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検索対象: 世界の大思想5 モンテーニュ 随想録<エセー><下>
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1. 世界の大思想5 モンテーニュ 随想録<エセー><下>

よって、あたかもそれが宗教か法律であるかのように、受け し、何をもたらすか ? ( 一の一二の一六 いれられているからである。われわれは、一般に受けいれら そういう人たちは、彼らの書物にとりかこまれながら、ときれているものを一つの通りことばとして受けいれる。われわ に、自分自身の存在を認識することの困難さを、思「てみたれはこの真理を、論証や証拠というその建物道具もろとも に、堅固な一体をなすものとして受けいれ、もはやそれを揺 ことがないのだろうか ? なるほど、われわれにはわかる。 さぶろうとも、それを判断しようともしない。反対に、各人 指が動き、足が動くのが。或る部分はわれわれの同意なしに は、受容したこの信念を、自分の理性のなしうるかぎり、き ひとりでに動き、他の部分はわれわれの命令で動くのが。或 る心配は赤面を生じさせ、他の心配は蒼白を生じさせるのそ 0 て塗り固めようとする。この理性は、どんな形にも適倉 され利用されうる一つの柔軟な道具である。かくして世界は が。或る想像は脾臓にのみ作用を及ぼし、他の想像は脳に作 用を及・ほすのが。或る想像はわれわれに笑いをおこさせ、他愚昧な嘘によ 0 て満たされ、そのなかにひた 0 てしまう。 われわれが事物をほとんど疑わないですましているのは、・ の想像はわれわれに涙をおこさせるのが。或る想像はわれわ れのすべての感覚を驚愕させ、われわれの手足の運動を停止われわれがそれら共通の印象を決して吟味しないからであ る。われわれは過誤と弱点がひそんでいる根元を探らない させるのが。 ( ) 或るものには胃がむかむかし、他のもの にはもっと下の方の部分がむくむくするのが。 (<) けれどで、枝葉のことばかり議論している。われわれはそれが真で も、精神的印象がいかにして、堅固な物体のなかにかくも滲あるかどうかを問わないで、それがこう解釈されたか、ああ 解釈されたかを問う。われわれはガレノスが何か価値のある 透するのか、また、いかなる性質の結びつきや縫いあわせが ことを言ったかどうかを問わないで、彼がこう言ったか、あ これらの原動力のあいだにあるのか、そういうことはいまま (o) 《すべてこれらのことは、人あ一言ったかを問う。事実、われわれの判断の自由に対するこ で誰にもわからなかった。 間的理性には見ぬくことができない。それらは依然として荘の東縛、われわれの信念に対するこの圧制が、学校や学芸に とプリニウスは までひろがったのも、当然であった。スコラ哲学の神はアリ 厳な自然のうちに隠されている》 ( 一一の = 一ど 言う。そしてアウグステイヌスは言う。《身体と霊魂との結ストテレスである。彼の命令を論議することは、スパルタ人 きんき にとってリュクルゴスの命令を論議するのと同様、禁忌であ 合はまったく不思議なもので、人間の理解力を超えている。 る。彼の学説は、われわれにとって尊厳な国法の役をしてい しかも、この結合が人間そのものである。》 ( 一二の一 0 るが、おそらく他の学説と同様、誤っているかも知れない。 それにしても、そのことを疑う者は一人もいない。なぜな ら、 間の意見は、古来の信念にしたがって、権威と信用に私には理由がわからないが、なぜ、。フラトンのイデア、エビ

