であった。 ( ) しかるに、われわれの世紀にいたって、一 テ・ ) は、「世界は永遠にわたるものであるが、幾たびもの弯 つの島あるいは一つの地域などではなく、われわれの知って遷によって死んだり生まれかわったりする」と考え、ソロモ いる部分とほとんど同じくらい広い部分として、果てしなく ンとイザヤを証人に呼ぶ。それは、「神はかっては被造物を 広大な大陸が、さきごろ発見されたばかりである。現代の地もたない創造者であり、無為であったが、この世界の創造に 理学者たちは、「いまや、すべてが発見され、すべてが見と手をつけたためにその無為を取り消した。したがって神は変 どけられる」と断言してはばからない。 化をまぬがれない」という反対論を避けるためである。ギリ 。フラト ) では、こう考えら シアの学派のうち最も有名な学派 ( ン学派 なぜなら、われわれは手近にあるものをよろこび、それを何れている。「世界は一つの神であるが、この神はいっそう偉 よりも好ましく思うからである。 ) 大なもう一つの神によってつくられたものであり、一つの身 体と一つの霊魂から成る。この霊魂は、その身体の中心に宿 り、音階の比率にしたがって、その周辺にひろがるものであ たしかに、プトレマイオスが、その昔、彼の理性を根拠と して間違ったのならば、いま、私がこれらの地理学者たちのり、神的で、きわめて福、きわめて偉大、きわめて賢明であ り、永遠である。世界のなかには、他の神々、大地、海、も 言うところを信じるのは愚かではないだろうか ? ( o ) わ れわれが世界と呼んでいるこの大きな物体も、われわれが判ろもろの天体があり、それらは、調和にみちた恒常的な動き・ と神的な舞踏によって、ときには出会い、ときには離れ、隠 断するのとはまったく別ものであるということの方が、し れたり、現われたり、列を変えて前になったり、後になった そう真実らしいのではないだろうか ? 。フラトンはこう考える。「世界はあらゆる方向に姿を変えりしながら、たがいに支えあっている。」へラクレイトスは る。天と星と太陽は、ときとして、われわれがそこに見る運こう考えた。「世界は火からっくられている。運命の命令に . しつかふたたび生まれかわ よって、いっか燃えて火となり、、 動を逆転させ、東と西を取りかえることがある。」エジプト の祭司たちはヘロドトスに向かってこう言った。「われわれらなければならない。」アプレイウスは、人間についてこう の初代の王以来、すでに一万一千年になるが ( 祭司たちは歴言う。《個別的にいえば死すべきもの、総体としては永続す 代の王の生きていたときに作られた肖像をへロドトスに見せ 。アウグステ→ヌ 4 神 ) アレクサンドロスは、その母 るもの》 ( の エジプトの一祭司が彼らの記念碑から引き出した話を書 ながら ) 、太陽は四度その道を変えた。海と陸はたがいに入に、 き送ったが、それはこの国の無限の古さを立証するととも れかわった。世界の誕生は未定である。」アリストテレスと
るとも、似ていないとも考えた。 (<) われわれは、この世 (d) また、すべての種は、いくつかの数に多様化されるか らである。したがって、神がこの作品だけを、同類のものな界のなかにおいてさえ、ただ場所が隔っているというだけ しに、つくったということは、真実らしくないように思われで、無限の差異や変化があるのを知っている。われわれの父 たちが発見したあの新大陸には、麦も、葡萄酒も、わが国の るし、この形態の材料が、この個体だけにことごとく使いは 動物のどれ一つも、見られない。そこではすべてが異なって たされたということも、真実らしくないように思われる。 いる。 ( ) また、過去の時代においても 葡萄酒 ) 、くッ「ス ( を指す やケレスを知らなか 0 た国が世界中にどれほどあっ (=) それゆえ、私はくりかえして言うが、アイテルがしつ ( ) プリニウスやヘロドトスの かりと抱いているこのわれわれの世界に類似する材料の別のたかを考えてみるがいい 言うところを信じるならば、或る地方には、われわれのとは 集合がほかにいくつもあることを、みとめなければならな レクレテイウス、 ) 似ても似つかぬ人種がいるという。 二の一〇六四 (=) 人類と動物とのあいだにも、雑種で曖昧な形のものが この世界が、その運動からしても十分に信じ いくつもある。或る地方では、人間が頭をもたず、眼やロを られるように、生けるものであるならば、なおさらのこと胸につけて生まれてくる。或る地方では、すべての人間が男 である。 (o) 。フラトンもそれを確信しているし、われわれ女両性である。或る地方では、人間が四つ足で歩く。或る地 ひたい の時代の多くの人たちも、それを確認し、あるいはあえてそ方では、額に一つの眼をもつだけで、われわれのよりもむし れを否定しようとしない。「天や、星や、その他の世界の部ろ犬に似た頭をもつ人間がいる。或る地方では、下半身が魚 分は、身体と霊魂とから成る被造物であり、その構成の点かで、水中に棲な人間がいる。或る地方では、女は五歳で分娩 らみれば死すべきものであるが、創造者の決意によ 0 て不死し、八歳までしか生きない。或る地方では、頭や、額の皮 である」というこの古代の意見も、やはり真実らしくないよ があまりに硬いので、刃物も傷つけることができないで、か ひげ うに思われる。 ( ) ところで、デモクリトスや、エ。ヒクロ えって刃がなまってしまう。或る地方では、男に髯が生えな スや、ほとんどすべての哲学が考えたように、多数の世界が 。 (o) 火の使用も知識ももたない民族があるし、黒い精 あるならば、われわれは、この世界の原理や法則が、同じよ液をもらす民族がある。 うに他のもろもろの世界にも妥当するかどうかを、どうして (=) 何だって ? ひとりでに狼に変り、牝馬に変り、つい 知りえよう ? それらの世界は、おそらく、別の姿、別の統でまた人間にもどる者もあるって ? (<) 。フルタル「スの 治をもつであろう。 ( ) ェビクロスは、それらを、似てい 言うところによると、インドの或る地方には、ロのない人間 ( ) ことに、
440 たものに比して、何ほどでもなかった。 ) というのも、新世界 証拠になるだろうか ? 宗教に対する熱心さの証拠になるだ つ、つ : か 0 , ・ いうまでもなく、それはこの神聖な目的とはあまでは貨幣の使用がまったく知られていなかったからである。 したがって、彼らの黄金は、全部一箇所に集められて、陳列と りにも異なる反対のやりかたである。もし彼らがわれわれの 信仰をひろめることを目的としていたのならば、信仰がひろ展示より以外には用いられなかった。それは有力な王たちに まるのは、土地を所有することによってでなく、人心を獲得よって子々孫々に伝えられる家宝のようなものであった。王 たちは、鉱山をたえず掘らせて、彼らの王宮や神殿をかざる することによってであるということを、彼らは考えたはずで ための大きな器や彫像を作らせるだけであった。これに反し ある。そして、戦争の必然がもたらす殺戮だけで十分すぎる くらい満足したはずである。それ以上に、まるで野獣に対すて、われわれの黄金は、すべて貨幣になり、商売に用いられ るようこ、Ⅱ 冫と火の及ぶかぎりをつくして、無差別に、皆殺る。われわれは黄金を小さく切り分け、いろいろな形に鋳造 しにしなくてもよかったはずである。彼らは、ことさら、鉱し、これを流布させ、分散させる。われわれの国王たちが、 山で労働に従事させるために、悲惨な奴隷にしようと思った何世紀にもわたって手に入れた黄金をすべて山と積んで、そ 人数だけしか、残しておかなかった。その結果、これらの隊れを動かさずに保存しているさまを想像してみるがいい ーリヤ王 メキシコ王国の人々は、新世界の他の国民にくらべると、 長たちの多くは、彼らの征服した土地で、カスティ いくらか文明化され、技術的に進んでいた。