現象 - みる会図書館


検索対象: 世界の大思想32 ヤスパース
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1. 世界の大思想32 ヤスパース

て、真理は無時間的なものであり、われわれの時間的現存在それにおいて普遍は全体であり、特殊はそれぞれ全体の一つ は、この一つの無時間的な恒常体が多かれ少かれ分化発展し の要素的存在であろう。精神は、現在的な根源のうちから自 ていくところの実現にほかならない。 己の可能的現実を繰返し創造するために、常に現実的である しかしながら時間的に生起する生ける意識の現実性と、一 と共に、崩壊しつつある全体性を出て前へ前へと突進する。 定の真理の無時間的な意味の場所としての意識一般とを峻別 というのは、精神は全体へ迫りながら、保持し、向上し、一 することは、最後的なことでなくして、むしろ包括者の開明切を一切に関連させ、何ものも排除せず、各々のものにその に当って通り過ぎられねばならぬ抽象である。生産せられ、 場所と限界を与えようと欲するからである。 自己自身を把握し、そしてこの把握することにおいて進行す 精神は無時間的な意識一般と異って、再び時間的生起であ る時間性としてのこの意味それ自身の現実は、精神と呼ばれる。このようなものとしてそれは現存在と比較されうる。し る新しい包括者である。 かし精神は、単なる生物学的日心理学的生起によってではな 精神は、かかるものとしてわれわれが存在するところの包 く、知の反省によって動かされるという点において、現存在 括者の第三の様式である。精神はその存在の根源からして、 と異っている。精神は自然現象として科学的に探求されうる 思惟・行為・感情の全体性であって、この全体性なるものものではなく、内面から理解されうるものとして、常に意識 は、私の知に対して、それ自身のうちに鎖された対象となら一般における普遍者へ向けられている。従ってそれは、自己 ないで、どこまでも理念である。精神は必然的に、意識一般把握であり、肯定と否定による自己を対象とする労作自体で の真理の明証性と、意識一般にとって他者であるもの、すなある。精神は自己自身と取組な自己生産である。 わち認識 されたり、利用されたりする自然の現実性、とにお われわれは現存在として、また精神として、包括的な現実 いて定位されているとしても、それはこの両者において、一 である。しかし現存在としては、われわれは徹頭徹尾無意識 切のものを照らし、連関せしめる理念によって動かされてい 的に物質・生命性・心意に繋縛せられている。すなわちわれ る。精神は、常にすでに与えられていると共に、また常に変われが、この包括者において自分を対象化することによっ 化せしめられる世界のうちで、精神を迎えるものと自己自身て、自分を単に外部から果てしなく認識していくだけであ とをもって、自己を実現するところの能動性の包括的な現実り、それと同時に、非関連的に相互に分離され、そしてこの である。精神は、あらゆる全体性を溶解しそして再形成する ような分離においてのみ探求可能であるところの現実 ( 物 過程であり、決して完成されることはないが、現存在の可能質・生命・心意 ) へと分裂しながら、自分を認識していくだ な完成へ向って進む道における常に充実した現在であって、 けである。精神としては、われわれは、意識的に自分に理解

