アダム - みる会図書館


検索対象: 世界の大思想33 バルト ローマ書講解
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1. 世界の大思想33 バルト ローマ書講解

リストに対して非歴史的な関係をもつアダムである。従順に 以後にあるように、アダムが世界にもたらした罪は、死以前 おいて死ぬキリストの不可視的義の直視なしでは、 われにあるからである。しかしわれわれは、アダムの死以後とキ われは、不従順において生きるアダムの不可視的な罪の直視 リストの死以前との間に容赦なく包み込まれて、自分を歴史 に、どうして到達したであろうか。神からのーー堕落がなに 的に認識しつつ生きている。アダムがまだ死ぬべきものでな を意味するのかを、われわれはどこから知るだろうか。キリ かったときにあった状態、キリストがもはや死ぬべきもので ストの死から生への高挙が、われわれの眼前に示されていな なくなったときにあった状態、すなわち、生からの死の生成 いならば、われわれは、アダムの生から死への落下を考える と死からの生の生成は、それ自体非歴史的なものである。そ ことすらどうしてできるだろう。生きるのはーー死ぬため、 してさらに、アダムによって罪が世に「はいってきたこと」 とはなにを意味するのかを、われわれはどこから知るだろう もまた、いかなる意味でも歴史的・心理的事件でありえない か。したがって、歴史的・心理的現象の浅薄さにおいて、 ことはいうまでもない。西方教会の原罪論は、。、 ノウロの視点 リーツマン ) とし この一人の人としてのアダムが存在するのではなくて、第一一からいえば、けっして「興味深い仮設」 ( の、来たるべきアダムの模像である第一のアダムとして、第てあらわれたのではなく、かれの意図の多くの歴史的・心理 的偽造の一つとしてあらわれたのであろう。すなわち、キリ 二のアダムの光によって生きる影としてアダムは存在する。 かれが存在するのは、人間とその世界がキリストにおいて勝ストにおいて世界に啓示された義 ( とただ然りにおいて克服 利しつつ、前向きに、堕罪から義へ、死から生へ、古いものされることによってのみ聞きとりうる否として ) と同様に、 から新しいものへと向かって行なう運動と転回と転換の後向アダムにおいて世界に引きいれられた罪もまた、人間の世界 一きの要素としてである。したがってかれが存在するのは、か の、無時間的、先験的性向であり、新しいものに背を向け、 れ自体としてではなく、積極的な第二のものとしてではな古いものに向かって行く面をもった人間の世界の神に対する 、運動における自立的な極としてではなくて、ただ自己の関係である。この世に現われた第一の人間と、その第一の人 明廃棄においてのみ存在する。かれはキリストにおいて否認さ 間が現われたこの世界とともに、この性向は生きて働いてい 夜 れることによって、肯定される。したがってかれが、復活し るものであることが立証された。この性向が、「真理が不敬 章 て神の生命へと定められたキリストとともに、そしてその投虔と不服従によってはばまれること」 ( 一 一八 ) によって、 第 影にすぎないものとして、「歴史的ー人物でないことはいうますべての人間が神との一致から超時間的に堕落したことであ でもないことである。なぜなら、第一の人がどのような事情る。そのことは、光に影がしたがうように、キリストにおけ にあるとしても、まさにキリストが世界にもたらした義が死る人間の永遠の選びにしたがう棄却に、神が人間を予定した

