328 忍・貪欲・無情・復讐心・二枚舌といったローマ人の民族性マケドニア人の王朝に統治された。前一二三八年のカイロネイ の暗黒面に幻減を経験させられるのにかなりの時間を要し アにおける勝利以後、マケドニア人の兵士は、同じマケドニ こ 0 ア人による以外は、重大な敗北を喫したことがなかった。し 両者の関係は、よくいっても微妙なものだったであろう。 たがってローマの軍事上・政治上の優越性の実証は、他のギ リシア人よりもマケドニア人にとって、いっそう耐えがたい アレクサンダーによるべルシア帝国の顛覆以降、ギリシア人 は、ベルシア帝国の主要な後継国における支配民族であるこ ものであった。しかしカルタゴ人とオスキ人によってすでに とに慣れていた。ナイル川下流とヤクサルテス川上流のあい 気力を挫かれていた西方の少数者以外の、すべてのギリシア だの広大な地域での彼らの劇的な成功は、。 ヘロポネソス戦争人にとっても、それはつらいことであった。 以後、彼らがマグナーグラエキアとシシリーで陥りつつあっ ギリシア人の見地からみれば、ロ 1 マ人は厳密には「蛮族」 た逆境の深まりを覆い隠した。ギリシア世界の西のヘりの植であった。「蛮族逃走中」とは、前一九七年に前線からフィ 民市が、オスキ人やカルタゴ人から受けた損害は、同じギリシ 丿ップ五世にもたらされた、ヤ「一ノスケファライの戦い「 ア世界の、東方におけるその後の利益に比べれば、取るにたり , ラミ = , スがケド = ア新の ) の最初の局面の報告であ 0 た。卩 キリシ ないものであった。ところがローマの出現とともに、。 ーマ人がカン。 ( ニアに干渉した前三四三 ( 三四〇または三一一一 ア人は、以前にベルシア人がギリシア人によって経験させら九 ) 年まで、ローマ人について少しでも考えてみたギリシア れたような、政治上の役割の逆転を経験することとなった。 人の大部分は、たぶん彼らをエトルリア人の一派とみなした 黒海のヘラクレ ギリシア人の軍事的・政治的瓦解は、ベルシア人のそれほ であろう。他方〈ラクレイデスⅱポンテイ「ス ( ィア生まれのア ど急激ではなかった。ポリ「一ビオスの計算では、ローマ人 派の ( 前三九六ごろー三一〇年 ) は、〔ーを「ギリシ・ が、彼らの視界内に入 0 た文明世界の支配者となるのに、五ア人のポリス」と呼んでいるがラわ」イデ , 「霊魂迎より引用 ) 。しかしギリシア人が、要求された巨これはもちろん、ギリシア人が記すことのできる最大のお世 十三年を要した ( 一・ 大な心理的調整のやり直しをするには、半世紀の猶予期間で辞であった。 も短かった。ギリシア人の中で最大の調整のやり直しをしな そこまでいかなくても、じっさいにローマ人に出会ったギ - よ、つ キリシア ければならなかったのは、マケドニア人であった。・ リシア人は、彼らから感銘を受けないわけこよ、 人は全体として、オリエントの住民を支配したが、マケドニ た。たとえばビュロスは、ローマ軍の優秀性に感銘を与えら - ア人は、他のギリシア人のうえに支配権を押しつけた。ベル れた。彼はまた失敗に終ったローマ進軍にさいして、ローマ シア帝国のあとを継いだギリシア人の三つの主要な国家は、 領とローマの同盟国の領域のすぐれた耕作ぶりから、深い印
クスは、リタナの森付近でポイア人に勝利を得た。前一九四 は、事実上全滅した。 年の初めにフラックスは、メディオラヌムの近くでポイア人 前一九七年に二つのコンスル指揮軍が、挾撃作戦でポ 1 とインス・フリア人の連合軍を撃破し、そのあとでインスプリ 平野に侵入した。ガリア人の連合軍は、二人のコンスルがい ア人は降服したようである。他方前一九四年のコンスルの一 っしょに東方から攻撃してくるものと考えて、ポー 、、ンチオ川の西岸に兵力を集中した。しかしコンスルの一人人のティベリウス = セン。フロニウス日ロングスは、一連の激 クイントウス 日ミヌキウスルフスは、ゲヌアから北進し、 戦を繰返してポイア人領を通過し、。