自我 - みる会図書館


検索対象: 世界の大思想31 ベルグソン
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1. 世界の大思想31 ベルグソン

121 時間と自由 自分のためよりもむしろ、外界のために生きている。考える把握 ( 内部統覚 ) に対して、無限に、しかし無意識的に ことをせずむしろ語る。われわれは自ら行動するよりも、む信頼したため、自由を確固不動なものと信じた。そこでかれ ヌーメナ ( 1 ) は、自由を本体の高さにまで高めた。そして、持続を空間と しろ「行動させられている。」自由に行動するとは、自分をと りもどすことであり、純粋持続のなかにふたたび身を置くこ混同したがゆえに、実際には空間と無縁な実在的で自由な自 とである。 我を、同じように持続に対して外的な、したがってわれわれ の認識能力には近づきがたい自我、としたのである。しかし 本当は、われわれが反省の強力な努力によって、自分につき カントの誤謬 まとっている影から眼をひきはなし、われわれ自身に立ちか カントの誤謬は、時間を等質的境域と見なしたことにあっ た。かれは、実在の持続が互いに内的な諸瞬間から構成されえるときにはいつでも、われわれはこの自我をとらえている のである。本当は、たとえわれわれがほとんどの場合、自分 ること、それがまったく等質的なもののかたちをとるときに 自身の人格に対して外的に、持続中でよりも空間中で、生 は、空間として表現されているのだということに、気がっか なか 0 たように思われる。こうして、空間と時間の間にかれき、行動するにしても、また、たとえそれによ 0 てわれわれ が、同一の結果を同一の原因につなぐ因果律に手掛りを与え が立てる区別そのものも、つまりは、時間と空間と、自我の るにしても、しかしいつでも、われわれは純粋持続のうちに 記号的表象と自我そのものと混同する結果になる。かれは、 意識を、並置によらなければ心理的諸事象をとらええないもふたたび身をおくことができる。純粋持続にあ 0 ては、その のと判断したが、かれは、心理的諸事象の並置され互いに区諸瞬間は互いに内的かっ異質的であり、また、一つの原因は その結果を再現することができないが、それはその原因それ 別される境域が、必然的に空間であって、もはや持続でない ことを忘れていた。そのためにかれは、あたかも同一の物理自身が決してふたたび現われないからである。 われわれの考えでは、カント哲学の強みと弱みが同時に存 的現象が空間中で再現されると同様に、同一の状態が意識の 深みにおいても再現されうるものと、信するようになってし在するのは、真の持続とその記号とのこのような混同のうち においてである。カントは一方に物自体を、他方に、物自体 まった。このことは、少なくとも、かれが内的世界において がそこを通して屈折する等質的な「時間」と「空間」とを、 も外界においても因果関係に同一の意味と役割とをえたと 考える。こうして、一方では現象としての自我、意識のとら きに、暗黙のうちにみとめていたところである。それ以後、 える自我が、他方では外的対象が生じてこよう。したがっ 自由は、理解しがたい事象になってしまった。にもかかわら アベルセ。フシオン・ ず、かれは、自らその役割を制限しようとしたこの内的て、時間と空間とは、われわれの外部にも内部にも存在しな アンテリューー

