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検索対象: 世界の大思想34 トインビー
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1. 世界の大思想34 トインビー

第一項ローマ人の征服以前のガリアーキスアルビナとリグリアーキスアルビナの状態 : : : 一一三一 第一一項ローマ人のガリアーキスアルビナとリグリアーキスアルビナの征服 : あローマの戦略 ローマのガリアーキスアルビナ征服 ( 前一 = 一四ー一 = 三年 ) と再征服 ( 前一一〇 三ー一九一年 ) うリグリアーキスアルビナの自然の防御物 えローマのリグリアーキスアルビナ征服 おアル。フスのこちら側の地域の北東国撞沿いのすきま 第七章 ハンニバル戦争後のイタリア半島における新しい遊牧家畜飼育・ : 一一四四 ( ンニバル戦争後のイタリア半島における新しい農場農業 : 一一五三 第九章 ハンニバル戦争後の時代における奴隷反乱・ ハンニバル戦争後のイタリア半島における都市化と手工業 : 第十章 第十一章新しいローマの商工業者 第十一一章精神的試練に対する宗教的応答 ・ : 三九 第十三章ギリシア文学の型にならったラテン文学の創造・ 第十四章ギリシア世界に対するローマの衝撃 : 三五五 第十五章ロ】マの「体制側」への内側からの挑戦 ・三五五 第一節罪と罰 第二節未来の波・

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247 第巻第八章 た。これに対して同時代の牧人奴隷は、それに匹敵する監督 しばしば暴行を受けたという、牧羊者の訴えを記録している ) 同し地方で、たぶん東ゴート族のイタリア支を免れた。彼は牧草地から牧草地へと絶えず移動していなけ ix, NO. 2438. 配の時期 ( 四八九ー五三六年 ) に刻まれた碑文は、牧羊者がればならなかった。また預かっている畜群を守るために武装 していなければならなかった。夏の牧草地において彼とその 畜群にその通る道を守らせす、また羊の頭数を偽って中告し 仲間たちは、以前の自由身分の定住小農民に取って代り、そ ていたことを示している ( んオ釭 ~ ま . の高地を牧人奴隷共同体の王国にした。 ハンニバル戦争後のイタリアでは、本来的にむつかしいカ ローマの貴族は、ローマの支配階級の代表者としての公的 インとアベルの関係は、特別の社会的事情のためにいちじる しく悪化させられた。ここではカインは、強力な社会的な力な義務を無視して、資本家としての私利を追求し、ローマの の圧迫を無慈悲に受けて、先祖伝来の地所から根だやしにさ主権の真只中に高地の奴隷王国を作らせる結果となったが、 この王国は必然的にローマの主権から離れた。ローマ社会 れつつある小自営農民であったのに対して、敗北したカイン は、不当な死刑を除く最大の不正を牧人奴隷に加えた。ロー の土地を奪いつつあったアベルは、劣格の外国人としての輸 マの社会組織は彼を奴隷身分に落とした。しかしローマの経 ・入奴隸であった。 ンニ。ハル戦争彳 。父のローマ人の牧畜業者は、シシリーでは済組織は事実上彼に自由を回復させ、いつの日にか復讐の機 そうでなかったとしても、イタリアでは、たぶん輸人奴隷の会を見出すことのできる地位に彼を置いた。 労働を用いるよりほかなかった。経営を続けるには労働力を ハンニバル戦争後のイタリア半島にお 第八章 永続的に確保しなければならず、それにはまたその労働力を 冫。しかなかった。牧畜業者 地方の自由民から徴集するわけこよ、 ける新しい農場農業 が、軍役を免除されている輸入外国人奴隷を徴集した窮極の マルクス日ポルキウスカトーの『農業論』は、第一回・ 責任は、ハンニバル戦争後のローマの「体制側ーにあった。 第二回ポエニ戦争の社会経済的効果が、イタリア半島の農民 「体制側」がカルタゴゃ。フトレマイオス王国を見ならって、 にすでに十一一分に感しられているころに書かれ、公けにされ 職業的な傭兵軍を創設したならば、イタリアの血気盛んな自 この書物の内容は、ハンニバル戦争後のイ 二由身分の人的資源の一部は、牧人となってその頑健さを発揮たにちがいない。 タリアの社会経済革命が、もう完了したことを証言して、 したであろう。 る。しかしその序論は、呪うべき金貸しゃあまり体裁がよく ( ンニバル戦争後のイタリアの農場で農業労働を行なった ない商工業者とは対照的に、耕作者に対するローマ人の伝統 奴隷は、同じく奴隷である管理人の厳しい監視のもとにあっ