フラケンティアへの進路 ストラデラ峠を経て北西からポイア人領に侵入した。そのたを切り開いて進まなければならなかった。少なくとも一度、 めポイア人は本国を守るために、同盟軍から離れてふたたび侵入したローマ軍は全減の差し迫った危険にさらされた。 前一九三年にコンスル指揮軍は、明らかにファエスラエか ポー川を渡らなければならなくなった。ルフスはポイア人の 抵抗を受けることなく、彼らの地方を掠奪したが、彼らを降らポノニアへのルートにより、アベニン山脈を越えてポイア 服させることはできなかった。一方ポイア人が退去し、ケノ人領に侵入し、ムティナ付近で勝利を得たが、戦死五千以上 という高価な犠牲を払った。前一九二年に二人のコンスル マニ人も前もってひそかにロ 1 マに通じて裏切ったために、 は、もう一度挾撃作戦をとってポイア人領に侵人した。今度 もう一人のコンスルであったガイウス日コルネリウスⅱケテ + ィア人全体としてで はポイア人の貴族多数が降服したが、 : グスが、たぶんヴェネティアを経てインスプリア人の地方に はなかった。しかしポイア人は、前一九一年のコンスルの一 ハミルカ . ル 侵入したとき、インスプリア人は大敗北を喫し、 人プ・フリウス日コルネリウススキ。ヒオナシカによって決 は捕虜になった。ケテグスの勝利ののち、ケノマニ人はロー マ人と講和し、リグリア人の一種族エレイアテス ( イルヴァ定的に撃破されたのち、完全に降服した。 前一九一年のポイア人の粉砕によって、ローマはアル。フス テス ) 人も、ローマに名目上降服した。しかしケテグスはイ のこちら側のガリア人との十一二年間にわたる困難な戦争の果 ンスプリア人を降服させることには成功しなかった。 前一九六年にマルクス日クラウデイウス日マルケルスとル実を、ついに収穫することができた。いまや。フラケンティ キウス日フリウス。フルプレオ指揮の二つのコンスル指揮軍ア・クレモナと陸路ローマとの連絡が回復したので、前一九 は、時には別々に、時にはいっしょにふたたびポ 1 川平野で〇年にローマ政府は、この二つのラテン市民値民市に合わせ て六千の植民者を追加派遣した。この数字は、二つの植民市 作戦した。インスゾリア人とコムム人とポイア人は敗北した の最初の人的資源の損耗と、ローマ政府の目から見た二つの が、ガリア人のこの三つの種族はいずれも降服しなかった。 前一九五年にコンスルのルキウスヴァ / リウス卩フラッ 場所の戦略的重要性を指示する。前一八九年にローマ政府 川の北岸、
済はイタリア中部低地を失い、奴隷農場形態の商業的農業が進歩よりも、その地の文明の退化にいっそう深い印象を与え られた。前五世紀と四世紀の交にガリア人の貴族がアル。フス それを獲得した。 を越えて殺到し、マントウア以外のポー川流域のエトルリア 第六節北西部の獲得 人の植民市を制圧し、イタリア半島のアドリア海岸沿いにア ェシス河口までを占領した。 第一項ローマ人の征服以前のガリアーキスアルビナとリ ガリア人の出現がポー川流域の文明にとって挫折を意味 グリアーキスアルビナの状態 し、その後のローマ人の出現が、その地の文明をふたたび上 昇させたことは疑いない。同時にこれらの事件が、われわれ 人類がこれまでに最大の変形を加えたのは、沖積層の河川 に伝えられている形では、ローマ人を実際以上によく、ガリ 流域に対してであった。エジ。フトやイタリア北西部のよう ア人を実際以上に悪く扱っている可能性がある。伝承はロー に、今日他のどんな耕作地域よりも豊かな収益をもたらす沖 マ人に独占されており、彼らはガリア人については公平な証 積平野は、もともとはもっとも長いあいだ人類を寄せつけな かった地域である。現在の = ジ。フトやロンパルディアの肥沃人ではないからである。 前一五〇年ごろに以前のポイア人の領域にあるローマ人の な耕地は、幾世代にも幾世代にもわたる人類の汗によって、 水を制御した結果生まれたものである。そのためには沼沢を定住地を訪れたポリ = ビオスは、アル。