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検索対象: 世界の大思想33 バルト ローマ書講解
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1. 世界の大思想33 バルト ローマ書講解

「エ・ハの創造」で、エ・ハが感覚的な魅力にあふれて舞台に登を神から引き離すものを見ると同時に、自分自身が 場するときの、あの宿命的な礼拝の身ぶりを見よ。警告する かであること、すなわち、衝動的、欲望的、情欲的であっ ように挙げられた神の手と、この身ぶりにこたえる、非常に て、もつばら亡びゆくものに心をむけ、それゆえに自分自身 憂わしげな表情に注意せよ。これは明らかに、あるべからざ が亡びてゆくものであることを、見ざるをえない。人間はこ ることが起こる準備である。エ・ ( ( 彼女にとってまことに光の運命の線にふれるであろうか。それとも、ふれずにすませ 栄なことだが、最初の宗教的人格 ) がはじめて神と対立する。 うるであろうか。創造者としての神と被造物としての人間と 神を礼拝しつつーー・・・しかし神を礼拝することによって、彼女の対立しつつ共にあることの意味する問題が、このように急 はかって例のない大胆な仕方で自分と神とを区別しつつ対立迫した、命令的な、明白な力をもつので、われわれから見れ するのである。すると、ただちに「有名な蛇が舞台にあらわば、この問題はふれざるをえず、爆発せざるをえないのはな れる。すなわち、神に関する最初の会話 ( それがあらゆる説ぜか。われわれは、アダムのしたことをせずにおれる人間を 教の原型である ! ) がなされ、神の命令が人間の助言牧 ( 会 ) 一人も知らない。アダムがしてはいけないことをしたのを、 の対象となり、賢くなるというアダムの巨人的な可能性が不思議がることはできない。すなわち、あの木とあの問題に ( エ・ハの前に ) あらわれ、それが悲劇的な現実にかわる。悲ふれ、この問題の中にふくまれた対立は ( 神はわれわれを救 劇的な現実というのは、もし人間が「神のようになり」、善うために、それを知り、これに耐える力を自己のみにとどめ 悪を知るなら、したがって、もし神に対する人間の直接性が たその対立は ) 人間の生の内容となり、善悪を知ると同時に 人間自身の生の内容となって、他の内容と同列にならぶもの人間に向けられた要求は今や効力をあらわし、それと同時に となるなら、それは真の直接性の破壊であるからである。「園楽園がーーー失楽園となった。なぜなら、善を在るべきものと の中央の」木にふれるならば、それは人間を神に結びつけるして人間に提示する要求のために、現に在るものは信頼を失 ものであるが、人間がそれにふれるならば、ふれるや否やま いーー少なくとも疑惑をもたれ、悪ーーとしておそらくすで た人間を神から引き離す ( まさにそれゆえにこそ、それは人に告発され、断罪されているのである。人間があの木の実を 間の触れてはならないものである ! ) 。その場合には、死線求めるこの欲望のために、すべての木の実を求める欲求も多 という帯電鉄条網にふれたことになる。すなわちその場合に かれ少なかれ禁止されたものとなった。なぜなら、この欲望 は、人間はかれが現にないところの者を追い求めながら、自 は、その要求を、人間が人間として考え、意志し、行なう一 分自身の障壁に突きあたって、かれが現にあるところの者で切のことと対立する、神の聖なる厳格な永遠の要求として明 あるよりほかない。その場合には、人間は目を開いて、自分らかにする。なにが起こったのか。罪が勝利した。罪はその

