのような人ことが指示されるように思われる。この二つの項のあいだの がその原理を立て、その帰結をひきだしたような形而上学を等価について語ることは、単にス。ヒノザ的もしくはライプニ かたわ 選ぶことである。なるほど、大脳の状態と心理的状態との厳ツツ的形而上学を片端にし、これをほとんど理解不可能なも 密な等価をみとめ、超人間的な知性ならば、意識のなかに何のにしてしまうことである。われわれは、拡がりの面ではこ の哲学をそのまま受けいれるが、思考の面ではその手足を切 が生じるかを脳のなかに読みとることができると考える心 り落とす。ス。ヒノザとともに、ライ。フニツッとともに、われ 理ー生理学者は、自分では、十七世紀の形而上学者たちから 遠く離れており、経験にきわめて近いものと信じている。そわれは物質の諸現象の統一的綜合が完成されたものと見て、 れにしても、ただたんなる経験は、そういうことについては何そこではすべてが機械的に説明されるであろうと考える。け も言ってくれない。経験は、身体的なものと精神的なものとれども、意識的事実については、われわれはもはやこの綜合
からそれに生気と生命を与えているものを取りのそくなら のリズムをはっきり分けることであって、このリズムにはま りこむことではない、 ば、また、もしわれわれがそれの骨組をしか引きとどめない と。哲学に提示されていた形而上学に ならば、われわれは、デカルト的機械論をとおしてプラトニ ついての二つの相反する考えかたは、以上のごとくである。 ひとびとが向かったのは、第一の道である。この選択の理スムやアリストテリスムをながめるときに得られるイマージ 由は、たしかに、映画的方法にしたがってやっていこうとすュを眼のまえに見ることになる。われわれは新たな物理学の る精神の傾向のなかにある。映画的方法は、われわれの知性体系的統合、古代の形而上学を範として構成された体系的統 合に直面することになる。 にとってきわめて自然的な方法であり、またわれわれの科学 事実、物理学の統一とは何でありえたであろうか ? この の要求にもよく適合しているので、形而上学においてこれを 放棄するには、精神の思弁的な無力を二重に痛感しなければ科学の生命たる理念は、宇宙のふところに、もろもろの質点 系を孤立させ、かくして一定の瞬間に質点のおのおのの位置 ならないほどである。けれども、古代哲学の影響も、やはり が知られるならば、あとで、いついかなる瞬間にもその質点 幾ぶんかはそこにあった。永遠に讃嘆さるべき芸術家たるギ リシア人たちは、感性的な美の典型とともに、超感性的な真の位置を計算しうるようにすることであった。さらに、 理の典型をも創造した。この魅力に抵抗することはむずかし規定された系は、科学の権限に属する唯一の系であるから、 またわれわれは或る系が必要な条件を満足させるか満足させ 。われわれが形而上学を科学の体系的統合たらしめようと するやいなや、われわれは。フラトンやアリストテレスの方向ないかをア・。フリオリに言うことができないのであるから、 いたるところで、あたかもこの条件が実現されるか にすべりこむ。しかも、ひとたびギリシアの哲学者たちの歩つねに、 のごとくに、やっていく方が有益であった。そこには、方法 な引力圏に足をふみいれると、われわれは彼らの軌道のなか 論的にまったく妥当な一つの規則があった。この規則はあま にリきいれられる。 りにも明白なので、ことさらそれを公式化するまでもないく ライプニツツの学説も、ス。ヒノザの学説も、そのようにし て形成された。われわれはこの二人の学説のうちに包含されらいであった。事実、たんなる良識ですら、われわれが有効 な研究手段をもっていながら、その適用可能の限界を知らな ている独創性の宝を無視するわけではない。ス。ヒノザもライ いときには、あたかもその適用可能が無限であるかのごとく 造プニツツも、その天オの創意と近代精神の成果にめぐまれた 自己の魂の内容を、自己の学説にそそぎいれた。両者のいずにおこなうべきであることを、われわれに教えてくれる。う まくいかなければ、いつでもこの規則をひっこめることが れにも、わけてもス。ヒノザのうちには、体系をぐらっかせる 直観的推進力がある。けれども、もしわれわれが二人の学説できる。けれども、哲学者にとっては、新しい科学のかかる
