たら、どちらに駆けつけるか ? 一一人が相反する奉仕を自分 たせてやることを遣贈する。もし万一、二人のうちいずれか に要求したならば、どちらを先にするか ? 一人に聞かせて が死んだならば、私は、生き残った方をその相続人と定め る。」この遺言状をはじめに見た人たちは、あざ笑った。けれためになることを、もう一人が黙っていてくれと言うならば、 ども、二人の相続人は、その知らせを聞くと、殊のほか満足これをあなたはいかに裁くか ? 唯一の最高の友情は、他の してそれを受諾した。そして、彼らのうちの一人力リクセノすべての義務を解消さ・せる。他人には決して洩らすまいと誓 スが、五日後に死んだので、相続権はアレテウスの方に舞い った秘密も、私は、誓いに背くことなしに、これを他人でな こんできた。彼はこの母をねんごろに養い、自分の財産とし い人、すなわち私と同じ人に伝えることができる。自分を一一 てもっていた五タレントのうち、二タレント半を自分の一人っにすることすら、すでに大きな奇蹟である。自分を三つに 娘に持参金として与え、二タレント半をエウダミダスの娘にするなどと言う人は、友情の高さを知らない人である。自分 持参金として与え、同じ日に二人の結婚式をあげてやった。 と同類のものをもっているものは、何ものも至上ではない。 この例はまったく中し分がないが、ただ一つの難点は、友だから、私が一一人の人をどちらも同じように愛し、この二人 が二人だったことである。なぜなら、私の言う完全な友情もたがいに愛しあい、また私が愛すると同じく私を愛するこ は、不可分なものだからである。各人は自分をそっくりそのとがありうるなどと想像する者は、最も単一なものを、この まま友人に与えるのであるから、自分のもとには、ほかに分世に一つの例を見いだすことさえ最も稀なものを、幾つにも 配すべき何ものも残らない。それどころか、彼の嘆きは、自分けようとする者である。 分が、一一倍、三剖、四倍でないことであり、自分が多くの霊 ( ) この物語の残りの部分は、さきに私の語ったことに、 魂と意志をもっていて、それらをことごとく、この一人に与きわめてよく合致する。なぜなら、エウダミダスは、二人の えることができないことである。世間一般の友情ならば、わ友人に対する恩恵と好意のしるしとして、二人を自分の必要 れわれはこれを分配することができる。われわれは、或る人のために使ってやるからである。彼は、二人の友に、この独 において美しさを愛し、他の人においては、その気質のやさ特の恩恵、すなわち一一人が自分に対して親切をつくす手段を 録 しさを、また他の人においては、気前のよさを、さらに他の彼らの手に委ねるというこの恩恵を、彼らに遣贈する。だか ら、いうまでもなく、友情の力は、アレテウスの行為のうち 人においては、慈父のような心づかいを、また他の人におい によりも、エウダミダスの行為のうちに、ずっと豊かにあら ては、兄弟のような思いやりを愛することができる。けれど も、霊魂を絶対的に占有し支配するこの友情は、これを二つわれている。要するに、これは、実際に味わったことのない にすることができない。 (o) もし二人が同時に救いを求め人には、とうてい考えられないことである。 (O) そういうわ
105 随想録 フランスの宮廷司祭ジャック・アミョは、或る日、わが国 る方がいいだろう。というのも、法律は、やりたいと思って も、何でもできるわけではないからである。そういうやりか の王子の一人 ( フ ーズ。。レー , 家の出躬 ) をたたえて ( このかたは たで、或る人は、法律をして二十四時間だけ眠るように命じその先祖こそ外国人であるが、きわめて由緒ある家柄であっ た。或る人はそのときだけ暦を一日すらした。また、或る人た ) 私にこういう話を聞かしてくれた。わが国におこった最 は六月を第二の五月となした。国法をまもるのにあれほど厳初の宗教戦争のさいちゅう、ルーアンの城を攻囲したときの 格であったラケダイモンの国民でさえ、同一人物を一一度提督ことであるが、この王子は、国王の母后から、自分の生命を に選ぶことを禁じる法律があったにもかかわらず、国家の非狙う企てがあることを知らされ、とりわけ母后の手紙によっ 常事態が、リュサンドロスをふたたびその任につけることをて、企ての張本人はアンジューかメーヌの一貴族で、かねて からその目的のために王子の邸につねに出入りしている者で 必要としたとき、なるほど一応アルコスを提督に選んだが、 リュサンドロスを海軍総司令官となした。