2. 世界の大思想32 ヤスパース

404 まなこによってはじめて、この世界のなかにおけるとらわれ ごとにも責任をもちたくないというのか ? 私は、まるで存 の身から解放される。 在しないかのように生きようとするのか ? この道は、アジ かかる哲学的なまなこの第一歩は、自明なことがらについ ア的思考の幾多の方向においてたどられてきた道である。 ていまさらながら驚きの眼をみはるところにある。 いいか〈存在は仮象であり》また ^ 仮象は存在である》という文句 えれば、われわれが主観として対象をめざすことによって対は、道教物語のきまり文句である。この道教物語は、人間的 象に向けられているということ、すべての明るさは、われわ生命を、その困惑させるような魔力において、その美しさ、 れにとって、この分裂のなかに存するということ、このことその俗悪さ、その救いと減び、その欺瞞と暴露、その無意味 が何であり、何を意味するかに、驚きの眼をみはることでさにおいて、一つのむなしい遊戯として示している。こうし た文章は、あらゆるものが舞いあがり、吹き飛び、消え失せ ある。いかなる瞬間にも現前しているもの、そのときまでは 自明であって誰も、疑問に思わなかったもの、かって一度ていく内的気分を言いあらわしている。 も意識して取りあげられなかったもの、それらについて驚き それともまた、私は、私の生命現実によって、私の責任に の眼をみはることから、さらにつぎのような問いが出てく よって、認識冫 こよって、この現象世界のなかの明るさに到達 る。 し、こういう期待をもとうというのだろうか ? 現象世界の 現象界におけるこの生命は、眠りからの目覚めのようなも 明るさを超えていて、別のところからくるあらゆる可能な明 のなのか ? いっからとも憶えていない暗闇からの目覚めの るさにいたる絶対的な道が、われわれにとって存在する、と ようなものなのか ? この生命は存在する唯一の明るさなの う期待がそれである。そうだとすれば、われわれにとっ か ? それとも、この生命は、主観ー客観ー分裂のなかにあっ て、現象はいささかも仮象ではないし、生命は何ら夢ではな て、いわば夢に見るような生命なのか ? この明るさは、実 。けれども、われわれの有限な全認識はつねに同時にとら は、本来的な存在と私自身とを曖昧にするものなのか ? こわれの状態であるという洞察を、われわれは見失ってはいな 。し力なる認識冫 こよっても与えら れらの ドいに対する答えま、、、 、。間いはこういうことになる。われわれは、・思考すること れない。ただ奇妙に聞こえるかもしれないが、決断によって この認識を全体 によって、いわばわれわれの認識のそとに、 のみ与えられる。 として見とおすことができるような一つの場所を見いだすこ とができるであろうか ? なるほど、この場所から、私は一 私は、実在的な世界を、私にとってどうでもいいものにし つの新たな知識と世界の新たな目標とを得るわけではない ようとするのか ? 私はこの世界にかかわりあうことなし に、ただこの世界を甘受しようとするたけなのか ? 私は何が、しかし、私はそこから私の存在意識を変え、そうするこ

3. 世界の大思想32 ヤスパース

は愛のうちではじめて彼自身となる。愛は経験的な現実とし 刺激的な遊戯を教えてくれる。 結婚は、性的現実とエロス的現実が家庭という一つの世界ては確証されえないものであるから、現実主義者のなかには を創造するための秩序である。この家庭という世界で子ども愛を否定する者もある。愛はいかなる研究対象でもない。愛 はどこか他のところからやってくるものとして、それと意識 が生まれる。子どもたちはこの世界によってはぐくまれ、自 己にめざめる。結婚は永続することを欲する。婚姻は社会のされるがゆえに、われわれは愛を形而上学的な愛と呼ぶ。愛一 が存在しているかどうか、愛がいまここに二人の男女のあい 一要因である。 だに本当にあるかどうか、誰もそれを知ることはできない。 愛する者どうしは、家族共同体のうちでたがいに一つにな この愛は、時間の現象のなかで、・誰にも見えないいなずま・ って日常生活を形成しようとする。状況が変わったからとい って、新たな体験にぶつかったからといって、別れてしまおのように落ちてくる。しかし、このいなずまに当たった者に は、それによって、永遠の昔からすでに存在しているものが うなどとは思わない。彼らは人間社会において夫婦として認 あらわになる。この愛は歴史的には現象として存在するが、 められたいのである。 そのばあい、時間のなかでは、決してそれ以上の本質的な歴】 かくして、国家によって保護された正しい制度ができる。 結婚というこの貴重な財産は、歴史の奇蹟の一つである。そ史をもつものではない。なぜなら、この愛は、新たな根原性 れは、粗野な性を秩序づけるものであり、夫婦のあいだの義において無限に反復する愛であるからである。このは、董 若しい情熱のよそおいにおいても、老年の静けさにおいて 務、子供に対する義務を設定するものである。 この愛は、思い出として、期待と も、同じようにカづよい 五 して、あくまでも現在的である。 この愛は、永遠の現在として意識されるとき、それ自身で 形而上学的なわれわれは種々の現実について語った。生命 体の現実としては、性生活がある。性に関すは同じままにとどまっている愛の現実の現象を、年齢の経過 において変化させる。 る精神的遊戯の現実としては、恋愛がある。正しい道徳的秩 青年時代には、はにかみがエロスに先行する。唯一のもの 序の現実としては、結婚がある。もしわれわれがここでもは は、その瞬間が到来するまえに浪費されてはならない。いよ や現実について語らないで、愛そのものについて語るなら いよその瞬間がやってきたとき、昔からおたがいのものであ ば、われわれは一つの飛躍をすることになる。愛はその根原 を世界のうちにもっていない。愛は人間に襲いかかる不可解ったということを認めあうような一一人の出会いにおいて、二 度とない歴史として、その最初にして最後の愛において、こ なものとして経験される。けれども、そのようにして、人間

