事実 - みる会図書館


検索対象: 世界の大思想33 バルト ローマ書講解
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1. 世界の大思想33 バルト ローマ書講解

が、それでもともかくも可能な、起こりうる事例において成よる伝達は、人間と時間と事物の世界の中では、それと対照 立する。たとえば、一人の人間が他者のために死ぬとか、母的なあらゆる可能性とともに成立する。しかし、このような 親が子供を生むために生命をすてるとか、一人の男が仕事の死によっては、いかなる和解も成立しない。制約し・制約さ 冫し力なる自由な空間もっくり出されな 上の過労から死ぬとか、医者や宣教師がその務めのために生れるもののほかこ、、、 これやあれやの、大きなものや小さなもの、可能なもの 命をすてるとか、兵士が戦場で倒れるとかいう場合である。 いうまでもなく、イエスの死も、歴史上に大きな影響をのこや不可能なもの、われわれの生の内容にそうものと矛盾する ものの上に、「生」と「死」をも越えた彼岸に引かれた一線 した事件であり、精神的体験の対象 ( 「殉教しであって、こ のような一連の、直接的伝達の可能な自己犠牲の行為の一つ上に人間をしつかりと確定することもできない。ほんとう の善は、、かなる場合にも、直接的に伝達されうる生の価値 である。そして、自己の死によって、「生」から拒否されて ド冫し力なる場合にも、ま いる究極的な生の価値の伝達をうけとめうるとの期待は、沈ではありえず、人間としての人司よ、、、 黙の畏敬をもって考慮に入れておくべき、ありうる自殺の動ったく、このほんとうの善を自分のものとしうる状態にない し、またけっしてそれほどの善人ではないという状況の下で 機となることもあるだろう。しかし、このような現象におい も行なわれるような伝達は不可能である。しかしキリストの て、人間的な偉大さとしてわれわれにあらわれるすべてのも のに対していだく深い敬意が、死という出来事、自発的な死死において問題となっているのは、まさにこのような伝達な のである。「このような伝達は、神がわれわれを知っている という出来事もまた、その一つである人間の行為に、それが 本来もちえない意味を与える感傷になってしまってはならな との事実をわれわれに保証する以外に、いかなる神について これらすべてのものは、新しい人の基礎となる事実の比の報知 ( ーーーわれわれはどこで聞くのだろうかーー ) ももた 喩以上のものではありえない。なぜなら、それらのもののも らさない」 ( オーファベック ) 。この死によって「神はわれわ つ意味は、このような死によって実際に伝達される生の価値れに対する愛を示されたのである」。この死は、すべての生 明や、このような生の価値の伝達を実際にうけうる他者の能力の価値の徹底的な廃棄であると同時に、その総体であり基礎・ 夜 ( 自殺の場合には自分自身の能力 ) によって支配され、それづけでもある。われわれに対する神の絶対的な ( たんに相対・ 5 と一致するからである。このような死によって伝達される善的ではない ) 他者性であると同時に、神とわれわれとの、断 第 が、どこまでほんとうに善であるのか、またその善を伝達さち切ることのできない交わりでもある。神の怒りの究極的可 れる者が、どこまでその善から実際に益をうけうる善人であ能性の暴露であると同時に、神のあわれみの露呈でもある。 るのかは、、 つも問題である。したがって、このような死に神の問いの、もっとも鋭い、絶対に回避できない意味での

