決定的 - みる会図書館


検索対象: 世界の大思想32 ヤスパース
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1. 世界の大思想32 ヤスパース

理性は統一を渇望するが、意識一般において知りうる正確 理性がもし決定的な形式の中へ窮極決定的に鎖されるなら ま なものの一地平にも、広大な活動力のある統一的形象として ば、それは常に理性にとっては余りにも不満である。 たそれが固有の実体として現われるならば、それは常に行きの精神にも、満足できない。従って理性は実存がこれらの統 一を突破する場合は、断然それと行を共にする。そして絶対 過ぎである。 的な隔離存在の深淵において相互に対立する実存を促して交 理性的な態度においては、私は果てしなき明瞭性を欲し、 科学的に把捉しうる認識、経験的現実、思惟可能なものの強わり (Kommunikation) に就かしめるために、直ちに再び 制的な妥当性を捉えると同時に、科学的な洞察可能性と明瞭現われる。 理性の本質は、或るものを法則と秩序たらしめるところ 性一般の限界を意識しつつ生きる。しかしそれにも拘わら の、もしくはそれ自身法則と秩序であるところの一般者であ・ ず、私は各様式の包括者のすべての根源から、思惟における るかのように思われる。しかし理性自身は単にそれだけでは 普遍的展開へと迫っていって、あらゆる場合において無思想 なく、実存の可能性として、法則と秩序を破壊することにさ 性を放棄する。 しかし理性それ自身は、無時間的な恒常体ではない。それえも携わる。そこで理性自身がこの窮極的な限界において、 は ( 科学的認識の内容ーー科学的認識の妥当的意義は、たと理性とは全く疎遠なものから決定的に放棄せられることとな るのであるが、理性自身は更に一歩を進めて、このような理 えそれを獲得することが常に静止することのない無限の運動 であるとしても、動揺しないのであるーー。のような ) 真理の性のかわりに、否定的なものの混沌をして、夜への情熱にお いて、可能的実存の様式を獲得せしめる唯一のものとなる。 平安な王国でもなければ、存在そのものでもない。また理性 は或る任意の思想の単なる瞬間でもない。むしろ郵性それ自 第五節理性と実存 身は、総括的・回想的・先駆的な力であって、その限界から かくて理性と実存は、あらゆる様式の包括者において相互 再びその都度理性の内容が生れ出て、これらの限界のすべて を踏み越えていく。というのは、理性はたえざる不満足を表に出会いながら、われわれの存在の一大両極をなしている。 この両極は離すことのできないものである。この両極の各々 実現するからである。理性は各様式の包括者のすべての形式の 性うちに入って、自らは僅かに糾帯であるにすぎないように見は、その一方の極が失われると、他の極も失われる。理性は 理 える。しかもこの紐帯たるや、それ自身によって成立するの実存に偏して、絶望的に公開性に反抗する逃避的な反逆によ って自己を失ってはならないし、実存は理性に偏して、それ ではなくして、この糾帯それ自身であり、またあり能うもの 自体実質的な現実と取違えられるところの明晰性のために、 を、他者から作り出すものである。