2. 世界の大思想5 モンテーニュ 随想録<エセー><下>

にそうしているのだろうか ? 彼らは雨もよいの風を避け、 に、自然は、われわれに対して、いかなる教育や精神的緊張 東の方に向けてその宿をつくるが、この風のさまざまな状態 によっても、動物の自然的な巧妙さに到達しうる道を拒んで を知らずに、或る風が他の風よりも彼らにとって健康的であ いる。したがって、彼らの野生的な愚かさの方が、あらゆる ることを考えずに、そうしているのだろうか ? 蜘蛛が巣を便宜において、われわれの神的叡知のなしうるすべてを凌駕 している。 張るのに、或る箇所を厚くし、他の箇所を薄くするのは、な ぜだろうか ? 或るときにはこの編みかた、他のときには他 事実、こう考えてくると、われわれが自然をきわめて不公 の編みかたをするのは、なぜだろうか ? 蜘蛛は、思案も、 平な継母と呼ぶのも、理由のないことではないであろう。け 思考も、結論もなしに、そうしているのだろうか ? 動物たれども、決してそんなものではない。われわれの機構は、そ ちの仕事の大部分のものにおいて、われわれよ、、、 。し力に彼られほど畸形で無秩序なものではない。自然はその被造物を普 遍的に抱いてきた。被造物のなかで、その存在を維持するの がわれわれよりもすぐれているか、いかにわれわれの技術が に必要なすべての手段を自然から十分に賦与されていないも 彼らの技術を真似ようとして遠く及ばないかを、十分にみと めている。それにもかかわらず、われわれは、ずっと粗雑な のはない。私は人間のばあいには、人々がこういう嘆きを卩 われわれの仕事のためにわれわれがあらゆる能力を用いてい にしているのを聞く。 ( 彼らの意見はまったく気まぐれで、 ときには人間を雲のうえに高めるかと思うと、こんどは人間 ること、われわれの霊魂がそのために全力をつくしているこ とを知っている。なぜわれわれは動物たちについてもそれだを奈落の底につきおとす。 ) 「われわれは、裸の大地のうえに けのことをみとめてやらないのか ? なぜわれわれは、自然裸のまま投げ出され、そこに縛りつけられ、他の動物の皮を 的にも技術的にもわれわれのなしうるすべてを凌駕する彼ら用いるよりほかに、身を固め身を覆うものを何ももたない唯 の仕事を、何らかの自然的盲目的な本能のせいに帰するの 一の動物である。ところが、他のすべての被造物は、自然に からさや うろこ か ? そうすることによって、はからずも、われわれは、わよって、殻、莢、皮、毛、和毛、、革、綿毛、羽毛、鱗、 せんもうごうもう れわれをはるかに超える優越性を、彼らに与えることにな繊毛、剛毛などを、。それぞれの生存の必要に応じて着せられ きば 録る。というのも、自然は、母親のようなやさしさで彼らにつ ている。自然は、牙、歯、角などで彼らを武装し、攻撃と防 想き添い、いわば手をとって彼らをその生活のあらゆる行為と御に備えさせている。また、自然は、彼らに適するわざ、泳 ぐこと、走ること、飛ぶこと、歌うことを彼らに教えて 随便宜に導いていくのにひきかえて、自然は、われわれを偶然 る。しかるに、人間は、習得しなければ、泣くことよりほか と運命の手にゆだね、われわれの存在に必要なものを技術に よって求めるようにさせるからである。しかも、それと同時には、歩くことも、話すことも、食うこともできない。」

