必要 - みる会図書館


検索対象: 世界の大思想4 モンテーニュ 随想録<エセー><上>
129件見つかりました。

1. 世界の大思想4 モンテーニュ 随想録<エセー><上>

104 ければならない。 演じる役ではない。 (=) だから、暴力によって侵入してくる革新の勢力に抵抗 コッタは適切にもこう言っている。 ^ 宗教上のことに関し ては、私はティッス・コルンカ = ウス、。フプリウス・スキ。ヒするときに、何でもかでも手綱にしがみつき、戦場の鍵を握 っている敵に対して規則を固守することは、相手が自分たち オ、。フブリウス・スカエヴォラなど最高の司教たちに従う。 の計画をおし進めるためには何をしてもいいと考え、自分た ゼノン、クレアンテス、クリュシッポスに従うのではない。〉 ちの利益を追求するよりほかには法も秩序もない連中である ( 本い三の二 ) だけに、危険な義務であり、不利である。 (o) 信義のない (=) われわれの現在の争いのうちには、廃棄したり改変し 者を信頼するのは、害をなす手段を彼に与えることである。〉 たりしなければならない重大深刻な間題がたくさんあるが、 セネカ『オイディ ) (=) というのも、健康状態にある国家の日 双方の理山と根拠を確実に認識したと自負しうる者が、はた プス』三の六八六 ごろの訓練は、そういう非常の出来事には備えていないから して幾人いるたろうか。神さまだけがご存しである。たしか である。この訓練は、全体がその主要な部分や機能において にそれは数であるが、われわれを動かすたけの力をもっ数で 一つに結ばれていること、国民がこぞって国法とそれへの服 はない。けれども、他のすべての大衆はどこへ行くのか。い かなる旗じるしのもとに、大衆は遠ざかって行くのか。彼ら従に同意していることを、前提とするものである。 (O) 合 の薬から生じる結果は、適用を誤った利きめのない薬から生法的な歩みは、冷静で、重々しく、抑えられた歩みであり、 これは放縦で無軌道な歩みに抵抗するには適していない。 じる結果と同じである。この薬は、それによって清めようと ( ) ご存しのように、二人の偉大な人物オクタヴィウスと したわれわれの体液を、紛争によってかえって熱くし、かき 立て、激しくさせた。それにしても、この薬はわれわれの体力トーは、一方はシルラの内乱、他方はカエサルの内乱のと 内に残っている。この薬は利きめがないのでわれわれを清めきに、国法を儀牲にしてまで祖国を救うことをせず、国法に 何らかの変更を加えることもせず、祖国を窮地におとしいれ ることができず、かえってわれわれを弱くした。いまでは、 われわれにはこの薬を体内から排泄する力もない。われわれたことで、いまでも非難されている。実のところ、もはやじ がこの薬の作用から得たものは、長くつづく内臓の痛みでし っと耐えるよりほかにない土壇場においては、頭をさげて、 、刀 / し 少しばかり叩かれてもだまっている方が、能力もかえりみす じゅう に、何一つ譲るまいと頑張って、かえって何もかも暴力の蹂 (<) それにしても、運命は依然としてわれわれの理性のう りん えに権威を保ち、・ときとして、あまりに緊急な必要をわれわ躙にまかせることになるよりも、おそらくいっそう賢明なや りかたであろう。法律には、法律にできることだけをやらせ れにおしつけるので、法律もこの必要にいくらか席を譲らな

