毛沢東 - みる会図書館


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1. 世界の大思想35 毛沢東

1 解説 などに任じ、そのあと南昌起義に参加して、一九三一一年、湖 南と湖北の省境、洪湖で戦死した。李淑一は、毛沢東の最初 の妻、楊開慧の親友で、解放後、長沙第十中学の語文教員と なり、一九五七年一月、夫の柳直蔔をしのんだ詞を毛沢東に おくった。その返事が「答李淑一」である。 この詞の冒頭は「我失驕楊、君失柳ーとなっている。私は この「驕楊ーの「驕」という一字に毛沢東の万感がこめられ ている、とおもう。「驕」という形容詞は、夫婦のあいだで なければ使えない。精神的・肉体的なあらゆる思い、なっか しみの心が、この一字に凝集しており、ここから毛沢東の 「人間」が感じられるのである。 「毛沢東選集』に盛られたかれの思想と、『毛主席詩詞三十 七首』にながれるかれの情感とをあわせてみるとき、毛沢東 という存在がもつ重さを、ひしひしと感じざるをえない。

2. 世界の大思想35 毛沢東

毛沢東

3. 世界の大思想35 毛沢東

毛沢東同志のこの論文は当時党内にあった二つの偏向とたたかうために書いたものである。当 時の党内にあった第一の偏向は、陳独秀に代表されていたもので、国民党との合作に心をつかう だけで、農民のことをわすれた。これは右翼日和見主義であった。第二の偏向は、張国燾に代表 されていたもので、労働運動に心をつかうだけのもので、同じように農民のことをわすれた。こ れは「左ー翼日和見主義であった。この二つの日和見主義は、いすれも自己のカの不足を感じて いながら、その力をどこに求めるか、広範な同盟軍をどこで得られるかがわかっていなかった。 毛沢東同志は、中国プロレタリア階級のもっとも広範な、もっとも忠実な同盟軍は農民であるこ とを指摘し、それによって、中国革命におけるもっとも主要な同盟軍の問題を解決した。毛沢東 同志は、また、当時の民族プルジョア階級が動揺する階級であること、かれらは革命の高揚期に は分化し、その右翼は帝国主義の側にはしるたろうと予見した。一九二七年におこった事変はこ 中共中央毛沢東選集出版委員会 のことを証明した。

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418 蒋介石が抗日戦争勃発後最初の反共運動をもりあげた時期で ある。抗日戦争の進展は、毛沢東の見とおしと中国共産党中 毛沢東新民主主義論 ( 一九四〇年一月 ) 央委員会の指導の正しさを証明した。中国人民の中国共産党 にたいする支持はいよいよ高まり、八路軍・新四軍の戦果は 新民主主義論 ますます拡大した。しかし、中国共産党の抗日統一戦線内で の指導力のつよまりは、蒋介石国民党の動揺を結果した。と 「新民主主義論」は、「中国革命と中国共産党」が書かれた くに武漢・広州陥落後、戦争が対峙の段階に入り、日本が国一カ月ののちに執筆されたものであり、「中国革命と中国共 民党蒋介石にたいして政治的攻勢をかけはじめたことによっ 産党」で展開している中国革命の世界革命での位置づけとそ て蒋介石国民党の動揺はますますつよま 0 た。そこで、国民の特質に関する理論をい 0 そう深く掘り下げたものである。 党蒋介石は、一九三九年一 = 月「国民精神総動員綱領」を公布したが「てこの新民主主義論は、毛沢東の多くの労作のなか してファシズム的支配を強化するとともに、反共気運のもり でも代表的なものの一つであり、歴史的文献であるといえる。 あげをおこない、それを通じて、日本と妥協しようとはかっ毛沢東が、この新民主主義論で展開している旧民主主義革命 たのである。とくに、一九三九年九月、ファシスト・ドイツ と新民主主義革命との本質的な差異、民主主義革命から社会 がイギリス・フランスと戦争をはじめると、その活動はいっ主義革命への転化の問題は、け「して中国特有のものではな そう露骨になり、国民党軍隊は、日本軍と戦うのではなく、 く、世界的普遍性をもった革命論であり、レーニンの「二つ 共産党の指導する陜・甘・寧辺区を攻撃するにいたった。こ の戦術」をいっそう発展させたものと見てよいであろう。 うしたときに、国民党の反共運動に抗し戦争を堅持するため に、中国共産党は全党員をマルクス・レーニン主義、毛沢東 毛沢東延安の文学・芸術座談会における講話 思想で再武装する必要があった。毛沢東の「中国革命と中 ( 一九四二年五月 ) 国共産党」はそのために書かれたものである。 在延安文芸座談会上的講話 一九四一年から四一一年にかけて、抗日戦争はひじような困 難におちいった。一つには、日本の侵略軍が、全力をかたむ けて、共産党の指導する解放区にたいして大掃蕩戦を展開

