る意志が、この発明に余地を与える限り、技術的に実現されのである。 のである。 十九世紀に技術革命が行なわれるまでは、技術も労働も問 労働組織は一つの社会的政治的間題となる。贅沢品の題にされたことはなかった。両者がかくも多面的、根本的に みならず、万人の必需品たる大量の物品の生産が機械によっ論じられたことは、この時代以前には決してなかった。 われわれはまず、労働そのものが何であり、かっては何で て行なわれるとなると、大多数の人間は、この生産過程、す なわち機械による労働様式へと、機構の構成分子として吸収あったかを憶い起こしてみよう。それを基準として初めて、 されるという結果が起こる。ほとんどすべての人間が技術的近代技術的世界における労働の特異性が認識される。 労働過程の構成分子となると、労働組織は人間存在にかかわ 1 労働の定義 る問題となる。人問にとっての究極のものが人間であって技 術ではなく、技術が人間に奉仕すべきであって、人間が技術 労働は三通りに定義される。すなわち に奉仕すべきでないという理由から、近代技術をきっかけと 労働は肉体労働である。 して一つの社会学的ー政治的運動が起こったが、そこでは、 労働は計画的行為である。 労働力としての人間が、技術的経済的目的に手放しに隷属し 労働は動物とは異なる人間の基本的あり方、すなわち自 た初期の状態から、この関係を逆転しようとの努力が熱烈に 己の世界の産出である。 行なわれたのである。 第一に、労働は肉体労働である。それは緊張を要する努 このような要求の意義を理解するためには、労働の本質をカ、例えば筋肉労働であり、その結果は疲労と消耗に至る。 はっきりさせること、しかもまず一般的な意味で、次いで画 この意味では動物も、人間と全く同じように労働する。 期的な技術の登場によって蒙った意味の変化の点で考察する 第二に、労働は計画的行為である。それは意図と目的から 標ことが必要である。 発する行為である。要求を充たす手段の獲得のためには、緊 張が求められる。すでにこのような労働が、人間を動物から 原 労働の本質 区別するものである。すなわち、 史技術によって実現されるものは、、 動物は自己の要求を直接自然を通じて充足する。必要とさ しつでも労働を必要とす る。そしてまた人間が労働する場合、 いつでも彼は技術を用れるものは、自己の欲求に対しすでにできあがったものとし いているのである。技術の種類により労働様式が規定されて存在している。人間は自己の欲求を、ただ意識的計画的な この媒介が労働を通じて行 る。技術の根本的変革は、労働の根本的変革をもひき起こす媒介をへる以外に充足しえない。
からである。 しかしこういったいっさいの論議は、この分が犠牲者であろうとは思わないのである。当時ではほとを ど注意もされず、とりわけ実際には行なわれなかったこと ように語る者にとって有利なのである。彼は協力者であり、 受益者なのである。彼は顔をゆがめて自分の苦悩を示しはすが、後世になって模範として取り上げられ、周囲に熱烈に宜 るが、それは何ら真の苦悩ではなく、身振りにすぎない。彼伝鼓吹される、というような意義の逆転の実例は、広く認め は有罪性を、良心の呵責の軽減として利用しているのであられるものである。 る。 これに該当するよう われわれはもうこれ以上は続けない。 人は恐るべき行為に参加する場合、次ぎのように語る、すな実例は枚挙にいとまがない。伝統的な価値内容の崩壊は、 このような暴露という思惟類型があまねく行きわたっている なわち、生きることはきびしいものである、国家とか信仰と か、きたるべき究極的に自山かっ正義の世界とかの高遠な目事実だけを見ても明らかである。時代は、みずからの行動に 的のためには、きびしさが必要なのである、と。人は危険の関する理論を発明する。しかしこの理論そのものがとりもな ない、楽しみ半分のきびしさの程度で、自分自身に峻厳に振おさす、この理論が相手として戦う害悪を強める手段となる 舞うものであり、かくして彼は、自分が他人に対して要求すのである。 アインファッハハ ) 甲亠レし。 単純性が真なるものの姿である。単純 るきびしさに他意がないと見せかけの証明を与えるのである 化とは、失われた単純性に代わって出現する暴力性である。 