2. 世界の大思想4 モンテーニュ 随想録<エセー><上>

みだされると、わけもなく萎びてしまう。想像のためにひとを証拠にこの器官を断罪しようとするのに対して、もしこの たびこの恥辱をなめさせられた者は ( そういう目に遭うの器官が私に弁護を頼んでくるようなことがあるならば、おそ は、最初の交わりのときだけである。というのも、最初の交らく私は、その仲間である他の諸器官に嫌疑をかけるであろ わりは、いつもより沸き立ち、激しいものであるし、最初のう。他の諸器官は、この器官の機能の重要さと快さを羨むあ 契りにおいて人は失敗を最も恐れるからである ) 、最初がま まり、偽証をならべて訴訟を起こし、彼ら一味に共通する過 ずかっただけに、この出来事を気に病んでくよくよし、それ失を意地悪くもこの器官ひとりに負わせ、この器官に敵対し が後々までも尾をひく。 て全世界を武装させようと陰謀をたくらんだのではあるまい (o) 結婚した者よ、、 。しつでも時間は自由なのだから、用意 か。なぜなら、考えても見るがいし 、われわれの身体の諸器 のできていないときこ、、 冫しとなみを急いだり、ためしたりし官のうちで、われわれの意志に対してしばしば自己の活動を てはならない。むしろ、だらしのない話だが、興奮と情熱に 拒まないようなもの、しばしばわれわれの意志に反して自己 あふれた初夜の交わりはやめて、もっとうちとけて落ちつい の活動をおこなわないようなものが、ただの一つでもあるた た後日の楽しみを待っ方がいい 。最初の拒絶に驚き絶望し ろうか。それらの器官はおのおの固有の情念をもっており、 て、永久の悲惨におちいるより、ずっとましである。そうい われわれの許可なしにそれらの情念を目ざめさせたり眠らせ う心配のある人は、相手をわがものにする前に、何度もちょ たりする。いかにしばしば、われわれの顔の不本意な動き ばくろ 、ちょい手を出して、ためしに当たってみなければならな は、われわれの秘密にしている思いを暴露し、居あわせる人 い。いきなり凱歌をあげようと思って、むきになったり、ね人の前でわれわれを裏切ることであろう。この器官を興奮さ ばったりしてはならない。自分の器官が生まれつき穏やかな せるのと同じ原因が、われわれの知らぬまに、心臓や肺臓や たちであることをわきまえている人は、ただ自分の想像力を脈搏を興奮させる。快適なものを見ると、われわれのうち うまく逆用するように心がけさえすればいい。 いつのまにか、熱い感動の炎がひろがる。われわれの意一 志の承諾はもとよりわれわれの思考の承諾もなしに、起きた 人々がこの器官のままならぬ自発性を指摘するのも無理は この器官は、別に必要のないときに、いやにうるさく り寝たりするのは、たんにこれらの筋肉や血管だけであろう 出しやばるくせに、何より必要なときに、折あしく萎縮すか。われわれは、欲望あるいは恐怖によって自分の髪が逆立 る。また、独断でいかにも傲然とわれわれの意志に刃向か ったり、自分の皮膚が震えたりするのを、抑えることができ 、まったく尊大に頑強に、われわれの心や手の勧告をしり よ、。手はしばしばわれわれが動かそうとしない方向に動 ぞける。それにしても、人がこの器官の反抗を非難し、それ く。いざというときに、舌は凍結し、声は凝固する。揚げる

