決定的 - みる会図書館


検索対象: 世界の大思想32 ヤスパース
165件見つかりました。

1. 世界の大思想32 ヤスパース

まだヴ = ールを掛けられたままの未来から、史学的過去全しその代わりとして、第二の枢軸時代は第一のそれがもたな かったもろもろの可能性をそなえている。第二の枢軸時代は 体を切り離して眺める試みは、決定的には十九世紀になって さまざまな経験を受け容れ、多くの思想を同化しえたがゆえ ハライエティ 初めて行なわれたのである。われわれは再三次ぎの間いが高 に、以前よりはいっそう意味の変化に富み、内容豊富でも まってくるのを禁じえない、すなわち、おそらく初めからほ のかに感じ取られるもの、時には一見沈滞したかに見、ズながある。まさしく分裂状態にあるからこそ、この時代は、以前 には決して見られなかった人間存在の深みをあらわならしめ ら再三擡頭してくるもの、世界形成者としてのヨーロツ。 ( の たのである。第二の枢軸時代は伝統的教養を受け継ぎながら 性格を形作っているものは何であるのか ? 唯名論者以来科 も、みずからは新たに根源的であり、先人の遺産を踏み台に 学として展開され、十五世紀以降地球上に普及し、十七世紀 っ して、しかも更に先を眺望しつつ、より広汎な視圏と、 以降広範囲に影響を与え、十九世紀に決定的となったもの、 そうの深みとを獲得した、だからこそ、第二の枢軸時代が優 これは何であるのか ? 越していると考えられるのも当然かもしれない。しかしなが ら第二の枢軸時代は、それが何ものにもよらず、もつばら独 科学や技術の光彩すら失わせるような、一五〇〇年から一 自の根源から生きたものではなく、途方もない歪みや倒錯を 八〇〇年の間のヨーロッパの途方もない精神的な創造 蒙り、かっ許したのであるから、それは第一の枢軸時代に一 ケランジェロ、ラファエル、リオナルド、シェークス。ヒア、 歩劣るものと考えざるをえない。第二の枢軸時代は、現代の レンブラント、ゲーテ、スビ / ザ、カント、 われわれに直結する歴史的基盤である。われわれはこの時代 アレト は、一一千五百年前の枢軸時代との比較を挑んでい の精神と、あるいは争い、あるいはきわめて密につながり、 る。近世諸世紀において、第二の枢軸時代が認められるべき 従って、第一の枢軸時代の場合のようには、冷静に距離を置 であろうか ? いて眺めることができない。しかもことさらにいえば、第一一 相違には顕著なものがある。第一の枢軸時代の各世界に見 の枢軸時代は純粋にヨ 1 ロッパ的現象なのであって、すでに られた純粋と清澄、天真爛漫と新鮮漫剌、こういったものは 原 これだけで、第二の枢軸時代とは称しがたい。 もはや二度と繰り返されない。何ごともきびしい伝統の影の かの数世紀がわれわれヨーロッパ人にとって、最も内容の の中に立ち、邪道への足取りをたどること、あまりにもはなは 歴だしい。こうい 0 た邪道から、それに抗らうかのように、か充実を見た時代であり、われわれに不可欠な教養の基礎であ り、われわれの物の見方や考え方の最も豊富な源泉であると の偉大な人びと、孤高の人びとは、彼らのはなはだ驚嘆すべ いうことはたしかである。しかしこの時代は、決して人類全 き目的達成の道を発見するのに成功しているのである。しか

