コリント - みる会図書館


検索対象: 世界の大思想33 バルト ローマ書講解
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1. 世界の大思想33 バルト ローマ書講解

って、決して時間の中での人間の認識と一つとなってではな民となるべき資格もまた保証されており、神が罪人なる人間 を自分のものと考慮するという事実も保証されている。なぜ く、むしろ、あらゆる人間の認識に対しては、危機であり、 前 = 提であり、廃棄である。「だれかがなにかを知ったとおなら、神によって召命され、規定され、認められた人間にお ・一六 ) の隠れたと いて、その人間の存在、所有、行為 ( 二 もうなら、その人はまだ正しく知ったのではない」 ( コリン ころにおいて、神は自分の喜ぶものを見いだすからであり、 ト第一書八・一一 l) 。なぜなら、だれかが認めたもの、したが って「見えるものは時間的であるが、見えないものは永遠でそれというのも、それは神みずからが人間の救いのためにつ くりだした新しさだからである。神への愛へと召命された者 ある」 ( コリント第二書四・一八 ) から。これが霊であり、 これが真理である。そしてそれゆえそれが、決断が自分の使は、神に対して正しい、不可視的に新しい人である。神がこ の人間のために、「万事がともに働いて益となるようにする」 命と召命とをこえて、永遠性のうちに、霊のうちに、真理の うちにあるという、神を愛する者の安心であり、確かさであのはなぜであるか、唯一の真理が永遠の希望として、しか る。神に対する不安がかれらの安心であり、神に対する不確し、実存的に人間の希望として人間と出会うことができるの - はなぜであるかに、十分な根拠が与えられる。永遠の未来は 実さが、かれらの確かさであり、神に対するおそれとおのの 永遠の未来として確かにまた人間の過去、現在、未来ともな きが、かれら自身の存在、所有、行為の動力である。かれら アガべー る。愛は「すべてのことを忍び、すべてのことを信じ、すべ は裁かれていてしかも正しく、盲目でありながら見ており、 アガべー 殺されていながら生きている。それゆえ、決して原因と結果てのことに耐える」 ( コリント第一書一三・七 ) 。愛は神に対・ アガべー つも、くりかえしする実存的な感覚である。実存的であるのは、愛が神自身の という直接的な関係においてではなく、い アガべー くりかえし神を頼みとして、かれらは、時間の各瞬間に、現感覚だからであり、愛が、神の深みをも究める ( コリント第 一にあるそのままのものである。 一書二・一〇 ) 霊だからである。しかし、愛はあくまでも さて、われわれが「かれはその召した者たちをも義と宣し「不可解な道ーであり、ただ神によって、すなわち、体験に . よってではなく、論証によってではなく、神を力強く主張す た。しかし神が義と宣した者たちをも栄光にあすからせた」 ることによってではなく、神によって理解しうるようになる というとき、われわれは、そのいわれた内容を知っているつ 8 もりでいる。人間を神への愛に呼び出すその召命が保証され道である。 第 ているなら、しかも、霊において、真理において、神自身に 三ニ節さて、これに対して、われわれはなにをいラ おいて保証されているなら、人間の不可視的な、純粋な、神 べきてあろうか。神がもしわれわれの味方てあるなら、だれがわ れわれにさからうだろうか。自分の子を惜しまない・てわれわれす によって人間にあわれみによって与えられた義と、天国の市 アガべー

