アイトリア - みる会図書館


検索対象: 世界の大思想34 トインビー
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1. 世界の大思想34 トインビー

パルタの同盟国のほかに、アイトリアの同盟国をも征服し、 オイタイアの編入によってアイトリアが達成した、テルモビ 前一三 ) でクレオメネス三世 ( に州 = ライ越えの西の入口の支配は、前一一六二年ごろの東の入口 またセラシアの戦い ( 一一年 沿いの北東ロクリス、前一一五九年ごろのプティオーティスーア 。タ ) を打倒した。 王 こうしてマケドニアはアイトリアを孤立させることに成功 カイア西部、前二三五年ごろのマリス編入で完全なものにな した。そしてその後の前二一九ー二一七年と前二一 た。前一三九年に「ケド = ア王デメトリオス二世 ()i 馗旦 ~ 年九 ) が死んだのち、アイトリアはプティオーティス , アカイ六年の二度のマケド = ア日アイトリア戦争で、アイトリア ア東部だけでなく、テッサリアを構成する四つの地区のうちは、ひどい領域の喪失と軍事上の屈辱を経験した。前二一 の三つをも獲得したらしい。またマケド = アは前一三七ー一一年と一一〇七年にフィリップ五世は、アイトリア同盟の首府テ ルモスを寇掠した。この二度の戦争のうち第二回目の時に 二五年に、マケドニアの戸口にあるべライビアをさえアイト は、ロ 1 マがアイトリアの同盟者になっていたが、アイトリ リアに奪われたようである。前一三六年ごろ絶頂にあったア アの損害は第一回目の時より大きかった。前一一〇八年にフィ イトリアの勢力は、「マケドニアのそれよりまさってはいな 丿ツ。フは、テルモ。ヒュライへの東の入口にあるトロニオン かったにしても、等しいとみなされなければならなかったで R. Flace1iére, Les ゝ = 0 = ミ ~ s と、フォーキス北部のテイトロニオンおよびドリュモスを征 あろう」 ( ミト、ミ s , 1934 や 258. しかしアイトリアとマケドニアのあいだの勢力均衡のこの服した。前一一〇七年に彼はヒスティアイオーティスとテッサ ド 1 ソンのもと リオーティス、またおそらくドロピアと。フティオーティスー 劇的な変化のあとには、アンテイゴノス でのマケドニアの同様に劇的な急速な回復が続き、さらに次アカイア西部の大部分をふたたび征服した。前二〇六年にア イトリア人は単独講和を求めて、それを与えられた。この時 には前一三五ー一一〇一一年のアイトリアの運命の干き潮が続い にはフィリップは、打ち破られた敵をある程度の自制心と寛 た。前二二五年までにアイトリアはペライビアだけでなく、 容をもって扱ったらしい。彼は。フティオーティスのファルサ 章フォーキスの北部と南東部およびオ。フョスをも失った。フォ ロスと、。フティオーティスーアカイアのエキノスおよびラリ + ーキス南部の離反は、デルフォイをむき出しにした。同時に 第 ポイオティアがアイトリアからマケドニアに投じ、ドーソン サークレマステ 1 、またたぶん戦略的に重要なトロニオンを 巻 は、前二二四年に組織したギリシアの諸国の同盟に、ポイオもアイトリアに返したようである。しかし前一一〇二年にフィ 第 リツ。フは、アイトリア人の海外の領土であり、またギリシア ティアを入れることができた。ドーソンの同盟とスパルタ間 の戦争 ( 前一三四ー一一二一一年 ) において、アイトリアは中立が輸入穀物と塩魚の大きな部分を手に入れるさいの通路をな を守ったが、マケドニアとその同盟国は、ペロポネソスのスす、狭い海に臨む足場でもあった、リ「一シマケイア・カルケ

