くの理論が真理性において不完全なものであり、その不完全る。たとえば、自然を変革する過程では、ある工事計画が実 さは、実践の験証をつうじてただされること、多くの理論は現され、ある科学上の仮説が実証され、ある器物が製作さ あやまっており、そのあやまりは実践の験証をつうじてただれ、ある農作物が収穫される。また社会を変革する過程で されることをわれわれに教えている。実践は真理の基準であは、あるストライキが勝利し、ある戦争が勝利し、ある教育 るとか、「生活、実践の観点は認識論の第一の、そして基本計画が実現することは、、・ しすれも予想した目的を実現したも 的な観点でなければならないーとかいわれる理由はここにあのといえる。しかし、一般的にいって、自然を変革する実践 る。スターリンが「理論は、革命の実践と結びつかなければ においても、社会を変革する実践においても、人びとがあら 対象のない理論となる。同様に実践は、革命の理論を指針と かじめもっていた思想、理論、計画、政策が、なんらの変史 もなしに実現されることはきわめて少ない。 しなければ、盲目的な実践となる」といっているのは正し これは、現実の 変革にたずさわる人びとが、たえず多くの制約をうけている ここまでくると、認識運動は完成したといえるであろう ことによるものであって、たんに科学的条件および技術的条 か。われわれの答えは、完成もしたし、また完成してもいな 件の制約をたえず受けているだけでなく、客観的過程の発展 いともいうのである。社会の人びとが、ある発展段階のなか とそのあらわれる度あいの制約 ( 客観的過程の側面および本 の、ある客観的過程を変革する実践 ( それが、ある自然界の質がまだ十分に露呈していない ) をも受けていることによる 過程を変革する実践であろうと、あるいはある社会の過程をのである。このような状況のもとでは、まえも「て予想し得 変革する実践であろうと ) に身を投じ、客観的過程の反映となか 0 た事情を実践の中で見いだしたことによ 0 て、思想、 主観的能動性の作用によ 0 て、その認識を感性的なものから理論、計画、政策が部分的に改められることはよくあるし、 理性的なものへと推移させ、その客観的過程の法則性にほぼ 全面的に改められることもある。つまり、あらかじめもって あった思想、理論、計画あるいは政策がつくられたならば、 いた思想、理論、計画、政策が部分的にか、あるいは全面的 さらに、この思想、理論、計画、あるいは政策をそのおなじ に実際と一致しなかったり、部分的にかあるいは全面的にあ 論客観的過程の実践に応用してみて、もし予想した目的を実現やまっていたりすることは、どちらもあることである。多く 践することができたならば、つまりあらかじめもっていた思 のばあい、何回も失敗をくりかえしてはじめてあやまった認 実想、理論、計画、政策を、そのおなじ過程の実践のなかで事識を改めることができ、客観的過程の法則性に合致させるこ 実にするか、あるいはだいたいにおいて事実にしたならば、 とができ、したがって主観的なものを客観的なものに変える この具体的な過程についての認識運動は完成したことにな ことできる、つまり、実践のなかで予想した結果を得るに
らわれるとはかぎらない。だが、階級闘争が発展するにつれ配している都市が農村をきわめて横暴に取奪している ) 、そ て、この矛盾も敵対性のものに発展する可能性がある。ソ連の矛盾がきわめて敵対的である。だが、社会主義国では、ま たわれわれの革命根拠地では、このような敵対的矛盾が非対 共産党の歴史は、われわれに、レーニンやスターリンの正し ーリンなどのあやまった思想との抗的矛盾に変わっており、共産主義の社会になったときには い思想とトロッキーやブハ このような矛盾は消減する。 矛盾が、初めのころは、まだ敵対的な形態をとってあらわれ レーニンはいっている。