フスのこちら側のガリ ア人は、アル。フスの麓の少数の場所を除いては、ポー川平野 排水し、川に堤防を築き、讙漑水路網を建設しなければなら よ、つこ。 から追いだされたと伝えている ( ~ 一と。しかし。ー「人がじ / ・カュ / 間一 = 一五年にイタリア半島に侵入したガリア人の大群を撃 0 さいに立ちのかせたガリア人は、セノネス人とポイア人だ 破した直後に、 0 ー「人がガリア。キスアル。ヒナ征服の最初けであり、ポリ = ビオスは、インスプリア人やケノ「 = 人や の組織的な試みに乗りだしたころまでに、ポー川流域の開墾その他のガリア人は 0 ー「に屈服したが、彼らの土地はその まま残され、こうして没収を免れたポー川の向こう側のガリ 六は、新石器時代人からエトルリア人に至るまで、すでに少な 第 ホー川平野の大半を占めたということを悟ら ア人の領域は、 : くとも千五百年のあいだ進められていた。その最後のエトル なかったのである。 リア人は前六世紀にアベニン山脈を越え、ポー川流域を組織 アル。フスのこちら側のガリア人の場合にも、利害関係者の 第的に開墾するための三回の連続的な努力のうちの最初のもの かたよった証言は考古学の証拠によって訂正されてきた。前 を始めた。 。ー「人はポー川流域におけるこの幾時代をも経た人間の四〇〇年ごろのガリア人は、 = トルリア人が前五五〇年ごろ
24 】第巻第六章 えローマのリグリアーキスアルピナ征服 ぎた。前一九一年にポイア人が降服したので、ローマは北西 ロ 1 マ政府の計画は、アル。フスのこちら側のガリア人の征国境では、アル。フスのこちら側のリグリア人の征服に専念で 服を完了するまでは、アル。フスのこちら側のリグリア人と平きるようになったが、前一九〇年の初めのリグリア戦線には、 和を維持することだったようである。したがって前一九三年なお十六年間の激しい作戦行動がローマを待ちうけていた。 に二万と称されるリグリア軍がローマの橋頭堡ルナを襲撃 前一八七年にコンスルのガイウスⅡフラミニウスは、ポー 川のこちら側の平野から、またもう一人のコンスルのマルク し、。ヒサの領域に侵入すべく進出したとき、ローマ政府は不 スⅡアエミリウスリレビドウスはエトルリアから、フリニア 意を打たれた。このリグリア人がア。ファニ人だけであった か、アル。フスのこちら側のリグリア人全体であったかは別と テス人の領域に侵入したようである。コンスルはどちらもフ して、ローマのもっとも北西の二つの前峭地点へのリグリア リニアテス人の一部を征服し、武装解除した。ガイウスⅱフ ラミニウスはまた、。 人の攻撃は、明らかにしめし合わせた大規模な努力であっ - ヒサの領域だけでなく、求ノニアの領域 た。前一一〇〇年にローマから。ヒサまでのアウレリウス街道ををも襲撃していたア。ファニ人の一部の降服を受け人れた。し 建設したとき、ローマ政府は第一にスペインとの連絡の改善 かしこの年の二人のコンスルの永続的な業績は、アリミヌム を考えていたかもしれないが、ア。ファニ人の目からみれば、 から。フラケンティアまでのアエミリウス街道と、アレテイウ その街道の建設は、彼らに対するローマの攻撃の序曲のよう ムからポノニアまでのフラミニウス街道の建設であった。武 にみえたであろう。前一九三年までにローマはケノマニ人と装解除されたフリニアテス人とアプアニ人はと言えば、彼ら インスプリア人を征服し、またポイア人への攻撃を続行し は間もなくふたたび反旗を翻した。 ウ た。これはアベニン山脈の北東斜面の高地のリグリア人に急 前一八五年にコンスルのマルクスⅡセンプロニウスⅱ 、謳上カご を告げたであろう。同じ前一九三年に一万のリグリア人、た じーロルゾ デイタヌスは、ア。ファニ人に対して軍事行動をとり ぶんエレイアテス人が。フラケンティア領に侵入した。 切り開いてビサからマクラ河口とルナ港まで進んだ。彼はた ぶん、この功業を最初になしとげたローマの指揮官であっ 。