2. 世界の大思想33 バルト ローマ書講解

のことである。この関係の中では平和が要求されるのか、そ己の願いによって「義とされる」ことはないということをと 恥れとも闘争が要求されるのか、したがってわれわれがたとえもなう。愛はまさしくただ交わりを求めることをもって教会 ば「愛」と呼ぶものが要求されるのか、それともなにかもっ の信仰を深める。愛はなにも期待しない。愛はすでに目標に とにがいもの、もっときびしいものが要求されているのかは達する。愛はなにも求めない。すでに見つけてしまった。愛 第二の問いである ( 一二・九 ) 。しかし愛はつねに他者の中はなにも欲しない、すでになしてしまった。愛は問わない、 の、しかもあれとこれとの、つまり、あらゆる他者の中の一者愛はすでに知っている。愛は戦わない、すでに勝った。愛は を発見することである。愛は端的に自分の対象 ( 「隣り人」 ! ) つねに欲求するエロスではない。愛は決して絶えることのな いアガ。へ 1 である。 に東縛されているが、それというのも愛が端的に独立してこ れと対立するからであり、またこれと対立するがゆえに東縛 しかしまさにそれゆえにこそ「あなたはあなたの隣り人を されるのである。愛はどの「隣り人ーの中にも、確かに愛す愛しなさい」。まさしく厳密に理解するならば、新しい人の べき者の比喩を認めるにすぎない。しかし愛はほんとうにこ 行為として愛は義務であり、また義務としてあらゆる恣意、 の比喩を認める。また愛はどの隣り人の中にも愛すること絶望、濫用から守られている。神のあらゆる「あなたはして 、、、なんじ を命ぜられている者を認める。愛はあらゆる時間的汝の中 はならない」 ( 「姦淫してはならない。殺してはならだい。盗 なんじ 、、、なんじ に、対立する永遠の汝を認め、また聞く。この汝がなければ んではならない。むさ・ほってはならない」出エジ。フト記二 いかなる我も存在しない ( 一一一章三節後半ーー六節前半 ) 。 一七、中命記五・一七 ) という誠命は、もちろ 愛はこれこれという特定の具体的な人間に対する愛である んこの「あなたはしなさい」で「頂点に達する」。ここで ( 神 が、それというのも愛はこれこれという人間に対する偏愛と にもとづいて ) ふたたび行為し始めるのは、あらゆる行為か はなんの関係もないからであり、またそれゆえにそういう愛ら ( 神に対する ) 無行為へ追いかえされた人間であり、ここ なのである。愛は腹立たしい、奇妙な、特別な被造性と性質でふたたび立ち上がるのは投げ倒された者であり、義とされ るのは罪人であり、生きる者となるのは殺された者である。 の全体において隣り人に対する愛であるが、それというのも この〈あなたはしなさい〉において可視的となるのはひらめ まさしくこの愛が隣り人の肩から脱落せざるをえない衣服の く死と永遠の剣である。まさにそれゆえにこそ愛はそれ自身 ようにひそかにこの被造性と性質とを、解いてゆるやかにし てしまう ( キルケゴ 1 ル ) からであり、またそうするがゆえ で完全な、新しい行為、一切の無行為の意味と充実化である に隣り人に対する愛である。愛は「調停的永遠的正義ー ( キ行為そのものであり、すなわち悪の領域でほんとうにわれわ ルケゴール ) であり、それはまさしく愛がだれに対しても自れの呼吸がとめられるとき、またそのかぎりで、われわれが われ

