いうことである。状況はこの際、いや応なく大衆との同道を 弯化に酔い、例のお伽話中のまだら服を着たネズミ取りの笛 吹きが、彼らを地獄に導くのも知らずにそのあとについて行強いている。 。理性なき大衆と支配する暴君との交互作用という状態 2 伝統的価値の崩壊 ・、、容易に繰りひろげられかねないのである。しかしまた、 かって宗教は、社会状態全体と結びついていた。宗教は社 大衆自身の中に、現実的な精神が理性的に苦闘する営みが起 こってくるということも充分考えられる。このような営み会状態に支持され、そしてまた宗教は社会状態を宗教の立場 は、諸状態を一歩一歩と変えながら行なわれる。そして諸状から正当化した。日常の生活態度は宗教に根ざしていた。宗、 、 ; 、しかしそ教は何ら疑念の余地なく、生命を養う遍在する空気のごとき 態は何びとによっても全体として通観しえなしカ ものであった。今日では宗教は、選ぶか選ばぬかの問題とな こでは多分に理性が支配しているから、秩序立った生活、自 っている。宗教は、もはや宗教のカの行きわたらぬ世界の内 由な労働と自 , 田な創造が、見きわめがたいほどに可能となる 部に拘留されている。さまざまな宗教や宗派が並立している のである。 事実、そしてこの単なる事実によってこれらが疑念をもたれ かっては上流階級に限られていたもの、すなわち、教育、 るというだけではない。むしろ宗教そのものが、他の生活領 個々の人間の生活や思想の充分な育成、精神というものにな 域から不要として棚上げされた特殊な生活領域となったので・ じみ、精神に関心を払う能力、反省し、熟慮し、相互に批判 ある。伝統的諸宗教は、ますます多くの人間に信ずるに価し 的でありかっ責任をわかち合う人間たちの最高度の緊張と対 ないものとなった、すなわちほとんどあらゆる教義や、絶対・ 立の中に理性的なものを歴史的に発見する能力、こういった ものごとが大衆自身の中で実現されるとすれば、世界は歴史的真理の独占を要求する啓示が信じられなくなったのであ る。たいていのキリスト教徒でさえ実際は非キリスト教的に の絶頂を登りつめたことになるであろう。 標しかし今日、途方もなく危険なことは、以前の全歴史はそ生活している事実が、看過しえない反証となっている。見る カっ疑念の余地なく真実に具現されている れらがひき起こしたさまざまな事件をもってしても、人間存眼にも明らかに、、 キリスト教的生活というものは、いや応なく範とせざるをえ 起在の実質にほとんど影響しなかったのに反し、現今ではこの 史実質そのものが溶解し、その核心において脅かされているとぬような姿で、おそらく今でも実際に存在するであろうが、 しかしこのようなものは、大衆にとってもはや存在しないの ) 思われる事実である。あらゆるものが確固不動でなくなった 事態が課する問題は、知識と技術を基礎とする人間が、今やである。 枢軸時代以降、人間がものを考えかっ書いたどの時代に 人間の本質たる根源から、自己の存在をいかに取り扱うかと
ぎり、もし私が混乱のなかで空しい生活のまま駆けまわりた二〇年に死んだ。けれども、この問いはいまなお緊急のもの くないならば、権力闘争において、事実上、党を把握しなけれである。 意見の一致については、今日も当時と同じように、ほとん ばならないという逃れられない必然性を示すことができる。 問題は価値判断の討論という標題ではじまった。この問題ど問題になりえない。情熱に関しては、当時はじめられた討 は、当時の研究者にと 0 て、ただちにきわめて重要な意味を論の深さも減じてしま 0 たように見える。ここで生じた若干 もつものであるように思われた。或る人々にとっては、一生の問いは、理論的であり、したがって科学的に決定されう る。思考する人間存在の本質にかかわる他の問いは、客観的 をこの課題のためにささげようと思ったほど革命的な迫力の な解決など望みうべくもない。真理への決断は、科学より以 ある課題として、また自分たちの科学的良心に対する攻撃と して、また或る人々にとっては、研究者の根本的態度におけ上のものであり、科学としての科学をも 0 とも明白ならしめ る科学性そのものの新たな基礎づけとして、現われたのであるために、標準的なものになる。 