それゆえ、彼ら たちの命令によって、死刑に処せられた。国王たちが、皆か は、われわれと同様に、宇宙は終末に近づいたと判断し、わ ら忌み嫌われたこれらの隊長たちの恐るべき行為に憤慨した のは、当然である。神もまた、当然の罰として、これらの莫れわれが彼らにもたらした荒廃をその前兆と解した。彼らは こう信じていた。世界の存在は五つの時代に、すなわち相次 大な掠奪品が輸送の途中で海に呑まれ、あるいは仲間喧嘩で ぐ五つの太陽の生命に、分かれる。そのなかの四つはすでに それらが散り散りになるのを見すごした。また、彼らの大部 その時代を終えた。いま自分たちを照らしているのは、第五 分は、その勝利の果実を得ることなく、現地で葬られた。 フィリツ。フ の太陽である。第一の太陽は、全世界にわたる大洪水のため ) の手中に この利得は、倹約で思慮ぶかい君主 ( 二世を指す に、他のすべての被造物とともに減亡した。第二の太陽は、 おいても、人々がその先祖たちにかけていた期待にほとんど 答えることができなかった。また人々が新世界への上陸にお天がわれわれのうえに落下してきて、すべての生物を窒息さ いて出会った最初の豊富な富に対しても、この利得はほとんせたときに滅亡した。彼らはこの時代に巨人がいたと考え、 ど答えることができなかった。 ( 事実、人々は新世界からずイスパ = ア人たちにその骸骨を示したが、その割合から推定 すると、人間の身長が一一十ポームの高さになる。第三の太陽 いぶんたくさんのものを持ち帰ったが、それは期待されてい
なものと見るのは、愚かな傲慢であろう。したがって、われが永遠であるということより以外には、何らの区別ももたな われよりもすぐれた何ものかがある。それが神である。」「豪 。ところで、持続は、知恵にとって、何ら増大ではない。 奢で壮麗な邸宅を見るとき、その主人公が誰であるかを知らそういうわけだから、神とわれわれは同類である。」 (=) なくても、まさかあなたは、それが鼠どものためにつくられ「われわれは、生命、理性、自由をもち、善、愛、正義を重 ているとは言うまい。天の宮殿のこの神的な構造を見て、わんじる。それゆえ、これらの性質は、神のうちにある。」要 れわれは、これはわれわれよりももっと偉いかたの住居であするに、神性を建てるにせよ破壊するにせよ、神性の諸条件 ると、思わないでいられようか ? 最も高いところにいる者は、人間によって、自己になそらえて、つくりあげられる。 が、つねに最も尊いのでないだろうか ? われわれは低いと何という雛型、何という原型であ . ろう ! 人間的な諸性質 ころに置かれている。」「何ものも、霊魂と理性をもたずにを、好きなだけ、ひきのばそう、高めよう、拡大しよう。あ は、理性能力のある生きものを生むことはできない。世界はわれな人間よ、自分をふくらませよ、もっと、もっと、もっ われわれを生んた。それゆえ、世界は霊魂と理性をもつ。」 「われわれの各部分は、われわれよりも小さい。われわれは 世界の一部である。それゆえ、世界は知恵と理性をそなえて お前が張り裂けるほどになっても、やつばり駄目だ、と彼は 言う。 ( 」一一の三の三一八 いる。われわれよりもいっそう豊富にそなえている。」「大き な支配をもっことは、すばらしいことである。それゆえ、世 ( 0 ) 《たしかに、人間は、自分には考えることができない 界の支配は、何らか幸福な存在に属している。」「星はわれわ はずの神を考えているつもりで、実は自分を考えている。人 れに害を及・ほさない。それゆえ、星は善に満ちている。」 (=) 間は、神を見るのでなく、ただ自分をしか見ない。人間は神 「われわれは食物を必要とする。それゆえ、神々もまた食物 を、自分にくらべているのであって、神にくらべているので を必要とし、下界から立ちのぼる水蒸気を糧としている。」 