2. 世界の大思想33 バルト ローマ書講解

分を義としてもよいなら、その場合、私自身が罪人として裁かれ本質を真にあらわすものではないか。歴史の無意味がその隠 ているという事実をなにが説明するか。そしてまことに、ニ、 = 一れた意味を実証するなら、この意味そのものが必然的に無意 の者たちが中傷的な仕方てわれわれがいったと非難する「善をき 味となる。 たらせるために、われわれは悪をしようてはないか」という言葉 「人間の論理にしたがって」とは一見きわめて徹底的ではあ のようにはならない。そのようにいう人たちは、自分たちが断罪 るが、実はきわめて無批判的な、あまりにも直線的な、神を されていることを確証する。 ( 1 ) 〔原注〕・〈ンゲルはたしかに正当にも「かれは裁くであろう」〔れ 0 。 = 。。〕考慮にいれるという点で未熟な、粗野な思考にとって、実際 ・一六のように と読まず、七節の「私は裁く」〔ミ〕に対応して一一 に明白な推論を意味する。このような論理はまさにあらゆる 「かれは裁く」〔。。〕と読んでいる。現在形の「世界を裁く」はコリント 訓戒を無視して、しかもくりかえしくりかえし、その論理が 第一書六・二にもある。 並列させる所与性のみを考慮にいれるが、あらゆる所与性の この論理は、神が問題 前提である非所与を考慮にいれない。 「しかし、われわれの不服従が神の義を実証するとしたら、 となるとき、その論理はなにとかかわっているのかを見のが それでは神は怒りを下すという点でそれ自身不服従ではない のか」。神に選ばれた者の拒否の中で、神がはじめてまさしすが、それは真に人間的である。その論理は、神は事物のな く神たることを明らかにする優越性についてのたったいま得かのいかなる既知の事物でもないがゆえに、結果から原因へ た ( 三 ・一ーー・・四 ) 洞察はこの神の本質に本来的な光をなげの推理は神に対しては有効ではないということを見のがす。 かけるように見える。選ばれた者たちにおいても真理を拘東「いったい、どうして神がこの世を裁くようになるのか」。 ウアザッへ このような異議の意味において、われわれは神を究極原囚と し、かれらの拒否を起こさしめるものは、明らかに「不服 ザッへ 従」、すなわち勝手気ままな人間の自己追求 ( 一 ・一八 ) でして、この世の他の事柄に並列させ、これらの事柄から神を 推論しうるとすれば、対象的世界全体が明らかに究極的な危 ある。ところで人間の不服従が神の義を実証するとしたら、 その義とはどのようなものか。その義自身が「不服従」では機と問題性とにさらされているという事実はこの場合どうな っているだろうか。対象の思考なしにはいかなる対象もな 義ないのか。そのとき、神自身が勝手気ままで主人公となるの 。われわれが対象において確認するいかなる特徴も、この 神ではないのか、その冒漬性という点でまさしく恐るべき最高 新の自我ではないのか。そのとき神の怒り、神ならぬ神の支配特徴の概念をわれわれに手渡す先立 0 た知識がなければ存在 三 (l) 神自身に不しない。したがって、もし神がこの世の対象であるなら、こ 第に対するわれわれの献身は ( 一・ 利な証言をするのではないか。そのときこの世と人間の状態のようなすぐれた予備的知識から生じたのでないような ( 「勝 は、測りしられぬ気まぐれな暴君である神のもっとも内的な手」、「暴君」という ) 神についてのいかなる叙述も存在しな

