水線に直角に曲がり、あとは互いに平行して真直に流れる。 溝は、ティベル川と、その支流キアジオ川の支流であるトビ 南東に向かっている一連の山なみと山なみのあいたの谷と ノ川に讙漑されている。サンセポルクロとチッターディーカ 盆地が、ジェノアのすぐ西のアベニン山脈の北西端から、ル ステロの盆地の南東に、グッビオ ( イグヴィウム ) 市の盆地 カニアにあるその南東端まで走り、けつきよくは機会を見つ が位置している。ティベル川上流の地溝はナル川を越え、さ けしたい突き破って南西に流れ出ていく川の源を蔵してい らに高いヴェリノ盆地となってふたたび現われ、リエティ ( レ・ る。ラヴァーニヤ ( ラボニア ) 川はキアヴァリで海に出る。 アテ ) のすぐ南東のところで、ふたまたに分岐する。その南 ヴァラ (t ホアクテス ) 川はルナで海に達する。マグラ ( マク西側のものはトウラノ川とアニエネ ( アニオ ) 川上流によっ ラ ) 川はヴァラ川に合流する。セルキオ ( アウセル ) 川はガ て灌漑され、北東のものはサルト ( ヒメラ ) 川とリリ 川上流 ルファニヤ 1 ナ盆地から出て、ルッカ盆地の北西隅を通り、 によって漑される。 サルトー ビサで海に到達する。ルッカ盆地の東に三つの盆地があり、 月の南東の山なみの向こうに、アテルノ川がサルト ・シエヴェ それを灌漑するベスチア川・オンプローネ川 川と平行に、しかし反対方向に流れ、アクイラとスルモナの は、みなアルノ川に注ぎ込む。シエヴェ川の合流点よりかみ盆地を讙漑してから直角に曲がり、ポポリの谷間を通ってア 手のアルノ川中流盆地は、キアナ川盆地に続いている。ティ ドリア海に注いでいる。 ベル川が南東から南へ向きを変える点よりかみ手の上流は、 以上のようなアベニン山脈北西部と中部北半の構造が、ロ クリトウムヌス川と接続している。キアナ川との合流点より ーマリグリア戦争の行なわれた地理的背景である。平行す しも手のティベル川中流は、アルノ川中流およびキアナ川の る山なみとくぼ地のうちでもっとも北西にあるものが、軍事 続きであり、その地溝そのものはさらに南東に延びている。 行動の舞台であった。山なみのこの部分に沿って、アベニン の盆地があ そのティベル川の向こう側の部分を灌漑しているのは、順々山脈の分水線のテ、レニア海側のすぐ下に、 ーー・・リ . 1 ノ にサッコ ( トレルス ) ス ) 川中流・ヴォルト る。ハンニ・ハル戦争直後に、ローマ連邦の北西国境のローマ ウルヌス川中流・ヴォルトウルヌス川の支流カローレ川であ側にあったのは、そのうち三つだけで、残りの八つはなお、 る。 独立の種族によって保持されていた。グッビオ盆地は、ロー アルノ川中流からカローレ川まで延びているこの地溝の長マと同盟しているウンプリア人のイグヴィウムに属し、チッ 第 さと対照的に、アルノ川上流によって灌漑されるカセンティ ターディーカステロ盆地は、ローマと同盟しているウンブリ ノ地溝は短い。カセンティノ地溝の南東に平行して、サンセ ア人のもう一つの国であるティフェルスムーティベリヌムに ポルクロとチッターディーカステロの盆地へと延びている地属していた。他方アルノ川上流盆地とシエヴェ盆地は、それ