3. 世界の大思想33 バルト ローマ書講解

ければならないであろう。そしてこれをあらわす者はつねに が、われわれの指示する道である。われわれは信仰を要求す 天にいますイエスの父、ただかれのみである。イエスにある るが、それ以上のものもそれ以下のものも要求するのではな 啓示はもちろん、それが神の義の啓示であるがゆえに、同時 。われわれはわれわれ自身の名においてではなく、イエス にこの上もなく強い神の隠蔽であり、識別不可能化である。 の名において、信仰を要求する。この要求はイエスにおいて イエスにおいて神は真に秘義となり、みずからが未知者であ不可避的にわれわれに出会った。われわれはわれわれの信仰 ることを知らせ、永遠に沈黙する者として語る。イエスにお への信仰を要求しない。なぜならわれわれは、われわれの信 いて神は、すべてのあっかましいなれなれしさや、すべての仰の中に見られるわれわれから生じたものは信ずるに価しな 宗教的な恥知らずから身をまもる。イエスにおいて啓示され いからである。われわれはわれわれの信仰を他人に要求しな つまず い。なぜならもし他人が信仰するなら、かれらはわれわれ自 ると、神はユダヤ人にとっては躓きとなり、ギリシア人にと っては愚かさとなる。イエスにおいては神の伝達は、反撥し身と同様、自分自身の危険と約東とをかけてそれをなすであ 始め、ロを開いた深淵がそのロを見せ始め、もっともカづよろうから。われわれはイエスへの信仰を要求する。われわれ はその信仰をすべての人に、いまここにいて、まさにかれら い躓きが意識的にさし出され始める。「キリスト教界におい つまず の立つあらゆる生の段階にいるすべての人に要求する。信仰 てなされたように躓きの可能性をとりのそくなら、キリスト 教の全体は直接伝達であって、そうなるとキリスト教の全体に先んじて実現されなければならないようないかなる人間的 が取りのそかれる。キリスト教は、十分深く傷つけることも前提 ( たとえば教育的、知的、経済的、心理的それ ) も存在 しない。まず進み終えておかなければならないような、信 いやすこともしない軽薄ななにか皮相なものとなった。すな わち、神と人間との無限の質的差異を忘れるたんなる人間的仰にいたるいかなる人間の付加的誘導路、救済手段、段階も 同情の虚偽のつくりごととなった」 ( キルケゴール ) 。イエス存在しない。信仰は第一のもの、前提、根拠づけである。わ への信仰は、徹底的な「にもかかわらずーであり、その内容れわれは、ユダヤ人としてギリシア人として、子どもとして 義である神の義もまた徹底的な「にもかかわらず」であること老人として、教養のある者として教養のない者として、単純 よ人司として複雑な人間として、われわれは嵐にさいしても 神にかわりない。イエスへの信仰は、まったく「愛なき」神のオ「 つまず 章愛を感じとり、不快な、躓きやすい神の意志を行ない神をそ平穏なときも、ありとあらゆる、ただ考えうるかぎりの段階 のどの段階においても信ずることができる。信仰の要求は宗 第の完全な不可視性と隠れた姿のまま神と呼ぶ、かって例のな いことである。イエスへの信仰はあらゆる冒険のなかの冒険教、道徳、生活態度と生活経験、洞察と社会的位置のあらゆ る差異を横切って進行する。信仰は万人にとって同じように である。この「にもかかわらず」、このかって例のないこと

4. 世界の大思想33 バルト ローマ書講解

。高尚な感情や高貴な人間性の入る余地はない。無邪気な するものなのである。そしてわれわれはさらにまた、宗教に 中欧人や西欧人は、そうおもっておれるあいだは、そうおもおいて自己完結的な人間性の輪と対立する神の自由の意味を っていてもよいであろう。ここには深淵があり、ここには戦考える。 慄がある。ここには悪魔があらわれる ( イワン・カラマ 1 ゾ 一三節したがって、律法は確かに聖なるものてあり、 要求も聖てあって、正しく、かっ善・てある。ては、善なるもの ここでは悪意の宿敵が恐るべき近さにし フおよびルター ) 。 が、私にとって死となったのか。そんなことはありえない。そ る。このようになるということ、すなわち、要求は人間の死 れはむしろ、罪が罪としてあらわれるために、罪が私につくり出 であるということ、それが、罪の欺瞞である。「蛇が私をだま したことてあり、罪が要求によって、みずからまったく罪深いも しまここでわれわれの必 した」 ( 創世記一二・一三 ) 。罪とは、、 の・てあることを立証するために、善なるものを通して死をつくリ 然性であることの可能化、すなわち、善悪を知る知恵という 出したの・てある。 あの最高の間接性の可能化である。この間接性は死を意味す 「律法は聖なるものであり、要求も聖であって、正しく、か るのに、それがあたかも生を意味するかのようにだますの が、その欺瞞である。欺瞞が行なわれるのは、人間が、自分っ善である」。人間は、世界にある人間としての自分の状態 自身の純粋に人間的な必然性そのものが、神の前にあるべきの恐ろしい圧迫の下で、ついには自分自身と自分にむけられ た要求と、神に対する自分の距離とを自覚して、宗教的人間 ではないものだということを、認めないためである。欺瞞が 成功するのは、人間の神に対するそのような特性を、ただ可となり、かくして〈われわれは何をなすべきか〉と間う。こ 〈何より 」、こ対する答えは、こういうよりほかない 能性として受けとめる人間そのものがー。ー人間にすぎないかの階し冫 もまずそう問え〉と。神がわれわれにこの問いをいつまでも 一らである。要求が「梃子」として罪にもちいられ、間接性が この問いが問いとして、われわれを四 直接性をよそおい、敬虔が自己の行為や自己の業となり、世保持させるように ! いかに問題的なものであるかを自覚方からとりかこみ、それ自身ふたたび問いとならないすべて 界がでなくて自分が 自しない宗教、神の前に沈黙しないで、祈りのために挙げた手の答えをわれわれから奪いとり、あらゆる脱出路やあらゆる この問いが、すで を、挙げることによって下し、下すことによって挙げる礼拝緩和策をわれわれから奪いとるように ! 章 に老子が知っていたあの車輪の真中にある穴のふちを的確に の儀式、ーーそれが人間の堕罪である。 第 というのは、答えはあの円環の内容を構 われわれは宗教の意味を問うことによって、第二の点を知あらわすように ! った。すなわち、宗教がまさにその存在の必然性をもち、か成するものであって、問いの意図はこれを叙述することであ 、問いは一瞬間も、問いであることをやめて えってこの世界のこの人間を支配している罪のもっ力を実証る。だからこそ わざ