が、実際には無条件の自己の生存意志、権力意志はおおうべ 単純性は無限に解釈可能な性質をもち、小さいながら一世界 くもないのである。 一方ではかの恐ろしい物事が行なわれているのに、幸いにをなし、充実され、可動的である。単純化は性質上有限であ 、人間が操り人形のごとく動かされる糸であり、発展可能 も恵まれた状況を与えられていると、自分の虚偽性が意識さ れるものである。ところが人間とは、自分自身はやる気構え性なく、空虚であり、硬直している。 われわれの時代は、もろもろの単純化の行なわれている時 がないもの、自分では経験したり蒙ったりしたくないもの、 っさいを割り切ってしま 自分はそうありたくないものを見たいと思うものである。そ代なのである。さまざまな標語、い こで儀牲者が切望される。彼はすんでのところ自分自身が犠う普遍的理論、組雑な反駁命題、こういったものが成功を博 牲者と一緒にされたかのように、自分の可能性にほとんど感している。単純性が神秘的象徴に結晶化されるに反し、単純 激してしまう。そこで彼は、犠牲者でないということで他人化は似而非科学的絶対性を身の支えとする。 否定からの生。ーーー信仰がもはや生きることの内実の基礎 を攻撃する。彼は、切望されている像に一致すると考えられ る人間の運命に酔ってしまう。しかし彼は決して、当時は自でないならば、そこにはただ、否定のむなしさが残るのみで チオン ジン・フリフイウ
104 なわれる。人間がこういった労働のために材料を自然の中に 分業。どの人もあらゆることをなしえない。特殊な熟練と 見いだすのはたしかであるが、しかし生まのままの材料では いうものが必要とされるのである。ある特殊なことに訓練さ なく、材料が加工されて初めて、それが人間にとって満足すれた者は、訓練されない者よりも、この特殊な財を、よりよ るにふさわしいものとなる。 く、より多く生産できる。更にあらゆる種類の労働への手段 動物的衝動は衰えて、認められなくなる。 労働が道具や材料を持ち合わせている者はいない。 このように社会にお を作り、商品とか製品の形で残るものを生産する。道具は早ける労働は、すみやかに分業をひき起こすが、これは、労働 くも、人間を自然との直接的なつながりから遠ざける。労働 というものが必然的に多種類たらざるをえないからである。 は、対象を作り変えることによって、対象を破壊から守るの 労働の種類に応じて労働階級に区別ができる。それらは、 である。 人間的教養の種類、慣習、意向、体面に応じて、農夫、職 生まれながらの器用さは、労働にとって充分ではない。個人、商人等々に区別される。人間を労働の種類に結びつける 人は、共通の労働規則を習得して、初めて熟練に達する。 過程が起こる。 労働は肉体的であると同時に精神的である。精神労働はい 労働の組織。分業が行なわれるところでは、協調が必要と っそう困難なものである。練習で習得された、ほとんど無意 なる。各種の労働が相互に益し合っている社会の中での共働 識的に行ないうる労働は、はるかに容易である。われわれは者である場合に限り、私の特殊な労働の遂行は意義をもちう 創造的な労働から自動的な労働へ、精神的労働から肉体的労 る。労働は労働組織の中にあってその意義をもつ。 働へと逃げたがる。例えば学者が自分の研究において何らの 労働組織は、一部は市場を通じてひとりで無計画に発展 進歩をなさない日々においても、彼は依然として専門家とし し、一部は労働の配分によって計画的に展開される。社会が ての意見を述べるに事欠かないのである。 全体として、計画によって組織されるか、あるいは自山市場 によって組織されるかの別により、社会の本質的な性格が区 第三に、労働は人間存在の基本的行為である。労働は自然 に存在する世界を人間の世界に変える。これは動物とは徹底別される。 的に異なる点である。人間の環境界全体のその時々の姿は、 分業が行なわれている場合、生産物は直接的な消費財から 共同的労働により、意識的あるいは無意識的に産出された世商品になるのであるから、それらは交換され、市場に出さ 界である。人間の世界、人間がその中に生きている全体的状れ、配分されねばならぬ。この際抽象的な価値の規準が、と この規準がすなわち貨幣である。 態は、共同的労働から生まれる。従って共同的労働は、つねにかくなしではすまない。 に労働の分業と組織を要求する。 貨幣に換算される商品価格は、市場の成り行きにより自由に