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間的な非現実にも時間的な実在にも対立する意味での永遠的けいっそう大きくなる。 第二に、この明らかになることそれ自体は、同時に、、 貯な現実である。この永遠性の経験はただ実存にのみ帰属す いいかえれば対象的になる世界存在という ば牢獄のなかに、 る。経験的にも論理的にも、永遠性は一つの不条理である。 この不条理ーー・時間のなかにおける永遠性の経験ーーをわ牢獄のなかにいることを私に意識させる。 この二つの態度は、最大限の世界定位をめざす意志と、か れわれにわからせるのに、私は、哲学的存在意識の ^ 方向転 かる定位の超出とに、結びついている。牢獄のなかで、この 換》を思いおこす。これについては、私は第三回目の講義で ことを認めることによって、私は同時に牢獄のそとにある。 語った。 その結果、こうなる。 私が現象としての世界を確信するならば、そのとき、私は 自己意識の哲われわれは主観、客観、分裂からこれを超えて同時に永遠なものを確信するようになる。永遠なものは、暗 学的方向転換包括者にまで踏みこんだ。この包括者を明ら号のことばのうちに、現在的でありうる。 私は事物の絶対性から解放される。私は現存在としては事 かにすることによって、方向転換も理解される。 私はもはや、それ自体における何らかの対象に結びつけら物に委ねられているのであるが、かかる事物のすべてに対し て、私は私自身を、いわば事物に先だっ存在として意識する。 れてはいない。むしろ私は、包括者のもつつねに独自なしか たで、意識一般としては、志向された対象に結びつけられ、 現存在としては環境に結びつけられ、実存としては超越者に 永遠性の実存この方向転換とともに、死への内的態度も変 結びつけられている。しかし、私は主観でも客観でもなく、 化する。死は、なるほど終わりである。誕生 そのつど包括者であるが、私自身としては、すべての包括者的経験 が時間的現象のはじまりであるのと同じである。 の包括者という意味での、実存の包括者である。 けれども、不死性とは永遠性のことであり、この永遠性に 私が超越者に対して私の実存の現実を確信するとき、私は おいては、過去も将来も止揚される。瞬間は時間的であるが、 一見対立した二つの態度のうちにいることがわかる。 第一に、私は認識する者として、自己を世界のなかで定位それが実存的に満たされるとき、この瞬間は、あらゆる時間 しつつ、現象する現存在であることが、私にとって明らかにをおおうものとしての永遠性にあずかる。《瞬間の永遠性》 は、それ自身においてたがいに矛盾する思想である。この思 なる。同時に、世界そのものが私にとって明らかになる。こ 想は、時間的に身体をそなえたものの現実性が、本質的なも うして明らかになればなるほど、真理にいたる機会もそれだ

