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検索対象: 世界の大思想33 バルト ローマ書講解
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1. 世界の大思想33 バルト ローマ書講解

みが勝利する」という答えがわれわれに与えられ、この積極の前提から出発するより他、もはや出発のしようがない。わ しか 的な神と人間との関係が絶対的に逆説的なものであるというれわれは、神の然りから聞くより他、われわれの立たされる ことが成り立つ。これがここでおそれとおののきとをもっ否をもはや聞きようがない。神による罪の赦しの低い声によ て、しかし不可避的な必然性に圧倒されて宣べ伝えられる救って支えられるより他、もはや人間の不敬虔と不服従の声を 一六 ) 。すなわち出来事聞きようがない。神の「それにもかかわらず」という安らか 済の音ずれの内容である ( 一・ としての永遠なるものである。われわれは、手でつくった宮 な和声で消してしまうより他、人間の反抗の声をもはや聞き - ようがない。もはや他にないというのか。確かに、あらわさ に住まず、なにものも必要とせず、それ自体は万人に生命と 息と一切のものとを与える天地の主なる未知の神の認識を宣れていることをわれわれが信ずるかぎり、もはや他にありえ べ伝える。われわれは、神によって人間に与えられた一切のないのである。われわれは信ずるが、そのかぎりでわれわれ は人間が神によって廃棄されたのを見る。しかしまさにそれ ものが、万人が神を求めるために与えられていると宣べ伝え る。すなわちわれわれのだれもから遠くない神を求めるのでゆえわれわれは神において廃棄されているのを見る。われわ あり、われわれが生き、創造し、存在するものの一切を越えれは人間が神によって局限され、制限され、囲われているの た彼岸で、われわれが生き、創造し、存在することによっを見る。しかしまさにこの局限するものこそが人間自身の第 一のものであり最後のものでもある。われわれは人間が裁か て、神を求めるのであり、それは人間に対しては、姿をかえ ても、そのあり方は真実でありつづける神である。神のありれているのを見る。しかしまさにそれとともに正されている のを見る。われわれは歴史の無意味のなかに意味を見る。わ 方は人間に対して真実でありつづけるが、まさにそれゆえ、 れわれは真理がそのきずなを引き破るのを見る。われわれは 申性よ人司のてだてや作りごとと同等視されえない。また、 神は無知なる時代を見のがしてきたが、「しかしいまや」すべ人間のうちに「肉 , 以上のものを見る。われわれは突然あら ての人間にいたるところで悔い改めるよう告げさせる。そうわれた救いを見る。われわれは人間の最高の期待と希望とが 崩壊する中で神の確固不動の真実を見る。このあらわされた 義いうことをわれわれは宣べ伝える。われわれは宣べ伝える、 もの、あらわれたもの、示されたもの、われわれによって認 神神が義をもって、みずからの義をもって人間世界を裁こうと 三一 ) 。神の められたものから、われわれは出発する。このあらわされた する日が始まったと ( 使徒行伝一七・二三 ものについて、われわれは語っている。見たり聞いたりする 第義があらわされる。われわれはもはやこの義を考慮に入れな 冫をしかない。われわれは所与をこの前提的所与の光目と耳とがあるなら、このあらわされたものに対して注意を いわけこよ、 にてらして見るより他にもはや見ようがない。われわれはこ喚起したい。 ゆる