2. 世界の大思想32 ヤスパース

凡例 一、本書は、 Karl Jaspers, Vernunft und Existenz, 1935. 3. Aufl, 1949 の翻訳であっ て、原著は原著者が一九三五年オランダのフローニンヘン大学に招かれて、三月一一十五日 から二十九日に亙って行った五回の連続講義を収録したものである。 一、本書の翻訳に当って、訳者はヤス。 ( ース独自の哲学的用語の訳語を決定する必要に迫 られたのであるが、ヤス。 ( ースにおいては、特殊の用語が自由に駆使されているにも拘わ らず、それらの川語の殆んど多くは、何らかの決定的な対象的意味を有しないものであ り、訴えのあるいは象徴の意義を有するにすぎないものであり、また同一の用語がそれそ れの場合によって、いくらか異った = 、アンスと意味をもって用いられていることも多い ことからして、訳者は das Umgreifende ( 包括的 ) とか Kommunikation ( 交わり ) とか Existenzerhellung ( 実存開明 ) とかの若干の用語を除いては、用語として捉われること なく、その都度の場合に応じて自由に訳語を選んだ。むしろその方が、ヤス。 ハースを読む ときの本当の態度に近いと考えたからである。従って右の如き若干の例外を除いては、訳 語の統一は、必ずしも厳格に守られていないことをお断りしておく。 一、目次および見出の立て方は必すしも原書に従っていない。原書では目次は各講義の初 めにたけあって、文中の見出はないのであるが、訳書においては、読者の便を思って、節 と項目 ( ゴシック文字 ) とを文中に掲載しておいた ( その代りに各講義の初めにおける目 次の掲載を省略した ) 。しかし原書には各項目の中に更に内容の小見出が書かれているが、 訳書では却って熕雑に感ぜられるので、これを省略したことをお断りしておく。なお《》 は原著者の引用を示し、「」は訳者が用いたものである。

3. 世界の大思想32 ヤスパース

る。 をゆだね、これに対して自分としてはほんのわずかの影響す らもっていないと思うとき、われわれはおそらく政治から離 われわれは、われわれの閉鎖性と虚偽とが最後決定的なも れた生活に逃げこみたくなるだろう。しかし、それにして のにならないことを欲している。 も、この発展はやはり人間によって生みだされる。われわれ 何ゆえわれわれは、真理を、したがって開放性を、欲する のか ? 何ゆえわれわれは、沈黙による秘密を欲しないの人間は、熟考することができる、認識することができる、自 己の行動を変えることができる、共に思考し、共に行動する ことができる。したがって、政治から離れた生活への逃避 第一に、われわれにとって誠実は人間の品位であるか 誠実 は、われわれをまきそえにする。 らである。誠実でないならば、われわれはわれわれ自 人間の実存に根ざし、しかも哲学的に完全な意識に到達し 身と矛盾する。 たわれわれの確信は、こうである。公開の真理への途上にお 第二に、われわれはただ相互的にのみ真理を達成するから いてのみ、政治的、経済的な生存過程は、われわれにとっ である。 いいかえれば、沈黙するとき、われわれは自己自身 て、善の方向へ向かうことができる。最高の公開性は、真理 に関して不誠実になる。意見が対立していても相手に対して 自分の心をまったくうち明けることができ、まったく遠慮すにとって必要欠くべからざるものである。 政治においては、不誠実、策略、虚偽が、今日まで、自明 る必要もなく、まったく誠実でありうる、というような相手 の手段になっている。けれども、不誠実の利点は、つねに、 : 、よいことほど困ることはない 個人生活においてもそうだが、われわれの共同体において将来を犠牲にした瞬間的な生活利害のためのものでしかな 。不誠実は、長いあいだには、現存在そのものに害を与え も、公共的に重要なことがらについて沈黙することによっ て、事のなりゆきは不誠実になる。公然の虚偽は個人的な虚る結果になる。真理は虚偽を超える。虚偽のうえに建てられ た国家に対して、禍いが襲いかかるのは、虚偽の伝統から生 偽の鏡である。われわれは暗闇のなかに生きる。だれしも自 分ではそう思うように、われわれは共通の運命と行動におい まれた国家政策によってである。 て、たがいに透明でありたい。 暴力と虚偽という圧倒的な現実を承認しようとしないこと は、自己自身をあざむく意志に起因する。われわれは、今日 までまだ事実上のがれることのできないこの現状を認めると きにのみ、この現状のなかで自己を主張し、この現状を抑制 政治のかくしてわれわれは政治の領域へ足を踏みいれる。 領域われわれが、経済的、政治的な決定や発展にわが身しようとこころみることができる。暴力と虚偽が、ひそか