3. 世界の大思想33 バルト ローマ書講解

神の想起は、つねに問いまたは警告としてわれわれに伴って っ空しさと全面的な疑わしさは、開かれた教科書としていっ いる。神は隠されている深淵であるが、われわれのすべてのもわれわれの目の前にある。まったく謎冫 こみちた神の「業」 行程のはじめとおわりにある隠された故郷でもある。われわ ( たとえば動物園の動物を見よ ! ) はいったいなんであるか。 れが神に対して不真実であるならば、われわれは、われわれ直接的な答えのない、神のみが、神自身のみが答えであるよ 自身に対して不真実となる。 うな純粋な問いのみの問い以外のなにであろうか。われわれ というのは、神の「不可視性は認められうる」からであの制限をわれわれにさし示し、それによってわれわれの制限 る。われわれは、それを忘れたのである。われわれはもう一 を越えたところをわれわれにさし示す神の裔は、「世界の創 度それをい「てもらわなければならない。神に対するわれ造このかた」かれの業において「理性によ 0 て認められ」る われの図々しさ、無思慮、大胆さがそれほど当然のことにな ことができ、冷静な、事態に即した、宗教的偏見をもたない っているのは、神とわれわれとの間の、事物の必然的状態で考察によ「て確認され、把握されることもできる。神の観念 はない。。フラトンの知恵は、すでにずっと以前から、すべて がわれわれを救いに満ちあふれた危機の中におくことには、 与えられたものの根原として、与えられないものを認識しわれわれ自身がそれを妨げないかぎり、なんの妨げもない。 た。もっとも冷静な人生の知恵は、すでにずっと以前から、 われわれが「理性によって認め」ようとしさえすれば、われ 主を恐れることは知ることのはじまりだと主張した〔→言 われはこの危機の中に立っている。そして「理性による認 照〕。ョ・フ記の作者や伝道の書の記者ソ。モンの目のような知」にと 0 て、つねに議論の余地のない事実であること、す 開かれた公正な目は、すでにず 0 と以前から、肉眼の鏡の中なわち神の不可視性こそが、まさに復活の音ずれと一致し に、その原型、不可視的なもの、神のはかり知りえない高さて、神の「永遠の力と神性」なのである。まさにそれこそ を再発見した。いつも、主の語りかけは、嵐の中から聞きと が、神の永遠の力と神性なのである。われわれが神について ることができる。いつも、主の語りかけが要求しているの はなに一つ知りえないこと、われわれが神でないこと、主は は、われわれが神の讃美者、または告発者として、われわれおそれかしこむべきであること、これがすべての神々に対す の同輩とのあいだに訴訟をおこすように、神とのあいだに訴る神の優越点である。これが神を神として、創造者、救済者 訟をおこす場合、われわれは、自分たちにはあまりに高すぎ として特徴づける点である ( 一 ・一六 ) 。時と永遠、現在の ること、自分たちの知らないことを愚かにも語 0 ているのだ世界と未来の世界の断絶線は ( 一・四 ) 、事実全歴史をつら ダア・ザイン ゾオ・ザイン という事実を知ることである。われわれの存在とその在り方ぬいて走っている。それは、「あらかじめ約東されたもの」 のもっ問題性、存在するものとわれわれの実態のすべてのも ( 一 ・ (l) である。それはいつも見られうるはずである。神 リッヒ わぎ

4. 世界の大思想33 バルト ローマ書講解

182 ・フテスマを受けた者てあるわれわれはかれの死にあるパ・フテスマ内容のない ( 敬虔は決して内容ではないのだ ) 「教会の儀式」 を受けたことに気がっかないのか。われわれはいまやかれととも に発散させることによってであれ、われわれがありとあらゆ に死のパ。フテスマによって葬られた。それはキリストが父の栄光 るかたちでしるしにおいてなさるべき宗教体験 ( 「ハ。フテスマ によって死人からよみがえらされたように、われわれもまた生の 体験」 ) の中にそれを求めたりすることによってであれ、われ 新しさのうちを歩くためてもある。なぜなら、われわれがかれの われが直接神秘的・魔術的伝達力をしるしに帰したり、生の 死の、すなわちわれわれの死の比喩のかたちてかれと似るなら、 混沌の中にあって、キリスト教的神話によって支えられ、 われわれは復活においてもまた同様似るてあろう。 っそう合理的にそれを深い意味づけ ( 「象徴しと認定評価し 「キリスト・イエスにある・ハプテスマを受けた者であるわれ ても同じである。生に対する神の彼岸的意味づけを指示し、 われ」。われわれはわれわれの考察の行きついたところで、 われわれの神認識の可視的・時間的出発点を形成する・ ( プテそれを立証するしるしとして、神の言葉 ( たんなるキリスト スマという「しるし」 ( 四・一一 ) を想起する。したがって教的神話のみでなく ) を宣べ伝えるしるしとしてバ。フテスマ は現にあるところのもの、すなわち真理の保持者、聖所、聖 宗教現象界の一事実を想起する。なぜそれはいけないのか。 ここで問題となる罪もまた、もちろん意識的、自発的に神礼典である。・ ( 。フテスマはその重要さという点では、自己の の栄光を傷つける可視的事実である。そして現象界の事実と事物性のかなたを指示するものとして新しい創造の媒介、永 遠の実在を意味するだけでなく、それはそのようなものであ して、「キリスト・イエスにおける救い」 ( 三・二四 ) もまた り、それは恵みではないが、徹底的に恵みの媒介である。神 もちろんあらわれた。その歴史性は ( 「信ずるすべての人た に向けられた間いが、つねに神の答えを包なように、また人・ ・二二前半 ) その永遠の内容の実存性を指示する ものである。まさにその逆説的な一回性におけるパ。フテスマ 間の信仰が神の真実を不可視的に包むように、・ハ。フテスマと もまたこの意味で「しるし」である。しるしはしるしであっ いう人間の業もまたパプテスマによって宣べ伝えられた人間 て、それ以上のものではないということをわれわれは知って に対する神の行為を包む。・ ( 。フテスマがわれわれにとってそ いる。しかしなぜそれがわれわれになにも示さないはずはな ういうものを意味し、また事実そうであるとすれば、なぜわ いというのか。「しるしはわれわれ自身の忘恩と悪とが神のれわれは、時間的また事物的世界にいるわれわれがまずそこ 真理の発現をさまたげるときには空虚で影響力をもたない」 から出発する要塞であってならないのか。 ハ。フテスマは ( カルヴァン ) 、すなわち、われわれが真理をなにかある種の 「入会式」としては決してキリスト教の独創的な創造物では 物的所与性と同一視することによってわれわれが真理をその なく、「ヘレニズム的財産ーであるが、この事実もまた、わ 真理から、うばいとるときである。たとえわれわれが真理をれわれがつねに語り、ここにおいてもまた語ろうと欲するこ こんとん わざ