2. 世界の大思想32 ヤスパース

れなかったほどに、合理性の限界をはっきりと痛切に経験し は、何ら自由を知らない。 一条の光がギリシャから放射し、自山の要求がわれわれのたのである。 、 - キリシャ的思 個人として自己が存在しているとの内面的な自覚は、 西洋史を貫いている。紀元前六世紀このカた、・ 惟の自由、ギリシャ的人間の自由、ギリシャ的ポリスの自由ユダヤの予言者たち、ギリシャの哲学者たち、ローマの政治 が発生した時、ついで自由がベルシャ戦役の試煉に耐え、短家たちにおいて、無制約性の永遠の規準を達成する。 ソフィスト以来ーー自然や人間 しかもこれとともに、 期間とはいえ最高度に開花した時が、大きな転機であった。 あまねく行きわたっていた神官的文化でもなく、オルフィッ社会という基盤からの遊離、すなわち空虚へ踏み込む可能性 も生じた。西洋の人間は最高の自由にありながら、自由の限 ク教の秘儀でもなく、。ヒタゴラス派の理論でもなく、自由な 国家形成がギリシャ精神を成立させ、そしてまた、人間の途界を虚無において経験している。単なる自我として誤って固 方もない好機と危険を作り出したのである。それ以来、世界定化して解された結果、まるで人間なしでは何ごとも始まら ず、人間が創造者であるかのように、完全に自己自身に拠っ には自由の可能性がある。 て立ちうると思い込まれていたこの自己が、実は他者から贈 ③何らとらわれた定見をもたない合理的精神は、万人が いつでも納得せざるをえぬほどの、首尾一貫した論理的思惟与された存在にほかならぬのを、西洋の人間は決定的な自覚 において経験したのである。 ならびに経験的事実の有する説得力に対して、開かれてい 西洋人にとって、現実にあるがままの世界が、いつで る。すでにギリシャの合理的精神は、東洋に対比して論理的 一貫性という特徴をもち、これが数学を基礎づけ、形式論理も回避しえないものなのである。 西洋はいかにも他の偉大な文化と同じく、人間存在の分 学を完成したのである。中世の終わりとともに始まった近代 の合理的精神は、東洋とは完全に別物になった。西洋におけ裂、すなわち一方での野生のままの非精神的生活と他方での 一方での人非人と他方での聖者と る科学的探究は批判的に、特殊な研究において決定的な成果没世界的な神秘主義、 いうものをわきまえている。しかし西洋は、このような分裂 を求めて、全体としてはたえず完結されぬまま無限の道を進 む。法治国家により適正な政策が立案される場合、暮らし向の一方に偏する代わりに、世界の形成そのものにおいて向上 きの一般的な予想が、社会の経済的流通面において、追求可を見いだそうと試みる。あるいは、真なるものを理想の王国 に眺めるだけでなく、それを実現する、すなわち、理念を通 能な極限まで試みられる。経済的企業においては、精確な計 算がいかなる段階にも決定的役割を演じている。 じて現実そのものを高めようと試みる。 西洋は、世界を形成すべしとの要請を、名状しがたい感動 しかもこれと同時に西洋は、世界の他のどの場所にも見ら

3. 世界の大思想32 ヤスパース

316 のようにしてそれが捉えられるかということは、大衆の、平真理だけが存在する。それはあたかもーー今日は私にとって 几人の、体験に基づいている。そこでこの体験が語られる不当であるところのーー・・私の反対者の立場が、明日は状況が と、それはすべての人によって理解せられる。何が幸福であ変って、私自身の意図にとって重要となるといった過程をと るか、何が満足であるか、何が現存在に必要であるかを決定るのである。建設的な行動は、現存在的共同体においては、 たえざる協調である。協調は真理であって、こういった真理 するものは、相互に同じような種類の現存在なのである。 においては、現在はまだ正しいと思われているすべての立場 現存在的交わりにあっては、さらに、危険が大きければ 大きいほど、それたけ一層決定的に、すべての人の意志の統が、生起する事実によって反対されることがある、というこ とが忘れられていない。従って、現存在的共同体が持続する 一が必要となってくる。この意志はただ従順であるというこ ( 1 ) とにおいてのみ獲得せられる。従って、あらゆる個人が、現ためには、会議の技術が発展しなければならない。 二、意識一般の交わりは、任意に代置可能な、相互に類似 存在的関心を充たすために為さるべきことについて決定する している意識点の交わりではなくて、むしろ相互に一致して ことができるというわけではない。 いるところの意識点の交わりである。ところでこの意識点は しかしこの決定がいかにして生ずるかによって、雑多な統 治形態が発生する。共同体の交わりにおいては、唯一の全知可知的なものの分裂 ( 主観と客観への、形式と質料への、或 るものと他者への分裂等々 ) において、あらゆる論理的範疇 の命令者と、それ以外の、何らの思慮なくして服従するすべ ての人びとの集団との間の、一義的な関係というものは存在の媒介によって、すべての人に妥当するものの一般性を、否 しない。なしろ常に、多くの人びとが集ってさまざまな組織定的にまた肯定的に、捉えるものである。それは意識的現存 を作って、相互の理解において、その都度の決定を齎らすこ在の多様性における自己同一的な意識の交わりである。そこ で伝達は、或る事柄への個人的には無関心な方向において生 とに努めるのである。 従って、現存在的共同体においては、われわれがその意義じる。そしてこの事柄の事実性や強制的な妥当性が、論証の だけについていうならば、実用主義的な真理概念が通用する共通的方法によって探求せられる。 ことになる。実用主義によれば、真理は既知的なものだと 三、精神の交わりは、一つの全体者の理念たる共同的実体 か、決定的に可知的なものだとか、絶対的なものなどとし からの生産的な自己形成である。個人というものは、自己の て、存在するのでなくして、発生するもの、結果として生れ立場はその本来的な意義をあの全体者からえているのたとい う自覚のもとで、自己の立場に立っている。かれの交わりは るものとして存在する。あたかも現存在それ自身が変化する ものとして存在するように、単に相対的な、そして変化する有機体に属する一成員のそれである。精神は自己以外のすべ

