からである。 しかしこういったいっさいの論議は、この分が犠牲者であろうとは思わないのである。当時ではほとを ど注意もされず、とりわけ実際には行なわれなかったこと ように語る者にとって有利なのである。彼は協力者であり、 受益者なのである。彼は顔をゆがめて自分の苦悩を示しはすが、後世になって模範として取り上げられ、周囲に熱烈に宜 るが、それは何ら真の苦悩ではなく、身振りにすぎない。彼伝鼓吹される、というような意義の逆転の実例は、広く認め は有罪性を、良心の呵責の軽減として利用しているのであられるものである。 る。 これに該当するよう われわれはもうこれ以上は続けない。 人は恐るべき行為に参加する場合、次ぎのように語る、すな実例は枚挙にいとまがない。伝統的な価値内容の崩壊は、 このような暴露という思惟類型があまねく行きわたっている なわち、生きることはきびしいものである、国家とか信仰と か、きたるべき究極的に自山かっ正義の世界とかの高遠な目事実だけを見ても明らかである。時代は、みずからの行動に 的のためには、きびしさが必要なのである、と。人は危険の関する理論を発明する。しかしこの理論そのものがとりもな ない、楽しみ半分のきびしさの程度で、自分自身に峻厳に振おさす、この理論が相手として戦う害悪を強める手段となる 舞うものであり、かくして彼は、自分が他人に対して要求すのである。 アインファッハハ ) 甲亠レし。 単純性が真なるものの姿である。単純 るきびしさに他意がないと見せかけの証明を与えるのである 化とは、失われた単純性に代わって出現する暴力性である。 が、実際には無条件の自己の生存意志、権力意志はおおうべ 単純性は無限に解釈可能な性質をもち、小さいながら一世界 くもないのである。 一方ではかの恐ろしい物事が行なわれているのに、幸いにをなし、充実され、可動的である。単純化は性質上有限であ 、人間が操り人形のごとく動かされる糸であり、発展可能 も恵まれた状況を与えられていると、自分の虚偽性が意識さ れるものである。ところが人間とは、自分自身はやる気構え性なく、空虚であり、硬直している。 われわれの時代は、もろもろの単純化の行なわれている時 がないもの、自分では経験したり蒙ったりしたくないもの、 っさいを割り切ってしま 自分はそうありたくないものを見たいと思うものである。そ代なのである。さまざまな標語、い こで儀牲者が切望される。彼はすんでのところ自分自身が犠う普遍的理論、組雑な反駁命題、こういったものが成功を博 牲者と一緒にされたかのように、自分の可能性にほとんど感している。単純性が神秘的象徴に結晶化されるに反し、単純 激してしまう。そこで彼は、犠牲者でないということで他人化は似而非科学的絶対性を身の支えとする。 否定からの生。ーーー信仰がもはや生きることの内実の基礎 を攻撃する。彼は、切望されている像に一致すると考えられ る人間の運命に酔ってしまう。しかし彼は決して、当時は自でないならば、そこにはただ、否定のむなしさが残るのみで チオン ジン・フリフイウ
の創造は魅惑的である。そのことがかれらをして、もっとも のうちにある不幸な相対性、私がいかなるものであるかとい 四う無限の間」を知っている。ところがニーチェはそれを次ぎ多くの読者を有する作家たらしめているのである。しかしそ うだからといって、かれらによって書かれたものの内容の重 のように言い現わす 要さに関して、またかれらを真に理解することの困難さに関 して、偉大なる哲学者のうちの誰かに比して相違があるわけ 百の鏡の間で ではないのである。しかしかれら両人はすでに、文章という お前は自分で自分がわからなくなる。 ものが自己独自のものであることを知っている。そして文壇 自分の繩で自分の首を絞める なるものを軽蔑する。 自己反省者よー 自己虐待者よー かれらは夢中になるほど音楽に捉われた。しかしかれらは 二つの無の間で跼蹐する 共に、音楽の誘惑に対して警戒を怠らない。そしてかれらは 一つの疑問符。 。フラトンやアウグステイヌスと共に、音楽の実的な懐疑家 に属している。 