5. 世界の大思想33 バルト ローマ書講解

しか、いな ている。これらすべてのものは、まだ失われない、まったく悪、選びと棄却、然りと否を知る知識をもって、神のように 非宗教的な直接性について語っているようにおもわれる。人なり、神の秘義にあすかった人間のもとに、要求が来ざるを 間はこの直接性の中で生きるのだが、それはあれこれの人間 えなかったからである。われわれの知るかぎり、 いかなる時 , ではなく、神がみずからに似せて創った人間であり、また神代にもかならず要求がやって来た。人間の神に対する関係 がみずからに似せてふたたび創りなおすべき人間である。こ は、神の前 = 提から人間の措定となり、神の前“提の措定と の直接性は、いついかなるところにも「あった」ことがなく、 して、他のすべての人間の措定に対して、もつばら分解的に いついかなるところにも「ありはしないであろう」が、われ作用しうるだけである。人間の可能性の限界にある恐ろしい われはそこから来たり、またそこへかえる。それは、神の唯可能性、すなわち、神に関する人間の無知の知と、自己の他 わざ 一の行為と業として、罪によっても破壊されない、神のわれ者性と創造者に対する自己の被造性を知ること、ないしは未 われに対する関係である。マルキオンがこれをまったくの異知なるものに対して礼拝の身ぶりをするという恐ろしい可能 郷といいあらわしたのは適切であるが、それはわれわれの故性、これはほかのあらゆる人間の可能性ーーに不可能性とい う宿命的な光を投げる。これをせざるをえないのが人間であ 郷であり、われわれはそれを忘れることはできす、その現実 ゆる るとすれば、すなわち、人間とはその道の終極において二重 性と近さと栄光とは、赦し、復活、救い、愛、神という福音 の予定を信じまたそれを宣べ伝えなければならない ( これを の究極の言葉の中で、われわれにとってーーー困惑と約東とに かわる。なぜなら、これらの言葉の意味するものの彼岸にも洞察しえないのは、宗教的な弱い心の持ち主だけである ) と 律法や宗教はないのだから ( 四・一五 ) 。そして、五・一三すれば、ーーー人間とはそのとき、 いったいなにであるのか。 が明らかに認めているように、生や歴史において比較的に純「そのとき罪は生きはじめた」。いまや永遠の創造の瞬間は過 粋で無罪責な被造性としてつねにわれわれに可視的となりう ぎ去って呼びかえしえない。そして神としての神と人間とし るものは、われわれがそこから来たり、そこへかえる生の反ての人間が二つでなく一体であるようなあの生の純粋さと明 映として、これにふさわしい無心とーー慎重さとをもってう朗さと平和は、救いがたく亡び去る。いまやあの二元的な生 けとるならば、われわれにとって意味深くかっ希望にみちた が避けがたくはじまり、神は人間の有力な敵対者として、人 ものとなるであろう。 間は神の無力な敵対者として、神は人間を、人間は神を繝限 「けれども要求が来たとき、罪は生きはじめたが、私は死んし、疑問視し、かかり合いをもちつつ、対立する。「しかし だ」。創造の〈永遠の今〉は、ばらばらに飛び散った。すな 私は死んだ」。もちろん、この「私は死んだ」も原歴史的な わち、「要求が来た」のである。その要求が来たのは、善と ( 時間的でない ) 過去である。すなわちこの死は、永遠が時