2. 世界の大思想33 バルト ローマ書講解

ゆる集約的な、意味深い、がしかし実際には、きわめてわざとにおいて教会に近づこうとして、これらのものを教会のた とらしく、きわめて作為的であるがゆえに、きわめて疑わしめに用意するあの方を認めるであろう。われわれはこのよう に退いて、集中する教会、この厳密に主題の核心に即した教 「待望」、無活動、無行動のうちに救済が求められる 会、「改革的」であるより以上の教会で、ヤコブの教会を考 であろう。こんなこともまた問題にならないのだ。 ョ『〕葉はあなたの近くにある。あなたのロにあり、心にあえるのである。すなわち、奇蹟と信仰の教会、不可能な可能 る』。すなわち、われわれが宣べ伝える神の真実の言葉であ性、決して、まさに他の教会に対してそのようなものとして あらわれない、したがって、新しい運動、宗派、設立の対象 し、刀 る」。このことは、まず第一に、、かなるたくらみも、 とはなりえないような「荒野の教会」である。それというの 、、かなる肯定的なものも、ま なる歪曲も、いかなる技巧も たいかなる否定的なものも必要としないということを意味すも、この教会は、どこでも、いつでも、おそらく自分自身を る。ただ一つのことだけが必要である。すなわち、身近なも真に受けとるつもりでいる、これや、あれやの、またどの可 のへのまなざし、あなたのロの一言一言に、あなたの心の一能な教会においてもあらわれうるし、あらわれようとしてい るからである。したがってここで実行さるべき内面戦線への つ一つの動きにあらわれる生の危急と約東を見るまなざしだ けが必要なのである。あなたは、自分が人間であるがゆえ退却は、それ自身決して計画さるべき、いっかはじめられ に、端的に人間性のあの限界のところに立っている。すなわて、いっかおえられるべき戦略的策略なのではなくて、教会 の策略が獲得し、もち、維持しなければならないはずの戦術 ち、「われわれが宣べ伝える神の真実の言葉ーが唯一の答え ダア・ザイン であるあの間題性の中に立っている。世界と生との存在とそ的意味である。なんの準備もなく、基礎づけもなく、予定ど おりの解明も、実践的思慮もなく、今日でもなお退却が可能 の在り方を、もっとも単純に、冷静に、幻想をいだかすに、 世俗的・批判的に洞察することが、われわれが自分の方でなものとして存在しうるのは、明日、あらためて、希望から 「一一一〔葉」に近づくために実現されなければならない唯一の前危急へ、危急から希望への歩みとしてその退却が生するため 提である。教会のありとあらゆる高さ、低さから、その教会なのである。なぜなら、この退却は永遠の歩み、すなわち、 すべての人間の歩みの新たな資格賦与、方向づけ、すべての の包括的な、集約的な、すべての可能性の領域から、生へ、 人間へ、現状へとかえってくる、すなわち、存在の問題に近可能な人間の歩みを伴う、あるいは伴うことのありえない歩 近と直面しようとして、あらゆる遠方から「近くーへかえつみ、あらゆる人間の歩みをひき起こす、あるいは妨げること てくる教会、その教会は最後には自分のほんとうの課題と危もある歩みそのものである。その退却はあらゆる可能性とく らべて、まったく他なる可能性である。またまさにそれゆ 急と責任を認めるであろう。しかし、それと同時に、このこ ゾオ・ザイン かた