2. 世界の大思想31 ベルグソン

れよう。われわれがいわゆる動機に反して選択するのは、ゆによって遂には自由意志に至る。だが、決定論者は、記号的 ゅしい状況にあって、われわれの他人に対して、とりわけ自表現の漠然とした要求に従って、自我そのものをも、自我を 分自身に対してあたえる意見が問題になるときである。そし分かち持っている相反感情をも、言葉によって示すであろ て、このように明白な理由がいっさい欠けていることは、わう。そして、それらをはっきり規定された言葉のかたちに結 品させることによって、決定論は、まえもって、あらゆる種 れわれがより深く自由であればあるだけ、いっそう顕著にな 類の生きた活動性を、まず人間から、次に人間を動かす感情 るのである。 から、とり除くのである。その場合、かれは、一方ではいっ とはいえ、決定論者は、重大な情動とか、心の深い状態と も自分自身と同一の自我を、他方では、これに劣らず不変的 かをカとしてうち立てることを差しひかえているときでさ で、争って自我を奪い合う、相反する感情を、みるである え、それにもかかわらず、それらを相互に区別し、こうして う。勝利は必然的にいっそう強い方にとどまることになる。 遂に自我の機械論的な考え方に到達する。かれはわれわれに だが、あらかじめ人々が運命づけられているこの機械論は、 この自我を、二つの相反する感情の間で躊躇し、一方から他 記号的表現以外には、価値はない。すなわちそれは、内的な 方へと移行し、最後にそれらのうちの一つを選ぶものとして ディナミスム 示すであろう。こうして、自我とそれを動かす感情とは、はカ動性を事実としてわれわれに示す注意深い意識の証言に対 して、反対することはできまい。 つきり限定された事物と同一視されており、これらの事物は 作用が行なわれている間中、自分と同一のままでいる。だ 要するに、われわれの行為がわれわれの全人格から出てく が、もし熟考するのがいつでも同一の自我であり、その上自 るとき、行為が全人格を表わしているとき、行為が全人格と 我を動かす二つの相反する感情が変化しなければ、決定論自の間に、ときに作品と芸術家との間にみられるような、はっ きり言いがたい類似をもっとき、われわれは自由なのであ 身が引き合いに出す因果性の原理そのものからして、どうし て自我は決心するであろうか。真実のところ、自我は、最初る。その場合われわれは、自分の性格の全能な影響力に屈す の感情を感したというそのことだけで、次の感情がやってく るのだと、中し立ててみても、無駄である。われわれの性格 も、またわれわれである。そして、人々は好んで人格を二つ るときには、すでにいくらか変化しているのである。つま に分割し、抽象の努力によって、感じたり考えたりする自我 り、熟考のすべての瞬間にわたって、自我は自ら変容し、し たがってまた、自分を動かす二つの感情を変容する。このよ と、行動する自我とをかわるがわる考察するが、だからとい うにして、互いに滲透し合い、相互に強め合う諸状態の動的って、二つの自我のうちの一つが自我を圧迫すると結論する な一系列が形成され、そしてそれらの諸状態は、自然な発展のは、少々たわいなかろう。同じ非難は、われわれが自分の

3. 世界の大思想31 ベルグソン

したがって、われわれも、「等質的空間」を想定し、カンれ、言葉で表現されるような諸項の数的な複数性を置きかえ ようとする誘惑である。そこでわれわれは、互いに滲透し合 トとともに、この空間を、それを充たす内容と区別した。カ ントとともに、われわれは、等質的空間がわれわれの感性のう諸瞬間をもっ異質的持続の代わりに、空間中に配列される 一形式であることも、みとめた。が、これによってわれわれ諸瞬間をもっ等質的空間を、持っことになろう。それそれが の意味するものは、ただ、他の知性、たとえば動物の知性その分野で独自な言語と通約不可能な、継起的な諸局面をも っ内的生活の代わりに、われわれは、人工的に再構成しうる は、対象をまったくとらえながらも、それらを、相互の間で も、それらそのものとしても、同じく明確に区別するもので自我や、単純な心的諸状態をうることになるわけである。こ この等質的境域の直観、つ ということにすぎない。 の単純な心的諸状態は、言葉を形づくる場合のアルファベッ トの文字のように、集まり合ったり解体するものである。し まり人間に固有な直観によって、われわれはわれわれの概念 を相互に外在化することがでぎ、また事物の客観性もわれわ かも、そこにあるのは、単に記号的表現の一つの表現方法だ れに開示される。こうして、それは、その二重の働きによっ けではあるまい。なぜなら、直接的直観と論弁的思考とは、 て、一方では言語を助け、他方ではわれわれからはっきり区具体的現実のなかでは一つのものをなし、はじめに自分の行 別された外界をわれわれに示すことによって、社会生活を告為を理解するためのものであった同じメカニズムが、遂には われわれの行為を支配することになるからである。われわれ 知し、予備する。その外界たるや、それの知覚において、 の心的状態は、その場合、互いに分離しつつ、固体化するこ っさいの知性が一致をうるものである。 とになろうし、このように結品したわれわれの観念とわれわ この等質的空間にわれわれが対置させたのは、注意深い意 識がとらえるままの自我、生きた自我であり、その自我の諸れの外的運動との間には、しつかりした連合が形づくられよ う。そして、少しずつ、意識は、神経実質が反射作用を行な 状態は、区別されてもいず不安定でもあるので、互いに分離 されると必す性質が変わるし、固定されたり表現されたりすうに至る過程を模倣し、自動装置が自由を蔽いかくすことに なろう。まさしくそのとき、一方では観念連合説の主張者や ると、必す共通の領域に落ちこんでしまう。外的対象をかく も明確に区別し、記号によってそれをかくも容易に表現する決定論者たち、他方ではカント主義者が現われてくるのだ。 かれらは、われわれの意識生活に関して、そのもっとも共通 間この自我にとっては、次のような誘惑は大きかったと言うべ 時 な局面しか見てとらないがゆえに、かれらがとらえるものは、 きではないか。すなわち、同一の区別を自分自身の存在のな はっきり切りはなされた諸状態、物質的現象のような具合に かに導き人れ、自分の心的状態の内的滲透の代わりや、その まったく質的な多様性の代わりに、互いに区別され、並置さ時間のなかで再現でき、望むならば、自然の諸現象に対して