5. 世界の大思想33 バルト ローマ書講解

128 一五節なぜなら信仰は別とした律法は、人間に約東ではなくて、 なぜなら、神の怒りをひき起こさずにはいないもの、それは、 神の怒りをもたらすからてある。しかし律法が決定的でないかぎまさしくそのいわゆる実在価値のうちに、その絶対性の要求 、人間の違反もまた存在しない。 のうちに、その不遜な神と似た姿のうちにある。すなわち 八 ) である。すべての宗教は、そ 「律法は怒りをもたらす」。したがってわれわれは、律法自「不敬虔と不服従ー ( 一・ 体、すなわち信仰を度外視した律法は、人間が神の国を相続れが此岸的、歴史的、時間的、可視的現実であるかぎり、こ の法則に支配される。真の、誠実な、深い宗教であっても、 するのをまさに妨害すると考えるのか。然り、まさにそのよ うにわれわれは考える。確かに、律法も信仰を度外視してそアプラ ( ムや預言者の宗教であっても、ローマ書の宗教であ れ自身の積極性をもつ。律法は証言としても、自分自身を越っても、当然のことながらローマ書に関するあらゆる注解書 の宗教もみなそうである。永遠なるものを時間的に体験し、 えたところの指示としてもまったく理解されえない。確かに しいあらわし、主張しようと企てる者は律法を 律法は精神的・歴史的事件と状態としてその内在的重力と意考え、論じ、 語る。また律法を語る者は、違反をも語る。手を合わせ、神 義とをもつ。確かに人間の体験はつねにそれ自身の光となっ て輝く。しかしわれわれは、信仰のこの世界内的性質が決定の近くにいるとおもう感情、神の事柄について語りまた書く こと、説教、神殿建設、究極の動機にもとづく活動、より高 的であるとするなら、それが意味していることについておも い違いをしてはならないだろう。われわれは時間的事物とそ次の使命とより高次の音ずれが存在するとき、まさにそのよ ゆる の永遠の根原との関係を無視することによって、その事物をうなときに、もし罪の赦しの奇蹟があらわれず、主をおそ 、二三 ) 、罪な もっとも破壊的な、真に救いがたい懐疑の光の中におとしこれる恐れが距離を保証しないなら ( 一 な。律法が人間に約東をもたらすという主張は、あらゆる可しには済まない ( 五・一一〇 ) 。なぜなら、いかなる人間のふ 視的なものは約東と一致しないという事実に必然的に挫折するまいもそれ自体、まさにこの宗教的ふるまい以上に疑問 る。約東と一致しないもの、この世における神の歴史的・精で、疑わしく、危険なものはないからである。いかなる企て 神的啓示の刻印だけがつねに可視的である。しかしこの世に もこの企て以上に鋭くその企てる者を裁かない。もっとも粗 あるものもまたこの世の方式にゆだねられている。それは人野な悪霊論からもっとも洗練された唯心論にいたるまでの、 もっとも誠実に啓蒙された状態からもっともうるおい多い形 間にまさしく約東、すなわちア・フラハムの子たる身分をもた らさない。なるほどそうだが、もしそれがなんといっても証而上学にいたるまでの神崇拝のまったく多くの現象形態は、 言の価値という点においてではなく、むしろそのいわゆる実神の前には高慢の疑いを受け、人間の前には、きわめて当然 のことながら幻想と疑われ、上も下も最高の疑惑のもやにと 在価値において理解されるべきなら、神の怒りをもたらす。

