208 実を経験し、把握する。象徴を実在化して世界の中での現存るもの、われわれがそれに参与すれば、それ自身で明瞭かっ 在と考えても、象徴を審美化して感情のための勝手な手引き必然的になる、自由の生起の指標であるものを生み出すので ある。 とみなしても、同じく現実の喪失が起こるのである。 人間への信仰は、自由に基づく人間のもろもろの可能性へ 人間への信仰。 人間への信仰とは、自由の可能性への信仰である。人間像の信仰であって、人間を神化するあまりの、人間への信仰で はない。人間への信仰は、それによって人間が存在するとこ は、彼の実存という、この像にならない特性が彼に欠如して いるならば、あくまでも不完全たるをまぬがれない。換言すろの神性への信仰を前提とする。神を信ずることなくして は、人間への信仰は、人間の軽視、人間への尊敬の喪失に堕 れば、神から自己自身を贈与されているのであるから、人門 は、人間から生するものにかつは感謝し、かつは責任を負わし、その結果はついに、他人の生命を冷淡に、消耗品とし て、破壊的に取り扱うに至るのである。 ねばならぬ、ということである。 ③世界の中でのもろもろの可能性への信仰。 歴史から鳴り響いてわれわれの胸を打つもの、人類の起原 ことって、世界はそれ自体で完結してお ただ誤った認識冫 にまで達するほどのわれわれの祖先との交わりにおいてわれ り、世界は臆測上認識可能な機構、あるいは漠然とした無意 われを勇気づけるものは、彼らの自由の追求、すなわち、 かに彼らが自由を実現したか、いかなる形で彼らは自由を発識的な全体的生命に下落する。 批判的認識がその限界において示すもの、この謎に充ちた 見し、意欲したか、ということである。われわれは、人間が なしえたこと、人間が彼らの歴史的現実からわれわれに語っ世界の中で自己の存在を見いだす直接的経験に対応するも の、これが聞放性であり、全体としての考量不能性であり、・ ていることにおいて、われわれが何であるかを再認するので 汲みつくしがたいもろもろの可能性なのである。 ある。 世界への信仰とは、自己具足的な存在者としての世界への 自由に当然必要なのは真の交わりであるが、これは、単な 信仰をいうのではなく、もろもろの課題や可能性とともに、 る接触とか、申し合わせ、同感、共通な利害とか満足とかよ 世界の中に自己を見いだすという根本的な謎を、しかと心に り以上のものである。 自由と交わり、両者は論証しうるということからほど遠とどめることをいうのである。 冫 : し力なる自由 世界はもろもろの課題の場であり、それ自体は超在に由米 経験による論証が開始されるや、そここよ、 もいかなる実存の交わりも存在しない。しかし両者は、現象する。われわれが自己の本当の意欲をさとる時、はからすも としては充分説明可能でないが、それでも経験の対象とはなわれわれを襲う言葉が聴こえてくるのは、実にこの世界の屮
250 の現前性へと、突き戻させる衝撃が起こるのである。 しかし今日では誰も、人間の存在をとにかく数十万年以上に もつばら審美的な態度に終始する歴史の考察が克服さ わたって証明している骨発掘を疑うものはないという極端な いっさいはそ 実例を見れば明らかである。歴史と同時に現われる、歴史にれる。もし史学的知識の無限の材料に臨んで、 れが存在したという理由で、ただあるがままを際限なく承認 対する時間の尺度は、たしかに外面的で本質的ではないが、 こ対するさまざまなする公平な態度で、回想するに価するものであるならば、こ しかし忘れられえぬし、そしてまた意識冫 の無選択な態度から出てくるのは審美的態度である。この態 結果を生み出す。というのは、経過した歴史の消えなんばか 度にとって、いっさいは何らかの程度で好奇心をひき起こ りの短さが明白であるからである。 歴史の全体性とは開かれた全体をいうのである。これに対し、かっ満足させるのに役立っとみなしうる。すなわち、あ 処するに経験的態度は、わずかの事実しか知らぬことを自覚るものは美わしい、そして他のものもまた美わしいのであ し、新たな事実を把握しようとたえず心掛ける。哲学的態度る。