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検索対象: 世界の大思想31 ベルグソン
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1. 世界の大思想31 ベルグソン

127 時間と自由 訳注 第一章 1 ( 一三頁 ) Herbert Spencer ( 1820 ー 1903 ) イギリスの哲学 者、進化論にもとづきペーコン以来のイギリス経験論を総括する 総合哲学を建設、生物・心理・社会・倫理の諸現象に進化の原理 を適用した。 2 ( 一六頁 ) La Rochefoucauld ( 1813 ー 30 ) 十七世紀フラン スのモラリスト。その著「マキシム」は、ペシミスティックなが ら、痛烈な諷刺と鋭い人間観察として知られる。 3 ( 一七頁 ) Alexander Bain ( 1818 ー 1903 ) イギリスの心理 ミルとと 学者、哲学者。心理学を独立の分野として分離させた。 もに連想心理学の代表者として知られる。 4 ( 一七頁 ) WilheIm Max Wundt ( 1832 ー 1920 ) ドイツの心 理学者、哲学者。生理学より生理学的心理学の研究にすすみ、科 学としての心理学を樹立した。その著『生理学的心理学綱要』は 科学としての心理学の出発点をなす。かれの実験心理学は意識を 研究の対象とするものであり、かれによれば、意識は要素的心理 的過程の統合体であり、心理学はこの統合体を要素過程に分析 し、その結合を支配する法則を探究することにある。 5 ( 一七頁 ) William James ( 1842 ー 1910 ) アメリカの哲学 者、心理学者。プラグマティズムの建設者。心理学では具体的意 識を把握する内省的方法をとり、連想心理学に反対して機能心理 学を主張した。 6 ( 一八頁 ) Alfred Vulpian ( 1825 ー 1887 ) フランスの医学 者。 7 ( 一八頁 ) Sir David Ferrier ( 1843 ー 1928 ) イギリスの生 理学者、医学者。 8 ( 一八頁 ) Hermann Helmh01tz ( 1821 ー 94 ) ドイツの物理 学者、心理学者。 9 (IIO 頁 ) ThéoduIe Armand RibOt ( 1839 ー 1916 ) フラン スの心理学者、フランスにおける現代の科学的心理学の祖といわ れる。 (IIO 頁 ) Gustave Theodor Fechner ( 1801 ー 87 ) ドイツ の哲学者、物理学者、心理学者、精神物理学の祖とされている。 ( 三一頁 ) Joseph Rémy Lé01)01d Delbæuf ( 1831 ー 96 ) ペ ルギーの哲学者、心理学者。論理学の数学的処理および催眠術研 究によって知られる。 貶 ( 三一頁 ) Alfred Georg Ludwig Lehmann ( 1858 ー 1921 ) デンマークの心理学者、ヴントの門下。心理現象をエネルギーの 特別な場合にほかならぬものとした。 ( 三三頁 ) Joseph PIateau ( 1801 ー 83 ) ベルギーの物理学 者。 ( 三五頁 ) Wilhelm Eduard Weber ( 1804 ー 91 ) ドイツの 物理学者、遠隔作用に基づく電磁気作用の開拓者。 ( 四 0 頁 ) 常識学派ともよばれる。ロック、ヒュームを祖と する連想 ( 念連合 ) 学派に対立するイギリス哲学の一派。経験 心理学的な点では前者と同じだが、常識を究極原理とする点でこ となる。 ( 四一頁 ) 「足の速いアキレスも足の遅い亀に追いつけない」 とか、「飛ぶ矢は静止している」などといったもの。 第二章