3. 世界の大思想33 バルト ローマ書講解

人に判決を下すことによって、自分自身を断罪する。判決を下す のではないか。信仰もまた一つの歴史的、精神的現実ではな ことによって、あなたは同じことを行なっているから・てある。し いのか。信仰者はその信仰によって、われわれすべてを抑制 かしわれわれは、神の判決が真理の尺度により、このようなこと するものから遠ざかり、この世が神と異質的であるという重 を行なう者たちすべての上に下るということを知っている。 荷をまぬかれることができるようにされるのではないか。普 通の一般者と対立する一つの地盤を得ることができるように 「弁解の余地はない」。未知の神を知らない者に対しても されるのではないか。つまりこの地盤にもとづいて信仰者は 一九 ) ーー知っている者に対しても、自分を受 ( 「しかもわれわれはしおそらくは気の毒に思い、おもいやり け入れるいかなる根拠も可能性もないのた。神を知っている をもって、しかし根本的にはもはや関与しないで、まだ自分者もまた時間に属している。かれらもまた人間である。人間 の状態に達せず、「それ」をまだ理解せす、自分のものとしなを神の怒りからまぬかれさすいかなる人間の義もない。人間 . いかなる場所 かった人たちを眺めやることができ、またそうしてもかまわを神の前に義とするいかなる事物的なものも、 ないのである。ずっとまえに宣べ伝えられた神の救済の音ず的高さもない。それ自体で神を喜ばせるようないかなる態度 、よる同察 4 や . しュ〃子 / ぐイ いかなる信念も気分もなく、 れを聞くことによって不幸の海のただなかにさいわいなる人も様子もなく、 たちの島が生じたといえるのではないか。アブラ ( ム、イサ概念的理解もないのだ。人間は人間であり、そして人間世界 ク、ヤコゾの未知の神に栄光を帰する可能性を想像しうる場 の中にいる。「肉から生まれたものは肉である」。一切の物に 合、その可能性は神の厄介な怒りをまぬかれる可能性を同様はその時がある。人間において、人間をとおして、存在と形 に想象しうることを暗示するのではないか。人間がわれわれ 態と延長とをえたものよ、、 ーしつでもどこにおいてもそのもの・ ダア・ザイン ゾオ・ザイン の存在とその在り方との神の与える危機に率直にさらされ、 としては不敬虔な、不従順なものである。人間の国は決して またこうして神とともに批判をなす者となるという、考えう神の国ではない。だれも例外とされず、だれも免除されす、 る例外的場合がこの人間に対して暗闇からの出口を開くので だれもゆるされない。幸福な所有者なるものは決して存在し ーないか。あるいは原囚と結果、離反と破減というあの円環 はつねにいたるところで人間としての人間、世界としての世「あなたは他人に判決を下すことによって、自分自身を断罪 界をあらわしていて、実際、閉ざされていてどうしようもな する」。あなたはある立場をとることによって、自分自身を いといえるのではないか。 不正にひきわたす。あなたが「私は」とか「われわれは」と か「それはこうだ」ということによってあなたは、過ぎ去っ ニ節それゆえに、人間よ。あなたがだれ・てあろうと、 あなたの判決について弁解の余地はない。なぜなら、あなたは他てゆくものの栄光を過ぎ去らないものの模像ととりかえる

4. 世界の大思想33 バルト ローマ書講解

かれにとっても戸は開かれている。 い。なによりもまず神の意志が生起しなければならない。そ のあとで、人間の願いの成就がおそらくつけ加えられるか、 九ーーー一〇節。ハウロとローマのキリスト者との間には、偶然 あるいはつけ加えられないかどちらかであろう。なにごとで 的、外面的という以上の関係がずっと以前から存在している。と も、神の欲することとかかわりをもつべきものは、そのあと いうのは、私は祈りのたびごとに、絶えずあなたがたを覚え、 いっかは神の意志にかなって、あなたがたの所に行けるようにとで生起する。すなわち、このようにして、互いに未知の者と 願っている。このことについての私の証人は、私が霊により、そして最善を信じ合い、さらに神の意志を知ろうとっとめるの の御子の救いの音ずれを伝えることによってあがめている神てあである。神の意志は、与えられた外的状況と内的状況との、 る。 正当に成立した調和において、正しいものへの、キリスト者 に許された洞察によって知られる ( 一二 ・一 I)O 瞬間のこの この使者は、たしかに神にそくしているが、かれらにもそ くしている ( かれはじつは多くの人にそくしているのである認識は、人間の願いの達成が考えられる唯一の道である。 一・一四 ) 。恵みをうけた者、主の栄光を求める情熱に身を 一ニ節私は、あなたがたに会うことを熱望している。 あなたがたに霊の恵みを幾分ても分け与えて、カづけたいからて 焼きつくす ( 一・五 ) 証人の霊は、同じ啓示と発見に感動し ある。というよりはむしろ、あなたがたの中にいて、あなたがた た者たちの霊から遠くはなれ、無縁であることはできない。 と私とがともに出会うてあろう信仰によって、共通のなぐさめに かれの祈りは、かれのための仕事であると同様に、かれらの 達するためにてある。 ための仕事でもある。かれが祈るときには、かれらのために あの願いには根拠がある。神の道において出会う人たち 祈る。それと同じように、かれらも戦いをやめないかぎり、 かれのためにも祈る ( 一五・三〇 ) 。救いの音ずれに注目すは、互いにわかち合うべきものをもっている。ある人は、他 の人にとってなにものかでありうる。しかしもちろんそれ ることが、たがいに会ったこともなく、この世におけるその 行路がふれあったこともない者たちの間の連帯をつくり出は、かれがその人に対してなにものかであろうと意志するこ ザッへ す。そのとき事柄におけるこの交わりから、個人的にも顔をとによってではない。だから、たとえばかれの内面の豊かさ によるのではけっしてない。かれが現にあるところのものに 見たいとの願いが高まるであろう。神において知り合う者た ちは、もし許されるなら、顔を合わせて知り合いたいとおも よるのではなくて、まさに、かれが現にないところのものに うのは当然である。しかしそれは許されるのだろうか。そう よって、かれの欠乏によって、かれのなげきとのそみ、待望 でなければならないのだろうか。ただちにそのとおりだとは と渇望によって、かれの存在の内にあって、かれの地平をこ いえない。 この願いは、神の国とは直接なんのかかわりもな え、かれの力をこえるある他者をさし示すすべてのものによ

