分析するばあい、われわれは、まず矛盾の普遍性の問題を分ある。 : : : 生命とは、なによりもまず、ある生物がおのおの 析し、さらにそのあとで、矛盾の特殊性の問題について力をの瞬間にそれ自身でありながら、しかも他のあるものでもあ いれて分析し、最後にふたたび矛盾の普遍性の問題にたち帰るという点にある。したがって、生命も同様に諸物体と諸過 ることにする。 程そのもののなかに存在する、たえず自己を樹立し、かつ自 矛盾の普遍性または絶対性という問題には、二つの意味が己を解決する矛盾である。そして、矛盾がやめば、ただちに ある。その一つは、矛盾があらゆる事物の発展過程のなかに生命もまたやむのであって、死が到来する。同様に思考の領 存在するということであり、他の一つはどのような事物の発域でも、われわれはどのように諸矛盾をさけることができな 展過程にも始めから終わりまで、矛盾の運動が存在するとい いかということ、たとえば人間の内部の制限されていない認 うことである。 識能力と、外部においては、局限された、しかも認識上でも 局限された各人におけるこの認識能力の実際のありかたとの エンゲルスは「運動そのものが矛盾である」といってい る。レーニンが対立面の統一の法則にたいしてくだした定義あいだの矛盾が、われわれにとっては少なくとも実際には、 かぎりない世代の連続のうちで、無限の進行のなかで、どの によると、「自然界 ( 精神と社会の両者をふくめて ) のすべ ての現象と過程における矛盾した、排斥しあう、対立した諸ように自己を解決してゆくものかということは、われわれの 傾向をみとめること ( 発見すること ) 」である。こうした見見てきたところである」 解は正しいであろうか。正しい。すべての事物のなかにふく 「高等数学は : : : 矛盾をその主な基礎にしている」 まれている矛盾した側面の相互依存と相互闘争とは、すべて 「初等数学でさえも矛盾にみちている : : : 」 の事物の生命を決定し、すべての事物の発展を推進する。ど レ 1 ニンもまた矛盾の普遍性をつぎのように説明して、 ・フラスマイナス のような事物も矛盾をふくまないものはなく、矛盾がなけれる。「数学では、十と一、微分と積分。 ば世界はな、。 力学では、作用と反作用。 物理学では、陽電気と陰電気。 矛盾は単純な運動形態 ( たとえば機械的運動 ) の基礎であ 論り、複雑な運動形態においては、い 化学では、原子の化合と分解。 っそうその基礎である。 盾 エンゲルスは矛盾の普遍性をつぎのように説明している。 社会科学では、階級闘争ー 矛「すでに、単純な機械的な場所の移動でさえも、矛盾を自己 戦争における攻撃と防御、前進と後退、勝利と敗北は、み のうちにふくんでいるとすれば、物質のより高度な運動の諸な矛盾した現象である。一方がなくなれば、他方も存在しな 形態、とくに、有機的生命とその発展とは、なおさらそうでくなる。双方はたたかいあってはいるが、また結びついて、 ( 九 ) ( 八 )
し、刀をてつ、刀〕〔 、土地に対する報酬と労働にたいする報酬の労働力や畜力や農具が不足しているため、生活には依然とし 3 割合が適切かどうか、③、組合の必要とする資金はどのようて困難が感じられる ) 、またはゆたかではない ( 下層中農 ) 。 にしてあつめるか、④、 一部の組合員が自分の労働力の一部したがって、かれらは協同組合をつくることに積極性をもっ をつかってなにか副業生産をおこなってもよいかどうか ( な ている。しかし、そうはいっても、彼らのもっている積極性 ぜならば、現在われわれがつくっている農業生産協同組合 の度合いは、いろいろな原因から、やはり一様ではなく、ひ は、一般的にいって、まだ半社会主義的性質のものであるか じように積極的なものもあれば、当分のところまださほど積 ら、以上のべた四つの問題は貧農と中農との相互利益の原則極的ではないものもあり、またもっと様子を見ようとしてい にそむかないよう心をくばって適切に解決しなければならな るものもある。