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検索対象: 世界の大思想35 毛沢東
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1. 世界の大思想35 毛沢東

442 毛沢東年表 一八九三年一二月一一六日、湖南省湘潭県韶山冲に生ま ( 光緒一九年 ) 一歳れた。父毛順生は、若いとき、家の借財の ため出かせぎをし、負債をかえし、勤勉に 働いて耕地を買い増して、二二ムー ( 約 一・五ヘクタール ) の耕地をもつようにな った。米・豚の仲買い、金貸しをやり、雇 農もやとって富農的な経営をやるようにな っこ 0 一九〇一年私塾にかよう ( 一四歳まで ) 。ひそかに、 ( 光緒一石年 ) 「精忠伝 , 「説唐」「西遊記」「封建演義」さ 九歳 らに「水滸伝」「三国志演義 . をよむ。 一九〇六年私塾をやめ、家業を手伝う。のち「変法 ( 光緒「三年 ) 派ーの鄭観応「盛世危言」を読んで政治の 一四歳 世界に眼をひらく。 一九〇九年米屋に奉公にいけという父の命に反対し ( 光緒三五年 ) て、新式の湘郷県立東山高等小学堂に入 一七歳 る。寄宿舎生活で一年間在学。康有為、梁 啓超の書物を熟読する。 一九一一年長沙の駐省湘郷中学入学。辛亥革命とあ ( 宣統三年 ) 一九歳 、革命軍に参加する。 一九一二年数カ月で軍隊をやめ、高等商業、省立第一 ( 民国一年 ) 旨歳中学に学び、また図書館で独学する。 一九一三年学費のいらない湖南省立第一師範学校に入 ( 民国一一年 ) 一九一七年「民主主義と科学」を主張した「新青年ー ( 民国六年 ) 一一五歳を読み、自ら「体育の研究ーを同誌 ( 三巻 一一期 ) に発表する。哲学の教師であった楊 昌済の倫理思想に影響をうける。夏休み、 友人 ( 蕭瑜 ) と省内無銭旅行、秋、第一師 範学友会総務兼教育研究部長となり、労働 者のための夜学を開設する。ロシア十月革 命。 一九一八年新民学会を組織す。第一師範卒業後、苦学 ( 民国七年 ) = 六歳生のフランス留学運動を推進し、北京にい き、楊昌済の紹介で北京大学図書館に勤務 する。図書館主任李大釗。 一九一九年四月、北京を去り湖南にかえる。五・四運 ( 民国八年 ) 一石歳動に呼応し、湖南学生連合会を組織、さら に湖南各界連合会を組織して反軍閥闘争を 指導する。その間、「湘江評論」をだし、 創刊宣言、「民衆の大連合」 ( 二ー四号連 載 ) をかく。北京にでる。ロシア革命、マ ルクス主義の書物をよむ。 一九二〇年四月、北京から上海へ、ふたたび陳独秀と ( 民国九年 ) 夭歳会う。マルクス主義者として長沙にかえり、

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443 年表 共産主義サークルを組織、湖南省第一師範 附属小学校主任となる。平民夜学・文化書 店をひらき、ロシア研究会をつくる。ロシ ア革命三周年のデモを長沙でおこなう。 一九二一年「新民学会会員通信集ーを出版。六月、中 ( 民国一 0 年 ) = 〈歳国共産党創立のための第一回全国代表大会 に湖南省代表として参加、七月一日中共成 立す。楊昌済の娘楊開慧と結婚。 一九二二年安源に労働者補習学校をつくる。 ( 民国一一年 ) 三 0 歳 一九二三年六月、中共第三回全国代表大会 ( 広州 ) に ( 民国一一一年 ) 三一歳参加、上海にいき党中央組織部長の任につ く。一〇月、孫文、国民党改組宣言、「連 ソ・容共・労農援助」の方針をだす。 一九二四年一月、国民党第一回全国代表大会 ( 広州 ) ( 民国一三年 ) に出席。国民党上海執行部の工作につく。 三一一歳 冬、湖南にかえり、農村に「雪恥会」をつ くり、党組織を拡げる。 一九二五年詞「沁園春長沙」。三月、孫文死す。冬、 ( 民国一四年 ) 一一 = 歳広州へいく 一九二六年国民党中央委員候補に選ばれ、国民党中央 ( 民国一五年 ) 三四歳宣伝部長代理として機関紙「政治週報」を 編集。