国家の都市国家的構造と、その中での貴族の政治的優越と就したところは、政府の自由になる手段を用いてなしえたで は、不可分に結びついていると、「体制側」は正しく信じてあろうことに及ばなかったから、政府は故意に政策を変えた いた。ここでの貴族の利己主義は政治的であり、ローマ市民かのようにみえる。じっさい政府は、イタリア南東部および の定住地を遠隔のローマの共有地に建設することに対する彼中部のうちで、奴隷使用農場農業か遊牧牧畜業の発展に有利 らの反対が、経済的利己主義によっても鼓舞されたという証に利用できる地方ではどこでも、伝統的な農民経済回復政策 拠はない。彼らの反対は、土地の割当そのものへの反対ではを推し進めないことに決めたかのようである。 よ、つこ 0 もしそれが事実であれば、ローマ政府はここでは、農民兵 / 、カュノ の供給を維持するという国家利益を犠牲にして、「体制側」 ハンラハル戦争以前のローマの「体制側ーのこの政策は、 の経済的利益を増進させる決心をしたのであろう。この国家 クラウデイウス法の通過とハンニバル戦争ののちまで残っ 利益は、ローマ国家の都市国家的構造を保持するという、 た。「体制側」は荒廃した地域に伝統的な農民経済を回復さ 「体制側」の伝統的な政治的利益よりも、その新しい経済的 せることに着手した。 農民が都市の城壁の内側で生きのびたところでは、政府は 利益によっていっそう重大な妨害を受けたであろう。しかし 上地の耕作と村の再建に彼らを戻すために最善を尽した。政「体制側」は、ローマ国家の安寧、またおそらくその存在さ 府はます前二一 ー二一〇年にカンパニアのかっての離反地 えも ( 「体制側」の優越の維持にかかっていると心から信じ 区で、次に前二一〇年にシシリ 1 で、それから前二〇六年に ていた。そして「体制側」の構成員は、確実な収人がなけれ イタリア中部南半の低地で、そのための手段を講じた。 ば公務に専心することができなかった。前二一八年のクラウ デイウス法の結果、この収入はもつばら農業または家畜飼育 ノニバル戦争後ローマ イタリア南東部の広大な地域が、ハ、 から引き出されなければならないことになった。したがって 政府によって没収され、ローマの公有地に変えられた。その ローマの貴族は、国家のうちにおける「体制側」の伝統的地 うち比較的遠くない地域には、政府は前一一〇一ー二〇〇年に 六スキ。ヒオ麾下の老兵、前一八〇年に四万七千のア。ファ = 人を位の維持、およびそれとともに国家そのものの存続は、新し 第 い形の農業の普及のために自由な舞台を開くことに依存して 植民し、比較的遠い地域にはラテン市民植民市を建設した。 いる、ともっともらしく主張したであろう。 二しかし半島の中部南半と南東部において、ローマ政府はハン 第 新しい奴隷使用の商業的経済制度にとって都合のよいとこ ニバル戦争後まもなく、伝統的な農民経済を回復させる最初 ろではどこでも、政府の行為によって抑制されなければ、そ の政策をやめた。一部分は仕事の大きさに気力を失ってやめ ・ヒサーアリミ たのかもしれない。しかしこの地域においてローマ政府の成れは必す伝統的な農民自営経済を追い出した」。
五六年と前三四七ー三四四年 ) 、アガトクレス ( 前三一七ー一一地を建設した。しかしシシリーに接近したイタリア本土で 八九年 ) およびヒェロン二世とその孫ヒェロニュモス ( 前一一 は、ディオニュシオス家はイタリアの「踵以上を確保しな 七五〔四〕ー二一四年 ) によって次々に再建された。ディノメ かったし、それも橋頭堡たけであった。南イタリアのギリシ デス家の相棒にはアクラガスのテロン ( 前四八四ー四七二年ア人植民地の残り全部を併合することは、ディオニュシオス 頃治政 ) がいたが、その公国領は島を南北に横断し、北岸の 家の議題になかったし、どの道彼らのカの及ぶところではな かったであろう。 ギリシア都市国家ヒメラを包含していた。 イタリア本土のギリシア植民都市国家についていうと、そ 疑いもなく前一二五七年にディオニュシオス二世が没落する の最も遠隔にあるカルキデイケ人の植民地クマエは前四七四以前のどんな年代でも、シシリーとイタリアのギリシア人の 年、エトルリア人の南東進出によって圧倒されそうになった総計力はシシリーとイタリア半島全体に、西方ギリシア人の とき、ディノメデス家のヒェロン一世の救援を歓迎した。