6. 世界の大思想33 バルト ローマ書講解

史的ー一出来事ではなくて、これらの他の出来事をその限界そのものとのあいだに成立するとするなら、したがってなん として取り囲む「非歴史的」出来事、すなわち復活節の前後らかの意味で復活がそれ自身歴史の一事実であるとするな ら、いかなるきわめて強力な断言も、いかなる洗練された熟 の、また当日の出来事が指摘する出来事である。もしそれ自 身が「歴史的ー ( 心理的、自然的、あるいは超自然的 ) 出来慮も、歴史的平面をいいあらわす然りと発との、生と死と 事であるなら、もしそれが、あの平面上に、すなわちあらゆの、神と人間とのぶらんこ遊びに復活もまた巻き込まれてい る多かれ少なかれ「信仰深い」堅固さ、屁理屈とならんで霊るように見えるのをどうすることもできない。な。せなら、い 的また人知論的可能性の他にやはり仮死説、欺瞞説、客観的かなる存在も出来事も、よしどんなにか目だっ革新も、よし また主観的幻想説が、論議されなければならないようなあのどんなにか例のない体験も、よしどんなにか異常な奇蹟もこ 平面上の一出来事であるなら、ここでイエスの不可視的な死の天の下にあって、またこの地上にあって大きいものも小さ いものもならべて見、入れ交えて考慮する相対主義から守ら の道の逆転というかたちで、十字架につけられた者の不可視 的な対抗を立てるというかたちであらわれ、発言するのは、 れてはいないからである。もしそうだとすれば復活はすべて 明らかに神自身、神のみではないだろう。そのようになれば の歴史的事物の遠くにあるもの、不明確なもの、誤謬、根本 復活はかくかくと解釈されて、イエスが死んであとに残した的問題性とかかわりをもっことになるであろう。もしそうだ ・一連の人間的可能性を一つ増し加えることになるだろう。そとすれば個々の人間の魂に刻まれる、復活から出た刻印に対 うなれば、イエスは、生の意味が充実されるために、またあしては復活のなおはるかに明確な抹殺と歪曲が対立し、復活 らゆる可視的な心理、自然、超自然がその前ではちりであに起因する社会学的影響に対してはなおはるかに物をいう 川り天にすぎない、未知の神に、すなわち光の中に住み、だれ「キリスト教的」無力と悪化とが対立し、その純粋最高の光 8 も近づきえない神に、当然神に帰すべき従順とふさわしき栄線にはおそらくなおいっそう強力な他の光と力とをもっ光 光が帰せられるためにイエスはもう一度死ななければならな線が対立するであろう ( オーファベックを参照せよ ) 。もし みいであろう。歴史において可能であり、ありそうなことであそうだとすれば、一万五千年のあの人類史に対する、すなわ り、必然的であり、あるいは現実的であるもの、それは過ぎち「ほんの僅かの極点の移動の結果である、過去の氷河時代 6 去るもの、死減すべきもの、死ぬべきものであり、それを支またおそらくは再来する氷河時代に対する、偉大な文化体系 第 配するのは死である。万一直接的、無媒介的連続性が復活史の興隆、衰微に対する」 ( トレルチ ) 思想はそれと、そのよ うな思想に元来ふさわしい評価と意義とを獲得し、神の事物 の「歴史的ー事実 ( したがって、例えば、共観福音書の空な る墓やコリント第一書一五章の「キリストの出現しと復活へのかかわりを獲得するであろう。しかもたんにその思想だ