3. 世界の大思想5 モンテーニュ 随想録<エセー><下>

ところのことである。彼はつねに、われわれに対して、二重の・ほった者は、しばしば、自分のいさおし以上に名誉を得る に、曖昧に、遠まわしに語り、われわれを満足させずに、むことになる。なぜなら、彼はおしまいから二番目の者の肩り こくわずかしか出ていないからである。 しろわれわれに関心を持たせ、われわれを気がかりにさせうえに、。 ーし力にしばしば、おそらくは愚かにも、私の本 る。精神の動きは、不規則で、不断で、模範をもたず、目的 (=) 私よ、、、 をもたない。精神のもろもろの創意は、たがいに熱しあい をひきのばして、自己について語ったことであろう ? た力いに継承しあい、たがいに生みあう。 愚かにも、というのは、同じように自己を語っている他の本 について、私が次のように言ったことを、ここに思い出さな そういうわけで、流れる小川のなかでは、たえずあとからあければならないという理由だけからしても、言えることであ とから水が流動し、順々に、永遠の運びによって、或る水が る。「自分の著作にあれほど頻繁に色目をつかうのは、その 他の水につづき、或る水が他の水からのがれる。あの水はこ 人の心が、それに対する愛でふるえている証拠である。彼が の水に押しやられ、この水は他の水に追い越される。いつで 手荒い軽蔑的な態度で自分の著作を打っときも、それは母親 Ⅱよ、つも同じでも、水はいっ も、水は水のなかを行き、 としての愛情から気どってそうしているにすぎない。」これ も異なる水である。 作集」・一一四 ) は、アリストテレスの次のような考えに従ったまでである。 われわれは、事物を解釈するよりも、解釈を解することに忙「自慢するのも、みずから卑下するのも、しばしば、同じ傲 しい。どんな主題に関する書物よりも、書物に関する書物の慢さから生まれるものである。」事実、私はこう言って弁解 したいのだが、皆が認めてくれるかどうかわからない。「私 方が多い。われわれはたがいに注釈しあうことしかしない。 は、その点で、他の人たちよりもいっそう多く自由を持って (o) 注釈書は犇めきあっているが、著者の方は、きわめて いるはずである。というのも、私は、幸いに、自分について 稀少である。 われわれの時代における主要な、最も有名な知識は、学者も、私の著作についても、私のその他の行為についてと同様 たちを解釈する知識ではあるまいか ? それが、すべての研に書くからであり、私の主題は自己のうちに返ってくるから 究の共通の、最終の目的ではあるまいか ? である。」 つぎき われわれの意見は、次から次へと接木される。第一の意見 (=) 私はドイツで、ルターが自分の学説の疑義について、 彼が聖書についてひきおこしたと同様の、むしろそれ以上 は、第二の意見に対して台木として役立ち、第二の意見は、 の、分裂と論争を残したのを見た。われわれの論争はことば 第三の意見に対して台木として役立つ。われわれはこうして 段々に梯子をのぼっていく。そういうわけで、いちばん高くの論争である。私は問う。「自然とは何か ? 快楽とは何か、

4. 世界の大思想5 モンテーニュ 随想録<エセー><下>

142 ている。習慣や法律におけるほど、人々が意見を異にするも 自分の父親を食うということくらい、想像するだに恐ろし のはない。或る事物がここでは忌まわしいとされるが、他の いことはない。古くこの習慣をもっていた国民は、それにし すいしよう ところでは、推奨すべきこととされる。たとえば、ラケダイても、これを敬いと親愛の証拠と考えていた。つまり、そう モンでは、盗みの巧妙さが褒められる。近親結婚は、われわすることによって、父親の遺体や遺骨を、自分の体内に、い れのあいだでは、死刑をもって禁じられているが、他の国でわば自分の骨髄のなかに宿らせ、消化と栄養をとおして自分 は名誉とされている。 の生きた肉へと変化させることによっていわばそれを生きか えらせ再生させ、かくして父親のために最もふさわしく最も 聞くところによると、母がその息子と交わり、父がその娘と 貴い墓を与えようとしたのである。こういう迷信がしみこん ふしよく 交わって、肉親の情が、男女の愛情によって倍加される国が でいる人々の眼から見れば、両親の遺骸を土の腐蝕にゆだ オヴィデイウス「メタモル えじき あるとい , つ。 フォセス」一〇の三三一 ね、禽獣や蛆虫の餌食にさらすことの方が、いかに残酷で、 忌まわしいことであったかは、想像するに難くない。 幼児殺し、父親殺し、姦通、盗品売買、あらゆる種類の快楽 リュクルゴスは、盗みにおいて、隣人の物をかすめるとき の自由など、要するにどんな極端なことでも、いずれかの国 の敏捷さ、注意深さ、大胆さ、巧妙さを重んしたが、それと 民の習慣によって許されなかったようなものはない。 (=) たしかに、自然法なるものはある。それは他の被造物同時に、各人が自分の物の保持にい 0 そう用心ぶかくなると いう、国家の受ける利益を重んじた。そして、この攻撃と防 たちのうちに見られるとおりである。けれども、われわれの あいだでは、自然法はすでに失われている。というのも、あ備という二重の教訓から、軍事上の訓練 ( この主要な知識と の立派な人間的理性が、いたるところで、支配し命令しよう徳へ向か「て、彼はこの国民を導いていこうとした ) に役立 髪・つよんー・ っ成果が引き出されると考えた。この成果の方が、他人の物 として容喙し、自分の空虚と不安定によって事物の姿を攪乱 し、混乱させるからである。 (o) 《真にわれわれのものであを盗んで自慢する無秩序や不正よりも、はるかに重大だとい うのである。 るようなものは、一つもない。私がわれわれのものと呼ぶと 僣主ディオニュシオスは、。フラトンに対して、ベルシア風 ころのものは、人為の所産でしかない。》 ( 墅 ) の、長い、金襴の、番をたきこめた衣裳を贈った。プラトン (<) 事物はさまざまな様相をもち、さまざまな考察をゆる は、「男に生まれて、女の衣裳など着たくない」と言って、 す。さまざまな意見の相違が生じているのは、主としてそこ これをことわった。しかし、アリスティッポスは、こう答え からである。或る国民は、事物を或る一面から見て、そこに てそれを受けとった。「どんな服装も純潔な心を腐らせるこ とどまる。他の国民は、他の一面から見る。