2. 世界の大思想33 バルト ローマ書講解

仰なのである。したがって、患難における、患難に陥ってい Ⅲ題とはなりえない。それはちょうど、神の怒りと裁きの認 る状態における信仰であって、患難とならぶものでもなく、 識が、悲観主義や世界否定や世界逃避と、もともとなんのか かわりももたないのと同じである。信仰の然りが、偶然的生患難が外面的、内面的に幸運にも克服され、防ぎ止められ、 の内容の葎の中においても、みずからを然りとして、実証あるいは耐えぬかれたのちにはじめてあらわれるものでもな 。神の平和の中には、うめきと、つぶやきと、弱さがあ し、保証するのは、それが神によって基礎づけられ、神の中 にその内容をもっからである。それはちょうど、信仰の否る。「このテキストは、強くそれに反対して、キリスト者が も、生が偶然的に然りを語るときにも、否であり、またあり完全に強くあることを求め、弱い者に我慢できないおしゃべ りな人たちに、注意を向けるなと結論する。むしろキリスト つづけるのと同じである。というのは、その否もまた神から 出て、神をめざすからである。したがって、「患難」、すなわ者の中には永遠の渇望があり、危難のときには、〈ア・ ( 父 ち、この世における人間の困苦、人間のもっとも内的な本質よ ! 〉と叫ぶのである。それは、理性の立場から見れば、と るにたらぬ、役にも立たぬ、愚かな言葉である。しかしパウ と存在にまでおよぶ「外なる人の減び」 ( コリント第一一書四・ ロはいう。この叫びがあげられるところには、神の子たちが 一六 ) 、使徒がみすから体験した「死の働き」 ( コリント第一一 いると。そして、いつもかわらず強いという必要はない。神 書四・一一 D 、かれが陥っていた「外には戦い、内には恐れ」 はイエスを十字架のあらゆる危難に沈めたのであるから、か の状態 ( コリント第一一書七・五 ) 、すべてのものに苦しめら れ、動揺させられている状態、これらのものは、信仰によるれは、イエスのからだ〔である教会〕を、それと違った仕方 ではとりあっかわないであろう」 ( ルター ) 。神の平和の中に 義人が立っている神との平和、または、かれらの心にそそが これらのものは、信は、苦難と転落と堕落、すなわち破減がある。「アブラ ( ム れた神への愛 ( 五・五 ) と矛盾しない。 仰にふたたび息吹きを与えるために、神義論またはそれの直は天地のあいだをたたよい、神と戦い、その心を二つに裂い ・フデンドウム た。イサクは一方では、その子孫であるともいわれるが、ま 接的な除去を必要とする信仰の恥ではない。神が自分自 たかれは死ぬともいわれる。そこには、根本的には希望があ 身を義とし、信仰者を義なりと宣言し、かれの国の相続者に る。この希望はだれをも恥にいたらせることなく、打撃にも 定める言葉によって、すでに災禍に関する神義論が成立し、 また災禍も除去される。ここにおいてもまた、信仰によって耐える , ( ルター ) 。神の平和の中には、宗教的世界が不信仰 と名付けるもの、「わが神、わが神、どうして私をお見捨て のみということが妥当する。その信仰とは、確かに見ること へと肉薄し、またそこに達するのであるが、見ることに期待になったのですか」との叫び声、すなわち、死と地獄の試錬 をかけるのではなく、見ることなしにも信仰であるような信のしめる場所もある。「ここで、だれもとり違えてならない

3. 世界の大思想33 バルト ローマ書講解

、義を身につけた主体は、したがってそのような主体とし たものとが生じ、それは新しい、勝ちほこる優れたすべての ては無罪の宣告と神の肯定とのもとに置かれる。もちろん 人間歴史の決定的状態に変わる。しかしキリストにあるこの 「かれらは義人とせられるであろう」 ( 二・ 義の宣告とともに、すぐに「すべての人たちにとって」立て られるのは、「生命なる義とされること」である。これはあ五・一七 ) ーーそれはわれわれが、あなたも私も現にわれわ らゆる否定の根本的否定、死の死、あらゆる制限の粉砕、あれがそれであるところの者としてはつねにただ希望というか らゆる拘東の破棄、人間が「天からの住まい」 ( 「リント第たちで、神に対するわれわれの積極的なこの関係を考えるこ とができるということを忘れえないためである。われわれは 一一書五・ (l) を着せられることである。この義の宣告ととも に直接、すべての人たちにとって死は勝利にのまれてしまっ入口のところに立っている。しかも入口のところに立ってい いつもくりかえして出会う新しい る。これがわれわれが た ( コリント第一書一五・五五 ) 、死ぬべきものが生命にの まれてしまった ( コリント第一一書五・四 ) 。「キリストは死人世界である。 の中からよみがえって、もはや死なない、死はもはやかれを ニ〇ーーーニ一節しかし律法が入リ込んてきたが、それは堕罪が あふれ流れるにいたるため・てある。しかし罪があふれ流れたとこ 支配しない ( 六・九 ) 。このような義の宣告とともにすぐ ろ、恵みが満ちあふれた。それは罪が死によって君臨したよう に、あらゆる人間の新しい、永遠の主体が創造される ( 五・ に、恵みもまた義によって王権をふるい、われわれの主なるイエ 一八 ) 。なぜなら ( 五・一九 ) 「一人の従順によって多くの人 ス・キリストにより永遠の生命を得させるためてある。 たちが義とされるであろうーから。またしても一人のイエス 「律法が入り込んできたが、それは堕罪があふれ流れるにい の生死において従順という行為とみなされ、評価されそうな 八 , ーー一九をかえりみて、ここで たるためである」。五・一 ことによってたんに一個人、一人格、一個別者が明らかにさ 一四を強調したよう も ( 五・一二をかえりみて五・一三 れるのではなくなしろ、ここで暴露されるのは個人そのも この強調はもう一度、すで に ) 強調されなければならない。 の、人格そのもの、個別者そのものである。すなわちここで 明は見る目に対しては、一人において、「多くの」個人が、あに「堕罪、と「不従順」として深化され、明らかにされた罪 夜 なたも私も、神の前に義なる者と、神によって見られ、認めという概念にあてはまる、そしてそれはこれと対立する「義 章 られた者と、神に基礎づけられた者と、神によって自分のもの宣告」と「従順」という概念のとびぬけた重要さを究極的 第 に指示するという利害のうちで生ずる。そしてまたしても のと考えられた者と「され」、そのような者として明らかに このように強調するのに役立つにちがいないのは律法という され、暴露される。この従順という行為の光に照らされて、 「キリストの内」にないような人間はいない。すなわち新し概念である。まえのところでは、われわれは不可視的な罪