る。或る人々は、伝統的な不明確で際限のない科学の要求に 四 ーに反抗した。他の 満足していたため、マックス・ウェー 人々にとっては、純粋な知識欲が烙となって燃えあがる結果 自然科学と精自然科学においては、そのような区別はいま 神科学 この区別は、ずっと以 さら問題にならない。 になった。 そのときまで、この問題は歴史家と経済学者の科学的世界前からできていた。ガリレイは、円を楕円よりもいっそう価 の問題というかたちで残っていた。事態はいろいろの会議で値があるとか、円錐を他の立体よりもいっそう価値があるな どと、もはや見なさなくなったとき、数学上の図形を、いっ 討論された。一九一四年、すぐれた論敵たちが、遠慮なしに そう価値があるとかないとかいうようなことによってもはや 話しあうと同時に世間的なセンセーションを避けるために、 或る内密の会合を催した。この会合は、関係者の前もって準区別をつけなかった。それ以来、天の事物や地上の事物を研 備した覚え書きにもとづいて、ベルリンでおこなわれた。討究するには、ただ経験的に確定されうるものは何かという問 いだけが存在している。或るものにいっそう価値があるとい 論は非常にはげしいものであったにちがいない。マックス・ うことは、自然科学の問題ではないし、またそれをいっそう バーが立ち去るときに残した最後のことばは有名にな った。「それにしても、あなたがたは私を理解していない。」実在的であると見なす理由にもならない。 まもなく第一次世界大戦がはじまった。このような問題は背精神科学の場精神、歴史、政治、経済、社会状態、秩序な ーくーは、一九合 どに関する科学においては、事情がちがう。 後にひきさがってしまった。マックス・ウェ
しうまでもなく多様な歴史性である。 人間の歴史性とは、、 かの恒存においては、同質なのである。この真理を私は、た しかしこの多様性は一なるもの二者〕を必要とする事態に だそのつど現在において、そのつど自己の過渡的移行におい ある。この一者は、唯一のものとして存在し、いっさいの他 て見いだすのであって、知的理解でも模倣においてでもな 者を支配するという一つの歴史性の排他的要請ではなく、 、過去の現象の同一的反復においてでもない。 歴史的には、過渡的移行もまたそのつど特殊なものであ者の絶対的歴史性として、多様な歴史的根源との交わりのう る。いかなる移行が、まさしくそういった様式の存在開示をちで、意識にとって発生するのでなければならぬ。 それが人類史の統一性であるが、価値と意義を有するいっ 可能とするのかが、問題なのである。われわれが過去の大き さいがそれにかかわっていると思われる。しからばいかにし な過渡的時代に照らして参考にできるのは、ただこういった て、人類史の統一性が考えられうるのか ? 可能化に関してだけである。 経験は、さしずめ統一とは反対の事実を語っているように かくして歴史の根本特徴とは、歴史が端的に移行そのもの であるということである。本質的には持続するものは歴史本思われる。史実上の諸現象は、無限に分散的でまとまりがな 。多数の民族、多数の文化があり、おのおのにおいてまた あらゆる持続的なものは歴史の基礎 来のものではない、 もや無数の独特の歴史的事実がある。人間にとって何らかの であり、材料と手段である。これに付随するのは、歴史の終 わり、人類の終わりが、かってはその始まりがあったのと同生活が可能であった地球上至るところ、人間は住みついて特 じく、いっかはくるという考えである。後者ーーすなわち終殊な現象を生み出した。同時的に並存したり、時間上前後し て、発生消滅する多種多様な文化が存在すると一応は考えら 、われわれには実際的にはきわめ わりと同じく始まりも て隔たっており、それはわれわれには感知できぬが、しかしれる。 いっさいを蔽うてあまさぬ、一つの基準が この始まりから、 人間をこのようにみなすことは、植物的な多様性を記述し 生じているのである。 分類するのと同じように人間を取り扱うことを意味する。こ のような現象は、一団の多数者が示す偶然性であり、この多 数者は「人間」属としてある種の典型的特徴を示し、その点 第三章歴史の統一性 あらゆる生物同様、許されたもろもろの可能性の範囲内で、 さまざまな鬲一 倉差を示すものと考えられる。しかしこのような 人間の自然化は、真の人間存在を消減させてしまう。 そもそも人間が示すありとあらゆる多様な現象のうち、本 緒論