ヒサはついに四万と見積られるリグリア軍に攻囲された。 た。またもう一人のコンスルのアッビウスⅡクラウデイウス しかしビサも。フラケンティアも陥落せす、前一九三年の末に 。フルケルは、インガウニ人領に侵人して成功をかちえた。彼 一一は。ヒサの指揮をとっていたコンスルのクイントウス日 ウステルムスは、ア。ファニ人の領域に反撃を加えた。前 らは前一一〇一年にロー「と結んだ同盟条約 ( 二三のを破 0 たと 、よ、。しかしその成功も終局的なもの みなされたのにちがしオし 九〇年の初めにミスキウスは、リグリア人はすべて降服し、 この方面の戦争は終ったと報告した。しかし彼の発表は早すではなかった。
242 イナは奪還されたが、リグリア人はふたたびパリスタ山とレ これに反して前一八一年と一八〇年に、インガウニ人とア トウス山の砦に退き、最後の抵抗の準備をした。その年のう プアニ人に対して決定的な結果が得られた。前一八一年にプ ロコンスルのルキウス日アエミリウスⅱパウルスは、インガちに二つの山は占領されたが、コンスルのクイントウスⅱ。へ ゥニ人を降服させた。彼らの海軍力もこの機会に破壊されティリウス日ス。フリヌスは戦死した。 た。前一八〇年にプロコンスルの。フブリウス = コルネリウ 前一七七年と一七六年の交に、ポー川のこちら側の平野へ ス日ケテグスとマルクスⅱ ェビウス日夕ンフィルスは、ア の二度のリグリア人の侵入において主役を演じたのは、フリ べニン山脈のこちら側のアプアニ人を奇襲して、四万人を降ニアテス人であったと思われる。敗北したリグリア人は、前 服させ、サムニウム高原のタウラシア領に追放した。同じ年一七五年に山地から平野へ大規模に追放された。アベニン山 にさらに七千名のア。ファニ人が、マクラ河谷からタウラシア 脈のこちら側のガルリ人・ラ。ヒキニ人・ヘルガテス人も追放 領に追放された。またコンスルのアウルス日ポストウミウ された。同じ前一七五年にリグリア人の他の種族、たぶんア ス日アルビススは、・、 / リスタ山とスイスモンテイウム山に砦ペニン山脈の向こう側のア。ファニ人が、トレビア川の支流ア を持っフリニアテス人を降服させた。しかしこのフリニアテ ウデナ ( アヴィオ ) 川の南東で撃破され、降服して武装解除 ス人の降服は、前一八七年の彼らの最初の降服と同様に、無された。前一七六ー一七五年のこれらの作戦によって、エレ に帰したと推測される。 ィアテス人の南東方の、アル。フスのこちら側の全リグリア人 の抵抗は、最終的に破砕されたようである。またエレイアテ 前一七九年にコンスルのクイントウス“フルヴィウス日フ ラックス ( クイントウスの子 ) は、三千二百名のリグリア人ス人は、前一九七年のローマへの名目上の降服 ( 二」己を守 り続けたと考えられる。 を降服させて、平地に追放した。しかしローマの征服戦争に 対するリグリア人の抵抗のもっとも強力なものが、まだ残っ 前一七三年の初めにコンスルの一人マルクスポ。ヒリウ ていた。 スラエナスは、ゲヌア・リスルナ・デルトナを結ぶ道の西 前一七七年の戦役シーズンの終りごろ、スクルテンナ河谷 に位置していたスタティエリ人を政撃した。前 一七二年に彼 を下ってポー川のこちら側の平野を襲撃したリグリア軍を撃らの相当の部分がポー川の北に移され、からになったポー 退するために、コンスル指揮軍がイストリアから呼び返されの南の彼らの土地は、ロ】マ人入植者個人個人に分配され なければならなかった。リグリア人は敗れたが、ロ 1 マ軍の 退去に乗じて、もう一度ポー川のこちら側の平野に侵人し、 リグリアーキスアル。ヒナにおけるその後の作戦についての 今度はムティナの占領に成功した。前一七六年の初めにムテ情報は乏しい。前 一六六、一五八、およびたぶん一五五年 こ 0