2. 世界の大思想33 バルト ローマ書講解

164 ことによって説明される ( そして説明されない ) 。すなわちわれわれは知っているが、それを見ない。われわれは事実の フォア・ファル その〔堕罪の〕出来事は、アダムの過失という周辺の出来事みを見る。その出現には女性のもっとも深いかかり合いもあ にその最初の結果をもちはするが、それを原因とするもので って、あらわれ、可視的となったアダムの罪、知恵の木に厚 はない。そして、この棄却の予定もまた、「堕罪前予定説」、 かましくも手をのばすことは、その後の全歴史において反復 すなわち「歴史としての」堕罪に先行するものとして理解すされ、変形され、更新されてきた。「義人はいない、一人も べきであるとの古改革派神学の主張は、徹底的に傾聴に価す いない」 ( 三・一〇、二三 ) 。しかしまた、認識されているか るし、さらにうけつがれるべきである。われわれすべてが行 しないかは別にして、「アダムはわれわれのひとりのように なうことを、まずアダムが行なったというかぎりにおいてだ なり、善悪を知るようになった」 ( 創世記三・二一 l) という け、われわれすべての上を覆っている影はアダムの名を負ことの意味が手にとるように明らかになるあの死線が、全歴 い、アダムの名によってあらわされてもよいであろう。アダ史をつらぬいている。 ム、最初の、すなわち、心理的、地上的、歴史的人間が、ま そしていまや、古い世界のあの不可視的な実用性が成立 さに克服されるべきものなのである ( コリント第一書一五・ し、可視的事実にその実例を見出すように、そのように : 四五以下 ) 。 しかしこの類推を進める前に、すでにいわれたことの中から 「また、こうして死が罪を犯したすべての者としての全人類一つの点が強調されなければならない。 にはいり込んできたように 」。われわれは、その古い世 一四節なぜなら、すてに律法以前にも罪は世にあった 界の非歴史的な背景から、その明るい前景へと歩み出るので ヴィア・クル ーツイス からてある。しかし律法がないところては、罪は勘定に入れられ あり、その世界の不可視的な、つまり十字架によって洞察さ ない。それにもかかわらず、アダムからモーセまてのあいだにお れる実用性から必然的に結果せざるをえないものが、可視的 いても、アダムの違反の先例にしたがって罪を犯さなかった者に に確証されるのを見る。すなわち、われわれは、アダムがし も、死はその王権をふるった。しかしこのアダムは、きたるべき 人の型てある。 たことを、すべての人間がなし、そののちに、アダムが苦し んだことを、すべての者が苦しむのを見る。われわれは、す ここでどうしても強調しなければならないのは、罪の概念 べての人間が罪を犯し、そののちにすべての人間が死ぬのを である。この概念は、その不可視的な意味の全体で理解され 見る。われわれは、すべての者が神から神のものを奪い、そなければならない。それはこの概念が、すぎゅく世界の本質 ののちにすべての者が減びるのを見る。「そののちに」とい を解明し、またきたるべき世界の本質をも解明するためであ うかわりに、「そのゆえに」といわなければならないことをる。すでにのべたように、罪は出来事や状態として、あるい