2. 世界の大思想31 ベルグソン

ニズムによって、自己を支えようとするのは、当然と思われ からである。われわれの内的生活は、たしかにある程度まで る。つまり、このメカニズムがこの決定論に幾何学的性格をは、まだわれわれに依存するであろうが、外部に位置した観 与えるのであり、こうした作用は、全体として、心理学的決察者にとっては、われわれの活動を、絶対的な自動機械と区 定論と物理学的機械論とに有利に働き、心理学的決定論はい 別するものはなにもないに違いない。したがって、次のよう っそう厳密なものとなってそこから出てこようし、物理学的 に自問することが大切である。すなわち、エネルギー恒存の 決定論は、普遍的なものとなろう。この二つの接近には、一原理を自然のすべての物体に拡張することは、それ自体なん らかの心理学的理論を含んでいないかどうか。また、人間の つの好都合な事情が幸いしている。実際、もっとも単純な心 ア・・フ屮オリ 理的事実は、はっきり規定された物理現象の上に自ら位置づ自由に反対するようななんの先入見も先験的にもっていない けにやってくる。そして、大部分の感覚は、ある一定の分子人ならば、このような原理を普遍的法則としてうち立てよう 運動と結びついているように見える。われわれの意識状態が となど、果たして考えるかどうか、と。 それの生まれるさまざまな事情によって必然的に決定される エネルギ 1 ・恒存の原理が自然科学の歴史の中で果たした役 ことを、心理学上の理由からすでにみとめている人にとっ 割を、過大視してはなるまい。その原理は、それが現在とっ て、経験的証明のこのような端緒だけで十分こと足りるので ているかたちのもとでは、ある種の科学の一つの発達段階を ある。このような人は、それから後は、もはや躊躇すること なく、意識の舞台上で演じられる劇は、有機物質の分子や原示すものではあるが、この発達に重要な役割を演じたわけで はなかったし、これをもって一切の科学的探究に不可欠な要 子が演ずるある場面を、常に逐語的に、忠実に翻訳するもの た、と見なしてしまう。このようにして、人々が到達する物請とするのは、誤りであろう。たしかに、ある一定の量につ とんな仕方でその量を分解す いて行なわれる数学的演算は、・ 理学的決定論は、自然科学に訴えて自己を検証し、自分自身 るにせよ、演算の過程をとおして、この量が変わらないでい の輪郭をはっきり決めようとする心理学的決定論にほかなら ることを、内容として含んでいる。言いかえれば、与えられ 由 ているものは与えられているのだし、与えられていないも とはいえ、エネルギー恒存の原理が厳密に適用された後で のは与えられていないわけで、同じ諸項の総和をどんな順序 とは、われわれに残される自由の部分がかなり制限されること でつくったところで、同一の結果が見出されるであろう。科 嚇も、たしかに認めなければならない。と言うのは、たとえこ 学は永遠にこの法則に、つまり、ほかならぬ矛盾律に従うこ の法則は、われわれの思想の歩みに必ずしも影響を与えない とになろうが、この法則は、与えられるべきもの、不変のま としても、少なくとも、われわれの運動は決定するであろう