時代は、自己の反省と合理的な言葉の多様性のために、も かれらはつねに、ひとの心を衝くような簡潔な様式に成功 はや自分で自分がはっきり解らなくなって、反省から出て根 しているが、かれらは共に、真の簡潔性に代えるに、精神を 欠いた平板な簡潔さをもってして、弱さと平凡に、見せかけ 源へと迫っていく。キルケゴールとニーチェはここでもま た、先取するかのように見える。後の世代がはじめて一般のではあるが、とにかく或る一つの地盤を提供しようとする に、言語的表現や、直接的な衝動の美的魅力や、一般的な単ような単純性に陥らないように、充分心を使っている。とこ ろで真の簡潔性とは、複雑な形成過程の結果としてのみ、合 純さや、無反省な体験や、もっとも近い事物の存在のうち に、根源的なものを探し求めた。キルケゴールとニーチェ理的な一義性をもっことなくして、存在そのもののように顕 は、恐らくそれに奉仕するかのように見える。 わになるところのものである。かれらは極めて自明的に見え るかれらの文章を、単純に受け取ることを戒めている。けだ かれらは共に、情熱的な愛をもって、人間の伝達可能性の 源泉において意識的に生きる。 し、このようなことは、かれら以前の思想家にあっては、決 してなかったことである。 かれらは言葉の創造者である。かれらの作品が、かれらの かれらは実際徹底的に根源への道を歩んだ。ただしかれら 国民によって書かれたもののうちで最高峰に属する所以であ る。そしてかれらはそのことを自覚している。かれらの言葉 にとっては、この弁証法的進行は止まるところを知らないも
に、われわれにとってどうでもいいようなもののかたわらに 事実と聖徒物科学の内容の純粋さは、神話の内容や聖徒物 語の内容とは区別される。聖徒物語の証一一一口 いる。歴史のなかでは、われわれは自己自身のかたわらにい : と信 る。あたかも、先祖がわれわれに呼びかけ、われわれが先祖は、事実を証言するものではなくて、《われわれは : じていた》という意味での証言である。信仰者がわれわれに に応答するかのごとくである。われわれは、人間性というい 証言していることを、われわれは、信仰なしには、当時そこ つも変わらぬ自然性にもとづいて、決して同じようにはくり に居あわせていたとしても、事実として証言することができ かえされないもろもろの歴史的現象を実現させる。 ないだろう。 四 すべての科学と同様に、歴史科学は限界につきあたる。わ れわれの知識が過去へ向かって、以前には知られていなかっ 歴史科学とそ歴史とは、われわれの先駆者たちの行為と創 の限界 造である。彼らはわれわれをしてたえず前進た領域へ向か 0 て、異常に拡げられた結果、限界を超える期 するように仕向けてくれた。いっとも知れない大昔から、人待が生じた。われわれは歴史の始原にまで到達するであろう と期待するようになった。けれども、科学は秘密のまえに謙 間は神話や伝承によって自分たちの歴史について知ってい る。文字が発明されてからは、人間は自分たちの経験や行為虚であるべきことを教える。まだ誰も足を踏みいれたことの の記録によって、自分たちの歴史について知っている。それない時間、ただわずかなしるしをとおしてしか知らされてい は自分たちの歴史を忘れないようにするためである。これない時間の、開かれたかなたは、なるほど見きわめられな 。しかし、すべての始原は、歴史の内部での或る新しいで いいかえれば、歴史科学である。われわれは、何がほん とうに起こ 0 たかを知りたいと思う。そこでわれわれは、現きごとの始原と同様、われわれをして或るほの暗さに直面さ 存する実在に、いわゆる資料に、記録に、証人の報告に、建せる。このほの暗さのなかでは、根原は知識にと 0 て閉ざさ 校造物や技術的作品に、詩や芸術上の創作などに、拠りどころれたままにとどまる。 を求める。これらはすべて知覚されうるものであるが、われ認識されえな歴史科学の限界は、われわれが歴史の全体を い全体 意味のある一つの全体として認識するのでは われはこれらのもののうちに、意図されている意味を理解す ないということでもある。経験的歴史科学は、いたるところ 学ることができる。われわれが真の伝承を正しく理解するかぎ で偶然に直面する。この偶然は、歴史科学の探究することが り、またわれわれが証人の言表の正しさを検証することがで らの根本事実である。 きるかぎり、科学で十分である。