し 覇権を樹立するのに十分であった。しかし必要条件は統一で シシリーとイタリアのギリシア人はオトラント海 かし「踵」にあるイタリアのギリシア諸都市は互いに戦いなあったが、 がらもシラクサの独裁者たちがこれらの都市を併合しようと峡以東のギリシア人よりも、い っそう明白に結合を成就する する企図に抵抗しつづけており、それはオスク人がエトルリ ことに失敗した。シシリ ーの少数の富人層は決してディノメ ア人の力。フアとカルキデイケ人のクマエを圧倒したのち、さ デス家またディオニュシオス家の支配に従おうとはしなかっ らに南方のギリシア人の諸共同体を強く圧迫しはじめたとき たし、シシリーと南イタリアのシラクサ以外のギリシア人ま も変りはなかった。またタレントウムは独自の道を進んでい たは非ギリシア人の諸国は決してシラクサの覇権を認めよう とはしなかった。 た。それが救援を必要としたときには、母市のスパルタか、 またはオトラント海峡を横断して、エベイロスのギリシア人 シラクサ人は前五世紀に一時、エルス島とコルシカ島の領 隣人に求めた。タレントウムを通過して、シラクサ公国はデ有に成功したようである。彼らは恐らく、前三九二ー一二八 章イオニ = シオス家の下にアドリア海の制海権を獲得しようと年の十年間に、のちにローマ人が成就したことを成しとげそ 第した。シラクサ公国はブリンディシより北西のイタリア北東うであった。前三九二年にはシラクサとカルタゴの平和条項 はシシリーにおけるカルタゴ領を同島の北西隅に制限した。 巻海岸の唯一の良港であるアンコナに植民地を建設し、ポ 1 第の河口の一つの近くに、第二、第三の植民地ヌマタとアトリ アドリア海の要衝の地におけるシラクサの海軍基地は前一二八 五 ( 四 ) 年と三八四 ( 一一 l) 年に設定された。同じ時期にシラク アを、またアドリア海の東岸沿いにアレッシオ ( リッスス ) 、 レシナ ( ファロス ) 、イッサ、トラウおよびス。ハラトに植民サ人は恐らくコルシカに基地を設け、一時エルバを占拠し、前
158 ーマは、エトルリア人の支配が倒れたのち一一百五十年以上をがオスキ人とカルタゴ人に、それらのギリシア人を攻撃する へてふたたび工業都市になった。カプアが工業上の競争者のきっかけを与えた。シラクサの抵抗にもかかわらず、カルタ 地位から去ったことも、ローマにとって有利だったであろゴはポエニ戦争勃発の直前には、ほとんど全シシリーを支配 う。ローマは前二一七ー二一六年に軍事上・政治上は失敗し下におさめるかの勢いを示した。前三四四年から前二七一一年 までの七十一一年間に、西方のギリシア人を守るためにギリシ たが、それが工業への刺激となったのである。 したがってイタリア中部の南半は、イタリア北西部と同様ア本土から六人の「救済者ーが迎えられたが、一時的に成功 コリントの将軍。シラクサ人に招かれて に第一一回ポ = = 戦争中活発に経済活動を行な 0 た。農業を犠したのは最初のティモレオン ( 前三四五年にシシリーに渡り、シラクサ 牲にしたその活動はたしかに不健全ではあ。たが、大きな苦矯新黯鷭 ) だけであ。た。その間西方 難を経験したイタリア南東部とシシリーに比べれば、この地のギリシア人の受けた損害は莫大であり、またマグナーグラ 域は明らかに恵まれていた。 エキアはけつきよく口ーマの保護・支配のもとにはいっこ。 もっともこの対照は、、 前二七〇年から前二一七年までイタリア南東部は平和を享 / ンニバルがそれをさらに際立たせ 受したが、それでもたとえばギリシア人の都市クロトンは、 る以前からすでに存在していた。