彼岸 - みる会図書館


検索対象: 世界の大思想33 バルト ローマ書講解
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1. 世界の大思想33 バルト ローマ書講解

能性のあいだにはあくまでもただ「マイナスかけるマイナス るということ ( 四・一 ) 、それはまたしても肉において、可 視的なものにおいてではなく、むしろかれは神の前にわれわはプラスである」という不可能性だけが存在しつづける。す なわちそれは両方の否定の相互的関係、その両方の意味とカ れすべての者の父であるという不可視的なものにおいて確認 として一方を他方によって廃棄すること、すなわちそのすぐ され、実現される。 れた根原的肯定である。「死者ーが生かされるためには「生 「死者を生かし、無きものをあるものとみなすー神の前に。 これによ 0 て歴史の認識原理とそれを生み出す力としての信者、が死ななければならない。無きものがあるものとみなさ 仰は、神話と神秘主義とのあらゆる背後世界性の前に区別されうるためには、「あるもの、は無きものと認められなけれ これが認識の不可能性であり、復活の不可能性 ばならない。 れる。信仰にとっては此岸を「より内なる」世界やある はまた「より高度の」世界の彼岸によって高め、深め、豊であり、「此岸」と「彼岸」とが一つとなる、創造者にして救 い主である神の不可能性である。まさにこの不可能性に対す かにすることのどれかが問題なのでもなく、われわれの生と る関係こそがア・フラハムの信仰であり、この信仰はそれゆえ 生存という所与の状態を宇宙的・形而上学的に一一倍にし、三 倍、七倍にすることのどれかが問題なのではなく、移行しなそれ自身あの不可能なまた非歴史的なこととして ( しかも同 いがゆえに、究極で唯一の対照が、すなわち死に対する生時にひとり可能にし、歴史を基礎づけるものとして ) 、。フラ トン哲学の周辺に、グルュネヴァルトとドストエフスキーの の、生に対する死の、無きものに対するあるものの、あるも 芸術の周辺に、ルターの宗教の周辺にあらわれたように、完 のに対する無きものの対照が問題である。彼岸的生と死とは 信仰にと 0 ては、此岸的生と存在からはただ死と非存在と呼全に不可視的な姿をと 0 て創世記史の周辺にあらわれる ( こ びうるにすぎす、また此岸的生と存在は彼岸的生と存在からの歴史の内部ではつねにただ危機として、それゆえ神話や神 秘主義の形であらわされる ) 。認識、復活、神は、いかなる この批判的線とい いはただ死と非存在と呼びうるにすぎない。 声う上方からの光に照らしてわれわれはアブラ ( ムという人物偶然的、条件づきのこことむこうとの対立に結びつけられた 史像を見た。一」こからそちらへの移行、展開、上昇、いやそれ否定でもなくて、純粋の否定であり、それゆえ「此岸」と どころかここからそちらへの建設は根本的にありえない。な「彼岸」の彼岸、此岸にとっては彼岸を、彼岸にとっては此 章 ぜならこのような運動をこちら側で始めることは「むこう」岸を意味する否定の否定、われわれの死の死、われわれの非 第 からすれば死と非存在を意味しうるだけである。そしてこの存在の非存在である。神は「生かす」。神は「呼びかける」、 ような運動をむこうで終えることはこちらから見れば死であそしてーー「それらのものはみな神において生きる」。まさ り非存在であるに他ならない。 この二つの純粋に否定的な可にこの神とこの神にあっての一切の事物の逆転 ( 「私は新し