い世界的現象であるが、今日ヨーロッパでも同じような退行 義には Taoismus ( 道教 ) に対して老荘の哲学説をさすが、 広義には孔子等をも含むシナ思想全体を特徴づける天の思想が起こっている。十七世紀以降シナとインドがたえず下降線 を意味する。今かりに天道論と訳すーー訳注〕中の次ぎの命をたどった時にも、ヨーロッパは当時なおしばらくは、精神 題は、何か全く目新しいものとして、私に深い印象を与えた。的に繁栄していたのはたしかである。これらの民族がヨーロ ッパの戦争技術の前に屈服した時には、彼らは自己の教養の すなわち、「天道論的体系は、それまでシナの精神文化が到 達しえた絶頂を示している。この体系をくつがえし、崩壊さ沈滞のどん底にあったのである。ヨーロツ。 ( は全盛期のシナ せうるような唯一の力は、健全な科学である。科学がそこでやインドと遭遇したのではなく、自己自身をほとんど忘却し 真剣に育てられるような時代がいっか到来するとすれば、そたシナやインドに遭遇したのである。 今日では人類の現実的な統一が成立しているが、これは、 の時はまちがいなく、シナの全精神生活における完全な革命 この革命によってシナは、完全何か重大な事件は、どこであろうと何びとにも影響せずには が行なわれるにちがいない。 にばらばらの状態に陥らねばならぬか、あるいは新生を体験置かないという事実に明らかである。こういった情勢にあっ ては、ヨーロッパ人の科学と発明によってひき起こされた技 することになるか、そのいずれかであろう。それ以後、シナ はもはやシナではなく、シナ人はもはやシナ人ではないであ術的革命は、ひたすら精神的破局の実質的な原囚ないし誘因 ろう。シナ自身は古い体系に代わる、何らかの第二の体系をとして働くほかはない。しかも開始された人間の改鋳が成功 : 、ただシナについてのみ もたない。それゆえに、古い体系の崩壊は必然的に解体と無すれば、一九一八年デ・フロートカ 語ったこと、すなわち彼によればシナはシナでなくなり、シ 秩序を結果せざるをえない。要するに、もし人類が道を失え ナ人はもはやシナ人ではないということは、おそらくあらゆ ま、破減と没落はまぬかれがたい、という自己の聖なる教え 恐るべきる人間にも当てはまるであろう。ヨーロツ。 ( ももはやヨ , ーロ の命題をそっくりそのまま実現するであろう : ッパではなく、デ・フロート の時代に感しられたような意味 標取り壊し作業が進展し、かくして古い天道論的文化のシナの 命数が数えられるというような事態が、もしかりに、世界のでは、ヨーロッパ人ももはやヨーロッパ人ではないであろ 少なくともシナの最後う。とにかく新しいシナ人、新しいヨーロッパ人が存在する ①摂理に定められているとしても、 ことになろうが、その姿をわれわれはまだ見ることはできな 史の日が同時に、外国の影響によって不幸に落とされた多数の 歴 いのである。 民衆の破減の日にならぬように願いた、。」 転換期としてのわれわれの歴史的状況の、こうした経験に 技術時代の到来と同時に、いな早くもそれ以前に、地上至 るところで精神的、霊的な退行が起こっていた事実は、著し基づいて、われわれの視線は繰り返し過去をふり返る。かっ