前三四三 ( 三四〇または三 第一回サムニウ ハンニバルがリ 至着するまでに市民の数は一一千以下になってし 三九 ) 年 ( ) 以後、ローマとヴォルトウルヌス川 ム戦争開始の年 まい、彼と同盟を結んだプルッテイウム人の要求に屈して、 のあいだの地域は、前二一一年にハンニバルの侵入を受ける まで、前三二一 ( 三二〇ー三一九、または三一九 ) 年、前一一一彼らにまちを引渡さざるをえなかった。一方 ( ンニ・ハル戦争 ーの平和はもっと短く、前二四一年から前二一四 一五年にサムニウム人、前二八〇年にビュロスの侵略を許し前のシシリ ただけであったのに対して、サムニウムは前二八〇年だけで年または二一三年までしか続かなかった。シラクサがカルタ ゴにそそのかされて愚かにもローマと戦端を開いたために、 なく、前二九八ー一一九〇年の第三回サムニウム戦争において シシリ 1 はふたたび戦場となり、シラクサは攻囲のすえに占 も、ローマ軍からはなはだしい寇掠をこうむり、またイタリ アとシシリー のギリシア人は、彼らの隣人であるイタリア人領・掠奪された。 よりももっとひどい損害を招いた。 イタリア南東部のローマの同盟国には災厄を回避する余地 まだ前六世紀のうちにマグナーグラエキアの二つのギリシ がなかった。ハンニ・ハル指揮下のカルタゴ軍は、前二一七年 ア人の植民市シリスとシュバリスが、ギリシア人の手で抹殺の戦役シーズンが終らないうちにもう彼らの真只中に進出し ていた。中立の立場をとることはできなかった。ローマは、 、 ) ついでイタリアとシシリーのギリシア人は された ( 」ハ九。 ( 。 ペ。ポネソス戦争 ( 前四三一ー四〇四年 ) に捲き込まれ、これ前一一〇四年 ()l 幻 ~ もの十二のラテン市民植民市に対する
それ独立のリグリア人の種族であるカスエンテイラニ人とム ー北西部からのエリュモス人の植民者たったかもしれな 幻ケリ人によって保持されていた。シエヴェ盆地の西の盆地の 。とにかく彼らはローマと友好関係にあったらしいが、ロ 南東端はフィエソレ ( ファエスラエ ) 、北西端はビストイア ーマにとって不幸なことには、ア。ファニーアル。フスがビサか ( 。ヒストリア ) によって扼されているが、。ヒストイアはアベ らティグリイ人の地方への陸路を制していた。 ニン山脈を越え、レノ川の谷を下って、ポロ ニヤ ( フェル ア。へニン山脈の分水線の北東側には、ア。ファニ人の隣人と シナ ) へ出る道の南西の入口に位置している。この盆地はた して、ポー川のこちら側の平野の南西のヘりこ、、 冫カってのポ エトルリア人からローマの ぶんポエニ戦争の始まるまえに、 ィア人領に接する丘陵地帯を占めた、リグリア人の独立の他 フラケンティアやパル 覇権に帰した。それはむき出しではあったが、戦略的に貴重の二種族がいた。その北西のものは、。 なローマ連邦の領域の突出部であり、独立のリグリア人の領 マを通ってポー川へ下っていく川の上流の谷を占拠していた 土の中深く貫入するとともに、フラミ = ウス街道が辿った峠エレイアテス ( イルヴァテス ) 人であり、その南東に隣接し と、ゲアアからポー川流域に達する峠のあいだで、最短では ていたのは、フォルムーレビディ ( レギウム ) やムティナを ないが、もっとも近づきやすいアベニン山脈越えの峠に通じ通ってポー 川へ下っていく川の上流を占拠していたフリニア ていた。 テス C フリニアテス ) 人であった。フリニアテス人はレノⅡ ベスチア川 とサヴェナ川のあいだの分水線に沿って、トリブスーサ。ヒニ ・ルッカ・セルキオ川上流・マグラ川の盆地は すべて、前二〇〇年には独立のリグリア人であるア。