7. 世界の大思想33 バルト ローマ書講解

る。その必然性がわれわれに意識されないかぎり、われわれ神ならぬ神 ( 一・一七 ) に「神」の名を与えることを避けよ の制限であり、無常である。われわれがうける裁きは、それうとしはじめるならば、それは洞察をもっていることのあら に対するわれわれの態度とはまったく無関係に、まさに事実われである。しかしわれわれが復活の信仰なしに「神」と名 である。この裁きは、われわれの生にとってもっとも特徴的づけるものもまた、神の怒りの一つの究極的帰結である。神 ゾオ・ザイン な事実である。この事実がきたるべき世界と、それがもたらの名との矛盾対立において、この世界の存在とその在り方を す救いの光の下にあらわれるかどうかは、信仰の問題に対す肯定する神もまた神ではあるが、怒りにおける神であり、わ るわれわれの答え方にかかっている。われわれが信仰のかわれわれのために苦痛を背負う神であり、かろうじてわれわれ りに躓きを選んだとしても ( 一 ・一六 ) 、この事実は、事実で から顔をそむけ、かろうじて否をいうことのできる神である ある。永遠からみれば時間は無であること、その根原と究極 まさにそのゆえに、すべての正直な人は、保留つきでし とからみれば、すべての事物は仮象であること、われわれが かないが神と名づけた。たしかに、神の怒りはかれの最後の 罪人であること、われわれが死なねばならないこと、これら言葉ではありえず、かれの真の開示ではありえない。神なら すべてのことは、障壁がわれわれの脱出口とならなくとも、 ぬ神は、真剣な意味では神とはいいえない。しかし実際のと 事実存在する。生はその疑わしさの全体をともな 0 たままそころ、われわれが出会うものは、なお神なのである。不信仰 の道を進み、われわれに付けられた大きな疑問符を見なくてもまた神に出会う。たた不信仰は、それにとって隠されてい も、われわれは生と歩みをともにする。人間は、救いについ る神の真理に出会うまで突破しえず、したがってパロのよう てなにひとっ知らなくとも、破減したものである。その場合 に ( 九・一五ーーー一八 ) 、神に打ち砕かれるだけである。「神 めには、障壁はどこまでも障壁であって脱出口となることはな によってつくられた生命の阻害と破壊、死の運命という括弧 。囚人はどこまでも囚人であって、看守となることはなでくくられた被造物の生命が全体としてもつもろさと制限 。その場合には、待望は喜びではなく、避けられないこと は、神の反作用である」 ( ッュンデル ) 。ただもちろんのこと への、あまにがい忍従である。そこでは、矛盾は、希望では であるが、われわれがこの神の反作用を自分自身の認識とし 言 序なく、苦しみにみちた抵抗である。そこでは、われわれの存て理解しないかぎり、その神の反作用においてわれわれは減 章在の稔りある逆説は、そのかくれた虫食いあとである。そこ び去るよりほかはない。全世界が神の痕跡をとどめている。 つまず 第では、否定は、われわれが普通そうよんでいるものーーその ただもちろんのことであるが、われわれが信仰のかわりに躓 ものである。そこでは、聖なる神のかわりに、運命、質料、 きを選ぶかぎり、全世界は、その絶対的な謎めいた姿におい アナンケー 全存在、偶然、必然があらわれる。われわれが不信仰によるて、神の怒りという唯一の痕跡をとどめるだけである。不信 ダア・ザイン