また、同じようにあるということまでわかったが、この知らせのことは誰にも 巧妙な話であるが、ラケダイモンの使節の一人は、或る法律もらさなかった。けれども、その翌日、ルーアン砲撃の陣地 となっていた聖カトリーヌ山を ( ちょうどわれわれがルーア の変史の許可を得るためにアテナイへ遣わされたとき、ペリ ンを攻囲している時であったから ) 、前述の宮廷司祭と、も クレスが「ひとたび法令をしるした布告板は、これを取りは ずすことが禁じられている」と言ったのに対して、「それでう一人の司教を従えて巡視していたとき、たまたまさきの注 そのことは禁じられていない」と意人物の姿を見かけたので、これを呼びつけた。彼が御前に は、裏返しにすればいい。 勧告した。。フルタルコスがフイロポイメンをほめているの出ると、王子は、すでにこの男が良心の不安から蒼ざめ震え ているのを見ながら、こう言った。「何々殿、私が何のため も、彼が指揮するために生まれてきたような人であったが、 にあなたを呼びとめたかは、よくおわかりだろう。あなたの たんに法律にしたがって命令することを知っていたばかりで なく、国家の危急が必要とするときには、法律そのものに対顔にそれが出ている。何も私に隠すことはない。あなたのた くらみはずっと前から知っているのだから、隠そうとすれば しても命令することを知っていたからである。 かえってあなたの立場が悪くなるだけだ。あなたはこれこれ しかじかのこと ( それはこの陰謀の最も秘密な部分の一部始 第二十四章同じ意図からさまざまな結果が 終であった ) をよく知っているはずだ。命にかけてこの企て 生じること の真相を残らず白状するがいい。」この哀れな男は罪をのが れるすべのないことを悟り ( すべてが同志の一人によって母
2 引随想録 現代のどの国民よりも、めざめた精神とすこやかな理性をもの馬を売って、イタリアまで船でこれを連れ戻る費用を節約 っていると、もっともらしく自慢しているが、ついさきご した。また、彼はサルディニア総督時代にも、徒歩で国内を この「神のごときーと巡視した。お供には国家の役人を一人連れただけで、これに . ろ、アレチーノ ( 十六世紀のイタリア ) こ、 の諷刺作家、劇作家 いう尊称を与えた。なるほど巧妙ではあるが持ってまわった 自分の衣服と犠牲用の器を持たせた。そして、たいていのば 気まぐれな警句ばかりでふくらんだ、あのおおげさな言いまあい、自分で自分の行李をかついだ。彼の自慢は、決して十 わしを除けば、また、たといそれが何であるにせよ要するに エキュより高い値段の衣服を着たことがない、市場で一日に ただの雄弁にすぎないものを別とすれば、彼のうちに、同時十スー以上の買物をしたことがない、また田舎にある自分の 代の凡庸な作家の上に出る何ものかがあるとは、私には考え家には外側を漆喰で塗ったものがない、ということであっ られない。とうてい、古代の「神のごとき人」には、及ぶべた。スキビオ・アエミリアヌスは、二度の勝利と一一度の執政 くもない。われわれもまた、「大王」という尊称を、民衆的職ののちに、わずか七人の従者を連れただけで、使節として な偉大さの上に出る何ものももたない君主たちに、結びつけ旅に出た。伝えるところによると、ホメロスはただ一人しか ている。 従者をもたなかった。。フラトンは三人しかもたなかった。ス トア派の学頭ゼノンは一人ももたなかった。 ( ) ティベリウス・グラックスは、当時ローマ人たちのう 第五十一一章古代人の倹約について ちで最高の地位にあった人であるが、国家の使命で旅に出た とき、一日わすか五スー半しか支給されなかった。 ( ) アフリカにおけるローマ軍の将軍アッティリウス・レ グルスは、カルクゴ軍と戦って栄光と勝利のただなかにあり 第五十三章カエサルの一語について ながら、本国に手紙を送って、全部で七アルバンばかりの土 地の管理をまかせておいた作男が農具を奪って逃走したこと を訴え、妻子が困窮するといけないから帰国して面倒を見る (<) もしわれわれがときおり自分を考察することに意を川 ための休を得たいと願い出た。