6. 世界の大思想33 バルト ローマ書講解

「上へーではなく、この「下へーと向かう、すなわち相対的 の意味を考えることであった。 にそれが成立するのだが なもの、間接的なもの、個別的なもの、対立的なものへ向か 一一節しかるに、罪は要求を梃子とすることによって、 う衝迫であるからである。罪は、宇宙の、創造に対する、 私のうちにはたらいて、可能なかぎリのあらゆる欲望を起こさ ダア・ザイン ゾオ・ザイン せた。というのは、律法を無視すれは、罪は死んているからてあ存在とその在り方の、根原的な存在に対する、人間の神に る。しかし私はかっては律法を別として生きていた。けれども対する、対立の表明として、罪である。この対立の表明に必 要求が来たとき、罪は生きはじめたが、私は死んだ。そして、生要な水門が開かれているということは、自明のことでない。 命を目ざす要求、まさにそれこそが、私を死に至らしめることが根原的には、対立なるものは存しない。根原的には、人間は 明らかとなった。なぜなら、罪は要求を梃子として、それによっ パラダイスに暮らしている。そしてそこには上と下、絶対者 て私を欺き、私を殺したからてある。 と相対者、彼岸と此岸がない ( なぜなら、この「と」の中に 「罪は要求を梃子とすることによって、私のうちにはたらい こそ罪がひそむのであるからだ ) 。そこでは、宇宙は創造 戸ゴス て、可能なかぎりのあらゆる欲望を起こさせた」。論理が神と一体であり、人間は神と一体であり、聖なるものもまた自 ミュトス トス 話になるその出来事については、まったく神話をぬきにして然的であるから、自然的なものそのものもまたすべて聖であ る。したがってそこには「欲望」が存在せず、むしろ人間は 語ることはできない。罪とは、その根原、神自身の秘義 ( こ れはけっして罪の原因なのではなく、むしろ罪の究極的な真園のあらゆる果実を味わうことを許されているだけでなく、 理である ) においては、神との一致が分裂する可能性、祝福むしろ命じられてさえいるのである。ただ「園の中央にあ る」 . 一本の木、すなわち「善悪を知る」木の実は、例外であ , か罰かのどちらかに予定される可能性のことである。人間は 一反逆する奴隷となり、永遠の一者と分裂し、神の光に、そのる。なぜなら、神の中に隠されている根原と他者性との対立 は、人間の内容となるべきでないというのである。 & 間は、 無内容な否定として神の光にしたがうだけの陰を固持して、 アン・ジッヒ フュル・ジッヒ これを永遠化する機会、すなわちそれなりの仕方でみずから神において直接的にあるものに、自覚的になってはならない。 自神となる機会を、神の中にもっている。この可能性を知るこすなわち、創造者とならぶ第一一の者としての被造者となって と、それによって与えられたこの機会を利用することが、罪はならない。人間は、神が人間について知っていること、し 章 である。ちょうど水路の水が開かれた水門を通って低い水路かも恵みによって人間に隠していること、すなわち、人間は 第 人間にすぎないということを、知るべきではない。主は、 へ流れこみ、潜在する惰力によってあるべきところに落ちる 3 ように、罪も不可視性や非所与性や永遠性に反対して、可視夕方のすずしい風の中を無知な人間たちとともに、自分と同 性、所与性、時間性へと流れこむ。な・せなら、罪の本性が等の者とするように園の中を散歩する。ミケランジェロの