4. 世界の大思想31 ベルグソン

らなかったふりをしているわけだ、云々。」そして、このイ にしたがって、二つのグルー。フに分かれうることを意味して ギリスの哲学者は、自分の原理に忠実に、意識の役割を、あ いる。さらに、これらの相対立する傾向だけが現実的に存在 りうることについてではなく、現にあることについて、われするのであって、だとかだとかは、持続の継起的な諸瞬 われは教えることにある、とした。 この最後の点につい 間におけるわたしの人格の二つの違った傾向を、いわばその ては、さしあたっては、立ち入らないことにしよう。 し、刀子ー 到達点において表象するための二つの記号にほかならない。 る意味で自我は、自分を決定因として自ら知覚するか、とい したがって、ととによってこれらの傾向そのものを指示 う問題は、保留することにしよう。だが、このような心理学するとすれば、われわれの新しい表示法は、具体的現実のい 上の問題のほかに、もう一つ別の、むしろ形而上学的な性質っそう忠実なイマージュを与えてくれるであろうか。すでに をもった問題、決定論者たちもその反対者たちも、反対の方のべたように、自我は、相反する二つの状態を通過するにし ア・・フリオリ 向にいずれも先験的に解決している問題がある。事実、決定たがって、大きくなり、豊かになり、変化することを注意せ 論者たちはその議論において、あたえられた先行条件に対しねばならない。さもなければ、どうして自我は決心などしょ てはただ一つの可能な行為が対応するだけだ、ということをうか。したがって、相反する二つの状態というようなものは 予想しており、自由意志を擁護する人々は、反対に、同一の存在せず、あるのは、実に、多くの相継起するさまざまに異 なった諸状態であり、そのなかからわたしは、想像の努力に 系列が、ひとしく可能ないくつもの異なった行為に至りえた ものと仮定している。われわれがまずはじめに注意をとめる よって、相対立する二つの方向を見分けるのである。こうい のは、この相反する二つの行為あるいは決意の等しい可能性 う次第なので、不変の記号であるととによって、これら についての問題である。おそらくこのようにして、われわれの傾向や状態そのものを示すのではなくーー、それらはたえず は意志の選択作用の性質に関して、なんらかの手がかりをう変化するからだー・。・・言語を最大限に役立てるためにそれらに ることになろう。 想像力が割り当てた異なった二つの方向を示すようにきめる ならば、われわれはさらにいっそう実在に近づくことになろ う。もっとも、その場合でも、ここにあるのは記号的な表現 真の持続と偶然性 だけで、実際には二つの傾向も、二つの方向さえなく、ある わたしが可能な二つの行動と >A との間でためらって、か わるがわるに二つの間を行ったり来たりする、とする。その のは実に生きて発展する自我、自由な行動が、熟れきった果 ことは、わたしが一系列の諸状態を通過し、その上これらの実のようにそこから離れ落ちるまで、ためらいをさえ通して 生き発展する自我であることは、依然として明らかであろ 諸状態が、わたしがなり反対の側なりにいっそう心が傾く