りかえし思い違いをすることがあるし、愛を傷つけ、愛を弱 れえないものであり、対象をもたないものであり、悟性にと くさせるがゆえに、人間はやはり、自分の愛において、意識 っては存在しないものである。 もうこれ以上、愛と呼ばれるすべてのものをかぞえあげる もしくは良心による監督を必要とする。明るい見とおしの愛 のはやめよう。最後に残る問いは、われわれは一者をその多に信頼して生きることのできる者にとっては、アウグスチヌ スのこのことばがあてはまるだろう。「愛せよ、そして汝の 様な現われにおいてとらえるのであるが、かかる一者が愛の 根底をなしているかどうかという問いである。 欲することを為せ。」 dilige et fac quod vis. けれども、わ けれども、すべての愛を含んでいる一なる愛、性れわれは人間であり、自己欺瞞とごまかしについて責任があ 一なる愛 的なもののなかへも現われるが、性的なものから り、無慈悲な力にさらされているがゆえに、われわれは監督 は生じないし、性的なものに縛られていないこの一なる愛なしでは存在することができない。たとえば十誡を破るよう は、何であるか ? それをわれわれは言うことができない。 な愛よ、、・ しすれももはや愛ではなく、似ても似つかぬ情熱に 襲われたところから、愛の名をかりて嘘をつく。 それゆえ、われわれは、態度や行為や価値判断の正しさを けれども、こころみに、愛が何であるかをわれわ根拠づけようとするとき、愛にたよってはならない。われわ 愛と良心 れが知っているかのような口ぶりで愛について語れは愛が何であるかを知らないのであるから、われわれは愛 ることが許されるとすれば、すべてを包括するこの一なる愛をもってしては合理的に操作することができない。 しかし、すべての合理的な根拠づけと、道徳律にしたがう は、そこではじめてわれわれが、本来的に、われわれのある 生活とは、なるほどわれわれの明るさにとって本質的なもの ところのものとなるような場である。 であるにせよ、やはり、愛による充実なしでは、また愛によ この愛は、もしそれが完成し、純粋に働くならば、さだめ 校し、われわれの生命の唯一にして十分な根拠になることであって支えられることなしには、何ものでもない。 学 愛は自分に関してはいかなる法廷をももたない。愛そのも なろう。完全な愛は、、かなる道徳律をも、いかなる共同の秩 序をも、必要としないであろう。というのも、この愛は道徳のが、良心の助けをかりて、きびしく、しかし愛のこもった 学律や秩序を、つねにただ一つの具体的状況のなかで、自己自良心によって、愛の現われを判定する。 身から生みだし、したがって服従を自己のうちに含んでいる からである。けれども、人間は、感覚的な悟性存在として、 完全な愛の資格をもたないし、自分の愛においてはいつもく
れ自体近東・中東・極東の区分を含むアジア、これらは次ぎ 科学、合理的方法論、人格的自己存在、公共生活、資本主義 つぎに起こってくる対立の諸形態であり、このような対立を的色彩を帯びた経済的秩序等々は、東洋においてはどのよう なしながら、もろもろの文化や民族が相互に牽引反撥を同時なきっかけから始まったのか、という問いである。更にすす に行なっているのである。ヨーロッパはいつでもこう、つこ しナんでわれわれは、西洋と同一であるものを求め、それが東洋 対立のうちで構成されてきたのであるが、一方東洋は、この においては何ゆえ充分展開するに至らなかったかを問題にす 対立をヨーロッパの側から初めて受け取り、自分としてもそる。 れをヨーロッパ的な意味で理解したのである。 われわれは、アジアにおいては実際のところ、われわれが という暗示に落 見知らぬ新しい物事は全然見いだされない、 客観的歴史的に分析してみると、たしかに世界形成に果たち込んでいる。そこで見いだされるものは、われわれにすで におなじみのものであり、ただ強調のされ方が異なるにすぎ した役割の点での西洋の優位がわかるのであるが、同時にま た、西洋の未完成と欠陥も明らかとなる。ここからして東洋ないと考えられる。