われわれは、当分まだ協同組合に加入しよう いし、自発的意志の実現されるのは相互利益を基礎とする以 とは考えていないすべてのものにたいして、たとえ、かれら 外にないからである ) 、⑤、組合員の自留地はどのくらいに が貧農であろうと下層中農であろうと、自発的意志の原則に すべきか、⑥、組合員の階級構成についての問題、など。 そむいて無理やりにかれらを引き入れるのではなく、かれら ここで組合員の階級構成の問題についてのべよう。わたし に教育をおこなうためのある期間をおき、かれらが自覚して は、ここ一、一一年のあいだは、協同組合が普及しはじめた くるのを辛抱づよくまたなければならない。 か、あるいは普及してからいくらもたっていないすべての地 新中農のなかの上層中農と、旧中農のなかの上層中農、つ 域、つまり、いまのところ大多数をしめる地域では、①、 貧まり、その経済状態が比較的富裕なすべての中農についてい 農、②、新中農のうちの下層中農、③、旧中農のうちの下層えば、社会主義の道をすすな自覚をすでにもっていて、協同 中農ーー・これらの部類のなかの積極的な人びと、かれらをま組合に加入することをほんとうに心からのそんでいる若干の っ先に組織しなければならないと思う。これらの部類の人びものは、これを組合に吸収してよいが、その他のものはすべ とのなかで、当分まだ積極的でないものは、むりにひきいれて、しばらくのあいだは吸収すべきでなく、まして彼らをむ りにひきいれるようなことをしてはならない。なぜなら、か てはならない。かれらの自覚の度合いが高まり、かれらが協 れらには現在まだ社会主義への道をすすなだけの自覚ができ 同組合に関心をいだくようになったならば、何回かにわけて、 かれらを協同組合に吸収すれまよ 。い。これらの部類にそくすていないからで、農村の大多数のものがみな協同組合に加入 る人びとの経済状態は、比較的似かよっている。かれらの生してからか、または、協同組合の単位面積あたりの収穫量 活は、まだ困難であるか ( 貧農、かれらは土地の分配をうけが、これら富裕中農の単位面積の収穫量と等しくなるか、あ て、解放まえにくらべるとずっとよくなってはいるが、まだ るいはそれより多くなったとき、かれらがこれ以上個人経営
等。そして、これらすべてをなしとげるのにもっとも重要な のいくつかの疑問にも答えることにしよう。 ことは、国民党一党独裁の即時廃止、すべての抗日的政党お 第一日本侵略者を徹底的に消減するこ よび無党無派の代表的人物をふくむ挙国一致の民主主義的 と、中途ての妥協を許さないこと な、連合した、臨時の中央政府の樹立を要求することであ る。この前提条件がなければ、全国的範囲で、つまり国民党 カイロ会議は日本侵略者の無条件降伏を決めたが、これは 支配地域で多少ともまじめな改革をおこなおうとしても、そ し。だが、いま日本侵略者は妥協的講和をもとめようと 正し、 れは不可能である。 暗躍している。国民党政府内の親日分子も南京かいらい政府 これらすべては、中国の広範な人民の声であり、また連合 をつうじて日本の密使とひそかに通じているが、それは制止 諸国の広範な民主的世論の声でもある。 されてはいない。したがって、中途で妥協する危険はまだ完 抗日的、民主的諸政党が相互に同意する最低限度の具体的全にすぎさったわけではない。カイロ会議はまた東北四省、 綱領はぜひとも必要であり、われわれはうえにのべた綱領を台湾、澎湖列島の中国返還を決めたが、これはよいことであ 基礎としてかれらと話しあう用意がある。各党にはそれそれる。だが、国民党政府の現行の政策によれば、この政府にた 異なった要求があってもよいが、各党のあいだで共同の綱領 よって鴨緑江岸まで進撃し、すべての失地を奪回しようとし をとりきめるべきである。 ても不可能である。このような状況のもとで、中国人民はい このような綱領は、国民党支配区にとっては、しばらくの かにすべきか。