2. 世界の大思想33 バルト ローマ書講解

210 の下だ。恵みはあなたがたの死ぬべきからだに宿る罪の廃棄ついた指示も、われわれの此岸的生、「肢体」の生、すなわ ち時間と事物と人間のこの世におけるわれわれの生がさらさ である。人間の肢体は恵みの用いるにまかせられ、罪の用い るにまかせられるのではない。恵みは死ぬべき人間の規定でれている要求、攻撃、危機をとめることはできない あって罪がそうなのではない。恵みにおいて神は人間の味方え神がわれわれに対して恵み深くても。なぜならもし神がわ をするのであって、罪においてではない。恵みとは、神が人れわれに対して恵み深ければ、それは、あのよりよき彼岸に よって、それが明々白々に存在しないことによって、またそ 間の実存をその総体のまま自分のものと考慮し、要求するこ とを意味する。恵みとは l, 人の不可分な人間に対する神の支れが明々白々に近づき、戸をたたき、侵入してくることによ 配権である。恵みとはその存在とその在り方の全領域におけってわれわれの此岸そのものが疑間とされることだからであ る個体の真理である。それはまさしく恵みが人間の徹底的危る。そして同様に、悪しき此岸のいかなる運命的信用失墜も 機であるからであり、また危機であることによって真理でああの危機の前にわれわれを平安にすることができない とえ神がわれわれに対して恵み深くても。なぜならもし神が る。恵みは静まることができず、静止することができない。 たとえわれわれに対して恵み深ければ、このことは、われわれがこ 恵みは沈黙することも、断念することもできない の悪い此岸においてはもはや自分を見いだすことができず、 不可視的なものを可視的なものから、無限を有限から分ける もはやそれに没入することができず、むしろそれとの根本的 鉄の障壁に直面しても。恵みは可視的な生を罪にゆだねて、 な矛盾の中におかれているということ、まさしくそのたんな 「他の」「彼岸的な」、不可視的な義という生に満足すること はできない。まさしくそのようなことはない。 もちろんそれる此岸性、その純粋な否定性がわれわれにとって意識的危急 は、恵みと罪の二元論を廃棄することによってまさしく恵みとも約東ともなり、われわれの欠乏の認識ともわれわれの が恵みであると証明されざるをえない、恵みと罪の二元論で希望の認識ともなるということである。神はわれわれに対し あろう。まさに可視的な生を恵みが攻撃し、それが義に降服て恵み深いということ、それはすなわち、「彼岸」がわれわ するように求める。まさしく人間の「肢体」こそ義の用いるれの此岸とかかわり、われわれの此岸はこの「彼岸」とかか にまかせられなければならない。なぜなら「この可死的なもわりをもたされることであり、これとともに一方を他方から のが不死性を着る」ということ、まさにそれが恵みを受けたひき離すことをわれわれが認めないようにすることである。 フートウルム・レスルレクティオニス 人間の復活の未来の内容、言述であるから。われわれ不可視的真理である恵みはとりもなおさず、不可能なものの の具体的な生の内容の罪の規定性が所与として対立する恵み可能性をもって、日の終わるまで罪に規定された存在と出来 は恵みではないだろう。よりよい彼岸に対するいかなる落ち事、可視性の意欲と実現を手さぐりせずにはいられない。恵