7. 世界の大思想33 バルト ローマ書講解

のカである。それは人間が神によって認識されていることの んに相対的にではなく、ただたんに他のよりよき可能性と対 立した運命的な可能性としてだけではなく、可能性一般とし 認識である。それはすべての所与の、すべての生の内容の、 ダア・ザイン て、悪いまたよりよい人間のすべての可能性を越えたその背 すべての本質性の、すべての存在とその在り方の彼岸で、 神によって生み出され、神によって動かされ、神に安らう人後にある規定と力として、私の「死すべきからだ」 ( これと私 間存在についての人間の意識である。恵みは、人間がこの存とは無限に解きがたく一体である ) という事実とともに一見 在のうちに再発見されるかぎり、神から生み出されたこの存与えられ、私の上に置かれているように見える支配として間 在そのものである。恵みは神によって創造され、救われた新題となる。恵みを与えられた者として、私はこの支配を承認 しい人、神の前に正しいとされた、神の喜ぶ人間、父が自分することができず、同意することができず、それを考慮に入れ の子において自分自身を再発見するように、神がそこに自分ることができない。私は、まさしく機会、前提であろうとす るその支配の要求に対して、ただ絶対的懐疑をもって対応し 自身を発見する人間である。私は復活の力において、死から 生へいたる分岐点において信仰によってのみ、恵みによってうるにすぎない。私は罪を見はするがしかし、私はそれを ( まさしく、すべての人間的可能性の必然性なる罪を ) たた この新しい人であるが、この人間に対して、すなわちこの恵 この死すべきから 不可能性と見ることができるにすぎない。 みを与えられた人間に対して、「神の欲することを欲せよ」 だのなかに罪が宿っていたし、宿っているし、宿るである という要求を立てることは意味深い。なぜならこの人間はも ちろん実存的に、本来神の欲し、神に生きる人間だからであう。それは時間が時間であり、人間が人間であり、世界が世 る。このように恵みを与えられた者として、私は要求を聞界であるかぎりにおいてであり、死が勝利にのまれず、可死 き、理解しうる。すなわち私自身の根原に対する想起とし的なものが生にのまれないかぎりにおいてであり、私が ( キ リストの死の此岸において、新しい人と同一でなく、恵みを 8 て、私自身の実存の肯定として、「私 ( 私ではない ) は存在す 6 る」という洞察と同じ意味をもつものとして。このような恵与えられず、打ちくだかれず ) 現にある私ーーであるかぎり においてであり、私が左足を墓のなかに入れて、異様な偶然 みみを与えられた者として私はこのような要求によって創造さ れ、生かされ、目覚めさせられ、不安にさせられて、もとも性と奇妙さの中にあって、生まれたり死んだりの恐ろしい事 6 と人間世界に対する、この世界の人間に対するーー私自身に象に制限されて、同一となるまでからみ合って、それどころ 第 対する攻撃の、またこのような要求においてあらわされる攻か謎に満ちた宇宙の偶然的事物性と一体となっている一般の 撃の主体、保持者、武器である。この恵みを与えられた者と個人であるかぎりにおいてである。このからだは自然のまま しての私にとって、罪は絶対的に問題のものであり、ただたの、純粋なからだ、罪のないからだでありえない。もしから ゾオ・イン