5. 世界の大思想31 ベルグソン

るとき、忘れているのである。擁護者たちは、次のように推ことを空間中の揺れのかたちで表象していることに由来す 論する。「道はまだ描かれていない。だから、どんな方向で る。ところが、実は熟考とは、一つの動的進行のうちに存 もとることができる。」これに対しては、次のように答えら し、そこでは、自我も諸動機そのものも、本当の生きものの れよう。「道について語りうるのは、ひとたび行動がなされように、連続的生成のうちにあるのである。自我は、直接的 てしまった後だけだということを、あなたは忘れている。 確証において誤ることのないとき、自ら自由と感じ、これを そのときには、もう道は描かれてしまっているであろう。」 言明する。だが、自分の自由を自分に説明しようとするや否 反対者たちは言う。「道はこのように描かれてしまってや、自我はもはや、空間をとおしての一種の屈折によってし 、る。だから、その可能な方向は、どんな方向でもいいとい か、自分をとらえなくなる。そこから出てくるのが、機械論 うわけではなく、まさにこの方向そのものなのだ。」これに的性質をもった記号主義で、これは、自由意志の主張を証明 対しては、次のように答えられよう。「道が描かれる以前にするにも、理解させるにも、反駁するにも、等しく不適当な は、可能な方向も不可能な方向も、まだ道など問題になりえものだ。 なかったというきわめて簡単な理由によって、ありえなかっ このような粗雑な記号主義の観念に、知らずの たのだ。」 真の持続と予見 間にあなたはっきまとわれているが、このような記号主義を だが、決定論は、うち負かされたなどとは思わずに、新し とり除けば、決定論者たちの議論は、「行為はひとたびなさ いかたちで問題を提出して、言うだろう。「すでに行なわれ れるや、なされている」という幼稚なかたちをとること、ま た行動は別にして、ただ来たるべき行為についてだけ考えよ た、反対者たちの答えは、「行為は、なされる以前には、まだ う。問題は、今日すべての未来の先行条件を知った場合に、 行為でなかった」となることが、わかるだろう。言いかえれなにかある高次の知性が、絶対的な確実さで、そこから生ず ば、自由の問題は、こんな議論が行なわれた後でも、触れら る決定を予言しうるかどうか、知ることである」と。 れないままで残るのだ。そして、このことは容易に理解され題をこのような言葉で提出することには、われわれも喜んで る。というのは、自由は、行動そのもののあるニュアンス、 賛成する。こうしてわれわれの考えをいっそう厳密に定式化 もしくは質のうちに求められるべきもので、その行為と、そしてのべる機会が与えられるであろうから。とは言え、ま の行為でないもの、もしくはその行為がありえたかも知れぬず、先行条件を知れば蓋然的な結論を出せるだろうと考える もの、との関係のうちに求められるべきものではないからで人々と、絶対確実に予見できると言う人々とを、はっきりと ある。一切の曖昧さは、 : しすれの側の人々もが、熟考という区別しよう。ある友人がある一定の事情のもとで、おそらく