そこで、元老院は、別の男 いるならば、そして、他人を批判したり、われわれの外なる に彼の財産の管理をゆだね、盗まれたものを元どおりにして事物を認識したりすることに費やしている時間を、自分で自 やり、彼の妻子を国家の費用で扶養するように命じた。 分を探ることに用いるならば、われわれは、自分のこの組織 大カトーは執政官となってイスパニアから帰るとき、自分全体が、いかに弱く不完全な部分から成りたっているかを、
たまえ。或る人が、「あまり多くの人々から知られない学術 のためにどうしてそんなに苦労するのか ? 」ときかれて、 「私はわずかの人に知られれば十分だ。一人でも十分だ。い や、一人もいなくても十分だ」と答えた。彼の言うことは正 しい。君と、相手が一人あれば、芝居は十分だ。いや、君が (ß) 老いばれよ、お前はただ他人の耳をたのしませるため ルシウス、 にのみいそしむのか ? の一九 ) 君を相手にすれば、十分だ。観客は君一人、そして君一人が 観客なのだ。無為と隠遁から栄誉をひきだそうとするのは、 ( ) 彼らはただ、い っそうよく飛躍するためにのみ、後退卑劣な野心である。自分の洞穴の入口で足跡を消す獣たちの ようにしなければならない。世間が君たちについて何と言っ したのである。いっそう勢いよく、世間のただなかに飛びこ ているかは、もはや君たちのたずねるべきことではない。君・ むためであった。 / 彼らがいかに僅かなところで的を逸してい たちが君たち自身に向かってどう語るかを求めなければなら るかを、おめにかけようか ? まったく異なる学派に属する 二人の哲学者っ・ ~ ネ力を指の意見と対照してみよう。この一一ない。君たち自身のなかに引きこもりたまえ。けれども、君・ 人の著作家の一方は、友人イドメネウスに、他方は友人ルキたちはまず、そこに自分を迎えいれる用意をしなければなら ない。自分で自分を律することを知らないで、自分を自分に リウスに、政治や権勢にかかずらうのをやめて孤独の生活に はいることをすすめている。二人はこう言っている。『君たゆだねるのは、愚かなことであろう。孤独のなかでも、人々 といっしょにいるときのように、失敗することがありうる。 ちはいままで泳いで生きてきた。もう港にはいって死にたま びつこ え。一生の半分を光明にささげてきたのだから、その残りを自分のまえでは跛はひけないというような人間に君たち自身・ 影にささげたまえ。仕事の成果を棄てないかぎり、仕事から がなるまでは、また君たちが自分自身に羞恥と尊敬をもつよ うになるまでは、 ( o ) 〈徳の高い人々の姿を、汝の心にとど 離れることはできない。だから名声や栄誉への一切の心づか いから離れたまえ。過去の君たちの行為の輝きが君たちを照めよ。》 ( キ 、論集」一、一の一一己つねに、心のなかに、カトー らしすぎ、君たちの隠れ家までついていくおそれがある。他フォキオン、アリステイデスを思い浮かべたまえ。彼らの前 想 のもろもろの快楽とともに、他人の称賛からくる快楽をも棄へ出れば、馬鹿でさえ自分の過ちを隠そうとする。そして彼 てたまえ。君たちの学間や才能は、君たちにはどうでもいし らを、君たちのすべての意図の監督者としたまえ。君たちの 意図が正道をはずれても、君たちの彼らに対する畏敬の念 Ⅱことだ。もし君たち自身がそのためにいっそう価値あるもの になっているならば、それは無為ではないはずだ。思い出し が、それを元にもどしてくれるであろう。彼らは、この道の と、この二人は、腕と脚だけしか、世間のそとに置いていな 。彼らの霊魂、 / 彼らの意図は、、 しままでより以上に、世間 に縛られている。