3. 世界の大思想4 モンテーニュ 随想録<エセー><上>

別 3 随想録 っているいっそう穏やかでいっそう控えめな警句をさえも避をつけ普通の顔つきのままで、彼らの技術から引き出されう けた。けれども、すぐれた批評家で、これらの古人たちに、 るあらゆる楽しみをわれわれに味わわせてくれるのを見た。 そういうものが欠けていたと思う者は一人もない。また、カそれほどの高い技能に達しない駈け出しの者たちは、われわ ツルスの諷刺詩のむらのない上品さ、つねに変わらぬ優美さ、 れを笑わせるのに、顔をまっ白に塗ったり、仮装をしたり、 花咲くばかりの美しさの方を、マルティアリスがその諷刺詩奇妙な動きやしかめ面をしてみせたりしなければならない。 の末尾に付したすべての辛辣さよりも、比較にならぬほど高私のこの考えは、他のいかなるばあいにおけるよりも、『ア く称賛しない者は一人もない。私がさきに言ったのも、同じエネイス』と「怒れるオルランド』との比較において、いっ 理由からである。マルティアリス自身、自分についてこう言そうよく認められる。前者は、翼を張って、高く、しつかり っている。《彼はたいして努力する必要がなかった。 , 冫 彼こおと、めざす目標へ向かって飛びつづけるが、後者は自分の翼 に自信がなくわすかの距離しか飛べないので、枝から枝へ移 いては題材が精神の代わりをした。》ル序文リ ' ) さきに あげた詩人たちは、興奮したり得意になったりせすに、十分るように、物語から物語へと飛び移り、息と力がっきること に自己を表現している。彼らはいたるところに笑いの種をもを恐れて、いたるところで翼を休める。 っているから、自分をくすぐる必要がない。あとの詩人たち ヴェルギリウス『田 彼のこころみる飛翔は短い。 は、外からの助力を必要とする。彼らには精神が欠けている 園詩」四の一九四 だけ、それだけ身体が必要なのである。 (=) 自分の脚だけ では十分に強くないから、彼らは馬に乗る。 (<) ちょうど、 以上がこの種のことがらに関して、私の最も好きな著者た われわれの舞踏会において、舞踏を教えるのを業としているちである。 卑しい身分の男たちが、われわれ貴族の上品な態度を真似る 私のもう一つの読書、楽しみのうえに若干の果実を添える ことができないので、危ない跳躍やそのほか奇妙な軽業まが読書、そこから私が自分の気分や性格を整えることを学ぶ読 いの運動で、人目を引こうとするようなものである。 (=) 書、つまりその点で私に役立っ読書といえば、フランス語に訳 婦人たちのばあいにも、さまざまな身ぶりをしたり、身体をされて以来のプルタル「ス ( 徳第集」は一五七一に刊行された 動かしたりする舞踏の方が、ただ自然の足どりで歩み、飾らそれにセネ力である。この二つは、いすれも、ことに私の気 ぬ姿態とその平常の優雅さを示すだけでいい或る種の儀式的質に適したものをもっている。というのも、私の求める学間 舞踏よりも、自分たちの様子を見せるのにずっと都合がい が、そこでは、ばらばらな断片として論じられているので、 、 0 (<) 同様に、私は、すぐれた喜劇役者が、平常の衣服私にとって不得手な長い勉強を課せられなくてすむ。たとえ

4. 世界の大思想4 モンテーニュ 随想録<エセー><上>

263 随想録 つねづね考えてきた。私の言うことを信じてもらえるなら、 前者はその堀から、後者はその泥から発散するすえた匂いに よって、変質させる。 食前にも、食後にも、起きるときも、寝るときも、そのほか 祈りの文句をまじえるならわしになっているあらゆる個々の 行為にも、キリスト教徒として唱えるべき祈りは、「主の祈 第五十六章祈りについて り」であってほしいと思う。 ( o ) それだけ、というのでは ないが、少なくとも、つねにそれであってほしい。 ( ) 教 会はわれわれの教育の必要に応じて、祈りを拡張したり多様 (<) 私はここに、まとまりもなく決着もっかないさまざま にしたりすることができる。なぜなら、私も十分承知してい な考えを提出する。ちょうど、学校で、討侖 さるべき疑わし るが、祈りはつねに同じ本質のものであるからである。けれ し問題を発表する人々に似ている。真理を確立するためでな 真理を探求するためである。私はそれらの考えを、私のども、この「主の祈り」には、「つねに人々が唱えるもの」 という特権が与えられてしかるべきである。なぜなら、たし 行動や著作ばかりでなく私の思想をも律することを役目とし かに、主の祈りは、必要なことをすべて言いつくしており、 ている人たちの判断に供する。この人たちの非難も同意も、 いかなる機会にもきわめてふさわしいものだからである。 私にとっては、同じように適切であり有益である。 ( ) とい ( o ) この祈りは、私がどこにいても唱える唯一のものであ うのも、私が無知か不注意のために言ったことが、使徒的ロ る。私はそれを変えることなしに、それをくりかえす。 ーマ的なカトリック教会、すなわち私がそのなかで生まれか したがって、私がこれくらいよく覚えている祈りはほかに っ死ぬはずのカトリック教会の、神聖なおきてに反するよう キよ、 0 なことにでもなろうものなら、それこそ忌まわしいことだか ( ) 私はいまこんなことを心のなかで考えていた。「われ らである。 ( ) それにしても、私は、私のうえに絶対的な われが、われわれのすべての意図、すべての企てにおいて、 力をもっこの人たちの譴責の権威に服従することによって、 いったいどこから来るのか ? あらゆる間題に、手さぐりでぶつかっていこうと思う。たと神に頼ろうとするこの誤りは、 (=) あらゆる種類の要求において、われわれの弱さが助カ えばこんなぐあいに。 私の思いちがいかもしれないが、或る形式の祈りが、神さを必要とするところではどこでも、動機が正しいか正しくな いかもかえりみすに、神を呼び求めようとするこの誤りは、 まの特別の恩恵によって、神の口から一語一語われわれに命 ぜられ教えられたのであるから、われわれはいまよりももっ いったいどこから来るのか ? われわれがどんな状態にあろ うと、どんな行為をしていようと、しかもそれがどんな邪魔 とそれを日常の祈りとして役立てなければならない、