を重ねあわせるであろう。認識そのものの素材面について理間題を哲学のためにとっておいた人、また、最高裁判所が は、彼はそれを哲学の仕事でなく、科学の仕事とみなすであ重罪裁判所や上告裁判所の上位にあるように、哲学を諸科学 の上位に置こうとした人は、たんだんに、哲学をもはやたん ろう。 なる書記局でしかないものにしてしまうであろう。取消不能 けれども、言うところのこの分業が、すべてをかき乱し、 すべてを混同するにいたることを、どうして見ないでいられなものとして回ってくる判決文をいっそう正確な用語で文書 にするのが、せいぜい書記局の任務である。 ようか ? 哲学者が自分の仕事としてとっておく形而上学あ 事実、実証科学はたんなる知性の所産である。ところで、 るいは認識批判を、彼はすっかり出来あがった形で、実証科 学から受けとろうとしている。形而上学や認識批判はすでに知性についてのわれわれの考えかたを受けいれるにせよ、し りそけるにせよ、或る一点については、誰でもわれわれに同 記述や分析のうちに含まれているが、それについての配慮 を、哲学者はまったく科学者に委ねてきた。哲学者は、はじ意するであろう。知性は無機的物質の前ではとりわけ気楽な 気持でいられる、ということがそれである。知性は機械的発 めから事実問題には介入しようとしなかったために、原理問 題においては、実在に対する科学の態度そのもののうちにあ明によってこの物質をますますうまく利用する。知性が物質 らわれている無自覚、無定見な形而上学や認識批判を、たたを機械的に思考すればするほど、機械的発明は知性にとって それだけいっそう容易になる。知性は自然的論理の形で潜在 たんにいっそう明確な用語で定式化するだけにとどまってい る。自然の事物と人間的な事物とのあいだの見かけの類似に的な幾何学的傾向を身につけている。この傾向は、知性が惰 あざむかれないようにしよう。われわれはいま裁判の領域に性的物質の内部に入りこむにしたがって、いっそうはっきり いるのではない。裁判の領域では、事実の上に、事実とは独してくる。知性はこの物質と調子が合っている。そういうわ ュ / ・刀しに、刀 立に、立法者によって制定された一つの法が存在するというけで、只の物質に関する物理学と形而上学とは、こ : 、 くも接近している。そこで、知性が生命の研究に着手すると ただそれだけの理由で、事実の記述と事実についての判断と きにも、知性は、必然的に生物を無生物としてとり扱い、こ は二つの別のことがらである。けれども、ここでは、法則 は、事実に対して内的であり、われわれが実在を個々の事実の新しい対象に、さきのときと同じ形式を当てはめ、この新 に切断するために、辿ってきた方向に対して、相関的であしい領域のなかに、さきの領域で成功を収めたのと同じ習慣 る。対象の内的な性質やその組織についてあらかじめ判断すを持ちこむ。知性がそうするのも、無理はない。な。せなら、 ることなしには、対象の外観を記述することはできない。形そういう条件においてのみ、生物は府性的物質のときと同し 式はもはや素材から完全には切り離されえない。はじめに原手がかりをわれわれの行動に提供してくれるであろうからで
五年長生きして一九四六年に没した。 一八九五年七月三十日「良識と古典研究」と題して講 演。 一八九六年『物質と記憶』をパリのアルカンから刊行。 一八九七年レヴェーク教授の代講として、コレージュ・ ド・フランスで講義をする。講義題目「プ ロチノスの心理学」「エネアデス第四巻」 一八九八年ポール・ジャネの後任としてソルポンヌの 教職に立候補するが、容れられない。二月 二十四日にエコール・ノルマル・シュペリ ゥールの講師に任命される。父ミシェル、 ロンドンで没す。 一八九九年『笑い』を『パリ評論』に発表する。翌年、 アルカンから刊行。 一九〇〇年五月十七日、レヴェーク教授の後任として、 コレージュ・ド・フランスの教授に任命さ れ、ギリシア・ローマの哲学を担当する。 一九〇一年コレージュ・ド・フランスにおける講義題 目「アフロディシアスのアレクサンドロス の運命論について」「原因の観念について」 ( 一九〇〇ー〇一 ) 。三月一一十六日、心理学 会で「夢ーと題して講演する。五月一一日、 哲学会で「心身平行論と実証的形而上学」 と題して講演する。十一一月十四日、道徳・ 政治科学アカデミーの会員に選ばれる。 一九〇一一年講義題目「プロチ / スのエネアデス第六巻 第九章」「時間観念の分析」 ( 一九〇一ー〇 一 I)O 「知的努力」を『哲学評論』に発表す る。七月二十二日、レジョン・ドヌール五 等勲章を授与される。哲学会で「中等教育 における哲学の位置と性格についての考 案」を発表する。 一九〇三年講義題目「アリストテレスの自然学第二 巻」「諸体系との関係における時間観念の 歴史ー ( 一九〇一一ー〇三 ) 。「形而上学入門」 を『ルヴュ・ド・メタフィジック・エ・ モラール』一月号に発表する。これはのち に『思想と動くもの』に収録される。六月 二十五日、哲学会で「クルノーの社会哲学 についての考察」を発表する。 一九〇四年講義題目「記憶についての諸理論の発展」 「アリストテレスの形而上学第十一巻」 ( 一 九〇三ー〇四 ) 。二月一一十七日、道徳・政 治科学アカデミーで「フェリックス・ラヴ ェッソンーモリアン氏の生涯と業績ーを講 演する。九月、ジュネーヴにおける国際哲 学会議で「心身平行論」を発表する。これ はのちに『精神のエネルギ 1 』に収録され る。ガ・フリエル・タルドの後任として現代 哲学の講座を担当することに決定する。哲