5. 世界の大思想5 モンテーニュ 随想録<エセー><下>

513 随想録 は、あまり賢明ではない。誰もなしえないとわかっているこ 命令と服従とのあいだには、もっと釣合いがあるのが望ま とを、人間は誰に対して命じるのか。自分にとって不可能な しいであろう。誰も到達しえないような目標をかかげるのは ことをしないようにするのが、当人にとって、不正といえる 不当であると思う。どんなに立派な人間でも、そのすべての だろうか ? 法律は、われわれにはできないものと決めてお 行為と思想を法律の吟味にかけてみれば、一生のあいだに十 いて、あとで、できないからといってわれわれを咎める。 ペんぐらい絞首刑に値いしないような者は一人もない。処罰 (=) 行為を或るしかたで、言説を他のしかたでというよう し処刑することが、大変な損害であり不正であるような人物に、自己を別々に表現するこの歪んだ自由は、最悪のばあ においてさえ、そんなものである。 、事物を語る人たちには許されるかも知れないが、私のよ うに、みずから自己を語る人たちには、許されえないことで ある。私は足の運びと。ヘンの運びを一つにしなければならな ォルスよ、彼や彼女が自分の肌をどうしようと、お前の知っ マルティアリス たことではない。 。公共的な生活は、他の人々の生活と見合ったものでなけ ( 七の九の一 ればならない。カトンの徳は、その時代の尺度を超えて、逞 しいものであった。他の人々を支配することにたずさわる また、或る人は、有徳の人として褒められるのにまったく値 、よ人、公共の奉仕に定められている人、そういう人にとって いしないのに、 ( ) 哲学によって当然鞭うたれてもいしを かかる徳は、不正とは言わないまでも、少なくとも空虚 ずなのに、 ( =) 法律の罪には問われないですんでいる。そ な、季節はずれの正義であったと言われていいであろう。 れほど、この関係は、混乱しており不同である。われわれは、 神の眼から見て、善人になろうなどとは思わない。われわれ (0) 私の風習でさえも、近ごろの風習とさして違わないの に、私を、この時代にはどことなく合わない親しみにくい人 は、われわれの眼から見てさえ、善人にはなりえないであろ 間にさせている。私が自分の出入りする世間に愛想をつかし う。人間的な知恵は、それがみずから定めた義務に到達した ことが一度もない。もし人間的な知恵がそこに到達するならているのは、理由のないことかも知れない。けれども、私が ば、それはさらにそのかなたに別の義務を定めて、あいかわ世間に対して愛想をつかしているより以上に、世間が私に対 らずそれを渇望し、追求するであろう。それほどまでに、わして愛想をつかしているのに対して、私が不平を言うのは、 たしかに理由のないことであろう。 れわれの状態は、安定の敵である。 (o) 人間は、過ちにお ちいらないではいられないように、自己自身に命じている。 (=) 国の政務に関する徳は、多くの襞や隅や曲りをもって いて、人間的な弱さに順応し合致した徳である。それは混り 自分以外の他の存在を基準にして、自分の義務を規定するの ひだ