5. 世界の大思想4 モンテーニュ 随想録<エセー><上>

365 解説 には、三巻にわたる厖大にして精妙をきわめた彼の記述の の目を、その末端にいたるまでくぐり抜け、たぐり寄せつ つ、要素ともなるものをつかみ取ってきて、その腑分けをし ながら、読者は自分で、彼の人となりについて、また彼の 想なり、その生き方などについて、再構成してみる必要があ る。それは何もモンテーニュ学者になるためにのみそうする・ のではなく、彼の書物から何ものかをつかみ取ってゆくため にも、『随想録』の読書は、そこまで辿りつかなければなら、 ないのである。しかしそれはなかなか容易なことではない。 モンテー = = くらいその全作品の中で自己を語「ている人そこで読者がそうした本質的な読み方をするその手助けをす る意味で、彼が『随想録』の中で決してしなかったこと、つ は少ない。われわれはその「随想録』の中で、彼の人とな まり彼の外面の生涯の記述、それと、彼とは一心同体である、 、嗜好、感情、思想、そのほか彼の生き方に関する、あら 『随想録』の、これも外面的な、その執筆の順序と次第、こ ゆるものを読みとることができる。なぜなら彼は自己をその の二つの凡その輪郭を知って貰っておくことは、全く無意味 書物の題材にしているからである。しかし、これはよく言わ なことではあるまい。 れるように、自己の伝記を書くつもりでそうした記述をした のではない。彼の最終の目的は、与えられた自己をもっとも ひんじゅ 高い意味で稟受することにあったのだから、そういう稟受を 、、シェル・ド・モンテーニュは一五三三年二月二十八日、 十全に果たすためには、まずもって己れを知ることが必要で 父。ヒエール・エイクエムと、母アントワネットとのあいだの・ あり、己れを知るためには、内外の自己を、精神という精密第三子として、エイクエム家の貴族領モンテーニ、の館に生 まれた。 な裏ごしにかけて吟味し、試してみることが必要であった。 彼の書物はそうした吟味の跡を誌したもの、否、これも、彼 一五三三年といえば、フランソワ一世の即位後十八年、ル・ 自身言っているように、書くことが吟味そのものであったの ネッサンスの光輝がアルプスの山を越えてようやくフランス である。彼の書物はそういう意味での記述であるから、年代に射し初めたころである。その光明を讃えるフランソワ・ラ を追ってのいわゆる伝記的記述である筈はなく、従ってそこ ・フレーの『ガルガンチュワ ・パンタグリュエル物』が世に から、モンテーニ = の人乃至は思想をつかみとってゆくため現われ初めたのは、正にミシェルの生まれ出るその前の年で 解説 モンテーニュの生涯 佐藤輝夫