中国人民としては日本侵略者の徹底的消減を あいだはまだ要求の綱領であり、被占領区にとっては、地下国民党政府に要求すべきであり、中途での妥協を許さないこ 軍隊を結成して武装蜂起を準備するという項目以外は、そこ とである。すべての妥協のための陰謀活動はただちに制止さ を奪回したあとでなければ実施できない綱領であり、解放区れなければならない。中国人民は国民党政府にたいして、現 て にとっては、はやくから実施され、またひきつづき実施され在の消極的な抗日政策をあらため、その軍事力をすべて積極 るべき綱領である。 的な対日作戦につかうよう要求すべきである。中国人民は自 っ うえにのべた中国人民の当面の要求、または具体的綱領の己の軍隊ーー八路軍、新四軍およびその他の人民軍隊を拡大 府 合なかには、戦時および戦後の重要な問題が数多くふくまれてし、また敵のいるすべてのところで、広範に自発的に抗日武 いるのでそれを説明する必要がある。これらの問題を説明す装組織を発展させ、連合国軍と直接協同して戦い、すべての るにあたって、われわれは、国民党の主要な支配集団のいく 失地を奪回するよう準備すべきであり、けっして単に国民党 にだけたよってはならない。 つかのあやまった観点を批判すると同時に、その他の人びと 日本侵略者をうちゃぶることは
408 義・共産主義のために闘うさいに必要なものである。われわを否定する観点に立とうと、それらはいずれも誤りである。 問題を一面的にみるこれらの人びとにたいしては、批判を加 れ共産党員の側では、こうした協力者のために有利な諸条 件をつくってやり、かれらと同志的な、よい協力関係をうちえるべきであるが、もちろん前のことをこらしめて、のちの いましめとし、病いをなおして人の命を救う態度をもって批 たて、かれらと団結してともに闘うようにしたい。 第六の点、一面性の間題。一面性とは思想上の絶対化であ判し、かれらを援助してやらなければならない。 ある人は整風をやり、みんなに意見を出させようとする以 り、問題を形而上学的にみることである。われわれの活動に ついての見かたも、すべてを肯定したり、あるいは、すべて上、一面性は必ず生まれるだろう。一面性の克服をもち出す のは、人の話をさせないようにするものだといっている。こ を否定したりするのはどちらも一面的である。問題をこのよ うしたいい方は正しいだろうか。すべての人に一面性を少し うに見る人は共産党内にも、今なお少なくないし、党外にも もおびないよう求めることは困難である。人びとはどうして たくさんいる。すべてを肯定するのはわるい点をみないで、 も自分の経験にもとづいて、問題を観察し、問題を処理し、 よい点だけをみることであり、批判することができずに、た だ称讃することだけしかできないものである。われわれの活意見を発表するものだから、時には、多少、一面性をおびる 動が何もかも立派にいっているということは、事実と合ってこともさけがたい。しかし、人びとに、一歩一歩、一面性を いない。何もかも良いというのではなく、まだ欠陥もあれば、克服していくよう求め、問題をもう少し全面的にみるよう求 こめてはいけないだろうか。わたくしはそのように求むべきだ 誤謬もある。しかし、すべてが悪いということでもない。 と思う。もし、そうもせず、また一日一日、一年一年と、よ れも事実に合致していない。分析をする必要がある。なにも かも否定することは、分析もせずに、事柄がうまく行なわれり多くの人が問題をより全面的にみるようになる方法を採用 ていないと考えることであり、社会主義建設というこうしたすることを求めないとしたならば、われわれは停滞してしま 一面性を肯定し、整風の求めることとは逆の方向にすす 偉大な事業、幾億かの人口がおこなうこの偉大な闘争に、な んらよい点はなく、すべてが失敗しているかのように考えるむことになるであろう。いわゆる一面性とは弁証法にそむく ことである。