326 。けれども、 A ⅱ A のような論理的原理がみずから自己を スを満たしている液体は、やはり一つの空虚を満たすもので 創造する力をもっていて、永遠に無にうちかっということ ある。同様に、存在はつねにそこにあったかもしれないが、 は、私には自然であるように思われる。黒板の上にチョーク 存在によって満たされ、いわば存在を詰めこまれている無 は、事実上はともかく、少なくとも権利上では、やはり存在で描いてできる円は、説明を要することがらである。このま に先在する。要するに、充実は空虚というカンヴァスにほ ったく物理的な存在は、それ自身では、非存在にうちかつだ どこされた刺繍であり、存在は無のうえに重ねられたものけのものをもっていない。けれども、円の《論理的本質》、 であり、〈何ものもない》 rien という表象は《何ものか》すなわち或る一つの法則にしたがって円を描く可能性、要す quelque chose という表象よりも、内容がと・ほしいという考るに円の定義は、私にとって永遠的なものと思われる。円の えを、私はどうしても払いのけることができない。そこから定義には、場所も日付けもない。なぜなら、円を描くこと あらゆる神秘が由来する。 は、いつ、どこで、はじめて可能になったというようなもの とりわけ、もではないからである。そこで、すべての事物の根底になって この神秘が明らかにされなければならない。 いる原理、すべての事物にあらわれている原理は、円の定義 しわれわれが事物の根底に持続と自由な選択を置くならば、 ぜひともそれが明らかにされなければならない。思うに、持や A Ⅱ A という公理と同じ性質の存在をもっと想定してみよ 続的なあらゆる実在に対する形而上学の軽蔑は、まさに形而う。そうすれば、存在の神秘は消失する。なぜならあらゆる ものの根底にある存在は、論理そのものと同じく、永遠のな 上学が《無》を経過することによってしか存在に到達しない ところから、また、形而上学にと 0 て、持続的な存在が非存かに定立されることになるからである。も 0 とも、そのため 力なり大きな犠牲を払わなければならない。もしすべ 在にうちかって自己を立てうるほど十分に強いものと思われには、、 ないところから来る。形而上学が、真の実在に論理的な存在ての事物の原理が、論理学の公理や数学の定義のようなしか たで存在するならば、事物そのものは、或る公理の適用もし を与えるが、心理的もしくは物理的な存在を与えようとし くは或る定義の帰結と同様、かかる原理から出てくるはずで ないのは、わけてもそういう理由からである。なぜなら、 純論理的な存在は、その本性上、それだけで自足しているあり、自由な選択という意味での動力因の余地は、事物のう ちにも、その原理のうちにも、もはや存在しないであろう。 ように見えるからであり、真理に内在する力の働きだけで たとえばス。ヒノザやライプニツツに見られるような学説の結 自己を立てるように見えるからである。何ものも存在しな 論は、まさにそのようなものであり、そのようにして生じた いのではなくて、むしろ身体や精神が存在するのは何ゆえ ものである。 か、と私が自問しても、私は答えを見いだすことができな
の範疇を決定するだけではもはや十分でない。問題なのは、 鎖の両端をつかんでいる。途中の環は、どうしてもわれわれ それらの範疇を発生させることである。空間に関していえ の手からのがれるのだろうか ? われわれの定義するような ば、空間外のものが空間性にまで下落するときの進歩あるい 哲学は、まだ自己自身を完全に意識していなかったのだと考 はむしろ退歩を、精神の独自の努力によって、追求しなけれえられなければならない。物理学が物質を空間性の方向にお ばならないであろう。われわれがはじめに自己自身の意識のしすすめるとき、物理学は自己の役目を理解している。けれ なかのできるだけ高いところに身を置き、ついで徐々に自己ども、形而上学がそれと同じ方向をさらに遠くまで行こうと を下降させてみると、われわれは、われわれの自我が、活動 いう空想的な希望をいだいて、ただひたすら物理学に追随す 的で不可分な意欲として緊張することをやめ、相互に外的でるならば、形而上学は自己の役目を理解していたといえるで 惰性的な思い出となって拡がっていくのを感じる。けれどあろうか ? 形而上学の本来のっとめは、反対に、物理学が も、それは一つのはじめでしかない。われわれの意識は、こ くだった坂を、ふたたびの・ほることではないであろうか ? の運動を素描することによって、その方向をわれわれに示物質をその根原にまで連れもどし、いわば向きを変えた心理 し、この運動が最後まで続けられうるものであることを、わ学ともいうべき一つの宇宙論を、漸進的に築きあげることで れわれに暗示してくれる。