3. 世界の大思想31 ベルグソン

326 。けれども、 A ⅱ A のような論理的原理がみずから自己を スを満たしている液体は、やはり一つの空虚を満たすもので 創造する力をもっていて、永遠に無にうちかっということ ある。同様に、存在はつねにそこにあったかもしれないが、 は、私には自然であるように思われる。黒板の上にチョーク 存在によって満たされ、いわば存在を詰めこまれている無 は、事実上はともかく、少なくとも権利上では、やはり存在で描いてできる円は、説明を要することがらである。このま に先在する。要するに、充実は空虚というカンヴァスにほ ったく物理的な存在は、それ自身では、非存在にうちかつだ どこされた刺繍であり、存在は無のうえに重ねられたものけのものをもっていない。けれども、円の《論理的本質》、 であり、〈何ものもない》 rien という表象は《何ものか》すなわち或る一つの法則にしたがって円を描く可能性、要す quelque chose という表象よりも、内容がと・ほしいという考るに円の定義は、私にとって永遠的なものと思われる。円の えを、私はどうしても払いのけることができない。そこから定義には、場所も日付けもない。なぜなら、円を描くこと あらゆる神秘が由来する。 は、いつ、どこで、はじめて可能になったというようなもの とりわけ、もではないからである。そこで、すべての事物の根底になって この神秘が明らかにされなければならない。 いる原理、すべての事物にあらわれている原理は、円の定義 しわれわれが事物の根底に持続と自由な選択を置くならば、 ぜひともそれが明らかにされなければならない。思うに、持や A Ⅱ A という公理と同じ性質の存在をもっと想定してみよ 続的なあらゆる実在に対する形而上学の軽蔑は、まさに形而う。そうすれば、存在の神秘は消失する。なぜならあらゆる ものの根底にある存在は、論理そのものと同じく、永遠のな 上学が《無》を経過することによってしか存在に到達しない ところから、また、形而上学にと 0 て、持続的な存在が非存かに定立されることになるからである。も 0 とも、そのため 力なり大きな犠牲を払わなければならない。もしすべ 在にうちかって自己を立てうるほど十分に強いものと思われには、、 ないところから来る。形而上学が、真の実在に論理的な存在ての事物の原理が、論理学の公理や数学の定義のようなしか たで存在するならば、事物そのものは、或る公理の適用もし を与えるが、心理的もしくは物理的な存在を与えようとし くは或る定義の帰結と同様、かかる原理から出てくるはずで ないのは、わけてもそういう理由からである。なぜなら、 純論理的な存在は、その本性上、それだけで自足しているあり、自由な選択という意味での動力因の余地は、事物のう ちにも、その原理のうちにも、もはや存在しないであろう。 ように見えるからであり、真理に内在する力の働きだけで たとえばス。ヒノザやライプニツツに見られるような学説の結 自己を立てるように見えるからである。何ものも存在しな 論は、まさにそのようなものであり、そのようにして生じた いのではなくて、むしろ身体や精神が存在するのは何ゆえ ものである。 か、と私が自問しても、私は答えを見いだすことができな

4. 世界の大思想31 ベルグソン

たびこの途に入りこめば、どうしても、エネルギー恒存の原を含んでいる。そこでは、現在の意識状態が、先立つ意識状 理を普遍的法則としてうち立てざるをえなくなることを、確態によって必然的に規定されたものとして表象されるが、し 認するにとどめよう。それというのも、まさしく、注意深く かしここには、たとえば構成要素をなす諸運動に一つの合カ 吟味すればわかるような外界と内的世界との根本的差異を、 を結びつけるような、幾何学的必然性といったものは全然な 捨象しているからである。つまり、真の持続を、外見上の持 、ということもよくわかっている。なぜなら、相継起する さまざまな意識状態の間には、質の相違が存在し、その結 続と同一視しているからである。そうなったからには、時間 ア・デリオリ を、われわれの時間さえ、プラスやマイナスの原因として、 果、それらの状態の一つをそれに先立っ諸状態から先験的に 具体的現実として、それなりの力として、考えることが、不演繹することま、、 。しつでも失敗するであろうからである。 条理になろう。それゆえ、自由についてのあらゆる仮説を捨そこで、人々は経験に訴え、一つの心理状態から他の状態へ て去ってしまえば、エネルギー恒存の法則は、心理的事実が の移行がいつでもなにか簡単な理由によって説明され、第二 これを確認するまでは、物理現象を支配すると言われるにとの状態が第一の状態の招きに応じていることを、示すように どまるのに、この命題を無限に通りこして、ある形而上学的経験に要求する。事実、経験は、それを明示しているし、わ 先入見の影響のもとに、カの恒存の原理は、心理的事実がこれわれにしたところで、現在の状態と、意識の移り行く新し れを誤りとしないかぎり、現象の全体に適用される、とまで い状態との間に関係があることを、難なく認めるであろう。 言うに至るのである。したがって、ここでは、本来の意味で だが、この移行を説明する関係は、はたして移行の原因であ の科学はなんら問題とならない。われわれの直面するのは、 ろうか。 われわれが根本的に違ったものと考える二つの持続の観念 ここで、一つの個人的な観察をもち出すのを許していただ を、勝手に同一視することである。要するに、自称物理的決きたい。しばし中絶していた会話をふたたびはじめたとき、 定論は、結局のところ心理的決定論に還元されるわけで、一 会話の相手もわたしも同時にある新しい話題のことを考えて 番最初にのべたように、検討する必要があるのは、まさにこ いるのに気づいたことがあった。 それは、一一人とも、会 の学説なのである。 話がそこで止まった観念を、各々自然に発展させていたから で、連想の同一の系列がそれそれ別々に形成されていたわけ 心理的決定論 だ、と人は言うかも知れない。 われわれは、かなり多く 心理的決定論は、そのもっとも正確な、そしてもっとも新の場合に対してこのような解釈を採用することを躊躇するも -,9AJ では、挫明神に関、亠丿 よよい。 1 )