4. 世界の大思想32 ヤスパース

500 たかれにとっては、このような批判は、何ら意に介するに足 から実存の哲学への発展の歩みとして捉えることができると りなかった。しかし哲学の正教授就任とともに、かれ独自の いうことを意味する。 方法に従って、専門家としての本格的な哲学の再勉強が始め 一九二〇年に、かれはかれが哲学者の典型とまで仰いでい られねばならなかった。かれは自分の哲学的基礎をいっそう るマックス・ウェ ーの死に遭遇した。この出来事は、か れの生涯にとって決定的な意義をもつ事件となった。という深く固めることと、哲学教師としての自己の使命を果たすた っさいの研究発表を断念して、講義のほかは、研究 のは、真の哲学の意義を、われわれに想起させる唯一の人とめに、い してのウェ し ( ーが、もう死んだのであるから、自分がかれと思索のために専念した。その間しろうと哲学という世評は に代わ「て、真の哲学の意義を伝える役目ーー本来の哲学の依然として続けられ、自分の存在が世間からほとんど忘れら 伝統を護ることに寄与すること、偉大なものを感得させる術れるような孤立状態が続いた。かくして隠忍自重による沈黙 の十年の歳月が流れた。 を教えること、哲学を誤解から護ることーーを引き受けると しかしこの間、特に一九二四年以来、かれは計画的に一つ いうことを決意させるに至ったからである。こうしてかれ の著作を志していた。それが『哲学』 (Philosophie) という は、一九二一年にハイデルベルヒ大学の第一一講座を担当して いた ( インリヒ・マイヤー教授のベルリン大学転出に伴う後題名をもって、一九三一年十一一月出版されたところの、三巻 からなるかれの最初の体系的な大著である。ここでこの書物 任として、心理学の私講師から、哲学の正教授に就任するこ とが決定した。かくしてかれの専門の哲学者への転向が決定の内容について詳しく述べることは許されないが、哲学書と してのこの書物の特色の一、二のものに触れるならば、この 的となったのである。 書物は決して、普通の意味でいわれるような全体的な理論体 かれがハイデルベルヒ大学の哲学の正教授に選ばれたの は、かれの『世界観の心理学』が高く評価されたからである系を築きあげることを目的として書かれたものでないという ことが、そのひとつである。したがってャスパース自身語っ が、かれの就任については、当時ハイデルベルヒ大学の哲学 この書物はどの章から読みはじめられてもよ 部の主任教授であったリッケルトをはじめ、その他多数の教ているように、 いので、必ずしも章の順序を追って読まなくてもよいのであ 授たちの反対があった。それは少くとも表面的には、ヤスパ る。それというのは、全体はつねに部分のうちに含まれてい ースが哲学者としては、しろうとに属する人だという理由か るからであるとともに、この書物に表現されたどの思想も、 ースに対する評価は、ひとり らであった。このようなャス。ハ かれの現実の生活と切り離すことができないものであって、 リッケルトたちだけのものでなく、世間一般の評価でもあっ 単に客観的な理論体系ではないからである。この思惟と生活 た。しかしもともといわゆる講壇哲学なるものを軽蔑してい

