ラテン市民植民市は、かってローマと同盟していたラテン 度の十一月の初め以前にそれそれの故国に戻ることとされ た。元老院はさらに、奴隷所有者が、奴隷に国籍の変更を得同盟の制度の一つで、前三三八 ( 三三五または三三四 ) 年に させるために彼の解放を申し出ているのではないとまず宣誓ロ 1 マがラテン同盟を解散したとき、ローマに引き継がれた ものであった。その後の新しいラテン市民植民市の建設は、 しなければ、今後奴隷解放行為をなしてはならないとローマ の役人に命じた。 ローマが七十年以内にイタリア半島統一の偉業を達成した手 しかしそれでも前一七三年の戸口監察官の一人は、前一七段の一つであった。ラテン市民植民市は、戦略地点に建設さ 七年の命令に従って故国に帰っているはずだった同盟国の全れた要塞であった。またローマと外的に結びついた、主権を 市民は、ローマでなくて故国において登録を受けるように命持っ都市国家であった。その結びつきは二つの事実によって じなければならなかった。 確保された。すなわち軍事的には、ラテン市民植民市は非友 ローマ政府は同盟国の政府と公然と共謀して、同盟国の移好的な外国に接しており、ロ 1 マからの不断の支持がなけれ ば、独立の保持を望むことができなかった。また人口統計的 住者に対したとすれば、他方同盟国政府への約東の実施を怠 には、それらのすべての住民中にローマ人の要素があり、前 ることによって、自己の矛盾する利害を調整した。 ( 三三五または三三四 ) 年以後ローマが建設したもの 第三項ローマ政府のラテン市民植民市建設のならわしの の住民には、ローマ人の要素がたしかに優勢であった。 放棄 これらの特徴のためにラテン市民植民市は、ローマ都市国 ローマとその同盟国のあいだの軍事上の人的資源獲得競争家の地域を拡大しないでローマ連邦の地域を拡大する有効な は、同盟国の政府とその市民のあいだに、以前にはなかった手段になった。新しいラテン市民植民市は、土地を渇望する 分裂を生する一方、ローマ政府とローマ市民のあいだの古い ロ 1 マの農民にはけ口を提供した。それらはまた、ロー 論争を終らせていった。 自己の連邦の中に編み込んだ、イタリアの外国共同体を抑え ハンニバル戦争以前、 ローマ政府はローマ領、またはその 四 るための広汎な守備隊を提供した。それゆえ前一一〇一年のカ 第 中でローマの小土地所有市民の住まう地域の無制限の拡大に ルタゴとの講和後、政府は新しいラテン市民植民市を建設す るというならわしをふたたび始めた。しかし前一八九年から 二つねに反対した。政府はその地域を、自己の意見ではローマ 八三ー一七七年のうちに政府はその の伝統的な都市国家的構造を現実のものとしておくことを可一時停止したのち、前一 3 能にする限界内に保とうと努めた。そのために、ラテン市民政策を放棄し、代りにラテン市民植民市型のローマ市民植民 植民市をさらに建設し続けることが計画された。 。ー「の役人のための街道上の旅宿から発展↓た ) および 市・フォルム ( 一
過言ではない。 に毎年の賃借料を払って家畜を放牧することを許した。追加 この物語の第一章が本書の後半の題目である。前 トリブス地区とローマ人とラテン人の植民地の面積はほ。ほ算 年、ティベリウスⅱグラックスの護民官政治をもってはじま定されうる。追加卩ーマトリブス、ローマ人植民地とラテン る第一一章は百年革命 ( 前 一三三ー一二一年 ) であり、それは、 人植民地に、前四九三年 ( ほ。ほ四九〇ー四八五年 ) と前二四 まず十年の内戦 ( 前九〇ー八〇年 ) 、そしてついに十八年の 一年の間に割り当てられた収奪地の全面積は一万二六三〇平 内戦 ( 前四九ー三一年 ) となって苦しめたのであった。 方キロ以上ではない。 このようにローマのイタリア統一のために払わねばならな われわれは追加トリブスまたは海岸防備植民地に組織され かったイタリア人の三世代の苦難は結局、彼らの後継者たち なかった個人定植者に割り当てられた全面積、また依然ロー には何らの軽減とならなかった。