5. 世界の大思想33 バルト ローマ書講解

うことである。従順とは固有の、特殊的な神的なものに対すたとえばこのような者はどこにいるのか。そして、エサウの る、神であるまったく他なるものに対する、王、君主、独裁教会、われわれの教会、既知の教会、それはもしかして聞き 者としての神に対する感覚のことである。それゆえ、従順と従うのだろうか。もちろんそうでなければならないだろう。 は、どんな事情があっても、神に組するものとなるというこ 「キリストの言葉」はこの教会の近くにある。この言葉から と、自分の運動を神の自己運動に捧げる熱意のこと、つまりあの「使者」によって伝えられるその「宣べ伝えたことーが 既知の人間の一切の重要なものと必要と要求とを殺す熱意の生ずる。この宣べ伝えられたことから神の真実が聞きとら こと、われわれが立っすべてのこれやあれやの、ここやそこれ、それから「信仰」、すなわち従順が生じなければならな の場所からの、われわれの巻き込まれているすべての事業、 いであろう。もしかしたら信仰が生するだろうか。あるいは しつもくりかえし 思考と作業の習慣、和解、盟約、冒険からの呼びかけにすぐ宣べ伝えられたことをもたらす使者は、、 応しる心がまえをしていること、支点の上に揺れる振子がまて、きわめて珍しいことだが見捨てられ、孤独となり、途方 ったくおもいのままに止まるということをいうのである。 かれらの聞き手の前 にくれ、内面的にも当惑し、そこに 「歩く」自由、すなわち、同じ道をいつもくりかえし、行っ で、そして、わけても確かに自分自身の前にたたずなのでは たり、また来たりして歩きまわり、立ち止まらない自由、あないのか。「主よ、だれがわれわれの宣べ伝えたことを信ず らゆる任意の点から、同じ真剣さをもって生をとらえ、攻撃るのか」 ( イザャ書五三・一 ) 。よしどこに教会があろうと も、 する自由、その生に反対して神から結果する衝撃に対して、 いったいおそれとおののきとをもって悔い改めるにいた 7 つねにその射程の全体にわたって空間を与え、一切が神をた るだろうか、神に畏敬の念をもつにいたるだろうか、距離を よりとするのだがそのたよりの支えを決して忘れたり、失っ つくってそれを守るにいたるだろうか、 ( 宗教的な ! ) 人間 たりしない自由、これが救済の音ずれに対応するような従順を攻撃するにいたるだろうか、人間の本質の構造をぐらっか 罪であるといえよう。しかしいったいだれが聞き従うというの せるにいたるだろうか、もしまたしても、短い道のりでもさ 会か。非常におとなしく、非常に意味深くいえば「すべての人 いわい進みうるならば、止まることのない「さまよい歩きー がではない」。確かにこの人やあの人ではない。確かにあるをなすにいたるのか、また根本的であるからといって、あの 章 数のこれこれといった人たちがではない。ヤコ・フの教会、 永続的な、恐怖とよろこびをもっ注意にいたるのか、またあ 第 「われわれの父アプラハムの道、すなわち割礼なしの信仰の無条件の即事性にいたるのか、神がわれわれに対して準備 の道を歩く」 ( 四・一一 l) 信仰深い異邦人がそれである する困難の中で、あのようにきよらかに耐え、持ちこたえる 確かにそうである。しかしだれがこのような者であるのか。 にいたるのか、むしろどこで , ーー・ここで教会の病気のいくっ