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292 われわれはこの根本問題を理性と実存として定式化したの る。哲学はいかなる時代においても、思惟として、その時に よ、それである。この簡略な定式は反定立を意味すべきものではなく おいて完成された存在意識であって、この存在意識 して、むしろ同時に自己を越え出るところの相互関連性を意 が言表されることにおいて、一つの窮極決定的なものとして 味するものである。 は、決して存立しないであろう。 理性と実存という言葉が選ばれたのは、暗黒の開明可能性 精神的・現実的な状態を全体的に見透すものだと自称する ところのいわゆる概観とは反対に、われわれは何らかの状況についての問や、われわれが生きる根源の把握についての間 を意識しつつ哲学するのであるが、しかしこの状況は再び人が、これらの言葉において、もっとも深刻に、もっとも純粋 . 間存在の窮極的限界と根源へと導かれるのである。この意識に、われわれの心に触れるように思われたからである。とは いえ、根源はたとえ、合理性に最大限を要求するとしても、 において生起する思惟の課題を、今日何人といえども、完全 にかっ決定的に説明することはできない。われわれは、、 しわそれは明晰とはなりえないであろう。 ば数々の可能性の荒波の中で、たえずひっくり返されやしな 理性という言葉は、われわれにとって、カント的な広さ いかとびくびくしながら、しかしたえず、それに抗して幾度と、明るさと、誠実さを担っており、実存という言葉は、ヤ でも立ち上る用意をしてーー〈哲学すること〉において、 ルケゴールによって、この言葉があらゆる規定的な知によっ う人の面前で、われわれの真実な思想、換言すれば、われわて捉えられないものを、無限の深さにおいて現象させるよう れのうちにおいて人間存在を産み出すところの、思想を完成な或る領域の中へ高められた。この言葉は使い古されるべき ものではない。というのは、それは存在に対する数多くの言 するための用意をしてーーー生きているのである。このような 思想は、地平圏が果てしなく開かれ、諸々の現実が明瞭にな葉の中のただ一つの言葉であるから、すなわちそれは全然何 り、本来的な間が顕わになる限りにおいて、われわれにとっ ものをも意味しないか、或いは直ちにキルケゴール的な要求 て可能なのである。このようにして思惟に向って迫っていくを高調するかのどちらかである。 色々な課題の中から、私は次ぎの三つの講義のために、その われわれが次ぎの三つの講義において企てることは、毎回 一つを選び出そう。 それそれの主題に属する別個の主要思想を繞って行われる 理性的なものと非理性的なものとの関係において現われたであろう。しかしそれらにとって共通であるべき事柄は、そ 哲学する働きのもっとも古い間題は、キルケゴールとニーチれらが論理的に表現せられた問の形態において獲得しようと 工を凝視しつつ伝統を自己のものとすることによって、現代努力するものこそ、まさしく、重要な点に関して生活ともっ とも深く関係するものであるということである。哲学は、そ の形態において新しく知られる。