それどころか、前三四〇年マ国の所有に保留された全面積を算定する手段をもたない。 または三三九年から一一六六年の間の半島の苦難はそれ以後と ただ前二四一年までに収奪された土地が上記の四つの使用に 比べると軽かったように思われる。統一の過程で蒙った最大供されたのちにもまだ、ローマ国民の公有地の譲渡されない の苦難は、ロ 1 マが撃破し、連邦に編入したイタリア半島諸残余地があったことを知っている。例えばアンコナとアリミ 国に以前所属した土地をローマが収奪したことから生じた。 ヌムの間のアドリア海岸に沿ったアゲルーガリクスは、前一一 これらの収奪された領域の総面積を評価するに必要な報告を八三年に以前の所有者セノネス人から完全に収奪され、この もたないので、それが半島総面積の何パーセントに当るかは土地の割り当ては一見大規模に、前一一三二年、個別のローマ 解らない。 市民になされた。しかしこの領域におけるグラックスの境界 イタリア半島におけるローマ国民の公有地はその後、五つ石の発見によって、前一三三年にもそこになお譲渡されない の異なった方法で処理された。その一部はローマ人定住者に若干の土地があったことが証明された。さらにわれわれは前 占有され、ローマの追加ト リブス地区に変えられ、また一部二〇〇年に、ローマ市自体の五十マイル以内に譲渡されない はローマ市民の植民者の領域に、一部はラテン人植民地の領公有地があったことを知っている。ハンニバル戦争の間、市 域に、さらに一部は個別のローマ市民の未組織の割当て地に、民私人によって国家に対してなされた賃借地は三回の分割払 残りは本来それを収奪したローマ国の所有地に留保された。 いが行なわれ、前二〇〇年に、その最後の支払いが満期にな この譲渡されなかった部分については、ローマ国はその市民った。この支払いは現金払いの代わりに、五十マイル半径内 と同盟諸国の市民ーー・収奪された土地の現住民をも排除せずの公有地の割り当てによってなされた。 に若干の土地を耕作し ( 恐らく年賦を払って ) 、他の土地 前四世紀初めにローマがウェイイを攻略破壊したことが、
194 「ンキリア・フルム ( 配属された部族の行政上の中心から遠い地域に定 ) を海岸沿いにのみ建設され、海岸警備の根拠地として役立てら 建設する政策をとるようになった。ローマの「体制側」は、 れることになった。この新しい型は、前三三八 ( 三三五また 主としてハンニバル戦争後のローマと同盟国間の軍事上の人は三三四 ) 年から一八四年まで一貫して用いられ、前一九九 的資源獲得競争のために、政策のこの基本的な変更を行なわ年から一八四年までに十一の新しい海岸警備の植民市が建設 ざるをえなくなったものと思われる。 された。 ハンニバル戦争の終結後ロ 1 マ政府は初め、住民の涸渇し しかし前一八三年に新しい型の三つのローマ市民植民市 た現存のラテン市民植民市を補強した。前一一〇〇年のヴェヌ が、ムティナとパルマ、およびサトウルニアに建設された。 シアから前一八四年のカレスまで、幾つかの例が知られてい これらはいずれも内陸に位置していた。また前一一者の建設に る。 はそれそれ一一千家族が送られた。没収されたポイア人の領域 一方前一九〇年に元老院は、その前年にローマ領に併合さ のこの二つのローマ市民植民市は、前一九〇年に元老院が決 れたポイア人の領域の半ばに二つの新しい植民市を建設する定した二つのラテン市民植民市の第二のものに代るように意 ことを議決した。それによって前一八九年にラテン市民植民図されたものかもしれない。 この推測が正しければ、ローマ 市ポノニアが建設されたが、次の植民市の建設については記 政府がかってのポイア人の領域への植民政策をこのように変 録がなく、のちにかってのポイア人の領域に建設されたもの えることを決定したのは、前一八九年のラテン市民植民市ポ は、すべてローマ市民の共同体の形をとった。