科学的であれ審美的であれ、このような無拘東な歴史主 は、絶対的世界内在のあらゆる全体性を崩壊させる。経験と義は随意勝手な見方に堕し、これにとって、いっさいが等価 哲学とが相互に要求し合っているならば、思惟する人間にと値と化した後は、何ものもがもはや価値をもたなくなる。し かし歴史的現実は無拘東なのではない。歴史との真の交渉 って、もろもろの可能性の空間、そして自由が残っている。 は、われわれと歴史との闘いなのである。歴史はわれわれの 開かれた全体は、思惟する人間にとって、始めも終わりもな い。いかなる閉鎖的な歴史像も認めえないのは当然なのであ関心をひき起こす。歴史においてわれわれの関心をひき起こ る。 すものは、不断に拡大される。そしてわれわれの関心をひく 今でもなお可能であり、自己自身を知り尽くしている全体ものは、これがすでに人間の現在の問題なのである。歴史 は、審美的享受の対象にとどまることが少なければ少ないほ 的思考の方法は、次ぎの諸契機を含む。すなわち、 もろもろの事実が取り上げられ、それらがどのような音色ど、ますます現在的となるのである。 われわれは以前にもまして、より包括的、より具体的 を発するか聞き取らせ、それらが含んでいるかもしれぬ意味 を感じ取らせるように、いわば叩いてためされる。 な意味で、人類の統一を目ざしている。われわれは人類が多 われわれは至るところでもろもろの限界に突き当たり、そ数に分岐している現象面から、一つの人類という根源を眺め るときに覚える深い満足を知っている。人類が繰り拡げる豊 の結果、視野の極限がきわめられる。 かくしてこれら限界から、われわれはもろもろの要請を感饒な活動分野を眺めることが機縁となって初めて、われわれ じ取れるようになる。歴史を眺める者を自己自身へと、自己は自己の特殊な歴史性へと突き戻され、自己の真の姿に目覚
171 ある種の資格や地位が、選抜の際に優位を獲得する。自発性僚制の組織と効果に、従来なかったもろもろの可能性を与え が刺激されるにしても、それはあくまでいろいろな条件下に ている。官僚制は今や真に全体主義的になりかねないのであ る。 限られているのである。全体として心のおもむくところは、 自分の働きで自分の進路を切り開く希望を絶たれた、疲れ果 官僚制とは、事務的活動領域における官僚 ( 書記 ) による てた腹立たしさである。 規則と指令に基づく支配をいう。それはまるで一箇の機械装 われわれは二つの大きな傾向を眼のあたりにしているが 置である。しかも官僚制は、役人流儀、役人根性によって機 われわれがはっきりとした行動をとる時、それらのいずれか構を運営する。 が、われわれの決意の根源として、とにかくすでに選ばれて 官僚タイ。フの序列が、図式的に描かれうる。 しまったのである。状況は次の二つのいずれかである。 理想的役人は、まるで研究者のように、ほとんどたえず自 例えば百一一十年前 一方の場合ではわれわれは、自由な選択にゆだねられた広分の仕事が念頭から去ることがない、 大な運命に直面する。われわれは、この場合しばしば多くの の一高級行政官が、死に臨んで、彼が何を考えているかを問 不合理が発生しようとも、もろもろのカの自由な競演の過程われ、国家について、と答えたごとくである。彼は自主的に に、もろもろの好機の到来を信じて疑わない。何とならば、 理解した上で指令に服従し《官僚制が奉仕すべき本当の問題 不合理を修正する機会はあくまで残されているからである。 からあくまで遊離せず、自分が決定をくださなければならな 他方の場合ではわれわれは、人間によって行なわれる全体 い具体的状況に身をもって生き、官僚的行為をやむをえぬも 的に計画された世界、これと同時に、精神的、人間的破減をのだけに限り、 いかにしてそれが回避しうるかをたえす問題 伴う世界に直面するのである。 にするエトスをもち、そして、事務処理が迅速明朗に進捗 し、政策の実施に当たってはあくまで人間的であり、援助に 5 計画化の手段、すなわち官僚制 好意的であるように行動する。 これより一段下級にあるのが職務に熱心な官僚である。