6. 世界の大思想31 ベルグソン

これこそ、誤って理解され宜さと社会関係の容易さのために、われわれはこの殻を突き に溶けこむには決して至らない。 破らすに、その殻が中身の形を正確に描き出すものとみとめ た教育、判断よりもむしろ記憶に訴える教育から由来した、 ることを切望している、と。さて、これから言おうと思うの あの感情と観念の総体である。ここに、つまり根本的自我の は、われわれの日常行動を促すものは、たえず動いているわ 内部においてさえ、たえずこの自我を侵蝕してゆく寄生的自 我が形成されるわけである。多くの人たちはこのように生れわれの感情そのものよりも、はるかに、これらの感情が付 き、真の自由を知らずに死ぬ。だが、自我全体が暗示と同化着する不変のイマージュである、ということである。朝、 する場合には、暗示は説得となるだろう。情念は、たとえ突っも起きることになっている時刻に時計が鳴ると、わたしは ( 9 ) 然に生じたものでも、たとえばアルセストの憤慨の場合のよ この印象を、。フラトン流にいえば心の全体をもって、うけと うに、その人格の全歴史がそこに反映されているならば、も るかも知れない。わたしはこの印象を、自分の心を占めてい はやまえと同し宿命論的性格を示すことはあるまい。また、 るさまざまな印象の漠然とした塊りのなかに、溶け入ったま どんなに権威的な教育でも、もしそれが心全体を浸しうる観まにしておくかも知れない。その場合には、おそらく、この 念や感情だけでも伝えるなら、なんらわれわれの自由を殺ぎ印象は、決して、われわれを決定して行動させることはしま はしまい。事実、自由な決断が生じてくるのは心全体からで 、むしろ、ほとんどの場合、この印象は、泉水の水の中に あり、行為は、それの結びつく動的系列が根本的自我と同一石が落ちたときのように、わたしの全意識を揺がすことな しっそう自由なものとなろう。 イに向かえば向かうほど、、 く、ただ、いわば表面に凝固した観念、これから起きて毎日 このように考えると、自由な行為というのは、自己を観察の仕事にとりかかろうとする観念を、動かすにとどまる。遂 には、この印象とこの観念とは互いに結びついてしまう。そ し、自分の行ないに対して合理的に考える習慣をこの上なく 身につけていた人々にあってさえ、稀にしか見られない。すれゆえ、行為は、わたしの人格の関与なしに、印象に続いて でにのべたように、われわれはほとんどの場合、空間を通し起こるのだ。つまり、ここでわたしは、意識をもった自動装 ての屈折によって、自己をとらえるし、われわれの意識状態置であり、それというのも、そうであることがたいへん好都 は言葉において固体化されるし、また、われわれの具体的自合だからである。われわれの日常の大部分の行動がこのよう に行なわれること、また、ある種の感覚、感情、観念がわれ 我、生きた自我は、心理的事実の外殻によって蔽われている われの記憶のうちに固定化されるおかげで、外部からの印象 わけだ。その心理的事実たるや、はっきり描き出され、互い に分離され、したがって固定されたものである。以上につけがわれわれの側に、意識的でかっ知的でさえありながら、多 くの面で反射的行為にも似た運動を、ひきおこすということ 加えて、次のことをのべておいた。すなわち、言語のもっ便