5. 世界の大思想31 ベルグソン

を見たと思いこむ。そこでかれは、事実を絶対的現実としわれわれの一人一人は、それそれの自由な自発性につして て、法則を、この現実の多かれ少なかれ記号的な表現とし現実的なものにせよ錯覚的なものにせよ、直接的な感情をも て、うち立てる。反対に、機械論は、個別的事実のうちにあっていて、惰性の観念は、この表象のなかに、どんなものと る一定数の法則を見分け、個別的事実はそれらの法則のいわしても人ってこない。ところが、物質の惰性を定義するとな げ交又点と考える。この仮説にあって、根本的な現実となる ると、物質は自分から動くことも停止することもできず、あ のは、法則にほかならない。 ところで、なぜ前者が事実らゆる物体は、なんらの力も干渉しないかぎり、静止あるい を、後者が法則を、高次の現実とするか、追求してみると、 は運動を続ける、と言われよう。つまり、いずれの場合も、 サンゾリシテ 機械論とカ本説とでは、単純という言葉がきわめて違った一一必然的に活動性の観念に訴えざるをえない。以上のようなさ つの意味に理解されていることがわかるだろう。前者にとっ まざまな考察から、われわれは、具体と抽象、単純と複雑、 ては、単純なのは、その結果が予見され、計算されさえする事実と法則といった関係を理解する仕方に応じて、なぜ先験 ような、あらゆる原理である。こうして、定義そのものによ的に人々が人間の活動について相対立する二つの考え方をと り、惰性の観念の方が自由の観念よりもいっそう単純なこと るに至るかを、理解することができる。 ア・ポステリオリ になり、等質的なものは異質的なものより、抽象的なものは とはいえ、後験的には、はっきりした事実が自由の反証と 具体的なものより、 いっそう単純なことになる。だが、カ本してもち出される。その事実の或るものは物理的なものであ 説の方は、諸観念の間にもっとも好都合な秩序をうち立てよ り、他のものは心理学的なものである。ある場合には、われ うとするよりも、むしろ、それらの間に現実的な脈絡を見出われの行動は、感情、観念、以前の意識状態の全系列などに . そうとする。事実、自称単純な観念ーー・機械論者が原始的な よって必然的に規定される、と主張されもするし、また、あ ものとしている観念ーーは、しばしば、そこから派生したか る場合には、自由というものは、物質の根本的特性、とりわ にみえる多くのいっそう豊かな諸観念の融合によってえられけエネルギー恒存の原理と相容れないものだとして、しりそ ている。そして、これらの観念は、闇が二つの光の干渉からけられもする。そこから二種類の決定論、普遍的必然性につ 由生ずるように、 この融合そのもののなかで相互に中和し合う いて外見上異なった二つの経験的証明が出てくる。これから 自 スポンタネイテ 琵のである。この新しい観点から眺めると、自発性の観念の方われわれが示そうとすることは、この二つの形式の第二のも 時が惰性の観念よりも、文句なしに、い っそう単純である。な のは第一のものに帰着すること、あらゆる決定論は、物理的 ぜなら、後者は、前者によってのみ理解もされ、定義づけら なものであっても、心理的な仮説を含んでいるということ、 れもするのに、前者は自己充足的であるからである。事実、 である。そこでわれわれは、心理的決定論そのものも、それ