8. 世界の大思想33 バルト ローマ書講解

212 からだにもあてはまるし、確かにこの述語はふつうの意味でらこの命令法は ( すでにそれと対応する直接法六・一八 未来的に考えられているのではなく ( この述語づけを時間的と同様に ) 「人間的」であり、いかなる制限であるはずもない な意味でおそらくは「待た」なければならないかのように ) 、あの制限を必要とするということ、そのことは疑うべくもな いからである。この命令法は、人間にまったく要求しえない 人間の過去、現在、未来を全般的に包みまたくり広げるし、 ことを人間に要求する。それはこの〈いま〉と〈ここ〉の廃 確かにそれは、一瞬たりといえども「待命」期を与えること 棄、それの徹底的な新たな認定が前提するものをいまここで なく、「罪はあなたがたを支配することはないであろうー ( 六・ 一四 ) という他の述語をもつ人間全体にもあてはまる。しか要求する。それは直接知りうる、明確な ( 「肢体ーにおける ) し十分理解していえば、この可能性は不可能なものの可能性出来事、すなわちそれがキリストにおいて生起したときもま である。この出来事は非歴史なものの歴史化である。これのた、それが復活の日に生起したときもまた、直接知りうるよ つまず うにはならず、信仰と躓きのいずれをとるかの選択を他の人 啓示は永遠の秘義の啓示であり、これの直視は不可視的なも たちに決定させる出来事である。このことは「人間的ーに語 のの直視である。人間のこの存在、所有、行為はそのものと しては奇蹟であり、新しい創造であり、それはそのようなもれば、神の存在、所有、行為としてのみ理解されうることを のとして、あらゆる人間以外の存在、本質、行為とはちがつ人間の直接的語り方の比喩において要求することを意味す た他なる ( ほんとうに他なる ) 秩序をもち、まったく他なる る。そのことが熟慮されていないなら、もしそのことが同時 秩序をもつがゆえに、それはあの「それ以外のもの」となら にこの命令法の、すわなちそれに聞き従う力は神のカである んで、特殊な、第二のものとしてあるいはあらわれうるとい ということを想起させるこの命令法の、人を動かし、阻止す うようなことは問題にもなりえない。それはそれ自身天か る「かのように」が聞きおとされるなら、われわれは宗教的 ・フロレーデシス らの住居 ( コリント第一一書五・ (l) を着せられる。それはそ道徳主義の先取観念のただ中に、ロマン主義のきわめて粗野 れ自身新しい地上と新しい天の下に生ずる。この命令法に対な幻想のただ中に、あらゆる種類の人間の義と神の義とを、 するこの外見上の制限は実際はいかなる制限でもなく、考えあらゆる種類の救われた状態と救いとを、われわれがあるい はーーー体験しうるあの生と永遠の生とをきわめて甘ったるく られるかぎり鋭くそれを強化することを意味するというこ と、この〈しかし〉が〈それゆえに〉であるということ、そとりちがえ混同してしまう状態にある。このことが熟考され えないということ ( 「われわれは死ななければならないのだ」 のことを理解しうる者は理解するがよい。もし人間の言語が ザッへ しかしいつ、どこで、だれに この事柄において明確な、「人間的」でない言葉をもっとすということは熟考されない るなら、明らかにまったくすばらしいことであろう。なぜな よってそのことは徹底的に考えぬかれたのか ) 、そのことが、

