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検索対象: 世界の大思想34 トインビー
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1. 世界の大思想34 トインビー

224 先祖伝来の故郷にとどまったリグリア人の農民共同体と、 第三項サムニウム高原の農民経済の部分的回復 サムニウム高原に移されたリグリア人の農民共同体とのほ・ほ 没収されたカウデイウム人とヒルビニ人の領域へのスキビ同時代の農業条件のあいたには、はなはだ密接な照応がある ことがわかる。またこの時の数字をトラヤヌス帝治世の数字 オの老兵の入植は、前一一〇一年に着手されたが、それは明ら かに大規模なものになることを意図していた。割当地の最高と比較してみると、ヴェレイア領でもタウラシア領でも、地 所の数は減少し、その平均の大きさは増加する傾向があった の大きさは、たぶん三十六ュゲルムであった。 ことが明らかになる。トラヤヌス帝時代までにタウラシア領 前一八〇年の、四万七千人のアベニン山脈のこちら側のア 。ファニ人の、タウラシア領への入植も大規模であった。 の地所の数は九十から五十に、ヴェレイア領のそれは八十 これらのリグリアーア。ファニ人が定着したことは、トラヤ九から五十に縮小した。また二つの地域を合わせると、二十 ー亠」ントから二十 ュゲルム以下の地所の数は全体の六十三パ ヌス帝の治世に編集された文書 ( k ニ年 ) から知られる。 五。ハーセントに減じ、四十ュゲルム以上の地所の数は九パー それによれば共和政期の彼らの地所九十一一例のうち最小は六 セントから四十。 ( ーセントに増加した。タウラシア領の最大 ュゲルム、十六例は十ュゲルム以下、四十例が十ー一一十ュゲ は二百五十・五ュゲルム、ヴェレイア領のそれは五百四十・ ルム、二十八例が一一十ー四十ュゲルム、八例が四十ュゲルム 五ュゲルムであったが、いずれの地域もラティフンデイウム 以上、最大が五十六ュゲルムであった。この大きさは、前一 を発展させてはいなかった。 九三年と一九二年に建設されたラテン市民植民市コビアとヴ ヴェレイア領はイタリア半島の農民経済の後退を相殺する アレンティアのそれに匹敵するが、前一八九年のポ / ニアや、 まして前一八一年のアクイレイアのそれよりは小さい。他ために、ローマ政府が前一一世紀に成立させた自営農民の新し い世界の一部であった。しかしハンニバル戦争後、イタリア 方前一七七年に建設されたルナを除く、どんなローマ市民植 民市のそれよりもいちじるしく大きい。さいわいにもアベ = 半島は換金作物生産地域にな 0 たが、穀物耕作もヴァロ (f 六 ン山脈の向こう側のリグリア人の一種族イルヴァテス人の地 前七 0 ー ) の時代ま ー二七年。博学な。ー「の ) やヴ = ルギリウス ( 一九年 で、半島のあちこちに生き残った。 のヴ = レイアについて、相応するリストがある ( オ。 . 新 . それによれば共和政期の八十九の地所のうち最小は五ュゲル 第四項トウリイ領およびプルッテイウムのラテン市民植 ム以下、二十一例は十ュゲルム以下、三十六例は十ー一一十ュ 民市への政府の不十分な基本財産賦与 ゲルム、二十四例は三十ー四十ュゲルム、八例は四十ュゲル 前一九四年末のローマの民会決議に従って、前一九三年に ム以上、最大は百五ュゲルムであった。

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292 冫しし力ないことが明らか を処理するままに任せておくわけこよ、 たたび手におえなくなった。 「戦争が長引いたことと、戦場における運命の変動の心理的になった。そこで元老院は、市の法務官だったマルクス エミリウス冪レビドウス〕に、宗教上の苦悩から市民を救い 効果とは、〔ローマ人の〕共同体を〔情緒的な〕宗教、しか もたいていは外来宗教の攻撃にさらした。発作はきわめて激出す責任を負わせた。法務官は公の集会を召集して元老院 烈だったので、まるで人間か神々のどちらかが急にその本性決を朗読し、二つの決定を行なった。