人類の統一性は、宗教、思考形式、道具、社会形式等の類 人間は、個々の人間ですら、根源からして、その可能性か らいってすべてであるが、現実性からいって一つの個体であ似した特徴が、全地球上に反復実現されているという事実 る。しかしこの点彼は倒限された部分なのではなく、歴史的に、鮮かに示されていると思われる。あらゆる相違性にもか かわらず、人間の類似性は大きなものである。心理学的、社 であり、独特の根源であり、あらゆる人を結びつける一つの 会学的事実の数々は、至るところで比較を可能とし、心理 歴史的根拠を意識しながら、他の歴史的根源に向けられてい るのである。 学的、社会学的観点での人間存在の基本構造を示す数々の規 個々の人間は決して完全な人間、理想的人間ではない。完 則性が確定できるほどなのである。しかも、人間の特殊性か 全な人間は原理上ありえない。 というのは、彼があるところら理解されるにせよ、歴史的状況や事件から理解されるにせ のもの、彼が実現するところのものは、、 しっさいが再び突破よ、ほかならぬ共通なものの観察を通して、片寄ったものが 可能であり、突破されており、どこまでも決定的ではないか初めて明らかになる。普遍的なものに視線が向けられれば、 らである。人間は決して完備した存在者ではなく、また完成本質的な物事においての一致が見いだされ、もろもろの特殊 性は局部的なものとして理解され、場所や時間のせいにされ しうる存在者ではない。 るであろう。 歴史においては、一回限りの創造、破開、実現とし しかしこのような普遍的なものは、人類の真の統一性を形 て、繰り返しえす、代償しえぬものが明るみに出る。このよ 冫しカようにしても因果的に理解され作ることは全くできない。反対なのである。開示されている うな創造的な歩みま、、、 ず、必然的なものとして導出されえないのであるから、これ真理の深みに視線が投ぜられるならば、特殊なものの内に歴 ら創造は、単なる生起の経過とは別な源泉から発する啓示の史的な偉大なものが見いだされるであろう。しかし普遍的な ものにおいては、一般者、非歴史的な恒常なもの、いわば気 ようなものである。しかもこれらがひとたび存在すると、以 の抜けた事実的なもの、単に悟性的に正当なものが、見いだ 後の人間存在を基礎づける。これら創造的な歩みから人間 は、彼の知識と意欲、模範とその反対物、彼の規準、考えされるだろう。 方、象徴、内面の世界等を獲得する。これらの歩みは、相互 最も距たり合った文化の間にも、人間存在の基礎をなす共 に理解し合う一つの精神に所属し、あらゆる人に問いかける通の所有物があるにしても、全く普遍的なものが見いたされ がゆえに、統一への歩みなのである。 ると信じ込まれた時でさえ、やはりもろもろの片寄りがある という事実は、全く驚くべきであり、かつ重大である、 2 普遍的なもの すなわち、それ以外の場所では人間特有にそなわっているも
336 思惟の普遍性は意識一般という包括者と同一であるかのよ て相互に関係させる刺激物となる。田権は一般的に運動の媒 うに見える。事実思惟の形式は、この包括者のうちにその根 介者である。 源をもっている。しかしそれは、この包括者と単に同一的で 思惟の普遍性は、単に人間的現実の事実であるのではなく して、人間的現実の自己自身への解放の要求である。しかしあるのではなくして、自己自身を超越するところの意識一般 である。この超越すると共に、しかも普遍性が徹底的に要求 この普遍性は、非運として現われることがある。というの せられるということは、意識一般から発生することではなく は、思惟の形式的な優越によって、あらゆるものは空虚にせ して、われわれであるところの包括者の様式の全体から発生 られて、思惟されたものや、思惟可能なものの単なる形式に 陥ることがあるからであり、また人間存在が、あらゆる現実することなのである。これらの包括者はすべて明らかになろ うとする。そしてそれによって、それらははじめて本来的に に万遍なく触れるという洞ろな戯れに脱して、現実の中に滲 存在となるのである。これらの包括者はすべて、このような 透するとか、自己自身となるとかいうことがなくなることが あるからである。諸々の可能性の解放という根源的な積極性意味において理性である。 それらは明瞭になることを欲する。それらは包括者のすべ は、形式化されることによって、現実のあらゆる峻厳さをな くしてしまう消極性となる。しかし今度は思北に背くとなるての様式に関係することによって全体者となることを欲す る。それらは、何らかの一般者の意味を、法則と秩序に関す と、その闘争もまた、再び思惟によって生ずるわけである。 るものを、自己のものとすることを欲する。 