5. 世界の大思想32 ヤスパース

されうるすべてのものに自分を関連させる。われわれは世界形態を生み出す。そして包括者のうちにあるわれわれの本質 とわれわれ自身を理解可能なものに変え、それによってそれは、このような形態として対象化せられる。意識一般は、わ それ全体的なものとして自己を鎖す。そしてわれわれは、これわれが包括者を普遍妥当的であることができ、伝達可能で のような包括者として自分を対象化することによって、自分あることができるための条件として見ることができるため を内面から、一切を包括する唯一の現実として認識する。そに、包括者がとる形態である。 してこのような現実にとって一切は精神であり、このような 第ニ節存在そのものとしての包括者世界と超越者 現実だけが精神なのである。 われわれであるところの ( 現存在としての、意識一般とし 現存在と意識一般と精神の区別は、分離可能な事実の確立 を意味するのでなくして、われわれであるところの、またそての、精神としての ) 包括者を、われわれは次ぎのような問 のうちではじめて、われわれに一切の存在と一切の探求可能をもって越えるーーこの全体者は存在そのものであるのか、 性が、現われてくるところの存在の包括者が、拠ってもってと。 存在とは、一般に存在であるものが存在としてわれわれに 感得可能となるべき三つの契機の描写を意味する。 三つの様式は、相互関連なくしては、まだ、われわれがか顕わにならねばならぬものであるならば、このわれわれにと って現象するということは、霎際において一切が存在するこ 一つの普 かるものとして描写したところの包括者ではない。 遍妥当的な真理の場所としての意識一般は、自己自身のうちとであると考えられるたろう。存在を〈解釈されてあるこ に鎖されることはできない。それは一方においては、現存在と〉と解し、われわれが存在することを解釈することとして のうちにある自己の根拠を、他方においては、それが意味と理解するニーチェは、それ以外の存在を妄想的な蔭の世界と して拒否する。しかし右の間は事物についてのわれわれの知 全体性をもとうとする限り、自分がその支配を受けねばなら ないところの権力すなわち精神を指示する。それ自身は包括の限界においても、またわれわれがかかるものとして存在す る包括者の限界意識の覚知においても、停止しない。私であ このような分類によっ 者の便宜上の分類であるにすぎない。 実て、包括者は二つの様式ーーその一つは、この様式からしてり、また私がそれを現存在・意識一般・精神として知るとこ ろのこの包括者なるものは、むしろそれ自身のうちから理解 性包括者が科学的に探求可能な自然的生起として個別化され、 認識されうるものとなる。他は、包括者が理解可能な、全体できないものであって、それは或る他のものを指示するもの 者へ自己を鎖すところの、それ自身で明白な現実と自由であである。われわれである包括者は、存在そのものではなくし るような様式ーーへ分けられる。現存在と精神とは現実の諸て、存在そのものとしての包括者における現象 ( 仮象ではな

6. 世界の大思想32 ヤスパース

は自己固有の地盤というものをもっていないように見える。 度毎に、思想は常に一瞬間だけ足場を捉えたかのように見え る。このことはあらゆる様式の包括者に関して、実際に起っ というのは科学は、科学によって捉えられはするが、もはや ていることである。自己行為の限界意識と要求としてのみ真決して包括者ではないところの包括者を見ているからであ る。科学の魔術は欺瞞的である。しかしもし科学によって、 であるところのものを、われわれが知的内容として獲得する 世界内のわれわれの現象についての分相応な・相対的・果て と考えるところに、常にこのような誤謬が存するのである。 包括者は一見すると、現存在や意識一般や精神の経験的現しなき認識が生ずるならば、有効である。 理性と実存もまた、その明晰性と覚醒とを渇望する思惟を 実として、人間学や心理学や社会学や精神科学の対象となる かのように見える。これらの学は世界内の人間的現象を研究有している。そこで理性には哲学的論理学が、実存には実存 するが、それらが認識するものは、そのままでは決して、そ開明 (Existenzerhellung) が属している。 しかも時として顕わになる れ自身としては認識されないが、 しかし論理学は、もしそれが意識一般による普遍科学とい ところのこの存在の包括的現実ではないのである。どんな宗うようなものになったとするならば、もはや哲学的真理に関 教史でも、どんな宗教社会学でも、それらが宗教と名づけるするものではなくして、却って全体者に関する似而非科学へ ものにおいて、また人間において、それの実存そのものであと逸脱するであろう。一つの原理から展開せられる大規模な ったものには到達しない。 これらの学は単にそれを、その事範疇論においては、形式と存在そのものである万有としての 実に従って取り上げることができるにすぎない。そしてそれ包括者なる全体者だとか、創造以前の神の思想などが概観せ られ、反省せられるかも知れない。しかしこれらの研究は真 らは、このような事実が、単なる説明では不可解であるが、 或る飛躍によって、考察可能なものの現実となるのを知るの理を、思惟の形式の可能性についてのーー単にその数を増す である。これらの学はすべて、自己が決して到達できない或にすぎない多数の方向へのーー・定位としての一般的な哲学的 るものヘ迫っていこうとする。それらは、本来的に重要であ論理学の範囲内において、対象的なものとして現われる現象 これらの研究は永久 に妥当するものとしてもつにすぎない。 るものと交わろうという幻想を抱いている。ところでもしこ 実れらの学が自己の確証的・導出的な内在者において、存在そに終末をもたないし、一貫的に支配するところの、これらの 研究をいわゆる生み出すところの、原理というものをもたな 性のものを把捉すると考えるならば、欺瞞である。それゆえ、 理 。理性の自己開明として、論理学は哲学であって、それは これらの普遍科学は鞏固に統一されていない。科学の限界設 もはや、対象的な、いわゆる、全体者認識ではない。 定はすべて相対的であるにすぎない。科学はそれそれ、あら 実存開明は実存を認識するのではなくして、実存の諸々の ゆる科学は相互に交叉する、という形態をとっている。科学