これまでの主要な歴史の歩みをふり返ってみよう。ユダヤ 史に与えている。これに比べれば、インドやシナは、そこで もありとあらゆる変動が行なわれたにもかかわらず、統一的の予言者の宗教は、地上のいずこにも行なわれなかったほど の徹底さをもって、魔術とか、物的存在を思わせるような超 な印象を与えるのである。 時折は西洋が深くその基底に沈み、ほとんど消失したかに在からの解放を行なった。これはただ歴史的に限られた短い 思えるほどの時代があ 0 た。紀元七〇〇年頃、他の遊星から時間、少数の人びとに対して行なわれたにすぎないのであ 地球を訪ずれ、地上を旅した者がありとすれば、おそらく彼るが、しかし聖書において後世すべての人に語りかけてお ギリンヤ は当時シナの首都であった長安において、地上の精神生活のり、彼らはそれを聞くことができたのである。 最高の場所を見いだしたであろうし、コンスタンチノープル人は、それ以前の世界のいずこにも達成されたことのなか 0 た、明確な分別、柔軟な精神的態度、徹底的な合理性を生み において、著しい文化の名残りを見いだしたであろう。彼に いロ、しこ 0 キリスト教は、最も外なる超在の内的覚知を実 とってヨーロッパ北部は、ただ野蛮な地域としか見えなかっ このことにはインド人もシナ人も同じく成功して たであろう。一四〇〇年頃、ヨーロツ。 ( 、インド、シナの全現した いるーーが、たたし相違する点は、キリスト教がこの実現 体的な生活水準は、文明的には実に同程度に達していたので ある。しかしついで十五世紀以降行なわれた、ヨーロッパにを、内在の世界から遊離したものとせず、それに固く結びつ よる世界の発見ならびにヨーロツ。 ( 的性格の世界への刻印のけ、かくして、キリスト教的世界形成を課題として、休みな 皹かしい事実は、次ぎの問いを起こさせる。すなわち、このき活動をひき起こしたという事実である。 しかしながら、真に大きな断層が生じたのは、中世末期以 事実が何によって起こったのか ? ヨーロッパをしてこのよ 降であった。かの歩みと、それら歩みの想起こそ、先行条件 うな新しい発展を可能にさせた新しい独特なものは、ヨーロ であったのかもしれない。断層そのものは新しい偉大な謎な いかなる段階をへて、ヨー ッパにおける何であったのか ? ロッパはここまで到達したのか ? この問いが普遍史の根本のである。これは決して見通しのきく直線的な発展なのでは ノミナリスムス 問題となる。何ゆえならば、西洋にとって決定的な意義を有ない。中世末期の唯名論において近代科学の前段階が芽生え た時、間髪を入れず、魔物たちの乱舞も発生したのである。 する破開が行なわれたのであるが、これはまた結果として、 全世界にとっての決定的な破開でもあるからである。われわ人間が科学と技術を獲得し、もろもろの自然力を支配するカ れの今日の状況を決定づけているのは、実にこの破開の結果を身につけ、地上の征服を達成した反面、その後人間の現実 がどれほどの変化を蒙ったかは、以上のまぎれもない業績に であり、しかも破開の最終的な意味づけは、今日のところま 対照して恐るべきものがある。 だ未決のままなのである。
しかし人間存在の未来は、自然生起のようにおのずとは生 人間を信ずる場合に限り、このような現実からなされた心を 打ちひしぐ予断は、絶対的に出口がないわけではないと思わずるものではない。今日瞬間毎に人間が行ない、思惟し、期 れる。 待することが、とりもなおさず、人間の手許にある未来の起 強制収容所の中で見られた立派な個人たちは、ありとあら原となっているのである。唯一のチャンスは、恐るべき事態 なし力にも肉体的に苦しむを自覚することである。救いとなりうるものは、最も清明な ゆる恐るべき苦痛の中にあってよ、、、 このような未来を怖れる意識があって 意識を措いてはない。 哀れな生き物たるをまぬがれえなかったが、しかし魂におい こそ、おそらく恐るべき未来の到来を阻止しうるであろう。 ては何ら影響を受けず、もちろん全然無傷ではないが、人間の 忘却は恐るべきであり、決して許されない。恐るべきことが 魂としてはあくまで傷なわれなかったのである。