3. 世界の大思想33 バルト ローマ書講解

なる動機もない。それもおそらくわれわれがかってもってい に、かれが神に提示しなければならないもの、神によって永 た、またもつであろう刻印とはまったく他なる神の刻印がと遠の生命をもって「報い」られる ( 一一・六 ) ものが存在す つくに存在しているときにはそうである。「かれらは自分自 る。おそらく、それでもなお宗教性 ( たとえば無意識的な、 身が律法である」。たとえ宗教と体験が問題となるとしても 非教会的なそれ ) と見なされるべきであるようなものはほん それが問題なのではないーー神は「異邦人」にそれをも とうにまったくなにも存在しない。おそらくほんとうに ( ド 与えることができ、またそれをかれらに与えるのである。 ストエフスキー ! ) わすかに最後の段階にいるはだかの人間 が存在するだけだろう。おそらくわずかに唯一の大きな危 「このような人たちは、律法によって要求された行為を提示 急、困窮、欠乏が存在するだけだろう。おそらく死の瞬間に する」。かれらは神の裁きを受ける。かれらは現に裁かれてい ダア・ザイン ゾオ・ザ も、わすかに秘義に対する恐れ、われわれの存在とその在り るーーそして人間を神の前に義とするものがかれらのうちに あらわれる。どのていどあらわれるのか。どんなに積極的に方の必然性に対する憤激した反抗、抗議してこの場所を去る 「このていど」といっても、義とされた「異邦人ーが神に対し者の怒った沈黙が存在するたけであろう。おそらくもちろん て提示し、自分がそのために神の満足をえる「行為」に対しそれ以上に、もっとすぐれた、もっと美しいものがあるかも しかしそれが問題なのではない。しかし天にお てそれはあてはまらないであろう。人間の義がかれに対してしれない いては悔改めを必要としない九十九人の義人にもまして悔改 判決を下さなければならないとすれば、かれは疑いもなく破 めをなす一人の罪人に対して喜びがある。悔改めとはなに 減するであろう。いずれにもせよ人間の義がせいぜいかれの のところに見いだすであろうところのものはまた、かれを神のか。神に対する人間の義の最後、最高の、もっともすぐれた 前に義とするものではない。神のよろこぶ「行為」はむしろ行為ではなくて、人間に対する神の義の最初の基礎的行為で 終極に、すなわちかれが見いだすあらゆる人間の義の完全なある。すなわちそれが神が「かれらの心に書きしるした」 わざ 終極に、その疑いもなく見棄てられた状態で、あらゆる宗教「業」であり、それが神から出たものであって人間から出た 義 わざ 的な道徳的幻を断念して、この天地間にある、あらゆる希望ものではないがゆえに、天に喜びを起こす業であり、神へ 人を拒絶するとき成り立つだろう。彼岸に、あらゆる可視性との、神そのものへの眺望、しかも神から、神自身からのみ見 章事物性の彼岸に、律法をもつ人たちがかれになお認める一切られる眺望にすぎないのである。 第のもの ( 「よい核心」、「ある特定の理想主義」、「宗教的素質」 ) 「そのさいかれらの良心とかれら相互に訴えあったり、弁解 の彼岸にーー中央ヨーロッパ人が評価する一切のもの ( 「態 しあったりするおもいとがその証人となるのである」。なぜ 度」、「成熟」、「人種」、「人格」、「内面性」、「性格しの彼岸なら、律法にそむき、神にそむく者たちのなかでも語る良心

4. 世界の大思想33 バルト ローマ書講解

194 けではないのだ。なぜならこの世から、歴史から受ける「キれが驚くべき超自然的存在の可能性であろうとも ) をまさに リスト教」のこの脅威全体は事実もちろん生じはするが、そそのようなものとして ( 可視的、人間的、歴史的可能性とし れは「キリスト教」が歴史の中の、時間の中の、この世の て ) 儀牲にし、放棄して死んだかぎりにおいてである。しか しかれが十字架につけられた者でありながら復活した者、ま 中のある大いさとなるかぎりにおいてのことであり、それは たこの世における古き人の終極でありながら神において不可 「キリスト教ーが神学者たちの裏切りのため、自分の真理は 否の彼岸において、死の彼岸において、人間の彼岸において視的な新しい人であるかぎり、かれはこのような者として歴 求められるべきであるだけでなく、然りと否、生と死、神と史的事物の相対性、時間による根本的脅威を棄て去る。こう してかれは死を棄て去る。「かれは死人の中からよみがえ 人間を一般に対照させ、しかじかと連続的に並列させたり、 カタ・エクソケーン おたがいに対立させたりする可能性の彼岸において求められって、もはや死んではいない」。かれの復活が特別な意味で るべきだとするどの意識も広汎にわたって失ったかぎりにお「非歴史的ー出来事であるがゆえに、またそうであるから、 いて生ずるのである。なぜなら「死人のなかからの復活ーと「死はもはやかれを支配しない」。この生は解消することはで いう概念はこのこと、つまり「あなたがたはなぜ生ける者をきない。それは取り消しがたく生である。それは神の生であ ーー・それ る。それは神によって認められた人間の生である。 死人のなかに探すのか」を、すなわち、あなたがたはなぜ、 「キリスト教ーという歴史的勢力が興隆、衰徴し、生成消減ゆえ信じつつわれわれは、人間のこの認識を神にもとづいて われわれ自身のものとしようとあえて試みる。この生、イエ しその可能性と限界とをもつあの平面上で、あの空間におい スの復活した生をわれわれの生として知ろうとあえて試み て神の真理を求めるのかということを意味する。復活の概念 は死の概念において、すなわちあらゆる歴史的事物そのものる。すなわち「われわれはかれとともに生きる」 ( 六・ノ この生を「われわれの」生と呼ぶ「われわれーがわれわれな の終極の概念において成立する。からだの上で復活したキリ まつねにただわれわれの死につい のではないこと、この知識。 ストはいつもくりかえしてからだの上で十字架につけられた ての知識として可視的となりうること、この生を知る信仰は キリストに対立するのであってそれ以外の点で対立するので ただキリストとともなるわれわれの死として、敬虔で、謙遜 はない。キリストはいつもくりかえして「霊においては生か され」、新しい天の下、新しい地上の新しい人として啓示さで、愛をもっ無知としてのみ出来事となること、これらの事 れ、ありありと示されている。それはかれが「肉によって殺実は明らかである。この信仰がそのようなものとなるなら、 された」 ( ペテロ第一書三・一八 ) かぎりで、すなわちかれまた、イエスの死の道の可視性においてわれわれに反対する がすべての可視的、人間的、歴史的可能性 ( しかもたとえそ不可視的な、不可能な、認識の客体とともに、同様に不可視