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けれども、問題なのは、はたしてこの世界が、主観ー客観 ! そこへ到達してはじめて、われわれはわれわれが哲学的根 本操作と呼ぶところのことをなしとげる。この操作は一つの分裂において経験されるままに、すでに存在そのものである かどうかということであり、またこの存在が、認識されうる・ この操作とともに、われわれのうちに、 研究方法ではない。 何ごとかが生じる。この操作を思考の形でことばによって伝世界にほかならないかどうかということである。 えるのは、たんに導きの糸をもたらすだけである。この導き それに対する答えはこうである。世界は仮象ではなくし の糸は、何かを認識するために使用しうるというようなもの て、実在である。しかし、この実在は現象である。現象と切・ ではない。むしろ存在の開示がいかなるしかたでなされるか り離すことができないものとして、この実在は、真の存在に よって、包括者によって、支えられている。しかも、この包 ) が、この導きの糸によってわれわれにはっきりしてくる。 括者そのものは決して世界のなかの実在としては、すなわち 研究されうる対象としては、あらわれてこない。 たとえばこんなぐあいである。もし存在する 四 哲学的な根本 操作Ⅱ世界のものが、客観でも主観でもなく、対象でも私 現象固執性 でもなくて、この分裂において開示される包包括者のあり主観ー客観ー分裂を包括する者のありかたは決〕 かた して一つではない。われわれはかかる多様な 括者であるならば、かかる分裂のなかに生じてくるすべての ものは、現象である。われわれにとって存在するものは現象ありかたを簡単に一暼してみよう。 たとえば、こんなことが言われているのを耳にする。色は であるが、この現象はまさに主観ー客観ー分裂において包括者 が明らかになることそのことである。われわれが知覚すると客観的なものではなくて、電磁波が感覚器官に作用すること ころのものは、その感性的実在というしかたで、空間および によって、主観的現象として成立するものである。客観的に は波が存在するだけである。世界そのものは色も光もないも 校時間のなかに存する。われわれが思考するところのものは、 学 もしかりに、 な思考されうるという形式のうちに存する。このように、それのである、と。しかし、そんなわけはない ! さ はそれだけで存在するのでなく、分裂において、私にとつ物質すなわち物理学の対象が、存在そのものであり、それ自 身たんに現象の一つのしかたでないとすれば、あるいはそう・ 学て、存在する。 ま一つの真実の世界に対 いうことも一一 = ロえよう。問題はまったく別である。人間という 現象とわれわれのこの世界は、い 包括者立する一つの見せかけの世界といったようなもので感覚的な生きものの主観にとって、色はどこまでも客観的で ある。物理学的、生物学的認識は、なるほど、いかなる条件〔 はない。ただ一つの世界のみが存在する。