思惟の否定は、所詮そのこと自身が思惟たらざるをえない。 しかしこのことは、この意味における非理性的なものさえ ただそれは、強制的な・単純化された・狭隘にせられた・自 己を盲目にする思惟であるだけである。思惟の非運はわれわも、理性によって触れられるという理由によってのみ、可能 れの人間存在の運命であり、またそのうちに横たわる危険である。非理性的なものは、理性によって触れられたものと は、同時に思惟によってはじめて解かれて、自己自身へ帰して、はじめてわれわれの存在となる。非理性的なものは、 り、発展へ目覚まされる現実の充実した道を見出すためのた理性と関係することによってのみ、われわれにとって、存在 と意味とを獲得する。理性は不可欠的なものである。従って えざる懐疑である。 思惟の形式的優越は、思惟の形式化によって、無意味なも私は無知それ自身を知によってのみ知り、また充実した無知 を最大限の知によってのみ所有する。思惟の普遍性は、それ のとなるが、理性的思惟の優越としては現実的である。 が形式化せられないで、結合せられ、充実せられる限りにお 第一節理性的非論理 いて、理性それ自身である。
先史時代を取り扱うあらゆる態度を検討すると、先史時代 まれない。もろもろの事実は明らかに、先史時代の存続を示 よ、われわれであるところの人に存在した途方もない可能性がますます強く意識される。こ している。しかし先史の知識冫 こでは、人間というものの鋳型を作ることによって、後世の 間存在への問いに、何ら充分な答えを与えない。 歴史の始まりから後の時代、すなわち現代に至るま歴史のい 0 さいを、すでにあらかじめ、いわば決定づけてい で、人間の精神において変わることなく存続している要素をる何ごとかが起こったのである。 拠りどころとして、先史に入り込む全く別な方法が講じられ 先史時代の時間的図式 る。この存続する要素は、無意識裡に伝えられている先史的 発掘された人骨に関しては、二つの事実が本質的な意義を な基本性格を保っていると解される。この点を手掛かりとし もっていると考えられる。 て、独創的な空想を通じて人間存在の基本性格への徹底的洞 ジャワ、シナ、アフリカ、ヨーロッパにおいて発掘さ 察が試みられる。この際、いかほどまでこれらの洞察によっ て、歴史における事実的な伝承と事件が理解可能となるのかれた人骨はーーー今のところアメリカには見いだされない 、人間属の形態の真の系統発生的順位に排列できない。 。、、実は仮説にほかならぬこれら洞察をもって取り扱われ、 このような排列の試みはすべて、われわれにとってそれ自体 観察されているのである。そうはいってもこのような洞察の 何ら連関のないものを、自由に考想して理想的に整理したも 本質は、決して失われることのない内容の開示であり、かく して、経験的に追証されることがないにしても、そこには何のである ( このような考え方は、ある原型からの派生とか発 ( オ 1 フェンの構想が典型的な実例展と解することによってのみ、多様性が考えられ、理解され ものかが残っている。 である。われわれは彼によって見るということを教えられるとなす原理に立脚しているのである ) 。 る。 ハオーフェンの構想は決して内容に乏しいものではな ②こういったたぐいのあらゆる出土品は、地質学上最古 。しかしそれさえ、目下のところほぼ事実と 1 」て推定されの地層のものですら、今日の平均値に近い脳重量を有する頭 目る先史への誤りのない洞察なのではない。考古学的発掘によ蓋骨を示しているーーしかもそれは、最高級のいわゆる類人 らす、実証主義的構成にもよらずに、それはただ歴史的に現猿の脳重量の二倍以上大である。要するに発掘された人類 の存する人間の行動、風習、習慣、象徴、思考法を観察了解すは、生物学的には、とにかくすでに人間なのである。個々の おとがい 歴ることによって、人間の生活形式と内容に関する、具体的で特徴、すなわち引っ込んだ頤、眠窩上縁の隆起、平坦な前額 とれが主要人種で、ど どれにも見られるものではない。・ 有意義なもろもろの可能性の広大な空間を開いたにすぎな れが派生人種で、どれがどれの先祖であるかは全く判らぬ