5. 世界の大思想32 ヤスパース

278 をもって充たすようになった。 状況は、一方では、現存在の詭弁術によって利用せられ、 しかしキルケゴールとニーチェが反省に対して攻撃を加えまたそれは、あらゆるものをいつも新しい仕方で興味的に享 ないのは、それを無視するがためでなくして、むしろ反省そ楽しようとするにすぎない非実存的な美的人間によって利用 のものを果てしなく遂行して、それを支配することによっ せられる。すなわちかれはたとえ決定的な一歩を歩み出す場 て、この反省を超克するためである。人間は、自己自身を喪合でも、一切のものが一挙にして変化するものだというふう ( 3 ・炻 ) 失することなくしては、無反省な直接性へ帰ることはできな に、事物を解釈する可能性を留保する。しかし他方ではこの い。反省に没入する代りに、却って反省を媒介として自己自状況は、われわれが誠実である限り、《反省の大海》のうち 身の根拠へ帰るためには、ただ反省の道を最後まで歩むこと に生きていて、《そこでは誰でも簡単に他の人に呼びかける ができなければならない。 ことはできない。そこではあらゆる航路標識は弁証法的であ それゆえかれらの《無限の反省》には二様の性格がある。 る》という事実についての知をもって、真実に捉えられる。 それは完全な破減となることもあるし、本当の実存の条件と われわれは無限の反省を欠くならば、あたかも世界のうち なることもある。かれらは共にそのことを言表している。わにおける不変態としての絶対的であるような一つの固定的な けてもキルケゴールは、次ぎのように極めてはっきりと言表ものに安んずるであろう。換言すると、われわれは迷信的に している。 なるだろう。不自由の雰囲気というものは、このような固定 反省はそれ自身において尽くるところがない。それは自己化によって発生する。従って無限の反省は、まさにその果て 自身によって抑制せられない。それは不忠実である。という しなく進行する弁証法によって、自由の条件となる。それは のは、それはあらゆる決定を妨げるからである。それは決し有限的なものの牢獄をすべてうち破る。反省の媒介によって ( 3 ・ ) て完了することがなく、結局《弁証法的饒舌》となってしま はじめて、無疑問的なものとしてまた自由でないところの何 うことがある、というのである。従ってそればかりでなく、 らかの直接的な情熱からして、無限の情熱が生れうる。そし キルケゴ ールにとっては、反省は同時に反省の害毒を意味すてこの無限の情熱において、直接的な情熱は、問を通過して る。しかし反省が可能であるばかりでなく、必然的でさえあくることによって確保せられ、自由に提えられる情熱とし るということは、それ自身すべての現存在と行為が、われわて、本当の意味で確かなものとなる。 れにとって果てしなく多様な意味をもっているということに しかしこの自由が空虚な反省において無とならないで充実 よる。すなわちあらゆるものは、反省にとっては、たえず別せられるためには、無限の反省が《坐礁》しなければならな ( 3 ・い ) の異ったことを意味しうるということによるのである。この こうしてそれははじめて、或る何ものかのうちから出発

6. 世界の大思想32 ヤスパース

政治的自由に関する二者択一は、事実上、権威の た。しかもこの政治的自由は圧倒的多数の不自由な人間存在 ニ者択一 から出現するものだけに、つねに驚くべきものであり、無限に 暴力であり、万人によって承認されるべき権威の 貴重なものであり、つねに極度の危険にさらされていた。 名において大多数のうえに立っ少数者の支配である。 政治的自由はただ小さい範囲でのみ、実現された。政治的 しかし、権威による支配状態に対しては、人間を支配する 自由は、古代アイスランドのばあいのように離れたところで人間はいつでも存在するという命題が、決定的な反論とな も、ギリシア人、オランダ人、アングロサクソン人などとく る。世界のなかには、神とか絶対的真理は存在しない。神の らべれば精神的にはたしかに劣っているにせよ、やはり大き名において、あるいは絶対的真理の名において権威を要求す な現実を獲得することができた。けれども、やがて、いたる るのは、つねに人間のみであって、神や真理そのものではな ところで自由は失われてしまった。圧倒的に多数の国民と国 。暴力を権威のために用いるのは人間のみである。そのよ 家の実在は、自由にとって不利である。 うな権威は信じるに値いしない。かかる権威は、そのあらゆ 自由による不幾多の事実は、最もはげしいつぎのような異る形態において、恥ずべき、卑劣な、悪しき行為によって、 当の代価論の味方である。すなわち、自由は不可能で信頼を失っている。 ある。なぜなら、人間は自由によって不当の代価を要求され るからである、と。のがれることのできない状況、最高の勇 気を与えてくれるがまた最大の危険をもたらす状況が、存在 われわれは、あたかも自由が自明のことであるかのよう する。なるほど、人間は、本来的に人間であるために、自由 に、軽率にふるまうべきではない。 となるべきである。それにしても、人間はこのことを国民大 そもそも、われわれは、政治的自由が人間の本質に根 決断 衆のなかにある現実的人間としては、事実上なしとげること ざしているという命題を、固持することができるであ ができない、 という状況がそれである。 つ、つ、か 9 ・・ ここには、正しいことがらについての異論の余地のない認 識はありえない。問題なのは、人間全体の、自分と政治的に そのような異論からこういう帰結が出てくる。疑いの余地運命をともにする人々をもふくめて一人一人の人間の考えか を一。カ たにおける一つの本質決定である。 のない権威による支配が、存在しなければならない、 かる支配は、つねにどこにでも存在した。かかる支配が、今自由への洞察二者択一のまえに立って、われわれの知らな と決断 ければならないことは、何のためにわれわれ 日、ロシアやシナに、世界における優位を得させている。