だにおけるよりも、もっと大きな隔たりがあると私は思う。 ( ) また、アゲシラオス王は、老衰するまで、夏も冬も、 いかに多くの人々が、ことにトルコでは、信仰心から裸で同じ衣服を着とおした。スエトニウスの言うところによる 歩いていることだろうー と、カエサルはつねに陣頭に立って進んだが、たいていはは だしで、降っても照っても帽子をかぶらなかった。同様のこ ( ) わが国の乞食が真冬にもシャッ一枚でいるのに、耳ま てん ・、、、ノニ・ハルについても言われている。 で貂の毛皮にくるまっている人と同じように元気なのを見とカ / 、 て、誰か或る人が、乞食の一人に、どうしてそんな我慢ができ るのかとたずねたところ、乞食は答えた。「旦那さまだって、 そのとき、彼は、天をくつがえすほどの雨が、滝となって落 ちるのを、裸の頭に受けた。 顔はむきだしだ。私は全身が顔なのだ。」イタリア人たちは、 クス、一のコ五 3 ) たしかフィレンツェ公のお抱えであった道化について、こん な話をつたえている。主人が「そんな姿でどうしてお前は寒 ( ) 長いあいだ、ペグ王国にいて、最近帰ってきたばかり さを我慢できるのか ? 私でさえ我慢できないのに」とたずの或るヴ = ネッィア人が書いているように、そこでは、男も ねると、「私のやりかたをまねて、あなたも、私がそうして女も、体の他の部分はおおっているが、足はいつも、馬に乗 いるように、持っているだけの衣服をみんな着てごらんなさ るときでさえ、はだしである。 。そうすれば、私と同様、寒さにたえられるでしよう」と プラトンも、全身の康のために、足と頭には、自然が与 答えた。マッシ = ッサ王は、老齢にいたるまで、どんなに寒えてくれたもの以外の被いをつけてはならないというおどろ いときでも、嵐のときでも雨のときでも、帽子をかぶること くべき忠告を与えている。 をききいれなかった。 ( O ) 同様のことが、セヴェルス帝に ( ) ポーランド人たちが、彼らの国王としてわが国王のあ ついても言われている。 とに選んだ人 ( , . = テしは、事実、われわれの世紀の最も偉 ヘロドトスはこう言っている。「 h ジ。フト人とベルシア人大な君主の一人であるが、決して手袋をはめなかったし、冬 とのあいだの戦争のとき、私も他の人々も、そこに横たわっ でも、どんな天候のときでも、室内用の帽子をとりかえなか っこ 0 ていた戦死者の頭を見て、エジプト人の方がベルシア人より も、比較にならぬほど硬い頭をしているのを認めた。これ (-Q) 私がボタンをはすし、前をはだけて歩くことに耐えら は、ベルシア人が子供のときはいつも帽子をかぶり、大人にれないのと同様に、この近在の百姓たちは、ボタンをきちんと なるとター・ハンを巻くのに、 エジ。フト人は、子供のときから はめると、窮屈でたまらないらしい。ヴァロの考えるところ 頭を剃り、帽子をかぶらないからである。」 によると、われわれが神々や統治者の前で帽子を脱がなけれ
186 な都市の様子を見物させた。そのあとで、誰かがそれについ 進むことである。」「どれくらいの人数を率いていくのか ? 」 て彼らの意見を求め、彼らが何にいちばん感心したかを知ろとたすねると、彼は或る広さの場所を示した。つまり、その うとした。彼らは三つのことを答えた。そのうちの三番目を場所にはいれるくらいの人数を意味したのである。およそ 私は忘れてしまって、残念に思うが、二つはいまでも記憶し四、五千人くらいと思われた。「戦争がすむと、あなたの権 ている。彼らはこう言った。「まず第一に不思議だと思うの威はまったく消減するのか ? ーとたずねると、こう答えた。 は、王様のまわりにいる、髯をはやした、たくましい、武装「あとになっても残っている。自分が指揮した村々へ行くと、・ したおおぜいの大男たちが ( 彼らは近衛兵のスイス人たちの皆が自分のために森の茂みを切りひらいて、楽に通れるくら いの道をつくってくれる。」 ことを言ったものらしい ) 、一人の子供に甘んじて服従して これらのことは、、・ いること、どうして大男のあいだから、誰か一人を選んで王 しすれもそんなにいい加減な話ではな い。だって、彼らは股引などはいていないからだー 様にしないのかということである。第二に ( 彼らの言語で は、たがいに他人たちを自分の半分と呼ぶならわしがある ) 、 あなたがたのあいだにはあらゆる種類の安楽でいつばいにな 第三十一一章神的秩序を判断するにはひかえ っている人たちがいるかと思うと、その半分たちが、飢えと めにしなければならない 貧しさに痩せおとろえて、彼らの門前に物乞いをしているこ と、しかもこれらの窮迫した半分たちが、このような不正を 耐え忍んで、他の半分たちの喉をしめたりその家に火をつけ (d) 欺瞞の真の分野と問題は、不可知の事物である。