すなわち予言または祈 を変えてしまったにちがいないと思われるほどであった。伝疇の方式または文字に記した犠牲の執行の明細についての書 統的なローマ人の宗教のならわしは、その時まったく放棄さ物を所持している者は誰でも、四月一日以前にそれを法務官 に引き渡すべきこと。第二の決定は、なんびともおよそ新し れつつあった。そしてそれはただこっそりと屋内において虹 いないし外来の祭式に従って、公共のあるいは神聖な場所に 視されただけではなかった。フォルムーロマヌムやカ。ヒトリ リヴィウス 0 ウムの丘で公然と、たくさんの女たちが慣例とは異なるやりおいて犠牲を執行すべからざること、であ「た」 ( 二五 . 一 この法務官の決定は、宗 われわれはリヴィウスの行間に、 方で犠牲を捧げ、祈薦の言葉を唱えていた。司祭者とト占者 教を不毛にする「体制側ーの伝統的な政策と、苦しい試練の は人々の想像力を捕えた。群衆はいなかの住民によってふく らんだ。長い戦争状態が彼らの土地を敵のなすがままに委中での宗教的な慰めに対する抑えられない市民の要求とのあ いだの妥協を表わすものであった、ということを読み取って ね、それを耕作不能に陥れた。そして彼らは欠乏と恐怖から ローマ市内に追い込まれた。山師が同胞の精神錯乱に乗してもよい。新奇な外来の宗教的ならわしの屋内での継続につい 金をもうけることは容易であった。彼らが精を出していた商ては何も言わないことによって、法務官は女たちに彼ら自身 の家の中では欲するようにさせることに暗黙の同意を与え 売は、ほとんど合法なものと認められるようになった。 これらの悪弊に対する抗議は内密に始まったが、ついに事た。たぶんこれは、ローマ政府がおよそこれまでに行なった 個人の宗教の自由への最大の譲歩であった。 態は、公然たる告訴が元老院になされるところにまで至った。 前二一三年の国内危機はロ 1 マの国民にとっては宗教的危 元老院は、進行中の事柄を止めるのを怠ったというので、按 にとっては政治的危機で 察官とトリウムヴィ ) 機であったが、ローマの「体制側、 リ、カビタレス ( 物察関係の業務を担し治安 あった。当局者はいまや民衆の宗教感情のために何か代りに を厳しく非難した。じっさいにはこれらの役人がフォルムー なるはけ口をもっと広く開くことによって、起こるかもしれ ロマヌムから群衆を一掃し、そこの祭式の設備を散らそうと ない危機の再発の機先を倒しようと試みた。「体制側」はレク 試みたとき、彼らはやっと暴行を加えられるのを免れたので レクティステル ) をも祭典 ( ルーディ ) をも好ま あ 0 た。この病気はあまりに悪性なので、下級の役人がそれティステル = ア ( ニウムの複数形

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ては比較のためにイタリアにおけるローマ連邦の建設が完成に対し共同戦線を張った。モテュエとそれを受けついだリリ した時点に登場した他の四つの強国について概観することが ・ハエウムはギリシア人植民都市国家セリヌス ( セリヌンテ ) 有益であろう。 の直射範囲にさらされていた。この都市はシシリーのギリシ ア植民地中の最南西部に位し、後背地に広大で肥沃な農地を 第二節カルタゴ帝国 所有することに成功したために、最も人口稠密で、殷盛、強 カルタゴ帝国は前二六四年の第一口ーマ日カルタゴ戦争の力な植民地の一つであった。 カルタゴはすべての機会を利用してシシリーの橋頭堡を拡 勃発より約三百年前の前六世紀後半のうちにこの帝国が確立 して以来、オイクメネーの西端において国際的状況の中で最大、強化しようと努めた。この政策にもとづいて前四八〇 も安定した特徴をもっていた。その歴史の初めから終りま年、アグリゲントウムとシラクサのシシリー ギリシア人公 で、カルタゴ帝国の目的と政策は本質的に防衛的であった。 