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様であった。科学の能力についての誇りは、いまはじまった って有限だと推定されるような空間として考えられていた。 ばかりのこのできごとに対する不安のまえに、屈してしま 0 その後、世界は、たえず拡が 0 ていく世界、いいかえれば、 たえず大きくなっていく世界となった。しかも、その時間的 始原が計算されたのである。このような数学的な構想は、そ れが測定的観測によって立証されるかぎりにおいて、意味を 宇宙とこの二つのできごと以来、宇宙と物質についてのもつけれども、この構想が新しい観測によ 0 て確かめられな いならば、どうでもいいことである。人はだれでも、自分で 物質新たな観念が、たえすわれわれの心に感銘を与え 或る研究領域を究めたあとで、克服することのできない困難 にぶつかる。このような非具象的な数学上の宇宙構想は、ど 新しい宇宙は、ますます成果をあげている天文台の観測に 宇宙像よって目の前にはっきりとえがきだされるところでれ一つとして、一般に科学的には決定的に証明することがで は、こう見える。銀河は何十億という太陽でいつばいであきない。宇宙は、いわば無限に進んでいく探究の道のために 開かれている。 る。何十億という別の銀河や星雲がある。肉眼でも見ること ができて、われわれに最も近いアンドロメダ星雲は、肉眼で新しい宇宙と同様、物質もまた、異論の余地のない科学的 は見えないあの何十億という星雲の一つにすぎないというこ物質観認識のおかげで、われわれにとって、すっかり変わ とを、われわれは知った。 ってしまった。前世紀の九〇年代における放射能の発見、原 この宇宙像は、これまでの観念と同じ水準にあるものであ子崩壊の発見は、その発見を告げ知らせる者にとって、当時 るが、ただ量的秩序からいって、巨大なものヘ高められてい すでに、精神的に革命的な一つのできごとであった。原子の る。しかし、新たな点、すなわちすべてのこれまでの観念と存在は今日では以前にもましていっそう確かなものとして証 比較にならない点は、はっきりとえがき出されたこの宇宙明されている。原子はなるほど存在する。けれども、この原 が、ほんとうの宇宙の前景にすぎないということである。ほ子は、究極的な素粒子ではなくて、もっと小さいもの、つま んとうの宇宙そのものは、ただ思考されるだけで、これを思 り陽子、中性子、電子等々から、合成されているものであ いうかべることはできない。ほんとうの宇宙は、ただ数式に る。物質は、以前とちがって、根本的にまったく別のものと おいてのみとらえることができるが、それとても、決して最して考えられなければならなくなった。 後決定的なものではない。最初、アインシュタインにとって 第一に、はっきりと規定されうる究極的な素粒子は、一般 は、世界は、歪んだ空間、しかし要するにその大きさからい に、もはや存在しない。相互に明らかに矛盾する波と粒子と

6. 世界の大思想32 ヤスパース

互的な自己生産を意味するのではなくして、この真理を所有真理ではないであろう。 恒常的な真理は、哲学的・宗教的な人間鋳造術の歴史にお している人びとが、それをまだ所有していない人びとへ贈る いて、個々の人を交わりによってではなく、かれを自己自身 贈与を意味した。しかしそれと共に、この真理の変化の過程 が始まった。というのは、真理を受取った人が、それを自分の中へ閉じこめさす或る訓練によって、変化さして真理を覚 ( 一 0 ) 自身で理解したからである、すなわち実際において、そのま知させるために、瑜伽の修業法とか、神秘的な成人式等のあ ま受取られるということは決してなかったのである。真理らゆる精神的訓練 (exercitia spiritualia)) を発達させた。 しかしいわゆる人間の完成としてのこのような人間類型は、 は、その初めと同じままで、人びとに媒介せられる代りに、 たとえ偉大なものであるとしても、形が固定せられ、形式的 水を割られたり、顯倒されたり、別の新しい解釈からして、 全然異ったものに変化せられたりした。人間同士の間におけに水平化されたところの窮極決定的なものであり、従って間 る真理の伝達は、こういう形体で生れて、ついにはそれ以上もなく腐敗するものである。そこでもしわれわれが、このよ うな人間類型に満足できないならば、われわれはたえず錬磨 の伝播が事実上麻痺状態に陥るような限界に到達した。 根源的に交わりに結びついている真理は、それと異ってい せられる交わりの明晰性という一層深い訓練を必要とするの るであろう。このような真理は交わりの実現の外には決してである。合理的に明晰な目的へ限定することによって、すで に屡々獲得せられたもの、しかしさらにそれを越えて少数の 存在しないであろう。それは単独に自分自身だけが現存もし なければ、完成もしないであろう。それは、単に伝達を受け人びとが歴史的な共同体においてー・ーーたとえまだ疑わしくで はあってもーーー実現したものが、出発点とならねばならない る人の変化ばかりでなく、伝達する人の変化をも条件とする であろう。けだしこのような変化は、その人の交わりへの準であろう。それは、欺瞞的でもなく、安易にせられたのでも 備と能力、決定的な聴く能力ならびに語る能力、それに、交なく、退化したのでもなく、むしろ果てしなく開明する交わ わりのあらゆる様式と段階の意識的覚知、に帰せられるのでりの諸条件のもとにおいて、人間性を産み出そうという要求 とならねばならないであろう。 ある。それは恐らく、交わりとして、また交わりによって、 しかしこのような交わりにおいても、そのうちに進行が存 実はじめて現実的であり、従ってまた交わりの中からはじめて 性発生するような真理であって、前もって心に現存していて、 する限り、すなわち真理がまた完成されない限り、むしろ現 それによってはじめて伝達されたり、或る一つの方法的に達在的に完成される場合においてもなお常に開放されている限 成せられうる目的ーーーこのような目的においてそれは、交わり、まだ非真理が現存するに相違ない。 ここにおいて再び真理知の独断的な様式と交わりによる様 りなくして妥当しうるかも知れないがーーを叙述したりする