農民運動講習所長。中共党内の左右 の日和見主義を批判し、。フロレタリアート の同盟軍として農民を位置づけた論文、 「中国社会の各階級の分析ーを「中国青年」 に発表。五月、国民党「党務整理案ーで共 産党員の国民党内ポストが奪われ、毛も上 海にいき、中共中央農民運動委員会書記と なる。一一一月、湖南省農民代表大会に出席。 一九二七年一、二月、湖南省の農民運動を視察、「湖 ( 民国一六年 ) 歳南農民運動視察報告」を発表。蒋介石の 四・一二クーデター。中共第五回全国代表 大会で陳独秀が総書記に選ばれ、毛は表決 権なし。五月、全国農民協会設立、主席と なる。八・一南昌蜂起、中共「八・七緊急 会議」ののち、湖南省委員として「秋収暴 動」を指導する。のち、革命軍とともに井 岡山へむかい、軍の「三項の紀律ーを公 布。 一九二八年労農赤軍第四軍誕生、党代表となる ( 軍長 ( 民国一七年 ) Ⅱ朱徳 ) 。共産党前敵委員会の書記。「中国 三パ歳 の赤色政権はなぜ存在できるか」 ( 一〇月 ) 、 「井岡山の闘争ー ( 一一月 ) 。 一九二九年古田会議 ( 赤軍第四軍第九回党代表大会 ) ( 民国一八年 ) 三七歳で「党内の誤った思想の是正について」報 告し、マルクス・レーニン主義にもとづく 人民軍隊の基本路線を確立した。 一九三〇年「小さな火も広野を焼きつくすことができ ( 民国一九年 ) lll< 歳る」 ( 一月 ) 。「文献主義に反対する」 ( 五

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月 ) 。党中央の李立三コース ( 都市の武装 蜂起 ) による毛・朱の南昌攻撃が失敗。毛 の妻、楊開慧、長沙で軍閥何鍵に殺さる。 賀士貞と結婚。 一九三一年「興国県の調査」 ( 一月 ) 。国民党軍の包囲 ( 民国一一 0 年 ) = 〈歳攻撃と闘う。満洲事変 ( 九月 ) 。中華ソビ エト共和国成立、主席となる ( 一一月 ) 。 一九三二年党中央の″左″翼分子 ( 陳紹禹ら ) に排斥 ( 民国一二年 ) 岩歳される。一〇月以降、軍の指揮をはなれ、 ソビエト政府の仕事に専念。「満洲国」建 国宣言 ( 三月 ) 。 一九三三年日本軍華北へ侵入。「経済活動に注意せよ」 ( 民国一三年 ) 四一歳 ( 八月 ) 、「どのように農村の階級を分析す るか」 ( 一〇月 ) 。 一九三四年「われわれの経済政策」、「大衆の生活に関 ( 民国一一三年 ) 豊歳心をよせ、活動方法に注意せよー ( 一月、 第二回全国労農代表大会報告 ) 。中華ソビ エト共和国、対日宣戦布告。赤軍とともに 「大長征」へ出発。 一九三五年中央政治局拡大会議 ( 遵義会議 ) で、党・ ( 民国一年 ) 四三歳軍にたいする指導を確立 ( 一月 ) 。「抗日救 国のため全同胞に告ぐ」 ( 八・一宣言 ) を 発表、抗日民族統一戦線をアビール。「日 本帝国主義に反対する戦術について」 ( 一 一九三六年全国各界救国連合会成立 ( 五月 ) 。章乃器、 ( 民国一言年 ) 陶行知ら七名の「救国声明ーにこたえる書 四四歳 簡 ( 八月 ) 。「中国革命戦争の戦略問題」、 「蒋介石声明にかんする声明」 ( 一二月 ) 。 一九三七年「抗日の時期における中国共産党の任務」、 ( 民国一一六年 ) 四五歳「抗日民族統一戦線に幾百千万の大衆をひ きいれるために闘え」 ( 延安、党全国代表会 議報告、五月 ) 。「実践論」、「日本の進攻に 対抗する方針、方法、前途」 ( 七月 ) 。日中 戦争、中共中央抗日宣言。「矛盾論」、「一切 の力を動員して、抗戦の勝利獲得のために 闘え」 ( 八月 ) 。「自由主義に反対す」、「国 共合作後の緊急任務」 ( 九月 ) 。「イギリス人 一一一ⅱ亠く ノートラムとの談話」 ( 一〇月 ) 。「上 海・太原陥落後の抗日戦争の情勢と任務ー ( 一一月 ) 。賀士貞と離婚。 一九三八年「抗日遊撃戦争の戦略問題」、「持久戦論」 ( 民国一石年 ) 四六歳 ( 五月 ) 。「中国共産党の民族戦争における 地位ー ( 一〇月、第六期中央委員会第六回 全体会議で報告 ) 。 一九三九年「五四運動」 ( 五四運動一一〇周年記念論文 ) 、 ( 民国一一八年 ) 四七歳「青年運動の方向」 ( 同上演説 ) 、「敵に反対 されるのはよいことであって、悪いことで はない」 ( 抗日軍政大学三周年記念 ) ( 五 月 ) 。「投降活動に反対す」 ( 六月 ) 。「必ず