3. 世界の大思想33 バルト ローマ書講解

もまた人間が神の生命から遠ざけられたことを負い目として提の転覆よりほかにない。したがって、罪がアダムによって 負う。そこでは、かれらもまたかくされた形でではあるが、 世界に入りきたったということも、この王権の結果として理 神の怒りの下に立つ。そこでは、かれらの違反が「アダム」解されるべきである。 とイスラエル「の違反の先例」とま、ったく似ていないという「このアダムは、きたるべき人の型である」。すなわち、こ ことも、けっしてかれらに安心やゆるしをあたえない。そこ のような不可視的、非歴史的な一 = ロ葉の完全な意味において罪 では、かれらもまた、歴史的に見ればかれらが教えを受け人としてのアダムがそうである。かれをおおう影はキリスト す、責任がない明白な状態にあるにもかかわらず、選びと棄の光の証拠である。この光がなければ、その影も見えないで 却、義認と断罪の危機に立っている。そこでは、かれらの状あろう。そして、この光がどんな性質や意味をもっているか 態と、律法の下におかれて罪の花盛りに死ななければならな は、この影から推測される。この古い世界の不可視的な実際 い人たちとの区別は、相対的でしかない。「な・せなら、神にお面はーー。フラス・マイナスの符号を逆にすればーー・きたるべ いては人物をかえりみることはないからである。律法から離き世界の実際面である。「アダムの秘義はメシャの秘義であ れて罪をおかした者も、律法から離れて減びるであろう。ま る」 ( ラビ文献 ) 。それは、しがたいほど神から離反しかっ た律法と直面するかたちにおいて罪を犯した者は、律法によ失われがたいほど神に結びついている人間の秘義である。 って裁かれるであろう」 ( 二・ 一一 I)O したがって、 この秘義は、アダムとキリストの二元性の中にかくれて、 アダムを通して世界に「引き入れられた」罪は、アダムや多て、両者の一元性の中に顕示される。両者はともに限界線に 少ともアダムに似た状態にあるその後継者たちが実際に犯しびったりそって立っている。それは、罪と義認、死と生の限 た罪とは離れて、カ、圧倒的な力である。そのことは強調し界線であって、前者は後にむかい、後者は前にむかってい なければならない。可視的な死の王権は、不可視的な罪の王る。両者は、それらの中で対抗し合う対立物の本質的な対照 権を逆にさし示す。たとい罪が個々の可視的な出来事となっ によって、結びつけようもなく引き離されているが、神の選 明ていないときにも、王というものはその臣下たちに選ばれる びの予定や棄却の予定がもっその両対照物の共通の根原によ 夜 ものではない。また臣下たちは、王の臣下になろうかどうか って、切り離しようもなく結びつけられている。つまり、一 章 を個々に決定する可能性をもたない。王は相続者として王位方の罪と死、他方の義と生が、人生と人類の全体をその全次 第 あるいはま元にわたって包括しまた特徴づけているために、その結合は にのぼり、「神の恵みによって」統治する。 しか たその不興によって統治する。全般的、必然的な従属関係を切り離しようもなく、つねに一方の然りが他方の否であり、 変史しうるものは、革命と王家の転覆、すなわち超越的な前一方の否が他方の外りであることによって、それは切り離し

4. 世界の大思想33 バルト ローマ書講解

いて神から転落したのであるが、キリストにおいて神をふた リストにおいて」あるならば、かれは、新しい、和解をう たび見いだすその地点で、二つの道は分れ、また出会う。そ け、救われた被造物である ( コリント第二書五・一七 ) 。一 方は死につつある者であり、他方は生命へと歩み出た者であの地点で、こちらでは ( 可視的な ) 古い世界がはじまり、あ る ( 「リント第一書四・ III)O したが 0 て、ここで「二つちらでは ( 不可視的な ) 新しい世界がはじまる。その二つの の」世界が並列的にあらわれるといったことではない ( それ世界は、こちらでは死を宜告し、あちらでは生を宣告する一 は「古い、人と「新しい」人とが二人の人間でないのと同様つの判決によってあらわされる。そして二つの道は分れるこ とによって、また出会いもする。キリストにおける神の再発 である ) 。というのは、つねに前者の可能性は後者の不可能 見、生命への侵入は、かならず人間がアダムにおいて神から 性であり、前者の不可能性は後者の可能性だからである。 「第一の」世界の視点から見れば、「第二の」世界は第二の世転落して死の判決の下に立っその地点ではじまる。そしてさ 界であることをやめ、「第二の」世界の視点においては、「第らにつづけていうならば、アダムにおける神からの転落、死 一の」世界はもはや第一の世界ではない。そして第二の世界の判決は、かならず、キリストにおいて神と和解した人間に の存在であるものは、第一の世界の非Ⅱ存在であり、それは生命を与えるとの判決が下されるその地点に起原をもつはず まさに、第二の世界がその存在根拠を第一の世界の非。存在である。さらに進んで〈ラクレイトスとともに次のようにい いたい。「死なぬ者がーー死ぬ者であり、死ぬ者がーーー死な においてのみもつのと同様である。「アダムにおいて」が意 味するのは、古いものがかってあり、現在もあり、未来にもぬ者である。たがいに他の死を生き、たがいに他の生を死ん あるであろう、またそれは、かっても、現在も、未来におい でいる」〔勺〕。しかし、われわれがそういえるのは、 ただ条件つきでのみである。というのは、このアダムとキリ ても新しいものではないということであるならば、「キリス ストにおける、堕罪と義における、死と生における人間世界 トにおいて」とは、古いものは過ぎ去った、見よ、新しくな の動的一元性は、二種類の状態の均衡でもなく、まして永遠 った ( コリント第二書五・一七 ) ということである。その二 明元性は、危機的瞬間の光の下においてのみ、つまり人間とその循環でもないからである。そうではなくて、第一のものに 夜 敵対し、第二のものに味方して、第一のものから第二のもの の世界において遂行される、古いものから新しいものへの、 への転回と転向として、第一のものに対する第二のものの勝 5 ここからかしこへの、過ぎ行く世から来たりつつある世への 第 一元性においてあらわれる。したがってその二元利として、この一元性は完遂される。この運動が真の運動で 運動の 性は、その廃棄においてのみ措定され、その措定がまさにそあるかぎり、対立する両者の、見かけの無限の並列性と両極 れの廃棄であるような二元性なのである。人間がアダムにお性は、破砕される。真の運動は、等しいものから、徹底的に