この事実は、 ノニアの建設より遅かったことになろう。 ポノニアの建設後まもなく口ーマ政府が、ラテン市民植民市 ポイア人の領域における第二のラテン市民植民市建設計画 の建設からロ 1 マ市民植民市の建設への転換を考え始めたこ放棄の決定は、将来どこにもラテン市民植民市を建設しない とを指示する。 という決定を伴うものではなかった。前一八一年にはアクイ ローマ市民植民市の制度はラテン市民植民市の制度の模倣レイアがラテン市民植民市として建設された。しかし前一八 だったようである。しかし知られている限り最初のローマ市〇年にアル。フスのこちら側のア。ファニ人が追放されたのちに 民植民市は、前三三八 ( 三三五または三三四 ) 年にアンティ建設されたルカとルナは、それそれラテン市民植民市、ロー ウムに建設されたが、ロ 1 マの政治家は一連のロ 1 マ市民植マ市民植民市であったが、ルカは、前一七一年に建設された 民市を始めるにあたって、二つの点でラテン市民植民市の型ヒスパニアーウルテリオルのカルティアを除けば、最後のラ から離れた。すなわちローマ市民植民市は、それそれわずか テン市民植民市であり、それ以後ローマ政府が建設した植民 に三百家族から成る小型の都市国家であり、またローマ領の市や定住地は、すべてローマ市民の共同体であった。ロ , ーマ
184 う偏狭な見方をとった。それは、ローマ市民権を気前よく与元老院議員の心の中に呼び起こした。 える古いローマの伝統からの退歩であった。ハ ンニバル戦争 前二〇九年に十二のラテン市民植民市が点火した火花は、 は、ローマとそのもっとも忠実な同盟国との関係をさえも緊けつきよくイタリアの火薬庫をすぐに爆発させはしなかった 張させたが、その緊張がたぶん、ローマの態度と政策の変化 が、ローマ人の胸に消えない怒りの火を燃えたたせた。これ の主な一般的原因であった。 までローマ人は同盟国を仲間として扱ってきたが、以後彼ら は、同盟国の国民をますます属州民と同じ従属民のように扱 特別な一つの原因は、前二〇九年に十二のラテン市民植民 うようになった。 市が、ローマ政府が要求した軍隊の提供を一致して拒否した 同盟国が嫌ったのは、抑えるもののないローマの政務官の ことにあった。そのための軍事的な人的資源の喪失は、この 時のローマにとって重大な打撃であった。しかしそれはおそ権力に不当に従わせられることであった。その一例として、 前一七三年のコンスルの一人ルキウス日ポストウミウスⅱア らく、ローマ政府のはなはだしい憤慨の主要な理由ではなか ルビヌスは、ラテン人の国家。フラエネステにいわれのない私 った。主要な理由は、ローマの立場からすれば、これらの植 怨を抱いていたので、その年の初めにプラエネステを経てカ 民市が、ローマの忠実な他の同盟国全体に悪例を示したとい うことにあったであろう。 ン。 ( ニアに赴くさいに、宿舎と次の旅程用の車馬を。フラエネ カんらいプラ h ネステ ステ政府に要求した。しかしこれは、 : 第一に、植民ラテン人は、イタリアにおけるローマのすべ ての同盟者のうちでもっとも重んじられ、信用され、特権をが負担する必要のないものであった。 アルビヌスの無法な行為に輪をかけた暴虐が、その後も口 与えられていた。この特別な範疇に属する同盟国三十の五分 ーマの役人によって他の同盟国の当局者に加えられた。ガイ の二が反抗したとすれば、他の普通の同盟国から期待される ウスⅡグラックスも、その幾つかの例を引用している。 行動は、おして知るべしであった。 第二に、反抗した十二の国家は互いに手を携えて行動し 第二節反抗者と離反者に対するローマの処置 ( 三三五または三三四 ) 年にラテン同盟を解散 させてから、ローマは分割統治の政策を続け、次の七十年の 第一項反抗したラテン市民植民市に対する処置 うちにイタリア半島全体の最大の強国へと驚異的な成長を遂 げた。前二〇九年の十二の植民市の一致した行動は、全同盟 反抗した十二のラテン市民植民市は、前一一〇四年の初めに 国がローマをハンニバルの手に引き渡し、ローマの支配を終ローマ政府の叱責を受けた。それらは、ハンニバルのイタリ ーマの らせるための陰謀を企らんでいるという恐怖心を、ロ ア半島侵入以来、一年間に要求された最高数の一一倍の数の歩