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反動派を制裁せよ」 ( 八月 ) 。新華日報記者 に談話、中央社・掃蕩報・新民報記者に談 話、「ソ連の利益と人類の利益の一致」 ( 九 月 ) 。ス共産党人〉発刊の辞」、「当面の情 勢と党の任務」 ( 一〇月 ) 。「知識人を大量 に吸収せよ」、「中国革命と中国共産党」、 「スターリンは中国人民の友である」、「べ チューンを記念する」 ( 一二月 ) 。この年、 藍蘋 ( 江青 ) と結婚する。 一九四〇年「新民主主義論」、「投降の危険を克服し、 ( 民国一一九年 ) 哭歳時局の好転をかちとれ」 ( 一月 ) 、「あらゆ る抗日勢力を結集し、反共頑固派に反対せ よ」、「国民党にたいする十項目の要求」、 「《中国工人〉発刊の辞」、「団結と進歩を強 調せよ」、「新民主主義の憲政ー ( 二月 ) 。 「抗日根拠地の政権問題」、「当面の抗日統 一戦線における戦術問題ー ( 三月 ) 、「抗日 の勢力を大胆に発展させ、反共頑固派の進 攻に抵抗せよ」 ( 五月 ) 、「あくまでも団結せ よ」 ( 七月 ) 。「政策を論すー ( 一二月 ) 。 表一九四一年安徽省南部事変にさいして、命令、談話を ( 民国三 0 年 ) 四九歳発表 ( 一月 ) 。「《農村調査〉の序と跋」、「第 年 二回反共高潮を退けたのちの時局」 ( 三月 ) 。 「われわれの学習を改造せよ」、「第二回反 共高潮を退けたことに関する総括」、「極東 ミュンヘンの陰謀をあばけ」 ( 五月 ) 。「反フ アシズム国際統一戦線について」 ( 六月 ) 。 「陜甘寧辺区参議会における演説」 ( 一一 月 ) 。この年、太平洋戦争開始。 一九四一一年「党の作風を整頓せよ」、「党八股に反対せ ( 民国三一年 ) よー ( 二月 ) 。「延安の文芸座談会における 五 0 歳 講話」 ( 五月 ) 。「きわめて重要な政策」 ( 九 月 ) 。「第一一次世界大戦の転換点」 ( 一〇月 ) 。 「十月革命二十五周年を祝す」 ( 一一月 ) 。 「抗日戦時期における経済問題と財政間題」 ( 一二月 ) 。 一九四三年「指導方法についての若干の問題」 ( 六月 ) 。 ( 民国三一一年 ) 五一歳「国民党に問うー ( 七月 ) 。「根拠地の減租・ 生産・擁政・愛民運動を展開せよ」、「国民 党の十一中全会と三期二回国民参政会を評 すー ( 一〇月 ) 。「組織せよー ( 一一月 ) 。 一九四四年ス追いつめられて梁山にのぼる》をみての ( 民国三三年 ) 至歳ち、延安京劇院にあてた手紙」 ( 一月 ) 。 「学習と時局」 ( 四月 ) 。「人民に奉仕する」 ( 九月 ) 。「蒋介石の双十節の演説を評す」、 「文化工作における統一戦線」 ( 一〇月 ) 。 一九四五年「経済工作に熟達せよ」、「遊撃区でも生産 ( 民国三四年 ) 五三歳を進行できる」 ( 一月 ) 。「中国の二つの運 命」、中共第七回大会の政治報告「連合政 府論」 ( 四月 ) 。「愚公、山を移す」、「軍隊