たしかにヨーロッパの自己満足感の致す をたずねることは、いつでも新鮮な、実り多い問題たるを失ところは、東洋の見慣れぬものを単に珍奇なものとして眺め わない。してみれば、そこにわれわれは、われわれの不足をる以外になかった。つまりアジアにおいても同じく思惟され た思想は、ヨーロッパにおいてはいっそう明確に思された 補う何ものを見いだすのか ? そこでは実際何が生じ、何が われわれの逸した真理となったのか ? われわれが優位をか という優越感となったり、さもなければ、われわれは実際は ちとるために支払った犠牲は何であるのか ? ただわれわれに固有なもののみを理解でき、アジアに発した 歴史の淵源へと時間を遡る場合、西洋が最も長い確実な歴ものを理解できないのだ、という諦めの意見に落ち込んだの である。 史的伝承を所有していることはたしかである。地上どこに も、メソボタミアとエジ。フトにおける以上に古い歴史は存在 しかしわれわれが、ヨ 1 ロッパのあらゆる優位にもかかわ しない。西洋は最近数世紀において、全世界にぬぐい切れな らず、西洋から何が失われてしまったのかをたずねる時、初 い特徴を跡づけてきた。西洋は、その歴史ならびに創造物めてアジアはわれわれにとって重大な意味を帯びてくる。わ の、最も豊富で明確な区分をもち、精神の最も崇高な闘い、 れわれに欠如しているもの、われわれにとってどうみても本 最大多数のまぎれもない偉大な人物を所有している。 質的にかかわりのあるものが、アジアには存在するのであ こういった観点に立って眺めると、われわれにとっていつる「・ここから、われわれ自身の魂の奥底にまどろんでいる 問いが、われわれの意識に浮かび上がってくる。われわれ の場合でも問題となるのは、西洋が実現したもの、すなわち
たがって、市民たちは、みずから吟味しながら、彼らのうちゃ、多くの共同体の中で展開されたアメリカ的生活の信念 に自分自身の判断力を再認し、自分自身の決断へと促されに、もとづくものであった。イギリスに対する独立革命のさ る。彼らのことばや行為は、幾千年を経て、なお思い出され 、勝利をおさめると同時に、国内では憲法が制定され、ま る。 ず統一国家が、ついで連邦国家が制定された。ずっと後にな ってはしめて、いたるところで、国家全体の意味についての 五 諸学説が生まれた。建国者たちゃ、その後継者たちが、みす から維持しようとしていたことについて確信するにいたった 政治的自由のけれども、政治的自山は、無から生じたので 歴史性 のは、それらの学説のうちにおいてである。 はない。歴史的に見て、最初のものは、、 だ非政治的な生ける自由であった。結合によって実現された カントは言った。近代の歴史におけるもっとも重大なでき ごとは、スイス、オランダ、イギリスなどにおける自由の戦 自由の意志は、空虚ではなかった。むしろこの自由の意志 いである、と。この精神から、アメリカ的な自由の戦いが は、共同生活のなかにおいて、古来の資産内容を保った。み 新たな根原性のうちに生したのである。これらすべての自由 ずから自己をいまだまったく意識しないこのような自由が、 どこから由来したか、それは理解しがたい秘密である。人種の戦士たちの勇気、精神的高揚、節度、思慮深さは、おどろ や民族の天分について語ることは無意味であり、同時に、事 くべきものである。彼ら自由の戦士たちは、自主独立の点か 詹の偉大さに比して、くだらないことである。 らしても、たんなる暴力に従う大衆を、自分自身の威力で、 ギリシア的ポリスの自由は、ホメロスおよびイオニア人以 、っそう賢明に、、 しっそう献身的に、凌駕するような力をも っている。 来のギリシア的な自由の意志のうちにその前提をもっていた としても、この自由が最初に頂点に達したのは、ひとりソロ しばらくのあいだではあったにせよ、かってこのような信 校ンにおいてであり、この自由が完成をみたのは、ベルシア戦頼すべき政治的自由が存在したということは、あとにつづく 学 役とそれにつづく時代においてであった。 スイスの自由われわれにとって、永遠に、勇気を与えてくれるものであ さ な農民生活は、誓約同盟のための前提であった。この誓約同り、また模範となるものである。 の 盟は、十三世紀に、単純なすばらしい原則をもった文書で、 外からの圧迫に対する防衛のさいに、無制限に犠牲を覚悟す るということと同時に、国内における自由の制度を確立した ものである。 アメリカ的な自由は、清教徒たちの信念 自由ては破減不気味なことは、自由そのもののうちに、破 滅の根拠があるということである。