5. 世界の大思想35 毛沢東

417 解題 直ちに中共以外の各党派にも大きな影響をあたえたし、また 毛沢東持久戦について ( 一九三八年五月 ) 英米の中国政策にも影響をあたえたのであった。また、その 後の戦争の経過が明らかにしているように、抗日戦争は、こ 論持久戦 こで先見しているように、進展したのであって、科学的分析 の先見性については、読者をひとしく感銘させているもので 一九三七年七月の蘆溝橋事件から翌三八年十月の武漢陥落ある。 までは、抗日戦争の第一段階といわれ、まだつぎの「対峙の 段階」に入っていない時期である。この第一段階では、国民 毛沢東中国革命と中国共産党 党も共産党との統一戦線をまもっていたが、その内部には、 ( 一九三九年十二月 ) 理論的に何ら根拠のない「速勝論」 ( 短期決戦論 ) や「亡国 論」などさまざまな主張が横行していた。とくに速勝論は国 中国革命和中国共産党 民党内部で相当な力をもち、かれらは共産党の主張する全人 民的規模での抗戦に反対しながら、徐州会戦などに主力をつ この論文は、はじめから中国革命の特質を説明する教科書 ぎこんでは、重大な打撃をうけていた。後者の「亡国論」者として書かれたものである。このことは、中共中央、毛沢東 は日本軍のすぐれた装備に到底勝つ見こみはないとして、政選集出版委員会のつけたまえがきでも明らかにしているが、 治的投降を準備していた。抗戦を堅持し、最後の勝利をかち教科書として書かれたものだけに、じつにわかりやすく、体 とるには、国民党内にあらわれているこのような二つの誤っ系立っており、マルクス主義基礎文献のなかのエンゲルスの た方針を徹底的に、爆撃するとともに、当時共産党内にもあ「空想より科学への社会主義の発展」にも比肩する啓蒙的な らわれていた王明・秦邦憲らの国共合作を不用とする極左的ものである。全篇毛沢東によって執筆されているが、第一章 な思想を批判し、戦争の発展と勝利にたいして全人民に確信の「中国社会」の部分だけは、はじめ毛沢東によって書かれ をもたせる必要があった。「持久戦について」は、一九三八 たものではなく、数人のものが書いたのに毛沢東が手を加え 年五月一一十六日から六月三日まで延安でもたれた抗日戦争研たものである。しかし、選集におさめるにあたって、ふたた び毛沢東が加筆している。したがって、ふるい中国社会の特 究会でおこなった講演であるが、そこでは抗日戦争に、科学 質についての説明など、さらに厳密にされているといえる。 的、全面的分析をくわえ、持久戦の必要性と可能性を明らか にするとともに、その勝利を先見したのである。この論文は この教科書が書かれた一九三九年十二月というと、国民党