はよい。》 ( アウグステ→スス したがっ (o) 「現世的な幸福は、神にとって幸福ではない。 (=) 自然的な事物においては、結果は半分しかその原因を て、それはわれわれにとって幸福ではない。」「害すること 示していない。では、この原因は何であるか ? この原因は も、害されることも、ともに弱さの証拠である。それゆえ、 神を恐れることは、愚かである。」「神はその本性によって善自然の秩序を超えている。この原因の状態は、あまりに高 である。人間はその努力によって善である。この方がいっそく、あまりに遠く、あまりに偉大で、われわれの結論はとう うすぐれている。」「神的な知恵と、人間的な知恵とは、前者ていそれを結びそれを縛ることができない。それはわれわれ
5 随想録 はずだ。」われわれは、時間をかぞえるのに、年よりほかに 。むしろその反対である。身体と霊魂は、そこに学問の意 かそえかたをもたない。何世紀も前から、世界はそれを用い 見が混ぜあわされると、この世界を使用する権利を邪魔し、 てきた。けれども、一年の長さについては、われわれはまだ変質させる。決定すること、知ることは、与えることと同 決定し終ったわけではない。他の諸国民がそれそれ一年にど様、支配者、主権者に属する。享受すること、受けいれるこ んな形を与えてきたか、それについての慣例はどんなものでとは、劣等者、服従者、学習者に属する。われわれの習慣の あったか、われわれは毎日それを疑問にしているありさまで話に戻ろう。 (=) 彼らは、事実のうえを通りすぎるが、そ ある。なかには、こんなことを言う人もある。「天体は年老のくせ、その結果を丹念にしらべる。彼らは通常、こんなふ いるにつれて、われわれの方へ向かって収縮してくる。そし うに始める。「いかにして、これがあるか ? 」ーーむしろ「こ て、時間や日についてさえわれわれを不確実のなかへ投けこれはあるか ? 」と言うべきであろう。われわれの理性はこの む。」また、月については、。フルタルコスの言うところによ世界の何百という世界を造りあげ、その原理と構造を見いだ ると、まだ彼の時代には、天文学は月の運行を規定することすことができる。われわれの理性にとっては、材料もいらな ができなかった。そういうわけで、われわれは過去の事物を いし、土台もいらない。理性を走るにまかせてみるがいい 記録するのに都合のいい状態にある。 理性は、充実のうえにと同様、空虚のうえにも、有からと同 私は、しばしばそうすることがあるが、いまも、人間的理様、無からも、立派に建物をたてる。 性は何と自由で漠然とした道具であろうかということについ て、反省していた。私が通常見うけるように、人間は、事実 煙にも重さを与えることができる。 ( 五一一〇 に直面すると、その真理を求めるよりも、むしろその理由を 求めることに熱中しがちである。人間は事物をそっちのけに 私はー まとんどいたるところでこう言わなければならないだろ して、原因を論じることに興味をもつ。 (o) 滑稽な原因狂うと思う。「そんなはずはない。」私はしばしばこの返答を用 である。原因の認識は、事物を支配する者にのみ属すること いたい。けれども、なかなかそうは言えない。なぜなら、人 であり、事物を受けいれるだけしか能のないわれわれ人間に 人は「それは精神の弱さと無知から生じる逃げ口上だ」とわ 属することではない。われわれは、事物の根原や本質にまで めき立てるからである。そういうわけで、私はいつも、私が 入りこまなくても、われわれの本性にしたがって、完全に事まったく信じてもいないくだらない主題や話を、皆といっし 物を使用することができる。葡萄酒にしても、それの最初の ょになって論じるような芸当をしてみせなければならない。 特質を知ったからといって、いっそううまくなるわけではなそればかりでなく、実をいうと、事実として提出されたこと