こういう見方をする多くの人びとも、社会主義ことである。われわれは、弁証法をしだいに普及させること 制度に心から敵意を抱いている人びととはやはり異なってい を求め、みんながしだいに弁証法という科学的方法を会得し、 るが、しかしその見方はひどくまちがっており、はなはだしこれを駆使できるようになることを求めるものである。われ く有害であって、人びとに自信を失わせるだけである。われわれのあいだでは、いまなお、気分は充分でているが、内容が われの活動を、すべて肯定する観点に立とうと、またすべてなく、問題が分析できず、道理を説かず、説得力のない文章
て、中国のものであることを規定してきたし、また規定してることを証明するために、元朝が宋朝を減ぼし、清朝が明朝 いる。戦争とはこれらの特徴の競争である。これらの特徴を減ぼした歴史上の証拠をもちだすであろう。もしわれわれ が、それはふるい時代のことで、よりどころにはならないと は、戦争の過程でそれぞれその本質にしたがって変化するも いえば、かれらは、さらに、小さくて強い資本主義国が大き のであって、ここからすべてのことが発生する。これらの特 まん ねっ 徴は、欺瞞的な捏造したものではなくて、事実存在するものくて弱いたちおくれた国を減ぼしうることを証明するため であり、不完全な断片的なものではなくて、戦争の基本的要に、イギリスがインドを減・ほした事実をもちだすであろう。 したがって、すべての亡国論者のロを封じ、かれらを心服さ 素のすべてであり、あってもなくてもよいものではなくて、 せ、そして、まだわかっていない人びとや、まだしつかりし 双方の大小すべての問題とすべての作戦段階をつらぬくもの ていない人びとを説得し、かれらの抗戦の信念をかためさせ である。中日戦争を観察するのに、これらの特徴を忘れるな らば、かならずまちがいをおかすにちがいない。たとえ一部るのに十分な論拠を、宣伝活動にたずさわるすべての人びと にもたせるには、もっとほかの根拠をあげなければならな の意見が一時は他から信じられ、まちがいのないもののよう にみえても、戦争がすすむにつれて、きっとそれがまちがい のあることは証明されるのであろう。われわれは、つぎに、 ( 一四 ) ここであげなければならない根拠とはなにか。それ のべようとするすべての問題を、これらの特徴にもとづいて は時代の特徴である。この特徴は、具体的には、日本の退歩 説明しよう。 と、助力の少ないということ、中国の進歩と、助力の多いと いうことに表われている。 ( 一五 ) われわれの戦争は他のいかなる戦争でもなく、中日 亡国論を反駁する 両国が一一〇世紀の三〇年代におこなっている戦争である。敵 ( 一 lll) 亡国論者は敵とわが方の強弱の対比という一つの要の側についていえば、それは第一に、まもなく死減しようと て している帝国主義であり、すでに退歩の時代におかれてお 素をみて、以前は「抗戦すれば、かならず減びる」といい、 り、それは、インドを減ばした当時のイギリスがまだ資本主 に現在はまた「これ以上戦えば、かならず減びる」といってい 弓しカ義の進歩の時代におかれていたのとちがうばかりでなく、二 久る。もしわれわれが、敵は強いが小国であり、中国よ弓 : 、 持 大国である、というだけなら、かれらを納得させるに十分で十年前の第一次世界大戦のときの日本ともちがう。こんどの はない。かれらは、小さくて強い国が大きくて弱い国を減・ほ戦争は、世界の帝国主義、なによりもまず、ファシスト諸国 すことができ、しかもたちおくれた国が進んだ国を減。ほしうの大崩壊の前夜におこったものであって、まさにこのために、