「敵対と矛盾とは、まったく異な なかったが、のちには敵対的なものに発展したことをおしえ ったものである。社会主義のもとでは、前者は消失するが、 ている。中国共産党の歴史にも、このようなことがあった。 チェントウシウチャンクオタウ ( 三 0 ) わが党内の多くの同志の正しい思想と陳独秀、張国燾らのあ後者は存続する」。このことはつまり、敵対とは矛盾の闘争 やまった思想との矛盾は、初めのころは、やはり敵対的な形のあらゆる形態ではなく、その一つの形態にすぎないから、 態をとってはあらわれなかったが、のちには敵対的なものにその公式をところかまわずあてはめてはならないということ である。 発展した。現在わが党内の正しい思想とあやまった思想との 矛盾は、敵対的な形態をとってあらわれてはいす、もし、あ やまりをおかした同志が自分のあやまりをあらためることが 七結龠 できるならば、それは敵対性のものにまで発展することはな 。したがって、党は一方ではあやまった思想にたいし、厳 ここでわれわれはつぎのように総括することができる。事 格な闘争をすすめなければならないが、他方では、またあや物の矛盾の法則、すなわち対立面の統一の法則は、自然およ まりをおかした同志に目ざめる機会を十分あたえるようにしび社会の根本法則であり、したがって、思考の根本法則でも このようなばあいにゆきすぎの闘争はあある。それは形而上学の世界観とは正反対のものである。そ なければならない。 きらかに不適当である。しかし、あやまりをおかした人がそれは人類の認識史における一大革命である。弁証法的唯物論 の観点からみると、矛盾はすべての客観的事物および主観的 のあやまりを固執し、さらにそれを拡大させるならば、この 思考のすべての過程に存在しており、すべての過程の初めか 論矛盾は、敵対性のものにまで発展する可能性がある。 盾経済面での都市と農村との矛盾は、資本主義社会においてら終わりまでをつらぬいている。これが矛盾の普遍性と絶対 矛は ( そこではブルジ = ア階級の支配する都市が農村を横暴に性である。矛盾している事物およびその一つの側面はそれぞ 搾取している ) 、また中国の国民党支配地区においては ( それ特徴をもっている。これが矛盾の特殊性と相対性である。 こでは外国の帝国主義と自国の買弁的大ブルジ = ア階級の支矛盾している事物は、一定の条件によって、同一性をもって 1 一 1 一口
352 だ観望しているものがたくさんいるが、かれらもまた動揺し手をつけないで、われわれはどうして工業化の経験を身につ ている。しかし、富裕農民にくらべれば、かれらはずっと社けることができよう ? 五カ年計画には農業協同化の部分が 会主義をうけいれやすい。これがじっさいに存在している状あるのに、われわれが農民を指導して各郷、各村にみな一つ 態である。ところが、われわれの一部の同志は、こうした状ないしいくつかの農業生産協同組合をつくろうとしないなら 態を見落として、いま発展してきたばかりの何十万という小 ば、いったい「幹部の経験の程度」はどこから得られるの 規模な半社会主義的な農業生産協同組合を、すでに「じっさ か、またどこから高めるのか ? あきらかに、いまの農業生 いの可能性をこえている」とか「大衆の自覚の程度をこえて産協同組合の発展状況が「幹部のもっている経験の程度をこ いるーというふうに見ているが、これは比較的少数の富裕農えている」などというこうした思想は、一つの誤った思想で 民を見て、数のもっとも多い貧農や富裕でない農民のことをある。これが第二の誤った思想。 忘れているものである。これが第一の誤った思想である。 これらの同志は問題を見る方法を誤っている。かれらは問 これらの同志はまた、農村における共産党の指導力や広範題の本質面、主流面をみないで、本質的でない面、主流でな な農民が心から共産党を支持している状態についての評価が い面のことばかり強調する。