小の家畜の数にも、法律によって限界が置かれていた。これて、ローマ国民の公有地の使用を許された代償として、農産 らの規定に服することを条件として、政府は、ローマ国家が物の十分の一税および五分の一税と、家畜の頭数税をローマ ( ン = 。 ( ル戦争後にイタリア南東部、とくにア。フリアとルカ政府に支払ったであろう。ロ ] マ政府は、原住民の無断居住 = アで獲得した新しい公有地のうちのまだ割当てられていな者が租税を支払う限り、新しく来たローマ人の無断居住者に 場所をあけるために、彼らを立ちのかせる気はなかった。政 い部分において、私的な企業に自由な活動を許した。 資本家であるローマの企業家は急速に、この土地の、独占府は、ローマの元老院か元老院と民会の票決を経て、ラテン 的ではないが支配的な使用者になった。ローマ政府が外国の市民植民市かローマ市民植民市、またはローマ市民かラテン 領域を併合して、それをローマの公有地に変えたとき、生き市民個人個人の定住地の場所をつくる目的以外には、無断居 残ったローマ支配以前の住民の法的身分と土地利用の条件は住者を立ちのかせなかった。 功化したが、実質的な事情は必すしもすぐには変らなかった。 原住民を無断居住者として住み続けさせるというこの一」 ローマ政府のならわしは、没収された土地の全部または一部 的な寬容は、居住者のいない公有地はローマ国家にとって無 が、新しいラテン市民植民市かローマ市民植民市の敷地、あ値価である、という明白な経済的真理を反映したものであっ ーマ市民への個々の分配用の割当地を用意するのに た。この政策の困った特徴は、時の経過の必然的な心理的効 必要になるまで、以前の住民をその土地で無条件降服者とし果を無視したことであった。前一一三二年のセノネス人の立ち て働き続けさせることであった。このならわしの古典的な例 のきは、それまで彼らは半世紀以上も彼らの土地に住み続け は、セノネス人の取り扱いであった。彼らの土地であるガリ ることを許されていたので、セノネス人にも、他のガリア人 ア領は、前二八四年ないし二八一二年にローマに併合され、そにも、一部のローマ人にも暴虐のように感にられた。この心 ラックスの農業 の公有地にされた。しかしセノネス人はその土地で働き続け理的状況は、 ~ 」 引一三三年にティベリウスいグ ることを許され、ようやく前二三二年になって、ローマ人定法が通過して、それまで三分の二世紀のあいたイタリア南東 六住者個人個人に " 」」ケ : 「 ( ム領とガリア領を分配することを規部のローマの公有地で働き続けてきた無断居住者を、立ちの きの脅威にさらしたとき、もっと大規模に現われた。 定したフラミニウ「「法施行のために、立ちのかされた。 聖一 0 一ー二〇〇年に、かってのカウデイウム領とヒルビ かっての外国の領域をローマの公有地に変えると、その居 = 人領の没収地の一部が、スキピオの老兵に譲渡されたのを 住者は法的には、不安定な保有権を持っ無断居住者に変っ 初めとして、前一八〇年までに何度か公有直の譲渡が行な才 た。しかしたぶん彼らの保有権は、移ってきたロ , ーマ人の無 断居住者のそれより第安定ではなかった。無断居住者はすべ主たが、それらを合計しても、分配されに残った面積に比