6. 世界の大思想31 ベルグソン

細胞内の原形質の漸進的増大などをあげるであろう。けれど形成するもろもろの進化現象については、どうしたらそれら 1 も、そういう目に見える結果の背後に一つの内的な原因がかを数学的処理にゆだねることができるか、われわれにはかい くされている。生物の発達も、胚の発達も、持続がたえず登もく見当がっかない。それができないのは、ただわれわれの 録されることであり、過去が現在のなかに存続することであ無知に由来する、という人もあるだろう。しかし、それがで る。したがって、そこには、すくなくとも有機的記憶という きないということは、またこういうことを一小しているとも一一ⅱ ようなものがふくまれている。 える。すなわち、生体の現在の瞬間の在理山は直前の瞬間 只の物体の現在の状態は、もつばら、一瞬まえに起こったのなかに見いたされるものではない。その有機体の過去全 ことに依存する。科学によって規定され孤立させられた或る体、その遺伝、つまりきわめて長い歴史の総体をも、現在の 系内の、もろもろの質点の位置は、直前の瞬間における同じ瞬間に合体させなければならない。実のところ、生物学の現一 それらの質点の位置によって決定される。 いいかえれば、無状を、それどころかその方向をも示しているのは、上述の二 機物を支配する法則は、原理上、時間 ( 数学者が解する意味つの仮説のうち後者である。誰か超人間的な計算者の手にか での ) が独立変数の役目をするような微分方程式をもって表 かれば、生体さえも太陽系と同様に数学的処理にゆだねるこ わすことができる。生命の法則においても事情は同じであろとができるという考えについていえば、この考えは、ガリレ うか ? 或る生体の状態についての説明は、その直前の状態 イの物理学上の諸発見以来しだいに明確な形をとるにいたっ のなか冫 こあますところなく見いだされるであろうか ? もし た或る種の形而上学から徐々に生まれてきたものである。け 生体を他の自然物と同じに扱い、自説を擁護する必要から、 れども、あとでわかるように、 この形而上学はつねに人間精 化学者や物理学者や天文学者の研究する人為的な系と生体と神の自然的な形而上学であった。この形而上学は一見したと を同一視することを、ア・。フリオリに認めてかかるならば、 ころ明晰であり、われわれはそれを真理と見なそうとやっき そうであろう。けれども、天文学や物理学や化学においては、 になっているし、多数のすぐれた人々は証明なしに進んでそ 前述の命題のもつ意味はきわめて明確である。当の科学にとれを承認しているなど、要するにこの形而上学がわれわれの って重要な、現在の諸様相は、直前の過去の関数として計算思想に働きかける誘惑はいろいろである。しかしそれだけ に、われわれとしてはこの形而上学を警戒しなければならな することができる、ということをその命題は意味している。 生命の領域では、決してそういうことはない。 いであろう。この形而上学がわれわれにとって魅力をもっと ここで計算の 力が及ぶのは、せい。せい、或る種の有機的壊廃の現象に関し いうことは、そもそも、それがわれわれの生来の或る傾向を てである。反対に、有機的創造、つまり本来の意味で生命を満足させていることの十分な証拠である。けれども、あとで