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422 学習している。 毛沢東人民内部の矛盾を正しく処理する 問題について ( 一九五七年一一月一一十七日 ) 毛沢東中国共産党全国宣伝活動会議での ( 一九五七年三月六日 ) 講話 関於正確処理人民内部矛盾的問題 在中国共産党全国宣伝工作会議上的講話 これは、一九五七年二月開かれた最高国務会議第十一回拡 大会議でおこなった講話の記録をもとにして、その後毛沢東 一九五七年三月六日から十三日まで、中国共産党中央委員一 が若干の補足訂正をおこない、一九五七年六月十九日付けの会が召集した全国宣伝活動会議でおこなった報告である。こ 人民日報に発表したものである。 の会議には中央と省・市級の文化教育・宣伝部門の責任者お・ 一九五七年というと、中国は、第一次五カ年計画の最終年よび科学・教育・文学・芸術・新聞・出版部門にたずさわっ であり、第一次五カ年計画は予定を超過して好調な進展をしている非党員の専門家百余名が出席しており、ここで毛沢東 は、「人民内部の矛盾を正しく処理する問題について」の見 めしていたが、中国の国内には、階級関係においてさまざま 地から知識人の問題を全面的にとりあげている。これは、一 な問題がおきていた。第一は、一九五六年におきたハンガリ ー事件がおよぼした影響であり、第二は、一九五六年におこ九三九年「延安の文学・芸術座談会における講話」につ、 なわれた全国農民の協同組合化とそれに対する富農層の抵抗で、知識人の問題を正面からあっかった重要な文献といえ る。 であり、第三には同じく一九五六年におこなわれた全国私営 商工業の公私合営化とそれに対する一部の抵抗であった。 毛沢東はここで、「矛盾論」で展開している見解を現情勢 に適用して、各階級間、各階層間の矛盾をはっきり摘出する とともに、それらの矛盾の位置づけをおこない、それぞれの 異なった矛盾にたいする異なった処置のとりかたを指示して いるのである。中国では、この「人民内部の矛盾を正しく処 理する問題について」を「実践論」「矛盾論」「人間の正しい 考えはどこからくるか」とともに四哲学論文として一貫して

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420 想は、すでに一九四四年九月だされた「国民政府と統帥部を党のひきいる全国人民とアメリカ帝国主義に支援された国民 改組して、民主的連合政府をつくれ」というよびかけにもは 0 党蒋介石集団との内戦にな「た。しかし、内戦は、一九四七 きりあらわれており、このよびかけに応じて立ちあがった重年七月から九月にかけて、人民解放軍の全面的な攻勢に転 慶各党派各階層の代表の要求や中国民主同盟などの要求にも じ、戦争は、それまで蒋介石軍の解放区内侵入にあったが、 はっきりだされていたものであるが、毛沢東はこの報告のな これからは、解放区内ではなく、国民党支配地区でおこなわ かで、新民主主義の時期における中国共産党の一般的綱領とれるようになり、蒋介石の二十年にわたる反革命支配は、消 当面している時期における具体綱領をくわしくのべ、連合政減〈むかいはじめた。毛沢東はこうした転換を予見して、そ 府の樹立とその政府の性格をあきらかにしているのである。 の歴史的意義と世界革命的意義をあきらかにするとともに、 こうした転換点にたつ中国共産党の政策を明らかにしている 毛沢東当面の情勢とわれわれの任務 のである。すなわち、戦争が進展する時期において党が解決 ( 一九四七年十二月 ) する必要のある軍事問題、土地問題、統一戦線問題について 詳細かっ明確な方針をあたえているのが、この報告であり、 目前形勢和我們的任務 この報告にもとづいて活動したために、二年のちの一九四九 年十月一日には、中華人民共和国の成立をかちとったのであ これは本文の前に付されている中共中央毛沢東選集出版委る。 員会の解題でも明らかにされているように、一九四五年から はじまった第三次国内革命戦争が、一つの転換点にたっした 毛沢東人民民主主義独裁について 一九四七年十二月、陜西省米脂県楊家溝でひらかれた中共中 ( 一九四九年六月三十日 ) 央委員会でおこなわれた報告である。 