それ独立のリグリア人の種族であるカスエンテイラニ人とム ー北西部からのエリュモス人の植民者たったかもしれな 幻ケリ人によって保持されていた。シエヴェ盆地の西の盆地の 。とにかく彼らはローマと友好関係にあったらしいが、ロ 南東端はフィエソレ ( ファエスラエ ) 、北西端はビストイア ーマにとって不幸なことには、ア。ファニーアル。フスがビサか ( 。ヒストリア ) によって扼されているが、。ヒストイアはアベ らティグリイ人の地方への陸路を制していた。 ニン山脈を越え、レノ川の谷を下って、ポロ ニヤ ( フェル ア。へニン山脈の分水線の北東側には、ア。ファニ人の隣人と シナ ) へ出る道の南西の入口に位置している。この盆地はた して、ポー川のこちら側の平野の南西のヘりこ、、 冫カってのポ エトルリア人からローマの ぶんポエニ戦争の始まるまえに、 ィア人領に接する丘陵地帯を占めた、リグリア人の独立の他 フラケンティアやパル 覇権に帰した。それはむき出しではあったが、戦略的に貴重の二種族がいた。その北西のものは、。 なローマ連邦の領域の突出部であり、独立のリグリア人の領 マを通ってポー川へ下っていく川の上流の谷を占拠していた 土の中深く貫入するとともに、フラミ = ウス街道が辿った峠エレイアテス ( イルヴァテス ) 人であり、その南東に隣接し と、ゲアアからポー川流域に達する峠のあいだで、最短では ていたのは、フォルムーレビディ ( レギウム ) やムティナを ないが、もっとも近づきやすいアベニン山脈越えの峠に通じ通ってポー 川へ下っていく川の上流を占拠していたフリニア ていた。 テス C フリニアテス ) 人であった。フリニアテス人はレノⅡ ベスチア川 とサヴェナ川のあいだの分水線に沿って、トリブスーサ。ヒニ ・ルッカ・セルキオ川上流・マグラ川の盆地は すべて、前二〇〇年には独立のリグリア人であるア。ファニ人アと境を接していたかもしれない。リ 前一一世紀の初めまでにト リ・フスーサ。ヒニアは、ローマと友好関係に入ったようであ によって保持されていた。そしてローマにとってもっとも恐 る。 るべきリグリア人であった彼らは、自然の防御物にももっと も恵まれていた。セルキオ川上流とマグラ川上流の谷は、ア ハンニ・ハル戦争直後に、アルプスのこちら側の独立のリグ 。ファニーアルプスと呼ばれるけわしい山で、テュレニア海岸 リア人の若干の種族は、ローマの攻撃に抵抗するために、他 から遮られていた。この山脈がアプアニ人に占領され続けて の種族よりはるかによい位置にあった。カスエンテイラニ人 いる限り、ローマ軍がルナとビサを結ぶ海岸沿いの陸上ルー とムケリ人は、小さな種族であったうえに、南西はロ , ーマ連 トを進んで、ルナ港に達することは不可能であった。 邦、北東はトリ。フスーサビニアに囲まれて、もっとも弱い位 ラヴァーニヤ川の谷とたぶんヴァラ川の谷、およびローマ置に立たされていた。他方ア。ファニ人は、前面をア。ファニー 人占領以前のルナ港は、セゲスターティグリオールムに属し アル。フスで掩護され、背面をエレイアテス人とフリニアテス ていた。ティグリイ人はリグリアの原住民ではなくて、シシ人に守られて、その陣地の難攻不落を誇ったであろう。
? 4 ? 第巻第六章 国境の向こうの海岸平野は、カルニ人の領土とヒストリ人の エレイアテス人に対する勝利の凱旋式が挙行された。ロ 1 マ政府が = レイアテス人の領域を通って、パルマからルナ領土のあいだの無人の地だったようである。カル = 人はケル ト人、ヒストリ人はイリリクム人だったであろう。 までの道路を建設するために、彼らの了解を求めて拒絶され たことが、たふんエレイアテス人とロ 1 マの不和の原因であ 。ー「人は前一一二二年のインスプリア人に対する勝利 ( 」 ~ 一 った。この道路は、コンスルのマルクス = クラウデイウスⅡ ジ ー ) ののち間もなく、ヒストリ人を初めて征服した。ヒスト リ人は、インス。フリア人とポイア人が前一二八年に、ハンニ マルケルスが、エレイアテス人と若干のアプアニ人に対して パルが進軍中との報道を受けてローマの支配を振り捨てたの 一五五年に、彼によって建設されたであろ 勝利を収めた前 ち、それにならった。