7. 世界の大思想32 ヤスパース

レー 「哲学すること」の最も本質的な根本概念は、キルケゴ 第三節キルケゴールとニーチェによって齎らされた哲 から出発している。しかしそれにも拘わらず、当のキルケゴ 学的状況の意義 ールの全思惟は、それまでの体系的哲学を解体するように見、 えるし、また実際、かれはあらゆる思弁を非難する。そして キルケゴールとニーチェは何を意味するかということは、 哲学を認めるにしても、せいぜい次ぎのように言うだけであ一 後に至ってかれらから生れ出たものによって、はじめて知り るーー《哲学はわれわれに注意を払うことはあっても、われ えられる。かれら両人の影響は概観できないほど大きい 哲学の専門的部門におけるよりも、むしろ一般の思想界におわれを養うことはない》と。 ールに一つ 神学にしても、哲学にしても、それがキルケゴ けるほうが一層大きいのであるがーーしかしそれは極まりな 場合は、かれの概念や方式を自分自身の全然異った別の目的 く二義的である。 に応用するために、何らかの本質的なものを隠蔽するという・ キルケゴールが本来的に意味するものは、神学においても ことがありがちのようである。 哲学においても不明瞭である。近代の新教的神学はドイツが すなわち神学の中には、不信的な神学というものがあっ 本場であるが、このドイツにおいては、その殆んどが、直接 て、弁証法的逆説による洗練されたキルケゴール的な思惟方・ 的であれ間接的であれ、キルケゴールの決定的な影響の下に ールはしかし、かれの思法をもって、自分はキリスト教的信仰をもっているという自 あるように思われる。そのキルケゴ 惚れを合理化するような、信仰告白の一様式を作り出すとい 想の実際的積極的な総決算として、一八五五年の五月に、 うことがありうるだろう。 「しかし夜半に呼ばわる声す」 ( 『マタイ伝』第二十五章第六 レこよって導かれる或る「哲学するこ また、キルケゴー / 冫 のもとに、号外を発行した。その中で次 節 ) というモットー と」が秘かにキリスト教的実体ーーーそれは表面的には、この ぎのように書かれているーー「汝がもはや、現在行われてい によって養わ ようなキリスト教的実体を無視しているが るような一般の神の礼拝に加わらないということによって、 れるということがありうるだろう。 : このことによって汝は常に : : : 大きな罪を減ぜられる。 ニーチェが意味するものも、前者と同様に明瞭になっては 実すなわち確かに新約聖書的なキリスト教でないものを、それ ドイツにおいてかれが実現したものは、他のいかな 性だと称することによって、神を馬鹿者だと見做すことに組し・ ないからだ」。 る哲学者によっても捉えられていない。しかしあらゆる態度 も、あらゆる世界観も、あらゆる見解も、かれを証人として 近代哲学においては、キルケゴールによって、決定的な衝 動が発展した。現代においてーー殊にドイツにおいて 迎えるように見える。恐らくわれわれはすべてまだ、この墨