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さいして、ローマは巧みに行動した。ローマはマケドニアが許した。これは、ロドスへのリュキア贈与を取り消すため 倒れ伏すまでは、前一八九年に切り詰めさせた限界内で、ア に、ローマ政府がすでに用いた外交上の技術であった。つい イトリアをそのままにしておき、そのあとで残忍に切り刻んで前一四七年にローマ政府は、アカイアを裸にしてしまうこ 間一六六年にはアイトリアはローマの側に立って戦った とを企てた。 が、その時にローマから加えられた領域の喪失は、アイトリ 前一六七年のアンフィポリス会議で、ローマの講和委員 アがローマの敵であった前一八九年にローマから加えられた は、イタリアに追放するために、エベイロス・アイトリア・ 領域の喪失よりも、もっと厳しかった。 アカルナニアだけでなく、 : ホイオティアとアカイア同盟にも 害のない小国であるアカルナ = アは、失った領域を取り返指導的政治家の引渡しを要求した。アカイア以外の場合には さなかったが、それでもその主な市であるレウカスを奪わ委員はたんに、当該国の政府に人名の表を送ったたけであっ ガイウス“クラウ れ、多数の指導的なアカルナニア人が追放されてイタリアに た。アカイアへは二人のもっとも著名な委員 ( デイウスいプルケ 送られた。ローマの目から見たアカルナニアの罪は、マケド ウ ,. 。ア〈ノ・ ( 生ハス ) が、みずから引渡しの手筈を整えるため = アとアカルナ = アに共通の敵のアイトリアから自分を保護に赴いた。押収されたマケド = アの公文書にもとづいて、マ してくれた、マケドニアへのアカルナニアの同情であった。 ケドニア政府と通じていたことが積極的に証明されたアカイ ギリシア人の領域のこの再分配において、アカイア同盟とア人は、一人もいなかったので、アカイア人一般は憤慨し アテネはローマの掃除人の役を勤めた。アカイア同盟はロー た。そこでアカイアでの引渡し要求は、カリクラテスとその マから、以前のアイトリア人の市である。フレウローンとヘラ徒党への攻撃をひき起こすかもしれないと恐れられた。それ クレイアーオイタイアを受け取った。アテネは、掠奪された とは対照的に、押収された書翰は、少なくとも一一名のロドス イオティアの町ハリアルトス、以前のマケドニアの島スキ の政治家ディノーンとポリュアラートスにとって、のつびき ュロス・イン・フロス・レムノス、および従来は独立だったデならない証拠になった。ポリュアラートスはローマ政府の要 ロス島を要求して、与えられた。アテネはデロス人を追い出求で、。フトレマイオス政府によってアレクサンドリアから送 デロス人はアカイア人の領域に避難し、アカイア人のり出され、けつきよく口ーマに引渡された。 市民権を与えられた。アカイア同盟は前一六七年には少しも ローマ政府の反応は予想できないものであった。前一六七 領域を取上げられなかったが、前一六四年にローマの使節ガ年にはローマに対して何ら罪を犯さなかった多数のギリシア イウス日スルビキウスガルスは、アカイア同盟から分離す人の政治家の追放を強要したが、前一六一一年にはローマの委 る許可を求める使節をローマに送ることを、。フレウローンに員グナエウスオクタヴィウスを暗殺した、 ( シリアの ) ラ

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デルフィのアポロンとアンフィクティオニー会議の権利に た。連盟のためにこれらの投票を行使する全権を選出するに 当って、アイトリア連盟政府は、特定のアンフィクティオニ 対する如何なる侵犯もギリシア世界の良心に衝動を与え、非 難を喚起して、侵犯者に対する仮借のない処置がとられかね 1 の投票権が属している、特定の連盟編入の共同体の国籍の なかった。デルフィにおいてアイトリア人は他所者であつ者に限定しなかった。アイトリア連盟に編人されているアン た。彼らはアンフィクティオニ 1 の原初メンバー外であり、 フィクティオニー加入者の代表としての服務に対しても連盟 ヘレニック都市国家文化圏外にあった。そこで彼らがデルフ政府は「旧アイトリア」人の他にも「新アイトリア」人をも イを支配したとき、一つの危険を冒しつつあった。彼らはこ含んだ如何なるアイトリア人をも選出し得ると見なした。 のことを意識し、デルフィに対する彼らの権力の実在を否定 このようにしてアイトリア人のアンフィクティオニー会議 することなしに、面倒な結果をひき起こさないような努力をにおける投票数は前二二六年秋には最高十五票に達した。し 払った。 かしその後は下降線をたどり、アイトリア人のデルフィにお いて彼らの地位の承認を得ようとする企図は結局デルフイ人 まずアイトリア人はデルフィを連盟に編入することをさし にも、広くへレニック世界にも受け容れられなかった。