置かれている認識可能な歴史過程だけに身をまかせるなら通の経済によって手に入れる者 (homo oeconomicus) など ば、われわれは、われわれ自身の根原的な責任の意識を失として規定されてきた。 これらの規定の一つ一つが、何か特徴的なことを言いあて う。なぜなら、まだ歴史を直観しないときでも、この責任に よってはじめて、われわれはわれわれ自身であるからであている。しかし、そこには決定的なものが欠けている。、、 る。 かえれば、人間は、このような存在の型にいつでも復帰する ことができるのであるが、そういう固定存在としてとらえら では、われわれは、われわれの内的な行為の自由、外的な 行為の自由において、われわれ自身から自己を把握するのれるべきではない。むしろ人間の本質は運動のうちにある。 しいかえれば、人間は自分のあるがままにとどまることがで か ? ここにおいて、われわれはわれわれの自己意識の深さ きない。人間はその共同状況の不断の変化のうちに存在して と根原に到達する。けれども、われわれはわれわれの自由の いる。人間は、動物のように、平穏無事に世代から世代へと 実存を把握していない。なぜなら、われわれは自分で自分を 創造したのではないからである。われわれは現存在として生自己をくりかえす存在ではない。人間は、自分に与えられて いるものを超え出ていく。人間は、そのつど新たな条件のも まれておりながら、現存在として自分を創造したのではな とに生まれる。いま生まれた人間は、いずれも、ただたんに 。またわれわれは自由において自己をとらえることによっ て、自由において自己を贈られるのであるが、われわれはか予定どおりの軌道に結びつけられているばかりでなく、一つ の新たな始まりでもある。人間は、ニーチェによると、《固 かる自由として自分を創造したのでもない。 定されない動物》である。動物は、すでに存在していたこと だけをくりかえし、それ以上は何もできない。人間は、逆 に、その本質からいって、自分の持ちまえのままに存在する われわれがわれわれの由来から自己を理解しないときに ことができない。人間は、袋小路、退化、転倒、自己疎外に 校も、なお、われわれは、少なくとも、自分が何であるかを知 学 おちこむことがありうる。人間は、保護、救済、解放、自己 なることができるだろうか ? さ 人間の本質の人間の本質は、言葉をもち思考する生物自身〈の復を必要とする。けれども、こういうことは、唯 の 諸規定 (zoonlogon ech 。 n ) ーー・行為によって国家す一の真なる人間存在について一般に信じられ認められている 学 ような方向において生じるものではない。 なわちポリスとしての共同体を法のもとに立てる生物 (zoon ー道具 て三三 kon ) ーー道具を製作する者 (homo fabev で仕事する者 (homo laborans) ーー・その存オ召記を共
330 真理のこのような多様性を哲学的に承認することは、無性性からい 0 て真実らしからぬものは、人間本質の根源におい 格的に見えるかも知れない。ひとは次ぎのように非難するで て可能であるところの、完全に準備された交わりの理念の前 あろうーー「ただ一つの現実のみがかの真理である。それは では、その価値を失う。この理念は、経験的現実の前では血 絶対的である。神に対してでなければ、人間に対して。自分限の課題に変化する。そしてこの課題の限界は、この課題の の真理を唯一の真理として信ずるのでなければ、人間は無条実現によっては見極められないのである。 件に自己を賭するわけこよ、 冫をし力ない」と。 しかし真理の多様性が実存的に認められるならば、交わり この非難に対しては次ぎのようにいわれるーーー「時間的現のもっとも徹底した断絶が生ずることは明瞭である。