4. 世界の大思想33 バルト ローマ書講解

ことを欲するということである。このような方向をとること 「たえず祈りなさい」。これはエ ートスとしての祈りのこと として、祈りは、われわれの霊ならざる霊そのものが、われ か。確かにそうである。祈ることもまた確かに一つの行為で ・二七 ) 。 ある。 ( ここで明らかに問題となるのは第一一義的行為、範例われの中で嘆くことを意味する ( 八 となっている祈りのことであって、第一義的な、一切の行為「聖徒たちのためになされることに参加しなさい。旅人をも を顕示する行動として知られる礼拝のことではない ) 。現状てなしなさい」。これまで述べた一切の可能性がどんなに直 に途方もなく圧迫されて、神に対する人間として、神を呼び接に、具体的に考えられるかということが、まさしくこの二 求め、叫び求めること以外にわれわれになにが残るだろうつの要求の歴史的一回性から明らかである。前者の場合には か、それは詩篇の記者や、これらのことをそのあるがままに見コリント第一一書八章ーー九章で不可解なほど強調して論じら ぎえん たすべての人たちが神に叫びかけたのと同様である。すなわれているエルサレム教会のための義捐金募集への参加が問題 となっているのであり、後者の場合には、旅してローマにき ち神が神であるがゆえに神に屈服し、神が神であるがゆえに て、ローマを通過する信仰の仲間を接待することが間題とな 神に感謝し ( だが恐れがないわけでもないのだ ) 、神が神、 すなわちわれわれの神でありまたありつづけるよう神に切願っている。この二つの要求に共通のことは、キリストにある せざるをえないのである。かってなく異質的なかたちでこの教会の一致という点からはっきりしてはいるが、人間的に見 行為は人間世界に入り込んでくる。比喩から絶対的行為へのれば、おもいもよらぬ、異質的な、自明であるとはいえない 発現にそれはかってなく近づく。しかしいかなる人間の行為行為、つまりそのものとして理解されなければならない機会 のことである。近代のあらゆる愛の行為において唯一一切の 害が、このような行為よりもいっそう深く一切の人間の行為の ド問題性の中に同時に立っているというのだろうか。いうまて ものである要求された行動の実質的目的と内容という点で、 パウロはここでもコリント第二書の場合と同様、なんらの関 大もないことだが、ハイラーの本によって、まさしく「祈りの 章世界」が世俗的であり、他ならぬここにおいてこそ、われわ心もはらっていないように見える。その行動の形式、あの緊 れは不条理のすぐ近くにいるということが、驚くほどはっき張克服としての実証的性格、他者のうちに一者を認識するこ と ( ここでは厳密な意味では異質の者のことだ ) これらのこ りとなった。「われわれはなにを祈ったらよいのか、知らな 章 とのうちにこの行動の意味があり、またその意味のうちにそ い」 ( 八・二六 ) 。祈りはつづけることによって倫理的行為と 第 のエ ートスが存在する。 なる。つづけるとは祈りの量をふやしたり、質を洗練するこ 「迫害する者を祝福しなさい。祝福して、のろってはいけな とではなくて、方向をもちつづけ、祈りの中で祈りを継続す 」。神による阻害は、それが他者をも阻害させるがゆえに、 ること、すなわち、神が目ざされ、求められ、神は祈られん