9. 世界の大思想33 バルト ローマ書講解

さげる責任を負ったその神の真実を証言することが問題なの 個人的なこと ( 一・ である。このような人間の応答真実、すなわち恵みをうけと める信仰は、当然従順への要求でもあり、その要求はまた他 八節ます第一に、私は、あなたがたの信仰が全世界にいい伝え られていることを、イエス・キリストによって、私の神に感謝す の人間にも向けられるものである。この要求は、呼びかけ、 る。 照明をあたえ、ゆり起こす。このような要求こそが宣教であ 復活はその力を実証した。ローマにもキリスト者がいる。 って、それ以外に別な宣教が存在するわけではない。その者 ノウロと個人的な関係なしにキリスト者となっ において、二つの世界が出会い、分離するのだが、その者のかれらは、。、 た。しかしたれがかれらにキリストの呼びかけをもたらした 名は、栄光をうけるべきである。恵みが、権能をあたえて、 としても ( 一・六 ) 、かれらは現に召されている。それだけ それを可能にする。な・せなら恵みそのものが、破砕なのだか で十分感謝する理由がある。墓の戸から石はとりのけられ ら ( 五・一 I)O た。言葉は流れ出る。イエスは生きている。かれは世界の首 パウロを異邦人たちの使徒たらしめたその同じ神は ( 一・ 一 ) 、ローマのキリスト者をも、近づいたかれの国のために都にもいます。いたるところでキリスト者は、この報知に耳 確保する。聖さへと召された者たちとして、かれらはもはやをそばだてた ( 一六・一九 ) 。たといそれが一つのたとえに すぎないとしても、なお一つのたとえではある。パウロは、 かれら自身のものでも、古い過ぎ行く世界のものでもなく、 かれらを召した方のものである。かれらのためにもまた、人口ーマのキリスト者の、敬虔さや、その他の人間の目にも見 の子は復活の力により神の子と定められたのである。かれらえる美点を神に感謝したのではなく、ただ単純にキリスト者 もまた今ここにおいて偉大な危急と希望の認識の中にとらえとしてのかれらの存在を感謝したのである。特別な性質や特 一られている。かれらもまたかれらの仕方で、神のために選び別な行為よりもはるかに重要なのは、旗が立てられ、主の名 がよばれ、告白され、神の国が待ち望まれ、宣べ伝えられる わかたれ単独者となったのである。かれらの新しい前提もま 言た、「われわれの父なる神および主イ = ス・キリストからのという事実である。そこに、まさに信仰が、すなわち神の真 序恵みと平安」である。この前提がいつも新しい出来事として実に出会う人間の応答真実が成立する。この事実が存在する ところには、イエスの復活によって導入される危機が進行 章生起するように ! かれらの平安がかれらの不安となり、か 第れらの不安がかれらの平安となるように ! それがローマ書し、かれが神の子として定められたことが啓示され ( 一 しもペ 四 ) 、主の僕が感謝する理由をもつ。そしてローマにおいて のはじめであり、おわりであり、内容である。 しもべ は、主に対して戸が開きはなたれているのだから、僕である

10. 世界の大思想33 バルト ローマ書講解

者を「律法の目標」へ、神との交わりという光の中へ導き入決定的なものと認められ、神の怒りが避けられないものと認 れ、他方では信仰者を、悪の中にあるこの世のうちへと立められ、つまり神が神と認められるとき、この要求は存在す たせる。神は「既知のかたちで」、事物的に可視的に生起する。それは神と人間とのあいだにあの歴史、すなわちそれが る一切のものを無視し、みずからの正しさにしたがって隠れ生起し、しかも永遠に生起するがゆえに、それについてはい たところで裁く。神は人間の律法表の文字によって期待されかなる歴史も語られえない歴史が始まるときである。人間が たり、期待されなかったりするものとは無関係に心に宿ったあえてーーしかしそのこともまた決して祝福をえるための処 り、宿らなかったりする霊である。神は報酬として与えにう方ではなくて、その祝福の永遠の認識根拠であるーー・みずか と思うものを報酬として与える。報酬を与えるのは神自身でらを空中に置いて、究めがたい神を愛するときである。この あり、神のみである。われわれはそれに対してなにをいし ことがイエス・キリストにおいて問題となる。 またそれにさからってなにをいおうというのか。もしかする と神が正しくないというのか。われわれは神の正しさと対抗 しなければならないようなもっとよい正しさを知っているの か。神は、われわれの生の危機であるということによって、 われわれの生の永遠の真理ではないのか。いったいわれわれ はわれわれの真理をもってなにをしたいのか。神の栄光は輝 くであろう、神の正義は明らかになるだろう。それゆえに神 の働きの実際的な面はきわめて不可視的であり、きわめて例 のないものであらざるをえない。神は、われわれが神に与え る正しさによっては生きない。神は特有の正しさをもっ神で ある。神は多くの根拠の中の根拠ではない。結局はまたして もわれわれが自分で与えることができる答えではない そ れゆえにそれはそれとわからぬ、無根拠的出現であり、特有の 正しさにしたがって裁く神の裁きである。神の怒りから救わ れることをねがう要求が存在する。一切の要求が廃棄され、 それが神自身によって打ち倒されるとき、すなわち神の否が