6. 世界の大思想33 バルト ローマ書講解

Ⅱ 0 うであるなら、われわれはたんに一つの反応を示し、「復讐ー な否定は、それ自身即刻ふたたび否定されなければならない をいいあらわし、それ自身またしても廃棄、弁証法的修正、 だろう。他の歴史とならんだ異質の歴史としての復活なら、 それは復活ではないだろう。なぜなら、その場合なにが復活究極の統一への還元を必要とするような対照的活動に達した するというのか。あらゆる所与において確認され、実現されにすぎないであろう。 しかし、まさにこのようなことが考えられているのではな ない前提は、究極の前提ではないだろう。また特殊な出来事 く、むしろ「われわれはまさしく律法を立てる」。われわれ として、普通の精神的出来事 ( たとえそれが優れた仕方で、 はまさしく歴史、所与、心理的出来事からその偶然性を取り たとえば「超自然的出来事」であれ ) に従う逆説は、まさし 去る。われわれは神を未知の神と呼ぶことによって、まさし くそれゆえにこそ逆説ではない。あらゆる存在するもの、 く天地の主なる神を宣べ伝え、救いを説教することによっ 既知のもの、事物的なもの、時間的なもの、人間的なものに て、あらゆる被造物中の創造の度量を宣べ伝え、あらゆる体 対して他なるもの、すなわちわれわれが由来した他なるもの は、もしそれがそれらのものに対してあらゆる点で、その根験を認識の光の中へ移すことによって、あらゆる体験の有 原的な、充実した、究極的に肯定的な意味において認識され意味性を宣べ伝え、信仰の逆説を律法の永遠の否として立て ることによって、律法の永遠の真理を宣べ伝える。われわれ ていないなら、それは決してそれらのもののまったく他なる ものではないだろう。「もしわれわれが信仰によって律法をは、個人の魂は神の前に、また神において破減し、神におい 廃止するなら」、もしわれわれが信仰を律法の奥深いところて廃棄され、しかも救われると宣べ伝えることによって、ま さしく個人の権利、単独者の無限の価値 ( キルケゴールを参 で理解するかわりに、律法とならんだ第二の、他なるもの、 相違したものとするなら、モーセをキリストにおいて理解す照せよ ) を宣べ伝える。われわれは、 ( 神から見て、また神 るかわりに、キリストをモーセとならべるなら、もしわれわにとっては ) 一切のものはいついかなるところにおいても破 れがあらゆる人間の進路に対する神の裁きの中に、同時にそ減していないのであるから、それゆえに人間の一切の存在、 の進路を与える者を認め、あらゆる人間の感動、活動、憧憬所有、行為が、神の裁きのもとに屈服することを要求し、そ が神によって廃棄されるさいに、それが神において廃棄されれゆえにいついかなるところにおいても神の義認を待たなけ たのだということを認めないなら、したがって、信仰が提出ればならないということを要求する。われわれはその完全な まさしく究極の問いとしてーー同時異質性のままにこの瞬間の光に照らされもせず、この瞬間の する究極の間いが、 にあらゆる問いに対する答えでないなら、信仰は信仰でな尊厳と意義に与かりもしないようないかなる以前も以後もも 。もしそうなら、われわれは速断しているといえよう。そはや見ないのであるから、それゆえに、われわれは最後のラ