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ときにカンパニア人口ーマ市民の財産であった土地と建物は ハンニ・ハル戦争以前のローマ連邦のローマ人の部分と同盟 すべて没収され、ローマ国家の公有財産とされた。それゆえ国人の部分の人口比率は、たぶん一対二カ十一一分の一、動員 以後カンパニア人は、ローマ国家の賃借人として土地を耕作 された歩兵の標準的な比率は四対五であった。この比率が行 し、店や仕事場を経営することとなった。 なわれている限り、同盟国が提供する兵力は、それらの国々 降服後、カン。 ( ニアのかってのムニキ。ヒウムの市民は、離のユーニオレスの人的資源全体にはもちろん、ロ 1 マ政府が 反以前の彼らの参政権のないローマ市民権は取り消されず要求する権利を持っ最高限にさえも達しなかった。ハ に、引続き無条件降服者であった。しかし前一九〇年にアンテ ル戦争のあいだには、その最高限がロ 1 マによって要求され たことがあったと思われるが、歩兵の四対五の比率をローマ イオ「ス三世に対して決定的な勝利を収めた結果 ( 」ジ ローマ政府は、、 / ンニバルがふたたび、今度は海からイタリ 政府がローマ人に有利なように変えた証拠はない。しかし政 アに侵入するのではないかとの恐怖からようやく解放され、 府は、ハンニバル戦争に続く諸戦争では比率についての政策 それとともに、カンパニア人を含むイタリア南東部の以前のを変えたようである。 離反者が、もう一度離反するように誘われるのではないかと イタリア半島の住民のカルタゴとの十六年間の死活戦のの いう心配をもしなくなった。そこで前二一一年以来抑えてあ ちには、軍役に対する強い反動が起こったのは当然である。 った、カンパニア人の軍役への徴集がまた可能になった。イ 同盟国人はローマ人と同じく戦いに疲れていた。しかし彼ら タリア北西部とスペインにおける軍役ははなはだ不人気であは、ローマ市民とは異な 0 て、ローマ政府に有効な政治的圧 ったから、カン。ハニアの人的資源を軍役にふたたび使用して、 力をかける力を持っていなかった。彼らにとって唯一の救済 その嫌な義務に充てることは、。ー政府にと 0 ても歓迎す手段は離反であ 0 たが、それも ( ンラ ( ルが退去してからは べきところだったであろう。したがってカンパニア人は、前 不可能であった。したがってハンニバル戦争後のローマ政府 ー一八八年の人口調査で新たに登録されることが決定 にとっては、同盟国人への軍役負担を増すことによってロー された。カンパニア人の見地からしても、彼らの軍役の復活 マ人への負担を軽くすることが、もっとも抵抗の少ない行き・ は、市民権の回復のために払う代価としては、たぶん高すぎ 方であった。同盟国に対するローマ人の感情の硬化も、この・ ることはなかったであろう。 政策の変化に一役買ったであろう。 しかしローマ政府が無視した点があった。第一に、ローマ ハンニバル戦争後のローマ人と同盟国人の と同盟国の共同の負担は、共同の利益のためではなくて、ロ あいたの軍役負担の配分 ーマの利益のためであり、しかもその負担の割合はローマに、