ここで指摘しておかなければな 足りない。かれらは、わが党が数十万の小規模な協同組合をらないことは、本質でない面や主流でない面の問題も、ゆる がせにしてはならず、それらをひとつひとっ解決してゆかな かためることさえむずかしいのに、それを大いに発展させる ことなどなおさら思いもよらない、と考えている。かれらければならないが、だからといって、そうしたものを本質あ るいは主流とみて、自分の方向を誤ってはならないというこ は、農業の協同化を指導する党の現在の活動状況を悲観的に えがきだし、それが「幹部のもっている経験の程度をこえてとである。 広 いる」と思っている。たしかに、社会主義革命は一つのあた われわれはつぎのことを確信しなければならない。①、 らしい革命である。これまで、われわれは、ブルジョア民主範な農民は、党の指導のもとで、しだいに社会主義への道を 主義革命の経験しかもっていず、社会主義革命の経験はまだすすんでゆきたいとのそんでいること、②、党は農民を指導 もっていなかった。しかし、どのようにしてそうした経験をして社会主義への道をすすませることかできるものであるこ 身につけるのか ? 坐ったままじっとしていて身につけるのと。この二つの点が事物の本質であり、主流である。もしこ か、それとも社会主義革命の闘争のまっただなかに身を投じの確信に欠けるところがあれば、われわれは、大よそ三つの て、闘争のなかで学ぶという方法によって身につけるのか ? 五カ年計画のあいだに、社会主義を基本的につくりあげるこ ともできないであろう。 五カ年計画を実行せず、社会主義的工業化をすすめる仕事に
たない。百花斉放・百家争鳴の方針を実行することは、別にれらに表現させないよう強制の方法をとるべきではなくて、 思想界におけるマルクス主義の指導的地位を弱めないばかり かれらに表現させ、同時に、かれらが表現したばあいは、か か、逆に、その地位を強めることになるであろう。 れらと討論して、適切な批判を加えるべきである。疑いもな 非マルクス主義の思想にたいしては、どのような方針をと 、われわれは種々さまざまの誤った思想を批判しなければ ならない。誤った思想がいたるところにはんらんするのを見 るべきであろうか ? ても批判をせず、かれらに勝手に市場を占領させておくこと 明白な反革命分子、社会主義事業の破壊分子にたいして は、かれらの言論の自由をうばえばよいので、ことはやりやは、もちろんよくない。誤りがあれば批判し、毒草があれ ば、闘争しなければならない。だが、その批判には極力弁証 すい。人民内部の誤った思想については事情が異なる。これ らの思想を禁止し、これらの思想にどのような発表の機会を法的方法をもちいるべきで、教条主義的であってはならず、 も許さないようにしたらよいだろうか。もちろん、よくな形而上学的方法をもちいてはならない。科学的分析があり、 。人民内部の思想問題の処理、精神界の問題の処理を、単十分な説得力のあることがのそましい。教条主義的批判では 純な方法で処理するならば、たんに効果があがらないばかり 問題を解決することができない。われわれはすべての毒草に か、ひじように有害でさえある。誤った意見の発表を許さな は反対するが、何がほんとうの毒草か、何がほんとうの香り くても、結果は、誤った意見がやはり存在する。正しい意見高い花かを慎重に識別しなければならない。われわれは大衆 も、もし温室で育てられ、風雨に会ったことがなく、免疫力といっしょになって香り高い花と毒草とを慎重に識別するこ しっしょになって、正しい方法で毒草と とを学ぶとともに、、 ができていないとしたら、誤った意見に出会っても、それに 打ちかっことはできない。したがって、正しい意見をほんと 闘争しよう。 うに発展させ、まちがった意見を克服し、問題をほんとうに われわれが、教条主義を批判するときには、同時に、修正 解決するには討論の方法、批判の方法、説得の方法をとるほ 主義に対する批判に注意しなければならない。