ファニ人アと境を接していたかもしれない。リ 前一一世紀の初めまでにト リ・フスーサ。ヒニアは、ローマと友好関係に入ったようであ によって保持されていた。そしてローマにとってもっとも恐 る。 るべきリグリア人であった彼らは、自然の防御物にももっと も恵まれていた。セルキオ川上流とマグラ川上流の谷は、ア ハンニ・ハル戦争直後に、アルプスのこちら側の独立のリグ 。ファニーアルプスと呼ばれるけわしい山で、テュレニア海岸 リア人の若干の種族は、ローマの攻撃に抵抗するために、他 から遮られていた。この山脈がアプアニ人に占領され続けて の種族よりはるかによい位置にあった。カスエンテイラニ人 いる限り、ローマ軍がルナとビサを結ぶ海岸沿いの陸上ルー とムケリ人は、小さな種族であったうえに、南西はロ , ーマ連 トを進んで、ルナ港に達することは不可能であった。 邦、北東はトリ。フスーサビニアに囲まれて、もっとも弱い位 ラヴァーニヤ川の谷とたぶんヴァラ川の谷、およびローマ置に立たされていた。他方ア。ファニ人は、前面をア。ファニー 人占領以前のルナ港は、セゲスターティグリオールムに属し アル。フスで掩護され、背面をエレイアテス人とフリニアテス ていた。ティグリイ人はリグリアの原住民ではなくて、シシ人に守られて、その陣地の難攻不落を誇ったであろう。
この地域が遊牧牧畜業の一単位として経営されれば、それ併合された部分で、資本家であるローマの企業家に機会が与 豊はアブルツツイの高地とア。フリア北西部の平野から成る遊牧えられた。ハンニバル戦争後のイタリア南東部にローマ政府 牧畜単位の小規模な写しとなる。遊牧家畜飼育を可能にする が建設した農民定住地が、その地域のどこの人冂密度をも、 不可欠の条件は、相互に近づきやすい、ほ・ほ等しい収容力をあまり高くなかった前二一八年のそれにさえ回復しなかった 持っ夏の牧草地と冬の牧草地の利用であった。この遊牧牧畜 ことは明らかである。その地域の新しい併合地の中で、分配 業に投資したハンニ・ハル戦争後のローマの資本家は、かってされず、したがって引続き公有地であった部分が大きかった のトウリイとブルッテイウムの低地という小さな獲物にも目 しくつかある。 ことを指示する事実は、、 をつけた。彼らはルキウスアプステイウスⅱフロの注意を それらの事実が示すように、グラックス兄弟の改革派が押 ひきつけ、フロは彼らのために、コ。ヒアの地の三分の一を留えたのは、イタリア南東部のまだ割当てられていない公有地 保するように同僚を説得したと推測される。この私的な圧力であったが、それはそのまえに資本家であるローマの占有者 は、商業的な牧畜業と農業が自営農民経済と競争していなか が押えたのと同じ公有地であった。資本家たちがこの地域を ったポノニアやアクイレイアには存在しなかった。 占有したことは、カトーの断片 ( お ) によ 0 ても間接 的に証言されている。 第五項アプリアおよびルカニアの私的な資本家の企業に 資本家であるローマの企業家がとらえた戦後の機会は、彼 対する自由放任政策 らの有能さに対する報酬であった。ローマ政府は、併合した 私的な資本家の企業が、ア。フリア北西部とルカニア南西部アプリアとルカニアの荒廃地を回復し、そこに植民するのに 必要な組織も資本も持っていなかった。しかし政府にとって の新しい公有地において行動の自由を得たことは、ほ・ほ疑い は負担となった取得地は、私的なローマの資本家にとっては この二つは、イタリア南東部でかっての離反同盟国か らのローマの土地没収がもっとも広く行なわれた地域であっ金鉱であった。 アツ。ヒアノスによれば、占有者が開墾した公有地の産物に ついて、政府は穀物の収穫に対しては十分の一、果実の収穫 主権と所有権のこの広汎な移転は、カン。 ( ニアを除くイタ に対しては五分の一を租税として徴収した。また公有地の牧 リア南東部で、ハンニバル戦争の破壊的効果によって極端に 草地で養われている大小の家畜数に従って、牧畜業者にも租 なった、長期の人口減少過程といっしょになって作用した。 これらの二つの変化が結合して、ハンニ・ハル戦争後のイタリ 税を課した ( T 3 乱 ) 。個人が耕作のために手に入れてもよ い公有地の大きさ、個人が公有地の牧草地で養ってもよい大 ア南東部全体で、またとくにア。フリアとルカニアのロ 1 マに こ 0
163 A. Afze1ius, こミ c 2 ー二〇一年にローマ軍は、イタリア南東部のカン アフッ = リウスの主張を支持する ( , ニア・アゾリア・ゾルッテイウムに集中した。これに反し ) ホ 1 川流域はアベ = ン tischen G き ss き c ざド 194 ← p. 13. て、イタリア北西部・シシリー・ サルディニアおよびオトラ山脈北西部よりも価値が大きく、征服は容易であった。ロー ント海峡以東 ( たたしここでは五年の短期間 ) の兵力は比較マは前一九一年までに前者を征服したが、後者を獲得するに 的少なく、しかもかなり一定に維持された。たとえばシシリ は前一七五年までを要した。 ーのローマ軍の兵力は一一軍団で、それが四軍団に増加したの 他方この時期のスペインにおけるロ ] マの軍事行動の目的 は、シラクサとの戦いが行なわれ、カルタゴの遠征軍がシシ は、第二回ポエニ戦争で獲得した地域を守ることにあった。 有名 リーにあった前二一 三ー二一〇年の四年間だけであった。 ーマは、ティベリウス日セン。フロ = ウス日グラックス ( なグ 他方、前二一七ー一一〇三年のイタリア南東部の軍団数は、 兄弟の父が前一七八年までにもたらしたらしい安定した情勢 前二一七年のトラシメスス湖の戦いののちと前一一〇三年との に満足した。 四より小さくなったことはなく、年平均は七・五強であった。 前一五四年にふたたび始まったスペインの戦争の激しさと そしてそれが情勢に応じて一、二の戦場に集中させられた。 執拗さの原因の一部は、原住民に対するローマの属州総督の 前二一六年の後半と二一五、二一一 、二一一年には六軍団が失政にあったが、主な原因は、蛮族と文明国の境界線沿いに カンパニアにあったが、これを補う同盟軍をも勘定に入れる長く平和を維持することの本来的な難しさにあった。この事 と、それはローマ史上もっとも密集したローマ軍の一つであ情は、前一七五年以後のガリアーキスアル。ヒナとリグリアー キスアルビナでも同様であったが、そこではローマに対して 前二〇〇ー一六八年の武装軍団の数と分布については、前 攻勢に出るだけの有力な原住民は存在しなかったのに反し 一九八年から一七二年までローマ軍はアベニン山脈北西部と て、スペインではローマ人は、好戦的で強力なケルトイベリ ポー川流域に圧倒的に集中した。この地域の軍団数が二に低 ア人およびルシタニア人と直接境を接していた。スペインに 下したのは前一八九年と一七七年の二回だけであったが、そおけるローマ軍の集中はけっして大きいものではなく、前一一 、こ異常に大きな必要が起こった れはいすれも他の戦場におし一 一八年から一三三年までに四軍団を越えた年はなかった。し からであった。前一一〇〇ー一七二年のこの地域の年平均は四かし前一一〇〇年に一一軍団を一軍団に減することが不可能であ 軍団強に達する。そして以上のような事実と数は、この時期っただけでなく、前一八七年ごろから一六八年まではふたた び四軍団に増加した。こうしてローマは、スペインでの戦闘・ のロ ] マの主要な軍事目的はポー川流域の征服にあった 行為を止めることができなかっただけでなく、切り詰めるこ し J い、つ これはアベニン山脈北西部の征服をも必要とした