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処置が示すように、同盟国が中立を宣言すれば、それを反逆は助かった。そうした国はイタリア南東部では、ラテン人植 ハエストウム・ブルンディシウ とみなして厳しく罰した。しかもカルタゴの助けも得られな民市のベネヴェントウム・ ム、ギリシア人の植民市のネアポリス、レギウムなど少数で かったから、中立は積極的にカルタゴ側に投するよりももっ あったが、シシリーではもっと多かった。 と危険であった。 ンニバルにとっても 次にしあわせだったのは、ローマへの忠誠を守ってハンニ そのうえローマの同盟国の中立は、ハ それほどありがたくはなかった。彼はカンナ工の戦いののち パルに征服された国々であった。それらの国家の受けた損害 にも、兵力・補給・作戦基地となる要塞の数という三つの主は大きかったが、ハンニバルの側に走った国々が第一一回ポエ 要な点で、ローマがなお圧倒的に優勢であることを知ってい ニ戦争後になめた苦難に比べれば、我慢のできるものであっ たので、ローマの同盟国を味方につけることを緊急に必要と た。カンナ工の戦いののちに、最後までカルタゴに抵抗して していたのである。またそれらの同盟国は、国内的にも中立ついには占領されたものにペテリアがある。 への障害を抱えていた。すなわち富裕者と貧民がそれそれロ ペテリアほどの抵抗をしないで降服した国々もあった。そ 1 マの勝利、カルタゴの勝利を利益として、祖国を自分に有のうちカウデイウムの地域にあって、域壁を持たないサムニ 利な側に引き入れようとして争ったので、中立政策は実行不ウム人の国家テレシアとク・フルテリアは前二一七年にハンニ 可能となったのである。 。ハルに占領されたが、前二一四年にフアビウスがふたたびこ こうしてローマの同盟国にとっては、あくまでローマへのれを取返すと、徹底的に荒らし尽くされた。またギリシア人 の都市ロクリは、抵抗するだけの力を持たなかったためにカ 忠誠を守るか、ハンニバルの側に走るか、選択すべき道は一一 ルタゴに降服し、前一一〇五年にスキビオがこれをカルタゴか っしかなかった。そしていすれの道をとっても敵に廻した側 ら奪回したとき、ロクリの富裕者も貧民もともにローマに味 の激しい攻撃を受け、自国が味方した側が最後の勝利を得た としても、一度こうむった損害をつぐなってはもらえなかっ方したにもかかわらず、スキ。ヒオの意を体した。フレミニウス はこれを厳しく懲罰した。 二た。またハンニ。ハルは、戦局の最後の段階でプルッテイウム 第 への退却を余儀なくされたとき、手放すことになった都市を 右の二つの苛酷な処置の動機の一つは、ローマが、これら 一一徹底的に破壊し、その住民は自分の支配地域に連れ去った。 の国々は抵抗することができたとしても、けつきよくはハン 第 もっともさいわいだったのはハンニ。ハルの側につかず、彼ニバルの側に投じたであろうと疑ったことにあった。その疑 いのなかったペテリア・ヌケリア・アケラエに対しては、ロ に占領もされなかった国々であった。それらの国家の田園地 ーマはそれらを取返したのち、ひじように丁重な取扱いぶり 帯は荒らされたが、都市的な部分と田園の住民・動産の多く

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245 第 - 巻第七章 と、離反したイタリア南東部の諸国家の領域における、かっ ウン。フリアにも羊の夏 の乳」と称している ( 一・・一 (j 。 ての私有地の大きな広がりの、ロ 1 マ国家による没収であっ の牧草地があった。 こうしてハンニバル戦争後のイタリア半島では、大規模な ローマ政府が前一一一〇年以降穀物生産の回復に乗りだした遊牧家畜飼育の潜在力が展開されつつあったが、当時新しく シシリーにおいてさえ、遊牧家畜飼育は農業と競争しただけ開放されたアル。フスのこちら側の平野では、家畜飼育はなお でなく、それを圧した。ハ、 ノニ。ハル戦争後のシシリーの大土農業に対して補助的な地位にあった。アル。フスのこちら側の 地所有者の大半は、ローマの騎士だったようである。大経営羊が、イタリア半島南東部低地の羊より高く評価されるよう になったのは、ようやく一世紀の六〇年代に著述したコルメ 者は彼らの利益を、輸入奴隷にふたたび投資した。彼らはそ のうちの若い者を牧人に用いた。そしてシシリーでは家畜飼ラ の時代になってであっ ( 人。六〇年 ) 」ろ『農業論』一二巻を書いた 育は農業よりも有利になったので、農耕奴隷は強制的に牧畜た。 労働に転換させられたと思われる。 大規模な遊牧家畜飼育は、農場農業よりも利益の大きい投 ブルッテ、イウムのシラ高地が夏の牧草地として好適だった資の分野であった。