る。 しかし起原と目標は連関している。われわれが一方を考え 現代ではしかし、ひき起こされる事件は、普遍的、最包括れば、同時に他方を考えているのである。実在としては何ら 的な影響力をもち、もはやシナとか、ヨーロッパとか、アメ人を確信させるほどはっきりした形とならぬものが、象徴に リカとかの区切りは存しない。重大な事件は、全体的な性格おいて一目瞭然となる。すなわち、起原はーー「人間の創 、目標はーーー「精神の永遠の王国」として をもつのであるから、全然思いもよらない運命にかかわると 造」として 、象徴の形で示される。 いう性格を帯びるであろう。 第一の呼吸から多様な形態で展開したものは、全体として 以下の各章においてはーーー起原と目標との間の生起たる みれば、もし西洋から新たな呼吸が始まらなかったとすれ 歴史が、それが過去に属するものに限って、根本的な問 ば、挫折していたであろうと、われわれには思われるのであ る。今や問題は、歴史に将来の展開の余地が残されているか題や事実に関して論じられるはずである。概観するには、世 どうか、そしてまた、恐るべき苦悩と苦難を通して、身の毛界史の簡単な図式をあらかしめ参照されたい ( 下から上へと もよだつような深淵を通り抜けて、真の人間の生成にたどり読む ) 。 つくかどうかである、 それがいかように行なわれるか は、われわれにはまだ全然思いもよらない。 第三章先史時代 先史時代の始まりにおいて、人類が発したとする一つの起 原も暗黒に蔽われているが、一方人類が統一され、合法的秩 歴史と先史 序の中で、精神的にも物質的にも無限に開かれて生きるに至 るというような、地球を支配する人類の未来の世界も、同じ 歴史とは、言葉としての記録が伝承されている限りの過去 く定かではない。 に及ぶのである。一つの言葉でも手に入れば、われわれは地 このような起原と ( それをわれわれは、むそうさに想像し盤を獲得したかのような思いをする。先史時代の遺跡から発 むくろ 掘された言葉なき出土品はすべて、屍骸のように沈黙に終始 たり、案出したりはできない ) 、目標 ( それをわれわれは、 適切には何らかの具体的な形で描き出すことはできない ) とする。言葉としての作品があって初めて、人間の内面性、人 間の気持ち、人間の衝動が生まなましく感じ取られるように の間で、われわれの事実的な歴史が実現されているのであ る。 なる。言葉で記録された伝承が、紀元前約三〇〇〇年以上の
いうのか ? われわれは、理性的存在者が宇宙の中でおそら ごとく、すでにきわめて古いのである。 く伝達しているものをたえず聴取し、そしてついには、それ に応答することができるようになるのではないか ? 第二章歴史の基本的構造 このような空想のこれ以止詳細な描写は、この空想そのも 例えば、ありうるものと想定 のと同じく無対象である、 された情報交換に対し、幾光年もの距たりということが、ど 人間の歴史は、それ独特のあり方ゆえに、それ以外の世界 のような結果を生むだろうか、などと空想するがごときであ から際立っている。人間の歴史には、諸科学の内でも特有な る。 認識が対応する。われわれは歴史の二つの基本的性格をつか 従米こういったたぐいのあらゆる思念は、可能性を開いたみ出す。 ままに保ち、地球上に隔絶している人間の状況を感得させる 一般者と個体 という以外に、何らの意義を有しない。理性的存在者が宇宙 の中に実在する気配が、われわれにいっさい与えられていな われわれが歴史を、一般的法則 ( 因果連関、型態学的法、 い限り、何らの結果もわれわれには起こらない。われわれは 則、弁証法的必然性 ) の形でとらえるにせよ、われわれはこ その可能性を否定もできぬし、その実在性を予想もできな の一般者をもって、決して歴史そのものを所有するのではな 。しかしわれわれは、いつでも激しく胸を打っ驚嘆すべき 。何ゆえならば歴史とは、個体的な形で、絶対的に一回限 事実を意識しうるのである。この事実とは、人間が、無限のりのものであるからである。 