245 第 - 巻第七章 と、離反したイタリア南東部の諸国家の領域における、かっ ウン。フリアにも羊の夏 の乳」と称している ( 一・・一 (j 。 ての私有地の大きな広がりの、ロ 1 マ国家による没収であっ の牧草地があった。 こうしてハンニバル戦争後のイタリア半島では、大規模な ローマ政府が前一一一〇年以降穀物生産の回復に乗りだした遊牧家畜飼育の潜在力が展開されつつあったが、当時新しく シシリーにおいてさえ、遊牧家畜飼育は農業と競争しただけ開放されたアル。フスのこちら側の平野では、家畜飼育はなお でなく、それを圧した。ハ、 ノニ。ハル戦争後のシシリーの大土農業に対して補助的な地位にあった。アル。フスのこちら側の 地所有者の大半は、ローマの騎士だったようである。大経営羊が、イタリア半島南東部低地の羊より高く評価されるよう になったのは、ようやく一世紀の六〇年代に著述したコルメ 者は彼らの利益を、輸入奴隷にふたたび投資した。彼らはそ のうちの若い者を牧人に用いた。そしてシシリーでは家畜飼ラ の時代になってであっ ( 人。六〇年 ) 」ろ『農業論』一二巻を書いた 育は農業よりも有利になったので、農耕奴隷は強制的に牧畜た。 労働に転換させられたと思われる。 大規模な遊牧家畜飼育は、農場農業よりも利益の大きい投 ブルッテ、イウムのシラ高地が夏の牧草地として好適だった資の分野であった。個人的経験に基づいて書かれたカトーの ことについては、すでに述べた四 ) 。その南東部の低『農業論』には、遊牧家畜飼育のことが出てこないが、彼もや 地は、半島でもっとも広く、もっともよい冬の牧草地を提供はり農場農業と遊牧家畜飼育を結びつけて経営していたと思 した。タレントウム領の羊毛は、ローマの覇権のもとに半島われる。 が政治的に統一されるよりずっとまえから、その品質で有名 しかし新しい遊牧家畜飼育では、牧畜業者は家畜と牧人奴 であった。タレントウムの家畜の群が、ローマ支配以前から隷を大規模に購入するだけの資本を持っていなければならな 季節によって移動していたとしても、前五世紀以来タレント 、った。 ( ンニバル戦争後のイタリアで必要な資本を自由に ウムが、後背地の高地のオスキ人と慢性的戦争状態にあった できたのは、ローマの貴族と新しい商工業者階級だけであっ ことを考えれば、その移住は狭い圏内に限られていたにちが ハンニバル戦争後は、南東部の低地で冬を過ごした シシリ 1 の牧草地は私人の所有であり、またラティフンデ 二羊は、ルカニア・サムニウム、さらに遠くサビニ人の地に夏 イウムの形をとったらしいが、これに対して遊牧家畜飼育に の牧草地を得た。ヴァロはアプリアを彼の大きな羊の群の本用いられたイタリア半島の牧草地は、たいてい公有財産であ り、しかも主としてローマ国家の財産だったと思われる。そ 拠にしたっ、 ' 和を業道 ) 。ヴァ〔が引用するある典拠は、ヴ エリヌス川盆地のカン。ヒ・ローセア工を、とくに「イタリア してローマの公有地を牧畜に使用する場合、二つの条件に従 , こ 0 こ 0