ともまた事実である。公職の被選挙資格については、ロ 1 マ するために、ロ 1 マが示した二つの実例を引用した。 人の解放奴隷は、理論上はすべてのロ 1 マ人と等しく享有し 諸君たちの公民権をもっ市民の数が最大限に達しているていた。しかし実際には、少数の特権家族の成員でない市民 が公職を獲得することは稀であった。ロ 1 マの植民地が同時 と、諸君の国家は強く、諸君の田園は現在、恥ずべき状態に 代のセレウコス王国のそれに劣らず多数であったことも事実 あるように、耕作されないままであることはないであろう。 このことは目指すべき目標であり、私はこのことを否定するであった。しかしわれわれが知っているように、前二一五年 声はひとつもあがっているのを聞くことはないと思う。寛大までは、ラテン植民地の数は三十以上はなかったし、ロ 1 マ な公民権賦与政策を遂行している他の共同体を観察すること植民地の数も、われわれが知っている限りでは、十五の追加 トリブス地区とそれまで植民された十一の海岸防備地を算入 は諸君に開かれている。ロ 1 マがその好例である。ロ 1 マ人 しても、その時期までに二十六以上ではなかった。しかし誇 は彼らの奴隷を解放すると、彼らは奴隷たちに市民団に入る ことを許し、公職就任の分け前を彼らに与える。この政策の張したとはいえフィリップ五世は、ローマの成功の主要な原 おかげで、ローマ人は本国の身長を伸ばしただけでなく、七因の二つ、すなわちその植民活動と外人に市民権を物惜しみ なく賦与したことを的確に指示していた。 十を下らない場所に植民を送ることを成しとげた。 ( ディッ 八 ( 三三五または この物惜しみのない市民権賦与は前三三 テンベルガー『ギリシア金石文選』第二版、第一巻、二三九 三三四 ) 年にローマによって開始され、イタリアとシシリー 番、三八二ー三行、第三版、第三巻、五四三番、一、 の支配を確立する人口統計的基礎を与えたが、ロ 1 マ連邦の 行 ) ( = 一版では、第一一巻、五四 = 一番、コ九ー一一一四行に収められている イタリア総人口の七分の五と三分の二との間くらいの人口が まだローマ市民団の外にとり残されていた時点で、不幸にも 彼のラリッサ人衛星国のためにロ 1 マ人の道徳を指摘し ) はローマを正当以上阻止され、他方少数者であるローマ人のかなりな部分が選挙 て、この「ケド = ア人の観察者の五 に評価した。ローマの解放奴隷が自動的にローマ市民となっ権を与えられないローマ市民権を受けとっていた。われわれ たことは事実であるが、寡頭政体制側の保守派は、解放奴隷が知っている限りでは、前一一一三八 ( 三三五または三三四 ) 年 はローマ国の三十五選挙区のうちの四つだけ、いや一つだけには、ロ 1 マの選挙権を与えられ、したがってまさしく「選 に登録されるべきであると規定することによって、公民権賦挙権のない都市」ではないように思われる四つまたは五つの 与の実際的効果を無効にしようと頑強に闘争し、前二一五年以前のラテン共同体だけが、第二分離戦争の第一期の末に不 においても、この憲法闘争の最終結果はなお未定であったこ可抗力で、前九〇年のユリウス法の条項以前のとくに寛大な
196 から規定された最高限までの軍隊を求める権利をそこなうこ 前一七三年に、前一七七年の本国送還命令を実施する処置 とになると感した。しかしそのために同盟国政府の要請を認 がとられたとき、ローマ政府は三度その埋め合わせをした めたとき、ローマ政府は、ラテン市民植民市を建設するごとに が、今回はそれはローマ市民植民市を建設することではなか 起こるローマ側から同盟国側への人的資源の移転を止めるこ った。ラテン市民政府と他の同盟国政府が、ローマ政府は一 とによって、埋め合わせをしようと決心したのであろう。し方の手で与えたものを他方の手で奪っていると指摘したのに たがってポイア人領に、未決定のラテン市民植民市の代りに カリア人とリグリア人 ちがいない。リ 前一七三年に元老院は、。 二つのローマ市民植民市を建設するというローマ政府の決定 から没収されたアル。