彼 大きな人間集団の成立に伴うもろもろの事業が整然と行な われる場合、官僚制が必要とされる。従ってこのような事業はなるほど官僚制そのものに興味をもち、仕事に熱心なあま 史が行なわれるところには、いつでも官僚制が登場するのであり、努めて事業を拡大複雑化し、職務に悦びを見いだしてい る。それは古代エジ。フト、古代世界帝国、フリートリッヒ一一るが、しかし指令に応じて誠実確実に行動する。 キリシャ 世のノルマン人国家において大いに力を揮ったが、・ 第三の階級に属する官僚はエトスーーー国家や職務への誠 の都市国家においてはそうでなかった。しかし近代技術は官実、信ずるに足る誠意ーーを失ってしまっている。賄賂や気
各科学は方法と対象により制約されている。どれもが世界されうるのである。 肯定的に表現すると、諸科学の連関は大略次ぎのように表 へ向けられた一展望ではあるが、どれも世界を把握しない。 どれもが現実の一断面をいい当てているが、現実そのものを現できる。 諸科学の連関は、認識することの形式に成立する。あらゆ ではない。おのおのはおそらく、およそ現実の一面ではある る科学は方法的であり、範疇において思惟し、それぞれの特 が、全体としての現実に該当しない。もろもろの特殊科学は 存在するが、現実的世界全体に関する学としての一なる科学殊的認識において必然的であるが、しかしこれと同時に、そ このようにおよそ科学なるものは特殊的、専のつどいろいろな前提をもち、対象領域が確定されているこ は存在しない。 , - 長をもつものである。 とで、制ド 門的、分科的であり、しかもおのおのは、境界もなく、しか 更に、成果や方法を通して互助的に影響し合っている諸科 もまとめられた一つの世界に属しているのである。 どのように諸科学は連関し、いかなる意味で一つの宇宙を学が、前提としたりされたりする関係ゆえに生ずるもろもろ の連関がある。諸科学は相互に補助科学となる。一つの科学 なしているのか ? は他の科学の材料となる。 この答えは否定的に表現する方が、肯定的に表現するより 諸科学は普遍的に知ろうと欲する主体的衝動に共通の基礎 認識しやすい。すなわち諸科学の統一性は、それらによって 認識される現実の統一性にあるのではない。諸科学は、それをもっている。 特殊な認識領域の指導的理念を貫いて、明確に表現できな らを総計しても、全体としての現実に一致しない。諸科学は ヒエラルキ い統一の理念が語り掛けており、あらゆる現実的なものと思 現実へますます接近することによって、何ら階層秩序を構成 三一口 しない。諸科学は、あらゆる現実的なものを支配する統一性惟可能なものに対し、身を閉ざすことなく公明であれと要青 している。あらゆる科学は道なのである。もろもろの道は交 としての、いかなる体系も形作らない。 錯し、離れては再び結びつき、目標を示さない。しかしあら ありとあらゆる知を総括するというもろもろの世界像が、 ロ凵 ゆる道は、歩まれることを念願としている。 むなしくも試みられたが、それも一度や一一度ではなかった。 と 諸科学は、それそれ使用する範疇や方法の点で異なる部門 髞世界像は近代科学としては、本来の意義にもとる。これら世 に分かたれているが、相互に関係づけられている。探究の無 の界像には、ギリシャ人たちの宇宙観の影響がなお生きてお 限の多様性と統一の理念は、緊張関係にあり、一方から他方 歴り、真正の認識を阻害し、哲学のにせの代用品をなしてい への衝動が働いている。 る。一方哲学はといえば、諸科学に拠りながら、しかも別な 知の体系的性格は近代の認識においては、世界像となる代 根源から発し、別な目的をもって、今日ようやく純粋に実現