このような 行なわれたという事実は、それが繰り返されるかもしれぬ、 個人は、人間への古来の信仰を固守する勇気を与えている。 われわれは未来のあらゆる暗い見込みに直面しても、次ぎ蔓延するかもしれぬ、地球を征服するかもしれぬ、との不安 をひき起こす。われわれは、相変わらず不安のままでいなけ の命題をあえて主張する。人間が全く消えてなくなるわけが ない、人間は決して神ではないが、「神の似姿」として創造ればならないが、不安は積極的関心に変えられるのである。 恐るべき事態への不安は、抑圧されて無力の意識となる。 され、神に結ばれている、しかもしばしば忘却され、いつで も認めるわけにはゆかぬが、しかし根底では断ち切れない紐人間は、気がかりなことを隠したがるものである。無関心が 帯で結ばれているからである。人間は、人間たることを決し装われているが、しかしその背後には、人類の行く末に対す る不安がひそんでいる。これを思い出すと、不安は避けられ て廃絶しえない。魂のまどろみ、放心、自己忘却とかはあり そうもない。われわれは、自分自身をも含めて、いっさいが うることである。しかし人間は全体として、歴史の経過中に 沈んでゆくのを見る。人間存在を人間的たらしめ、生を生き 猿や蟻にもなりえぬし、現在でさえ、人間を限界につれ来た るに価するものたらしめているものは、なくなるだろう。事 す恐るべき状態に置かれた時は別として、反射装置になりう るものではない。 この状態の中で個人として生き永らえた者態はまだ、それほどまでにはなっていない。禍いがわが身に は、この限界から自己に立ち帰ったのである。人間が猿や蟻振りかからぬ限り、われわれはそれについて考えようとしな いものである。 や反射装置に化するさまは、恐るべき幻影である。これら幻 無力の意識は歴史の過程を自然過程のように解するかもし 影がわれわれを脅かし、時には夢魔のように重くのしかかる ということ、ここに依然として悪夢を払いのけようとするわれない。われわれは自由人としては消えて無くなりたいと念 じながら、責任を回避している。しかし歴史の過程と精神病 れわれの人間存在の発露が見られるのである。
ばならぬのである。局面が熟すと、権力をすすんで幾度でも 人間としての個人の人格の権利の不可侵性に当然加え譲り渡す人物に対し、感謝と尊敬の念こそあれ、いささかた られるべきものは、社会生活への参加の権利である。従ってりとも人間の神格化ということはないのである。 ⑤集団意志の形成は、相互の話し合いに基づく決定によ 自由な状態は、デモクラシーによってわずか可能であるにす ぎない、すなわち、すべての人が意志形成に可能なる協力をつて行なわれる。 行なうことによって実現される以外にない。・ との人も、政治 従って自由は無制限の公開討論を要求する。討論が、でき るたけ完全な知識冫 こ基づく広い視野において行なわれるため 的自己教育の程度と自己の見解の説得力の程度に応じて、自 には、自由は、知りうる限りのもの、いろいろな情報、もろ 己主張の機会をもっている。 もろの意見の理由とするもの、こういったものの熟知、しか すべての人は、選挙での投票に際して、自己の意見を主張 する同等の権利を享受する。投票の秘密は守られる。民衆のもこれらが全住民に熟知されることを要求する。出版、集 会、言論の自山が重んじられるのは、このためである。説得 いろいろな集団より候補者を立てることは制限されない。 や宣伝にこれ努めるのはさしつかえない、ただし自由な竸争 定間隔で繰り返される選挙を通じ、政府ができ上がる。 従ってデモクラシーにおいては、政府は合法的な方法で暴においてである。制限は、ただ一つ、戦時中には行なわれて しかるべきであるが、しかしこの場合でも、ただ情報の公開 力を用いずに転覆、交替、改造できるし、事実その通り行な つまでも政権の座にと伝達に対してであって、もろもろの意見の伝達に対して行な われている。同一人物が中断なく、い 刑法によって常時行なわれ どまることは、自由なデモクラシーの状態においては不可能われるのではない。そのほかに、」 る制限がある ( 名誉毀損、侮辱等に対する保護 ) 。 である。 おのおのの人は、相互の話し合いに基づいてみずからの決 暴力からの個人の保護と同一趣旨なものとして、すべての かたき 人を一個人の権力から守護するということがある。