フスのこちら側の地域の、まだ割当てら は、ラテン市民政府の要求に従ったのち、前一八七年に行なれていない残りの土地を個人的に分配することを議決した。 われたであろう。 そしてローマ人には十ュゲルムずつだったのに対して、三ュ ゲルムすつにすぎなかったが、ラテン市民も土地の割当を受 この決定が先例となるかどうかの問題は、アクイレイアに 植民市を建設して、アル。フスのこちら側の地域の北東国境をけた。 守らなければならないことが明らかになった前一八三年に生 これは抜け目のない元老院議決であった。それは新しい口 じた。新しい植民市の資格についてローマの元老院で長い討 ーマ市民植民市を建設しないで、ローマ市民植民者のたぶん 論が行なわれたすえに妥協が成立し、アクイレイアはラテン大群を維持し、またラテン市民には、彼らを自動的に帰化し 市民植民市となったが、その兵力は歩兵三千のほかに若干の せることなしにローマの公有地に与らせた。法的にはそれ ケントウリア隊長と騎兵に限られることとなった。 は、ラテン市民政府の攻撃を受ける心配がなかった。しかし ロ 1 マ政府は疑いもなく故意に、入植者の政治組織の現定を 前一八〇年にア。ファニ人が追放されて、アルノ川下流とア ペニン山脈北西部のあいだの地域が植民に利用できるように設けなかった。 なったとき、そこに建設されるべき二つの植民市の資格の問 植民市のほかにコンキリア・フルムとフォルムという、二種 題がふたたび提起された。初めに建設されたルカには、ラテ類のローマ市民の地方自治共同体があった。この二つは仙に ン市民植民市の資格が与えられた。前一七八年、ルナが建設市と異なり、私人としてのローマ市民のグルー。フの共同の元 されるまえにラテン市民政府は移住問題についてまた訴えを議、またはローマの役人の個人的発議によって組織すること 繰返し、翌年ローマ政府はふたたびラテン市民政府を満足さ ができた。そしてアルノ川以北、い わんやアベニン山脈の北 せた。同年その埋め合わせとして、ルナはローマ市民植民市東側のロ ーマのすべてのコンキリアブルム・フォルム・植民 とされた。 市は、ローマ市からはなはだ離れていたので、一度確立され
ポイア人の首都フェルシナに新しいラテン市民植民市ポ ることとなった。たとえば前一七八年にアル・フスのこちら側 ノニアを建設した。前一八七年にコンスルのマルクスア工 のガリア人の一種族三千名が、ロ 1 マのイストリア遠征軍の ミリウスレ。ヒドウスは、ポノニアを経てプラケンティアを中で服役していた。 うリグリアーキスアルピナの自然の防御物 アリミヌムと結ぶアエミリウス街道を建設した。前一七五年 にふたたびコンスルとなった彼は、この街道のフォルムーレ ロ 1 マがアル。フスのこちら側のガリア人をふたたび征服す 。ヒディ ( レギウム ) を・フリクセルムと結ぶもう一つのアエミ るのに十三年を要したのに対して、アル。フスのこちら側のリ リウス街道をつくった。・フリクセルムはたぶん、・ホイア人に グリア人を征服するには四十九年 ( 前一一〇三ー一五五年 ) か 残された彼らの領域の半分の首都であった。ポイア人領のよ かり、その初めの二十九年間 ( 前一一〇三ー一七五年 ) 、ロー いほうの半分は、前一九一年にナシカによって口 1 マ領に併マ人はポイア人からと同じ頑強な抵抗を、アゾアニ人とフリ 合された。前一九〇ー一七三年にこのかってのポイア人の領ニアテス人から受けた。またガリアーキスアル。ヒナでも自然 域には、イタリア半島の農民の定住地がたくさん建設されは防衛を助けたが、リグリアーキスアルビナでは高い位置と た。前一八三年にはラテン市民植民市型のローマ市民植民市 いう防衛上の価値が、そこにある一連の自然のとりでによっ ムティナとパルマが建設された。前一七三年には、かっての て倍加された。 ポイア人の領域で、植民市やフォルムの定住者にまだ割当て アベニン山脈北西部は、北西から南東へ走る平行した山な られていないローマ人の公有地が、個人としての定住者に分みの列である。