ヴェネティア人はハンニ・ハル戦争中、 ローマとの同盟関係を忠実に守った。ケノマニ人・インスプ おアルプスのこちら側の地域の北東国境沿いのすきま リア人・ポイア人がふたたび征服されたのち、北東国境確保 ーの再征服 ハンニバル戦争前のポー川流域の征服と、戦を彳 の間題がもう一度現われた。 の結果、ローマ連邦の陸の国境はア。へニン山脈の南西山麓か ごろ ) のガリア人の戦闘部 前三九〇年 ( 三八七ー一二八 ら、アル。フスの東と南の山麓に移った。しかしアル。フスは中 マ寇掠以来、アル。フスの向こう側からのガリア人の 部ヨーロッパからの侵入者にとって、アベニン山脈よりも大隊のロ ーマでは悲劇的な受けとられかたをし 侵入ないし移住は、ロ きな障害ではあったが、一つの点においてアベニン山脈より た。前一八六年にガリア人の一団が、掠奪も戦争もせずにカ 不満足なものであった。アル。フスは、アベ = ン山脈と同様に ルニーアル。フスを南へ越えて、将来のアクイレイアの近くで テュレニア海には接していたが、アドリア海には接しておら ず、ヴ = ネティアの北東端の向こうにはサヴ = 川流域からイ町の建設に取りかかった。前一八三年にローマ軍が近づく ソンツォⅡ朮戈 と、一万二千名に及ぶこのガリア人の無断居住者は降服し、 第へと容易に通しる道があった。ロ 1 マ連邦の 新しい国境のこの部分が確保されるためには、人間のわざに追い出された。前一七九年に三千名から成るアル。フスの向こ う側のガリア人の別の一団が、今度も平和裡にアル。フスのこ よって防御物が提供されなければならなかった。ロ 1 マは、 ーしドに定住する許可を口 ローマの忠実ちら側の平野に入り、ロ ] マの支自一 独力ではこのすきまをふさぐことのできない、 マ政府に請求したが、彼らも退去を命しられた。他方ローマ 一一な同盟者のヴェネティア人に十分な掩護物を与える義務があ 政府は前一八三年に、戦略的に重要なアクイレイアに植民市 ヴ = ネティア人の都市国家のうちで北東端に位するのはオを建設することを可決し、前一八一年に歩兵三千と、それを ビテルギウム ( オデルツォ ) であった。またその領域の北東補うケントウリア隊長と騎兵からなるラテン市民植民市が生
いうことであった。地方語の最初の文学上の貧困のために、 て、もちろんギリシア語で書かれた。ローマ人たけが、彼ら、 ラテン文学は地方語にとって宝庫になった。しかし最上のラ が模倣したギリシア文学のほとんどすべての様式を再現する テン文学でも、その模範のギリシア文学に比べれば貧弱であ文学を、母国語でつくりだすだけの気力を持っていた。 った。そして今日の西欧人は、旧世界の西端の蛮族が、ラテ これは、たいていはローマ人でなく、またラテン語を話さ ン語で書かれたギリシア化した文学を通してヘレニズムに接ない、ギリシア的色彩を帯びたラテン語の先駆的著者となっ 触する代りに、直接ギリシア文学の刺激を受けて文学を生みたイタリア人によって、ローマ人のために達成された。ロー 出さなかったことを残念に思うであろう。 マのラテン文学は、イタリアのあらゆる地方で生まれ育った とはいうもののラテン文学の創造は、やはり驚くべき業績著者の協力によって、ローマのために開始された。ローマの であった。それがローマ人の天才にとくに合った分野におけ武力によってローマと政治的に結びつけられた、ローマ連邦 る業績ではなかったことを考えれば、なおさらであった。ロ のローマ人でない住民は、自分たちにローマ市民権を与えさ 1 マ人はただのひと跳びで、ラテン語ではほとんど読み書きせるために、前九〇年にふたたび武器をとってローマに反旗 もできない状態から、ラテン語で書かれたギリシア様式の文を翻すまえに、自発的にこの文化上の奉仕をローマに対して 行なった。 学を手に入れるところまで飛躍した。ロ 1 マ人を含むラテン 人は、エトルリア人からギリシアのアルファベットを習得し た。