5. 世界の大思想33 バルト ローマ書講解

フートウルム・アエテルヌム 一三節それゆえに、兄弟たちょ、われわれは肉に対し れは ( 不可視的なかたちで永遠の未来の中にあって ) 不減 ては肉に従って生きる義務を負っていないのだ。なせなら、あな で不死的なものでなければならない。血肉、すなわち根原と たがたは肉に従って生きるかぎり、死に向かうが、しかし、霊に 関係づけられないからだは神の国を継ぐことができない。た よってからだの働きを死なしめるかぎリ、生に向かうからてある。 だにせの復活、相対的な彼岸性、あるいはむしろ延長された 「われわれは肉に対しては肉に従って生きる義務を負ってい 此岸、これらのものだけが ( 時間の中で ) からだの目前に立 ちたがる。しかし、この減ぶべきものとこの死すべきもの、 ないのだ」。霊、すなわちいいかえるならば、われわれを圧 すなわち、神との関係を通して死すべきもの減ぶべきものと倒するにいたった真理、われわれによって真に受けとめられ された血肉は不減性と不死性の装いをしなければならない。 た真理、すなわち、あらゆる身体性の彼岸で、まさにそれゆ それは、その不可視的な現実にもかかわらず「上から生まれえにまったき身体性の彼岸で待っ復活を叙述するさいに鋭く とらえられた真理は、われわれに対してさしあたりこの身体 て」おり、その時間性の中で自分の永遠性を待ち、したがっ て自分の此岸性をあのように廃棄して、同じ関係の積極的力性に対する極めて確固たる批判的な態度を意味する。われわ から生じた新しい述語づけを不可視的に分けもつ。この新しれは、われわれに既知のわれわれの存在のすべての述語の包 トタリテル い述語づけはわれわれと無関係であるから、われわれはそれ括的な廃棄から出発し、同様に包括的な、しかし、まったく アリテル についてなにも知らない。そのような述語づけがからだの復他なるものとして経過する、われわれに未知の、神にあるわ 活である。われわれの内に霊が宿ること、すなわち、神にれわれの実存の述語づけに向かう。すなわち、新しい人、つ 対する人間の関係がそこで生じ、人間の死であり、それゆえまり私がそれではないが、しかし私の内に宿り、私が、私の その生である真理の、すなわちわれわれにおいて生ずるこの実存的自我として否定しえないところの新しい人の述語づけ 一ような真理の自己運動が復活を必然的に基礎づけるものであに向かう。われわれは肉にあるわれわれの存在の可視的可能 る。それは他のどんな基礎づけももたない。しかし、この一性から出発して、肉にあるわれわれの存在の不可視的な可能 つの基礎づけで十分である。霊が霊でなく、真理が真理でな性に向かう ( 八・五ーー九 ) 。われわれは死からぬけ出て、 く、神が神でないときだけ ( そうでなくて、所与性、他者生に向かう。これとともに、われわれは確固たる仕方で方向 性、にせの彼岸性であるときにだけ ) 、からだの復活というづけられる。われわれの背は西に、われわれの顔は東に向け 韓フートウルム・アエテルスム 永遠の未来、すなわち、霊がわれわれの生に対して意味すられるのであって、その逆の事が起こるのではない。「肉に 祐ることのいまだかってない、しかも、不可欠の解釈はいいっ従う生」すなわち、時間と事物と人間の世界をみずからの弁 証法の中で、そのまま、事実として真に受けとめる生、この くされ得ないだろう。