7. 世界の大思想31 ベルグソン

の範疇を決定するだけではもはや十分でない。問題なのは、 鎖の両端をつかんでいる。途中の環は、どうしてもわれわれ それらの範疇を発生させることである。空間に関していえ の手からのがれるのだろうか ? われわれの定義するような ば、空間外のものが空間性にまで下落するときの進歩あるい 哲学は、まだ自己自身を完全に意識していなかったのだと考 はむしろ退歩を、精神の独自の努力によって、追求しなけれえられなければならない。物理学が物質を空間性の方向にお ばならないであろう。われわれがはじめに自己自身の意識のしすすめるとき、物理学は自己の役目を理解している。けれ なかのできるだけ高いところに身を置き、ついで徐々に自己ども、形而上学がそれと同じ方向をさらに遠くまで行こうと を下降させてみると、われわれは、われわれの自我が、活動 いう空想的な希望をいだいて、ただひたすら物理学に追随す 的で不可分な意欲として緊張することをやめ、相互に外的でるならば、形而上学は自己の役目を理解していたといえるで 惰性的な思い出となって拡がっていくのを感じる。けれどあろうか ? 形而上学の本来のっとめは、反対に、物理学が も、それは一つのはじめでしかない。われわれの意識は、こ くだった坂を、ふたたびの・ほることではないであろうか ? の運動を素描することによって、その方向をわれわれに示物質をその根原にまで連れもどし、いわば向きを変えた心理 し、この運動が最後まで続けられうるものであることを、わ学ともいうべき一つの宇宙論を、漸進的に築きあげることで れわれに暗示してくれる。意識はそんなに遠くまで行かな はなかろうか ? 物理学者や幾何学者にとって実証的と見え い。これに反して、われわれがはじめ空間と一致しているよ るすべてのものは、この新たな観点からすれば、真の実証性 の中断もしくは転倒であるということになるであろう。かか うにみえる物質を考察するならば、われわれは、われわれの る真の実証性は、心理学的な用語で規定されなければならな 注意を物質のうえに集中すればするほど、さきに並列してい いであろう。 るように思われた諸部分が、ますますたがいに滲透しあい そのおのおのが全体の作用を受け、したがって全体が部分に たしかに、われわれが、数学の驚嘆すべき秩序、その研究 いわば現前していることを見いだす。それゆえ、物質が空間する諸対象の完全な調和、数や図形に内在する論理、同じ主 の方向に自己をくりひろげるにしても、物質は完全に空間に題についてのわれわれの推理がいかに多様で複雑であって も、つねに同じ結論に達するというわれわれの確信などを、 進到達するわけではない。そこからして、こう結論することが 造できる。意識はこの運動をその発端においてわれわれのうち考慮にいれるならば、われわれは、かくも実証的な外観をも っ諸特性のうちに、非実証的な体系を、 いいかえれば真の実 倉一に素描することができたのであるが、物質はこの運動を、は 四るかに遠くまで続けるだけである。それゆえ、われわれは途在の現存よりもむしろその不在と見ることには、躊躇を感じ 中の環の一つ一つをとらえるところまでいかないにしても、 るであろう。けれども、忘れてならないことであるが、かか

8. 世界の大思想31 ベルグソン

ような唯一の完全な科学を考える。一方にとっても、他方に の相互依存、心理状態にとっての大脳基体の必要を、われわ 3 とっても、真理もしくは実在は、永遠性のうちに全体的に与れに示してくれるが、それ以上のことは何も示さない。 えられていることになるであろう。両者はともに、つぎつぎの項がいま一つの項と連帯的であるからといって、両者のあ に自己を創造していくような実在の観念、すなわちまさに絶 いだに等価が成立するということにはならない。或る機械に 対的持続という観念を嫌悪する。 或るネジが必要だからといって、また、ネジをそのままにし さらに、科学から発したこの形而上学の結論が、一種の石ておけば機械は運転するが、ネジをはすせば機械がとまるか 投げによって科学の内部にまで跳ね返ってきたことは、容易らといって、ネジが機械の等価物だということにはならない に示されるであろう。われわれのいわゆる経験論にも、やは であろう。この対応が等価であるためには、ネジの一定部分 りそれが滲透している。物理学と化学は、惰性的物質をしか が機械のどこかの部分に対応するのでなければならないであ 研究しない。生物学は、それが生物を物理的、化学的にとりろうーーあたかも逐字訳において、章が章に、文が文に、語 あっかうかぎり、生物の惰性的な側面をしか考察しない。し が語に 一つ一つ対応するように。ところで、意識に対する たがって、機械論的説明は、その発達にもかかわらず、実在脳の関係は、それとはまったく別であるように思われる。心 的なものの一小部分をしか包括しない。実在的なものの全体理状態と大脳の状態とのあいだの等価という仮説は、われわ はこの種の諸要素に分解されるとか、あるいは少なくとも、 れが前の著作で立証しようとしたように、ただたんにまった 機械論は世界のなかに生起するものの完全な解釈を与えるこ くの不条理をふくむばかりでなく、偏見なしに事実をしらべ とができるなどと、ア・。フリオリに想定することは、或る種れば、一方と他方の関係は、まさに機械とネジの関係である の形而上学、すなわちスビノザやライ。フニツツのような人ことが指示されるように思われる。この二つの項のあいだの がその原理を立て、その帰結をひきだしたような形而上学を等価について語ることは、単にス。ヒノザ的もしくはライプニ かたわ 選ぶことである。なるほど、大脳の状態と心理的状態との厳ツツ的形而上学を片端にし、これをほとんど理解不可能なも 密な等価をみとめ、超人間的な知性ならば、意識のなかに何のにしてしまうことである。われわれは、拡がりの面ではこ の哲学をそのまま受けいれるが、思考の面ではその手足を切 が生じるかを脳のなかに読みとることができると考える心 り落とす。ス。ヒノザとともに、ライ。フニツッとともに、われ 理ー生理学者は、自分では、十七世紀の形而上学者たちから 遠く離れており、経験にきわめて近いものと信じている。そわれは物質の諸現象の統一的綜合が完成されたものと見て、 れにしても、ただたんなる経験は、そういうことについては何そこではすべてが機械的に説明されるであろうと考える。け も言ってくれない。経験は、身体的なものと精神的なものとれども、意識的事実については、われわれはもはやこの綜合