今や 控えた。デルフィは共通市民権 (sympoliteia) の有機的な拘 東によってでなく、おそらくより疎遠な紐帯、すなわち民事アイトリア人はデルフイ人とヘレニック世界の感情を公然と 権の事柄においては他の国家領域における双方の国家の市民愚弄することでは満足しないで、アンテイゴノス = ゴナタス による市民権の享有 (isopoliteia) によってアイトリア連盟死後のマケドニアに挑戦したが、一時の優勢ののち劣勢に陥 った。アイトリア人の最大の、致命的な愚行は、ローマ人が に結びつけられた、公式上は主権独立国家でありつづけた。 アイトリア人はそのデルフィにおける優越期 ( およそ前三〇前一九七年、アイトリア人の旧敵マケドニアのフィリツ。フ五 〇ー一九一年 ) の間、アンフィクティオニ 1 会議の如何なる世を決定的に破ったことを見せしめとして、如何なる他のギ リシア人の勢力も口 1 マを敵とする戦いに些かの勝利の見込 メン・ハ 1 をも会議参与から排除したことはなかった。また彼 章らはマケドニアのフィリップの先例に従って、会議の二十四みももち得ないであろうと、希望をうち砕く宣一言をしたとき に ( 前一九二年 ) 、旧同盟国ローマと交戦したことであった。 第議席のうちの一つをもアイトリア本国のために要求するよう 巻なことはしなかった。他方アイトリア連盟はそれ自身の名に この運命的な決定をなしたアイトリア人の愚行はローマに 第おいて、アンフィクティオニ 1 の原初からのメンバ 1 であ単独で挑戦するという極端さでなかったことは事実だ。彼ら は同盟国セレウコス家の力を過大評価する第二の誤算をなし 、養子によって今やアイトリア人となったこれらの「新ア イトリア」人たちのアンフィクティオニ 1 の投票を行使し たとはいえ、この点ではローマ人と大差はなか 0 たÄ) 。

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ドン・キオスを占領した。同じ年の冬にファルサロス・エキ引続き抑えておくことに固執したために、前一九二ー一八九 ノス・ラリサークレマステー・プティオーティスのテーベ年の戦争の種子が播かれることになった。前一九二年にアイ トリア人はフラミニヌスの個人的警告を無視して、ギリシア は、アイトリア同盟を脱して、ふたたびマケドニア側に入っ に上陸するようにアンティオコス三世を招き、彼の到着を待 たらしい。アイトリアは軍事援助の復活をローマに訴えた たずに、デメトリアス・カルキス・スパルタを占領すべく遠 が、失敗した。 キュノスケファライの戦いののち、今度はマケドニアが屈征軍を送ったのである。 ローマ人は、彼らが言明した政策はギリシア人の解放であ 服させられた。当然のことながらアイトリア人は、マケドニ って、かって一つのギリシア人の権力に従属していたギリシ アの儀牲においてふたたび相当の利益を得ることを期待し ア人を、他のギリシア人の権力の下に移すことではない、と た。しかしフラミニヌスは、初めて戦場で戦って打ち破った いうことを思い出させて、自分の行動を正当化することがで 敵に対しては、穏和な条件を許すのがロ 1 マのならわしであ きた。彼らは、。フティオ 1 ティスのテ 1 ペ以外は、テッサリ る、とアイトリア人に告げた。彼はアイトリア人は、。フティ オ 1 ティスのテーベだけを受けるべきであると主張した。そアとプティオーティスーアカイアの、マケドニアが譲渡した してテーべとタウマコイ以外の。フティオーティスーアカイア領土を、アイトリア人に引き渡すことを拒否した。彼らはテ ッサリアを独立国にし、アイトリアが保持ないし回復しなか は、アイトリア同盟にふたたび吸収されないで、けつきよく った限りのプティオーティスーアカイアを、そのテッサリア 新しい独立国テッサリアに含まれた。ロ 1 マの講和委員はた に所属させた。一方、ローマ人は、マケドニア支配以前のプ ぶん、アイトリア人が前一九八年に征服したテッサリオーテ イス・。フティオーティスーアカイア・ドロ。ヒアの諸地点を保ティオ 1 ティスーアカイアと同じく、かってテッサリアの覇 持することはアイトリア人に許し、またたしかに、かってア権のもとにあったマグネシアとペライビアには、独立を与え た。