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492 た学として哲学独自の立場と意義を闡明することによって、 ンルに属する「現代の精神的状況」 ( 飯島宗享訳、河出書房 ) 「現代の政治意識ーー原子爆弾と人間の将来ーー」 ( 飯島宗右のような誤解や非難に応えようとするものである。 享・細尾登訳、理想社 ) は必読書というべく、又最小限の参 かれの哲学に直接その影響を与えていると思われるもの 考書として、武藤光朗「社会主義と実存哲学」創文社、林健は、一方においてカント、他方においてキルケゴールとニー チ工という全く正反対の立場に立っ哲学者である。かれの哲・ 太郎「歴史と政治」有信堂、をおすすめする。 学の歴史的地位を特色づけるならば、キルケゴールとニーチ ャスパ 工を通じてカントを発展させることによって、この一見全く ース理性と実存 正反対と思われる哲学のふたつの立場を克服したものといっ てよい KARL JASPERS 】 Vernunft und Existenz. 1935. 実存という一一一口葉はすでに、キルケゴールによって、この言 葉があらゆる規定的な知を放棄するところのものを、無限の 深さにおいて現象させるような或る領域の中へ高められはし 草薙正夫 たのであるが、同時にそれは単独者の中へ閉鎖されることに ャスパ ースの哲学が自由な自己存在としての実存を強調すよって、交わり (Kommunikation) を喪失せざるをえなかっ た。また理性という言葉は、カントにおいて広さと明るさと るところの実存主義的哲学であることは周知の通りである。 しかしそれによって、かれの哲学が普遍主義に対立する個体誠実さを担っているにも拘わらず、それはそれを担うべき実 主義、合理主義に対立する非合理主義の哲学であるかのよう存を欠くことによって、抽象的な理性主義の空虚へ陥らざる な誤解を生み、従ってかれの哲学は神秘主義であり、厳密なをえなかったのである。しかるにヤスパースによれば、哲学 は、それが成功した場合は、論理的抽象性と現実的な現在と 意味で学間としての哲学の価値を有しないというような非難 が、いわば同一的となるようなあの類稀れな思惟でなければ さえ受けるに至った。本書は、本来の哲学が、理性的なもの と反理性的なもの、すなわち理性と実存との何れかの一方をならない。そこで哲学のもっとも重要な課題は、この両者を 固執するのでなく、またその何れをも放棄することなく、哲結合するところのいわゆる実存的思惟の可能性の闡明にある ースの理性と実存の対立的概 と考えられるのである。ャスパ 学は、理性を欠くことによって盲目となり、実存を欠くこと によって空虚となることを自覚しつつ、両者の不可分離的緊念はこのような目的のために措定せられた簡略な方式である が、それは、決して反定立を意味するものでなくして、むし 張において成立する所以を説き、一般科学と宗教から独立し

9. 世界の大思想32 ヤスパース

ちの史的未来像 ) 、更に、世界創造と人間の堕罪から、世界 の終末と最後の審判に至るまでの全体としての啓示の生起 ( アウグスチヌス ) として考えたのである。 ヒストーリッシュ 経験を基礎とし、かっこれのみに拠るとき、史的意識 は根本的に別ものとなる。シナから西洋に至るまで随所に見 られる通り、文化の自然発生の物語は、なお伝説的であると はいえ、経験に基づく史的意識の意図をすでに含んでいた。 緒論世界史の構造 今日では現実的経験的視野は極度に拡大されている。聖書宗・ 教における世界の六〇〇〇年期説のような、時間上の制限は もはや通用しない。過去の方向をうしろに遡っても、未来の 現代が最も決定的な重要性をもっゆえんは、それが全人間 生活に広汎深刻な変化をひき起こしている事実によるのであ方向を前に進めても、限りない時間が姿を現わす。その点、 る。現在の出来事の意義を測り知る尺度は、人類史全体以外研究は歴史的遺物、過去の記録や遺物を抜きさしならぬもの と考えるのである。 に他に求めることはできない。 このような経験的歴史像は、見渡しがたい多様な現象を前・ しかし人類史を回顧するとわれわれは、われわれ人間存在 にして、個別的な法則性を並べ立てたり、多くの事実を数限 の秘密へと導かれてしまう。そもそもわれわれが歴史なるも このような . りなく記述したりするのに満足せねばならない。 のを所有し、歴史のおかげでわれわれが今日あるがごときわ れわれであるという事実、ーーこの歴史なるものが、これま歴史像においては、同じような現象が繰り返されたり、相違 でに比較的にいってごく短い時間続いているにすぎない事した現象の中に類似が認められたりする。もろもろの現象形 態が一定の順序で生起する必然的な序列が存在するかのよう 実、これを思えばわれわれは、次ぎの問いを発せざるをえな に見えたり、逆にもろもろの形態が混沌と入りまじっている いのである。すなわち、歴史はいずこから起こり、いずこへ のが見られたりする。精神的な物事において、様式が一定に おもむくのか ? 歴史とは何を意味しているのか ? 古来人間は、全体を一つの像として思い描いた。すなわ遵守されることもあれば、それが俗化されて本来のものでな くなって存続することもある。 ち、まず初めに神話の形で ( 神系譜ならびに宇宙生成物語に おいて、人間はその中に自分の座を占めている ) 、ついで神 あるいはこのような分散的歴史像とは逆に、人類史は統一 の業が政治的に世界を決定するとの観念において ( 予言者た的総括的な全体像として求められる。すなわちこの見方にお 第一部世界史