力を集中して、敵の正面とその一翼あるいは両翼を攻撃し て、その一部を殲減し、他の一部を撃破するものである。損 得のつぐなわないような、または損得の相半ばするような消 十七カ月間 ( 一九四六年七月から一九四七年十一月まで耗戦は極力さける。そうすれば、われわれは、全体的には、 で、十二月の分はまだ計算にいれていない ) の戦いで、蒋介劣勢 ( 数のうえからいって ) であっても、ひとつひとつの局 石の正規軍と非正規軍あわせて百六十九万人を殺傷し、ある部においては、またひとつひとつの具体的な戦役において は、絶対優勢となるので、戦役の勝利が保障される。そし いは捕虜にしたが、そのうち、殺傷したものは六十四万人、 捕虜にしたものは百五万人である。こうしたことによって、 て、時がたつにつれて、われわれは、全体的にも優勢に転 わが軍は蒋介石の攻撃を撃退し、解放区の基本的な地域を保じ、ついには、、 しっさいの敵を殲減するようになる。 g 、準 しすれの戦 持するとともに、攻撃に転じた。われわれがこうやり得たの備のない戦いはせず、自信のない戦いはしない。、・ いにも、じゅうぶんな準備をし、敵味方の条件を比較したう は、軍事面からいえば、正しい戦略方針を実行したことにあ る。われわれの軍事原則はつぎのとおりである。 C 、分散しえで勝利の確信をもてるように努力しなければならない。 孤立した敵を先に攻撃し、集中した強大な敵はあとで攻撃すい、勇敢に戦い、犠牲をおそれず、疲労をおそれず、連続的 に戦う ( すなわち、短期間内に、休まず、たてつづけにいく る。、小都市、中都市および広大な農村を先に手にいれ、 大都市はあとで手に入れる。Ü、都市や地域の保持または奪っもの戦争をする ) という作風を発揮する。旧、できるかぎ 取を主要目標とはせず、敵の兵員の殲減を主要目標とする。 り、運動戦のなかで、敵を殲減するようにする。同時に、陣 任都市や地域の保持または奪取は、敵の兵員を殲減することに地攻撃の戦術を重視し、敵の拠点や都市を奪取する。代、都 れよって得られる結果であって、最後的に保持または奪取する市攻略の問題では、敵の守備の手薄な拠点や都市は、すべ わには、それを何回となくくりかえさなければならないことがてこれを断固奪取する。敵の守備の程度が中くらいで、環境 多いのである。四、どの戦いでも、圧倒的優勢な兵力 ( 敵の からいっても奪取することができる都市は、すべて、機をみ 兵力の二倍、三倍、四倍の、ときには五倍または六倍もの兵てこれを奪取する。敵の守備の強固な拠点や都市は、すべて、 和カ ) を集中して、四方から敵を包囲し、一兵も逃がさないよ条件の熟するのをまって、これを奪取する。の、敵から捕獲 当 う、極力完全殲減をはかる。特殊な状況のもとでは、敵に殲したすべての兵器と、捕虜にした大部分の兵員で自己を補充 減的打撃をあたえる方法をとる。すなわち、わが軍が他のする。わが軍の人力・物カの供給源は主として前線にある。 敵軍部隊を粉砕するために迅速に兵力を移動できるよう、全①、二つの戦役の合い間をたくみに利用して、部隊の休息と
んとさとした、あの見かけだおしの文学者、あるいは見かけ 人民生活のなかの文学・芸術の素材から作品を創造するさい ( 三 ) の手本としては、すべてのすぐれた文学・芸術の遺産を継承だおしの芸術家にしかなれないであろう。 し、そのなかのすべての有益なものを批判的に吸収しなけれ 人間の社会生活は、文学・芸術の唯一の源であり、後者に ばならない。この手本があるのとないのではちがいがあり、 くらべて比較にならないほど生きいきとしたゆたかな内容を もっているが、人民は、やはり前者に満足せすに、後者を要 そこには、優雅と粗野、きめの細かさとあらさ、高いものと 低いもの、遅いものと早いもののちがいがある。だから、た求する。な、せだろうか。それは、この両者がともに美しくは とえ封建階級やブルジョア階級のものであっても、われわあるが、文学・芸術作品に反映されている生活の方が普通の れは、むかしの人や外国の人のものを継承し、手本とするこ実際生活にくらべて、より高度で、より強烈で、より集中的 で、より典型的で、より理想的で、したがってまた、より普 とをけっしてこばむべきではない。