6. 世界の大思想5 モンテーニュ 随想録<エセー><下>

した。理性がいかに自己自身のことを理解していないかを、 てあなたの精神とあなたの研究を鍛えてください。なぜな 肥私は十分に示すことができたと思う。 ら、この最後に示した剣法は、究極の手段としてでなければ (o) 自己を理解しない者が、いったい何を理解することが用いてはならないものだからです。これは捨身の一撃です。 できようか ? 《自己自身の尺度を知ることができないく せそのときには、敵に武器を失わせるために、こちらも武器を 棄てなければなりません。これは一つの秘伝です。めったに に、他の事物の尺度を測ることができるかのように。》っリ = 使ってはならないもので、秘蔵しておかなければなりませ 「博物誌」 ) 。フロタゴラスは、自分自身の尺度をさえ知らない人間をん。相手を倒そうとして、ご自身まで身を危くするのは、虹 「万物の尺度ーなどと呼んだが、まったくわれわれを愚弄す謀もはなはだしいことです。 るにも程がある。たとい人間が万物の尺度でないにしても、 ( ) ゴ。フリアスのように、仇を討っためなら死んでもよい 人間の尊厳は、他の被造物がこの特権をもっことを許さない などと思ってはなりません。ゴブリアスはベルシア軍の一貴 とっく であろう。しかるに、人間は、自己においてさえかくも矛盾族とがっちり取組み合っていました。そこへダレイオス王が し、一つの判断がたえす他の判断をくつがえしているありさ抜身をひっさげてかけつけました。王はゴプリアスまで傷つ まだから、この自分勝手な命題も、物笑いの種でしかなかつけてはと、敵を突くのをためらいました。ゴプリアスは王に つらぬ た。そのためにわれわれは、測量器と測量者の無能を結論し向かって叫びました。「思いきって突け。もろともに貫かれ ないわけにいかオカた。 ても本望だ。」 タレスが「人間の認識は人間にとってきわめてむずかし (o) 私は、決闘の武器と条件があまりに絶望的で、どちら い」と言うとき、彼は、他のすべての事物の認識も人間にと の側も生命が助かる見込みがないという理由で、それが提言 って不可能であることを、教えているのである。 されると同時に、禁止命令を受けたのを見たことがありま す。ポルトガル人がインド洋で十四人のトルコ人を捕えたと き、この十四人は、捕虜の身となることに耐えられず、自分 以下に挿人されているこの献呈の辞は、ナヴァ 1 ル王妃マ たちもろとも、ポルトガル人とその船を灰にしてやろうと決 ヴァロワに宛てたものと推定されている (<) 私はあなたのためにいつもの習慣にさからってわざわ心して、それに成功しました。船の釘をたがいにこすりあわ ざこんな長い文章をつづりましたが、あなたは、まいにち学せているうち、ついに火花が一つ、積んであった火薬の樽の んでいらっしやるいつもの論証の方法で、あなたのスポンをうえに落ちたのです。 支持することをおいといにはならないでしよう。それによっ ( ) 、われわれは、ここで、もろもろの学問の限界とその最