435 随想録 思うに、この世界においては、すべてが新しく、すべては最 しば偶然によって典型的で重大なものとなる個々の出来事に 近のものである。それは生まれてまだ幾らもたっていない。 ついてばかりでなく、偉大な国家や国民の状態についてさえ そういうわけで、今日でもなお、いろいろな技術が進歩し向 も、われわれの知識に到達していることの百倍ものことが、 上している。航海術に多くの新しい装備が加えられたのも、 われわれの知識からのがれている。われわれはわれわれの レクレテイウス われわれの時代になってからである。 五の三三〇 大砲やわれわれの印刷術の発明を、奇蹟だなどと叫んでいた が、別の人間たちは、世界の他方の端にあるシナにおいて、 われわれの世界は、ついさきごろ、いま一つの世界を発見 千年も前からそれを利用していた。もしわれわれが、われわした。 ( これが世界の兄弟たちの最後の者であるかどうか、 れの見ていない部分をもふくめて世界を見ることができるな 誰がわれわれに断言しえよう ? というのも、神霊たちも、 らば、おそらく、われわれは、もろもろの形態の不断の増加 巫女たちも、われわれも、いままでこの世界を知らなかった および変化を、みとめることができるにちがいない。自然に からである。 ) それは、われわれの世界と同様に、大きく、 とっては、唯一のもの、稀有なるものは、一つもない。それ充実していて、四肢もそろ 0 ているが、あまりに新しく、あ は、われわれの認識にとってあるだけである。しかもこの認 まりに子供なので、いまだに O を教わっている。つい五 識が、われわれの規則の哀れな根拠であり、えてして事物の十年前まで、この世界は、文字も、重さも、尺度も、衣服 きわめて誤った姿をわれわれに示す。ちょうど、われわれ も、麦も、葡萄も知らなかった。それはまだ裸のまま膝のう が、今日、われわれ自身の弱さと衰退から引き出す論拠によ えにいて、その乳母の与えるものだけで生きていた。もしわ って、この世界の傾斜と衰退とを、むなしく結論するような れわれがわれわれの終末を結論し、この詩人が彼の生きた世 ものである。 紀の若さを結論するならば、この新世界は、われわれの世界 が光のなかから出ていくときに、やっと光のなかにはいって それ以来、かくもわれわれの年齢は弱まり、大地も弱まってくるであろう。宇宙は半身不随におちいるであろう。一方の レクレテイウス、 二の一一三六 ) 手足はきかなくなり、他方の手足は逞しくなるであろう。 われわれは、われわれの伝染によって、この新世界の衰退 と破減をおおいに早めることになりはしないか、われわれは 同様に、この詩人は、その時代の人々の精神が、さまざまな 技術の新奇と創意に満ち、逞しさに溢れているのを見て、世この新世界にわれわれの思想やわれわれの技術をあまりに高 価に売りつけることになりはしないか、私はたいへん心配で 界の誕生と若さをむなしく結論した。 ある。それは一つの幼い世界であった。けれども、われわれ
ら、その権威に心から服従しようとする人々に対しては、私んでもないことである。さらにまた、この巨大な建築のなか からほかに何の証拠も持ちだす必要はないであろう。けれどで、自分だけがその美しさと部分部分をみとめる能力をも も、あの連中は、自分自身の犠牲で鞭うたれることを欲するち、自分だけがこの建築主に感謝することができ、この世界 の収支決算をすることができると思いあがっているが、その 連中であり、自分たちの理性が、理性そのものによってしか ような特権をいったい誰から授かったのか ? そんな立派な 打倒されてはならないと思っている連中である。 偉大な役目の免許状があるならば、見せてもらいたい。 (o) かかる免許状はただ賢者に対してのみ与えられた特典 なのか ? それならば、一般の人々には関係がない。それと それゆえ、さしあたり、われわれはただの人間を考察する よこし ことにしよう。