423 哲学の小さな学校 成りゆきではない。われわれが将来を認識するのは、将来をす。それゆえ、政治的討論は国民の政治生活の一つの場であ われわれにとって好都合なものに変えるためである。われわる。そうでなければ、それはむだ話でしかないし、たんなる れは、われわれが自分たちでともに造りだすところのものを心理学の対象でしかない。したがってまた、政治的技術の側 予見しようとする。将来を規定するもろもろの事実、将来の からすれば、たんなる操作対象でしかない。 よ、決して いろいろな条件や可能性、それらについての認識 ( このばあい、哲学的な自覚の意味はどこにあるか ? 哲学 完成されることがない。われわれの責任は、このことを洞察的な自覚は討論をいっそう透明なものにする。というのも、 するところにある。しかもそれは、」 の責任すなわちわれわ哲学的な自覚は、もろもろの原則と目標とを明らかにするか れの目標設定のための責任を、最も明晰にひきうけることが らであり、最も大きな問題と、本質的なものの序列とをまざ できるためである。 まざと描きだしてみせるからであり、人類の運命を洞察し、 けれども、われわれは、このような認識と責任の範囲にお「何のためにわれわれは生きるか ? 」という問いの形で、政 いて、将来の決定的なできごとが、わけても証言的な倫理衝治的な問題をとりあけるからである。 動、信仰衝動が、依然としてわれわれの視野のそとにあると いうことを、知っている。予見されえないものこそが、歴史 の場である。けれども、われわれはこの予見不可能なもの を、われわれの期待やわれわれの計算のなかに含めることは できない。 将来の不安と不確実に直面して、政治的討論の内容が高ま る。政治的討論は、現在認識されうるもろもろの事実に目を 向けるように強いる。将来の萌芽は、それらの事実のなか で、澄んだまなざしをもつ者にとって知られる。 政治のニつの政治は二つの極に方向づけられる。一方の極 は、ありうべき暴力であり、他方の極は自 , 田 な相互関係である。 暴力に対しては暴力による防衛が必要である。少なくと も、われわれが無力にも他人の奴隷となり、減亡してしまう 結論をつけよう ! われわれは何のために政つもりでないならば 。自由な相互関係は、制度や法律に 政治的討論に おける哲学的治的討論をするのか ? 政治的討論は、政治よって、一つの共同体をつくりあげる。力の政治と合議政治 反省の意義 的自己育成に役立ち、行為の心構えをうなが とは、その意味からいって、たがいに対立している。両者が 六政治における人間の生成
物として、われわれを動かしている。しかし以上のような空共に所属するところの精神の王国、魂の調和のうちに存在が : 、、はっきりしないのである。 想や観念いっさしカ 開示する隠れた王国として、われわれの渇仰の的となる。し 統一の観念は、もしそれが象徴以上のものであるというな かし歴史としては、あるものはあくまで動きであり、それは らば、欺瞞である。目標としての統一は無限の課題なのであ いつでも始めと終わりの間にあって、それが真に意味するも る。というのは、われわれに認められるあらゆる統一は特殊のを達成したり、あるいは持続的に実現するなどということ はないのである。 的であり、ありうべき一つの統一の前提にすぎない。さもな ければ、それはあらゆる特殊性を塗り潰す水平化にほかなら ず、この背後には測り知れぬほど深い隔絶、衝突、闘争が隠 第四章現代の歴史的意識 されているのである。 完結された統一とは、単なる理想としてさえ、決して明確 で矛盾なく描き出せない。 このような統一は、完全な人間と 人間は歴史的な知の偉大な伝承のうちに生きてきた。古代 しても、正しい世界秩序としても、隅々まで行きわたる、開以降の偉大な史家たち、もろもろの歴史哲学的全体観、芸術 かれた相互的な了解とか調和としても、いずれも実現されえや詩、こういった数々がわれわれの史的空想を充たしていた ない。一者とはむしろ、根源であると同時に目的でもあるとのである。そこへ近世になって、徹底的にはようやく十九世 ころの、無限遠の相関点である。それは超在たる一者であ紀になって、批判的な歴史研究が起こったのである。どんな る。このようなものとして、それはいわばとらえられえない 時代も、現代ほど過去に関する歴史的知識を所有しなかった。 し、真理そのものとして万人に強制されうるような歴史的信われわれ以前の世代が所有しなかったものが、さまざまな出 仰の独占的所有になりえないのである。 版、復元、蒐集、分類されて、至極簡単に手に入れられる。 