5. 世界の大思想33 バルト ローマ書講解

るあらゆる人間歴史の規定性である。この「堕罪」と同時 であり、また希望しつつであるがゆえに現にかれが希望する に、直接的には「死の判決ーもまた「すべての人たちに」与 ものの先触れ的現前がまんざらまったくないわけではない。 そしてまたしても「裁きーと恵みの授与そのものの間の えられる。すなわち人間の自然性、被造性、無常性、不十分 弁証法的均衡の立場が、われわれは正当にも ( 「なおさら確か さ、患難が、この世の人間のそれとして、人間の罰と人間の にし古い世界の実用性から、新しい世界の、優れた、勝利運命として ( 五・一八 ) 与えられるのである。なぜなら ( 五・・ にみちた、まったく他なる、無限にいっそう重要で強力な実一九 ) 「一人の人間の不従順によって多くの人たちが罪人と 用性を推論したのかどうかに答えを与えるかもしれない。 された」からである。もちろんアダムの行為によって明らか 一九節したがってこのような意味て考えられているこ にされるのはまさしくただたんにアダムという個人の心情で とは、一人の堕罪によってすべての人たちに死の判決が下された はなく、この個人において、またこの個人とともに、個人、 ように、一人において始められた義の宣告によってすべての人た すなわちすべての個人 ( 「多くの人たちしがもたされている ちにとっては生命なる義とされることとなる。なぜなら一人の人 心情である。かれらは見る目に対しては罪人と「され」、そ 間の不従順によって多くの人たちが罪人とされたように、一人の ういう者であると明らかにされ、暴露されている。元来、人 従順によって多くの人たちが義とされる・てあろう。 間として、現にそれである人間として「アダムのうちに」、 われわれは、罪が「古い」世界関連の主要特性として、こ れと対立する義と同様に、根原的・不可視的・客観的性格でないような人間は存在しない。すなわち古い堕罪した主体で あることを明らかにし ( 五・一五 , ーー一七 ) 、しかもさらにあり、それゆえにそのような者として死の判決のもとに、否 このように暴露された世界の葛藤は、堕罪から和解への、と定の観点に、神の怒りのもとに立たされる。これがわれわれ いつもくりかえしてーー・由来した古い世界である。 らわれた状態から救いへの、死から生への運動として再び消の しかしキリストは新しい主体、きたらんとする世界の自我 . 失するためにのみあらわれうるということを確認したが である。この自我は神の「義の宣告」の、神の選びのにない ( 五・一五ーーー一七 ) 、そのあとでわれわれははじめに ( 五・一 手、受け取り手、啓示者である。「これは私の愛する、私の - 一 l) 企てた比較を誤解の危険なしに遂行することができる。 心にかなった子なのだ」。このキリストという人間のこの資 アダムとは古い主体、この世におけるこの人間なる自我の ことである。この自我が堕罪した。それが自分の栄光のうち格づけ、ダビデの家系に生まれたかれを復活の力によって ・三ーーー四 ) 神の子とすることは不可視的、非歴史的、 に生きるために神のものを無理やりに奪いとった。それは個 ( 一 非所与的である。血肉はこのことを明らかにすることはでき 個の歴史的行為ではなく、つねにすでに前提された、不可避 的な、究極的には神の棄却の秘密、神の嫌悪の秘密から生ずない。神の予定の秘密から、この場合もまた認識と認識され