7. 世界の大思想33 バルト ローマ書講解

334 ろ神の意志そのものが慈愛とあらゆる善との泉であり、それあわれみをほんものとし、この同情を強力にするものであ る、すなわち絶対的に神の、すなわち端的に自由で無制約 を措定することである。神の意志は、神の意志と解されるこ とによってのみ、よきものと解されうるのである。「神にとで、自分自身にもとづいて動くあわれみと同情であるという ってはみずからの権威たけで十分であり、最高であって、だ事実が、われわれの希望の根拠としてあがめるに価すること 〕。それゆえに「私がしようである。教会もこのような危急の中でその希望を認めつつ、 れの保護も必要としない」〔テ この、すなわちーーー直接、直線的に理解すればーーーエサウの と思うからする」色のである。そして、「もし神の選びが 原文ラ 外的な原因に拘東されるなら、神は自由を失う」〔 〕 ( カ神とのみ理解され、ただ絶対的な奇蹟によ「てのみヤコ・フの テン語 しったい、モーセをモーセとし、神の契約と救神として自己をあらわす神以外の神についてなにも知ろうと ルヴァン ) 。、 済の音ずれの所有者にして宣教者たらしめたのはなんであるすべきでない。 「『私があなたを立てたのは、あなたにおいて私の力を実証 か。「私があなたのところで恵みを見いだしたということ、 し、また私の名が全世界に宣べ伝えられるためである』。し 私とあなたの民とがそれを見いだしたということ、それを知 たがって、神はあわれもうと欲する者をあわれみ、かたくな るのは、あなたが私たちと一しょに行なったということによ ってでなければ、なにによって真に認められようか」。その答にしようと欲する者をかたくなにする」。神は「不服従」で あるか、ともう一度間う。そしてもう一度答える、否と。わ えはこうである、「私は私の栄光をもってあなたの前に進み、 れわれが神の行為をわれわれの秩序と期待で測らないかぎり 『主』という私の名とともにあなたのまえに私に聞かしめ、 自分のあわれむ者をあわれみ、同情する者に同情するだろ ( むしろ逆なのだ ) 、われわれが神は神特有の、われわれの考 う」。われわれはこの節のつづきを考える「あなたは私の顔察には端的に不可視的な実用性に従うのだということを洞察 して満足するかぎり、どうして神はそんなものであるという を見ることはできない。わたしの顔を見て、なお生きている 人はないからである」 ( 出エジ。フト記三三・ のか。われわれはどうしてこのような洞察に達するか。それ 七十人訳 ) 。したがって、こうして、モーセはモーセとなる。 はこう自分に説明するかぎりにおいてである。すなわち、も 神の義は神の義であって、決して「意志をもつあるいは立ちし、われわれがいまここでただ神としてのみ直視することの まわる」人間の義ではない。 この人間には、人間的権利によ できるものの彼岸で、創造者にして救い主である根原的光が ってもともとかれのものであるようななにものも与えられて勝ちほこってわれわれを照らさないならば、われわれは決し おらず、むしろ神はあわれみと同情とにもとづいて、神がか てこの愚かな、まったくまとはずれの問いを発せず、エサウ れに与えるものを与える。そして、これがかれの受けたこの の神の可視性に直面して、抗議しつつ、助けを求めつつ、ヤ

8. 世界の大思想33 バルト ローマ書講解

育する。かれはあらわれない。かれは退く。かれはいたるとつの口からわれわれの主イ = ス・キリストの父なる神をあが ころにいるがえゅにどこにもいない。 める」交わりの声を聞きとることができるという不可解なこ 「なぜなら、キリストもまた自分自身のために生きなかった とを教えるだけでなく、そのことを示すからである。 からである」。われわれはキリストにおける神の啓示の隠蔽性 七ーー一三節それゆえに、キリストもまた神の栄光をあらわ ( 1 ) について ( 特に三章と八章で ) 聞いたことをすべて想起する。 すためにあなたがたとの交わりを続けたように、たがいに交わリ を保ちなさい。なせなら私はこういうからてある。キリストは神 そのことがここで考えられている。そのことは倫理学におい の真理のために、割礼のある者たちの召使となった。それは父祖 ても確証されなければならない。「かれは叫ぶことなく、声 たちに与えられた約束が実現されるため・てあったといえよう。し をあげることなく、われわれはかれの声をちまたに聞くこと かし異邦人もあわれみのために神をほめたたえる。「それゆえ私 もないだろう」。そしてそれゆえにあの「立場」と分かちがた は異邦人の中てあなたを告白し、あなたの名をほめ歌う」と書い く結びあわされているまさにそのことは起こらないだろう。 てあるとおり・てある。またこういわれている。「あなたがた異邦 「かれは傷ついた葦を折ることなく、ほのぐらい灯心を消す 人よ、主の民とともに喜びなさい」。また、「すべての異邦人よ、 ことはないだろう」 ( イザャ書四二・二 一一 l) 。「かれは神 主をほめまつれ、すべての民よ、主をほめまつるべし」。またイ と等しくあることを強奪と見なかった」 ( ビリビ書二・六 ) 。 サヤはいう。「エッサイの根があって、異邦人を治めるために立 ち上がる者がある・てあろう。異邦人はかれに望みをおくてあろう かれが宣べ伝える神の国はほんとうに神の自山である。それ ( 詩篇一八・五〇、中命記三二・四三、詩篇一一七・一、イザャ ゆえかれの全生涯が犠牲であり、断念であり、引きこもりで 書一一・一〇 ) 。希望の神はあなたがたを信仰にある真の喜びと ある。「あなたを侮辱する者の侮辱は、私の上に落ちかかっ 平安て充たす。それはあなたがたが聖霊の力にある希望て豊かに た」 ( 詩篇六九・九 ) 。こうしてかれは大きな受難者 ( イザャ なるためてある。 書五三章 ) として旧約の歴史をつらぬいて進む。こうしてか ( 1 ) 〔原注〕「あなたがた」〔ミミ 3 というのは後世の一般化である。・ ( ウ ロはここでもう一度特に「強い者」に向かう。 れは十字架につけられた者としてわれわれの前に立つ。「そ れはわれわれを教える目的で書かれている」。この姿は「忍 キリストは自由な生の試みの危機である。かれは神の栄光 耐」にみち、「慰め」にみちている。だがしかしそれは一つをあらわすために強い者を強い者にする。かれはイスラ = ル の姿以上のものである。な・せなら「忍耐と慰めとの神」がかの、教会のキリストである。なぜなら、弱い者がかれのため れの背後に立ち、われわれ人間はわれわれがまったく相違し になすどんなに貧弱な証言も、まったく対象がなく、まった 分裂したまま「一つの心」となり、思想豊かな活動のただ中くそれに対応する神の真理がないわけではない。しかしかれ で、一者と一なる点を注視し、教会の不協和音の中で、「一 は異邦人のキリストでもあり、この世のキリストでもある。