イタリア半島の他の住民の大部分と、アル。フスのこちら 第十四章ギリシア世界に対するローマの衝撃 側の地域の住民の大部分も、エトルリア人を通して、または 直接にギリシア人から借用したギリシアのアルファベット ローマ人の生活へのギリシア文学の衝撃は、ギリシア哲〔 で、彼らの言語を書くようになった。ギリシア世界の東のヘ 学・ギリシア宗教の衝撃と同じく、ギリシア人が征服者であ - 章りでも、リュキア人・リュディア人・フリュギア人が同様でるローマ人に加えた文化上の反撃の一部であった。これは、 + あった。しかしわれわれの知る限り、エトルリア人を除いて、 ギリシア世界へのローマの軍事的・政治的・心理的衝撃への 第 しつべい返しであった。ローマの貴族は、最初の出会いにお これらの民族はいずれも、それぞれの母国語をアルファベッ 巻 いてギリシア文化に眩惑され、ギリシア文明の暗黒面、なか トによって書く技術を、墓碑銘や公文書を刻むこと以上には 第 でもギリシア政治の党争と、ギリシア人の個人生活の不正直 利用しなかった。 h トルリア人は自国語の文学をつくるとこ キリシ に幻減を経験させられるのにかなりの時間を要した。・ ろまで進んだが、エトルリア文学は、宗教儀礼の領域だけに ア人も、ローマの軍制と政治制度の優秀性に感銘を受け、残一 限られたかもしれない。これらの民族の非宗教的文学はすべ
制圧した。エトルリア人の政治は独自の政策を行なう個別の シア都市国家から引き出され、後に他の国家からも補充され 都市国家、また私兵を貯えた個別の戦士貴族によって運営さ た。彼らはアテネ人が前四三一ー四〇四年の二回っづきの戦 大アテネⅱペロ 、間にシシリ , ー・を征服しょ れていたので、協力して有効に外敵に当ることはしなかっ争 ( ) の二つの時期の合し 一ポネソス戦争 た。しかしエトルリア相互に戦うことはなかった。この点で うとしたときに、彼らを軽蔑して呼んだように「混合した群 は = ーゲ海域と西地中海域に相互に最大の敵となって墓穴を衆」 ( 例 デ , 穴・四、一七 ) であ 0 た。 掘り、ついに容易にカルタゴ人、オスク人、そして最後にロ この混合はヘレニックのシシリーにおいて都市国家を超え ーマ人の攻撃の餌食となったギリシア人よりはましであっ た規模において国家を建設することを可能にした。しかしな た。しかしエトルリア人は前六世紀末以前に彼らが始めたと がらこのことは、ほとんどすべての場合に、僣主の恣意的な 思われる戦いが一連の敗戦となり、ラテイウムとローマにお 行動によって成就されたのであって、二重市民権の設定のよ ける覇権が崩壊し、防戦に追いこまれた後でも政治的に結合 うな制度上の取り定めによったものではなかった。この理由 ーのギリシア人の諸公国 のために超都市国家規模でのシシリ しなか「た。この点では北西アフリカの植民カナン人のアし が植民ギリシア人との闘争において、人力において優ったギ は一時は強力ではあっても、不安定で永続しなかった。彼ら リシア人との均衡の差を回復する以上のことを成しとげるの の繁栄はマケドニア王国のように、強力で有能な支配者の存 に成功したのに比べて遜色があった。植民カナン人は政治連在に依存していた。しかし彼らはマケドニア人と異なり、都 盟を形成して彼らの財産を回復し、しかもカルタゴ人でない 市国家体制に結合されていたので、カルタゴ人によって圧倒 大多数の植民カナン人はカルタゴの覇権に服することは、生される直接の危険がある場合を除いては、十着の独裁者にさ ぎ残るための代価としてはそんなに高いとは感じなかった。 え決して服従しようと欲しなかった。危険が去ると直ぐ彼ら これに対してエトルリア人の最も恐るべき敵であることを立は反抗し、有能な独裁者の後に凡庸な後継者が現われると、 証したローマ人は前四世紀と三世紀のうちに、エトルリア人彼らは独裁政を破棄し、次のカルタゴ人の襲来が再び独裁権 の諸国を一つ一つ征服することができた。 