国を攻撃したが、不成功に終った ( このシシリーにおける この帝国の確立は西地中海におけるヘレニック的発展運動に カルタゴの攻撃とヨーロッパ本土ギリシアにおけるクセルク 対し、前六世紀のほぼ同時期にギリシア人の競争相手である セスの攻撃が偶然で、共同作戦ではなかったとは思われな フェニキア人とエトルリア人によってとられた対抗措置の一 い ) 。同じ政策による前四〇九年と四〇六年のカルタゴの攻 つであった。カルタゴ人は攻勢の時も防衛的目的のため行な撃は成功した。この時は時期の選択がよかった。シシリーの った。シシリー西端における彼らの最初の拠点は不安定であギリシア人は前四三一ー四〇四年のアテネⅱラケダイモン レルモ った。それは三地点 ( スパルタ ) の二回っづきの戦争の第一期にまきこまれ、その ソルント ( ソロエイス ) 、パ 結果としてアテネのシシリー征服の企図の犠牲となって疲弊 ( パノルモス ) および小島のモテュエ ( 前三九八年、シラク サのディオニュシオス一世のモテュエ破壊後、シシリー本土していた。アテネ人の遠征の惨敗に続いて、シラクサ人は遠 に限られていた。隔のエ 1 ゲ海における第一一期の戦争に介入した。このとき、 ハエウムの堡塁がこれに代わる ) パレルモとソルントはシシリー土着民でエルクス岬のりつば 前四〇九年に、二つの最も接近したシシリー人の都市国家で な自然の堡当 と丘陵都市工ゲスタ ( セゲスタ ) を領有したエリ ある南岸のセリヌスと北岸のヒメラ ( ソロエイスの視野内に 、、人の小さな山岳地帯によって遮られていた。エリミ人はギある ) は破壊された。ヒメラは永久に、セリヌスは一時的に、 またアクラガス ( アグリゲントウム ) も前四〇六年、一時的 リシア人の侵入 ( ギリシア人のシシリー領有を完成しようと する最後の企図は、前五一〇年、ス。ハルタ王ドリエウスが h に破壊された。しかしそれより東のシシリーに対しては、カ ルタゴ人はその当時も、また後の場合も、カルタゴの支配下 リクスを確保しようとして、不成功に終った勢力であった )

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上の間であったが、前九〇年、第一一分離戦争の勃発によってし、同時に国の内外に彼らの個別的・集団的勢力を拡大した。 突然、終結した。しかしながら寛大主義またはとにかく、比しかしこのことはその勢力を補強するために「体制側ーが依 拠した主要な手段の一つに過ぎなかった。新貴族家族と個人 較的な寛大主義は、この分野におけるローマのかなり特徴的 な態度であった。そして最後にうち勝ったのはこの寛大な態 が対等な関係で相互に同盟を結ぶことによって獲得した勢力 は、保護制度を通して獲得された勢力によって補強された。 度であった。ローマとの出会いの初期においてさえ、ローマ この制度はもちろん、共和繝期のローマ新貴族層に特有な に好意をもたなかったマケドニア王フリ ィップ五世が前二一 五年、ラリッサ人に対して従うべき範例として、ローマの帰ものではなかった。権力と富の差異が極限に達したどんな社 化政策を保持していたことは意味深い 会においても、一つの共同体は保護者と被護者の二つの補完 ガリア人の侵入の災厄からの復興をもって始まるローマ史的な階級に分化するようになりがちである。ローマ史の過程 において、多数の平民被護者を補充するのにパトリキ貴族が の章の間で、すべての種族と階級の外人の完全な帰化政策よ りは、顕著な外人個人または氏族のローマ新貴族との養子縁成功したことは、彼らをして彼らの特権に対する平民の侵害 を長期間、なんとか避けることができた政治的資産の一つで 組の方がいっそう有益であったように思われる。国内におい て政治的勢力と支持の地方的網目を形成していた外人貴族あった。上昇する平民出の貴族家は、彼らの順番で彼ら自身 の保護関係の網目を構成した。そしてこのことが彼らをして は、彼が自国で親ローマの有力者として活動できたよりも、 ついに。 ( トリキの長く維持してきた政治的・経済的独占を打 ローマ「体制側」の養子成員としてローマの利益のためにい っそう有効に活動できたであろう。したがってもしわれわれ破せしめ得る力の源泉の一つであった。 