6. 世界の大思想4 モンテーニュ 随想録<エセー><上>

182 で、彼らは古来のやりかたを棄てて、このやりかたを真似し外用にせよ、あらゆる種類の用途にこれを役立ててはばから はじめた。私はそのような行為のうちに恐るべき野蛮のある ない。けれども、裏切り、不信、圧制、残酷など、われわれ をしまだ ことを認めて、それを悲しむのではない。むしろ私は、われの日常の罪悪を許すような、それほど放埓な意見よ、、 かって存在しなかった。 われが彼らの罪を裁いて、自分たちの罪にかくも盲目である したがって、われわれは、理性の基準にてらして、彼らを ことを悲しむ。私は、死んだ人間を食うよりも、生きた人間 を食う方がはるかに野蛮だと思う。まだ十分に感覚をもって野蛮と呼ぶことがでぎるにしても、われわれ自身にくらべて せめく いる身体を拷問や責苦によって引き裂いたり、徐々に火あぶ彼らを野蛮と呼ぶことはできない。われわれの方が、あらゆ る種類の野蛮において、彼らを超えている。彼らの戦争は、 りにしたり、犬や豚に噛み殺させたりする方が ( われわれは まったく高貴であり、高邁であり、それだけに、この人間的 そういうことを書物で読んだだけでなく、この目で見て、な な病いがもちうるかぎりの弁解と美点をもっている。彼らの まなましい記憶をもっている。しかも、昔からの敵のあいだ あいだでは、戦争は、熱烈な勇気というただ一つの根拠をし でなく、隣人や同じ市民のあいだでおこなわれているのを、 いっそう悪いことには、敬虔と宗教を口実としておこなわれ かもっていない。彼らは新しい領土の征服のために戦うので ているのを見た ) 、死んだあとで、あぶったり食ったりする はない。なぜなら、彼らは、働いたり苦労したりしないで よりも、はるかに野蛮だと思う。 も、必要なものをすべて授けてくれる自然的な富を享受して ストア派の学頭クリュシッポスとゼノンは、われわれの必おり、その境界をひろげる必要もないほど豊かだからであ 要のためには、人間の死骸をどんなことに用いてもかまわな る。彼らはいまなお、自然的な必要が命じるだけしか欲求し 、食糧にしてもかまわない、と考えた。われわれの祖先ないというこの幸福な状態にある。それ以上のものは、すべ も、アレシアにおいてカエサルに攻囲されたとき、老人や、 て、彼らにとって余計なのである。彼らは一般に、同じ年齢 女や、戦闘に役立たないその他の人間の屍体によって、籠城の人たちをたがいに兄弟と呼び、年下の者たちを子供と呼 の飢えをしのごうと決心した。 ぶ。また老人たちはすべての人々の父である。この父は、そ の共通の相続人たちに、この財産を分割しないでそっくりそ のまま残す。自然が被造物をこの世に生みだしたときに与え (=) ガスコーニュ人は、このような食糧を役立てて生命を ュヴナリス つないだといわれている。 たただの権リ、 不をそのまま残すだけである。彼らの隣国人が 一五の九三 山を越えて攻めてきて、彼らを負かしたとしても、勝利者の (d) 医者たちも、われわれの健康のために、内用にせよ、 獲物は名誉だけであり、勇気と徳において自分の方が上だと