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422 学習している。 毛沢東人民内部の矛盾を正しく処理する 問題について ( 一九五七年一一月一一十七日 ) 毛沢東中国共産党全国宣伝活動会議での ( 一九五七年三月六日 ) 講話 関於正確処理人民内部矛盾的問題 在中国共産党全国宣伝工作会議上的講話 これは、一九五七年二月開かれた最高国務会議第十一回拡 大会議でおこなった講話の記録をもとにして、その後毛沢東 一九五七年三月六日から十三日まで、中国共産党中央委員一 が若干の補足訂正をおこない、一九五七年六月十九日付けの会が召集した全国宣伝活動会議でおこなった報告である。こ 人民日報に発表したものである。 の会議には中央と省・市級の文化教育・宣伝部門の責任者お・ 一九五七年というと、中国は、第一次五カ年計画の最終年よび科学・教育・文学・芸術・新聞・出版部門にたずさわっ であり、第一次五カ年計画は予定を超過して好調な進展をしている非党員の専門家百余名が出席しており、ここで毛沢東 は、「人民内部の矛盾を正しく処理する問題について」の見 めしていたが、中国の国内には、階級関係においてさまざま 地から知識人の問題を全面的にとりあげている。これは、一 な問題がおきていた。第一は、一九五六年におきたハンガリ ー事件がおよぼした影響であり、第二は、一九五六年におこ九三九年「延安の文学・芸術座談会における講話」につ、 なわれた全国農民の協同組合化とそれに対する富農層の抵抗で、知識人の問題を正面からあっかった重要な文献といえ る。 であり、第三には同じく一九五六年におこなわれた全国私営 商工業の公私合営化とそれに対する一部の抵抗であった。 毛沢東はここで、「矛盾論」で展開している見解を現情勢 に適用して、各階級間、各階層間の矛盾をはっきり摘出する とともに、それらの矛盾の位置づけをおこない、それぞれの 異なった矛盾にたいする異なった処置のとりかたを指示して いるのである。中国では、この「人民内部の矛盾を正しく処 理する問題について」を「実践論」「矛盾論」「人間の正しい 考えはどこからくるか」とともに四哲学論文として一貫して

7. 世界の大思想35 毛沢東

められ、日中戦争がはじまったときであり、中国の抗日運動主義的唯物弁証法哲学の発展という観点からすると、毛沢東 れも全く新しい段階に入ったときである。この歴史の新しい段が「実践論」「矛盾論」で展開している理論は、レーニンが 階が、この二つの哲学論文の講演執筆を必要としたのであろ確認した対立面の統一という弁証法の根本原則のうえに立っ て、レーニンがまだ充分に展開しきっていなかった諸問題に う。人民日報の社説はその点をつぎのように指摘している。 ついて、理論的な展開をおこなっているといえる。たとえ 「歴史の新しい時代がわが党に重大な任務を課した。それは、 ば、実践と認識との関係、実践と認識の発展法則、精神の物 人民の勝利獲得のために、思想戦線においてそれを準備しな ければならないということであり、第一に、革命の前衛内部質への転化の問題、矛盾する両側面の主副関係、諸矛盾の相 において思想的にそれを準備しなければならないということ互関係と矛盾の性質すなわち敵対矛盾と人民内部の矛盾の相 であり、党内において、マルクス・レー = ン主義による思想互関係などは、そのいちじるしいものであろう。それにもま 統一を達成し、党内全幹部のマルクス・レー = ン主義的自覚して、重要なことは、毛沢東が弁証法哲学を具体的実践のな をたかめることであった。」 ( 人民日報一九五〇・一・二九かに応用し、実践を通じて学び発展させるという観点を確立 させたことであろう。哲学の研究あるいは学習が一部の学者 ーー毛沢東同志の実践論を学べ ) の書斎から、労働者、農民、兵士の日常生活のなかにまでひ 歴史の新しい時代が必要とした任務にこたえるためのもの ではあったが、同時にそれは中国革命のそれまでの諸経験をろげられたこと、つまり弁証法の活学活用ということがおこ 総括したものであった。当時、中国共産党は、すでに十六年なわれるようになったことである。現在中国では、労働者、 におよぶ闘争を経、二回にわたる大革命 ( 一九二四ー二七年農民が何か生産上の困難にうちあたったときでも、ます毛沢 の北伐戦争と一九二七ー一 = 六年の土地革命戦争 ) を指導して東の「実践論」「矛盾論」をよみ、そこで展開されている理 論にもとづいてその困難な問題を分析し、解決の方法をみつ きたのであったが、その間には、さまざまな偏向も、誤りも あった。それらのすべての根源を哲学的に究明し、総括するけるという方法をとることが提唱され、相当普遍化してい ことなしには新しい時代の革命を指導することはできないのる。これが、毛沢東哲学の特徴の一つとされている弁証法の 活学活用であり、哲学の人民生活への浸透であるといえる。 であった。 毛沢東が「実践論」「矛盾論」で展開している唯物弁証法 哲学については、さまざまな評価が日本ではなされている。 評価がさまざまであるというのは、それだけ多くの階級、階 層を反映しているともいえる。しかし、マルクス・レーニン