しかしギリシア人の権力の支配からギリシア人の小国家 イトリア同盟に編入されていたが、のちマケドニアに征服さ れ、いまそれから解放された、フォーキスおよびロクリス東を解放しながら、ローマは自己の利益のために行動していた ことも事実であった。 部の諸共同体を同盟にもう一度編入することを許した。 責任のある有力な地位についているローマの「体制側」の フォ 1 キス東部の回復は、アイトリアにとってかなりの価 値があった。それにもかかわらずアイトリア人は、前一九六個々の代表者で、誠実・公平無私なギリシア好きもいた。フ ラミニヌスや大スキビオがそうであった。前一九六年にフラ 年のローマの講和の取り決めにひじように不満であった。じ マが言明 ミニヌスは、ギリシア人を解放するという、ロ っさいその講和の取り決めで、ローマがアイトリアの勢力を

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332 領地を回復しようとしたセレウコス王国の二度の試みは、い 結ばれた、マケドニアに対する第一回ローマアイトリア同 ずれも失敗した。そして前六四年にセレウコス帝国の残存部盟は、両当事者相互に幻減を感じさせる結果に終った。両者 の直接統治を引き継いだのち、ローマはアルサケス王朝をパ は単独講和を結ばないと誓約した。アイトリア人は、ローマ ビロニアから追い出そうと試みたが、やはり成功しなかっ は規定された兵力をオトラント海峡の東に維持しなかったと た。前一六二年に疑い深くセレウコス王国の武力をたち切っ の理由で、その誓約を破った。理由とされた事実は、そのと たために、ローマはアジアにおける王国の遺産のうちのもっ おりだったかもしれない。しかし正当であったにせよ、アイ とも価値の大きい部分を、前もって失うこととなったのであ トリア人の同盟不履行は、今度はローマ人にマケドニアと和 る。 を講することを余儀なくさせた。 ローマが、その主な敵・犠牲者であるギリシア人にとって 聖一〇二年の秋にアイトリア人が、マケドニアと戦うため 憎むべきものとなったのは、たしかに不可避のことであっ に来援するようにふたたびローマに訴えたとき、ローマ政府 た。たとえばタレントウムは、ローマ擡頭以前のイタリア半は拒絶した。前一一〇〇年にロ 1 マがふたたびマケドニアと戦 島の第一流のギリシア人の都市国家であった。タレントウム いを交えたとき、アイトリア人は最初ためらって、前一九九 が無理矢理にローマの従属的な同盟国にされ、半島のローマ年まで動かなかった。また彼らは、キュノスケファライにお の同盟国のうちで、永続的なローマの守備隊を背負い込んだけるローマ人およびローマ人と同盟していたギリシア人の共 唯一のものとして選び出されたのは、屈辱であった。マケド 同の勝利の直後に、フラミニヌスと仲たがいした。アイトリ ニアとセレウコス王国が大国でなくなり、その地位の喪失をア人は、彼らの騎兵がいちじるしく貢献したと主張し、最小 万人の前に広告されたのは屈辱であった。タレントウムが前 限として、前二二五年ごろからしだいにマケドニアに奪われ 二一三年にローマ連邦から離反し、マケドニアがキュノスケ た領域全体の回復を期待したのである。 前三世紀の四分の三のあいだ、アイトリア同盟はますます ファライの戦いの結果を逆転させようと二回も企て、前一六 二年に亠」レウキスで反ローマ感情が爆発したのは、不思議で強力になった。同盟はデルフォィーアンテレーーアンフィク デルフォイのアポロン神殿と、テルモ。ヒュライ付近のアンテレ ロ ーマの仲間または同盟者が次々にローマと仲たが ーのデメテル神殿を中心にして、その祭儀の維持のために周辺 いしたのは、もっと重要である。 の諸第鏃が組贓し ) に属する共同体をしだいに多く編入したので、 オトラント海峡の東でローマと同盟した最初のギリシア人アイトリア人の政府が行使したアンフィクテュオニアの投票 であったアイトリア人は、ローマと仲たがいした最初のギリ 数は、前二六六年に保持した六票から、前一三六年ごろの一一 シア人でもあった。前二一二年の秋または前二一一年の眷に十四票中の十五票に増加した。前二七八年のヘラクレイア・