6. 世界の大思想33 バルト ローマ書講解

は、普通の考察方法をなにか極端に深めたり、高めたりする物がこのような神と出会うような場合には、人間の批判や、 ことではありえないし、苦難を ( たとえば、「此岸的ー苦難それどころか、否定すらもまぬかれることもない。しかし、 を調停ないしは補う「彼岸的」調和を指示することによっわれわれの有限性の問題は、相対的でなくて絶対的な、われ て ) なんらか内在的に無視したり、緩和したり、カづけてわれの思考を越えた解決を叫び求める。それは、ほんとうの、 解釈することではありえない。この考察方法は、・ との歯痛で未知の神を叫び求め、その神の慰めを叫び求める。これとく も、いわんや、誕生、病気、死というかたちで、飢餓と戦争らべればこの時間の苦難は、神の慰めが測ることができない ような形であらゆるこちらに対立するそちらであるがゆえに というかたちで、人間や民族の運命というかたちで、各瞬間 に人間的出来事の全領域で、粗野な、厳格な現実に他ならな「重要ではない」。したがって慰めの発見は、われわれにはな いものに対するどの真剣な見とおしにも挫折することは明々 んの慰めもないということを洞察することから始めなければ 白々である。なぜなら、われわれの生のどの小さな苦痛の背ならない。そして、慰めを与えることは、われわれは同時に 後にも、ましてや大きな苦悩の背後には焦眉のものとして生気安めをいう者であるということを告白することから始めな の有限性という問題がいよいよ真に存在する。われわれはこければならない。「それゆえに聖霊がここでも教師となり、 の問題とどのように出会うべきだろうか。われわれがなそう このような慰めを心に送らなければならない」 ( ルター ) 。慰 と試みるどの慰めも、どの答えもせつかちのものであり、欺めは例のない新しい計算方法をとり入れて、われわれの生に ・二八、四・一一 D いいまわしか 瞞的である。なぜなら、われわれはあの問題から生まれたも向かう。われわれは先の ( 三 ら、これで、たとえば連続的に種々の人間的考察方法の系列 のであって、われわれの世界の彼岸にある無限に神的な調和 につながるような考察が意味されることは決してありえない を考えたとしても、その問題からまぬかれないものだからで 一ある。なぜなら、われわれが作り出すことができるかもしれというこのまれで、冷やかな表現をおもい出す。この計算は ない無限性は、われわれの有限性で測られる、したがって、 むしろあらゆる人間的考察方法の総計を清算する計算であ それ自身、無限のーー有限性にすぎない。われわれが要請すり、この総計をただ神みずからが、神のみが作成された計算 スプ・スベキエ・アエテル - 一 る調和は、われわれの不調和に対し相対的であり、われわれに入れることである。それは永遠の相のもとからする考察で わざ ファータ・そルガーナ の砂漠放浪のさいのしんきろうである。われわれが「よりよあり、決して人間的な業ではなくて、信仰の業であるがゆえ 第 い」彼岸で報いと補償とをなさしめる神は神ならぬ神、この に神の業として記述される、神からする考察である。なぜな ら、われわれが神を計算に入れよう、神から見ようと企てる 世の神であって、人間のかたちに似せて創られたものであっ て、それゆえ、たとえばイヴァン・カラマーゾフのような人かぎり、断じてパウロの結論に達することはなくて、いつも わざ わざ