がローマのコンスル表またはローマ人の結婚縁組のいっそう キ出の新貴族も、彼らの奴隷を解 平民出の新貴族もパトリ 断片的な記録において非ローマ的な名称を見出したとした放することによって富を政治勢力に変質することができた。 ら、ローマ新貴族の平民系における個人または氏族を外人起ローマ法では選挙権をもっローマ市民の解放奴隷は、自動的 章原に帰することはもっともなことである。 に即時に選挙権をもっローマ市民自体となった。ローマの慣 第 習によって解放奴隷は、彼の以前の主人で現在の保護者の利 第七項ローマ「体制側ーの「支配の秘密」 「保護」 巻 益を増進する持続的な義務の下にあった。このようにして奴 と「被護」 第 隷解放は、ローマの諸民会における解放奴隷の保護者の勢力 このように彼らの仲間と「友愛ーと「友好 . の網を織り成を拡大する手段であった。そして奴隷所有者は前三五七 ( 三 すことによって、ローマ新貴族氏族は彼ら自身の成員を増加五四または三五一一 l) 年、奴隷解放に課せられた価格の五パ

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リシア語でアナスパストイき気 97g とよばれた ) の流刑サイ人はマケドニア自体に隣接するマリツア ( へ・フロス ) 植民地を沖合の諸島に設けた。インド洋を経由してインダス流域の有力なトラキア民族であった。 流域、エジプト、イランを連絡する、これらの三つの手段の アレクサンダーが彼の支配体制の脆弱さを自覚し、彼の国 ダリウスは彼の侍医であるクロトンのデモケデスのカの基盤を拡大するために構想力と政治力に富んた施策をと 指揮の下に艦隊を派遣して、オトラント海峡以西のヘレネス ったのは真実である。彼の当初の遠征軍とそれに続く選抜兵 の植民地域を探検させた。この遠征がデモケデスの故郷の都のいずれにおいても、彼はバルカン諸民族を自国のマケドニ 市 ()t) より先に進むことに成功しなかったのは、デモケデ ア人とギリシア都市国家の兵力と同しく利用した。当時のギ リシアにおける政治的・社会的状態はコリント連盟に加盟諸 スの失策ではなく、彼を起用した皇帝の己の失策であ「 国の正規の派遣軍に加えて、ギリシア人傭兵をどれだけでも た。ダリウスの後継者であるクセルクセスは艦隊を派遣し、 エジ。フトの地中海岸からジ。フラルタル海峡を経由してアフリ 雇傭することができた。アレクサンダーがインド侵入に用い 力を周航させた。この遠征もまた成果を収めなかったが、こ た軍隊は大部分、オクソス川とヤクサルテス川の上流域 のアケメネス朝の一連の植民と探検は深い印象を与える。実クトリアとソクジャナ ) とそれに隣接するヨーロツ。 ( 草原地 際、アケメネス朝はその後のローマ人と同じように、幹線道帯の周辺地域からの騎兵によって編成されていた。前三二四 路とともに水路を開発することによって、その帝国の統合に年、彼が征服したベルシア帝国の中心部に帰還した後、彼は 全力を尽くしたのであった。 三万人のアジア人の軍隊を徴集し、武装させ、マケドニア式 ベルシア人とローマ人の事業の堅固さと対比して、アレク に訓練して、マケドニア人軍隊と均衡をとり、さらに彼はア サンダーの帝国の地固めは不完全であった。アレクサンダー ジア人を選抜してマケドニア人の騎兵大隊にのみか、彼の親 は彼の作戦行動の範囲を、彼が掌握し得る軍隊の能力以上に衛隊 Agema の中にさえ編入した。彼はまたベルシア人を諸 拡大した。前三一一六 ー三二五年、彼がインドに侵入しつつあ 州の総督職に任命したり、またはそうすることが安全だと気 ったとき、彼が任命していたトラキア総督のゾビュリオンは づいた場合は現職者を留任させたりさえした。彼は諸州にお ダリウスがダニュしフ下流地方を横断し、ユーラシア草原地 いてこの大胆な手段をとったので、ベルシア人の高官が反意 帯の大西部にまで進入したことの誤りを繰返し指摘した。ゾを抱き、彼が ( アレクサンダーに ) 異心を抱いたギリシアの 。ヒ一リオンはダリウスがやっと避けることができた災難を蒙諸都市国家と海を越えて手を握る根拠地を地中海岸にもつよ った。彼の軍隊がトラキアにおいて遊牧民によって全減した うな気づかいはなかった。しかしながらアレクサンダーはこ いてオドリュサイ人の反乱が成功した。このオドリュ のことを新体制に反抗的でないこれら奥地の諸州の総督の場