とい たりしないことが、不思議である。」 うのも、第一に、不思議そのものが信用させるからである。 つぎに、そういう事物は、われわれの通常の判断には属しな 私彼らの一人と、きわめて長い時間、話をした。けれど も、私の通訳が私の言うことについて行けない男だったし、 いので、それらを反駁する手段をわれわれに許さないからで 愚か者で私の考えを受けとめることができない男だったのある。 (o) したがって、。フラトンはこう言っている。「人間 の本性について語るよりも、神々の本性について語る方が、 で、私は彼から面白い話をひきだすことがほとんどできなか はるかに人を承服させやすい。というのも、聞き手の無知 った。「あなたが同胞のあいだで占めている高い地位から、あ が、隠されたことがらを論じるのに都合のいい広い場所と、 なたはどんな特権を得ているか ? 」という私の問いに対して しゅうちょう ( 事実、彼は僧長だった。われわれの水夫たちは彼を王様とあらゆる自由を、与えてくれるからである。」 呼んでいた ) 、彼はこう答えた。「戦争のとき、先頭に立って ( ) そういうわけで、人の最も知らないことほど、かたく
きよう。彼はトラントに居て、公家の柱であり栄誉であった 長兄の死の知らせを受け、ついでまもなく、その第二の希望 第二章悲しみについて であった弟の死の知らせを受けたが、この二度の打撃を模範 的な忍耐で支えた。ところが、それから数日の後、臣下の一 人が死んだとき、彼はついにこの最後の出来事に負けた。彼 (=) 私は誰よりもこの感情を免れている者の一人である。 よこれに特別の好意を寄せてこの感情を尊敬すはそれまでの覚悟を忘れて、悲嘆の涙にくれた。この最後の ( ) 世間で。 るのが通り相場になっているが、私はこの感情を愛しもしな衝撃が最も強く彼の心にひびいたのであろうと推測した人も いし重んしもしない。世間の人々は知恵や徳や良心をこれであったくらいである。けれども実は、すでにそれまでに悲し 装っている。みつともない馬鹿げた飾りである。イタリア人みがいつばいになっていたからこそ、わずかの増加が忍耐の イタリア語の tristezza は と、う名を与堤を破ったのである。最初の物語にも ( 私の思うに ) 同様の は適切にもこれに邪念 ( 悲しみと邪念の二義をもっし えた。というのも、それはいかなるばあいにも有害な、気ち判断があてはまるかも知れない。ただし、そこには次のよう がいじみた性質だからである。ストア派は、この感情をつねな付言がある。カンビセスはプサメニトスに向かって、なぜ に卑怯で下劣なものとして、彼らの賢者にそれを禁じてい 娘や息子の不幸には動かされなかったのに、友人の不幸にか る。 くも耐えられなかったのかと問うた。すると、彼は答えた。 「この最後の悲しみだけはどうにか涙で現わされたが、最初 ところが ( ) こういう話がある。エジ。フト王プサメニト の二つはどんな表現の方法をもはるかに超えていたからだ」 スは、。ヘルシア王カンビセスに敗れて捕えられ、自分の娘が このことに関連して思い出されるのは、イフィゲネイアの 奴隷の服を着て水汲みにやらされるのを目の前に見たとき、 彼の友人たちはみんな王のまわりで泣き悲しんだのに、ひと 犠牲を描いたあの古代の画家 ( テ ンテス ) の創意であろう。彼は り彼のみはじっと地面を見つめたままひとことも洩らさなかその場面に居あわせた人々の悲しみを表現するのに、この無 った。その後、自分の息子が死に渡されるのを見たときにも、垢の美しい少女の死に対して、一人一人がいだいている関心 の度を考慮しなければならなかった。彼はいよいよこの少女 録同じ態度でこらえた。しかしその親友の一人が捕虜のあいだ 想に交って連れていかれるのを見たとき、王は悲嘆のあまり自の父を描く段になって、彼の技術の最後の手段も尽きたの ここ、こ 0 で、手で顔をおおっている父の姿を描いた。それは、い、 ンヤレレ・ド・ る容貌もこの悲しみを表現することができないということで このことは、ついさきごろわれわれの国の王子 ( 、 ギュイーズ。 一五二四 七目しの身の上に起こ「た出来事にくらべてみることがである。それと同し理由で、詩人たちは、さきに七人の息子を