7. 世界の大思想5 モンテーニュ 随想録<エセー><下>

と願う。 (<) われわれならば、醜い女をそのように描くこあらゆる点で、われわれは劣っているからである。 (<) 詩 とであろう。イタリア人たちは、ふとってどっしりした女を人たちは、われわれ人間がまっすぐに立って、その故郷たる 美人と見なし、イスパニア人たちは痩せてぎすぎすしたのを天を仰いでいる姿を、われわれの特権としてたたえている 美人と見なす。われわれのあいだでも、或る者は色の白い女が、 を、他の者は褐色の女を、或る者はなよなよとして繊細な女 を、他の者は強くてたくましい女を美人と見なす。或る者は 他の動物たちが顔を伏せて地上をみつめているのに、神は、 女のうちに、愛らしさと優しさを求め、他の者は気品と威厳 人間の額を高くあげさせ、天を仰ぎ星をみつめるように命じ を求める。 ( =) ちょうど、。フラトンが球形に最高の美を帰 ルフ ' セス」一の八四 ) するのに反して、エビクロス派が。ヒラミッド型あるいはむし ろ正方形にそれを帰し、球状の神を我慢がならないとするよ この特権はまったく詩的なものである。なぜなら、その眼を うなものである。 まったく天に向けたままの小動物がたくさんいるからであ だらよう (<) けれども、それはともかくとして、自然は、美につい る。駱駝や駝鳥にいたっては、われわれよりも高く、まっす ても、その他のことがらについてと同様、その共通の法則に ぐに頸を立てている。 関して、われわれに何ら特権を与えていない。もしわれわれ (O) いかなる動物が、顔を高くあげていないであろうか ? が十分に自分を判断するならば、われわれは、なるほどこの しカ いかなる動物が、顔を前に向けていないであろうか ? なる動物が、われわれと同じく、正面を見ていないであろう 点でわれわれよりも恵まれていない動物がいくらかあるにし ても、われわれよりも恵まれている動物がたくさんにあるこ いかなる動物が、その正常の姿勢で、人間と同じく、 とを、見いだすであろう。 (o) 《多くの動物は、美しさの点天と地を見ていないだろうか ? プラトンやキケロに見られるわれわれの身体的組織のいか 。セネ力「書 ) しかも、われわれと祖 でわれわれを超えているス簡 国を同じくする地上の動物たちのあいだにさえ、われわれよ なる特質が、幾千という種類の動物に、役立っていないであ プつ、つ・、か 9 ー りも恵まれているものがたくさんにある。なぜなら、海中の 動物たちにくらべるならば ( 形のことはしばらく措く。形は (<) われわれに最もよく似た動物は、すべての動物仲間の うちで、最も醜く、最も卑しい動物である。なぜなら、外観 あまりに違っていて、とうてい比較ができない ) 、色、鮮か さ、つややかさ、しなやかさにおいて、われわれはかなり彼や顔の形からいえば、それは猿だからであり、 らに劣っているし、空中の動物たちにくらべても、やはり、 第」 0

8. 世界の大思想5 モンテーニュ 随想録<エセー><下>

212 って見る。私は私の眼を内部に向ける。私は私の眼をそこに ( ) われわれは一般にこう言っている。「自然がその恵み のうちからわれわれに与えた最も公平な分け前は、分別とい 据え、そこで暇つぶしをさせる。人は誰でも自分の前方を見 る。私は私の内部を見つめる。私は私にしかかかわりあわな う分け前である。なぜなら、自然から分別を分配されたこと い。私はたえず私を考察し、私を吟味し、私を味わう。他の について、満足していない者は一人もないからである。」 人々は、よく反省してみればわかることだが、つねに外へ出 ( ) それは当然なことではないか ? かなたを見る者は、 自分の視界のかなたを見るであろう。 (<) 私は正しい健全ていく。彼らはつねに前へ進む。 な意見をもっていると思っている。けれども、誰が自分の意 誰も自己自身のうちに降りていこうと試みない。 見についてそう信じないであろうか ? 私が正しい健全な意 見をもっていることの最もよい証拠の一つは、私が自分をあ まり高く評価していないことである。なぜなら、もし私の意 私は、私自身のうちを転々とする。 見がしつかりしたものでなかったならば、私のこの意見は、 真実を選り分けるこの能力 ( それが私のうちにおいてどれ 私が自分だけに注ぐ愛情に容易に欺かれていたであろうから ほどのものであるにせよ ) 、私の信念を容易に服従させない である。私は愛情のほとんどすべてを私に集め、それをそこ というこの自由な気質、私はこれを主として私自身に負うて から外へ拡げようとしない性質である。他の人々が無数の友 いる。なぜなら、私のもっている最も堅固な、全般的な気質 人や知人に、あるいは彼らの名誉、彼らの偉大さに、分かち は、いわば、私とともに生まれた気質であるからである。こ 与えるところのものを、私はすべて私の精神の安らかさ、私 の気質は自然的なものであり、まったく私自身のものである。 自身のために持ち返る。ほかのところへ私から洩れていくも 私はこの気質を生まのまま、単純なものとして生みだした。 のは、もともと、私の理性の命令によるものではない。 その生みかたは、大胆で、カづよかったが、いささか混乱し た、不完全なものであった。その後、私は、この気質を、他 自分の力を用いて生きることを学んだ。 五の九五九ウ ' ) 人の権威によ 0 て、古人たちの健全な理性によ 0 て、確立し、 強化した。というのも、私は判断においてたまたま古人たち ところで、私は、私の意見が、私の無能を断罪すること と一致したからである。彼らは私に気質の把握を確実にして に、限りなく大胆であり不変であることを知っている。実のくれたし、その享受と所有をいっそう完全にしてくれた。 ところ、私の無能も、他の主題と同様、やはり私が私の判断 (=) 皆が精神の活さと鋭敏さによって求める評価を、私 をはたらかせる主題である。世間の人々はいつでも向かいあは規律によって得ようとする。皆が華々しい顕著な行為ある 。ヘルシウス 四の二三