一九四五年八月、毛沢東は身の危険を冒して重慶にとび四 論人民民主専政 十三日間、国共両党間の交渉をつづけ、ついに「双十節協 定」を結んだが、蒋介石は、この協定のインクもかわかない この論文は中国共産党成立二十八周年を記念して書かれた うちに、内戦を挑発し、毛沢東のせ 0 かくの平和〈の願望も論文であるが、この論文の書かれた一九四九年六月には、す 努力もふみにじ「てしま 0 た。こうして、中国は抗日戦争勝でに北京・天津が解放されたばかりか、南京・上海も解放さ 利後、そのきずもまだ癒えない一九四六年七月から中国共産れ、全国の軍事的勝利は確かなものにな「ていた。中国の情

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448 党中央へ提出、ソ連最高ソビエト会議で、 「東風は西風を圧倒した」の演説 ( 一一月 ) 。 一九五八年中共八期一一回大会、社会主義建設の総路線 六〈歳を決定、大躍進運動はじまる ( 五月 ) 。「あ る合作社を紹介する」 ( 六月、紅旗創刊号 ) 。 七月、人民公社化運動はじまり、八月、国 内各地を視察し、公社化を激励。中共中 央、北戴河会議「農村に人民公社をつくる 問題ーの決議 ( 八月 ) 。中共第八期六中全会 「人民公社の若干の間題についての決議」 採択 ( 一二月 ) 。この年、人民日報が毛沢東 論文より「帝国主義とすべての反動派はハ リコの虎である」を編集 ( 一〇月 ) 。 一九五九年毛沢東、国家主席辞任を中出、党主席に専 歳任、国家主席は劉少奇 ( 四月、全国人民代 表大会一一期第一回会議 ) 。 毛沢東、フルシチョフ会談 ( 九月 ) 。この 年、広東省ほかで自然災害 ( 六一年まで ) 。 なお、ソ連、五七年調印の「国防の新技術 についての協定」を破棄 ( 六月 ) 。 一九六〇年上海で日本文学代表団と会見、日本の安保 査歳闘争を評価 ( 六月 ) 。七月、ソ連技術者ひき あげ、中ソ対立ふかまる。モスコー八一カ 国共産党会議に劉少奇出席、中ソ論争 ( 一 一九六一年中共第八期九中全会 ( 一月 ) 。 六九歳 一九六一一年中共中央第八期一〇中全会、過渡期の階級 歳闘争の問題を決議 ( 九月 ) 。中印国境紛争 一九六三年「中共中央の当面の農村工作における若干 七一歳の問題の決定ー起草を主宰 ( 五月 ) 。中共中 央、ソ連共産党にたいし、「国際共産主義 運動の総路線についての提案ー ( 六月 ) 。中 ソ両党会談 ( 七月 ) 。人民日報、紅旗編集 部、ソ連の公開状にたいする連続批判論文 ( 第一 ~ 第九 ) を発表。公然たる中ソ論争た かまる。「文学・芸術に関する指示」 ( 一一 月 ) 。 一九六四年「文学・芸術に関する指示」 ( 六月 ) 。中ソ 七一一歳公開論争っづく。中国最初の原爆実験 ( 一 〇月 ) 。この年、社会主義教育運動、「比 べ、学び、追いっき、助ける運動ー展開 幹部の下放もさかん。「毛主席詩詞」出版 一九六五年第三期全国人民代表大会第一回会議、劉少 茎歳奇を国家主席に選出、人民政協第四期全国 委員会第一回会議は、毛沢東を名誉主席に 選出 ( 一月 ) 。林彪「人民戦争の勝利万才」 発表 ( 七月 ) 。『文報』紙上で、姚文元が一 ( 一二月 ) 。

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414 年五月三十日上海でおこった労働者虐殺事件への抗議がきっ かけとなって、一年余にわたって、全国の主要都市では労働 者・学生・市民のストライキとデモがつづき、この大衆運動 の高潮を土台として、一一六年七月には国民党と共産党の統一 戦線による「北伐ーがはしめられた。革命がこうして、新し 浅川謙次 い発展をとげた反面、国民党内部には、公然たる反共派が形 安藤彦太郎 成されて、一一五年八月には国民党左派の指導者廖仲愷を暗殺 し、二六年三月には中山艦事件とよばれる反共クーデターを 毛沢東中国社会各階級の分析 ( 一九一一六年三月 ) おこした。