202 (<) 感染は群衆のあいだではきわめて危険である。われわ 第三十九章孤独について れは悪人たちを、真似るか、憎むか、どちらかにしなければ ならない。けれども、悪人たちの方が多いからといって彼ら (d) 孤独な生活と、活動的な生活との、あの長たらしい比を真似ることも、彼らがわれわれに似ていないからとい 0 て 較は、しばらくやめにしよう。また、野心と貪欲が偽装のた彼らを憎むことも、二つながら危険である。 めに用いることば、「われわれは、自分一人のために生まれ (O) だから、航海に出る商人たちが、無の徒、漬神のと たのでなく、公衆のために生まれたのだ」ということばに関もがら、邪悪な連中と、同じ船に乗らないように用心するの は、もっともなことである。商人たちはそういう仲間を不連 しては、思いきって、現に活躍している人たちの判断にゆだ ねよう。反対に、身分、官職、世間のあの苦労は、公衆からのもとだと考えるからである。 だから、ビアスは、いっしょに乗りあわせて大嵐の危険に 自分一身の利益をひきだすためにのみ、求められているので 。われわれの遭い、神々の救いを呼び求めた人たちに向かって、冗談にこ はないか、彼らは良心的に反省してみるがいし う言った。「黙っていてくれ。お前たちが私といっしょにし 時代に、人が立身のために用いている悪い手段からみると、 ることを、神々に気づかれないように。」 その目的もたいして価値のあるものではないことがわかる。 もっと急迫した例としては、ポルトガル王マヌエルの名代 野心に向かっては、「われわれに孤独の好みを与えてくれる のは、ほかでもない野心そのものだ」と答えてやりたい。事としてインドの総督であったアルブケルケは、海難で最後の 実、社交ほど、野心が避けるものがあるだろうか ? 勝手気危険に瀕したとき、一人の少年を肩に負 0 た。こうして二人 が運命を共にするならば、少年の純潔が神的な恩恵に対する ままほど、野心が求めるものがあるだろうか ? 善をなし悪 をなす機会はいたるところにある。けれども「悪い部分は最保証として、とりなしとして役立ち、自分の生命が助かるか もしれない、ということがその唯一の目的であった。 大の部分である」というビアスのことばが真であるならば、 あるいは『伝道の書』が言うように「千人のうち善人は一人 (<) とはいえ、賢者は、どこにいても満足して生きていけ もいない」ということばが真であるならば、 ないわけではない。まして、宮廷の俗衆たちのあいだにあっ て、ひとりで生きていけないわけではない。けれども、もし (=) 善人はきわめて稀である。テーバイの城門の数、ナイ選ぶことがゆるされるならば、ビアスの一『〔うように、彼は俗 ュヴェナリス、 ) 衆に会うことすら避けるであろう。必要とあれば、その境遇 ルの河口の数にも満たない。
自分で変えることのできない考えは、悪い考えである。 第一章われわれの行為の不定について プリウ ス・シルス (d) もろもろの人間的行為を検討することにたずさわる人人間を判断するのにその人の生涯の最も普通の行為を もとにすることには、若干の理由がある。けれども、われわ たちは、それらの行為を継ぎあわせて、これを同じ光のもと れの気分や意見がもともと不定なのであるから、すぐれた著 に見ようとするときほど、困惑を感じることはない。なぜな ら、それらの行為は、通常、驚くほど矛盾しており、とうて者たちまでが人間について恒常的で不変な性格をうちたてよ うとして懸命になっているのは、私から見ると、しばしばま い同じ店から出たものとは思えないほどであるからである。 小マリウスは、ときにはマルスの息子となり、ときにはヴェちがっているように思われた。彼らは、或る普遍的な姿を選 ヌスの息子となった。教皇ポ = フアチウス八世は、狐のようび、この像にもとづいて一人の人間のすべての行為を整理 し、解釈していく。そして、それらの行為の脈絡を十分につ にその職につき、獅子のようにふるまい、犬のように死んだ という。