8. 世界の大思想35 毛沢東

世界の大思想 昭和 46 年 5 月 15 日発行 昭和 46 年 5 月 5 日印刷 実践論・矛盾論他 毛沢東 35 01971 訳 発ノー 行者 者 製本所 印鼠所 印刷者 浅 安 中 草 川謙 藤彦太 島隆 刈龍 次 郎 之 平 中央精版印刷株式会社 中央精版印刷株式会社 発行所河出書房新社 東京都千代田区神田小川町 3 の 6 電話東京 ( 292 ) 大代表 3711 振替東京 10 2 乱丁・落丁本がありましたらおとりかえいたします

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160 (IOIZ) 一九三七年七月七日の蘆溝橋事変ののち、日本帝 国主義は、全中国を滅ばす方針をつらぬくため、侵略戦争をさら に拡大して、同年八月十三日、上海方面でも大規模な軍事的進攻 をおこした。これが、ここでいう上海戦争である。 ヾートラム 2 (ICI 頁 ) 毛沢東選集第二巻の「イギリスの記者 / との談話」注〔一〕を参照。 3 ( 一一三頁 ) 『孟子ー告子章句下」にみられる。その原文は「先 生の志は大なり。先生の説は不可なりーとなっている。 4 ( 一三 0 頁 ) 「抗日救国十大綱領」とは、抗日戦争勃発後の一九 三七年八月二十五日、洛川でひらかれた中国共産党中央政治局拡 大会議で採択された綱領である。これは、全面的抗戦の路線を貫 徹して、日本帝国主義に徹底的に勝利するための救国綱領であ る。この綱領の全文は、毛沢東選集第二巻の「すべての力を動員 して抗戦の勝利をかちとるためにたたかおう」にみられる。 5 ( 一三七頁 ) 毛沢東選集第一巻の「中国革命戦争の戦略間題」 注〔一一凸にみられる。 6 ( 一三七頁 ) 毛沢東選集第一巻の「中国革侖戦争の戦略間題」 注〔三 0 〕にみられる。 7 ( 一三七頁 ) 毛沢東選集第一巻の「中国革命戦争の戦略間題」 注〔三一〕にみられる。 8 ( 一三七頁 ) 毛沢東選集第一巻の「中国革命戦争の戦略問題」 注〔三一一〕にみられる。 9 ( 一一石頁 ) 毛沢東選集第一巻の「中国革侖戦争の戦略間題」 注〔三三〕にみられる。 訳注 ( 一三七頁 ) 毛沢東選集第一巻の「中国革命戦争の戦略間題」 注〔三四〕にみられる。 ( 一五四頁 ) 毛沢東選集第二巻の「すべての力を動員して抗戦 の勝利をかちとるためにたたかおう」注〔三〕にみられる。

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毛沢東 実足戈言侖矛盾言侖 人民民主主義イ虫裁について 中国社会各階級の分析 湖南省農民〕里重力のネ見察幸比告 手寺ク、 . 戦について 中国革命と中国共産党 新民主主義論 々巫安の文学・芸座言炎・会における言冓言舌 」里・合証攵 ) 奝について 当面の・情勢・とわれわれのイ壬務 . 農業協同イヒの問 : 題について 人民内音のオ - 盾を iE しくタ些理 - する問題について 中国も産党全国宣イ云活重力会言義での講言舌 浅川謙次・・安・藤彦太良に訳 世界の大思想 河出書房新社