6. 世界の大思想33 バルト ローマ書講解

ても左へ行っても人間に対する神の関係が問題である。一人そのような世界として死の世界、すなわち解決のない究極的 な問いに囲われた世界、脱出口すらもわずかに障壁の中に、 のアダムにおいて、人間は堕罪者として存在し、一人のイエ 認識すらも無知の中に、希望すらも絶望の中に見いだされる ス・キリストにおいては恵みを与えられた者として存在する ということ、そのことは神に、神自身に、神にのみ不可視的にすぎない世界である。これらすべてのことは最後の裁き、 に基礎づけられている。このことが、両者の共通点であり、そ最後の廃棄を期待してのことであるが、しかも期待してのこ とであるかぎり、すでに恐ろしい現在においてそうなのであ のかぎりで堕罪と恵みの授与とのあいだには平衡が成立する る。 これと対応するのはキリストにある人間の神に対す ように見える。しかしまさしくこの共通点において区別もま なぜなら人間の神に対する関係はアダムに る関係である。はたしてわれわれがこの関係を「義」 ( 一 た示される。 ・二一 ) と呼・ほうと、あるいは「従順」 ( 五・一九 ) おいてどのようにあらわれるだろうか。明らかに、これはす一四、三 でに「堕罪」という言葉に示されている。この場合、神は人と呼ぼうと、「恵みの授与」と呼ぼうと、ここでは「神の恵 み」が問題となり、「一人の人間イエス・キリストの受けた 間に棄てられ、苦しみを受け、否定され、奪われた者である。 この場合、神が神のものを奪われ、このような略奪が神にお恵みにある神の賜物ーが問題であり、あの関係の不可視的肯 いて生ずるがゆえに、神とならぶ神のような権力がこの世に 定性が、神の行動、活動、行為が、人間とその世界に対する おいて成立することであるというのが、確かに罪の本質であ神の能動性が問題であるということは明らかである。神は自 る ( 五・一 (I)O 罪とは神における、また神の中での不可視的分のものの奪われることを我慢することができない。神は人 間所有の権利を主張する。人間はたとえ堕罪した場合でも神 に否定的出来事である。それからこれには「一人の堕罪によ って多くの者が死んだ」ということ、すなわち神への関係において減びたのではない。神はあわれみ深く、すばらしい は、アダムの世界においては、人間にとってもまたその否定方である。神は恵みを与える神、与える神である。さらにま 性のまま意識されざるをえないということが対応する。一人たこれに対応するものは、「神の恵みは豊かに多くの人たち にあふれた」こと、すなわち、神に対する関係は、キリスト 明の人間アダムにおいては、神がわれわれに否を語るという不 夜 可視的なことが可視的となる。ざて神は一面においてわれわの世界にある人間にも積極的な関係として意識されるにいた 章 ったことである。そこで神は創造者と救い主、生とあらゆる れを楽園から追放する攻撃者として、すなわち、われわれか 第 よき賜物を与える者としてあらわれる。一人のイエス・キリ ら生命を奪う盗賊としてあらわれる。「人間は罪を犯して、 ストにおいて、神がもちろんわれわれに語るのをやめないと 8 神のものを奪いとるように、同様に神は罰して、人間のもの いう不可視的なことが可視的となる。神が能動的、積極的に 原戎己 ( アンセルムス ) 。堕落した罪の世界は、 を取り去る」〔テ