修正主義、あ かないのである。 るいは右翼日和見主義は、一種のブルジョア思潮であり、そ ・フルジョア階級、小ブルジョア階級の思想・意識はかなられは教条主義よりいっそう大きな危険性をもっている。修正 主義者、右翼日和見主義者も、口先ではマルクス主義をとな ず反映されるにちがいない。政治問題と思想問題において、 え、また教条主義を攻撃する。だが、かれらの攻撃するもの かれらは、かならずさまざまな方法をつかって、自己を強引 は、まさにマルクス主義の最も根本的なものである。かれら に表現しようとするにちがいない。かれらに反映させるな、 は唯物論や弁証法に反対するか、あるいはそれを歪曲し、人 表現するなといっても、できないことである。われわれはか
ば完成されない他の任務を、この民主主義の任務といっし↓ 産党は人のいうことを聞かず、統一しようとせず、陰謀をた にして達成できるとし、そのことを「一挙に成功させる」と くらみ、攪乱をくわだてているとかならべたてて、世事にう とい人たちをだましているのである。これこそ中味のすりか いうならば、それこそ空想であって、真の革命家のとるとこ えというものであり、投降するまえの思想準備、または世論ろではない。 準備の実行である。これらの諸氏ま、、、 。し力にもまことしやか に「一回革命論」を主張し、共産主義と共産党に反対してい 九頑迷派に反駁する るが、もとをただせば、ひたすら四九パ 1 セントか五一。 セントのためにほかならず、その苦心たるやなみ大抵ではな すると、ブルジョア頑迷派がとびだしてきて、よろしい 。「一回革命論」とは、これ革命不用論なりで、これこそきみたち共産党は社会主義の社会制度をあとの段階におしゃ が問題の本質である。 ったし、また、きみたちは「三民主義は中国がこんにち必要 とするものであり、わが党はその徹底的実現のために奮闘す だが、そのほかにもまだ一部につぎのような人たちがい ( 一 0 ) るものである」とも宣言したのだから、共産主義をしばらく る。すなわちかれらにはべつに悪意はないようだが、やはり いわゆ この「一回革命論」なるものにまどわされ、「政治革命と社ひっこめたらよかろう、という。このような議論は 会革命とを一挙に成功させる」といったまったく主観的な考る「一つの主義」という表題のもとで、身の程しらぬさわぎ えかたにまどわされている。そしてかれらは、革命には段階方にまで変わってきている。こうしたさわぎは、その本質に があり、ある革命から他の革命にうつりうるだけで、「一挙おいて頑迷分子たちのブルジョア専制主義である。だが、少 し遠慮して、それはまったくの非常識だといってもよい。 このよ に成功させる」といったものはないことを知らない。 共産主義は。フロレタリア階級の全思想体系であると同時 うな観点は革命の段どりを混同し、当面の任務にたいする努 力を弱化させるもので、これまた有害である。もし二つの革に、また新しい社会制度でもある。このような思想体系と社 論命段階のうち第一は、第二のための条件を準備するものであ会制度は、他のいかなる思想体系とも、他のいかなる社会制 義 り、二つの段階はかみあうべきで、このあいだにブルジョア度とも区別されるものであって、それは人類の歴史はじまっ 主 て以来の、もっとも完全な、もっとも進歩した、もっとも革 民独裁の段階がはさまるのをゆるさないというならば、それは 新正しく、マルクス主義的な革命発展論である。だが、もし民命的な、もっとも合理的なものである。封建主義の思想体系 と社会制度は、すでに歴史博物館入りしたしろものである。 主主義革命にはそれ自身の一定の任務もなく、それ自身の一 定の時期もなく、社会主義の任務のような別の時期でなけれ資本主義の思想体系と社会倒度も、その一部はすでに博物館