7. 世界の大思想33 バルト ローマ書講解

2S2 しいかえると、暗闇ではあるけれど、非創造的光の反映がま 真理が真理であるということ、したがってわれわれももと んざらないわけではないようなところで生きるのであって、 もとは真理にあずかっているということ、このことをわれわ それゆえ、神にとらわれた者ではあるが、今やそのような者れに語っているのはーー真理自身である。「霊みずからが、 しもべ として神に解放された者、僕ではあるけれど、僕のまま神のわれわれが神の子であることを、われわれの霊にあかしす 子で、嘆きつつ祝福を受け、ただ、未知の者、究めがたい者る」。ある霊が、感激が、飛躍が、魔力が、経験が、ダマス として、ただ私の敵、圧倒する者、裁く者、死として私と対コ的時間が、すべての可視性の彼岸で、われわれを神の子と 立する者に呼びかけつつ、また深い危急から、大きな恐れをして知らしめるにいたるのではなくて、合理的でも、非合理 もってその者に呼びかけつつ、その者に対し「アバ、父よ」的でもなくて、両者のロゴスであり、はじめであり、おわり と呼びかける者である。「これによって、キリストの国のカであるあの霊が、すなわち霊みずからが、そのまったき一回 が描写され、聖霊が信仰者において働かせる真の業、真正な性と実存性におけるイエス・キリスト、生から死へ、死から 高貴な礼拝が描写されている」 ( ルター ) 。このように呼びか生へと導く者、天地を包括する、われわれに対する神の証 けて神の前に出、義とされて、廃棄さるべきでない所与とし言、神に対するわれわれのための証言、われわれが神の栄游 について体験するより以前に、またわれわれが決してそれに て、同時にーー信仰である宗教として、それ自身において神 ついて体験しなくても、つねに確実に立てられている神の支・ に喜ばれるのが私の究極の、最後的人間の可能性であるの あか か。すべての結論がそれに反対するのに、だれがそのことを配がそれを知らしめる。霊は証しする。有頂天やさとり、 あえて主張するというのだろうかーー - 、そして、その結論にも霊感や直観は必須のものではない。このようなものの真価を とづいて、だれがそれを否認するというのだろうか。「神は認められた人たちはさいわいである。しかし、そのようなも 肉の内にいる。だれがこの秘密を理解しえようか。ここに生のをわれわれが期待するならわれわれはわざわいである。そ 命の門が開かれているのが見られるのだ」。闘争は止み、批れが添え物であり、寄せ集めでもあることに気がっかないな 判は中断し、テルステーゲンとかれの一派もまた、ほんとう ら、われわれはわざわいである。われわれにおいて、またわ にここに立つかぎり、正当なものとされるだろう。なぜなれわれの内で生ずることはすべて霊みずからが語ることに対・ ら、このような呼び求めのなかに、神の可能性が隠されてお してなされる答えにすぎない。われわれの霊が語ることは、 、薄く、まったく薄くなった人間の行為の透し絵を透視答えとして、ただ強く、真実で、生きたものでありうる。そ し、おそらくはこの透し絵を引き裂く父の栄光が隠されていして、彼岸で、つねにこの強い、真なる、生きたものの彼岸 るということも確かだからである。 で霊みずからが語る、われわれの霊が語りうる偉大なものよ しもべ わぎ

8. 世界の大思想33 バルト ローマ書講解

274 によって可視的に現実的な霊肉性にせまろうとする試みは迷る心身の文化がそれを使っていつの時代にも救うことのでき わすものとして拒否されるべきである。そのような試みは、 ない「からだ」の生命を救おうとーー試みた、すべての難行 ここで問題となる叙述の内容を変造し、空化し、無価値にす苦行、減却、自己放棄、霊化もみな比喩にすぎない。なぜな る。根本的に不可視的なものとしてとらえられた、神の神性ら、われわれは、自然的死という出来事をまったくその比較 を引き合いに出してのみ、すなわち、絶対的奇蹟の告知とし的きびしいのやおだやかな禁欲的派生形態とともに、神の認 てのみこのここで問題となる叙述はあえてなされる理由があ識において徹底的に、そのものとして問題とされたほかの生 るし、なされなければならない。それはそれ自身で信ずるに の諸出来事との連続性のうちでのように認識するからであ たる叙述であり、まさにそれゆえに、それをはじめて信ずる る。自然的死の論理的類比物もまた比喩、ただ比喩にすぎな にたるものとしようとするすべての ( ひそかな不信仰によっ 。すなわち、有限をあらわす概念の系列の中に無限がダイ てひき起こされた ! ) 努力は信ずるに価しないものとして ナマイトのように働いて侵入することもまた比喩である。な 不信を招く。 からだは肉にある、時間と事物と人間の世ぜなら、われわれが無限を概念一般として認めるかぎり、す 界にある私の存在の全体、私としての、 しいかえると、いま なわち、われわれがそれを不可視的なものとしてわれわれに ここで私に与えられた可能性の、しかもなんとかして与えら可視的とするかぎり、われわれは無限を有限に対する他なる れたことを表象しうる可能性の完全な領域にあるこの世界のものという符徴からも純化することができない。この符徴に この人間としての私の存在の全体である。神の認識はこの私よって無限そのものがほとんど無限な有限として刻印され のからだを端的に死すべきものとする。主語がその根原と関る。無限もまたわれわれの直視するところでは決して永遠で 係することは、その述語のすべてが廃棄されていること、そはなくて、あらゆるわれわれのものの根原と関係づけられ の自己自身との同一性という述語もまた廃棄されていることて、廃棄されたものであることが証明される。持続的な、不 を意味している。いかなる実体も、いずれも、たとえ究極的死的な、不減の主観は明らかに非我であり、認識するものと な、もっとも深遠で、もっとも繊細な所与も、なにかこの否して認識されたもの、非所与であり、私が、私の所与性の全 定力に逆らうことができそうなものはない。いかにも自然的体の中で救いもなく巻き込まれている破局の彼岸で、私のう 死すらもまたこの否定の比喩、たんに比喩にすぎない。そしちに宿る神の霊である。此岸性そのものの、したがってまた てこの死を準備し、それに伴う相対的に否定的な、「外面的それに対応する彼岸性の廃棄が、明らかにこの彼岸の意味で な」また「内面的な」種類のあらゆる生命力も比喩にすぎある。からだは ( 不可視的なかたちで過去と現在と未来の中 ず、確かに秘密を予感していながら、ただちにこれを誤解すにあって ) 減びるもの死すべきものであるがゆえにこそ、そ