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この冶金業は原料をその地方の鉱山から得ていたと推定されェニ戦争の時から、国家契約および政府とのではない業務に 従事した。これに対してオトラント海峡の東では、ローマの 一同盟国であったイタリアの国々と、ロ 1 マの従属国であった テニいフランクが、騎士身分が財産をつくったのは、前 シシリーの国々の市民は、前一二三年または一一三年にガイ 二三年または一二二年にガイウスⅡグラックスが、属州アシ ウスグラックスによって、属州アシアにおける国家との契 アの十分の一税とスクリ。フトウラの徴収という、とくに有利 な業務を彼らに与えたときであった、と主張しているのは疑約業務の大きな活動舞台が開かれるずっとまえから、私的な いもなく正しい ( を cit"V01•)0 他方それ以前に新しい商工業業務に携わ 0 ていた。 他の場所と同様に東部地中海地域でも、イタリア人の交易 者階級が取引した政府の業務の量に対するフランクの低い評 はローマの軍旗のあとについて行った。たとえば第二回マケ 人 ) の詩句と一致しない。 価は、。フラウトウス ( 五〇ごろー一八四 ドニア戦争およびローマ日セレウコス戦争のあいだとそのあ ブラウトウスは、彼の戯曲の多くの個所で資本家を攻撃して とのギリシアにおける冬の陣営では、ロ 1 マ遠征軍の兵士た いるが ( ー七一一七、『金の壺」五一一九ー一一一〇、『。〈ルシア人』四一一一四ー六 それは、彼と彼の聴衆にとって資本家が、いやではあるが強ちがたぶん小規模な商売を行なった。これらのイタリアの兵 士Ⅱ商人がローマ人であったか、同盟国人であったかはわか 力な存在になったと思われていたことを示している。フラン らない。しかし一般にはローマの同盟者であるイタリア人 前二世紀中に騎士身分から元老院身分に上昇した者は ) これもまた真実ではあと、〔ー「の従属民であるシシリー人は、ロー「市民に先ん 少ないと指摘している ( 00 ・。三 . vol. 。 じて東部地中海地域の私的な業務に従事した。 るが、それは、この世紀にローマの新しい商工業者階級が、 マグナーグラエキアとシシリ 1 のギリシア植民市は、前、 広汎な国家業務を支配し、それに相応する富を蓄積しなかっ た証拠ではない。彼らが「体制側」の階級に入るのを妨げた世紀以来ギリシアおよび = ーゲ海と商業関係を持っていた。 アレクサンダー大王の東方遠征以後、シラクサは。フトレマイ 章障害は、経済的ではなくて政治的であった。前一二三年の騎 オス王国と積極的な関係を結んだ。こうして西方と東部地中 士身分の地位は、前三六七 ( 三六四または三六一一 D 年にパト 血縁に基づく口 によって仲間として受け入れられた。フ海地域のギリシア人の共同体のあいだの商業関係は、ローマ ーマの古い貴族 が前三世紀にマグナーグラエキアとシシリーをその支配下に 二レブスの氏族の、それ以前の地位と同様であった。しかし前 一一世紀にパトリキイとプレブスから成る貴族は、前四世紀に置いたころには、もう確立されてから久しかった。ロ 1 マ人 の征服がもたらした新しい特徴は、最初にロ 1 マの同盟者で パトリキイが示した政治的現実への感覚を持たなかった。 あるイタリア南東部の非ギリシア人、次にはローマ人自身 オトラント海峡の西では、私的な企業は、早くも第一回ポ る