どんな犠牲をはらっても、最後まで戦いぬく用意をしなけれどのようにして持久戦をすすめ、どのようにして最後の勝利 ばならない。犠牲が大きく、時間が長びこうとも、永遠の平をたたかいとるか。これがこれから答えようとする問題であ 和と永遠の光明の新しい世界はすでにあざやかにわれわれのる。このために、われわれは順序をおって、つぎの問題を説 明していこう。すなわち戦争における能動性、戦争と政治、 前によこたわっている。戦いに従事するわれわれの信念は、 この永遠の平和と永遠の光明の新しい中国と新しい世界をか 抗戦の政治的動員、戦争の目的、防御中の進攻、持久中の速 ちとることのうえに築かれている。ファシズムと帝国主義は決、内線中の外線、主動性、弾力性、計画性、運動戦、遊撃 戦争を無期限にひきのばそうとするが、われわれは戦争をそ戦、陣地戦、殲減戦、消耗戦、敵のすきに乗する可能性、抗 う遠くない将来に終わらせようとする。この目的のために、 日戦争の決戦の問題、兵士と人民が勝利のもとであること。 人類の大多数は最大の努力をはらうべきである。四億五千万では、能動性の問題からのべてゆこう。 の中国人は全人類の四分の一をしめており、もしわれわれが ( 六〇 ) われわれが問題を主観的に見ることに反対するとい 一致努力して、日本帝国主義を打倒し、自由平等の新しい中うのは、人間の思想が客観的事実にもとづいていなければ、 国を創造することができたならば、全世界の永遠の平和をか またそれに合致しなければ、空想であり、えせ理屈であり、 ちとるうえでの貢献は、疑いもなく非常に大きなものである。 もしそのとおりにおこなえば、失敗する、だから反対しなけ このような希望はむなしいものではなく、全世界の社会経済ればならないということである。だが、すべての事がらは人 の発展過程はすでにそれに近づいており、これに多数の人び 間がおこなうものであって、持久戦と最後の勝利も、おこな との努力をくわえさえすれば、何十年かのうちにはかならずう人間がいなければ実現しない。物事をうまくおこなうに この目的は達せられるにちがいない。 は、まずだれかが客観的事実にもとづいて、思想、道理、見 解をひきだし、ついで計画、方針、政策、戦略、戦術を提起 しなければならない。思想等々は主観にそくするのであり、 戦争における能動性 て おこなうこと、あるいは行動することは主観が客観において に ( 五九 ) 以上のべたところは、なぜ持久戦なのか、またなぜあらわれたものであって、どれも人類の特殊な能動性であ 久最後の勝利は中国のものなのかを説明したもので、だいたい る。このような能動性をわれわれは「自覚的能動性ーと名づ 持 において「なんであるか」と「なんではないか」ということける。それは人間が物と区別される特徴である。客観的事実 7 についてであった。つぎに、「どのようにする」と「どのよ にもとづき、またそれに合致するすべての思想は正しい思想 うにはしない」という問題の研究にうつることにしよう。 であり、正しい思想にもとづいておこなうこと、あるいは行
214 国共産党員の指導する共産主義の文化思想、すなわち共産主ささかもなく、それは植民地、半植民地人民のもっとも貴重 義の世界観と社会革命論である。五・四運動は一九一九年でな性格である。魯迅は文化戦線で全民族の大多数を代表して あり、中国共産党の成立と労働運動のほんとうの開始は一九敵陣に突入した、もっとも正確な、もっとも勇敢な、もっと 二一年であり、いずれも第一次世界大戦と十月革命ののち、 も断固たる、もっとも忠実な、もっとも情熱的な、空前の民 すなわち民族問題と植民地革命運動が世界においてその過去族英雄であった。魯迅の方向こそ中華民族の新文化の方向で の様相を一新したときであって、ここに中国革命と世界革命ある。 の結びつきが非常にはっきりとあらわれたのである。