9. 世界の大思想33 バルト ローマ書講解

さしくそれ、すなわち苦難、いいかえるとあの周知の苦難が トが見える場所と見なければならないのである。苦難を見の 認識と救いの門となるがゆえにそのようなものではない。い がすことはキリストを見のがすことであるといえるかもしれ ったい神はどこでわれわれを計算に入れるのか。神はどこでない。なぜわれわれが苦難を受けなければならないのかを問 われわれの前にみずからを義とするのか。神の霊はどこでうことは、われわれに向けて同じように発せられた問いを聞 「アバ、父よ」と叫ぶことを教えるのか。時間が永遠の否定できのがすことであるかもしれない。われわれが苦難を理解せ あるということはどこで明らかとなるのか。人間は自分の前ず、耐えしのばず、克服して実りを得ることができないと答 えることは、まさにこのような「できない」という事実にお におかれた障壁にどこで突き当たるのか。またそれとともに 人間に与えられた脱出口にどこで突き当たるのか。精神とカ いてわれわれに与えられている神の答えを聞きのがすことで これこそが苦難の秘義であり、また、神 との論証はどこでなされるというのか。神が、それによってあるかもしれない。 が神たろうとし、そして神であり、このような神たろうとす われわれをキリストと苦難をともにしている者、「ひとしい 者」 ( 六・五 ) となし、したがって、われわれを新しい人の不る神の意欲と神たる存在において、神はわれわれに認識され、 、、わざ 愛されなければならないという、神の啓示である。神の子は 可視的自由と栄光とに引き入れる他ならぬ神のあの業におい 苦難を見のがすことはない。かれはそのように間うたり、そ てでなければどこだろうか。いまの苦難はイエス・キリスト においてすでに重要であったがゆえに、すなわち、それは時のように答えたりしない。それは、かれによって聞かれた神 間の中におけるわれわれの生を特徴づけるだけでなく、まさの問いと答えとがほかならぬそのようになっているからであ にそれによって、この生を限定する、いやそれどころか、みる。神の子は苦難の中で、すなわち、すべての人間的な問い ずからにおいてこれを廃棄する永遠の生を特徴づけるがゆえと答えとの根原において真理の声を聞く。かれは「あらゆる に、また、われわれの生き、また苦難を受ける時間がいまの事物において、希望のない根底までも見ようとする」 ( ニー 時間であり、まさしく苦難においてわれわれに明らかにされチェ ) 。それは、そこに希望があるからである。すなわち、 ・クルクス・ウニカ・スベス る栄光の時間であるがゆえこ、、 冫しまの時間の苦難は重要では ようこそ、十字架は私の唯一の希望である。「あなたが主イエ ないのである。神の栄光がまさに苦難の秘義の中で、そして ス・キリストの共同の相続人であり、かれの兄弟であり、か 8 ただそこにおいてのみ、どんなに明らかにされても、われわれとひとしくありたいと願って、かれと苦難をともにしたい 第 れは、神のために苦難を見ようとすることができないどころと願わなければ、かれはきっと裁きの日にあなたを自分の兄 か、神のために苦難を徹底的にまさに見なければならない 弟とも共同の相続人とも認めず、あなたのいばらの冠、十字 し、それを死から生への歩み、運動、方向転換と見、キリス架、釘、鞭はどこにあるのか、あなたもまた、キリスト自身