こうした一連の反共事件の発生と、蒋介石の裏切 り準備にたいして、中国共産党はいつまでも「国共合作」 中国社会各階級的分析 に幻惑されることなく、いかなる階級が革命の真の指導者で この論文は、つぎの「湖南省農民運動の視察報告」 ( 一九あるか、いかなる階級が革命の真の同盟者であるか、各階級 二七年三月 ) とともに、中国革命史上「第一次国内革命戦争を科学的に分析する必要があ 0 た。 中国共産党の指導者のなかにも、「国共合作」に幻惑され の時期」といわれる時期 ( 一九二四年一月から一九二七年七 て蒋介石の裏切りに警戒心を全く失っていたもの、あるいは 月まで ) に執筆された代表的な論文だといわれている。この 時期に毛沢東が書いた論文や評論はその数が相当多いものと国共合作に最初から反対し、労働者階級だけで革命をおこな おもわれる。湖南省の軍閥支配を分析した「趙恆惕の階級的うことを主唱し、蒋介石が革命を裏切ろうが裏切るまいが 基礎とわれわれの任務」と題する論文もかれの執筆によるもそれには何の関心も示していないものもいた。前者は陳独秀 こ代表 に代表された右翼日和見主義者であり、後者は張国燾冫 のといわれ、また当時発行されていた中共機関誌「響導」な どにも、いくつかの署名短文が発見されるが、中共中央委員された極左日和見主義者であった。しかもこの右翼と極左の 会毛沢東選集出版委員会編集の「毛沢東選集」に収められて両翼の日和見主義者の共通点は、中国社会の階級分析を科学 的におこなっておらす、敵は誰か、味方は誰かという革命の いるものは、この二論文たけである。 一九一一六年から二七年という年は、中国新民主主義革命の第一の重要な問題が・ほやけていたこと、とくに、中国の新民 最初の高潮の時期であ 0 たとともに、国民党蒋介石の反共陰主主義革命における農民の役割を正しく評価できなかたこ 謀が着々すすめられた時期でもあった。すなわち、一九二五とにある。 解題

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第一に、それは、十八年の期間に、この計画を基本的に達それはただちに是正された。ソ連は、大きな努力をはらって、 成しようとしていることである。一九四九年十月に中華人民全農業の社会主義的改造を成功裡に達成するとともに、農業 共和国が成立したときから一九五一一年までの、この三年あまの面で強力な技術的改造をもやりとげた。ソ連がたどったこ りの時期は、わが国の経済復興の任務を達成するためにすご の道こそわれわれの手本である。 した。この時期に、農業の面では、われわれは土地改革と農 第二に、われわれは農業の社会主義的改造の面で、一歩一 業生産復興の任務を遂行したほかに、さらにふるくからあっ歩前進する方法をとっていることである。第一歩は、農村で、 た解放区の全域にわたって、農業生産互助組の組織を大いに 自発的意志と相互利益の原則のもとで、農民によびかけて、 おしひろめたし、また、半社会主義的な農業生産協同組合の ほんのわずかでも社会主義の芽ばえをもった数戸を一つにま 組織にとりかかり、なにがしかの経験をつんた。これにつづとめるか、または十数戸を一つにまとめて農業生産互助組を つくる。そのあとで第二歩として、これらの互助組を基礎に いたのが、一九五三年からの第一次五カ年計画であって、こ れは現在までほぼ三年間実行されており、われわれの農業協して、やはり自発的意志と相互利益の原則のもとで、農民に 同化運動はすでに全国的におしひろめられ、われわれの経験よびかけ、土地を出資して統一的に経営することを特徴とす もゆたかになってきた。中華人民共和国が成立してから第一一一る小規模な半社会主義的性質をもった農業生産協同組合をつ くる。第三歩として、はじめて、これらの小規模な、半社会 次五カ年計画の完成までには、十八年の期間がある。