8. 世界の大思想33 バルト ローマ書講解

説教も病人のいやしも、かれの神への信頼も兄弟愛も、かれ望む者としても認識され、小にして大、重要であって重要で の悔改めの呼びかけも赦しの音すれも、伝統的宗教に対すなく、過ぎ行くものであって、過ぎ行かぬものとして認識さ るかれの闘争も持物をすてて従えとの要求も、かれの福音のれ、これらの対照の、これらの然りと否との来たるべき一球 ス・フ・スペャ 社会的側面も個人的側面も、またその直接的側面も終末論的において認識される。この一致は、不可視的な神と、死の相・ エ・モルティス これらすべての の下では可視的なものとなる神の一致 ( 三・三〇 ) 以外のな 側面も、それとならぶものとはなりえない。 にものでもない。 この認識によって、この認識を通じて、新 . もののどれ一つにしても、自分自身の光で輝くものはない。 しい人は生きる。かれは、われわれの生の死としてのみわれ これらすべてのものは、キリストの死からさしくる光そのも のの中で輝くのである。どんな場合でも、十字架なしで理解われに見えるものとなりうる生そのものによって生きる。こ・ できるようなところは、共観福音書には一行もない。神の国の見えない生がキリストの死において見えるものとなるかぎ りにおいて、かれはキリストの死によって生きる。 は、まさに十字架の彼岸にはじまる国であり、したがって、 キリストは、「われわれのために死んで下さった」。「われ 「宗教ーや「生」、保守主義と急進主義、自然学または形而上 学、道徳または超道徳、この世の歓喜か苦痛、人間愛か人間侮われのために」というのは、この死がわれわれの死の認識原・ 理であるかぎりにおいてであり、この死において不可視的な 蔑、能動的または受動的な生活形態などとして、すなわち、 これやあの、しかじかのものとして理解されるべき人間のあ神がわれわれにとって可視的なものとなるかぎりにおいてで らゆる可能性の彼岸にある。イエスの歩みは、本質的にいえあり、この死が、神との和解の成立する場所 ( 三・二五、五 ? ば、これらすべての可能性を無視して通りすぎて行くことで九 ) 、創造者にそむいた被造物であるわれわれが、愛しつつ ふたたびかれのもとに帰るであろうその場所であるかぎりに , 一ある。それは、根本的にいえば、もっとも包括的な意味で、 ポジチオンネガチオン 死を除いたすべての可能な肯定と否定、すべての定立と反定おいてであり、この死において神の義の逆説 ( 神の怒りに . 立、すべての静止するものと動くものからの離反と転出であみちた聖さと無罪を宣告するあわれみとの同一性 ) がわれわ 明り、死の観点からすれば前衛におかれている人間的事物かられにとって真理となるかぎりにおいてである。したがって、 夜 の離脱である。この離反と転出と離脱によ 0 て、イ = スの生新しい人の基礎となるこの事実は、人間のすべての生の内容 章 涯は輝き、その反照の中で、人間的事物も輝くのである。そに対して、原則的な優位と優先をもって対立する。この事実 第 は、けっしてわれわれの生の内容となることはなかったし、 れらの事物は、その相対性において認識されるのであるが、 またその関係の豊富さにおいても認識され、神によってつく今後もけっしてならないであろう。というのは、この事実 られたものとして認識されるが、また救済者である神を待ちは、その本質において、すべての生の内容の危機的否定だか

9. 世界の大思想33 バルト ローマ書講解

見のがしたり、聞きのがしたりできなくなるということ、そ 「同じものは同じものによって」そしてーー・・同じものは同じ れが「歴史の効用」であるかもしれないーーすなわち、最ものに対して。現在の聞く耳がなければ過去の語る・ロはな わざ 初に、なによりもまず、あらゆる「批判」に原理的に先だっ い。創世記の知恵の業はもちろん取り消されるかもしれず、 て、危機のなかに、死にいたる病の中に見いだされるあの歴創世記の上に輝く上方からの光はふたたびくらくされるかも 史の効用である。歴史は理解することによって見、宣べ伝えしれず、時間の継続、諸関係の並置、それ自体で現実的な、 ることによって理解する。それは歴史を書くことによって おそらくは興味深い沈黙の歴史の充実を再現する歴史上の人 歴史を見、歴史をつくることによって歴史を書く。それは歴物のさまざまな者の多様性、ペドウイン族の族長ア・フラハム 史がみずからの認識によってそれを開くことによってはじめ は無限の空間的な時間的な遠方の異質のところにおしやられ て資料となる「資料」からその認識を汲み出す。創世記の歴るかもしれない。それからまず同時的なものの自己対話が中 史はこのような種類のものである。それは聞いたり、語った断する。現在が明らかに過去のうちに自分にふさわしい相手 りする歴史である。それは完全に同時性に満ち満ちている。 を見つけなかったーーーあるいはその逆でもなかったからであ 創世記の歴史自身、耳と唇を開く危機のなかでとらえられる る。なぜ見つけなかったのか。たんなる分析もまた、少なく がゆえにそれは聞きえ、語りうる。それ自身が上方からの光とも大きな精神貧困の時代においては一つの道である。いっ のうちに立つがゆえに、その光を見、それを拡げる。それかはもちろんその分析もまた自己の限界に達し、たとえば、 は「非歴史的ー歴史を差し出すーー確かにすべての歴史的な アプラハムの人格は 非歴史的であるということを確認せ 事実の本質と内容としての非歴史的な事実がその歴史にとっ ざるをえなくなるだろう。そしてその分析そのものがまた、 創世記が出発した総合の断固たる必然性に直面する。結局わ て重要であるためであり、それ自身が非歴史的な事実から、 非歴史的な事実をめざして生き、一切の歴史的な事実をただれわれは創世記の歴史とは違う異種の歴史、たんに分析的な その非歴史的終極と出発点の証言として知り、差し出そうと歴史をおしすすめる可能性をまったくもたない。そしてあら かじめそのことを覚えておく方がよいだろう。確かにわれわ するためである。それゆえにそれはアプラハムについて「か れとだけでなく、われわれにもかかわる」ことをわれわれにれは過去と現在における同時的なものの自己対話にまきこま 語る。 れている。創世記はたとえわれわれのそれについての意識が 「われわれの主なるイエスを死人の中からよみがえらせた 非常に弱くても、たしかにわれわれにア・フラハムについて、 者を信するわれわれのために かれはわれわれの堕落のたわれわれとかかわっていることを語り、たとえわれわれのそ めに棄てられ、われわれの義認のためによみがえらされた」。 のような人物を見る見方が創世記のそれとは非常に違うもの