7. 世界の大思想33 バルト ローマ書講解

162 な罪、すなわち、生命をその特徴とする神と人間との関係をに急角度で突入してこないところはない しかしまたどの 破壊することによってである。それが負い目としては罪であ一点も、まさにその否定性によって「堕落したアダムがい 運命としては死である。人間は、生命そのものに参与せる」 ( ルター ) そのところを指し示さないものはない。どの ずに生きる者であるかぎりは、死ぬべき者としてあらわれ、 ような相対性も、その喪失した・喪失不可能な関係におい 根原的存在から脱落しているかぎりは、存在Ⅱしない者として、その関係が本来生命をえている絶対者を逆に指示しない てあらわれ、粗野なままの関係喪失、絶対性、自立性にある ものはない。どのような死の現象も、そのままで、神の生命 あか かぎりは、相対的な者としてあらわれる。いまや神に対する へのわれわれの参与の証し、罪によって破棄されない神のわ 人間の関係が死によって特徴づけられることは避けえない。 れわれに対する関係の証しとならないものはない。いまや ・タア・ザイン ゾオ・ザイン 人間の存在が分裂し、かれの存在とその在り方の全問題性のうまでもなく、まさに死において ( 死の体験においてでは 露呈へと展開することも、かれの世界が解体して、楽観的、 なく、死そのものにおいて ! ) 、生の問い、すなわち神の問 あるいは悲観的な背景によって、ほとんど、あるいはまった いが提起されることは不可避となる。生のゆえに、われわれ く総合されることのない人間性と時間性と事物性全体の多様 が死ななければならぬと考えることは、まぬかれ難くなる。 さにのみこまれることも、かれがどのような態度をとるにし罪の世界が狼狽におちいらされているまさにその場所におい ても、不可視性の世界が、かれの直視に対しては、第二の てのみ、ふみ越えられうることを、キリストの十字架におい 世界として対立することも避けえない。「生」がいまや、疑てわれわれに想起させる、高く上げられた指を見のがすこと わしさと制限と苦悩と最後には死とのあの線において、遮はできなくなる。したがって罪によって死は、危機として 断され、阻止され、ついには否定されることは避けえない。 の、われわれの生の破壊としての死となり、認識原理として 罪が生きるならば、罪において死が生きるのであり、われわの死となり、われわれの危急と希望としての死となる。すな れは生きていない ( 七・一〇 ) 。罪が支配するならば、罪はわち、不可視的な罪の裏面、そしてーー・不可視的な義の裏面 死において支配するのであって ( 五・二一 ) 、われわれもま となる。 た死に所属する。罪が命令しうるならば、また報酬を支払う「一人の人によって」、これらすべてのことが起こった。こ こともでき、罪は死という報酬を支払うのである ( 六・二 の一人の人とはたれであるか。アダムだろうか。そうだ、神 三 ) 。罪によって生命を失い、硬直化し、関係喪失におちい からの離反という不可視的な罪の実行者として、死をこの世 った存在の直線上のどの一点においても、裁きと人間の有限 に入れた一人の人としてのアダムである。しかしーー・この一 性とあらゆる事物の終極が、可視的な形で、われわれの「生」人の人は、歴史的関係喪失の状態にあるアダムではなく、キ