8. 世界の大思想32 ヤスパース

一体化であり、そこには魂の感動がある。というのはわれわ深化することによって、裏づけはなされうるのである。 れは、われわれ自身感動しているのを覚えるからであり、換 第三の異議がある。このような平行関係は何ら歴史的 言すればこの歴史観は、われわれの歴史としてわれわれにか性格をもたぬ、精神的交流のうちで全然触れ合わぬものは、 かわりをもち、しかも、現在の遠囚として認識する単なる過何ら共通の歴史に属するものではない、というのである。 去たるにつきず、今後いくたびとなく、新規に及ぼす根源的 シナ、インドならびに西洋を、精神の展開の弁証法的段階 な影響が予測しがたい過去として、われわれにかかわりをも としてまとめ上げたヘーゲルに対して、早くも次ぎの反論が つからである。 なされたものである。すなわち、三つの世界ないし段階に 従ってまるまる人間そのものが、歴史的研究の道具だとい は、西洋の歴史の内部で起こった種々の段階継起に見られる うことになる。「おのおのの人は、彼が心底深く懐いているのと同じ意味で、一つの段階から他の段階へと何ら現実的な というのである。 ものを見ているのである。」歴史の了解の根源となるのは、 接触関係が通じていない、 われわれが自覚的に存在している現前性、今ここであり、わ しかしわれわれの提言にあっては、全く根本的に別なもの れわれの唯一の現実である。従って、われわれ自身が高く飛 が間題なのである。われわれはシナからギリシャへの段階の 羽を達成すればするほど、、 しよいよ明瞭にわれわれは枢軸時移行過程を否定するに異存はな、 この過程は時間的にも 代を認めるようになる、といえるのである。 意義止からいっても成立しない、 むしろここでは、接触 歴史的内容の優劣序列は、もつばら人間実存の主観性をものないままの、同時的な並行関係が成立しているのである。 って把握されるのであるならば、この主観性は純粋事実的な相互に起原を異にする多数の通路が、何はともあれ同一の目 ものの客観性において解消されるのではなく、人間がたとえ標に通じているように思われる。同じものが三つの形態で多 共通するあり方で存在しなかろうと、人間が求めている共通様性を示しているのである。三つの独立した根元があって、 性の側に立って眺めるという客観性において解消されるのでそれらが後になってーー・・断続的な個々の接触があった後に、 ある。われわれを結びつけるものこそ真であるからである。 決定的には最近の数世紀来初めて、本当には今日以降初めて 唯一の統一をなした歴史となるのである。 枢軸時代は、共通に了解され、その了解に密接して評価さ 問題は従って、平行関係のあり方である。 れて、重要な意義を有することが明らかとなり、将来人類全 般にとって重要なものとして承認されるであろう。このこと この提言は、事の は今のところ、私一箇の提言にすぎない。 いかなるたぐいの平行論が主張されているのか ? 本性上決定的に証明すべくもないが、しかしこの見方を拡大

9. 世界の大思想32 ヤスパース

人がその秩序に魂として込めた精神によって初めて成立する結しえない存在者であるからである。人類が、ひたすら自己 のであり、後世の人びとがそれを継承する過程においても、 自身であろうとするだけならば、自己を制限するあまり、か 秩序はこの精神によって形成されるのである。あらゆる制度えって人間存在を喪失するであろう。 は、個人たる人間に依存する。ただ多くの人すなわち多数 しかしながら、もしわれわれが、われわれの社会生活に何 , 者、換言すれば大多数の個人が秩序を担うのである限り、個らかの意義を認めようとするならば、歴史の中にもろもろの 人はここでは決定的要素ではあるが、しかし同時に、個人と理念を把握できるし、またそれを行なわざるをえない。永遠 してやはり無力なのである。 平和に関するいろいろな構想あるいは永遠平和のための諸前 秩序を担う精神をも含めて、あらゆる秩序の異常なほどの提は、たとえ理念が具体的理想としては実現されす、むしろ ・脆さを考えてみると、未来を確信をもって眺められぬ気がすあらゆる現実的形態を越えて無限の課題にとどまるとはい え、真実であることに変わりはない。 一つの理念は、それが ・るのは当然といえる。もろもろの未来像やユ ートビアはたし 計画の真の目ざすところではあるものの、ありうべき現実と かに強力な歴史の動因ではあるが、しかし自由と人間性のた ・めに秩序を創造する動因ではない。むしろ、一つの世界秩序して予想された像とも、現実そのものとも、びったり一致さ の可能性ないし不可能性を思案する際に、自由そのものにとせられないのである。 しかし理念の根拠は理由づけられない信頼である。換言す らて決定的に重大なのは、われわれが何ら未来像をきめてか しっさいが無ではない、単なる無意義な混沌にすぎぬ かってはならぬということ、すなわち、歴史が必然的に舵をれば、、 という信仰的確証 のではない、無から無への経過ではない、 向ける目的、われわれ自身が、われわれの根本意志にそのま なのである。時間を貫いてわれわれの進路を導く理念は、こ ま取り容れている目的、その達成をもって歴史が完結される ような目的、こういった目的として何らかの想像的な現実をの信頼に対し明らかとなる。この信頼にとっては、真理はイ 票きめてかかってはならないことなのである。われわれは、歴ザヤの幻想に示されているのである。そこでは理念は象徴的 つるぎ な形象となり、「かくて彼らはその劔をうちかえて鋤となし、 史の現前性そのものとしての各現在において以外には、決し やり 国は国にむかいて劔 その鎗をうちかえて鎌となし、 起て歴史の充実を見いださぬであろう。 をあけす、戦いのことを再びまなばざるべし」という、万人 史歴史上のもろもろの可能性の限界は、その深い根拠を人間 存在にもっている。完結した最終状態なるものは、決して人調和の未来像となる。 間界では達成できない。何となれば人間とは、たえず自己自 身を乗り越えて進み、単に完結されていないだけでなく、完