7. 世界の大思想31 ベルグソン

で、それは、その際、自分をすでに終点に達したものと仮定す、ひとたび図形がつくられてしまうと、人々は想像によっ して、想像によって究極の行為に立ち会っているからであて過去にまで遡り、われわれの心的活動がまさに図形によっ て描かれた道をたどったのだ、と言いたがる。こうして人々 る。要するに、この図形がわたしに示すのは、行なわれつつ は、ふたたび、われわれがさきに指摘しておいた錯誤にお ある行動ではなくて、行なわれてしまった行動なのである。 ちいる。すなわち、事実を機械論的に説明しておいて、それ したがって、という道を通過して >< の方向をとることに からこの説明を、事実そのものと置きかえるのである。した きめた自我が、の方向をえらぶことができたか、できなか がって、人々は、最初の第一歩から、すでに解きがたい困難 ったか、などとわたしに問わないでほしい。実際には直線 にぶつかる。すなわち、二つの方途が同じように可能であっ 0 も点 O も、 O* という道もという方向も存在しないの たならば、どうして選択がなされたか。またもしその二つの とでもわたしは答えるで だから、この質問には意味がない、 うちの一方だけが可能であったならば、なぜそのとき自ら自 あろう。このような質問を出すこと自体が、時間を空間によ ところが、人々は、この二重の疑問が って、また継起を同時性によって、十全に表わしうるもの由だと信じたか。 と、認めることである。それは、描かれた図形に、もはや単いつでも次の疑問、つまり、時間は空間に属するか、に帰着 に記号としての価値だけではなく、イマージ = としての価値することがわからない。 地図の上に描かれた道を目でたどって行く場合には、来た を、付与することだ。またそれは、この図形の上に心的活動 の過程を、あたかも地図の上に軍隊の進軍を跡づけるよう道を引き返して、その道がところどころで分岐してはいない かどうか探したところで、なんら差し支えない、だが、時間 に、跡づけうる、と信ずることだ。人々は、自我の熟考に、 とは、後戻りできるような線ではない。もちろん、ひとたび そのあらゆる局面で立ち会って、遂に行為の行なわれるとこ ろにまで至った。そこで、系列の諸項を要約することによっ時間が流れてしまえば、われわれには、その相継起する諸瞬 間を、互いに外的なものとして表象する権利も、こうして空 て、時間を空間中に投影し、意識的にせよ無意識的にせよ、 間を横ぎる線を考える権利もある。しかし、この線の記号的 この幾何学的図形に基づいて推論する。だが、この図形の表 この図形は、その生に表わすものが、流れる時間ではなくて、流れてしまった時 由わすものは、物であって進行ではない。 間であることも、依然として明らかであろう。このことは、 気のなさにおいて、熟考の全体となされた最後の決意との、 いわば凝固した記憶に、対応する。とすれば、それが、熟考自由意志の擁護者と反対者がひとしく忘れている点である。 擁護者たちは、実際になされたのと違った仕方で行動し を行為に至らせる動的進行について、どんな指示にせよ、ど えたことを肯定するとき、反対者たちは、そのことを否定す うしてわたしに与えることができようか。それにもかかわら

8. 世界の大思想31 ベルグソン

に帰することのできる多くの項として、秤にかけている。注 する既知の法則に従わないことを、ときにわれわれに明らか にしてくれる。 だが、いまや、観念連合説の立っている意すべきことに、決定論の反対者たちでさえ、自らすすんで 観念そのものが、自我や意識状態の多様性について、不完全この領域でかれに従い、かれらもまた、観念連合と動機の闘 な考え方を含んでいるのではないかどうかを、問題にすると争を語り、また、これらの哲学者中もっとも深遠な一人、フ ( 8 ) きが来た。 イエ氏でさえ、自由の観念そのものを、他の動機と均り合う ( 一 0 ) 観念連合説に基づいた決定論は、自我を心的状態の集合と ところが、ここで、人 に足る動機とするに躊躇しない。 して表象し、そのうちもっとも強力な状態が支配的な影響を人は、一つの重大な混同に身をさらすことになる。言語が、 およぼし、他の状態を一緒に引っ張って行く、と考える。し 内的状態のあらゆるニュアンスを表現するようにつくられて たがって、この学説は、共在する心的事象を相互にはっきり いないことによる混同である。 ( 6 ) 区別するわけである。スチュアート・ミルは、次のようにの たとえば、わたしは窓を開けるために立ち上がるが、立ち べている。「もし、〔殺人の〕罪に対するわたしの嫌悪とその上がったとたんに、なにをするのだったかを忘れて、じっと 結果に対するわたしの怖れが、この罪を犯すようにわたしを立ちつくす。ーーこんな簡単なことはない、と人は言うだろ 促す誘惑よりも弱かったとしても、わたしは殺すのを思いと う。あなたは、達すべき目的の観念と、行なうべき運動の観 ( 六 ) ( 7 ) どまることもできたであろう。」また、もう少し先では、「善念という二つの観念を、結びつけたが、その一つが姿を消し、 : これ を行ないたいというかれの欲求と、悪への嫌悪は、・ しかし、わた ただ運動の表象だけが残ったわけだ、と。 と相反する他のいかなる欲求や嫌悪にうち克つに足るほど強しは、決して坐りはしない。漠然とだが、自分になにかなす 。」このように、欲求、嫌悪、誘惑は、ここでははっきり べきことが残っている、と感じている。したがって、わたし 区別されたものとして示され、現在の場合、これらを別々に の不動とは、ただの不動ではない。わたしのとっている姿勢 命名してもなんら差し支えがない。 これらの状態を、それをのうちには、行なうべき行為が、あらかじめ形成されて存在 経験する自我と結びつけるときでさえも、このイギリスの哲している。それゆえ、この姿勢を保ち、それをしらべ、ある 学者は、依然としてなんとか截然たる区別を設けようとして いはむしろそれを内的に感じさえすれば、一瞬消え去った観 いる。「快楽を欲する自我と、悔恨を怖れる自我との間で、 念を、そこにふたたび見出すことができるのだ。したがっ ( 八 ) ・ : 闘争が生ずる。」アレキサンダー ・べイン氏も、一つの て、必ずやこの観念は、組描された運動ととられた姿勢との 章全体を「動機の闘争」にあてている。かれはそこで、さま内的イマージュに、ある特殊な色づけをあたえているに違い ざまな快楽と苦痛とを、少なくとも抽象によって固有の存在なく、この色づけたるや、もしその達すべき目的が違ってい ( 九 ) ( も )