8. 世界の大思想33 バルト ローマ書講解

「エ・ハの創造」で、エ・ハが感覚的な魅力にあふれて舞台に登を神から引き離すものを見ると同時に、自分自身が 場するときの、あの宿命的な礼拝の身ぶりを見よ。警告する かであること、すなわち、衝動的、欲望的、情欲的であっ ように挙げられた神の手と、この身ぶりにこたえる、非常に て、もつばら亡びゆくものに心をむけ、それゆえに自分自身 憂わしげな表情に注意せよ。これは明らかに、あるべからざ が亡びてゆくものであることを、見ざるをえない。人間はこ ることが起こる準備である。エ・ ( ( 彼女にとってまことに光の運命の線にふれるであろうか。それとも、ふれずにすませ 栄なことだが、最初の宗教的人格 ) がはじめて神と対立する。 うるであろうか。創造者としての神と被造物としての人間と 神を礼拝しつつーー・・・しかし神を礼拝することによって、彼女の対立しつつ共にあることの意味する問題が、このように急 はかって例のない大胆な仕方で自分と神とを区別しつつ対立迫した、命令的な、明白な力をもつので、われわれから見れ するのである。すると、ただちに「有名な蛇が舞台にあらわば、この問題はふれざるをえず、爆発せざるをえないのはな れる。すなわち、神に関する最初の会話 ( それがあらゆる説ぜか。われわれは、アダムのしたことをせずにおれる人間を 教の原型である ! ) がなされ、神の命令が人間の助言牧 ( 会 ) 一人も知らない。アダムがしてはいけないことをしたのを、 の対象となり、賢くなるというアダムの巨人的な可能性が不思議がることはできない。すなわち、あの木とあの問題に ( エ・ハの前に ) あらわれ、それが悲劇的な現実にかわる。悲ふれ、この問題の中にふくまれた対立は ( 神はわれわれを救 劇的な現実というのは、もし人間が「神のようになり」、善うために、それを知り、これに耐える力を自己のみにとどめ 悪を知るなら、したがって、もし神に対する人間の直接性が たその対立は ) 人間の生の内容となり、善悪を知ると同時に 人間自身の生の内容となって、他の内容と同列にならぶもの人間に向けられた要求は今や効力をあらわし、それと同時に となるなら、それは真の直接性の破壊であるからである。「園楽園がーーー失楽園となった。なぜなら、善を在るべきものと の中央の」木にふれるならば、それは人間を神に結びつけるして人間に提示する要求のために、現に在るものは信頼を失 ものであるが、人間がそれにふれるならば、ふれるや否やま いーー少なくとも疑惑をもたれ、悪ーーとしておそらくすで た人間を神から引き離す ( まさにそれゆえにこそ、それは人に告発され、断罪されているのである。人間があの木の実を 間の触れてはならないものである ! ) 。その場合には、死線求めるこの欲望のために、すべての木の実を求める欲求も多 という帯電鉄条網にふれたことになる。すなわちその場合に かれ少なかれ禁止されたものとなった。なぜなら、この欲望 は、人間はかれが現にないところの者を追い求めながら、自 は、その要求を、人間が人間として考え、意志し、行なう一 分自身の障壁に突きあたって、かれが現にあるところの者で切のことと対立する、神の聖なる厳格な永遠の要求として明 あるよりほかない。その場合には、人間は目を開いて、自分らかにする。なにが起こったのか。罪が勝利した。罪はその

9. 世界の大思想33 バルト ローマ書講解

くて教会が、無神論の医者がでなくて神学部が、資本主義者を弁護することも、それを責めることもできない。「勘定に や軍国主義者がでなくて宗教社会主義者や活動家が、世俗的入れられる」罪、あらわれ出た罪、意識的無意識的に個人の 人間の娯楽文学がでなくて本書のような書物が、ヨセフの災ものとなった罪に対しては、究極前の事柄に注意しなければ 難にあう。したがって、イスラエルの民はその律法とその特ならないが、この場合にはそれについてはなに一ついうべき 別の選びと召しとのゆえに挫折する。この違反や受難は、明ではない。「律法を無視すれば罪は死んでいる」 ( 七・八 ) 。 らかにモア・フ人やペリシテ人には起こらなかったものであこの眠っている罪人たちにふさわしい言葉は究極の言葉 る。したがって、アダムの生涯の中で罪が世界に入りこんだ秘しよりほかにはない。しかしこの眠っている罪人たちもま あの出来事が起こりえたのも、ただかれもまた律法をもってさにこの言葉を待ち望んでいる。なぜなら、この眠っている いて、知恵の木にふれるなとの警告をうけていたためであカナダ人たちも ルソー的な敏感さがどんなにうぬ・ほれて る。かれはその特別な神との関係の犠牲として罪人となる。 もーー罪がこの世に存在するという法則を破るものではな 歴史においても個人の生涯においても、律法がまったくない 。証明ーーー「それにもかかわらず、アダムからモーセまで ような時代や場所があるであろうか。図式的に考えれば、その間においても、死はその王権をふるった」。死というこの のような無律法的状態を歴史上に、あるいは個人の生涯中に世の律法がこれらの律法なき人たちーー・そのような人たちが 設定することもできよう。また同様図式的に考えれば、「アあったとすればーー・・・に対して無力であったということはなか ダムからモーセにいたる」期間、すなわちアダムが自分のた った。われわれ目覚めている者は、自然性と被造性、あるい めにうけた律法と、モーセがイスラエルに渡すためにうけた は拘東と苦難、生死の謎をわれわれの罪より大きい罪の罰で 律法とのあいだの期間は、そのような無律法的状態であったあると感じるのであるが、かれらもまた明らかにそれらのも と推定されてよいであろう。そうだとすれば、「律法がない のによって取り囲まれている。死の支配がこのようにかれら ところでは、罪は勘定に入れられないのである」といってもを包括する全般的なものであることは、明らかにーー不可視 よいであろう。その場合には視力を失った目があるだけで、 的な罪の存在を明示している。すなわち、罪として責められ したがって闇もない。湿った木材があるだけで、したがってるべき歴史的な生の出来事とは同じでない堕罪がすでに起こ 火事もない。梃子がなく、資本がなく、したがって活動もな ったということを、明示する。明らかにかれらの夢にも究極 。その場合、人間の存在は、子供部屋の騒ぎと同様、神の の彼岸的な根原が存在する、 ーー・・あの眠っている人たちの顔 沈黙の厳しさとユーモアの下に展開される。それは、そのま にもあらわれている死相が、それを証明する。そこでは、か ったくの不可能性の中で、そのままで存在を許される。それれらもまた神に厳しくとりあっかわれる。そこでは、かれら