7. 世界の大思想32 ヤスパース

いかにもヨーロッパ精神は、アメリカにもロシアにも滲 ) 般の、世界を包括する規模での軸を意味しないし、かつま している。しかし彼らはヨーロツ。ハ人ではない。アメリカ人 た、それが今後もそのような軸となりうるであろうとは信じ は ( ヨーロッパの出ではあるが ) 、新たな自意識と、自己の : こい。西洋がすでに精神的ー霊的に退行に陥り、そしてま た西洋が精神的ー霊的にどん底にあったシナやインドにつき地盤に基づく新たな根源を、それが見いだされないにせよ、 当たった時に、ようやく出現した科学や技術の成果を携げたそれを見いだそうと努めている。ロシア人は歴史的には東洋 に自己の基礎をもち、いろいろなヨーロッパ系民族とアジア ヨーロツ。ハ人の活動が、全く別な軸となるのである。 系民族との混合からなり、精神的にはビザンツに拠って 十九世紀末には、ヨーロッパは世界を支配しているかに見る。 しかしシナとインドは、今日なお何ら決定的な勢力ではな えた。このような情勢は最後的なものと思われた。「ヨ 1 ロ いが、将来その重要性の点で大きなものとなるであろう。掛 ッパ人は船で世界を一周した。彼らにとって世界は一つの球 体である。彼らによってまだ支配されていないものは、支配け替えのない深い伝承をも 0 たこれらの大きな人口集団は、 いっさいをいや応なく呑み込まずには置かない、今日の されるに価しないのか、あるいは支配される運命に定められ ていないのか、そのどちらかである」という〈ーゲルの言葉人間存在の変革の嵐の中で、おのれの生きる道を求めている あらゆる他民族と提携しつつ、ーー人類の一要因をなしてい の正しさが、確認されているかに思えたのである。 ヨーロッパ的な技るのである。 それ以後何たる変転のあったことかー 術を受け容れ、ヨーロッパ的な国家主義的要求を身につける ことによって、世界はヨーロッパ的となったのであるが、し かこの二つのものをヨーロッパに対抗させるのに成功して ℃る。ヨーロッパは、古いヨーロッパのままでは、もはや世 ヨーロッパはアメリカとロシ 界の支配的重要因子ではない。 アに凌駕され、退けられた。もしヨーロッパが今わのきわに のそんで結東し、新たな世界戦争が全地球を破壊の嵐に巻き 込む場合、中立を維持するに足るほど強力とならないなら ヨーロッパの運命は全くアメリカとロシア両国の政 策に握られているのである。