5. 世界の大思想33 バルト ローマ書講解

186 のものとなすという不可能なことが可能となるなら、そのか たる ( 五・三、四 ) この入口として、われわれ自身を神にお ぎりで、私は実際「罪に死んだー ( ~ ハ・一 D のである。なぜ いて認めるこの機会として ( しかしそれは起こりうるいかな なら、新しい人が神の栄光のために歩む不可視的生の新しさ る「体験」とも同一ではないのだ ) 、キリストの死はわれわ の中で、罪は、イエスの死人からのよみがえりのうちにあられにとって重要である。まさにそれゆえにこそ、バ。フテスマ われる父の不可視的な栄光のなかの死と同様、ほとんど空のしるしはわれわれには神との不可視的交わり ( 六・三 ) の記 、光、空気をもたない。われわれは、新しい人のこの不可念である。キリスト者のキリストとの、それと違った類似 能な可能性をあえて考慮に入れてもよいのか、また実際に考性、すなわち、キリストの十字架を負うことにおいて成立す 慮に入れるのかどうか ( 五・一 ・一一 ) というこの間し るもの以外のキリストのあとに従うこと、なんらかの意味で はいつもくりかえしてわれわれを火のように刺激するであろ積極的な、人間によって、はじめて獲得さるべき、あるいは う。この不可能な可能性が罪の可能な可能性を排除するこ体験さるべきイエス的内容 ( たとえば神信頼、兄弟愛、自 . と、そのことよ 。いかなる問いでもありえない。 由、幼な子性、人間性にあるそれ ) は精神的・歴史的現実の 「な。せならわれわれがかれの死の比喩のかたちでかれと似る領域には存在しない。われわれのキリストとの可視的類似性 なら、われわれは復活においてもまた同様似るであろう」。 ( それはかれの十字架の死そのものという鏡にてらしてわれ われわれの存在は患難の中の存在として明らかにわれわれわれに認識される ) はそれ自身、この世の人間の態度と状況 がなんらかかわることがなくても比喩であり、かれの死の類と結び合わされており、人間存在一般の癒しがたい間題性の 比である ( 八 ・一七、ガラテャ書六・一七、コリント第一一書事実と同一である。われわれは、われわれを裁く者は恵み深 四・一〇、。ヒリピ書三・一〇、コロサイ書一・二四 ) とする 、聖なる者はあわれみ深いということを洞察する狭き門の なら、そのかぎりにおいて、可視的に、時間的に解すれば、 入口に立っている ( しかしだれがわれわれとともに立たな、 われわれはキリストと「似て」いる。しかしかれの死は、人というのか ) 。われわれは無常さ、不名誉、弱さにおいて 間にとって神において自分自身を理解しようとするきっかけわれわれがキリストと類似しているということから、不減 である。すなわち自己の衰退のうちに自己の成長を、自己の性、栄光、カにおいてわれわれが不可視的にキリストと類似 弱さのうちに自己の力を、自己の死のうちに自己の生を理解していることに目を向ける ( しかしだれがわれわれとともに しようとするきっかけである ( コリント第一一書四・一六、 一目を向けないというのか ) 。われわれがこの点から洞察する フートウルム・アエテルヌ人 七 ) 。まさしくこのような裁きから裁く者へいたる、患難か もの ( またしても永遠の未来として ) 、それが時間の中に . ら自由であって、自由にする者へいたる、危急から希望へい 生きる人間の積極的なイエスにふさわしい内容であり、こっ