それに 存在においては、超越者を、あたかも世界内の或る事物のよう も拘わらず、全体的な交わりの意志は、一度自己の道を覚知 に、あらゆる人にとって同一的に認識可能な対象として所有する限り、放棄せられない。それは自己自身とこの世界にお することは、人間にとって不可能であるからして、絶対的真ける可能性とに対する信頼を獲得する。この信頼は恐らく度 理としてのかの一なる真理は、 とんな様式であれ、何れもこ度裏切られることがあるかも知れないが、それはその根拠に の世界においては、実際には単に歴史的でしかありえない。 対する懐疑のためでなくして、単にその一定の実現に対する それはこの実存にとって無制約的であり、またそれゆえにこ懐疑のためであるにすぎない。さらに全体的な交わりの意志 そ、普遍妥当的ではないのであるーと。しかし自分自身にと は、他人の真理に対しても信頼をいだく。というのは、それ っては真理ではない他人の真理を、同時に承認し、またあら は自分の真理ではないが、真理として自己自身のうちに、一 ゆる普遍妥当的な真理が相対的で特殊的であることを、同時種の交わりの可能性を含んでいるに相違ないからであろう。 に堅く念頭において、全力を尽くして自己自身の真理を貫く従って、全体的な交わりの意志は、失敗の苦難において、全 ことは、人間にとって不可能なことではなく、ただ心理的に然消失するということはありえない。それが真実である限 限りなく困難なことであるからして、人間は、この単に外観 り、恐らく一種の誇らしい謙虚といったことが、それの特色 的に一致できないかのように見えるものを、同時に遂行しょを示すものであろう。というのはそれはーー広範な現実性こ うという誠実心のもっとも熾烈な要求を回避すべきではなそなけれ、決して自己自身を裏切ることのない自己の可能性 。人間の時間的現存在の有限性と矛盾抗争するところの全の表現としてーーー自己の道の幻像を、このような謙虚な態度 く不可能なものが、単に避けられるだけならば、人間の理念で、理念として描くからである。 は充分に高揚せられえないのである。経験的に見て真実らし 根源的に本質の相違するいろいろな実存にとって、現存在 からぬもの、すなわち均等的に考察された人間的性質の事実的闘争が避けることのできない運命であることを、これらの
課題である。社会主義は、このような秩序を目ざすあらゆるする空論のとんでもない重圧に押しつぶされているのがわか らずに、人間存在の非力を決定的と思い込んでいる人間より 傾向の代弁者なのである。社会主義は、暴力なき協調を目ざ も、われわれとしてはむしろ、冷静にーー自由な人間はそれ し、一歩一歩と歴史的に前進し、そしてまた、即時の全面的 以外の見方をなしえないーー危険を見て取る人間に期待する 実現を志して深淵に落ち込むような羽目に至らなければ、い いったんこの のである。 よいよもって本来の目的に接近するであろう。 ような深淵に落ち込めば、それでもなお人間が、彼の本質の 8 全体計画化の動機と全体計画化の克服 深みからあとで再び新たな道を見いだすものならいざ知ら 蒙味な者は困窮に際して、全体計画化の救済の信仰に走 ず、歴史はやむほかはなかろう。 る。科学的迷信にとっては、まるで充分考え抜かれた知識に われわれは政治的自由が、社会主義の実現に伴って世界に より、いっか善がもたらされうる、このような知識はすでに おいて増大するものか、あるいは失われるものなのかを知ら ない。おのれを知ることのない傲慢な全体知を断念している現存するのだ、と思われている。このような救いとなる知識 への憧憬は、啓蒙と自主的思考を欠いた人間のみずから招い いつまでも手許にある 者は、自由がおのずと手に入ったり、 ものではない、 ということだけは心得ている。自由はきわめた幻覚に化し、ひとりの指導者、ひとりの超人の姿をかりて て大きな危険にさらされているのであるから、自山を欲する現われてくる。彼は何でもやってのけると約東し、人は何も あらゆる人が、言行において彼らの全存在をあげて常時自由考えずに彼についてゆけばよいのである。救いの何から何ま のために力をつくす場合に、初めて自由は栄えることができでが、不可能事から付されているのである。 