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級公務員の何人もローマ市から日帰りできる距離以上に旅行年 ) 、四軍団の兵力をギリシアとアジアに駐留させた。前一一 すること、五人以上の元老院議員が同時にローマ市外に出る 一四年の第一口ーマⅱカルタゴ戦争の勃発と前一六八年の第 ことを禁じる布告を発した。八つの海岸防備植民地によって 三ローマⅱカルタゴ戦争の終結との間に、ローマ人がプルン 提案された、その市民たちに海軍服務を免除する権利を与え ディシウム以東に二軍団以上を保持したのは、これ以外にも るという要求を、元老院は満場一致で却下した。同し前一九う一年だけであった。それは前一六八年、マケドニアとの第 一年に、前年徴集されていた新軍が。フルッテイウムに送ら三回目の最後的な決戦の年であった。 れ、シシリーにおける前年の軍隊はそこに留まり、シシリー これらのロ 1 マの事実と態度はセレウコス王国の威信の偉 の前年の。フラエトルもまた。フロ。フラエトルとして残留し、シ大さとその見かけだおしの外観と不名誉な実態との懸隔の著 しいことを示している。ローマをしてけんか好きなアイトリ 序の脅威にさらされていると考えられた地帯の半分 ア人のテリアを後について来させるよりも、脆弱なセレウフ 以上を防衛する義務にもとづいて、二十隻の艦隊をもって彼 スの巨人を打倒するのに手間がかからなかったのである。 の後継者を援助することとなった。同時に主力艦隊はギリシ ア水域に移動し、前一九一年度の都長官はまだドックに留ま 第五節マケドニア王国 っている旧式戦艦を再艤装させ、解放奴栞階層のローマ市民 を乗組ませる任務を与えられた。ローマが今や武装させた大 前一一六六年において、インド以西の五大強国の一つはマケ 軍に補給するために、シシリーとサルディニアに付加的な十 ドニア王国であった。その復興は当時在位の王で、デメトリ リオルケーテース 分の一穀物税が課せられた。 オス「攻囲者」の子、自称アレクサンダーの後継者アンテ ローマ政府は前一・九一年、テルモビレーにおけるアンティ イゴノス「独眼」の孫にあたるアンテイゴノス日ゴナタスの オコスに対する楽勝とアンティオコスのヨ 1 ロッパ本土ギリ 事業であった。彼は前二七六年、マケドニアの支配者とな シアからアジアへの屈辱的な逃走によっても警戒を緩めなか り、それに続く業績も印象的なものであった。ガリア人の侵 った。前一九〇年の決戦に対して口 1 マ政府はオトラント海入 ( 前一一八〇ー一一七九年 ) は、マケドニアをフィリップ二世 峡以東の軍団数を四つにし、同年、パタラとミュオネッソス沖 が前三五九年以後立て直したときのような絶望的な窮境にお いた。アンテイゴノスは彼の王国を二度までも再建しなけれ の有効なローマ海軍の勝利とそれに続くマグネシアの陸戦の 圧勝によっても、よろめいた巨人セレウコスは今や戦闘力をばならなかった。前二六六年、マケドニアは再び彼の支配下 喪失したことを、なお完全に確信しないままでいた。彼らは におかれたが、彼の権力はフィリツ。フ二世の治世 ( 前三五九 前一九〇年の決定的な年の後なお一一年間 ( 前一八九ー一八八 ー三三六年 ) とリュシマコスの治世 ( 前二八五ー二八一年 ) なんびと

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とギリシアからの奢侈品の輸入を停止した。その当時カルタ捕虜による豊富な奴隷労働力がアグリゲントウム人の掌中に ゴはエトルリアおよびローマと同じく、ヘレニック世界の中帰したとき、恐らくアグリゲントウム人によって創始された ものであろう。この農業革命は第一一巻で論じよう。 心から比較的に孤立した時期をおくっていた。カルタゴがシ アフリカ本土におけるカルタゴの新領土は二つの異なった シリーにおける属州以外のヘレニック世界との通商関係を再 開したのは前四世紀の後半になってからであり、それ以来カ地域から構成されていた。カルタゴの都市国家の地域をなし ンパニア、マグナーグラエキア、ロドス、エジ。フトからカル ている内地 ( コーラ ) では、土地はカルタゴ市民が所有し、 タゴに大量の輸入が行なわれた。今やカルタゴはプトレマイ彼らの奴隷が市民のために果樹とくにブドウとオリーヴの集 オス一世の例にならって、フェニキア本位の貨幣を発行した。