10. 世界の大思想33 バルト ローマ書講解

178 「ヤリストがアテナイに生まれたとしたら、恵みのあれほど 絶対的な支配の保証はどこにも与えられないであろう」 ( ッ アーン ) などということはしないだろう。 なぜなら、「罪が死によって君臨したように、恵みもまた 義によって王権をふるい、永遠の生命を得させるためには」、 罪が「あふれ流れ」、恵みも「満ちあふれ」なければならな 。われわれが新しい人としてその戸口に立っている新しい 世界は、神の国、神の支配領域、神の勢力範囲である。ここ 復活のカ ( 六 において意志して選び、創造して救うのは、神自身であり、 神のみである。もしわれわれが同じものを同じものに立て、 一節てはわれわれはさらになんといおうか。「恵みがいっそう 大きくなるように、われわれは罪のなかにとどまろう」といおう 究極の、最高の可能性としての宗教的可能性をも「死による か。そんなことはありえない。 罪の君臨」という公分母で通分し、その結果「義によって王 権をふるい、われわれの主イエス・キリストによって永遠の 「ではわれわれはさらになんといおうか」。われわれは緊密 生命を得させる」恵みというまったく同じでないものを、すな弁証法的相互関係のうちでアダムとキリスト、古い世界と べての同じものに対比させるならば、アダムからキリストへ新しい世界、罪の王権と恵みの王権とが一見相互に入り混っ の運動の真正さが問題となる。恵みをうけた者が、裁きをう て制約され、おたがいに依存しあい、相互に保証しあい、正当 けた者でないならば、恵みは恵みではない。義が罪人にとっ 化しあっているように見えるのを認める。ありとあらゆるカ て義として勘定されないならば、義は義ではない。生命が死をこめてわれわれは ( 特に五・一五ーー一七 ) こう主張した。 からの生命でないならば、生命は生命ではない。神の初めが この関係は真に弁証法的である、すなわちこの関係は第一項 人間の終わりでないならば、神は神ではない。古い世界が、 が第二項によって廃棄されるとき成立する、したがってその まったく完全に、まったくすきまもなく自己閉鎖的な円であ順序は逆にできないと。しかしあるいはわれわれはこのこと り、そこからの脱出は不可能であることにおいて、われわれをまず主張しただろうか。一切は、われわれがこの勝利、逆 はーーーイエスの死人からの復活の光によってーー近づきつつ転しえない転回、この端的な必然性としての方向転換を証明 ある日、すなわち、新しい人と新しい世界の日の意義と力をしうるということにかかる。われわれは神の不可視的な意志 認めるのである。 において鍵がまわされ扉が開かれ入口を越えてゆく歩みがな 第六章恵み