9. 世界の大思想31 ベルグソン

生活を生きて、社会も言語もなかったならば、われわれの意諸状態は、互いに引きはなされて、難なく言葉によって表現 識は、このような不分明なかたちで一連の内的状態をとらえされる。ここで、われわれを、人格を一一分して、最初に排除 した数的多様性を別のかたちでそこに導入するものだ、と言 ることになろうか。もちろん、そんなことはおよそない。な ぜなら、われわれは、対象が互いには 0 きりと区別される等って、非難しないでほしい。明確な諸状態をとらえる自我 も、次にもっと注意を集中して、手で永く触れた雪の結品の 質的空間の観念を保持しようし、また、最初に意識の眼をと ように、これらの状態が互いに融け合うのを見る自我も、と らえたいわば雲のかかった諸状態を、いっそう単純な諸項に もに同一の自我である。そして、実を言えば、言語の便宜の 分解するために、このような境域に一直線に配列することは、 あまりに好都合だからである。しかしまた、等質的空間の直ためには、秩序の支配しているところにふたたび混乱をひき おこさないことが望ましいし、いわば非人称的な諸状態の巧 . 観がすでに、社会生活への第一歩であることを、銘記しょ う。おそらく動物は、われわれのように、自分の感覚のほかみな配列を乱さないことが望ましい。この巧みな配列によっ に、自分とはっきり区別された、あらゆる意識存在の共有財て、自我は「帝国中の帝国ーを形づくるのをやめたのであ このる。きわめて明確な諸瞬間をもち、はっきり性格づけられた 産たる外界なるものを、思い浮かべることはあるまい。 っそう ような事物の外在性や、事物の境域の等質性を、われわれに諸状態をもった、内的生活は、社会生活の要求に、い はっきり思い浮かべさせる傾向は、またわれわれに共同生活よく応えるであろう。また、皮相な心理学も、それを記述す を営ませ、言葉を話させる傾向である。だが、社会生活の条るのに満足して、そのために誤謬におちいることもないであ 件がいっそう完璧に実現されるにしたがって、われわれの意ろう。もっとも、それには、ひとたびつくり出された事象の っそう強化さ研究だけにとどめ、その形成の仕方を無視する、という条件 識状態を内部から外部へともたらす流れも、い しかし、もし、この心理学が、静力学から れる。すなわち、少しずつこれらの諸状態は、対象なり、物が必要だが。 なりに変形して行く。相互の間で引きはなされるだけでな動力学に移って、あたかも成しとげられた事象について推論 したと同様に、成しとげられつつある事象について、推論し く、われわれからも引きはなされる。そのとき、われわれは ようとなどすれば、またもし、この心理学が、具体的で生き 由もはや、それらの状態を、それらのイマージ、を固定化した 等質的境域のなかでしか、また、それらに自分の月並みな色ている自我を、互いに区別され、等質的境域のなかで並置さ 時づけをあたえる言葉をとおしてしか、とらえなくなる。このれた、諸項の結合として、われわれに示すならば、この心理 ようにして、第一の自我を蔽う第二の自我が形成される。第学は、自己のまえにうちかちがたい多くの困難が立ちはだか るのを見るであろう。しかもこれらの困難は、それを解決す 一の自我にあっては、その存在は明確な諸瞬間をもち、その