中国の 「五・四」以前には、中国の新文化は旧民主主義の性質をも 政治の新鋭軍、すなわち中国のプロレタリア階級と中国共産った文化であり、世界ブルジ = ア階級の資本主義文化革命の 党が、中国の政治舞台に登場したことによって、この文化の 一部分にそくしていた。「五・四」以後の中国の新文化は、 新鋭軍も、新しい装東と新しい武器を身につけ、あらゆる可新民主主義の性質をもっ文化であり、世界。フロレタリア階級 能な同盟軍と連合して、自己の陣列を張り、帝国主義文化との社会主義文化革命の一部分にそくしている。 封建文化にたいして勇敢な攻撃を展開した。この新鋭軍は社「五・四」以前冫ー こよ、中国の新文化連動、中国の文化革命 会科学の分野や文学芸術の分野において、哲学、経済学、政は、・フルジョア階級が指導し、かれらがなお指導的役割をは 治学、軍事学、歴史学、文学、芸術 ( 演劇、映画、音楽、 たしていた。「五・四」以後、この階級のもっ文化思想は、 彫刻、絵画の別なく ) のいずれの面をとわずきわめて大きなその政治面よりもい「そうたちおくれて、まったく指導的役 発展をとげた。二十年来この文化の新軍のほこ先のむかうと 割をうしない、せいぜい革命時期に一定の程度、同盟者とな ころ、思想から形式 ( 文字など ) にいたるまで、巨大な革命りうるだけで、盟主の資格は。フロレタリア文化思想の肩にか をおこさないものは一つとしてなかった。その気勢のすさま かってくるほかはなくなった。これはだれも否定できない鉄 じさ、その威力のはげしさは、まさにむかうところ敵なしで のような事実である。 あった。その動員の広さは、中国の歴史上いかなる時代をも いわゆる新民主主義の文化とは、人民大衆の反帝、反封建 こえるものであった。そして魯迅こそ、この文化の新軍の の文化であり、こんにちでは抗日統一戦線の文化である。こ もっとも偉大な、もっとも勇敢な旗手であった。魯迅は中国のような文化は、他のいかなる階級の文化思想もこれを指導 文化革命の主将であり、偉大な文学者であったばかりでな しえず、ただプロレタリア階級の文化思想、すなわち共産主 く、また偉大な思想家、偉大な革命家であった。魯迅の骨は義思想だけが指導しうるのである。いわゆる新民主主義の文 もっともかたく、かれには奴隷の根性やヘつらいの態度がい 化とは、ひとくちにいって、。フロレタリア階級の指導する人
410 たものがまちがっているならば、批判されても、それは諸君ある。放か、収か、この二つの方針のうち、どちらかをとら なければならない。われわれは放の方針をとっている。なぜ の誤りをただすことを助けてくれるもので、なにもわるいこ ならばこれは国家の強化と文化的発展に有利な方針だからで とではない。われわれの社会では、革命的、戦闘的な批判と 反批判は、矛盾をさらけだし、矛盾を解決し、科学・芸術をある。 われわれはこの放の方針で、何百人かの知識を結集し、か 発展させ、各種の活動を立派にやって行くためのすぐれた方 れらの現在のすがたをかえさせようとしているのである。さ 法である。 きに述べたように、わが国の圧倒的大多数の知識人は進歩を 第七の点″放〃か、〃収″かの問題。これは方針の問題で のそみ、改造をのそみ、改造することのできるものである。 ある。百花斉放・百家争鳴というのは、一時的な方針ではな く、基本的な、同時にまた長期的な方針でもある。同志諸君ここでは、われわれのとっている方針が大きな役割をはた は討論のなかでは賛成しなかったが、正しい意見であったとす。知識人の問題は、ます思想問題であり、思想問題に対し 思う。党中央の意見も、収であってはならない、放あるだけて、粗暴なやり方や強圧的なやり方を採用するのは有害無益 、、こ、というのである。 である。知識人の改造、とくに、かれらの世界観の改変には われわれの国家を指導するには、二つの異なったやり方、 長期の過程が必要である。