時空の中で、小さなこの遊星上で、ついそこの六千年来、も われわれが歴史と称するものは、外面的にいえば、空間と一 しくは連続的な伝承としては三千年来、われわれが哲学する時間の中で特定な場所で生起するものである。しかもこのこ 標ことと称するところの、 いかっ知るという営みにおいて、 とは、あらゆる実在性について当てはまる。たしかに自然科・ 自覚したという事実である。 学は原則としてあらゆる物質的生起を、一般的法則によって 起 この思惟的意識ならびに、この意識においての、かっそれ忍識はするが、しかし例えば、何ゆえ硫黄はシシリー島では 史を通じての人間存在という史上特異な現象は、全体としてみ堆積して現われるのかというような、空間における物質の実一 際の分布の理山は、全然認識されないのである。自然科学的 れば宇宙の中での徴々たる事件にすぎす、全く新しく、全く しかし % 那的であり、たった今始まったばかりである、 読識の限界は、もつばら記 一、、一されうるだけで理解されぬ個別 的実在性である。 それとして内から眺めれば、あたかも宇宙をも包み越えるが
もできぬほどに、人類を破壊してしまうような幾多の事件が 術的手段は、事実上の支配者がはばかるところなくあらゆる 手段を使用するとき、圧倒的な威力を提供する。このような起こりかねぬであろう。この際地球上で散り散りに、かろう 支配は、監獄の管理支配がそこ・の住人たちによって克服されじて生き残ったわずかの人間は、数千年前と同しように再び この機械がその克やりなおしを始めることであろう。人間同士の結合は再び引 ないのと同じく、ほとんど克服できない。 服しがたさを高めて、ついに絶頂に達する時には、テロはあき裂かれ、技術は尽き果て、生活といえば、激しい労苦を払 いつつ、はなはだしい窮乏状態にあって、元気のよい力と若 らゆる人を封じ込め、その程度たるやテロリストになるつも さがあっての上でやっと自己を維持できるような、原始的で りのない者が、恐怖のあまりテロリストになり、自分が殺さ れることにならぬために、人を殺すに至る、といったありさそのつど局地的な可能性に依存することであろう。戦争がそ の結末として技術の機構を粉砕したり、代用品が発見されな まなのである。 いのに原料が涸渇したり、戦争がやまずに、ちょうど歴史以 従来までこのような独裁的テロ的支配は局地的であった。 それは内からは不可能にしても、外からは打破されえた。し前に不断の戦争が行なわれた時と同じように、いわばますま かし万一、諸国民がこのことを彼らの意識と関心のうちにしす狭く局地化した敵対関係に分散するような場合、以上のよ かと受け留めず、そしてまた彼らがそろいもそろってうかつうな終局が訪すれるであろう。 にも、世界独裁としてのこのような独裁の手に落ち込んだと 戦争の意義は、歴史が経過するうちに変わってきた。一定 すると、もはやいかなる解放も存在しないであろう。これほ の作法をもって行なわれる、貴族たちの騎士道的な勝負とし どの事態に至る危険は、この危険に対して自分は安全だと過ての戦争があった。組織化しうる全力を投入したりせずに、 信され、ただ下僕根性のドイツ人だからこそ、よくよくこの適当な時機を見計らって終えられる、問題解決用の戦争があ ような事態に落ち込んだものなのだ、と考えられるならば、 った。皆殺し戦争もあった。国内ではいろいろな内乱 ( 市民 戦争 ) やら、諸国民間では君主ないし政府が国民の意志ない 標いよいよもって高められるのである。ほかの者も同じ運命に カビネッツクリーク 落ち込んでしまえば、もはや「外から」ということはありえし議会の承認をへずにひき起こす多くの戦争 ( 内閣戦争 ) が 原 起ない。全体が一つの全体計画化として硬直し、テロにより安あったが、これら国民はあくまで、ヨーロッパの国民として 史定化されてしまうと、この硬直は自山を根絶し、あらゆる人やはり何らかの点で連帯性を失わなかった。相互に異質的な 文化や宗教間には、はなはだ情け容赦のない戦争が行なわれ 歴ことって破減の増大し行く道を意味するであろう。 色対勺破壊の危険。世界国家の秩序建設への途上でた。 今日戦争は、その手段の規模、そのもたらす結果の甚大さ は、目的が達成されるより先に、歴史の進歩の片鱗さえ想像