各山なみは、その北西に隣接しているものに 配された。 比べて、始まりも終りも南にずれているので、山脈全体とし 前一九一年以後は、アル。フスのこちら側のガリア人は、も て南東へ向かう一般的傾向を示している。それらの山なみの はやローマに面倒をかけなかった。ポイア人は粉砕された。 うちでもっとも高いものは、テュレニア海岸にもっとも近い ポー川の向こう側のガリア人は寛大に扱われ、ケノマニ人・ ものであり、テュレニア海岸に面しているところがいちばん オロンポヴィイ人・インスプリア人の領域は、そのまま残さけわしい。これらの平行した山なみは、それと同じ方向に定 れた。彼らはローマの同盟者となり、武装を保持することをる向斜谷と向斜盆地によって分かたれ、それが住民にとって 認められたが、それによってローマは、アルプス高地の住民は自然の要塞になっている。川は北西または南東に谷を流 の襲撃に対して、これらのポー川の向こう側のガリア人の北 れ、どこかで錏く曲がって山を切り、次の谷にはいって の境界線を防衛するという軍事的負担を免れただけでなく、 き、けつきよくテュレニア海岸に出る。一方アベニン山脈の 新しい軍事上の人的資源を、みずから利用するために開発す分水線からポー へ、さらにアドリア海へと向かう月は彡
1 新第 . 巻第四章 の徴集も引続き植民市の当局に行なわせた。 兵を出すことと、それぞれ百一一十名の騎兵、あるいはそれが 不足の場合には、一名の騎兵に対して三名の歩兵を提供する 第ニ項離反してのちふたたび征服されたイタリア南東部 ことを要求された。またロ 1 マ政府は、それらの植民市のも の同盟国に対する処置 っとも富裕な市民が軍役のために選抜され、海外の戦場に配 反抗した十一一のラテン市民植民市が経験した地位の喪失 置される部隊に編入されるように命令した。さらに十二の植 民市の役人、ならびに各植民市から他に十人の名士が、これは、イタリア南東部の離反国にローマが加えた懲罰に比べれ らの命令を受取るためにローマに召喚され、要求された部隊ば、穏やかな刑罰であった。しかしそれらの離反国の市民に 対するローマの処置も、無差別ではなかった。 が整えられるまで人質として拘留されることになった。 ほとんどすべての離反国には少数の親ローマ派がいた。前 以上の要求のほかに、ローマ政府は、これらの十二の植民 二一三年にタレントウムが反ローマ派のグル 1 。フによって ( 市に一一つの永続的な義務を課した。まず各植民市で周期的に 人口調査を行なう責任を負 0 ている役人は、ロー「の人口調ン = バルに引き渡されたとき、親。ーマ派は、ロー「の守備 査の手続きにならうこととし、その結果の写しはローマに保隊が持ちこたえていた城砦に避難したが、これらのタレント ウム人はたぶん、のちに離反者の没収財産を口 1 マから与え 管され、ローマ政府が、各植民市が当面所有する軍事上の人 られた。 ( ンニ。 ( ルによってギリシアに追放された他の親ロ 的資源をつねに知っているようにした。また各植民市が、ロ 1 マ派は、前一一〇八年に故国に戻るようにローマ政府に招か 1 マがその時々に要求する人員への給与の費用を、十分にま れ、戦前の財産の回復が約東された。離反したローマのムニ かなえるだけの貨幣を所持しているように、ローマ政府は、 以後各植民市の政府が、市民の財産評価額の千分の一を財産キ。ヒウムの市民を扱うさいにも、ロ 1 マ政府は同じ差別をみ せた。前二一六年に離反したカ。フアにおいても、親ローマ派 税として毎年市民から取立てるように命令した。 の力。フア人は種々の優遇措置を受けた。 これらの永続的な要求は、同盟国の内政へのローマ政府の しかし離反国家の少数派の功績も、それらの国家をローマ 前例のない干渉であった。同盟国は一般に事実上独立を失っ てはいたが、法律上はなお独立国であった。十二のラテン市政府の課する刑罰から救うことにはならなかった。その刑罰 は主に土地の没収、ローマ領への併合の形を取った。 一一民植民市は、ローマのために劣格の地位に落とされ、以後ロ ( ンニバル戦争後のイタリア南東部における一連の没収で ーマから指示された規定に従っておのおの財産税を取立て、 は、標準的な刑罰の大きさは、戦争前の全領土の四分の一ま 人口調査を行なうこととなった。ただローマは、形式上それ たは三分の一であった。ただし、少なくともカウデイウム人 らの植民市の主権を侵害することを避け、人口調査も財産税