9. 世界の大思想33 バルト ローマ書講解

「神のあわれみにもとづいて」私はあなたがたに勧める。し ( 大きな、未解決の ! ) 尸いの中にひそむ答えとして立ちは たがってここでは他のいかなる書物も開かれるのではなく、 だかるがゆえにこそ、このあわれみはわれわれにとって「勧 決して他のページが開かれるわけではない。 ここでは理論とめ」とならざるをえず、すなわち、それは ( この問いの中に ならぶどのような「実践ーも推薦されるべきでもなく、われびそむこの答えとして ! ) われわれにとってはじめて、根本 われの述べた「理論」こそが実践の理論であるということ的に、われわれが出発したあの問いを鋭く立てるようになっ が、ここで確証されるべきである。われわれは「神のあわれた。「神のあわれみ」はその彼岸性を放棄することなく、そ み」について、恵み、復活、罪の赦し、霊、選び、信仰につれと対立する此岸性を究極的に規定するようになる。われわ ・タア・ザイン ゾオ・ザイン いて語ったーーー多くのさまざまな屈折があったが、それは被れはふたたびわれわれの存在とその在り方の此岸性の問題 造的でない光からのおなじ光である。倫理学の問題が、徹底の前に立ち、ふたたび ( そして今度は不可避的にそのことが 的に「われわれはいかに生きることができるか」、「われわれ告げられて ) 生と意欲と行動の問題の前に立つ。すなわち、 はなにをなすべきか」という問いが徹底的に、われわれの視神の人間に対する関係、人間の此岸性の廃棄、あらゆる対立 線をいつもくりかえしてあの見えない視点へ、だれも近づく する第二の他者に対する極端な攻撃が、われわれのいつもく ことのできないあの光へ向けさせたのであって、使いふるし りかえして見てきたとおり、神のあわれみの彼岸性の意味、 た事物や思考に対する奇異な欲望が、そうさせたのではなか 神の自由の意味なのである。しかしまさしくその彼岸性の全 った。 ( 一世紀のローマとかすべての時代のすべての場所の ) 体の中でそのあわれみは「勧め」として此岸的となる。した 害現状が、その具体的な姿の全体において、われわれのきわめ がって、この「勧め」が生ずる場所は決して、善意の学校教 躑て紛糾した思考の道程がたどった他ならぬあの出発点 ( 一・ 師が道徳を説き、召命を受けた、あるいは召命を受けない預 大一八、一九 ) である。われわれがそこで欲し、行動しなけれ言者が視線を投げかけたり、迫害を受けているとおもいこん 章ばならない、 この現にあるがままの世界が、われわれをし だり、またほんとうに迫害を受けている殉教者が人類につい て悲歎の叫び声をあげるのをつねとするようなあの人間的高 て、それがなんであるか、すなわち、われわれは世界の中で どう生きるのか、その世界の中でなにをなすべきか考えさせ所の一つではありえない。万一その場所が教会であるとする 肥るきっかけとなった。そしていまや、その世界の本質としてなら、それは、、・ しすれにせよ、いわゆる頭蓋との究極的な、 第 大きな未解決の問いがわれわれの前に立ちはだかり、この問 破ることのできない連帯性を意識した、ただ神にのみ希望を いの中にひそむ答えとしてキリスト、すなわち神のあわれみ つなぐ教会である。もし倫理学が問題となるはずならば、あ がたちはだかる。われわれの前に「神のあわれみ」がこのらゆるエートスの批判より他のなにものでもない、すなわ ゆる