票全体としての普遍史が一者から一者へと進むにしても、と 今日ではわれわれの歴史的意識の変革が進行中と思われ とにかくわれわれに近づきうるものいっさいは、これら両極のる。科学的な歴史のかの偉大な業績は、引き続き進められて 間にあるという事実は動かしがたい。だからこそ、もろもろ いる。しかし今や、この材料がいかように新たな姿を与えら 史の統一が生まれてくるのであり、統一が熱烈に求められるのれるのか、それは = ヒリズムの坩犠の中で永遠の根源の唯一 であり、そして再びもろもろの統一の熱心な破壊が繰り返さの驚くべき言葉に純化されるのに、どのように用いられるの れるのである。 かが、明らかにさるべきである。歴史は単なる知識の一領域 たることをやめ、再び生活意識と問題意識の間題に復帰し、 かくして最も深い統一は、眠に見えぬ宗教、相互に出会い
2 幻 となる以外に終結しえない。 とになる。歴史は存在の充実としての過渡的存在である ( 第 ところで歴史の中にあって、永遠なるものからの実現と解二章 ) 。 される真に歴史的なもの、すなわち歴史の意味は何かという 第三に、歴史は、どこに歴史の統一があるのか ? という 問題は、われわれをたしかに、そのものを見分けようと駆り ドいを通して、一なる全体の理念となる ( 第三章 ) 。 立てはするが、しかしわれわれが歴史的現象に全体として究 もろもろの深淵、すなわち歴史以外の自然、歴史の火山的 極的に判決をくだすのは、あくまで不可能である。というの 基底としての自然、ーー歴史の中に現われては消えてゆく実 はわれわれは、裁く神性ではなくして人間であるからであ在の移行性、ーーそれが原因で、いつでも曖昧な統一が求め る。人間は、歴史の意味を関知しようとして、かえって自分られるところの無限の分散、 こういった深淵を意識して の真意を明らかにするのである。従ってわれわれは、理解を眺めると、真に歴史的なものに対する感受性が高められる。 深めるに応じて、ますます関心を高めながら探究を続けるの である。 第一章歴史の限界 歴史は生起であると同時に、この生起の自覚であり、歴史 と歴史に関する知は一体をなしている。このような歴史は、 自然と歴史 いわばもろもろの深淵に取り囲まれている。歴史が深淵に堕 ち込めば、それは歴史であることをやめる。われわれが歴史 われわれは通常人類の歴史を、地上における生命の歴史の に関し、特に付け加え、強調したい点は次ぎの通りである。 僅少部分として考えている。この場合人類史は、植物や動物 第一に、歴史には、他の実在界すなわち、自然と宇宙とは の歴史と比べてきわめて短い ( 最も古く考えても第三紀末以 違ったものとされる、もろもろの限界がある。歴史の周囲に降であるが、これも疑わしい ) 。これに反し動植物の歴史は、 は、存在者一般という無限の拡がりがある ( 第一章 ) 。 時間的には地球史の光景を完全に支配している。われわれに 第二に、歴史には、個体的なものの単なる実在とか、止め知られている六千年の伝承的歴史は、数十万年にわたる長い ようもなくひたすら過ぎ去るものとかの、変化を貫くもろも 非歴史的な人類史に比べれば、やはり全く短い出来事なので ろの内的構造がある。歴史は、一般者と個体との統一をまつある。 て初めて歴史となり、かくして歴史は、掛け替えのない意義 こういった観念は誤りではない。しかしこの観念には、真 に歴史なるものが、まだ全然現われていない。それというの をもった端的に個体そのもの、唯一ー一般的なものを示すこ
210 つもりならば、こうした動機の存在は、悟性にとって忌むべ 従って語り合いは、単にわれわれを政治的に秩序づけるた めの生活問題においてのみならず、われわれの存在のあらゆきものである。かくして意識は困ったことに、ますますもっ る面でも不可欠な道である。しかもこのような語り合いが衝て偽装されて、低次の基層に成りさがってしまう。 信仰は批判的意識として働いて、権力と支配、悟性の計画 動と内容をうるのはほかならぬ信仰からなのである。すなわ 化、科学、芸術等の、有限的物事の自己制限の役割を果た ち人間とその可能性への信仰、あらゆる人の結びつきを導く に足る一者への信仰、私が他の自己の生成をまって初めて私す。