6. 世界の大思想33 バルト ローマ書講解

いて神から転落したのであるが、キリストにおいて神をふた リストにおいて」あるならば、かれは、新しい、和解をう たび見いだすその地点で、二つの道は分れ、また出会う。そ け、救われた被造物である ( コリント第二書五・一七 ) 。一 方は死につつある者であり、他方は生命へと歩み出た者であの地点で、こちらでは ( 可視的な ) 古い世界がはじまり、あ る ( 「リント第一書四・ III)O したが 0 て、ここで「二つちらでは ( 不可視的な ) 新しい世界がはじまる。その二つの の」世界が並列的にあらわれるといったことではない ( それ世界は、こちらでは死を宜告し、あちらでは生を宣告する一 は「古い、人と「新しい」人とが二人の人間でないのと同様つの判決によってあらわされる。そして二つの道は分れるこ とによって、また出会いもする。キリストにおける神の再発 である ) 。というのは、つねに前者の可能性は後者の不可能 見、生命への侵入は、かならず人間がアダムにおいて神から 性であり、前者の不可能性は後者の可能性だからである。 「第一の」世界の視点から見れば、「第二の」世界は第二の世転落して死の判決の下に立っその地点ではじまる。そしてさ 界であることをやめ、「第二の」世界の視点においては、「第らにつづけていうならば、アダムにおける神からの転落、死 一の」世界はもはや第一の世界ではない。そして第二の世界の判決は、かならず、キリストにおいて神と和解した人間に の存在であるものは、第一の世界の非Ⅱ存在であり、それは生命を与えるとの判決が下されるその地点に起原をもつはず まさに、第二の世界がその存在根拠を第一の世界の非。存在である。さらに進んで〈ラクレイトスとともに次のようにい いたい。「死なぬ者がーー死ぬ者であり、死ぬ者がーーー死な においてのみもつのと同様である。「アダムにおいて」が意 味するのは、古いものがかってあり、現在もあり、未来にもぬ者である。たがいに他の死を生き、たがいに他の生を死ん あるであろう、またそれは、かっても、現在も、未来におい でいる」〔勺〕。しかし、われわれがそういえるのは、 ただ条件つきでのみである。というのは、このアダムとキリ ても新しいものではないということであるならば、「キリス ストにおける、堕罪と義における、死と生における人間世界 トにおいて」とは、古いものは過ぎ去った、見よ、新しくな の動的一元性は、二種類の状態の均衡でもなく、まして永遠 った ( コリント第二書五・一七 ) ということである。その二 明元性は、危機的瞬間の光の下においてのみ、つまり人間とその循環でもないからである。そうではなくて、第一のものに 夜 敵対し、第二のものに味方して、第一のものから第二のもの の世界において遂行される、古いものから新しいものへの、 への転回と転向として、第一のものに対する第二のものの勝 5 ここからかしこへの、過ぎ行く世から来たりつつある世への 第 一元性においてあらわれる。したがってその二元利として、この一元性は完遂される。この運動が真の運動で 運動の 性は、その廃棄においてのみ措定され、その措定がまさにそあるかぎり、対立する両者の、見かけの無限の並列性と両極 れの廃棄であるような二元性なのである。人間がアダムにお性は、破砕される。真の運動は、等しいものから、徹底的に