8. 世界の大思想32 ヤスパース

な破壊的作用との一一義性が存立している。 学から何が生ずるか〉と問うことは、われわれが実際におい 肪われわれは、かれらがうける誤解に対して、すなわちかれて、一つの窮極点に立っているのだというわれわれの自覚を らの思想や言葉を利用するに当ってそれを、詭弁的に錯倒し 示すものである。へ 1 ゲルは、ヨーロツ。ハの客観的・自覚 たり、果てしなき反省に誘惑したり、あるいは欠陥や隙を暗的・絶対的理性主義の哲学の最後のものであり、現代におい 示したりするなど虚無主義的な仕方で行うことに対して、哲てかれに関して〈哲学すること〉は、過去の実体の全体につ いて顕わに知ることである。キルケゴールとニーチェは、神 . 学的に防禦しなければならなかった。けだし、われわれはそ れによって、かれらが遺した不減の要求をそれだけに、一層あるいは無をもっ交わりを欠いた例外的存在の無限の反省に 決定的にわれわれ自身で経験しようとするためである。 よる懐疑の可能性の最後のものである。この最後的なものの 過去数十年間において、一方において、真理がいわゆる理ふたつの様式を徹底的に研究することは、単に哲学するため の思想的手段を獲得するためばかりでなく、むしろ本質的に 性的なものに、ただし単に理性的と見えるにすぎないもの は、無の合理的な主張において、外面的にではなく、自己い に、制限せられたが、それは何らの力もなく、効果もないこ とであった。また他方において、理性に対する非難が行われ身の経験において内面的に、われわれが本当に知る地点にま で到達するために、必要な条件である。実際において、われ たが、これも前者と同様に効果のないことであって、充分に 理解せられない理性への信仰は、ややもすればこのような理われは無の前にいるのでなくして、人間が生きる場合は常に 性の非難へ転換せられうるものであった。そこでもし人びとそうであるように、根源の前にいるのである。新しい〈哲学 ( 1 ) がこの事実を見るならば、われわれが今日実存哲学と名づけすること〉はこの経験から生れる。そこでわれわれは、その - ( 2 ) るところの哲学は、混沌とした反理性的な運動の一つである可能性について一つの像を求めようと思う。 キルケゴールとニーチェに従う哲学は、かれらの思惟を ことを欲せず、むしろ合理的な理性性の欺瞞的な装をして登 場したり、公然たる反理性として登場したりする混沌たるも一の一貫した関連におき、それによって、かれらの根拠から のや、頽廃的なものに対する反動となることを欲するのであ離れ去った叙述をするということによって成立することはで る。実存哲学においては、超越的に関係づけられた生の明瞭きない。重要なことは、この根拠それ自身をして、その力を 性が、根源の決定性から出て、再び思惟的表現において、わ発揮させることである。課題は、われわれが、例外者を凝視 れわれがそれと共に生きる一つの〈哲学すること〉として、 しながら、例外者であることなくして、哲学するということ である。 伝達可能とならねばならない。 例外者の真理は、われわれにとっては、たえざる懐疑とい 現代の思惟的状況において、再び、〈哲学とは何そや〉〈哲

9. 世界の大思想32 ヤスパース

326 りこそ、唯一の交わりの意志でありうるものであり、あらゆ的に知ると同時に、それにも拘わらずーー・何処へ導かれるか は自分には解らないのであるが「ー自己の道を飽くまで固執 る様式の交わりの状態の中で本来的に衝動力と結合力をもっ するという一種の不撓不屈な態度をもって行われるのであ た交わりの意志である。 しかし可能的実存から出発して、理性を通って、三つの様る。 第三に生ずる結果は、真理が交わりにおいて決して窮極決 式において実現せられるこの交わりの意志は、それ自身完成 せられることがない。というのは、それは常に三つの様式の定的なものとして獲得されたり、確立せられたりしない限 り、真理と交わりは超越者の前で、それらの生成は存在の前 包括者のうちに拘東されていて、その都度の様式においては で、いわば消失するように見えるということ、しかしそれら たとえ目覚まされ、衝動を与えられはするが 曇らされているからである。そしてそれは窮極において、自の決定的実現が同時に、この超越者に対するもっとも深い開 己が自己自身の実存と他の各々の実存との歴史性によって限放性であるということである。 全体的な交わりはそれ自身どの程度ま 界せられていることを見出すからである。ところでこの歴史 時間のうちにおけ 性は交わりを深めると共に、それを交わりとしての真理の多る真理のニ様の意で、真理の現実、すなわち時間のうちに 義 ( 独断的真理とおけるわれわれの真理、であるのか、と 様性の前で挫折させる。 交わりによる真 いうことが問題である。この問題は時間 時間のうちにある実存のこの状況からして、第一に生ずる 理 ) のうちにおける真理の二様の意味を描写 結果は、真理が交わりに結び付いている限り、真理それ自身 は単に過渡的でしかありえないということであり、真理はそすることによって明瞭になる。 かりに、何が真理であるかということが、歴史的に窮極決 れが深いものである限り、独断的でなくして、交わりをもっ ということである。そこで過渡的な真理の意識からしてはじ定的なものとしてーー対象・象徴・言語においてーー捉えら めて、現実における交わりの意志の徹底的な開放性の可能性れたかのように思えたとしても、なお、この獲得せられてい ま現存する真理は、どうして万人に伝達せられるか、という が発生する。ただしそれは、歴史的瞬間における以外には、 この真理は自己のうちに閉されており、 問題が残っていた。 かって完成されることはなく、この瞬間にもまた、それ自体 それ自身は時間のうちにあって無時間的であり、従ってそれ としては、まさに再び交わりが不可能となるのである。 第二に、真理の多様性のために挫折することにおいて、無自身として完全であって、人間に依存してはいなかった。し かし人間は真理に依存するものと見なされていた。それから 限の交わりの意志が湧きおこるという結果が生れる。そして このことは、全体者が到達せられないものであることを決定その都度人から人へと伝達が始まった。そしてこの伝達は相