すべてはそれそれの限界のうちにあり、ある指導が全体 この指導 自身となるという信仰から、語り合いの衝動と内容が生まれをおおうのであるが、この指導とは計画ではない。 は、信仰が照明する際に意識されるいっそう深い一つの秩序 るのである。 寛容の限界は、ただ絶対的非寛容に直面した場合だけであに由来する。かくして有限的なものはいわば魂を吹き込まれ る。しかし生きている人間である限り誰でも、どれほど非寛ており、従って無限者の現前性の様式なのである。有限者は うつわ いわば器ないし言葉であり、そして有限者が自己の有限性を 容的に振舞おうと、彼が人間であるがゆえに、寛容の可能性 忘却しなければ、有限者はその働きゅえに、無限者の現前的 を蔵しているにちがいない。 存在の担い手なのである。 ③あらゆる行為に魂を吹き込なこと。 ここによりまた、いろいろな制度において、官僚制におい 社会主義と計画化の道において、すなわち世界秩序の道に て、科学と技術において、人間に訴え掛けるもろもろの可能 おいて実現するもの、いろいろな制度や事業、人間関係を維 持している規則や行動の型、こういったものは、これらのも性、換言すれば、以上の物事の理念に基づき、あらゆる大小 の転機に道を見いだし、全体の精神を発現させ、果てしのな ののまっただ中に存在する人間の流儀によって、さまざまな い物事に走る自己を抑えて意義と人間性を生み出す可能性が 変化を受ける。彼らの考え方、信仰、性格が、実現の様式と 出てくる。政治家、官僚、学者・ーー彼らはみな、彼らの権力 以後の成り行きを決定する。 の自己制限により、包括者に基づく指導を証明することによ 悟性が企て、目的として立て、手段として導入するいっさ って、一段と品位と意義を増すものである。 いは、人間により行なわれたり、加えられたりするのである から、結局は、悟性が思いも寄らなかったもの、すなわちそ 4 未来における信仰 れが本能であれ熱情であれ、信仰衝動であれ、理念であれ、 現在の呈する様相と、永遠の信仰のもろもろの範疇は、全 ・もろもろの動機に導かれているのである。 く食い違っているので、両者は相容れないように思われる。 従って、もし意識が悟性に準じたものにつくされるという
人がその秩序に魂として込めた精神によって初めて成立する結しえない存在者であるからである。人類が、ひたすら自己 のであり、後世の人びとがそれを継承する過程においても、 自身であろうとするだけならば、自己を制限するあまり、か 秩序はこの精神によって形成されるのである。あらゆる制度えって人間存在を喪失するであろう。 は、個人たる人間に依存する。ただ多くの人すなわち多数 しかしながら、もしわれわれが、われわれの社会生活に何 , 者、換言すれば大多数の個人が秩序を担うのである限り、個らかの意義を認めようとするならば、歴史の中にもろもろの 人はここでは決定的要素ではあるが、しかし同時に、個人と理念を把握できるし、またそれを行なわざるをえない。永遠 してやはり無力なのである。 平和に関するいろいろな構想あるいは永遠平和のための諸前 秩序を担う精神をも含めて、あらゆる秩序の異常なほどの提は、たとえ理念が具体的理想としては実現されす、むしろ ・脆さを考えてみると、未来を確信をもって眺められぬ気がすあらゆる現実的形態を越えて無限の課題にとどまるとはい え、真実であることに変わりはない。 一つの理念は、それが ・るのは当然といえる。もろもろの未来像やユ ートビアはたし 計画の真の目ざすところではあるものの、ありうべき現実と かに強力な歴史の動因ではあるが、しかし自由と人間性のた ・めに秩序を創造する動因ではない。むしろ、一つの世界秩序して予想された像とも、現実そのものとも、びったり一致さ の可能性ないし不可能性を思案する際に、自由そのものにとせられないのである。 しかし理念の根拠は理由づけられない信頼である。