210 ヌムの線より南東方において、ロ , ーマ政府は間もなく、農民反対である。アル。フスのこちら側のリグリア人は、前一七五 経済を復活させる努力を放棄したように思われる。しかしそ年に決定的に撃破されたが、前一七三年には、その地域でハ れは大きな政策変更ではあったが、ロ】マ政府は、公有地をンニバル戦争後最大のローマの植民活動が行なわれた。 とにかく前一八三年に、ラテン市民植民市の代りにローマ 割当てられるという農民の利益への関心を失ったのではなか った。じっさい農民の利益は「体制側」の利益と不可分であ市民植民市をムティナとパルマに建設したとき、政府はロー った。ハンニ・ハル戦争後、対外政策の実行に必要な軍隊の徴マ市民団を都市国家の限界内にとどめるという、旧来の目的 集が、ローマ政府にはますます困難になってきた。そこで政を放棄した。ローマの公有地に加えられたかってのポイア人 の地において、政府は、新たに得られた公有地の一部分だけ 府は、新しい経済にイタリア半島における行動の自由を与え ることを決めたとき、同時にロ 1 マ国家の北西方の征服のあを割当て、残りは予備に取っておくという伝統的なならわし いだに手に入った新しい公有地に、イタリア半島の農民のたをも放棄し、前一七三年に、まだ割当てられていなかったア めの多数の新しい割当地をつくって、彼らが先祖伝来の故国ル。フスのこちら側のすべての土地を個人個人に分配し、その 機会をローマ市民にもラテン市民にも開放した。 で失った土地の償いをすることを決めた。前一九一年にロー マは、広大なポイア人の領域のなかばを没収した。ローマ政 没収されたポイア人の領域を、このようにローマ市民の定 府は、この土地を獲得するとともに、半島における農民経済住地がいつばいばらまかれたローマ領に変えた主動者は、マ 回復の試みの放棄を明確に決定したと推測される。 ルクス日アエミリウスレ。ヒドウスだったと推定される。彼 一八九年から一七三年まで政府は、北西部でローマの共は前一八七年のコンスルであったが、第四章で示唆したよう 有地に加えられたところに、つぎつぎに定住地を建設した。 に ( 一仇既い一 ) 、その年に初めて行なわれたラテン市民諸国の それは、政府がこの地のイタリア人農民のためにまじめに配要求が動機となって、前一八三年にローマ政府は、かってのポ 慮していることを示すものであった。たしかにアル。フスのこ ィア人領に二つのラテン市民植民市型のローマ市民植民市を ちら側の地域のすべての定住地は、一部分軍事上の目的も持建設したから、彼はローマの農業政策のこの重要な新しい出 っていた。しかしサーモンが、アエミリウス街道沿いの植民発に関係したらしい いずれにせよ彼は、前一八三年にその 市建設は、リグリア人に対する軍事上の予防策であったと二つの植民市を建設するために任命された三名の委員の一人 し、その証拠として、ひとたびリグリア人が決定的に撃破さ であった。前一八七年にアリミヌムからプラケンティアまで の道路を建設するなど、以前のポイア人領に組織的に植民す れると植民は止んだと述べているのは (c•olo; 】 ization ) ( 「 om るのに必要な準備的処置を講じたのもレピドウスであった。 Jo ミ = 0 一 0 ト 0 = ~ 0 S きミ 03 「 0 一 xxvi, 】 0 も . 望 ) 、まさに事実と