しかし、継承し、手本に するといっても、けっして自己の創造にとってかえるべきも遍的であることができ、また、そうあるべきだからである。 のではなく、これはけっしてとってかわることのできないも革命的な文学・芸術は、実際生活にもとづいてさまざまな人 のである。文学・芸術において、むかしの人や外国の人のも物を創造し、大衆が歴史を前進させるのをたすけなければな のの無批判なひきうっしやものまねこそ、もっとも見こみのらない。たとえば一方では人びとが飢え、こごえ、抑圧され 、もっとも有害な文学教条主義、芸術教条主義である。 ているのに、他方では人が人を搾取し、人が人を抑圧してい 中国の革命的な文学者・芸術家、見こみのある文学者・芸術るという事実は、いたるところに存在しており、人びとも、 る ごくあたりまえのこととみなしている。文学・芸術が、この 家は、大衆のなかにはいらなければならず、長期にわたっ け 日常的な現象を集めて、そのなかの矛盾と闘争を典型化し、 にて、無条件に、誠心誠意、労働者、農民、兵士大衆のなか 会 にはいり、はげしいたたかいのなかにはいり、もっとも広くそれを文学作品またに芸術作品にしあげたならば、それは人 談 民大衆を自己の環境の改造に目ざめさせ、ふるいたたせ、団 術もっともゆたかな唯一の源のなかにはいって、すべての人、 芸 すべての階級、すべての大衆、すべての生きいきとした生活結と闘争の方向へなかわせることができる。このような文 文形態と闘争形態、すべての文学と芸術の素材を観察し、体験学・芸術がなければ、この任務は完遂されないか、されるに しても強力かっ急速には完遂されないであろう。 安し、研究し、分析しなければならず、そのうえではじめて、 文学・芸術活動における普及と向上とはなにか。この二つ 創造の過程にはいることができる。さもなければ、諸君の労 の任務の関係はどのようなものか。普及のためのものは、比 働は対象のないものとなり、諸君は、魯迅がその遺言のなか で自分の子どもに決してそうなってはならないとじゅんじゅ較的に単純平易であり、したがってまた、現在の広範な人民
りでなく、抽象的な絶対不変の芸術的基準をも否定するので 社会的実践とその効果は、主観的願望または動機を点検する 基準である。われわれの文芸批評にはセクト主義は無用でああって、それそれの階級社会のそれそれの階級には、すべて り、われわれは団結抗日の大原則のもとで、さまざまな政治異なった政治的基準と芸術的基準がある。だが、いかなる階 的態度をふくむ文学・芸術作品の存在をゆるすべきである。 級社会のいかなる階級も、つねに、政治的基準を第一の地位 におき、芸術的基準を第二の地位におく。・フルジョア階級 しかし、われわれの批評はまた原則的な立場を堅持するもの であり、反民族的、反科学的、反大衆的、反共的な観点をふは、。フロレタリア階級の文学・芸術作品については、その芸 くなすべての文学・芸術作品にたいしては、きびしい批判と術的達成がいかに高かろうとも、つねにこれを排斥する。プ 反駁をくわえなければならない。なぜなら、これらのいわゆロレタリア階級も、過去の時代の文学・芸術作品について る文学・芸術は、動機の点でも効果の点でも、団結抗日を破は、まず第一に、人民にたいする態度がどうであるか、歴史 壊するからである。芸術的基準からいえば、芸術性が比較的的に進歩的意義があるかどうかを点検して、それぞれ異なっ に高いものはすべて、よいものであるか、比較的によいものた態度をとらなければならない。政治的にはまったく反動的 であり、芸術性が比較的に低いものは、わるいものである な一部の作品でも、ある種の芸術性をそなえていることはあ か、比較的にわるいものである。こうした区別をするには、 りうる。内容が反動的であればあるほど、そのうえ芸術性を もちろん、社会的効果をもみる必要がある。文学者・芸術家もてばもつほど、そうした作品は、ますます人民に有害であ 話のなかには、自分の作品を美しいとおもわないものはほとんり、ますます排斥されなければならない。