10. 世界の大思想31 ベルグソン

このようにして、われわれは、さきに並置の多様性と、融に、哲学がそれにあたえる人為的再構成を、たえず置きか 合あるいは相互滲透の多様性との間に立てた区別に、ふたた え、かくして事実の説明と事実そのものとを混同する、こと び立ちかえる。しかじかの感情、しかじかの観念は、無限に にある。それに、このことは、むのいっそう深い、またいっ 多数の意識事実を含んでいる。しかし、その多数ということそう包括的な諸状態を考察するにしたがって、いっそうはっ が現われるのは、ある人々は持続と名づけるが実は空間にほ きりとみとめられよう。 かならぬ、ある等質的境域における一種の展開によってのみ 事実、自我は、その表面によって外界に触れている。そし である。その場合、われわれは、相互に外的な諸項をみとめ て、この表面は事物の刻印を保持するがゆえに、自我は、そ ることになろうが、それらの諸項は、もはや意識事実そのもの並置を知覚した諸項を、隣接によって結びつけることにな のではなく、その記号であり、いっそう正確にいえば、それろう。観念連合説の理論が適合するのは、まさにこの種の結 を表現している言葉であろう。すでにのべたように、空間の 合、まったく単純で、いわば非人称的な感覚の結合に対して ような等質的境域を心に考える能力と、一般的観念によって である。だが、このような表面の下を掘って行くにしたが 、自我が自分自身に立ちもどるにしたがい、またその意識 思考する能力との間には、密接な連関がある。そこで、意識 状態を説明し、分析しようとするや否や、このすぐれた個人状態も、自ら互いに並置するのをやめて、互いに滲透し合 的な意識状態は、相互に外的な非人称的要素に分解され、そ 一緒に溶け合って、一つ一つが他のすべての状態の色に の一つ一つは類の観念を喚び起こすとともに、言葉によって染まることになる。こうして、われわれの一人一人は、自分 表現されることになる。 なりの仕方で、愛したり、憎んだりし、この愛や憎しみは、 しかし、われわれの理性は、空間の観念と記号をつくり出かれの人格全体を反映する。ところが、一一一口語は、これらの諸 す能力とを具え、そうした多数の要素を全体から引き出すか状態を、誰の場合でも、同じ言葉でさし示す。それゆえ、言 らといって、それらの要素が、その意識状態の全体のうちに 語は、愛や憎しみの、また、心を動かす無数の感情の、客観 含まれていた、ということにはならない。それというのも、 的な非人称的な相しか、定着できなかったのである。われわ その全体の内部にあって、これらの諸要素は、少しも空間をれは小説家の才能を、次のような能力によって判断する。す 占めていたわけではないし、また記号によって表現されるこ なわち、一一一口語がかようにひぎ下ろした公衆的領域から、かれ とを求めていたわけではないからだ。それらは、相互に滲透がそれらの感情、観念をひき出して、並列する多数のディテ ールを用い、それらに原初的な生きた個性をとりもどそうと し合い、溶け合っていたわけである。したがって、観念連合 説の誤謬は、精神のうちで起こっている具体的現象の代わりする能力である。だが、あたかも、一つの運動体の二つの位