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しかも未来を予断する歴史的思惟は、われわれの行為を うキリスト教的な見方においても、そのように行なわれた。 そこには、たとえ例のキリスト教的見方が信ぜられないに規定する。魂が憂慮や希望に揺り動かされると、われわれの しても、あくまで存続している真理が含まれている。何ゆえ眼は鋭く研ぎ澄まされる。そうでないとすればわれわれは、 ならば未来を捨てて顧みなければ、過去の歴史は決定的完結もろもろの可能性が念頭に浮かび上がってくるのを抑圧し、 的となり、従って虚偽的となるからである。いかなる哲学的物事をなるがままに任せて生きているのである。 歴史意識も、未来意識なくしては存在しえない。 しかし未来は、究めつくされるということはありえない。 昔行なわれた予断で、その真実な内容がすでに確証できて 実在性を有するもの、従ってすでに生起したもののみが研究 いて、個々の場合に不吉な予言のような力を及・ほしている、 可能である。それでも未来は、過去と現在の中に姿なくひそ いくつかの実例が想い起こされるとよい。十八世紀以来、未 んでおり、われわれは未来を、現にある可能性において眺来は意識的な熟考の対象となり、経験に裏づけられた想像の め、想像しているのである。実際には、つねに何らかの未来対象となった。未来の予断は、それ以降今日に至るまで、大 意識がわれわれの支えとなっている。 きなテーマなのである。 このような未来意識をわれわれは、願望を込めた空想や 魂を喪失して濫用の限りをつくした権威からの解放の過程 にあった十八世紀において、科学や技術が途方もない業績を ら、恐怖をまじえた空想やらのなすがままに打ち捨てて置い てはならない。われわれは未来意識を、ます過去の研究によあげ始めるにつれ、経済力の増大につれ、こういった成功の り、その上更に、現在の曇りない把握により、基礎づけねば歓呼のうちで、多数の人間は、まるで進歩が確実に保証さ ならぬ。当今のさまざまな闘争の中に、またそれら闘争を貫れ、いっさいはますますよくなるかのような気分で生活し た。彼らは未来に懸念なく生きた。 いて、人間存在そのものが問題とされている、いっそう深刻 標な闘争を読み取ることが肝要である。 この事態は、フランス革命以後一変した。未来への悲観論 と が、十九世紀を通じて強められた。 こうなると、もはや、当今の諸闘争に無縁なままの、単に 過去に存在したものの史学的知識の客観性だけが重んじられ 早くも一八二五年ゲーテは、目前に迫った機械の世紀を見 史るのではない。むしろこの場合、現在が歴史的意識の起原と通していっている、それは頭の利く、要領のよい、実際的な 目標となるのである。しかし現在的なものは、過去からも眺人間のための世紀である、このような人間は、大いに敏腕に められるのと同様、未来からも決定的影響を受けて眺められめぐまれていて、たとえ彼らが最高度に素質を与えられてい なくても、衆人に対する優越にうぬぼれるのだ、と。しかも る。未来の観念が、過去と現在の見方を指導している。 ・フログ / ーゼ