9. 世界の大思想5 モンテーニュ 随想録<エセー><下>

ポーランド人をもフランス人と同じように抱擁する。私は国 、リをやさしい眼で見ないほど してこんなにすねているが、。ノ パリは、子供のときから、私民的な結びつきを、普遍的共通的な結びつきの下に置く。私 にすねているわけではない。」 は生まれ故郷の甘い空気にそれほど恋々としない。まったく の心をとらえている。そして、すべてのすぐれたものがそう であるように、その後、私が方々の美しい都市を見れば見る新たに自分で選んだ知人も、共通的偶然的な近隣同士の知人 ほど、この都市の美しさが私の愛情をとらえた。私はこの都と同じだけの価値があるように思われる。われわれが自分で 市をそれ自身によって愛する。そして、外的な華美で飾られ獲得した純粋な友情は、共通の風土や血のつながりによって ているときよりも、ふだんのままのこの都市の方がいっそう結ばれる友情にまさるのがつねである。自然は、われわれ を、自由なもの東縛されないものとして、この世に置いた。 好ましい。私は心からこの都市を愛する。その疣やしみにい たるまで。私はこの偉大な都によってのみ、フランス人であわれわれはわれわれ自身を或る一定の場所に閉じこめる。た とえば、ベルシアの国王たちは、コアスベス河の水しか飲む る。この都はその人口において偉大であり、その位置のすば らしさにおいて偉大であるが、わけても、その多種多様な歓まいと自分で自分を東縛し、愚かにも他のすべての河の水を 楽において偉大であり、比類がない。それはフランスの栄光飲用する権利を棄てた。したがって、彼らにとっては、世界 であり、世界の最も高貴な装飾の一つである。神よ、われわじゅうの他のすべての河は、涸れたも同然だった。 れの分裂抗争をこの都から追いはらいたまえ。この都は、全 ( ) ソクラテスは、その最後に臨んで、国外追放の宣告を にして一でありさえすれば、あらゆる暴力から守られている 自己に対する死の宣告よりも悪いものと考えたが、私は、自 と私は思う。私はこの都に告げる。すべての党派のうちで最分では、それほど老衰しないだろうし、それほど強く自分の 悪のものは、この都を不和におとしいれる党派である。私は国に執着しもしないだろうと思う。こういう崇高な生涯には 十分に模範がふくまれているが、私はそれを、愛情によって この都のために、この都のことしか心配していない。私は、 この国の他の部分のために心配すると同じだけ、この都のたでなく、尊敬によって抱擁する。なかにはあまりに気高く非 めに心配する。この都が存続するかぎり、私は最後の息をひ凡であるために、私などは尊敬によって抱擁することさえで 録きとるための隠れ家に事欠かないであろう。他のすべての隠きないものもある。というのも、私はそれを思い浮かべるこ とさえできないからである。それにしても、ソクラテスのよ 想れ家を失っても惜しいとは思わないであろう。 うな気持は、世界を自分の都市と考えていた人としては、あ ソクラテスがそう言ったからではなく、ほんとうにこれが まりに弱気である。実のところ、彼は遍歴を蔑視して、ほと 私の気持だから言うのだが、おそらく多少の誇張もないでは んどアッティカの土地から一歩も外へ出なかった。彼は彼の ないが、私はすべての人間を私の同胞たと思っている。私は