国家に対定に到達する。政敵は仇ではない。政敵とさえ力を合わせて え する最大の功績であってさえ、一個人の権力の不可侵性を許働く心構えにある限り、自由は維持される。原則的にい 話し合いの限界 犯罪者に対する例外はあるが、 すに至らない。人間はあくまで人間であり、最善の人間であ 協定とか妥協とかの形で、協力が試みら は存在しない、 ってさえいろいろな制限下に置かれなければ、一つの危険な 存在である。だからこそ、恒久的な権力というものに対するれるのである。 政治的自由がデモクラシーであるが、しかし歴史的に 原則的な不信が行きわたっており、最も有力な者でさえ、少 なくとも暫時は、支持が他に移行中は、引っ込んでいなけれ生成した形式により、またその発展段階の点でまちまちであ
、、・、こい。しかしこのような限界現象はわれわれのや、波風なく生活している市民の一見悪げのないあり方にも 的とはし 責任ではないし、精神病が流行する惧れはない。しかしながすでに認められる嫌悪の念を起こさせるものであり、これが ら、強制収容所において実現された人間性喪失の事態は、自今、結果から顧みて、いよいよはっきりとするのである。こ 然のせいではなく、人間自身の手で行なわれたのであり、しの精神状態こそ、それと気づかれぬ間に実現されている無信 仰であり、自覚された虚無主義をへないでの信仰の喪失であ かもこのようなことはあまねく弘められかねないのである。 り、根無し草のような生活、もしくは虚礼的な慣習の糸に結 これは何を意味するであろうか ? ばれている、見かけは危険のない操り人形の生活であるが、 人間はーー恐怖政治状態という条件下では この糸は、強制収容所の中でうまく立ち廻る糸と、わけなく 想もしなかったものに化しうるのである。そこで行なわれた ことは、われわれがその中で命を失ったり、あるいは生き残取り換えうるものなのである。 四六時中圧迫下にある生活ゆえに、なすところなく責めさ った人たちに属しない限りは、もつばら外から眺められてい いなまれているうちに、人間がこの圧迫の反射装置となって るにすぎない。個人にとって何が可能であったか、彼がいカ しまったのであるが、これは、技術的ー操作的処理法の成果 に耐えたか、彼は何を行なったか、彼がどのように死んで行 ったかは、あくまで本人のみが知る秘密なのである。ただ外である。往時も知らなかったほどの拷問の苦痛を強めたとい から見た限り、そこで行なわれたもろもろの現象が与える印う点で、この方法をかくも発展させえたのは、ほかならぬわ 象は、あたかも人間性が失われてしまった観がある。これれわれの時代以外にはなかったのである。 強制収容所のこの現実、苦しめられた者が順繰りに、苦し は、収容所内の積極分子については、ほとんど確信をもって この人 める者の側に廻って両者の間で演じられた競り合い いえるが、ひたすら苦しめられた犠牲者についていうのは問 間性喪失のありさまこそ、未来のもろもろの可能性を告げる 題である。われわれは肉体をさいなむ病気に罹ると、哀れな ものである。しかもそれに先立って、いっさいが消減する惧 標生き物にすぎなくなるものであるが、彼らはどんな病人より れがある。 とも、多く、かっ別様な苦しみを受けたのである。 強制収容所に関する報告をむさぼり読んだ後では、それ以 起 このようなことが行なわれうるということは、積極分子の 史側に ( 彼らの大部分は囚人たち自身から選ばれた ) 、ある精上言葉を続ける勇気がなくなる。危険は原子爆弾より深刻で 神状態があらかじめでき上がっていることを意味する。このある。それが人間の魂を脅かす危険であるからである。完全 な絶望の意識が、われわれを襲うのも無理はない。しかしわ 精神状態とは、早くもこういった実現をみる以前に、例えば つままじ 社会的な爪提き者のあり方にも、同じく、しつかりした役人れわれが人間を信ずるならば、絶望が最後の言葉ではない。