約的な栽培を行ない、後背地では農奴ではないが、カルタゴ カルタゴの仲買人としての利益は原住民をカルタゴの支配国家に貢納する原住リビア農民による穀物の収穫が行なわれ ていた。 下におくことなしに得られた。西方植民フェニキア人連盟、 海軍封鎖線と仲買人の利益がカルタゴ帝国が依存した三本の 前四五〇年頃、カルタゴによるアフリカ大陸の後背地の併 柱であった。すなわち政治連盟は海軍の優勢を可能ならしめ 合は十四、五世紀にヴェニスがイタリア本土に領土を獲得し る艦船と乗組員を提供し、海軍の優勢は商業独占を可能なら たことによって生じたと同様な経済的効果をもった。今や貴 しめ、商業独占は艦船と乗組員の経費の支出を可能にした。 族層は彼らの本来の海上貿易への投資の補充または代替とし このカルタゴの体倒は三世紀間の大部分、変更されず維持さて農地に彼らの富を投資した。この経済的利益の代償として れた。この長年月の経過の中で生じた主要な革新はカルタゴ農業奴隷とリビア農民の大量の敵意を抱く従属民をもっこと の政治的支配が三つの方面に拡大したことであった。 となった。カルタゴの都市奴隷は彼らの主人たちから離反し た形跡はないのに、農業奴隷は確かに離反していた。第一口 前五世紀の中頃、カルタゴはそれまで地代を支払っていた ーマカルタゴ戦争後のカルタゴとその傭兵隊との戦いの期 アフリカ原住民の領域を併合した。このアフリカにおけるカ 間、カルタゴ人の農業奴隷とリビア従属民は多数、反乱軍に ルタゴの新領土は現代のテュニジアの範囲内にあった。それ 加わった。第一口ーマカルタゴ戦争の間、カルタゴ政府は のギリシア人の地域を征服するのに は前四八〇年にシシリー リビア農民の収穫物の半分を収奪し、リビア人の都市べの課 失敗した代償であった。このアフリカ地域にカルタゴ人は専 門化した農業を導入して非常に利益のあがるものとした。そ税を二倍にし、その取り立てを容赦なく行なっていたので、 リビア人の反乱の契機は熟していた。既にカルタゴとシラク れは奴隷労働を使用するもので、前四八〇年、シシリーにお けるカルタゴの敗戦後、敗走したカルタゴ軍から獲得されたサのディオニシオス一世との第一および第二の戦争の間、

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は自家消費される。農耕と家畜飼育のうちでは前者の方が古況も従来になく安定することとなった。そしてローマ市民や いとも考えられるが、考古学と文字の記録が遡りうる範囲内 ラテン市民が占取した地域においても、その他の地域におい では、両者ともすでに行なわれている。 ても、もっとも普遍的で重要だったのは農民の小土地所有で イタリアの農民経済にかんしては、高地では低地におけるあり、彼らは穀物生産と家畜飼育によって多かれ少なかれ自 給自足の生計を営んだ。 よりも家畜飼育がつねに大きな役割を演し、また低地ではそ しかしロ 1 マはイタリア半島征服後ただちにポエニ戦争に れはしたいに農耕に優位を譲るようになったと推測される。 はいり、ハンニバル戦争とそのつづきは、イタリア半島征服 しかし本質的にはハンニ。ハル戦争の開始のころに至るまで、 とは比較にならないほど重大なショックを半島の伝統的な農 高地でも低地でも農民経済は農耕と家畜飼育を結びつけたも ンニ・ハル戦争の終った前一一〇一年ま のでありる 、、家族単位で営まれ、自家消費のための生産であ民社会経済に与えた。ハ でにそれは弛緩し、次の三分の二世紀のあいだに完全に破減 このイタリアの伝統的な体冫。 」こよ二つの明白な弱点があっ 前一一六六年のイタリア半島の政治的統一以来、潜在的には た。第一にそれは国土の資源をもっとも生産的に利用するも のではなかった。第二に地域が異なるに応じて住民への分配存在していた新しい経済的可能性を現実のものとする道がこ の割合も異なった。山地の農民は平地の農民に比べると貧困こに開かれた。その新しい経済制度が現われて、古いローマ の貴族と新しいローマの商工業者階級に利益を約東すれば、 であった。高地の住民がつねに低地を襲ったのはそのためで あった。