10. 世界の大思想33 バルト ローマ書講解

りすぐれ、異邦人の方がユダヤ人より、外の者の方が内の者なす罪の赦しの可能性はかれのためにあるということーーと このこ よりそれ自体ですぐれているというようなふうにしてではな ころでそれは明らかに内にいる者のためにはない 。自由に、野原で生長したとおもわれる外の者たちが、教とを外の者はただ奇蹟としてのみ崇めるが、これを自分の特 会にいる者たちを高慢にも見下すが、その高慢さは、その逆権、自分の優越として主張することはできないであろう。 の者の高慢よりつねにいっそうありえないものである。前者「たとえ誇るとしても、あなたが根をささえているのではな の弱点は神の前にいっそう悪いということはないとしても、 、根があなたをささえているのである」。これは次のよう しかし、決して、内のもののそれ自体あくまでも尊敬すべき にいおうとしている。親愛なる異邦人よ、傍観者よ、唯美主 人間の義よりもいっそうよいというわけでもない。なぜな義者よ、自由ドイツ人よ、社会主義者よ、自然愛好者よ、ある ら、十分理解していえばこういうことである。すなわち、人 いはあなたが自分でどんなに誇ろうと、あなたの土着の「自 間が神によろこばれるあの裸の姿のまま、人間が神の前に義律的」な神関係の意識において、あるいはあなたがそれをど とされ、救われうるにいたる子供らしさや悲惨さそのもののう呼ぼうとも、たとえあなたが、自分を教会にまさったもの まま、人間はただ神の前に、神の恵みによって立つのであっ とすることができないとしても・ーーーまたあなたはそうせざる て、その「異邦人的」、非教会的、現世主義的性格のために立をえないだろう、それというのも、あなた自身がながいこと つのではない。かれらの弱点は神に喜ばれるこの弱点の比喩まえから小さな教会の中にいるのだからだーーあなたは にすぎない。いかなる根原的な自然性も、プロレタリヤの単さいわいな場合でもーー・教会を不可能にする可能性そのもの 純さ、率直さも、宗教的「しろうとーの大いに讃嘆されたり、 によって、すなわち、あなたは・ー・・・・・さいわいな場合でも 要求されたりしている「非神学的ー思考と語らいも、その他教会が間違っている場合でも正しいのであり、あなたは のなんらかの徴意識、潜在意識、無意識も役に立たない もう一度いうが、さいわいな場合でもーー・・教会に対して否と 教会的意識性も同様に役に立たない。ベネディクトウス派の変わるはずの然りの中に立っという点でよ、、 冫しささかも変わ 修道院の黙想から社会民主党の民衆の家における世界観のサりはしない。したがって、あなた自身はあなたの可能性と教 1 クルにいたるまで、人間の中で行なわれることは一つのは会の不可能性の彼岸において、あなたの正しさと教会の誤り しごの段々のすべてである。しかし、イエスが祝福し、異邦の彼岸において、あなたの然りとあなたのの彼岸にあるも 人を神の前に義となした、精神の貧しさ、絶対的非教会性をのによって生きる。「根があなたをささえているのである」。 まだだれも誇ることができなかった、それというのも、それ逆のこともありうるかもしれないと考えること、すなわち、 自体はーーかって存在したことがなかったからである。神のそれはあなたが、本物で、純粋で、誠実で、しろうと的であ