第二巻への序文 : 第一章イタリア半島とシシリーにおける前二六四ー一一〇一年の二回 つづき戦争の破壊的効果 : 第二章二回っづき戦争の第二の勝負におけるイタリア南東部とシシ ーの荒廃・ 第三章二回っづき戦争の第二の勝負とその勝負のつづきにおける軍 役によるイタリア半島農民層の根だやし : 第一節リヴィウスの数字の信憑性 : 八ー一三三年の武装したローマ軍とイタリア同盟軍の総数 第一一節前一一一 第三節各戦線ごとの必要 第四節死傷者数 第五節軍役期間 第六節武装部隊の不満と反抗 第七節ローマ軍召集の困難の増大 第八節農民の根だやしがイタリア半島に及ぼした経済的結果 第四章二回っづき戦争の第二の勝負とその勝負のつづきの結果とし てのローマとイタリアの同盟諸国との関係の悪化 第一節心理的傾向の変化 第一一節反抗者と離反者に対するローマの処置 第一項反抗したラテン市民植民市に対する処置・ 第一一項離反してのちふたたび征服されたイタリア南東部の同盟国に対する処置 : ・ : 一六四 : ・一七四 ・ : 天 0 : ・天四
228 ・ヘれば取るにたらないものであった。ローマ法の目からみれ 。しかし前一一〇〇年またはそののちの懲罰的処置によっ て、アティナそのものはローマとの同盟国として主権を保持 ば、無断居住者の不安定な保有がどんなに延長されても、た んなる時の経過は彼らに所有権を与えるものではなかった。 したが、境界標石が示すように、谷の奥のアティナ領の耕地 前二三一一年にセノネス人は先祖伝来の故郷から追い出され、 はローマ領に併合され、ローマの公有地となった。 ふたたび戻ってはこなかった。前一三三年にトウリイ人・・フ そこでアティナ領は、アティナの後背地の山に限られるよ ルッテイウム人・ルカニア人・ヒルビニ人・ア。フリア人の無 うになったが、都市国家は山羊の牧草地たけでは生きていく 断居住者は、さいわいにも彼らのかたわらにローマ人の無断ことができなかった。それゆえアティナ人は、 ( 居住者という有力な同盟者を持っていた。それらのローマ人争の終結からテイベリウス = グラックスの農業法の通過まで はローマ市民たっただけではなく、ロ 1 マの「体制側ーか、 の三分の一一世紀のあいだ、毎日昼間は谷の耕地で働くという 二度のポエニ戦争で財産をつくった新しいローマの商工業者大昔からの生活を続けたであろう。 階級の構成員かでもあった。二世代のあいだ住みついていた 一三三年のティベリウスの農業法は、アティナ人にも激 これらのローマ人の立ちのきは、百年革命の勃発を早めるこ しい衝撃を与えたであろうが、彼らは抗議や抵抗を行なうさ ととなった。 いに、無条件降服者である無断居住者よりはるかに強い立場 にあった。アティナはなお独立の都市国家であって、その政 しかしイタリア南東部の公有地の原住民の無断居住者は、 一三三年にローマ人の無断居住者をそばに持っていなかっ府はローマ政府と会談したり、他の同盟国政府と集まって共 たとしても、前二三二年のセノネス人よりも、強い立場にあ同で抗議する策を練ったりすることができた。 前一三〇年代に、イタリアの同盟国を刺激して自分に対抗 ったであろう。没収地に居住していた原住民の無断居住者 は、たぶんローマ法では無条件降服者の身分であった。しかする統一戦線を作らせることになるのではないかという恐れ が、それらの同盟国に対するローマの高圧的で不公正な取扱 しイタリア南東部ではそのほかに、ローマの公有地で働いて いをなおある程度抑えていた。この恐れはローマの政治的経 はいるが、法的な居住地は、ローマ領の外の同盟国の一つに 験に深く根ざしていた。そこで政府は、あれこれの同盟国の あるという原住民の無断居住者もいたかもしれない。 この可能性は、グラックスの境界標石がルカニアのアティ ではなくて、同盟国一般の利益を害するかもしれないローマ 自身のどんな行為についても、必ず熟考せざるをえなかっ ナ市の近くのタナゲル河谷で発見されたことによって暗示さ れる。アティナの領域は、ルカニア南西部における唯一の重た。それなのにイタリア南東部の多数のローマの同盟国の利 要な可耕地である、上流の谷の奥の一部を含んだにちがいな益が、前一三三年の農業法によって損なわれた。