わが同志たちは、思想改造の仕事 が長期の、辛抱強い、きめのこまかな仕事であって、数回の あるいは、二つの異なった方針をとることができる。つま り、放と収である。放とは手をゆるめて、みんなに意見を述講義や数回の会議だけで人が何十年かの生活のなかで形成し べさせ、人びとに、思いきってものをいわせ、思いきって論 てきた思想、意識を改めさせようとはかってはならないこと 争させることであり、まちがった論議も、毒になるものもおそを、かならず理解しておかなければならない。人を従わせる れないことであり、各種の意見のあいだで相互論争と相互批には説得するよりほかなく、圧力によって従わせることはで 判を展開させ、批判の自由も許すが、また、批判者を批判すきない。圧力によって従わせようとする結果は、おさえはす る自由をも許すことであり、まちがった意見にたいしても、 るが、従わないことになる。力をもって人を従わせようとし てはならない。敵に対するばあいはそれでよいだろうが、同 圧力をもって従わせるのではなくて、説得により、道理によ って従わせることである。収とは、人に異なった意見を出す志にたいして、また、友達にたいしては、このような方法は ことを許さず、まちがった意見を発表することを許さす、そけっしてとってはならない。説得できなければ、どうすれば よいか、それには学習が必要である。われわれは、かなら れを発表すると「一撃でたたきのめすーものである。これは 矛盾を解決するやり方ではなくて、矛盾を拡大するやり方でず、討論という方法、道理を説くという方法をつうじて、さ
426 文を指導者として結成された。孫文らの革命派は日本で『民すぐれた進歩的教師がおり、とくに楊昌済は、中国共産党の 報』という機関誌を発刊し、改良派の『新民叢報』とさかん創立者でもある李大釗と親しいイギリス留学生出身で、教育 に論戦の陣を張っていた。そしてまもなく『民報』のほうが 学と倫理学とを担当していた。毛沢東がここを卒業後まもな 青年への影響力をつよめ、一九一一年には辛亥革命がおこ く一九一八年八月、北京大学にいって、その図書館員として り、清朝が倒れて、一九一二年には中華民国が発足する。そ館長の李大釗のもとに一年間いたのは、楊昌済の紹介によ の時期にかれはまだ康・梁と孫文との区別がよくわからなか る。毛沢東の最初の夫人、楊開慧が昌済先生の娘であること った、とスノウはのべている。中国が半植民地国としての様はあまりに有名である。 毛沢東はこの学校で、急進的民主主義思想をまなぶのだ 相をふかめてゆくのと比例して、改良主義の思想、孫文らの 革命思想があいついであらわれ、辛亥革命を経、軍閥袁世凱が、その勉強ぶりは相当徹底していたようで、当時の詳細な 書きこみをした書物などが、いまこの第一師範にのこってい に革命の成果を横どりされた挫折のなかから、やがて一九一 る。なかでも、十七世紀に生きた湖南の思想家王船山と、ア 九年の五四運動へと盛りあがってゆく反帝・反封建の思想 が、青年たちによってさけばれるようになる。毛沢東は身をダム・スミスを克明に読んだことは注目される。 勉学とともに、在学中、農村調査をおこなったことも注目 もってこの変革期の中国の思想の歴史をあゆんだといってよ すべきことである。大がかりなのは二回やっている。第一回 は一九一六年の夏休み、長沙周辺の農村八県の生活状況をし 『盛世危言』は、意識の面で毛沢東をひろい世界に導きだし らべてあるいた。第二回はその翌年の夏休みで、このときは たが、一九一一年の辛亥革命は、具体的にかれを現実世界の 洞庭湖周辺の四県を中心に、生産と生活、とくに地主による 動きにむすびつけた。辛亥革命のさい、湘郷の中学に在学し ていたかれは、学友とともに感激して革命軍に参加した。そ圧迫の事情を詳細にしらべた。このときのは二篇の文章にま して、清朝皇帝が退位するとまもなく、軍隊を出て、学業をとめて、かれらが学生運動のなかで出していた『湖南通俗 つづけることになった。