意識はそんなに遠くまで行かな はなかろうか ? 物理学者や幾何学者にとって実証的と見え い。これに反して、われわれがはじめ空間と一致しているよ るすべてのものは、この新たな観点からすれば、真の実証性 の中断もしくは転倒であるということになるであろう。かか うにみえる物質を考察するならば、われわれは、われわれの る真の実証性は、心理学的な用語で規定されなければならな 注意を物質のうえに集中すればするほど、さきに並列してい いであろう。 るように思われた諸部分が、ますますたがいに滲透しあい そのおのおのが全体の作用を受け、したがって全体が部分に たしかに、われわれが、数学の驚嘆すべき秩序、その研究 いわば現前していることを見いだす。それゆえ、物質が空間する諸対象の完全な調和、数や図形に内在する論理、同じ主 の方向に自己をくりひろげるにしても、物質は完全に空間に題についてのわれわれの推理がいかに多様で複雑であって も、つねに同じ結論に達するというわれわれの確信などを、 進到達するわけではない。そこからして、こう結論することが 造できる。意識はこの運動をその発端においてわれわれのうち考慮にいれるならば、われわれは、かくも実証的な外観をも っ諸特性のうちに、非実証的な体系を、 いいかえれば真の実 倉一に素描することができたのであるが、物質はこの運動を、は 四るかに遠くまで続けるだけである。それゆえ、われわれは途在の現存よりもむしろその不在と見ることには、躊躇を感じ 中の環の一つ一つをとらえるところまでいかないにしても、 るであろう。けれども、忘れてならないことであるが、かか
ある。けれども、かくして到達される真理は、すべてわれわ は、自然の統一を、あるいは結局同じことになるが、知識の れの行動能力に依存することになる。それはもはや一つの象統一を、何も為さないがゆえに何ものでもないような一つの 徴的な真理でしかない。かかる真理は、外観だけしか見ない 存在として、与えられたすべてのものをたんに自己のうちに ようにア・。フリオリにきめられている対象にまで、物理学を包括するような或る無能な神として、あるいは、そのふとこ 拡張したものでしかないから、物理学的な真理と同じ価値をろから事物の特性や自然の法則がことごとく流出してくるよ もっことはできない。したがって、哲学の義務は、もともと うな一つの永遠な質料として、あるいはまた、捉えがたい多 知性的な形式や習慣から自己を解放して、積極的にここへは様性を捉えようとして、思いのままに自然の形相ともなれば いっていき、実用などという下心なしに生物を検討すること 思考の形相ともなるような、一つの純粋形相として、実体化 であろう。哲学の目的は、観想すること、すなわち、見るこすることができよう。すべてこれらの哲学は、ことばこそ違 とである。生物に対する哲学の態度は、科学の態度と同じで え、科学が生物を無生物としてとりあっかうのは当然である はありえないであろう。科学は働きかけることしかめざさな ということ、また、知性が惰性的物質のうちにとどまってい い。科学は惰性的物質を介してしか働きかけることができな ようと、生命に挑みかかろうと、知性がその諸範疇を適用し いから、実在の爾余の部分をも、この唯一の相のもとに考察て到達する諸結果のあいだには、何ら価値上の差異もなく何 する。哲学が物理学的な諸事実を実証科学に委ねたのは当然らの区別も立てられないということを、言おうとしているの であるとしても、生物学的な諸事実や心理学的な諸事実をまである。 でも、実証科学に任せきりにするならば、いったいどういうこ それにしても、たいていの場合、枠がきしむのが感じられ とになるであろうか ? 哲学は、自然全体についての機械的る。しかし、無生物は、はめこまれる枠に、もともと適応し な考えかた、物質的要求から生じる無反省でしかも無自覚な ているが、生物は、その本質的なものを除去するような或る 考え方を、ア・。フリオリに受けいれることになるであろう。 慣例によってでなければ、この枠にはまらないのに、われわ 哲学は、認識のたんなる統・一とか、自然の抽象的統一というれははじめにこの両者を区別してかからなかったので、つい にはこの枠に含まれるすべてのものを、ひとしく疑惑の眼で 学説を、ア・。フリオリに受けいれることになるであろう。 そうなると、哲学は出来あがったものである。哲学者は、 見なければならなくなる。形而上学的独断論は科学の人為的 創形而上学的独断論か形而上学的懐疑論の、い・ すれかを選ぶよ統一を絶対的なものに祭りあげたが、こんどはそのあとに、 1 りほかにみちがない。 この二つは、実は、同じ仮説のうえに懐疑論や相対論が出て来て、科学的成果の一部がもつ人為的 立っており、実証科学に何ら寄与するところがない。哲学者な性格を、科学のすべての成果にまで普遍化し、拡張するで