る。自由への無関心と、自由を所有しているとの自己確信 少なからざる人間が全体計画化を、窮迫からの唯一の逃げ そもそも自由を失う始まりなのである。 道と思いこんでいる。全体計画化を不問のまま最善と思い込 標 自由の理念は、人間存在の真理たるにふさわしい。しかしむのが、多数の人にはまるで定見であるかのようになってい る。強制的組織化が窮迫と無秩序を克服し、福祉をもたらす とわれわれは、人間の中にねむる他者の威力と自信のほどを、 すなわち非自由な現存在の勢力を体験している。たしかにわであろう、と考えられている。 ートヒア このような場合、人間は完全無欠な社会というュ 吏れわれの悟性はおじけづいたり、未来における自山の可能性 を瞬時暗い気分に襲われて悲観的に眺めかねない。しかしわによって、全体において現実に行なわれているものに眼をふ さがれ、その結果、権力が課するものを、自分が把握しうる れわれが、われわれの人間存在を噛みしめてみる時、信仰は 目標の狭い視界に閉じ込められたまま果たすことになる。し 再びよみがえってくる。自分の無明の生命力や自分の主義と
るから、つまらぬ徒輩を権力の座につけてしまう。こうなる選ばれるのは何ら不思議ではない。 このわき道は、個々の集 と諸政党は用をなさない。政党は民衆の道具である代わり団の自己宣伝をへて、奴隷支配に通ずる。奴隷たちは幼稚な に、自己充足的組織になる。彼らは選良の代わりに、むしろままに、自分らは自由であると思い込まされているが、彼ら 精神的には劣っていても海千山千の「代議士」を首長に頂の考えは宣伝で形作られ、まやかしの舞台装置で目を塞がれ ている。こうしてみれば、たまたま人道的な独裁が起こるの やからげす 衆愚政治や独裁政治から、徒党の輩や下司根性から、デモも、よくよく恵まれた場合のことなのである。 クラシーの本義がいかにして守られるか、これは自由の死活 民主主義者も独裁者も、両者ともに民衆に呼びかける。支 問題である。形式的デモクラシーの自殺的傾向を防止する法配しようと志す者は誰でも、この語りかけの形式を選ばざる をえない。世界はこういった時代に入っているのである。犯 廷が必要である。そのつど一時的な多数性の絶対的主権は、 何か不動なものによる制限を必要とする。しかしこのような罪的欺瞞的煽動家も、高潔で自由のために献身的な政治家 も、民衆に呼びかける。誰が成功をかちとるかは、ただその ものも、その機能を果たすものがあくまで人間なのだから、 時々の民衆が判決をくだしうるのであるが、このことは、 結局のところ、民衆から生長してくる人間性と彼らの正しい 民衆が自分自身についても判決をくだすのと同じなのであ 自由意志を拠りどころにすることにはやはり変わりがない。 る。 結局は防止的法廷さえもがどうしても民衆から選ばれねばな らぬであろうし、しかもここでは諸党派は、彼らの単独支配 しかし結局民衆がおのれの運命を決するにしても、民衆が を避けるために除かれることになろう。 正しい決定に達する助けとなるよう、できるだけのことはな いっさいが選挙に懸かっている。デモクラシーや票決されねばならぬ。独裁政治はいろいろな方法を案出し、それ によって民衆の懸念を社会的喧噪のうちで単なる仮象として 制度に対する愚弄とか侮蔑、こういったものが存在すること 票をわれわれは充分承知している。明らかな誤謬や脱線を見はぐらかし、人間に多くの物事を教え込むが ( 彼らのうちで とて、個々の場合の選挙結果やら多数決を、馬鹿らしいといし 道具として使える者を獲得するために ) 、そして判断力を身 切るのは容易である。 これに反してデモクラシーは、選挙による につけさせない。 の 史 これに対する答えとして何よりもまず、民衆を経由する道決定が依然として続く唯一の合法性なのであるから、真の、 以外にいかなる自由の道も存在しない、 という事実が重ねて持続する、本質的な民意をはっきりさせるために、正しい選 指摘さるべきである。自分自身と彼の仲間だけを除外する根挙を促進しようと試みる。 結局このためには、たった一つの手段しかない。すなわ 本的な人間軽視がある限り、独裁政治の道が好ましいとして