個人的経験に基づいて書かれたカトーの ことについては、すでに述べた四 ) 。その南東部の低『農業論』には、遊牧家畜飼育のことが出てこないが、彼もや 地は、半島でもっとも広く、もっともよい冬の牧草地を提供はり農場農業と遊牧家畜飼育を結びつけて経営していたと思 した。タレントウム領の羊毛は、ローマの覇権のもとに半島われる。 が政治的に統一されるよりずっとまえから、その品質で有名 しかし新しい遊牧家畜飼育では、牧畜業者は家畜と牧人奴 であった。タレントウムの家畜の群が、ローマ支配以前から隷を大規模に購入するだけの資本を持っていなければならな 季節によって移動していたとしても、前五世紀以来タレント 、った。 ( ンニバル戦争後のイタリアで必要な資本を自由に ウムが、後背地の高地のオスキ人と慢性的戦争状態にあった できたのは、ローマの貴族と新しい商工業者階級だけであっ ことを考えれば、その移住は狭い圏内に限られていたにちが ハンニバル戦争後は、南東部の低地で冬を過ごした シシリ 1 の牧草地は私人の所有であり、またラティフンデ 二羊は、ルカニア・サムニウム、さらに遠くサビニ人の地に夏 イウムの形をとったらしいが、これに対して遊牧家畜飼育に の牧草地を得た。ヴァロはアプリアを彼の大きな羊の群の本用いられたイタリア半島の牧草地は、たいてい公有財産であ り、しかも主としてローマ国家の財産だったと思われる。そ 拠にしたっ、 ' 和を業道 ) 。ヴァ〔が引用するある典拠は、ヴ エリヌス川盆地のカン。ヒ・ローセア工を、とくに「イタリア してローマの公有地を牧畜に使用する場合、二つの条件に従 , こ 0 こ 0

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184 う偏狭な見方をとった。それは、ローマ市民権を気前よく与元老院議員の心の中に呼び起こした。 える古いローマの伝統からの退歩であった。ハ ンニバル戦争 前二〇九年に十二のラテン市民植民市が点火した火花は、 は、ローマとそのもっとも忠実な同盟国との関係をさえも緊けつきよくイタリアの火薬庫をすぐに爆発させはしなかった 張させたが、その緊張がたぶん、ローマの態度と政策の変化 が、ローマ人の胸に消えない怒りの火を燃えたたせた。これ の主な一般的原因であった。 までローマ人は同盟国を仲間として扱ってきたが、以後彼ら は、同盟国の国民をますます属州民と同じ従属民のように扱 特別な一つの原因は、前二〇九年に十二のラテン市民植民 うようになった。 市が、ローマ政府が要求した軍隊の提供を一致して拒否した 同盟国が嫌ったのは、抑えるもののないローマの政務官の ことにあった。そのための軍事的な人的資源の喪失は、この 時のローマにとって重大な打撃であった。しかしそれはおそ権力に不当に従わせられることであった。その一例として、 前一七三年のコンスルの一人ルキウス日ポストウミウスⅱア らく、ローマ政府のはなはだしい憤慨の主要な理由ではなか ルビヌスは、ラテン人の国家。フラエネステにいわれのない私 った。主要な理由は、ローマの立場からすれば、これらの植 怨を抱いていたので、その年の初めにプラエネステを経てカ 民市が、ローマの忠実な他の同盟国全体に悪例を示したとい うことにあったであろう。 ン。 ( ニアに赴くさいに、宿舎と次の旅程用の車馬を。フラエネ カんらいプラ h ネステ ステ政府に要求した。しかしこれは、 : 第一に、植民ラテン人は、イタリアにおけるローマのすべ ての同盟者のうちでもっとも重んじられ、信用され、特権をが負担する必要のないものであった。 アルビヌスの無法な行為に輪をかけた暴虐が、その後も口 与えられていた。この特別な範疇に属する同盟国三十の五分 ーマの役人によって他の同盟国の当局者に加えられた。ガイ の二が反抗したとすれば、他の普通の同盟国から期待される ウスⅡグラックスも、その幾つかの例を引用している。 行動は、おして知るべしであった。 第二に、反抗した十二の国家は互いに手を携えて行動し 第二節反抗者と離反者に対するローマの処置 ( 三三五または三三四 ) 年にラテン同盟を解散 させてから、ローマは分割統治の政策を続け、次の七十年の 第一項反抗したラテン市民植民市に対する処置 うちにイタリア半島全体の最大の強国へと驚異的な成長を遂 げた。前二〇九年の十二の植民市の一致した行動は、全同盟 反抗した十二のラテン市民植民市は、前一一〇四年の初めに 国がローマをハンニバルの手に引き渡し、ローマの支配を終ローマ政府の叱責を受けた。それらは、ハンニバルのイタリ ーマの らせるための陰謀を企らんでいるという恐怖心を、ロ ア半島侵入以来、一年間に要求された最高数の一一倍の数の歩