100 の作業との間には、本質的な相違がある。 度文化、特に西洋においては、高度に発展した機械学が、 逸脱。技術の意義が人間生存という目的のための環境形成巨大な重量物の運搬、建築物の構築、道路や船の建設、攻城 の統一にありとすれば、道具や行為の手段性という性格が独用機械や防禦用機械の組み立ての手段となった。 立化される場合、あるいは、究極目的が忘却されて手段その しかしこういった技術のすべては、比較的にいって手頃な ものが目的として絶対化される場合、逸脱は至るところに存大きさの、人間によって全体として眼が通るものという枠内 在する。 に留まった。なされた物事といえば、動物のカ、弾力、火 日常の労働において、技術の動機や見通しを与える全体のカ、風力、水力に補われた人力によって行なわれ、しかもま 意義が見失われると、技術は意義を崩壊して数限りなく多様たこの場合、自然的な人間界の範囲を超えることはなかっ な活動様式に変質し、労働者にとって無意義となり、生命のた。十八世紀末以降、事情は一変した。技術的な発展の過程 略奪となる。 においては、何ら決定的な飛躍は起こらなかったというのは 技術的行為の本質の一部をなす、練習によって修得できる誤りである。ここでは飛躍が行なわれたのである。しかも人 という性格が、熟練の結果きまり仕事となり、それに自己満 間が全体として技術的な生活形式をとるという意味で飛躍が 足してしまうと、技術は生活を豊かにするよりも ( すなわち行なわれたのである。数世紀を通じてすでに手掛かりが求め 自己の生活の基礎を確保したり、社会に奉仕することによっ られ、技術主義的、技術政治的世界観が夢想のうちで構想さ て ) 、むしろ生活の意義を貧しいものにする。意識を高めるれ、それと同時に科学的諸前提が初めのうちは遅々と断片的 のに役立っ不可欠の手段たる精神的努力を伴わぬ労働は、そに作り出された後に、十九世紀において、新たな技術的世界 の代わりとして自己満足に陥る。人間は無自覚、すなわち意 が、あらゆる夢想を凌駕する程度で実現されたのである。わ 識喪失へと沈んでしまう。 れわれはこの新たなものが何であったかを問題とする。この ものは単一の原理に還元できない。 2 技術史上の大きな断層 最もわかり切ったことといえば、消費財を自動的に生産す 人間が存在して以来、技術は道具の使用という意味で存在る機械が発明されたということである。以前には手職人たる している。われわれの史的な回想のおよぶ限り、原始人のあ人間が行なったものを、今や機械が行なったのである。機械 りふれた手近な物理的知識に基づき、手細工や武器の使用に は紡ぎ、織り、切断し、削り、加圧し、型どり、完全な対象 くわ . き おいて、車、鍬、犂、舟の利用において、動物の労力、帆、 を生み出した。一日数千個の壜を製造するのに、百人もの労 火の利用において、技術は当時から存在していた。古代の高働者が骨折って吹かねばならなかったのに、壜製造機械はわ
聞 る。 五〇〇年から一八三〇年に至る世界史のかの一時期は、西洋 において、多数の非凡な人物を輩出し、文学や芸術の不減の ヒューマニズムはスキビオの時代以来教養意識の一形式で 作品、最も深遠な宗教的衝動を生み出し、ついには科学や技 あったが、これはそれ以後いろいろ変遷を蒙りながら、今日 術における発明発見を生み出したことによって、截然と他に に至るまで西洋の歴史を一貫している。 西洋は全体として品化した自己の形態を生み出したが、そ抜きん出ている。われわれはこの時期の創造を無意識に前提 れらを基盤として、連続した教養が生き続けたのである。すとして、われわれ自身の精神生活を営んでいるのである。 なわち、神聖ローマ帝国とカトリック教会である。両者はヨ ーロッパの自意識の基礎となったのであるが、この自意識は 第六章西洋の特異性 不断に崩壊の危険を孕みながらも、外からの脅威に対抗する 大事業において、そのつど新たに、確実とはいえぬまでも、 キリシ 構成されたのである ( 例えば十字軍の時代、モンゴールやト 過去の数世紀におけるヨーロッパの史学的意識は、・ ルコの脅威の時代に見られる通りである ) 。 ャ以前ならびにユダヤ以前のいっさいの民族を、自分とは無 しかも西洋の教養や伝承は、普遍的統一的形式への傾向を縁なものとみなし、単なる歴史の導入部としての価値しか認 多分に示しながらも、シナの儒教において大々的に行なわれめず、そしてまた、自分の精神的世界の外で地上に生き続け たいっさいの民族を、民族学という一つの広汎な領域の中に たように、生きた精神が枯死するに至らなかった。そうはな らず、西洋の教養はたえず新たな精神の破開を続けた。