没落期にあるすべ るどいないのであって、われわれの批評も、さまざまな芸術品 ての搾取階級の文学・芸術に共通の特徴は、その反動的な政 の自由竸争をゆるすべきである。だが、芸術科学の基準にし治的内容とその芸術的な形式のあいだに存在する矛盾であ る。われわれが要求するのは、政治と芸術の統一、内容と形 談たがって正しい批判をくわえ、より低い芸術をしだいにより 轆高い芸術にたかめてゆき、広範な大衆の闘争の要求に合致し式の統一、革命的な政治的内容と可能なかぎり完全な芸術的 芸ない芸術を広範な大衆の闘争の要求に合致した芸術に変えて な形式との統一である。芸術性のとぼしい芸術作品は、政治 学ゆくことも、ぜひ必要なことである。 的にいかに進歩したものでも、無力である。したがって、わ の 、芸術的基準というが、この両者の関係れわれは、政治的観点があやまっている芸術作品にも反対す 政治的基準といし 安 延はどのようなものか。政治は芸術そのものではなく、一般的るし、また、正しい政治的観点をもつだけで芸術的な力をも な世界観も、芸術創作や芸術批評の方法そのものではない。 たないいわゆる「スローガンー式の傾向にも反対する。われ われわれは、抽象的な絶対不変の政治的基準を否定するばかわれは文学・芸術問題における二つの戦線の闘争をおこなわ
死んでしまう。われわれの側では、軍隊は間断なく補充されちがいをしているのであって、ぜび改めなければならない。 1 なければならないが、現在下部ででたらめにやられている 一六 ) 武漢などの地方の防衛が緊急任務となっているこ 「兵隊狩り」、「身代り兵買い」を至急に禁止して、広範な熱のさい、全軍隊、全人民のすべての積極性をふるいたたせて 烈な政治的動員にきりかえるべきであって、そうすれば、数戦争をささえてゆくことは、非常に重大な任務である。武漢 百万人を兵士にすることも容易である。抗日のための財源に などの地方を防衛する任務は、疑うまでもなく、まじめにこ は大きな困難があるが、民衆を動員すれば、財政も問題になれを提起し遂行しなければならない。しかし、はたして、確 らないし、このように土地が広く、民衆の多い国で財政窮乏実に防衛できるかどうかは、主観的な願望によってきまるの を憂える理由がどこにあろうか。民衆が軍隊を自分の軍隊とではなくて、具体的な条件によってきまる。全軍隊、全人民 みなせるよう、軍隊は民衆と一体になるべきで、そうなれば、 が奮起するよう政治的に動員することが、もっとも重要な具 この軍隊は天下無敵となり、たかが日本帝国主義ぐらいをう 体的な条件の一つである。すべての必要な条件をたたかいと ちゃぶることなど物の数ではなくなる。 ることに努力せず、それどころか必要な条件の一つでも欠け ( 一一五 ) 将兵関係、軍民関係がうまくゆかないのは、方法るならば、、 しきおい、南京などを失った二の舞を演じること がまちがっているからだとおもっている人がたくさんいる になる。中国でのマ。 トリードがとこになるかは、どこにマド が、わたしは、つねにかれらに、それは兵士を尊重し人民を リードの条件がそなわるかにかかっている。これまでは一つ 尊重するという根本態度 ( あるいは根本主旨 ) の問題であるのマドリードもなかったが、今後はいくつかのマドリードを といってきた。この態度が出発点となって、いろいろの政たたかいとるべきで、それはまったく条件いかんにかかって 策、方法、方式がうまれるのである。この態度をはなれれ いる。条件のうちのもっとも基本的なものは全軍隊、全人民 ば、政策、方法、方式もかならずあやまってくるし、将兵の の広範な政治的動員である。 あいだ、軍民のあいだの関係もけっしてうまくゆかない。軍 ( 一一七 ) すべての活動において、抗日民族統一戦線の全般 隊の政治活動の三大原則は、第一が将兵一致であり、第二が的方針を堅持すべきである。な。