力に機会を与えるまでは地方的独立と集団性の欠如した状態 ーのギリシア人の歴史 っそう狭い限界内でのイタリアとシシリーにおける政治に逆戻りしていた。このようにシシリ 的統一の試みはギリシア人によってもなされた。ギリシア人は独裁政にもとづく統一の時期と分散による自由の時期とが かかと 何度か交替した。シラクサに集中したシシリ ーのギリシア人 は前八世紀以来、イタリアのつま先と踵および北西隅を除い こンシリ ーの海岸に植民した。シシリ ーでは各々のギリシア の公国は最初、ディノメデス家 ( 前四八五ー四六六年頃 ) に 植民地の最初の定植者たちは多くの異なったエーゲ海のギリ よって建設され、その後ディオニュシオス家 ( 前四〇五ー三
ぎなかった。ビルスが土壇場で干渉したときには、もう間に ニ人、ブラエテュッテイ人、ビケンテス人ーー・を編入するこ とによって、ローマ自らの政治体を拡大した。 合わなかった。地理的な遠隔という賜物はエトルリア人にも 同様に与えられていたが、そのことはエトルリア人をして口 カルキデイケ人がマケドニア人とともに同様なことをなし・ ーマにさきがけてイタリアに政治的統一を課することを十つつあったとき、ス。ハルタはカルキデイケ人の連邦形成の事・ 分、可能にはしなかった。 業を中断した。しかしながらカルキデイケより口 1 マにより ローマはそれが都市国家的な地中海の海洋世界とこの世界近く、カルキデイケとロ 1 マと同様に好都合な境界線に位し の後背地である比較的に後進村落共同体との境界に位するこ ている利点をもちながら好機を利用することに失敗した他の とを気づいた点で第二の地理的幸福をもった。ロ 1 マが建設諸国家があった。例えばシラクサはその後背地にシケル人の された諸丘陵は北西イタリア低地帯の中に位していた。南西高地人たちをもっており、この高地人たちはヘレネス文明を一 の方にはテ、レニア海の海岸がほとんど視界の中にあった。 受け容れてはいたが、シラクサまたはどんな他のシケル人の 北東の方にはサビニ高地の麓の丘陵がすっかり見えた。文化ギリシア都市国家によって政治的に屈服させられることに抵 ( 的にも政治的にも後進的な高地人はローマのような組織の整抗して激しく戦った。すでに述べたように、前三四四年と三 った都市共同体によって征服され得たばかりでなく、過去の 三六年の間にーーすなわちローマがラテイウムを再組織する 栄光について長い記憶をもたない民族であったから、実際に直前に、ティモレオンはシラクサとともに今度は連合を永続・ 境遇に順応し、同化することができた。彼らにとっては させるべき協定にもとづいてシケル人高地諸共同体を再統一 マグナーグラエキアは言うまでもなく、エトルリア、ラティ しつつあった。シケル人は今や彼ら自身の地方的共同体の市 民であるとともにシラクサの市民となった。 ウム、カン。ハニアの都市諸共同体とはちがってーー彼ら個別 の政治的個性の喪失はひどく痛ましい損失ではなかった。彼 この協定はローマが前三三八 ( 三一一一五または一二三四 ) 年と らがローマのような成功した都市国家の政治体に編入されるそれ以後に併合したラテン人諸共同体および前二九〇年に併 のは、彼らに地中海文明という偉大な世界に加入させること合し、その後、前二四一年以後のある年代にローマ人の「選、 になったからである。前の章で述べてきたように、ローマは挙権欠如都市」 civitas sine suffragio から完全ローマ市民・ この位置を十分利用した。すなわちローマはまず自らを文化 権に昇格させた高地サビニ人や。フラエテュッテイ人との協定一 的に後進的な高地人に対する都市国家的生活様式の擁護者とのように寛大であった。しかしシシリー東部におけるその後 して提示することによって低地人たちの共鳴と支持をひきっ の成り行きは同一ではなかった。ティモレオンの引退後数年 け、次いで若干の高地諸民族ーーサビニ人、南西ヴェスティ 以内に、彼のシラクサ連邦は再び分離し、その構成諸共同体は