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割をエベイロスで果たしたのは、地方 ( たぶんカオニア ) のらかを選ばせるようにと、使節に勧告した。アイトリア人の 政治家カロ。フスであった。彼の祖父はローマで教育を受けさ集会はそれに対して、老練なアイトリアの政治家トアスに暴 力を加えることをもって答えた。彼は前一九二ー一八九年の せるために、彼をその地に送った。ポリュビオスによれば、 工ペイロス政府が前一七〇年の春に、マケドニア側に立って戦争中は、反ローマ派の大立物であったが、いまでは改心し たことをローマ人に納得させようとして、反ローマ派告発の 第三回マケドニア戦争に干渉した責任は、カロ。フスにあった 黒幕になっていると疑われていた。ローマの使節は、アイト カロ。フスはローマでエベイロス政府を親マケドニア リア人の人質要求についてはそれ以上何も言わなかった。ア 派であると告発し、政府を追いやって、彼が告発したとおり のものになるように仕向けたのである。 カルナ = アでは、その地の「クイズリング ( 一既八七ー一九四五 前一七一年の戦争勃発後、ロ ] マ政府自身が、疑わしいギ チ党首、一九四〇年のドイツのノルウ = ー侵 ) 爬自国の内部崩壊 : 、 入後、一時ナチ党のかいらい政権を立てた リシア人の政治家に対して処置をとり始めた。最初の騎兵戦ケドニアに国を売ろうと企てている一派があるからとの理由 でロ 1 マの守備隊の駐屯を使節に求めた。しかしこの提案は でローマ軍およびそれと同盟していたギリシア軍のこうなっ た敗北の責任は、他の同盟者によってアイトリアの騎兵に負アカルナニア人の集会ではなはだしい反対をひき起こしたの わされ、アイトリアの五名の指揮官が、ローマの厳命で追放で、ローマの使節もその採用を思いとどまった。アカイア同 コン盟では、「クイズリング派」がそうでない者たちに「泥を塗 されてローマに送られた。前一七〇〔六九〕年の冬に、 る」あらゆる機会をたえず阻止する目的で、アルコーンとポ スル代行のアウルス日ホスティリウスマンキススがギリシ リュビオスが官職に選任された。この公正な政策は小心翼々 アの国々の巡歴に派遣した使節は、・ キリシア人の政治家のう と実行されたが、それでも戦争終了後に、「クイズリング派」 ちで誰がほんとうにローマのために熱心で、誰が最小のこと しかしていないかはわかっているとほのめかした。アイトリでないアカイア人の指導者が追放を免れることはできなかっ 章アでは使節はアイトリア人の集会に出庸して、人質を要求し + た。ここで反ローマの政治家。フロアンドロスは、彼の告発者 ローマの当局者がギリシア人の指導者に対してとった戦後 第 を攻撃して、自分自身を弁明したが、リュキスコスは、名前 の処置は、すべてがすべて理由がないというわけではなかっ 二は挙げずに反ローマ主義を全面的に非難した。彼は、ローマた。ギリシア人の「マッカーシー ( 為とくに容共連動を、多くは十分 第 の当局者がすでに五名のアイトリアの指揮官を追放したこと 知れるアメリカの上院錵員 ) 派」の告発の多くは根拠のないもの を賞賛し、追放された者たちの徒党には、その子供を人質とであり、またそれらはすべて疑いもなく不純な個人的動機か キリシア人の . 反ローマ主義は単純にギリシ してローマ人に引き渡すか、自分自身が追放されるかのどちら行なわれたが、・ こ 0

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ンが終らないうちにアンティオコスを撃破するまで、余裕が牲を払うことになった。 マケドニア王フィリップ五世は、アイトリア人の次にロ 芻与えられたのである。 マと同盟したとき、彼らと同じ幻減を経験した。前一九六年 フィリツ。フ五世と ( ン = パルの同盟の時 ()å隻 ) 以後の、 オトラント海峡の東のギリシア人の国々に対するローマの政の講和の取り決めは、前一一〇六年のそれがアイトリア人を窮 イイフを窮乏の状態に置 策は、ベルシア帝国とラケダイモンが、前三八六年にギリシ乏の状態に置いたのと同様に、フリ、 スパルタの政治家・軍人 いた。それは、遠隔の地の領土を彼から奪った。