また、ネロは、型どおりに或る罪人の死刑判決文にけることができないと、これをその人の隠し立てのせいにす る。アウグスッスは彼らの理解からのがれた。この人の行為 署名することを求められたとき、「ああ、字を書くことなど は、一生を通じて、その変化があまりに明白で、急激で、不 知らなければよかった」と答えて、一人の男を死刑にするこ とにかくも心を痛めたが、このネ口が、あの残忍そのものの断なので、最も大胆な判断者にとっても、つかまえどころが 標本ともいうべきネロと、同一人だなどとは誰が信じよう ? なく、何から何まで、未決定のままにとどまった。私にとっ こういう例はいたるところに充満している。それどころか、 ては、人間の恒常性を信じることほど難しいことはないし、 誰でもこういう例をいくらでも自分自身に対して提示するこ人間の不定性を信じることほど容易なことはない。人間の行 第二巻 とができる。だから、私は、分別ある人がときどきこれらの 断片を一つに継ぎあわせようと苦心しているのを見ると、私 は不思議な感じがする。というのも、われわれの本性の最も 普通の、明らかな欠陥は、不定ということだからである。そ の証拠には、笑劇作者プ・フリウスの有名な句にこんなのがあ る。
廾吏イタリアのリリウス・グレゴリウス・ジラルドウス、ドイツ ら抜き出させ、そのまま二人をしつかりと相抱かせた。リ 1 のセ・ハスティアヌス・カステリオが、食べるものも満足にな は二人の首をいっしょにはね、この気高く永久に結びあった い状態で死んだということを聞いて、われわれの時代をたい 二つの身体が、二つの傷口を合わせて、たがいに愛をこめて 血と生命の残りを吸いあうままにさせた。 へん恥ずかしいと思う。だが、人々がそのことを知っていた ならば、彼らをきわめて有利な条件で招いた人々が (o) あ るいは少なくとも彼らの窮状を救った人々が (<) たくさん 第三十五章わが国の政治の一つの欠陥につ いたはずだと思う。世のなかはそれほど一般的に堕落しては 。というのも、或る人などは、先祖から受けついだ財 。し 3 / 。し 産を、運命のおかげで自分がそれを享受しているかぎり、何 らかの才能に秀でている稀有の人物で、不幸のどん底におち (<) 亡くなった父は、ただ経験と天性にめぐまれて、きわ いっている人たちを貧窮から救い出すのに、用いたいと熱望 めてはっきりした判断力をもっていたが、かって私に、こん しており、また、少なくとも、良識を欠いている人でないか なことがおこなわれたらいいと思う、と語ったことがある。 ぎり満足してくれるであろうような待遇を、彼らに与えてや 方々の都市に、或る場所を定めておき、何か要求のある人た りたいと熱望しているからである。 ちはそこへ出かけていって、係の役人に自分の用件を書きと きらようめん めてもらう。たとえば、 ( ) 「真珠を売りたし」「真珠の売物 (0) 家政上のことでは、私の父は儿帳面であった。私は感 というのも、公証人の手 心するが、とても真似はできない。 を求む」 (< ) 「何某、パリ行きの同行者を求む」「何某、こ を要しないこまごました勘定、支払、取引を記入する家計簿 れこれの能力ある召使を求む」「何某、奉公したし」「何某、 があって、その記録を一人の会計係が受け持っていたが、そ 職人を求む」というぐあいに、皆がそれそれの要求に応じて 書きとめてもらう。たしかに、 こうしてたがいに知らせあうのほかに、召使の一人で書記の役をしていた男に、一冊の日 記帳をあずけ、何か目立った事件があると忘れずに記入させ 方法ができれば、それは公共の交際に少なからぬ便益をもた らすことだろうと思われる。なぜなら、いつでも、たがいにまた毎日毎日、家のなかの出来事の覚えをつけさせた。それ は、時がたって、記憶がそろそろ消えかかるころに読むと面 求めあう条件がたくさんあるのに、たがいに知りあうことが っ終った 白いもので、「これこれの仕事がいっ始まって、い できないために、人々はきわめて不如意な状態に置かれてい か ? どんな一行がここに泊ったか ? 何日滞在したか ? るからである。 私は、学識の点できわめてすぐれた二人の人物、すなわちわれわれの旅行、甯守、結婚、死亡、よい知らせ、悪い知ら