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171 第 . 巻第章 前一八七年以下四回にわたってローマ市とローマ領に起こ ( ) と激戦して二千三 〇三年に四軍団のローマ軍はマゴ 6 た弟 り、ローマ連邦の一般の住民と軍隊に打撃を与えた。 百以上の戦死者を出した。また前二〇一年に緊急召集の一一軍 団と同盟国の正規軍四コホルスの賺 & れ当十「ホルスで一軍団を構 第五節軍役期間 破す ) は飛ィア人に敗れて、戦死七千の損害をこうむ 0 た。 いままでハンニ。ハル戦争におけるローマの主な敗北を検討 前二一七ー一一〇三年は、イタリアの農民にとって厳しい十 してきたが、もっと小さい、しかし回数はもっと多い他の戦五年であったが、彼らには一つの慰めがあった。すなわちイ 闘において絶えず死亡者があり、さらに落伍・病気・負傷に タリアの農民兵の大多数はイタリアにいたので、彼らの生命 よる損害もあったであろう。 と家と耕地が無事でありさえすれば、毎年の戦役シ】ズンの ハンラハル戦争におけるローマ側の死亡者の総数は、推測合い間には、少なくとも彼らのうちの若干が休を得て、家 するほかはない。現存するロ 1 マの人口調査の数字に照らし に帰ることが可能であった。これは経済的にも心理的にも思 てみると、前二一八ー二〇四年の戦死者の総数は、ローマ市恵だったであろう。 民だけで最高九万以上、最低約六万六千六百と算定される。 ハンニバル戦争の終結から前一七二年までローマ軍がもっ またアッピア / スはローマ市民と同盟軍を合わせて、前二一 とも多く集中していたのは、ほとんどいつもイタリア半島北 西部、またはそれをあまり超えないところであった。そこは 七ー一一一六年の死亡者数を十万としている気と。 第二回ポエニ戦争に続く前一一〇〇ー一三三年のあいだの戦兵士たちが歩いて家に帰ることのできる場所であった。した いの損害を算定することはもっとむつかしい。この期間のロ がってこの三十年のあいだ、その地域で長期の軍役について ーマの災厄で、前二一、 / 、二一七、二一六年のそれに匹敵しう いた、イタリアの農民兵のかなりの部分にも、同じように苦 るものよ、 ~ リ 月一三七年のコンスルであったマンキヌスの部隊痛の軽減が与えられた。 の、ヌマンティア人への降伏だけであった。テニ日フランク ハンニバル戦争のあいだにシシリー以外の海外に従軍した 三は、リヴィウスとアッビアノスが挙げているとくに重大な口 のは、全軍の三分の一をあまり出なかったが、次の三十年に ー「の損害のケース十八を集めた ( 一 ( = ) 。記録された戦は、平均してほとんど半分が海外で軍役についていた。海外 に動員された兵士は、長い軍役期間にわたって家に帰ること 一一死者の合計は約九万五千になる。しかし絶えまのない、もっ と小規模な損害の総計は、 ( ンニバル戦争のさいよりも、損ができなかった。彼らには苦痛のやわらげられる時がなかっ た。軍役期間を観察するにあたっては、兵士が配置された地 害全体の中でもっと大きな割合を占めたであろう。 この期間には悪疫による人命の損失の記録もある。悪疫は域による軍役期間の苦痛の差に留意しなければならない。