7. 世界の大思想33 バルト ローマ書講解

470 われわれの非存在を阻害させつつ想起させる「いま」とのあに「最後の」時の人間、すなわちイエス・キリストの再臨を いだにこの緊張がつねに成立する。すなわち「すでに」生じ待つ人間が直面する。かれはだれも知らないその日、その時 に直面する、天にいる御使たちも、また子も知らない、ただ た啓示の時間と、「すでに」認識された神の「すでに」なさ れた行為の時間と、「すでに」存在していると考えられる現父だけが知るその日、その時に直面する ( マルコ伝一三・三 いったいだれの耳にもがんがん響かないのだろうか。 状が実存的に出来事となるということを、またイエス・キリ いったい「やってこない」再臨についての無益なお喋りはま ストの出現、再臨、現臨という永遠の瞬間をおもい、期待し、 ったく止まろうとしないのだろうか。その概念からいってと 顧慮する時間とのあいだにはつねにこの緊張が成立する。し かし、周知のように再臨を「まだ」もたらさなかった、有名にかく「あらわれ」ようのないものが、どうして「やってこ ない」はずだというのか。なぜなら、新約聖書に宣べ伝えら な千九百年の教会史と、時間と時間のあいだのこの緊張とは 多かれ少なかれ関係がないが、それはローマ書がコリントとれている終極はいかなる時間的出来事でも、いかなる寓話的 「世界の減亡」でもなく、なにか歴史的、地球的、宇宙的破 ロ 1 マのあいだでフィベの荷物の中に入れられた ( 一六・ 局とも絶対的になんの関係もなく、むしろほんとうに終極で そのなん週間かなんか月とも関係がないのと同じであり、 ・二一 l) 経あって、千九百年という年数も、その近さ、遠さについて ウロのロ述とテルテオの筆記とのあいだに ( 一六 は、ただたんにわずかな意味しかないだけではなく、むしる 過したわずかな瞬間ともなんの関係もない。な・せなら目覚め の時、ここにその到来が宣べ伝えられる「最後」の時は、そ無意味であるような終極、すでにア・フラハムもこの日を見て 喜んだような終極である。この永遠の真理については比喩の の時のなかにその後の時、それにつづく ( 年代学的 ! ) 時間 かたちで語ることができるにすぎないのであるから、この真〕 が充足の時間として期待される意味をほんとうにもたないか らである。あたかも死から生じた生が、あらゆる存在を廃棄理を時間的な現実に弱めてしまうようわれわれに命ずるのは だれか、あるいは、この場合どの言葉も比喩でありうるにす する非存在が、裁かれた者の義が、時のあらゆる前後のただ ぎないということが認められるとき、この「すぎない」で満 中にある〈いま〉が時間とならんだ ( またそれゆえそのなか 足するように命ずるのはだれか。神を偶像とし、神の現実を の ) 一つの時間を満たすことができるかのように。時間は、 とらえるわれわれ自身の誤解にもとづいて、きわめてあっか あらゆる人間に悔改めが命じられるのであるから、無知の ましくも神をまじめに受けとらないようわれわれに命令する 時間であり想起の時間である。それ以上のものは時間でな のはだれか。終極すなわち生者が変えられ、死者が復活せし く、永遠である。否、すべての時間の限界のところに、あら ゆる時間と時間の内容の廃棄を意味する垂れ下がった神の壁められて、ともども神の前に立っ ( コリント第一書一五・

8. 世界の大思想33 バルト ローマ書講解

314 連帯性 ( 九・一ーーー五 ) 一ーー五節私はキリストにあって真理を語る。私は偽らない。 私の良心は聖霊において私のためにそれを証明する。私は私の 心に大きな心配とたえまない悲しみをもつ。なせなら、私は私 の兄弟、肉による同族のかわりに、キリストから離されてみずか らが呪われることを願ったから・てあるーーーかれらはイスラエル人 ゼあって、子たる身分と栄光と契約と律法制定と礼拝と約束をも つ。かれらは父祖たちをもち、肉によれは、キリストもまたかれ ( 1 ) らのただ中から出、かれらは万物を支配する神をもっ この神 は永遠にほむべきかな、アーメン。 ( 1 ) 〔原注〕この箇所の解釈は、つぎの可能性のなかから選ばなければな らない。 一、「万物を支配する者ー〔。を 33 こ等々という文章は、補足的関 係文として、先行文の主語「キリスト」〔。暑ミ犬〕にかかる。このかかり方 は形式的にはローマ書一・二五、コリント第二書一一 ・三一との類比におい て強く支持される。しかし、私は「高くあけられた主に対して、神 0eo と いう語をここにかざって適用する」 ( ツア 1 ン ) ということを承認する決心 ができない。それというのも私はテサロニケ第二書一・一二、テトス書二・ 一三にこのいいまわしを見いださないからであり、ローマ書一〇・一一 一四によっても、このいいまわしの承認を必要とみとめないからであり、こ 第九章教会の危急 のいいまわしは、私の感じからすれば、。ハウロのようにきわめて微分化的思 想家、著述家に帰することができないほどの粗雑さを意味するからであり、 この箇所は最初の数世紀のキリスト論的討論において ( ヴェトシュタイン、 CQ ・ヴァイス、ツア 1 ンの述べるところによると ) この意味で理解されてい たら、明らかにはたすにちがいなかったであろう役割をはたさなかったから であり、「万物を支配する神」〔のミ料で 6g3 を別にすれば、詩篇の中 にきわめてしばしばあらわれる「ほむべきかな」〔の旻 0 凸は、明白にイ スラエルの神を指示しているように思えるからである。 二、ホーフマンとツア 1 ンは、「万物」〔料を 3 この後にコンマを置く、べ ックはさらに第二のコンマを「神」〔 0E0 凸のあとに置く。そしてかれら三」 人みなと、かれらに加えてキュールが「神」〔凸の前に冠詞のないこと を強調する。「この文章は、実はキリストが「神」〔 0eo 凸の位のあることを 端的にいいあらわす」 ( キュール ) 。この形式的には人為的で、内容的には わしく曖昧なやり方とくら・ヘれば、私は最初の解釈の方がより大きな困難に もかかわらず断固すぐれたものとしたい。 三、「万物を支配する者」〔 0 きのミで 3 こ等々は独立した頌栄文と解さ れる。したがって、この文章は神にかかる、パウロのほかの類栄がこれと類・ 似していることもそのことを支持する。しかし、この解釈を「唯一の満足す リーツマンはこの解釈に べき説明」 ( ュリヒア 1 ) と見ることはできない。 従いながらも、それについてはるかに注意深く発言しているということを参 照するがいい。独立した ( 接続詞を省略した ) 神に対する頌栄はパウロの場、 合、一般にあまりにも寄異で、ここのつながりからいって内容的にあまりに も動機がなさすぎるし、それゆえ、私はこのような解決で満足することはで きない。 四、私としてはヴェトシュタインによって明白なように、すでに二百年まえ から知られている判読法「かれらは万物を支配する神をもっ」〔 0 胃。 に 0g3 を支持したい。そうすると、この句は、「かれらは。 - かれらは : : : をもっにドかれらは : : たちをもっかれらのただ中 から出き」で始まる四ーー五節前半の叙述と平行することになる。頌米 的文句をもったものはただ同格的な結びのほむべきかな〔さ ~ 。 7 。凸等々の 句だけである。私は今日のテキストが、おそらくはコリント第二書一一・ = 「 一の影響を受けてうつかり書きまちがえられたために成立したとおもう。