前一九二年 ア人の国々の独立をアンタルキダス条約 ( のアンタルキダスが、。へ ルシアと結んだ条約。それによって小アジアのギリシア諸市がベルシアの支配に にアンティオコス三世がローマと戦争を始めたのち、フィリ 服し、エーゲ海北部の二、三の島がアテネに属したほかは、すべてのギリシア諸 ツ。フは、前一一〇〇年にローマがフィリッゾと戦争を始めたの 市の独立の指導原理としたときに、追求した政策であ 0 た。 ちに、アイトリア人が見つけたと思ったのと同じ機会を見つ それは分割統治の政策であり、この政策を追求した強国は、 分裂が大きければ大きいほど、自己の支配は強力になると信けたと思った。フィリップはローマの側に立って干渉して、 たぶん幸運を取り返すことができたであろう。前一九一年の ローマが行なった分割の第一歩は、残存する二つのギリシ戦役シーズン開始前にフィリツ。フがローマに中し出た人員・ ア人の大国であるマケド = アとセレウコス王国から、属領を金銭・穀物の提供は辞退されたが、彼はローマ政府から、ギ リシアでコンスルのマニウス日アキリウスⅱグラブリオを 奪うことであった ( プトレマイオス王国はすでに、アンティ オコス三世とフィリツ。フ五世によって、属領の大部分を奪わ助するように、正式に招かれた。そこでフィリツ。フはラミア を攻囲したが、グラ。フリオは囲みを解くように指示した。そ れていたので、ロ】マはこれについては心配するに及ばなか ィッ。フにアタマニア の埋め合わせとしてグラブリオは、フリ った ) 。ローマの次の関心事は、その二つの大国のいずれか 闘ってやに対する行動の自由を与え、また現在アイトリア人の手中に に対してーーーじつはローマが自分自身のために った小国がどれも、退けられた大国の後がまに坐らないようあるテッサリアの都市のどれをも、マケドニアにふたたび併 ィッ。フはデメトリア 合してよいという保証を与えた。フリ にすることであった。第二回マケドニア戦争後ローマは、ア イトリアがギリシアでマケドニアのあと継ぎになるのを阻止ス・ドロ。ヒア・アベランティア、およびペライビアの若干の することに成功した。しかしローマはそのために、東部地中地点を奪い、アタマニアの占領にも何とか成功した。ローマ 海地域でもう一つの戦争「セレ ) をひき起こし、さらに政府が、ローマに人質になっていたフィリツ。フの子のデメト アイトリアの競争相手であったアカイア同盟が、ローマにと リオス ( 前二 ( ごろー一八一年。最後 ) を釈放したとき、フィリッ って好ましい以上の大勢力に成長するにまかせる、という儀。フは元老院の感謝と信頼をかち得たかのようにみえた。さら

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時のギリシア人の貴族は、相互に争ってずたずたに引裂く以およびその他のギリシア世界を救うのに、まだ遅すぎはしな 上に、巨大な戦利品を利用することができなかった。ローマ かったかもしれない。ナウバクトスの平和が結ばれたのは、 前二一七年の初夏のころで、ギリシア・エーゲ海・タウロス が接触するようにな「たギリシア世界は、分かれ争う家 ()( ナウバクトスのアゲラ 書』「マタイによる福 山脈のこちら側の小アジアは、地中海西部の軍事上・政治上 ) であり、「西方からの雲」 ( オスが前二一七年のナ 音書」一一 ゥパクトス会議で、イタリアにおけるハンニ・ハル戦 ) の接近も、共同防衛の渦の中にまさに引き人れられようとしていた。ギリシアに 争の成り行きに注意を喚起したときに用いた言葉 に協力するために相互の争いを停止しようという気持を、ギ政治的統一を成就すべき誘因は、はなはだ大きくなっていた 9 リシアの国々に起こさせなかった。 キリシアの国々はもはや独立を いま統一を達成しなければ、。 もしギリシア人が、せめてマケドニア王フィリツ。フ二世の維持できないことが明らかになった。それなのにギリシア人〕 ヘラス連盟の通称。前三三八年にフィリップ二世を盟主と は、彼らの政治上の救済のために必要だとわかっていること コリント同盟 ( 日し、スパルタを除く全ギリシアのポリスと種族によって結成 盟ナ ) なりと維持したならば、統一したギリシアはそれだけをしなかった。