外からの助けもなく、ただ自分の武器だけでも、愚か者や邪まな者までが、かかる異常な特典に値いする 武装した人間、自己の名誉、自己のカ、自己の存在根拠としのか ? 彼らは、世界の最も悪い部分でありながら、その他 のすべてのものにまして重んじられるに値いするのか ? ての、恩寵をも、神的認識をもまったくもたないただの人間 われわれは、こういう人のことばを信じていいだろうか ? を考察することにしよう。彼がこの立派な装備のなかに、ど れほどの堅固さをも 0 ているかを見よう。彼は、他の被造物《それでは、誰のために世界はつくられたと言うべきであろ いうまでもなく、理性を用いる生きもののためであ のうえにもっていると自負するあの偉大な優越性を、いかな る。神々と人間こそそのような生きものであり、これはたし る基礎のうえに築いたのか、自分の理性のカでそれを説明し かにすべての存在のなかで最も完全な存在である。》 ( 第 てもらいたいものである。大空のあの驚くべき運行、彼の頭 の羅宀 ) われわれはこの組みあわせの厚かましさをいくらあ 上をかくも悠然と回転する燃える天体の永遠の光、あのはて しない大海の恐ろしい運動、それらは人間の幸福とその奉仕ざ笑っても足りないであろう。 (<) けれども、哀れな人間は、そういう優越を受けるに値 のために造られたものであり、またそのために幾世紀にもわ いするものを、自己のうちにもっているだろうか ? もろも たって持続しているなどと、 いったい誰が彼に思いこませた のか ? このみじめでみす・ほらしい被造物が、自分自身の主ろの天体の不朽の生命、それらの美しさ、それらの偉大さ、 かく規則正しいそれらの不断の運行を考えるならば、 人にさえもなれず、あらゆる事物の侮辱にさらされているの に、みずから宇宙の主人と称し、帝王と称することほど、笑 うべきことが考えられるだろうか ? 宇宙の最も小さい部分 われわれが頭上はるかに巨大な宇宙の大空と、そこにちりば められた輝く星くすを仰ぎみるとき、われわれが月と太陽の を知ることすらできないのに、これを支配するなどとは、と
ケロとディオドロスは、当時、こう言っている。「カルデアそれに加えて女色が禁じられていた。或るところでは、われ 人は四十万年もの記録を残している。」アリストテレス、。フわれの十字架がさまざまなしかたで重んじられていた。十字・ リ = ウス、その他の人々は言う。「ゾロアスタ 1 はプラトン架を墓のしるしにしていたところもあるし、また、特に聖ア ンドレ型の十字架が、夜の幻影から身をまもるために、ある の時代よりも六千年前に生きていた。」。フラトンは言う。「サ いは魔よけとして子供の枕もとに置くために、用いられてい イス市の人々は八千年にわたる記録文書をもっており、アテ たところもある。別のところでは、丈の高い木製の十字架が ナイ市は、このサイス市よりも千年前に建てられた。」 (-a) 立てられていて、雨の神として崇められていた。しかもそれ エピクロスは言う。「事物はここに、われわれの見るとおり はずっと奥地にいたるまで見られた。そこには、われわれの にあると同時に、他の多くの世界においても、まったく同じ ちょうもん であり、同じ様子をしている。」もし彼が、西インドという聴聞司祭によく似た者も見いだされた。祭司たちは冠を使用・ この新しい世界と、われわれの世界とが、現在も過去も、かく し、独身をまもっていた。彼らは犠牲にした動物の内臓によ も奇妙なさまざまの実例において類似し一致しているのを見つて占う術をもっていた。 (o) 彼らは食事にあらゆる種類 たならば、彼はいっそう確信をもってそう言ったであろう。 の肉や魚を絶っていた。 ( ) 祭式のとき、世俗的でない特・ (o) 実をいうと、この地上の社会の経過についてわれわれ殊な言語を用いる祭司たちの習慣があった。また、こういう・ の知りえたことを考察しながら、私は、場所と時間のきわめ考えもあった。