9. 世界の大思想33 バルト ローマ書講解

がーーー洪水におおわれ、深みに引きすりこまれ、神によっ 、、完成、栄光について、不可視的中点についていわれうる こと、いわれなければならないことがいわれている。すなわて、この世の中のこの人間に宣告された否の前に立たされ、 ち、はじめであり、おわりであるものは「すべてのものにあ いいのがれの可能性をうばわれて、すべてのものが立たされ る裁きの中にあるわれわれに対して、義と罪、生と死、永遠 ってすべてなる神」である ( コリント第一書一五・二八 ) 。 それは、われわれがそれをあらわす言葉と概念とをもっとい と時間のやしがたい闘争の中で、実存性をもった神のみが うのであってはならない。そうなるとそれはそのようなもの残るところへ導かれる。しかし、この謎のような出来事が生 ではないだろうからである。われわれは、あらゆる道しるべずると、それによって、すべての事物の逆転もまた生する。 がまさにその方を示していることを確認してそれで満足し、 実存性をもっ神のみがわれわれに対して残るところでは、神 やめておこう。 はわれわれに対してまことの生ける神となり、そこでは、神 しかし、われわれは、究極の真理を夢みてではなく、それの栄光の希望がわれわれにあらわれ、そこでは、神がーーわ を忘れがたく見たことを意識してやめておく。すなわち、 れわれに向かう、われわれに反対するものとして以外にはわ 「自分の子を惜しまないでわれわれすべてのためにかれを犠れわれの知らない神がーーーわれわれの味方となる。犠牲とな 牲にした者が、どうして子とともにすべてのことにおいて恵 ったキリスト、われわれから実存性をもっ神以外の一切を取 みを与えないことがあるだろうか」。この世の中のこの人 り去るキリスト、それがーーーわれわれはこの難攻不落の陣地 ダア・ザイン ゾオ・ザイン 間の存在とその在り方がその最低点に達するところ、その へ突撃しなければならない、な。せなら、この陣地はすでに落 「空虚性」が間違いなくはっきりするところ、もっとも痛まちてしまったのだからーー「われわれの味方である神」 ( 八・ しい「嘆きーがわれわれの方に聞こえてくるところ、神的な三一 ) であり、われわれは神のかたわらに立つのた。犠牲と インコグニト 一もの匿名の姿がもっとも究めがたいところ、その方にわれなったキリストは霊であり、真理であり、休むことのない神 われが目を向けるならそこで、ほかならぬそこでイエス・キの腕である。もしわれわれがかれとともに苦難を受けるな リストはわれわれに出会う。可視性の特徴的な限界のところら、かれと栄光をともにしないというのだろうか ( 八・一 にかれは立っている。「犠牲にされ」、「惜しまれないで」。か七 ) 。かれとともに死んだのであるなら、どうしてわれわれ 章 れもまた明確に洪水でおおわれているのだ。「われわれすべ はかれとともに生きないというのだろうか ( 六・八 ) 。もし 第 てのために」、かれは犠牲にされ、かれは、われわれすべて神がかれとともにわれわれを、すべてのものの上にある裁き Ⅱにかわってそこに立つ。なぜなら、かれとともに、われわれに引き渡したのであるなら、どうして神はかれとともにすべ はみな もしかれがそうなら、ましてやはるかにわれわれてのことにおいて恵みを与え、万事がともに働いて益となら