多くの知識人が辛亥革命の結末にあ報』という新聞に発表した。救国済民の「道理」を見出す、 という意図から書かれたもので、これを書くことで、かれの きたらぬものを感じ、さらに革命の道を模索して沈潜したよ うに、ふたたび学業にもどる決意をして、一九一三年、かれ思想はひじように前進したようである。 かれは一九一七年、四年生のとき学校の学生会の議長とな も長沙の第一師範学校に入学した。 った。このとき学生会のなかに教育研究部というのをつく 毛沢東はこの第一師範学校で青春時代をすごし、基本的な り、鉄道や電燈会社の労働者を対象に夜学校を開設した。一 教養を積んだ。ここに方維夏・徐特立・楊昌済という三人の
412 方だけによって、不正常な現象に接するのを禁止し、化けも これまで長い間、人びとは教条主義にたいして多くの批判 のをみるのを禁止しても、それで問題は解決できるものではを行なってきた。これは当然である。しかし、人びとは修正 主義にたいする批判をしばしば軽視してきた。教条主義と修 よい。もちろんわたしは、少しぐらいはあってもかまわない といっているのであって、なにも化けもののはびこるのを奨正主義はともにマルクス主義にそむくものである。マルクス 励しているのではない。少しくらい誤ったものが存在して主義はかならず発展するものであり、実践の発展にともなっ て、発展し、停滞することはあり得ない。停止して、いつま も、なにも怪しむに足りないし、おそれる必要もない。その ことは、人びとにそれとどう闘うかをもっとよく会得させるでももとのままであるならば生命を失う。しかし、マルクス のである。大きな風波もおそれるにはおよばない。人類社会主義の基本原則はそむくことのできないものである。それに そむけば、誤りを犯すことになる。形而上学的観点でマルク こそ大きな風波のなかで発展してきたものである。 ス主義を取り扱い、それを硬直したものと見なすこと、これ わが国では、ブルジョア思想、小ブルジョア思想、反マル クス主義思想がなお長期にわたって存在するであろう。社会が教条主義である。マルクス主義の基本原則を否定し、マル 主義制度はわが国で、すでに基本的に確立されている。われクス主義の普遍的真理を否定すること、これが修正主義であ る。修正主義は一種の・フルジョア思想である。修正主義者は われはすでに生産手段の所有を変革する面で基本的な勝利 をおさめたが、政治戦線と思想戦線の面では、まだ勝利を完社会主義と資本主義との区別を抹殺し、。フロレタリア独裁と 全におさめてはいない。。フロレタリア階級と・フルジョア階級ブルジョア独裁との区別を抹殺する。かれらの主張するもの は、実際には社会主義路線ではなくて、資本主義路線であ との間のイデオロギー面でどちらが勝っかという問題はまだ る。現在の状況の下では、修正主義は教条主義よりもはるか 本当の解決をみていない。われわれは、・フルジョア思想、小 に有害なものである。現在の思想戦線におけるわれわれの重 ・フルジョア思想と長期にわたる闘争を行なわなければならな 。このような事情を理解せず、思想闘争を放棄することは要な任務の一つは修正主義にたいする批判をくりひろげるこ とにある。 誤りである。およそ誤った思想、毒草、化けものはことごと く批判すべきであり、けっして、それらを勝手にはびこらせ 最後の第八の点。各省、市、自治区の党委員会は思想問題 てはならない。しかしそうした批判は十分道理に合った、分をとりあげなければならないこと。この点について、ここに 析された、説得力のあるものでなければならず、粗暴な、官出席している一部の同志からわたしに話をするよう希望され 僚主義的な、または形而上学的な、教条主義的なものであっ た。現在でも、多くの地方の党委員会は思想間題をつかんで てはならない。 はいず、つかんでいてもそのつかみ方が少ない。それは主と