「最初の神は、弟にあたる第二の神によって て大きな隔りにもかかわらず、奇怪な俗説や、野蛮な風俗や追い出された。人間たちは創造されたときにはあらゆる幸福・ 信仰のかずかずが、とうていわれわれの自然的理性にかかわをもっていたが、罪をおかしたためにあとでそれを取り上げ りがありそうに思われないのに、たがいに符合するのを見られ、土地を変えられ、自然的状態を悪くさせられた。かっ て、しばしば驚いた。人間的精神は、奇蹟をつくる名人であて人間たちは天の水による洪水に浸されたが、わすかの家族 - るが、この類似には、何かしらそれ以上に異様なものがあ だけが助かって、山の高い洞窟に逃げこんだ。彼らは水がは る。かかる類似は、名前にも、出来事にも、その他いろいろ いらないように洞窟のロをふさぎ、そのなかに多くの種類の 録なものに見いだされる。 (=) 実際、そこには、われわれの動物とともに閉じこもった。やがて、もう雨がやんだと思っ て、まず大を出してやった。すると、大は汚れずに濡れて帰 想ことなど聞いたこともないはずの諸民族がいるのであるが、 ってきた。彼らはまだ水がほとんど引かないものと判断し 随彼らのあいだで割礼がおこなわれていた。或るところでは、 た。その後、別の大を出してやると、今度は泥まみれになっ 男なしに、女だけで維持されている大きな国や社会があっ て帰ってきたので、彼らはふたたび植民するために地上に川 た。或るところでは、われわれの断食や謝肉がおこなわれ、
は、太陽にも、月にも、星にも、霊魂にも、神性を与えた。 万物の光、世界の眼。もし神が眼をもっているならば、太陽ビュタゴラスは、神を、万物の本性を通してひろがっている こそはその輝かしい眼である。それはすべてのものに生侖を 一つの精神となし、われわれの霊魂はそこから下落してきた 与え、われわれを支え、われわれを守る。そしてこの世にお ものであると考えた。パルメニデスは、光の熱によって天を ける人間的な行為を見まもる。この美しく偉大な太陽は、そ とりまき、世界を維持している一つの輪と考えた。エンペド の十二宮を経めぐるにつれて、われわれに四季をもたらし、 クレスは、万物を構成している四元素を神であると言った。 その周知の徳で宇巒を満たし、一を投げるだけで、雲を散 。フロタゴラスは、神々が存在するかしないか、神々がい力な らす。世界の精神、世界の霊魂として、焔と燃えながら、一 るものであるかは、何とも言えないと言った。デモクリトス 日にして天をくまなくかけめぐる。測り知れぬ大きさをも ち、まるく、動きながら安定しており、その下にはるかに全は、ときにはもろもろの天体とその円運動が神であると言っ 世界を見おろし、休息なき休息のうちにやすらい、無為にし たり、ときにはこれらの天体を生みだすこの自然が、ついで てとどまることがない。自然の長男にして、毎日の父。 われわれの知識と叡知が、神であると言ったりした。プラト ロンサール『フランス 国民に対する忠告」 ンは、自分の考えをさまざまな形で分散させるが、『ティマ イオス』では、世界の父は名づけられないと言い、『法律』 太陽の偉大さと美しさは別としても、これはわれわれから では、その存在を詮議してはならないと言い この同じ書物 最も遠くに見いだされる天体であり、したがって最も知られ の他のところでは、世界、天、大地、われわれの霊魂を神た ていないものであるから、彼らがこれを讃美し崇拝するにい らしめている。さらに彼は、おのおのの国家において昔から たったのも、許されていいことである。 の習慣によって受けいれられている神々を認めている。クセ ( ) タレスは、そういう問題を探求した最初の人である ノフォンのったえるところによれば、ソクラテスの学説にも : 、神は水で万物をつくった精霊であると考えた。