前二一二年の秋にローマが、対「ケド = ア軍 で、ローマのイタリア半島連邦より遙かにまさるものとなつ事同盟を結ぶようにアイトリア人を誘ったとき、彼らは、前一一 二五年以来マケドニアから受けた領土の損失のうちのいくら たであろう。第二回ポエニ戦争中の前二一七年に、アイトリ ア同盟の政治家、ナウバクトスのアゲラオスは、この西方の かを埋め合わせる機会として、その誘惑に屈した。ローマと いう狼が、ギリシアの羊小屋の中に入れられた。オトラント 闘争の勝者がギリシア世界の光輝を奪うだろうことを予見 し、切迫した危険に立ち向かうために、互いに提携するよう 海峡の東のギリシア人の社会は、フォーキスのアンティキュ に彼の同胞であるギリシア人に勧め、とくにフィリツ。フ五世ラとアイギナにおいてローマ人の恐るべき残忍さをさっそく ギリシア人を疲れ果てさせることを止めれば、。 、 ) 、その教訓はな キリシア見せられたが→キ = ラ住民を大孀模に奴隷化した 人の好意をかち得て、予期される将来の攻撃者に対する忠実お心に留められなかった。アイトリア人はなるほど、六年間 . な戦友としての行動を彼らから確実に期待できるだろうと論 ためしてから、ローマとの同盟を考えなおしてやめにした。 じた。これらの点を強調した彼の演説は、アイトリア同盟前一一〇六年に彼らはふたたびアゲラオスを最高官職に選び、 が、マケドニアおよびギリシア南部のマケドニアの同盟国と もう一度マケドニアと講和した。しかし前一一〇〇年にローマ 和平交渉を行なった会議でなされたものであった。 がまた同盟者になるように誘ったとき、アイトリア人はけっ この時にはギリシアの両交戦者は、じっさい相互に和解し キリシア人の国際舞台におけ きよくその時も誘惑に屈した。。 た。もし彼らがたんにお互いに戦闘を停止することからさら るローマの干渉の初めから、エウフラテス川以西の全ギリシ・ キリシア に進んで、積極的に共同防衛を取り決めたならば、。 ア世界に対するローマ支配の確立の完成に至るまで、同様の

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イトリア同盟との同盟条約では、敵の都市を占領したとき、 奴隷を輸人する機会によって補足されたことがわかる。しか アイトリア同盟は土地、ローマ人は人間を含む動産を得るこ しこの幸運な機会の一致も、それらの機会を利用するのに必 とが規定され、しばし・はそれが無慈悲に実行された。しかし要な資本が自由にならなければ、実を結ばなかったであろ この取りきめは、まもなく口ーマを当事者としない同盟条約う。ハンニバル戦争の始まるころには、ロ 1 マの「体制側」 だけではなく、元老院身分に属さない商工業者階級の手中に においても模倣された。 未曾有の大きさの戦争が地中海域で勃発する直前に、大量もすでにかなりの資本が蓄積されていた。この資本は第一回 ポエニ戦争のあいだに得られた利益の結果だったかもしれな 奴隷化という野蛮なならわしが、オトラント海峡の西側では 。そして第二回ポエニ戦争中に、元老院身分を先頭とする ローマ人によって維持され、東側ではアンテイゴノス日ドー 富裕者層は、強制されて、または自発的に政府に貸付を行な ソンによって復活させられたことは、当時の世界にとって、 悲劇であった。前二一八年に始まる一世紀間、軍事行動に伴うことができた。 う大量奴隷化の規模は、軍事行動そのものの規模と比例して ローマが勝利を収めたので、これらの貸付は政府への債権 いた。前一一〇〇ー一五〇年の半世紀間だけで、二十五万人の者に利益をもたらした。ロ 1 マの国庫は、前二一〇年の自発 捕虜奴隷がイタリアに輸人されたと算定されている。前一七的な貸付を、初めの二回はハン一二ハル戦争終結以前に貨幣の グラックス ) 形で、三回目は前一一〇〇年にローマ市から半径五十マイル以 七年にティベリウスⅡセンプロ = ウスグラックス ( 兄弟の父 はサルディニア人八万以上を殺害または捕獲し、前一六七年内の公有地の形で、三回に分けて償還した。前一九三年には にルキウスⅡアエミリウス ! ( ウルスは、モロシアで十五万ローマに金融恐慌が起こった。価値の大きい土地を手に入れ た政府へのかっての債権者は、その土地をいっそう開発する 人の奴隷を得た。