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158 ーマは、エトルリア人の支配が倒れたのち一一百五十年以上をがオスキ人とカルタゴ人に、それらのギリシア人を攻撃する へてふたたび工業都市になった。カプアが工業上の競争者のきっかけを与えた。シラクサの抵抗にもかかわらず、カルタ 地位から去ったことも、ローマにとって有利だったであろゴはポエニ戦争勃発の直前には、ほとんど全シシリーを支配 う。ローマは前二一七ー二一六年に軍事上・政治上は失敗し下におさめるかの勢いを示した。前三四四年から前二七一一年 までの七十一一年間に、西方のギリシア人を守るためにギリシ たが、それが工業への刺激となったのである。 したがってイタリア中部の南半は、イタリア北西部と同様ア本土から六人の「救済者ーが迎えられたが、一時的に成功 コリントの将軍。シラクサ人に招かれて に第一一回ポ = = 戦争中活発に経済活動を行な 0 た。農業を犠したのは最初のティモレオン ( 前三四五年にシシリーに渡り、シラクサ 牲にしたその活動はたしかに不健全ではあ。たが、大きな苦矯新黯鷭 ) だけであ。た。その間西方 難を経験したイタリア南東部とシシリーに比べれば、この地のギリシア人の受けた損害は莫大であり、またマグナーグラ 域は明らかに恵まれていた。 エキアはけつきよく口ーマの保護・支配のもとにはいっこ。 もっともこの対照は、、 前二七〇年から前二一七年までイタリア南東部は平和を享 / ンニバルがそれをさらに際立たせ 受したが、それでもたとえばギリシア人の都市クロトンは、 る以前からすでに存在していた。前三四三 ( 三四〇または三 第一回サムニウ ハンニバルがリ 至着するまでに市民の数は一一千以下になってし 三九 ) 年 ( ) 以後、ローマとヴォルトウルヌス川 ム戦争開始の年 まい、彼と同盟を結んだプルッテイウム人の要求に屈して、 のあいだの地域は、前二一一年にハンニバルの侵入を受ける まで、前三二一 ( 三二〇ー三一九、または三一九 ) 年、前一一一彼らにまちを引渡さざるをえなかった。一方 ( ンニ・ハル戦争 ーの平和はもっと短く、前二四一年から前二一四 一五年にサムニウム人、前二八〇年にビュロスの侵略を許し前のシシリ ただけであったのに対して、サムニウムは前二八〇年だけで年または二一三年までしか続かなかった。シラクサがカルタ ゴにそそのかされて愚かにもローマと戦端を開いたために、 なく、前二九八ー一一九〇年の第三回サムニウム戦争において シシリ 1 はふたたび戦場となり、シラクサは攻囲のすえに占 も、ローマ軍からはなはだしい寇掠をこうむり、またイタリ アとシシリー のギリシア人は、彼らの隣人であるイタリア人領・掠奪された。 よりももっとひどい損害を招いた。 イタリア南東部のローマの同盟国には災厄を回避する余地 まだ前六世紀のうちにマグナーグラエキアの二つのギリシ がなかった。ハンニ・ハル指揮下のカルタゴ軍は、前二一七年 ア人の植民市シリスとシュバリスが、ギリシア人の手で抹殺の戦役シーズンが終らないうちにもう彼らの真只中に進出し ていた。中立の立場をとることはできなかった。ローマは、 、 ) ついでイタリアとシシリーのギリシア人は された ( 」ハ九。 ( 。 ペ。ポネソス戦争 ( 前四三一ー四〇四年 ) に捲き込まれ、これ前一一〇四年 ()l 幻 ~ もの十二のラテン市民植民市に対する

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13 第一巻への序文 人力予備の大きさとロ 1 マ連邦の構造の連帯性に対しては功 を奏しなかった。しかしながらハンニバルは連邦の社会経済 的体驅に重傷を負わせることに成功した。その傷は重かった ので化膿してティベリウスⅱグラックスによって促進された 革命に陥り、その革命は百年後アウグストウスによって捕提 されるまで止まなかった。私の見るところでは、この革命は ネメシス ローマの軍事的征服の皮相にも勝ち誇った経歴への応報であ った。ネメシスは力強い女神であり、この歴史の挿話におい て女神はハンニバルに彼女自身の身長をもって奉献された人 間の代理者を見出したのであった。 一九六四年十一一月八日 アーノルド“トインビ

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ハンニバルの遺産 ハンニ、、ハル戦争の ローマ人の生活におよぼした影響 清秀 永村 昭欣 訳