10. 世界の大思想33 バルト ローマ書講解

の国のうちにある。一切のたんに事実的なものがその徹底し れは、イエス・キリストにおいて信ずるすべての人たちに、神り 真実によって与えられる神の義てある。 た不確かさの証言であるかぎり、それはあらゆる事実的なも ダア・ザイン ゾオ・ザイン ののうちにある永遠の内容である。一切の存在とその在り方「しかしいまや」。われわれは時間と事物と人間との世界を は、その存在していないということが認識されるかぎりで存包括的に、拒むことのできないかたちで廃棄することのまえ 在にあずかる。そして裁く者なる神へのまなざしこそが、こ に、究極まで進む、徹底した危機のまえに、あらゆる存在 ことそちらの間の唯一の積極的な関係を示す。神と世界のあを、その圧倒的な非存在によって巻き込むことのまえに立 いだの根本的なへだたりを認識するとき、この世にとって神 っている。世界は世界である。われわれはすでに ( 一・ の唯一の可能な臨在があるということがあらわれる。なぜな 三・二〇 ) それがなにを意味しているかを知った。し らこの根本的な、一切を包括する危機の光にてらして見る かしこの危機はどこからくるのか。危機感もまた、すなわち と、神は神として、その尊厳のままに理解されるからであ危機を目にとらえる能力だけでもどこからくるのか。世界を る。 これが = ダヤ人のとりえであり、割礼の価値であ世界と呼び、世界そのものを未知者の他者に対立させて局限 る。未知の神として神は認識される。すなわち神にそむく者する能力はどこからくるのか。時間を時間と呼び、事物を事・ を義と宣し ( 四・五 ) 、死人をよみがえらせ、存在しないも物と呼び、人間を人間と呼ぶ、しかも不可避的な「だけ , と のを存在するものとみなす ( 四・一七 ) 者と認識され、希望 いう言葉でそれをとらえる可能性はどこからくるのか。あら もないのに希望して信ずるより他ない ( 四・一八 ) 者と認識ゆる存在と出来事とを評価し、そしてーー・・事物性、制約性、 される。もし「 = ダヤ人」がこの特殊な可能性を実現するな相対性という強固な思想で軽視する可能性はどこからくるの ) ら、もしかれが自分の置かれている二つの世界の境界をその か。この批判的思想はいかなるすぐれた高所からくるのか。 ものとして認識するなら、かれはたえず自分のとりえを喜んわれわれがそれによ 0 て一切を測る究極的な未知の事物につ でもよい。しかしこの実現、認識はそれ自身すでにわれわれ いてのわれわれの知識は、われわれは見ないけれどわれわれ に知られた可能性の彼岸にある。それは可能的になりつつあを裁くわれわれの裁く者についての衝撃的な知識はいかなる る不可能性である。 深みから生ずるのか。これらすべての「どこから」は明らか に放射的に、われわれが由来した一点に、すなわちわれわれ イエス ( 三・ が出発した前提にさしもどす。そこからわれわれはやってき 一三節前半しかしいまや、律法とは別に、律法と預 = 日ており、そこから世界は見られ、局限され、廃棄され、巻き 者たちによってあかしされた神の義があらわされた。すなわちそ込まれ、裁かれる。しかしこの点は他の点とならんだいか