われわ れはこのあいだに、社会主義的工業化を基本的に達成し、手主義的性質をもった協同組合を基礎として、おなじく自発的 工業と資本主義的工商業の社会主義的改造を基本的に達成す意志と相互利益の原則のもとで、農民によびかけて、結合を てると同時に、農業の面での社会主義的改造を基本的に達成すさらに一歩つよめさせ、大規模な、完全に社会主義的性質を もっ農業生産協同組合をつくることである。こうした段どり 6 ることにしている。それが可能であろうか ? ソ連の経験が 新教えるところによれば、完全に可能である。ソ連は、一九一一をとれば、農民には、自身の経験をつうじて、一歩一歩社会 〇年に国内戦争をおわって、一九二一年から一九三七年まで主義的自覚を高めさせることができ、かれらの生活様式を一 剛の十七年間に農業の協同化を達成したが、協同化の主要な仕歩一歩変えさせることができるので、かれらの生活様式の変 化についても、それがいきなりやってきたという感じをつよ 業事が達成したのは、一九二九年から一九三四年までの六年間 である。この期間に、ソ連の一部の地方組織には『ソ同盟共くあたえないですむ。こうした段どりをとればある期間 ( た 産党 ( ポ ) 小史』にのべられているように、いわゆる「成功とえば一年から一一年の間 ) 農作物の減収をきたすようなこと にの・ほせあがる」という誤りをおかしたところもあったが、 も基本的にさけられる。そればかりか、逆に毎年の生産の増

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( 一天一一頁 ) 毛沢東選集第二巻の「日本の進攻とたたかう方針、 方法および前途」注〔一〕にみられる。 2 ( 一一六三頁 ) 中央系とは、主として蒋介石集団の部隊をさす。 地方系とは、国民党地方軍閥の部隊、つまり雑軍をさす。毛沢東 選集第二巻の「おもいきって抗日勢力を発展させ、反共頑迷派に 抵抗せよ」注〔九〕を参照。 3 ( 一一公一頁 ) 民主同盟の全称は中国民主同盟で、当時、抗日民 族統一戦線のなかの民主的政党の一つであった。 一九四一年に成 立し、当初は中国民主政団同盟とよんだが、一九四四年に現在の 名称に改めた。一九四九年、中国人民政治協商会議に参加した。 4 ( 六五頁 ) 本書の「矛盾論」訳注 2 を見よ。 5 ( 一一九員 ) 一九四二年の冬から一九四三年の春にかけて、内 蒙古のイクチアオ盟に駐屯していた国民党反動軍隊は、蒙古族人 民の牧草地の占拠を強行し、その上、地元の人民から大量の食 糧、家畜を強奪した。一九四三年三月二十六日、イクチアオ盟の 蒙古族保安隊と人民大衆は、ついに武力による反抗にたちあがっ た。同年四月、国民党は軍隊をさしむけて弾圧し、地元の蒙古族 て 人民にたいして血なまぐさい虐殺をおこなった。 っ 6 ( 一一九四頁 ) 一九四四年九月、新疆省北部ィリ地区の各少数民 府 政 族人民は、国民党反動派の民族的抑圧と経済的収奪に反対して、 合 大規模な武装蜂起をおこよっこ。 オオこの蜂起は、阿山、塔城一帯で 連 蜂起した武装組織と相前後して連合し、新疆省北部の大部分の地 域を占領した。国民党は甘粛省と新疆省の各地から多くの反動軍 隊をまわして、蜂起軍にたいし長期にわたる大規模な武力弾圧を 訳注 くわえた。蜂起軍は、新疆省各民族の広範な人民の積極的な支持 のもとに英雄的に抵抗し、一九四九年に新疆省が解放されるまで 抵抗をつづけた。 7 ( 一一九四頁 ) ここでは主として、一九四二年から一九四三年に かけて国民党反動派が甘粛省南部の回族人民にたいしておこなっ た虐殺事件をさす。一九四二年の冬、甘粛省南部の臨沸区、眠県 一帯の回族人民は、国民党反動派の横暴きわまるとりたて、兵隊 狩り、人夫狩り、イスラム教寺院破壊などの反動的な措置に反対 して、大規模な武装蜂起をおこなった。 一九四三年四月以後、蜂 起地区は二十余県にひろがり、参加者は一時は十万人をこえた。 国民党反動派は、六コ師団の軍隊をあい前後してさしむけ、飛行 機までもくりだし、地方の反動武装組織に呼応して、蜂起した大 衆にたいし残酷な虐殺をおこなった。