しかし高地の住民の問題は、ロ 1 マのイタリア半島破減した農民には、もはや彼らの祖先伝来の生活様式を守る 征服によってけつきよく未解決のままになった。一方ロ 1 マカはないであろう。 による半島の政治的統一は、当時のもっとも有効な技術を使 第四章二回っづき戦争の第二の勝負とその勝 用して、国土の生産力を全体としてもっとも高い水準に引上 げるために、半島の経済を組織しなおす可能性を初めて生み 負のつづきの結果としてのローマとイ タリアの同盟諸国との関係の悪化 しかしローマのイタリア半島征服が、半島の伝統的な社会 経済制度に与えた衝撃は、その制度を打破するには余りにも 第一節心理的傾向の変化 いものであった。この征服にはもちろん混乱が伴ったが、 イリア半島の統一は、イタリアまたは海外の他のどの国 征服によって半島の政治的状況が安定すると、社会経済的状

10. 世界の大思想34 トインビー

108 家においては、市民総会は運営し難くなったであろう。他 くスパルタ、ヘラクレアーポンティカ、シラクサ、アクラガ 方大なり小なり、どんな都市国家においても、ポリテウマ ス、アテネおよびローマだけが、それ以上に広大な領域をも (politeuma) ーーーすなわち有効な権力を行使する人口の部分っていた。スパルタとヘラクレアの領域では、田園人口は市 は、その地域の全成年男子人口と同じ範囲ではなく、生民ではなく、農奴から構成されていた。そしてス。、レ / ノタて ( まれがよく 、富裕な少数者に限られるーーーそれは実際ローマ は、成年男子人口の大多数は恒久的に都市自体に動員されて 人の都市国家においても事実上、初めから終りまでそのよう いた。シラクサ、アクラガス、アテネでは、最遠隔の田園の であった。それでも、〈レ = ック世界の諸都市国家の圧倒的市民は、彼らの家から首都まで一日の中に歩き着くことがで 多数は、多かれ少なかれ上述の状態にびったり合っていた。 きるし、したがってもし彼が一晩またはせいぜい二晩家を空 前二六六年までは、ヘレニック諸都市国家のうちでシラクけて滞在することができたら、公務に有効な役割を演じるこ とができた。 サ、ス。 ( ルタ、アテネだけが本国の基地から遠距離に長く続 いた陸軍または靃軍の作戦を行なったに過ぎなかった。シラ ローマ史の第一章では、田園のローマ市民がローマで用事・ クサはこのことをカルタゴと同じ方法で用意した。それは傭をたすのに、一晩家を空けることさえ不必要であったであろ 兵を使川した。スパルタとアテネは市民の陸兵または水兵をう。歴史時代にアイ ( ルウアリア祭 ( 五月、農業収穫の前に【ー 使用し続けたが、両国ともこれらの市民兵を私の仕事をして祝ったアゲルーロマヌスの本来の地域は、なお十分理想的な 生計をたてるという市民通常の必要から解放した。ス。ハルタ 限界内にあった。この中核のアゲルーロマヌスの直径の平均 市民兵は彼らの農奴 ( ( じの農業労働の生産物によって支え の長さは、十三キロかそれ以下であった。その地域は前五世 られ、アテネの市民水兵は、名目上はアテネの同盟国である 紀末、ローマ史がいっそう鋭い焦点になりはじめた時点まで が、実際上はアテネ海軍の支配が続いている限り、アテネの に著しく増大した。アゲルーロマヌスは今や南西方はティベ 従属国であった他の諸都市から徴収した貢納金によって養わ ル河口のオスティア、東方は約十七キロ離れたコラティア、 れていた。ス。 ( ルタの衛星国であったラコニア諸国を含む他そして南東方は約一一十五キロに拡大し、アルヌス湖と山を の諸都市国家は、軍役は余暇の仕事であった市民から彼らの包含した。この時までにローマは、アル。ハ ーロンガの以前の領 軍隊を徴募した。 域をすべて併呑した。しかしそのときでさえ、ローマ人の都 また田園の市民が居住する最も遠隔の村落が市場の所在地市国家の最も遠隔の市民も一晩家を空ければローマ市におけ より十マイル以上もあるヘレニック都市国家の領域の数は極るさまざまな国民的議会に出席することができたであろう。 めて少なかった。数百のヘレニック都市国家のうちで、恐ら前五世紀後期と前四世紀初期、フィデナ工、クルストウメリ