換言す らて決定的に重大なのは、われわれが何ら未来像をきめてか しっさいが無ではない、単なる無意義な混沌にすぎぬ かってはならぬということ、すなわち、歴史が必然的に舵をれば、、 という信仰的確証 のではない、無から無への経過ではない、 向ける目的、われわれ自身が、われわれの根本意志にそのま なのである。時間を貫いてわれわれの進路を導く理念は、こ ま取り容れている目的、その達成をもって歴史が完結される ような目的、こういった目的として何らかの想像的な現実をの信頼に対し明らかとなる。この信頼にとっては、真理はイ 票きめてかかってはならないことなのである。われわれは、歴ザヤの幻想に示されているのである。そこでは理念は象徴的 つるぎ な形象となり、「かくて彼らはその劔をうちかえて鋤となし、 史の現前性そのものとしての各現在において以外には、決し やり 国は国にむかいて劔 その鎗をうちかえて鎌となし、 起て歴史の充実を見いださぬであろう。 をあけす、戦いのことを再びまなばざるべし」という、万人 史歴史上のもろもろの可能性の限界は、その深い根拠を人間 存在にもっている。完結した最終状態なるものは、決して人調和の未来像となる。 間界では達成できない。何となれば人間とは、たえず自己自 身を乗り越えて進み、単に完結されていないだけでなく、完
な対立に持ち込んだもの、すなわち世界と超在、科学と信 途上にあるのである。 ④自由は不可能と思われる、というのは、もろもろの分仰、世界形成と永遠の存在の冥想といったものを相互に結び 極性において、あれかこれかの選択が起こってくるからであっける。これが、理性が高度の弁証法たるゆえんである。理 る。私が生きる理由と目標を、私は時間の中で具体的に決意性は、事実的な弁証法を意識を通じて究極的な結論に追い込 せねばならぬからである。私はいっさいたりえない、私は一む。 しかしもろもろの対立の克服は、漂流のあげく現実的状況 面的たらざるをえない、私は、私が同時に不可避として承認 における具体的な一一者択一にたどりつく。このことは、思惟 しているものと闘わねばならぬのである。 があくまで自己のままでありえないで、空間と時間の中での まことに自由は、時間の中での人間の道である。それは自 比いつでも起こるのである。この場合決 由の要請から発し、自由を目ざして進む。従って自由は、動実現を要求される与 意をなしうる者のみが自由である。決意を行なう者は、決意 く過程と弁証法の形式にある。 によって選び取られる不自由を、みずからに引き受ける。多 自由の動きは、理性による思惟において可能であると考え くの可能性を放棄するとともに、彼は自由に実現を行なう られる。われわれは理性を、すべてを受容理解する公明性と しかし自己に制限を加えるのである。実現によって自由 称するのであるが、これは悟性の各段階にあって、しかも悟カ は内容を獲得するが、ただし不自由への途上においてなので 性より以上のものである。理性には真なるものを現前化する 作用が割り当てられていて、その作用は悟性によって与えらある。 れた思惟形式を利用する。理性はその展開にともない、あら 自由は決して所有物となりえない。いかなる孤立した自由 ゆる思惟可能なものの体系的統一を求める。しかしこの際理 性は、ここでもまたまっしぐらに自己に矛盾対立するものをも存在しない。従って個人は、自己の生命のない空虚な自由 標探し求める。このように理性とは、悟性がついに挫折するかを犠牲として、相互関係において初めて獲得さるべき自由の との限界に達するまで、悟性をつれ出す衝動なのである。理性ために捧げるのである。 このような自由は、ただ人間の転換とともに発生する。人 起が主要関心事とするのは、もろもろの対立であり、しかもそ 間の転換とは、旧態依然たる人間たちに対し、押しつけ的な 史れは悟性を包み越えながら、同時に対立を相互に結びつける 力でもある。理性は何ものをも、最後的にばらばらのままに準備を施して作り出せるものではなく、転換の心構えのでき た人間同士の交わりの態度と切り離せない。従って自由もそ 眄放置するのを好まない。理性は悟性の一一者択一を克服しよう とする。このようにして理性は、みずからがともども最後的のものとして案出されうるのでなく、人間たちが具体的課題