10. 世界の大思想33 バルト ローマ書講解

ののうちのあらゆるものである新しい世界を宣べ伝えるたて、本当にただその究極的な解決しえない問題の形において のみ与えられるのである。それは神自身の、神のみの義であ め、また、創造者と被造物とが別のものではなくて一体とな この点でる。この義そのものは、人間の究極的なありうる規定や人間 っている新しい創造を宣べ伝えるためである。 われわれはたえず、われわれは神の子の派遣について正しくの本質的罪性に圧倒的にまさったものとして対抗する。それ 語っているかどうかについて吟味したいものである。もし人ゆえ、それはそれ自身決して人間の被規定性、義、偉大さで はなく、決してなんらかの人間的考慮にびったりの事実では 間的な、どの可能な考察方法に対しても、ある特定の点で、 その特殊な、真の力強い躓きが与えられないから、われわれなく、決して人間的にみずからにおいて完成したなんらかの むしろわれわれから見 像に適合するような要因ではない は確かになにか他のことについて語ったのだろう。 なぜなら、神はその子を「罪のために」っかわしたからでれば、それはつねにすべての合理的で実用的に可能なものの 境界や周辺にある余計なもの、疑わしいもの、問題のあるも ある。それゆえに、神の言葉は、正しく語られる場合には、 あらゆる他の言葉に対してつねに少なくとも一馬身だけ先だのとしてのみ確認されるべきである。すなわち、確認しえな いものとして確認されるべきである。 っていなければならない。それゆえ、神の子の派遣は最もカ なぜなら、神はその子を「罪に支配された肉ーという比喩 づよい否定の形でのみいいかえられ、逆説としてのみ宣べ伝 ア・フスルドウム クレディビレ えられ、それ自身としては信ずべきものである不合理と理解の姿でつかわしたからである。それゆえ、天国のような清浄 されなければならない。それというのも、この派遣は罪に反さ、天国のような生を直接に伝達し制定することとしてこの 対する神の反作用だからである。この派遣がわれわれに与え派遣が行なわれるのではない。そのような派遣はありえな つます つます 。それはある必要もない。それはいうまでもなく「罪のた る躓きは、われわれの神に対する躓きの反映である。それ めに」行なわれる。もしそれが直接的に、神性をそのまま確 一は、われわれが人類、自然、歴史として知ることを逆転させ ることであり、それゆえに、どのような表象しうる体系の内認しうる形で行なわれるとすれば、それはそのあるがままの 部でも、その体系の出発点を否定するものとしてとらえられ姿、すなわち神的逆転、答え、義ではなくなるだろう。そう なるとそれは全人間領域と対立し、その領域を廃棄する神と るべきである。それはこの世に住むこの人間の、罪の支配に いう他者ではなくなって、この領域の内部で、ある第一のも 8 よって制約された、究極的な、解決しがたい問いに対する神 第 の答えである。それゆえ、それはこの世に住むこの人間にかのとならぶ、ある第一一のもの、すなわちこの領域のの味気 れ自身の答えという形において、究極前の、解決しうる問題ない現実の上に波頭のように高くそびえたイデオロギーや幻 想の一つとなるであろう。実はそれはこの領域に対してま として装われた答えという形において与えられるのではなく つます