10. 世界の大思想5 モンテーニュ 随想録<エセー><下>

レクレテイウス た。「現在という時はない。われわれが現在と呼ぶところの 五の八二六 つなめ 1 ものは、未来と過去との接ぎ目でしかない。」へラクレイト (<) さらに、われわれは愚かにも一種の死を恐れているが、 スは言った。「人間は決して二度と同し河にはいったことが ない。」 (=) 工。ヒカルモスは言った。「以前に金を借りた人われわれはすでに別種の死をすごしてきたし、現に幾多の別 は、いまは借りていない。前の晩に、翌朝食事に来るように種の死をすごしている。事実、〈ラクレイトスが言ったよう に、火の死減は空気の発生であり、空気の死減は水の発生で 招かれた人は、今日来てみると招かれてはいない。二人はも っそうはっ はや昨日の二人ではなく、別人になっているからである。」あるばかりでなく、このことを、われわれは、い きりとわれわれ自身のうちに見ることができる。花盛りの年 (<) また、「死すべき実体は、二度と、同じ状態にあること ができない」と。な。せなら、突然の急激な変化によって、そ齢が死にそうになり過ぎ去ると、老年がやってくる。青年が のような実体は、分散したり、集合したりするし、来たり、 終わると、花盛りの成年になる。少年が終わると青年にな 去ったりするからである。したがって、生まれはじめるもの 、幼年が死ぬと少年になる。昨日が死んで今日になり、今 というの は、決して、存在の完全性にまでは到達しない。 日が死んで明日になる。何一つとどまるものはないし、つね も、この誕生は、決して完成することがなく、終極に達した に同一であるものはない。その証拠には、もしわれわれがっ かのように停止することがない。むしろそれは、種子のとき ねに同一のままにとどまるならば、われわれがいま或る事物 以来、つねに或るものから他のものへと変化してやまない。 を喜び、ついでいま他の事物を喜ぶのは、どういうわけであ たとえば、人間の精子から、まず母の胎内に、形のない一つ ろうか ? われわれが相反する事物を、ときには愛し、とき の果実が生し、ついで胎児が形成され、ついで胎外に出て乳 のみご には嫌悪し、ときには褒め、ときにはけなすのは、どういう 呑児になり、やがてそれが少年になり、ついでそこから青年 わけであろうか ? われわれが同一の思想のなかにもはや同 になり、やがて成年になり、ついで年輩の人間になり、つい 一の感情をとどめておかないで、異なる愛情をもつのは、ど にはよ・ほよ・ほの老人になる。このようにして、あとにつづく ういうわけであろうか ? 事実、変化がないのに、われわれ 年齢と年代は、つねにさきだつものを解体させ、破壊する。 また、変化 が別の情念をもっというのは、真実らしくない。 をこうむるものは同一のままとどまってはいないし、もしそ れが同一でないならば、それは存在してもいない。むしろ反 何ごとにおいても、一つの状態のあとに他の状態がつづき ( 0 ) = 、 0 」 0 0000 、〈 0 、 0000 = 0 一 対に、存在は全一であっても、つねに或るものから他のもの 自分に似たまま残るものは一つもない。すべては移り行く たんてき になることによって、存在もまた端的に変化する。したがっ 自然はすべてを変化させ、すべてのものに流転を強いる。