9. 世界の大思想31 ベルグソン

がって、われわれは、しばらくこの仮説の立場に立っことに て、われわれは、熱のうちに、分子運動以外のものをも見る しよう。つまり、まず、この仮説からはわれわれの意識状態 ようになっている。光を伝えるエーテルの設定に関するさま ( 2 ) 相互の絶対的決定はもたらされないことを示し、そして次 ざまな仮説は、すでにオーギュスト・コントによってかなり エネルギー恒存の原理のもっこの普遍性そのものも、な 侮蔑的に論じられたが、すでに立証されている遊星運動の規 んらかの心理学的仮説によらなければ受け容れられえないこ 則性や、とりわけ光の分離現象と、ほとんど両立しがたいよ ( 3 ) とを、示そうと思う。 うにみえる。原子の弾力性の問題は、ウィリアム・トムソン 事実、たとえ脳髄物質の一つ一つの原子の位置、方向、速 のすばらしい仮説の出たあとでさえ、うちかちがたいいくっ かの困難をひきおこす。最後に、なによりも問題なのは、原度が、持続のあらゆる瞬間において決定されている、と仮定 子そのものの存在である。原子を豊かなものにするためにそしてみても、そこから、われわれの心理生活も同じ宿命に従 っているとは、どんなことがあっても出てこない。な・せな の特性を次第にふやしたことから判断すると、われわれは、 原子を、実在する物ではなくて、機械論的説明の物質化されら、それにはまず、ある一定の脳髄の状態に、厳密に決定さ た残滓だ、と多分に考えがちになろう。しかし、次のことにれた心理的状態が対応することが証明されねばなるまいし、 この証明はまだなされていないからだ。ほとんどの場合、そ は注意しなければならない。すなわち、生理的事象がそれに 先立っ生理的事象によって必然的に決定されることは、物質の証明が是非とも必要だと考えられないのは、次のことが知 られているからである。すなわち、鼓膜の一定の振動、聴覚 の究極的構成要素の性質についてのあらゆる仮説と無関係に 行なわれ、たたそれだけによって、エネルギー恒存の定理神経の一定の振動は、一定の音階音を与え、かなり多くの場 合に、物理的なものと心理的なものとの二系列の並行は確証 が、あらゆる生命体によって拡張される、と。なぜなら、こ の定理の普遍性を承認することは、結局のところ、宇宙を構されている、と。しかしまた、ある与えられた条件のうち に、われわれが自分の好むしかじかの音を聞いたり、しかじ 成しているいくつかの質点が、これらの点自身の発する引力 かの色を見たりする自由をもっている、などとは、誰も主 と斥力とにだけ従っており、そして、これらのカの強度は、 岫ただ質点の距離にだけ依存する、と仮定することだからであ張しなかったからである。この種の感覚は、他の多くの心的 る。そして、そこから帰結してくるのは、ある一定の瞬間に状態と同じように、明らかにある一定の決定条件と結びつい メカニック 時おけるこれらの質点の相対的位置ーー質点の性質がどんなもており、まさにそのために、われわれの抽象的な力学の支配 のであるにせよ は、それに先立っ瞬間にあった位置とのする運動の一体系を、それらの感覚の下に、想像したり発見 関係によって、厳密に決定される、ということである。した したりすることもできたのである。要するに、機械論的説明 ( 四 ) ( 五 )