10. 世界の大思想33 バルト ローマ書講解

「霊によって働かされることー ( 八・一四 ) が人間の神の子た来事となるということ、そのことは、このような愛が人間の る身を創造し、人間の可視的存在にこのような意味を生ぜし時間の中における存在、所有、行為として、時間系列の出発 め、人間の思考、語らい、行為にこのような方向づけを生ぜ点に ( だがその時間系列の中で ) 存在している神的原因によ しめる。このような光を点ずる火は神に属し、したがって、 って働かされているということを意味するのではなくて、こ その輝きもまた神に属する。なぜなら、「神の子のかたち」 のような神に対する愛は、時間系列のどのような瞬間にも、 において、かたちはまさにかたちではないように、患難はた人間の存在、所有、行為としてあらわれたり、要求されたり んなる患難でなく、死はたんなる死でなく、否はたんなる否することができず、むしろ、あらゆる時間をこえて、したが でなく、無知はたんなる無知でなく、むしろ、あらゆるも ってあらゆる瞬間に、神みずからのうちにその根原をもち、 のの逆転が生するなら創造者にして救主なる神がみずからの神みずからにおいて探し求められ、見いだされなければなら 言葉とともに、見る目として、見られる太陽として、この場ないということを意味する。神を愛する者は「それは私のこ に存在する、またその場合には神が決定し、人間が決定し とか」と自問することはできず、まただれも「それはあなた たのではない。したがって、われわれの時間のあらゆる瞬間 のことか」と問うこともできない。「それは私のことか」と に先行するこのような定めの中に、そしてそれゆえ、神への いう問いはつねにただ弟子たちが最後の晩餐においてその問 そのような間接的な、断絶した関係の中に神を愛する者の正 いを発していたときの意味においてのみ意味がある。主に属 当性と権威とがある。しかし、かれらは神によって認められする者を知っているのは主である。主は裁く者ではあるが、 ているがゆえに神によって決められているのである。「人が また人間はただ神に対してのみ罪をおかし、またおかすこと 神を愛するかぎり、その人は神に認められているのである」 ができるのではあるが、主はかれら、すなわち、とらわれた ( コリント第一書八・ = l) 。われわれは、人間が祝福されるよ者を自由なものとして、罪人を義なる者として、呪われた者 う予定されているという秘義の前に立っている。アウグステを祝福された者として、死者を生ける者として認める。神に イヌスと改革者たちとは神話化してこの秘義を原因と結果と対する人間の愛の真理は神の内にあって、人間の内にはな いう図式にしてあらわし、それによって、その秘義の本来の 。それは神の内に根拠づけられており、神の内で実現さ 射程を奪いとってしまった。なぜなら、神が人間を認めるとれ、神がそれを見、神がそれに報い、神がそれを知る、そし いうこと、神自身の神のみのなすこのような認識において、 て神において、神においてのみ、それは実存的である。そし 神に対する人間の愛、神の子となるべき人間の定め、そして、この神の認識は永遠に、不可視的に、あらゆる時間の前 て、この定めにおいて復活の証人となるべき人間の召命が出に、その時間を越えて、またその時間のあとに生じ、したが