破開入れ、彼らの作品を民族学用博物館に蒐集陳列した。このよ うな盲目的な観念は、修正するのにはなはだ長時間を要した の過程においてヨーロツ。ハの各民族は創造的な時代を交替 が、しかしそこには一抹の真理は含まれているのである。 し、こうしたかずかずの破開に基づいて全ヨーロッパは引き すでに枢軸時代において、大文化圏間に幾多の相違があっ 続き生きてきたのである。 たのであるが、それでもそこには、シナから西洋に至るまで イタリアのルネッサンス以後の時代は古代の更新、ドイツ 宗教改革以後の時代はキリスト教の再建と解されている。両最大の類似性が認められる。類似したものが枢軸時代以後や がてさまざまな方向の発展を行ない、次第に相違は大きくな 者は結局事実上、世界史の軸の最も透徹した再認識となった ったのである。それにしても、西洋の近代世界に照合比較す のである。しかし両者は、事実として、かっすぐれた意味で れば、紀元後一五〇〇年までは、大文化圏の間には類似性が いえるのであるが、かの再認識以前からすでに勢を強めなが 認められるのである。 ら始まっていた新しい西洋の独創的な創作なのであった。一
自分に加えらるべきであるということ、 これはより正確て追求するのを許さず、認識に神よりの使命を見る真剣事と おほしめ にいえば、科学の本来の意義からではなく、人間性と人権のして追求させる。すべては神の思召しにかかっているのであ る。 原則から出てくるのである。 二千年前あるインドの王侯が犯罪者に人体実験を行なっ 世界は神の創造物である。ギリシャ人は宇宙を、完成 た。大略は次ぎのようであった。「なんじらはこの男を生き され整合されたもの、合理的合法則的なもの、恒存するもの たまま桶に入れ、蓋を閉じ、湿った皮を張り、粘土を塗り、 として認識した。それ以外のものはギリシャ人にとっては それから焼釜に入れ、火をつけよ。 その通りに行なわれであり、質料であり、知りえず、また知るに価しない。しか た。その男が死んだとわかった時、桶が引き出され、粘土やし世界が神の創造物であるとすれば、存在するいっさいは神 皮がまくり取られ、蓋がはがされた。そこでわれわれは、もの被造物としてやはり知るに価し、理解され知られる必要が しゃ逃げ去ろうとしている生霊が認められはしないかと注意ないものは何も存在しない。認識とは、、 しってみれば神の思 深く中をのそき込んだ。しかしわれわれは何ら逃げ行く生霊想の追考のようなものである。かくして神は ルタ 1 の一一一口 を認めなかった。」この話は国家社会主義者たちの人体実験によれば 創造主としてしらみのはらわたの中にさえ現前 を思わせるものがある。このような人体実験は近代科学その的に存在しているのである。ギリシャ人は、閉じられた世界 ものとは何ら関係はなく、濫用に属する。濫用は、人間によ像、思惟された宇宙美、思惟された全体の論理的明晰性に耽 り生み出されたすべてについてと同じく、科学についても行溺し切って動かない。ギリシャ人は、、 しっさいを階層とか序 なわれうるのである。 列の図式に分類し、思惟されたものを推論を通じて関連させ 非歴史的な権力意志をもってする説明とは別に、歴史的に うるか、さもなくば、永遠の法則的な過程を理解するかのい はっきりしたいくつかの動機をもってする説明がある。おそずれかなのである。アリストテレスやデモクリトスのみなら ( 6 ) らく近代科学の発生は、聖書宗教に歴史的に根ざしている精ず、 トーマスにせよデカルトにせよ、やはり、科学を骨抜き 神状態と衝動を抜きにしては考えがたい。研究を極限へと押にしてしまうような、閉じられた形態を目ざすギリシャ的衝 動のとりことなっているのである。 し進める三つの動因は、ここから発していると思われる。 聖書宗教のエトスは、何にもまして誠実さを要求す これとは全く異なって、新たな科学的衝動は、被造物のい る。誠実さは聖書宗教によって絶頂に高められたと同時に、 っさいに対しみずからを隔てなく開いて置こうと欲する。認 問題として取り上げられるすべてに向けられた。神から要求識はこういった衝動から発して、まさしく現実的なものを目 される真理の要請は、認識を遊戯とか、高尚な暇つぶしとし がけて突進するのであるが、現実的なものは、従来まで発見