10. 世界の大思想31 ベルグソン

いう概念などっくりたされなかったとしても、この法則は、 の変化のあいだには、なるほど一つの連帯性があり、それゆ えにこそ、測定法を適当に選ぶことによってこの原理の拡張やはり漠然とした形で立てられうるであろうし、少なくと 。、可能になったのであるが、それにしても、この原理に内属も、大ざっぱに言いあらわされえたであ、ろう。事実、この法 則が本質的に表現しているのは、すべての物理的変化には下 する慣例の役割は、かなり大きい。それゆえ、哲学者がこの 原理を太陽系全体に適用するときには、すくなくとも彼はそ落して熱となる傾向があり、熱そのものは物体のあいたに均 の輪郭を・ほかさなければならないであろう。そうなると、も等に配分される傾きにある、ということである。この法則 はや、エネルギー恒存の法則は、或るものの一定量の客観的は、こういうあまり精密でない形で表現されるならば、い、 な恒存を言いあらわすことができないであろう。それはむし なる慣例にも依存しないものになる。この法則は物理学の法 ろ、生起するすべての変化は、どこかで、反対方向の或る変則のなかで最も形面上学的な法則である。というのも、それ 化によって相殺されなければならない、ということを言いあは世界の進む方向を、なんらの記号をも介入させす人為的な らわすことになるであろう。 しいかえれば、たといエネルギ測定法にもよらずに、じかに指で指し示してくれるからであ ー恒存の法則がわれわれの太陽系全体を支配しているとして る。この法則によれば、目に見えるたがいに異質的な変化 も、この法則がわれわれに教えてくれるのは、この世界全体は、しだいに稀薄になり、目に見えない同質的な変化にな の性質に関してではなく、むしろこの世界のなかの或る一断る。われわれの太陽系のなかでおこなわれる多種多様な変化 片と他の一断片との関係に関してである。 の原囚となっている不安定性は、相互にはてしなくくりかえ 熱力学の第一一原理のばあいは、事情が異なる。事実、エネ される要素的な振動の相対的安定性に、少しずつ席を譲るで ルギー散逸の法則は、本質的には、大きさにかかわるものであろう、というのである。それはちょうど、或る人がそれだ はない。なるほど、この法則についての考えがカルノーの思けの力を保っていながら、し・こ、 オしにこれを行動に向けなくな 考のなかではじめて生まれたのは、熱機関の効率に関する或り、ついには肺を呼吸させ心臓を鼓動させることだけに、こ る量的考察からである。また、たしかに、クラウジウスはこ の力を用いつくすのに似ている。 の法則を数学的な川語で一般化した。彼が到達したのは、計 この観点からすると、われわれの太陽系のような世界は、 算可能な一つの量、すなわち《エントロ。ヒー》という考えかそこに含まれる変動力をいくらかずつ不断に費やしているも たである。応用のためには、そういう精密さが必要である。 のと考えられる。はじめには、使用可能なエネルギーの最大 けれども、物理的世界のさまざまなエネルギーを測定するこ 量があった。この変動力はたえず減少していった。この変動 となど誰も思いっかなかったとしても、また、エネルギ 1 と力はどこから来るか ? さしあたり、それは空間のどこかほ