10. 世界の大思想32 ヤスパース

隠されていたところのものの新しい現実となる。それゆえ時という哲学に対して、〈汝が信仰する如く、汝は存在する。 間性のうちにある生が、人間にとって正しく理解せられると信仰は存在であを〉という命題を対立させる。 = ーチ = は権 いうことは決してありえぬことである。どんな人間も自己のカ意志を見る。しかしながら信仰にしても権力意志にして も、それは単なる標識 Signa であって、それとしては、言 意識に絶対的に精通することはできない。 かれらは共に、存在に関する知のために解釈の譬喩を応用おうとするところをそのままに示すものではなく、むしろそ するが、しかしそれはあたかも、存在を解釈の解釈においてれ自身は再び無限に解釈せられうるものである。 その際かれら両人にとって決定的な衝動は、誠実というこ 判読するかのようにして行われるのである。ニーチェは自然 とである。この言葉はかれらにとって共通的に、かれらが従 人間 homo natura の基礎的原典を、いろいろな上塗を剥 ( 3 ・ 8 ) ールは自分うところの窮極的な徳を示す表現である。誠実は、あらゆる ぎとって、ありのままに読もうとする。キルケゴ の書いたものに、それらは個人的・人間的な実存的状態の原内容が疑わしくなってどうにもならなくなった後において も、なお可能であるところの最小限の無制約性として残るも 文を再読しようとするものであるということより以外のいか ( 3 ・ 9 ) のである。しかしそれはまた、かれらにとって、自己自身を なる意味をも与えない。 なお疑問に附するところの真実さの眩暈を催させるような要 かれら両人ーー最も公明で最も冷淡な思想家ーーがややも すると匿名や仮面を使用しようとするのはこの根本思想と関求ででもある。その真実さは、真なるものを疑問をもたない 連している。仮面はかれらにとっては必然的に真理である素朴な態度で、一義的に、所有すると考える合理的な強制と ことである。間接的伝達はかれらにとっては、本来的な真理は正反対のものである。 それではこのような思惟においては、一体そのほかに語ら を伝達する唯一の形式なのである。そして間接的伝達は表現 としては、時間的現存在におけるこの真の非決定性を意味すれる何ものがあるのか、という疑問が生するかも知れない。 ールも、ニーチェも、かれらの思惟の理解が、 る。しかしこの時間的現存在において生成過程のうちにある実際キルケゴ 真理は、さらにあらゆる実存の根源からして把握せられねば単に思惟するだけの人間としての人間には通じないことを意 実ならないのである。 識している。そこで問題は、理解する者が何人であるか、と いうことである。 性もとよりかれら両人は、かれらの思想の進行過程のうちに 理 かれらは、かれらが単に間接的にだけ語ることができるこ あって、恐らく人間において存在そのものであるところの根 とを、自己自身のうちから携えてきたり、生産したりしなけ 拠に衝き当る。すなわちキルケゴールは、パルメニデスから ればならない個人に身を向ける。キルケゴールが引用したリ デカルトを越えてヘーゲルに至るまで〈思惟は存在である〉