7. 世界の大思想4 モンテーニュ 随想録<エセー><上>

の材料と種子を提供するだけである。それを、運命よりも有多くの思想のうちから、なぜ各人は自分の気質に最も適する 力なわれわれの霊魂が、好きなように曲げたり用いたりす思想を、自分に当てがわないのか。病気を根絶するために、 る。自分の状態を幸福にもし不幸にもする唯一の支配的な原強い下剤を飲むことができないなら、せめてそれを和らげる 因は、われわれの霊魂である。 ために鎮痛剤でも飲むがいい 。 ( ) 『快楽においても苦痛に (=) 外から付け加わるものは、内的な組織から味と色を受おいても、女々しい浅はかな考えがわれわれを支配してい る。われわれの霊魂がそういう考えによって柔弱にされ、と けとる。たとえば、衣服がわれわれを暖めるのは、衣服の熱 によるのでなく、われわれ自身の熱によるのであって、衣服ろけさせられると、われわれは蜂に刺されたくらいで叫び声 をあげないではいられない。すべては自制を知ることにあ はこの熱をおおい保っためのものである。もしそれで冷たい 冫し力に苦痛の激しさと ものを包むならば、それは同様にその冷たさを保つ役目をする』 ( キ 、論集』二の一三 ) 要するこ、、、 るだろう。雪や氷はこうして保存される。 人間的な弱さを極言してみても、われわれは哲学からのがれ るわけにいかない。なぜなら、哲学はせつばつまると、こう (<) 実際、怠け者には勉強が苦痛となり、酒飲みには禁酒 いう負けることを知らない返答をもちだしてくるからであ が苦痛となるのと同様に、贅沢者には粗食が刑罰であり、虚 ネセシテ 弱でのらくらしている男には、労働が拷問である。その他のる。「窮迫のうちに生きることはたしかに不幸ではあるが、 ネセシテ ものについても、同じことである。事物は、それ自体として少なくとも窮迫のうちに生きることは、決して必然ではな は、それほど苦痛でも困難でもない。むしろ、われわれの弱 ( ) 何びとも、自分のせいでないかぎり、長いあいだ不幸 さと無気力が事物をそうさせるのである。偉大で高尚なもの であることはない。 を判断するには、同じような霊魂が必要である。そうでない 死をも生をも耐えしのぶ勇気のない人、抵抗しようとも逃 と、われわれは自分のものである欠点をそれになすりつけ る。まっすぐな櫂も、水中では曲って見える。たんに事物をげようともしない人、そういう人にはどうしてやったらいい 見るだけでなく、事物をいかに見るかということが大事なのだろうか。 録である。 想ところで、死を蔑視し、苦痛に耐えることをいろいろと人 随間に教えてくれるあれほど多くの説があるのに、・ とうしてわ れわれはそのなかから自分のためになるものを見いだそうと しないのか。また、他の人にそのことを納得させたあれほど ネセシテ