アナクシ 同じような混乱があり、ときには、神の形を詮索してはなら マンドロスは、神々は季節の変るたびに生まれたり死んだり ないと言ったり、ときには、太陽が神であるとか、われわれ するものであり、それは数において無限な世界であると考え の霊魂が神であると言ったり、神は一つしか存在しないと言 た。アナクシメネスは、空気が神であり、それは無数に生みったり、多くの神々があると言ったりしている。プラトンの だされるもの、たえず動いているものであると考えた。アナ甥にあたるスペウシッポスは、事物を支配する或る種の力を クサゴラスは、はじめて、万物の配置や状態が無限な精神の神となし、それは生けるものであると言っている。アリスト 力と理性とによって導 ていると考えた。アルク テレスは、とき一には、 よ純悧神 あると一一一口い、ときには、
436 は、われわれの価値や自然的な力によって、この世界を鞭う う。事実、彼らを征服した人々ア ) から、彼らを欺 ちもしなかったし、この世界をわれわれの規律に服従させも くために用いた詭計や策略を取り除いてみるがいい。 言語も、宗教も、容貌も、態度も異なる髯もじゃの人間たち しなかった。われわれは、われわれの正義と善意によって、 が、あまりに遠いので人間が住んでいようとも思えなかった この世界の心を惹きつけもしなかったし、われわれの雅量に よってこの世界を屈服させもしなかった。彼らの返答や、彼世界の或る場所から、見知らぬ大きな怪物に乗って、馬など らとの交渉の大部分は、彼らが自然的な精神の明晰さにおい というものを見たことがないばかりでなく、人間や荷物を運 ぶように仕込まれた動物を見たこともない人々のところへ、 ても、適切さにおいても、決してわれわれに遅れをとるもの 思いがけずやってくるのを見たときの、新世界の国民の当然 ではないことを示している。クスコやメキシコの都市が驚く ばかり壮麗であること、そのほか同様のことがらのなかで の驚きを考えてみるがいい 一方はきらびやかな堅い鎧をつ も、この国王の庭園には、すべての樹木、すべての果実、すけ、鋭利な光り輝く武器をもっていたが、これに反して、他 べての草が、自然の庭園におけると同様の配置や大きさにし方は、鏡や刀の光を不思議がって、それと交換に、たくさん たがって、きわめて立派に黄金でつくられていること、また の黄金や真珠などの宝を提供しようとする人たちであった。 国王の居間には、その国とその海に生まれたすべての動物が彼らは、どんなに暇をかけても、われわれの鋼鉄を突きとお やはり黄金でつくられていること、さらに、彼らが石や、羽す知識も材料ももっていなかった。それに加えて、われわれ 毛や、木綿や、絵具でつくった作品が美しいということ、その大砲や鉄砲の閃光や雷鳴を考えてみるがいい。未経験な者 れらのことは、彼らが工芸においてもやはりわれわれに劣ら に不意打ちをくわせるならば、カエサルをさえ混乱させるこ ないことを示している。けれども、信仰、法の遵守、善意、 とができるほどである。しかるに、彼らの方は、裸の国民 気前のよ、さ、忠誠心、率直さなどに関しては、われわれが彼で、当時やっと或る種の木綿の織物を考え出した地方を除い らほどにそれらの美点をもたないことが、かえってわれわれては、武器といっても、弓とか、石とか、棒とか、木製の楯 に役立った。彼らは、この長所のために身を減ぼし、売られぐらいのものしか持っていなかった。彼らは珍しい未知のも たり、裏切られたりした。 のを見たいという好奇心にかられ、見せかけの友情と誠実を 大胆と勇気に関しては、また、苦痛や飢えや死に対する剛真に受けて、不意を襲われたのである。征服者の側から、こ 毅、堅忍、果断に関しては、私は、彼らのあいだに見いださの不釣合を、差引いて見るがいい。征服者たちにあれほどの れる実例を、こちら側のわれわれの世界の記憶に残っている勝利を得させる原因は一つもないであろう。 古代の最も有名な実例に、対置させることを恐れないであろ 私は、何千という人間が、男も女も子供も、彼らの神々と