他方ローマ人は前二一一 ー二一一年にはカ ために借入れを重ね、イタリア南東部の新しい広大な公有地 。フアとシラクサの自由民を奴隷に売ることをしなかった。ま た前一一〇九年にはタレントウムの自由民に対してもたぶん同の占有者も、それにならったと推測される。をこで賠償金と 掠奪品で大いにふくらんだ国庫をかかえたローマ政府は、末 様であったっこれはローマ人の名誉になることである。 前二六四年の第一回ポエニ戦争の勃発から、前一三三年の払いの貸付をすべて償還したのち、戦時中の財産税をも貸付 とみなしてその償還を始めた。 4 スキビオによるスマンティア征服までのあいだに、何度も 何度も大量奴隷化が繰返された。 その償還は、前一八九ー一八八年のアナトリアにおけるグ そのリストから、イタリア半島の中に市場を発見し、農場ナエウスマンリウス日ヴルソの掠奪作戦の収入によって、 前一八七年にじっさいに完了した。 農業と遊牧家畜劑育のための土地を獲得する機会が、同時に

10. 世界の大思想34 トインビー

い五百五十名の議員が、リ、キスコスとその一派が、その地方無力にするには十分にではなかった。これは、前一九七年以 のローマの守備隊の指揮官アウルス ハエビウスから借り受来のマケドニアの顕著な回復のために、ローマ政府が処置を けたローマの兵士たちの手で虐殺された。アイトリアは、本取ったのであることを考えれば、賢明ではなかった。彼らは 来のアイトリアの不可欠の一部ではなく、かつ前一八九年に マケドニアとの戦後の友好関係を促進するか、またはマケド 切り離されなかったほとんどすべての領域、すなわちアイニ ニアを徹底的に粉砕すべきであった。彼らはけつきよく第三 アニア・オイタイア・ドーリス・二つのロクリス・アンフィ 回マケドニア戦争を戦うことで、この失敗に対する報いを受 ロキアを奪われた。そのうえアイトリア本土の中心にある。フけなければならなかった。 ローマ人はアイトリアを扱うさいには、同じ誤りを犯さな レウロ 1 ーン市を失った。アイトリアが保持することを許され た唯一の占領地は、前三三八年以来アイトリアのものであっ かった。テルモピュライにおける勝利の直後の前一九一ー一 た、ナウバクトス周辺の西口クリスの西端を別とすれば、ア九〇年に、彼らがアイトリア同盟のデルフォイ支配を終らせ カルナニアを犠牲にして得られた併合地で、前一八九年に還たのは当然であり、不当ではなかった。前一八九年にローマ 付されなかったものだけであった。 人は、前一九六年のフィリツ。フのときと同様に、予想外に軽 アイトリアに対する処置は、敗北したが、なお侮りがたい い罰でアイトリアを許した。前一八九年の講和の取り決めで 敵の力を少しずつ削り取っていくという、ローマの政策を例アイトリア同盟は、オイニアダイ・ケファレニア・アンプラ 証する。これは、ローマがマケドニアを扱うときに試みた政キア・テッサリアとアカイアー。フティオーティスの領地、マ 策であった。しかしそのアイトリアへの適用は、もっと賢明 リス・フォーキス・ヘラクレイアーオイタイアを譲渡させら れた。しかしアイトリアはこの時には、オイタイアの残り、 であった。マケドニアの場合にはローマ人は前一九六年に、 もし絶体絶命のところに追い詰められれば、当時なお無傷だ両ロクリス・アイニアニア・アンフイロキア・アベランティ アの保持を許された。そのうえヘラクレイアは、前一八四年 章ったアンティオコス三世と手を握るのではないかと恐れて、 にアイトリアに返還された。 . + 予期されていたよりも軽い罰で、フィリップ五世を許した。 第 前一九〇年にアンティオコスを打倒したのち、ロ 1 マ人は前 ロ 1 マが前一八九年にアイトリアを慎重に扱った理由は、 一八五ー一八四年にフィリツ。フを圧迫したが、その時彼ら前一九六年にフィリツ。フを慎重に扱った理由と同じであっ ギリシア人諸勢力とのかかり合い全体の中で、単独のも た。じっさい前一八五ー一八四年に受けた手荒らな扱いのた のとしてはたぶん最大の失敗をした。すなわち彼らは、フィ めに、フィリップがローマと疎隔したのち、アイトリア人とフ リップを怒らせるには十分に彼からふたたび奪ったが、彼を ィリップが接近した徴候がある。しかしアイトリアを扱うに