8. 世界の大思想4 モンテーニュ 随想録<エセー><上>

である。また、その人の主要な特質であってはならない特質 によって、褒めることもそうである。たとえば、国王を、す狩猟が上手だとか、舞踏が上手だなどということは、国王の ぐれた画家、すぐれた建築家、さらに火繩銃の名手、騎馬輪本分ではない。 投げの名人などと言って褒めるのがそれである。これらの称 賛は、それが、彼にふさわしいその他の称賛、たとえば平和 或る者は、訴訟で弁論をふるうがいい。他の者は、コンバス のときにも戦争のときにも国民を指導するのに公正であり賢 で、天体と輝く星の運行をしるすがいいたが、彼は、人民を 治めることを知らなければならない。 明であるというような称賛といっしょにして、そのあとから ネイス」六の八四九 ) 並べられるのでなければ、少しも名誉にはならない。そのよ うにしてこそ、キュロスにとっては農耕が、シャルルマーニ ( ) プルタルコスは、さらに、こう言っている。「あまり必 ュにとっては雄弁と文学の素養が、名誉になるのである。 要でない部門においてすぐれた才を発揮することは、もっと (o) これは極端な例だが、私は現代において、書くことで必要で有益なことがらについやすべき閑服と勉強を用いそこ 名声と地位を得ている或る人々が、自分の修業を否定し、わなったという証拠を、心ならずも示すことになる。」だから、 ざとペンをくすし、きわめて通俗的な手法にも無知であるか マケドニア王フィリッポスは、息子のアレクサンドロス大王 のように装っているのを見たことがある。そのために、人々 が、宴会の席で、すぐれた楽人たちに負けないほどに歌うの から、この無知は学識ある人のものとしては珍しいことだとを聞いて、「お前は、そんなにうまく歌って、恥すかしいと 思われており、彼もほかのもっとすぐれた特質によって自分思わないか ? 」と言った。また、同じフィリッポスに対し をあらわそうとしているのである。 て、音楽のことで国王と論争した或る楽人は、「陛下、どう (= ) デモステネスのお供をしてフィリッポスのもとへ使し か、あなたがこのことについて私よりも理解がふかいという た人たちが、このフィリッポス王の美貌と、雄弁と、酒の強ような不幸なことになりませんように」と言った。 いことを褒めたところ、デモステネスは言った。「そういう (g) 国王たる者は、あのイフィクラテスのように答えるこ 録称賛は、国王よりも、むしろ女と、弁護士と、海綿にふさわとができなければならない。彼は或る弁論家が「お前はたい そう威張っているが、いったい何者だ ? 兵士か ? 射手 随 か ? 槍兵か ? 」と言って食ってかかってきたのに対して、 抵抗する敵には、征服者として、降参した敵には、寛大な人こう答えた。「私はそのいずれでもない。私はそれらすべて として、命令するがいい に命令することを知っている者だ。」

9. 世界の大思想4 モンテーニュ 随想録<エセー><上>

には全く似つかわしくない気質があった。というのも、国王名を知られた或る人物のことについて、さる高貴なかたから ともなれば、火急の大事を決裁するときには、便器をそのま次のような話を聞かされ、私は不快に思った。彼は年老いる ま玉座とすることぐらいは平気だからである。ところが彼までそのかたの宮廷に仕えていたが、死にのぞんで、結石の は、最も身近な侍者にさえ、自分が便所にいるところを見さ はげしい痛みに苦しみながら、自分の埋葬の儀式をどうする せなかった。彼は隠れて小便をした。彼はあたかも処女のよ かということにいろいろ気をつかって、その最後のすべての・ うに慎しく、それこそ医者にも誰にも、人がふつう隠してい 時間をついやした。彼は自分を見舞って下さった高貴のかた るあの箇所を見られまいとした。 (=) こんな露骨なことをがたから、一々葬儀に参列していただく約東を求めた。いま かちゅう 言う私だって、やはり生まれつきこの羞恥心をもっている。 わのきわに見舞って下さったその宮様に対しても、ご家中こ 必要あるいは欲求によるやむをえないばあいのほかは、われそって参列していただくように懇願し、多くの先例や理山を われの習慣が隠しておくように命じている器官や行為を、人あげて、それが自分ほどの者には当然なされてもいいはすだ まえに見せることはしない。私は、男としては、特に私のよう ということを示した。やっとその約東を得て、自分の思いど な職業の人間としては、不似合いなほど、この点で窮屈な思 おりに葬儀の手はずを命しおわると、彼は満足げにいきを引 もをしているのである。だが、マクシミリアンのばあいは、 きとった。こんなに執念ぶかい虚栄は、めったに例がない。 ( ) いささか迷信じみていた。彼はその遺言書の明文によ これと反対の心づかいも、私の身うちにやはりその例があ って、自分の死後はさる股をはかしてくれるように命じた。 るが、同じようなものである。世にも稀な吝嗇さで葬式を極 . それなら遣言付属書で、それをはかせる者は目かくしをする度に切りつめ、それを供人一人、提灯一つだけに限ろうとす こと、と付け加える必要があったろう。 (o) キ「一口スはそる心づかいがそれである。この気質をほめる人もある。マル の子供たちに、「私の霊魂が身体を離れた後は、お前たちに クス・エミリウス・レビドウスの遣一言などはその一つであろ せよ、その他の誰にせよ、私の身体にさわったり、それを見う。彼はその後継者たちに、世間でそういうばあいにするよ たりしてはならぬ」と命じた。それは一種の宗教的な感情か うな儀式を、自分のためにしてくれるなと言い残した。だが、 われわれに感知されない出費と満足を避けることが、質素倹・ 録らであ「たと私は思う。なぜなら、彼の伝記作者のし 想も、彼自身も、彼らの偉大な本性のなかで、わけても宗教に約というものだろうか ? そんな改革なら、容易だし、少し 随対する特殊な関心と尊敬を、彼らの全生涯にわたって示しても負担にならない。 (o) 葬式の指図をする必要があるとき いるからである。 にも、私は、人生の他のすべての行事におけると同様に、斉 私の親類の者で、平和においても戦争においても相当その人が自己の身分に応したことをすれ・ま、 ( ℃しと思う。哲学者リ