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308 思惟する人間においては、常に再び、かれの思惟されたも いた場合に限るだろう。それだから、あたかも存在それ自身 のをすべて包越 (übergreifen) するものが浮び上る。 をすでに認識的に獲得しているかのような、誤った導出の仕 〈哲学すること〉において、今度は反対の傾向、すなわち包方が屡々行われるのである。 括者であると考えられた存在一般から、われわれが対象的に これらの導出は、たとえば、思惟可能なものや世界内にお 認識するような特殊の存在を導出する傾向、われわれ自身を いてその都度われわれに現われるものの全範疇を、一箇の原 も含めた世界全体を、あたかもわれわれが世界内の事物をそ理から導出する場合と同じく、相互に関連している個々の類 の原因によって理解するように、哲学的に認識された源泉かを導出するところの、常に相対的な導出であるにすぎない。 ら発出させる傾向が存在した。それはどんな場合でも、〈哲 . 完全な導出というものは、これまで決して成功しなかった 学すること〉を放棄する極端な迷路である。というのは、包 し、また決して成功することはありえない。しかしこのよう 括者は決して、他から導出せらるべき或るものとしては認識な導出を試みることは、限界意識を鋭敏にするという価値は されえないからである。たとえ総括的な対象であっても、おもっている。 よそ思惟された対象は、すなわち思惟された全体にしても、対 或る基礎的存在者の理論から現実的な生起を導出すること 象として思惟された包括者にしても、すべて対象としては個によって、いろいろなモデルが作られる。しかしこれらの導 体である。というのは、それは対象を自己の外に、同時にわ出が捉えるものは、常に限定された現実であり、経験的現存 れわれに対して、所有しているからである。包括者それ自身在の単なる景観であるにすぎない。 このことは、これらの導 はーーわれわれであるところのものとしても、存在自体であ出がこのような果てしなく前進して止むことのない認識の機 るところのものとしてもーー規定的な対象的存在であること能であることを、自ら実証するものである。このような導出 を拒否する。われわれ自身が包括者である限り、それは開明 は決して、恐らくそれが折に触れ本心においてかくありたい せられる。それが存在自体と見なされる限り、それは現象的と願うものーー・実在そのものの認識ーー・ではない。 に無際限に科学的探求によって把捉せられる。それが超越者 われわれ自身をも含めた全世界存在を超越者から ( 流出や として語る限り、それは絶対的に歴史的な実存から聴かれる。発展や因果的継起などによって ) 導出することは迷妄であ 包括者はそれ自身としては、どんな形態においても認識さ る。創造の思想は根源秘義の表現であり、不可解性の表明で れないからして、われわれにとって存在するような存在は、 あり、問の無底の底への転落である。 それから導出せらるべくもない。もし導出せられうると仮定 包括者がいかように考えられるにしても、包括者が一時的 するならば、それは存在がかかるものとして、予め知られて に科学的探求の対象であるかのように現われるならば、その