せなら、抗戦を堅持し、持久 軍民一致であり、第三が敵軍瓦解である。これらの原則が効戦を堅持するにも、将兵関係、軍民関係を広く深く改善する 果的に実行されるには、兵士の尊重、人民の尊重、すでに武にも、全軍隊、全人民のすべての積極性をふるいたたせて、 器を放棄した敵軍の捕虜の人格の尊重という根本態度から出まだ失われていないすべての地区を防衛し、すでに失われた 発しなければならない。 これらのことを根本態度の問題ではすべての地区を奪回するために戦うにも、そして最後の勝利 なくて、技術的な問題たと考える人びとは、ほんとうに考えをたたかいとるにも、この方針をとる以外にないからであ
九つの太陽を射た」はなしとか、『西遊記』のなかでいわれの必要な条件のもとで存在するからである。一定の必要な条 へんげ ( 二二 ) りようさいしい ( 二三 ) ている孫悟空の七十一一変化とか、また、『聊斎志異』のなか件がなければ、どのような同一性もありえない。 にでてくる多くの幽霊やキツネが人にばける話など、こうい なぜ、ロシアでは一九一七年一一月のブルジョア民主主義革 う神話のなかでいわれている矛盾の相互変化は、現実の無数命が、同年十月の。フロレタリア社会主義革命に直接つながっ の複雑な矛盾の相互変化が、人びとに引きおこさせた一種の ていたのに、フランスのブルジョア革命は社会主義革命に直 幼稚な、想像的な、主観的幻想の変化であって、具体的矛盾接つながることがなく、一八七一年の。、 / リ・コミュ 1 ンよ失 があらわした具体的変化ではない。マルクスはいっている。 敗に終わったのか。またなぜ、モンゴルや中央アジアの遊牧 「すべての神話は、想像のなかで、かっ想像をつうじて、自 制度が、社会主義と直接つながったのか。なぜ、中国の革命 然諸力を克服し、支配し、形象化する。したがって、これは、西洋諸国のとおったふるい歴史的な道をとおる必要がな らの自然諸力が実際に人に支配されていくにつれて消失す く、ブルジョア独裁の時期を経る必要がなく、資本主義への る」。このような神話のなかの ( さらに童話のなかの ) 千変前途をさけることができ、社会主義に直接つながることがで 万化の物語は、人間が自然力を征服することなどを想像してきるのカ 、。ほかでもなく、これらはすべてそのときの具体的 いるので、人びとをよろこばせることができるし、しかも、 条件によるのである。一定の必要な条件がそなわっていれば、 もっともよい神話は「永遠の魅力ー ( マルクス ) さえもって事物発展の過程には、一定の矛盾が生まれ、しかも、この、 いるが、神話は具体的矛盾を形成する一定の条件にもとづい あるいはこれらの矛盾は、相互に依存し、相互に転化するの て構成されたものではないから、現実を科学的に反映したもであって、それがないとしたら、すべては不可能である。 のではない。つまり、神話あるいは童話のなかの矛盾を構成 同一性の問題は以上のとおりである。では闘争性とはなに する諸側面は、具体的な同一性ではなく、幻想された同一性か ? 同一性と闘争性の関係はどのようなものであろうか ? にすぎない。現実の変化の同一性を科学的に反映したもの、 レーニンはいっている。「対立面の統一 ( 一致、同一、均 それがマルクス主義の弁証法である。 衡 ) は条件的、一時的、経過的、相対的である。相互に排斥 なぜ、ニワトリの卵はひょこに転化できるのに、石ころしあう対立面の闘争は、発展、運動が絶対的であるように絶 ( ニ七 ) は、ひょこに転化できないのか。なぜ戦争と平和は同一性を対的である」 もっているのに、戦争と石ころは、同一性をもっていないの レーニンのこのことばは、どういう意味であろうか。 か。なぜ人間は人間を生むだけで、ほかのものを生むことが すべての過程には初めがあり終わりがある。すべての過程 できないのか。それはほかでもなく、矛盾の同一性は、一定は、自己の対立物に転化する。すべての過程の恒常性は相対