10. 世界の大思想4 モンテーニュ 随想録<エセー><上>

ウスがマケドニアから帰ってきて彼らのために催した宴会の など、いろいろ差異があること、たんに食欲をよろこばせる ための方法とか、これを呼びさまし刺激するための方法など料理の秩序と配置を見て、おおいに褒めたたえた。けれど があることを、彼は一々かそえあげた。ソースの調製法につも、私はここでは行為について語っているのではない。私は ことばについて語っているのである。 いては、まず総論からはじめて、ついで各論に入り、原料の 特徴とその効果など。四季おりおりのサラダの差異について ほかの人たちも、私と同じ経験があるかどうか知らない は、温ためて出すもの、冷たくして出すもの、見た眼にも美 ・、、私はわが国の建築家たちが、透柱、軒縁、軒蛇腹、コリ ント式、ドリア式、そのほかこれに類するものものしい専門 しく飾る方法など。それがすんで、食事を出す順序にはいっ たが、そこにも立派で重要な考察がたくさんあった。 語を得意になって連発するのをきいていると、すぐにアポリ ドン宮殿を想像せずにはいられない。ところが実際は、わが (=) 兎と雛鳥の切りかたを区別するのは、決して些細なこ家の台所の扉のつまらない部分のことを、彼らは話している ュヴェナリス のである。 ン J で ( 一は、 0 五の一二三 (=) 換喩、隠喩、直喩、そのほかこれに類する文法上の名 (d) それらのすべては、豊かな重々しいことばで、いつば称が人のロにのぼるのを聞くと、何か珍しい変わ「た表現形 式のことかと思う。ところが、これはあなたの小間使のおし いにふくれあがっていた、一国の政治を論じるばあいに用い ゃべりにも出てくるものを指した名称なのである。 られることばさえ出てきた。私はわがテレンテイウスを思い (<) わが国の官職が、ローマのそれにくらべて、職務上で 出した。 は何らの類似もないのに、また権成や権限においても劣って いるのに、それをローマ人のものものしい名称で呼ぶのは、 これは塩かききすぎている。これは焦げすぎている。これは つもこの加減を忘れやはり同じような詐欺である。また、私の考えでは、後日、 味わいがない。こんどはよくできた。い るな。こうして私は、ない知恵をしば 0 て、できるかぎり彼われわれの時代の驚くべき愚劣さの証拠になるのではないか らに教えてやる。最後に、デメアよ、皿は鏡のように光らせと思うが、古代の人々が数世紀を通じてわすか一人か二人と ておくがいい。私は必要なことをすべて彼らに教えてやる。 いう大人物にしか与えなかった最も光輝ある尊称を、われわ ~ , ご三の三の七 l) れは、不当にも、誰彼かまわすに用いている。。フラトンは、 普遍的な同意によって「神のごとき」という尊称を得たのだ から、誰もこれをねたむ者はなかった。イタリア人たちは、 それにしても、ギリシア人たちでさえ、。ハウルス・ア工、、