反対 - みる会図書館


検索対象: 世界の大思想5 モンテーニュ 随想録<エセー><下>
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1. 世界の大思想5 モンテーニュ 随想録<エセー><下>

かる罪なき行為もいっそう完全に申し分なくおこなわれたで事情はたえず流転し変化する。私は自分の一生のうちでいく あろうと判断するからであり、われわれも同じようにおこな たびか重大な失敗にぶつかったが、それは私がよい考えを欠 いたいと思うであろうからである。私がいま老年になって私 いたからではなく、幸運を欠いたからである。われわれの取 の若いときのふるまいを反省してみるとき、私は、自分がおり扱う事物には、、 しろいろ秘密の、予見されえない部分があ およそ自分なりに秩序をもって身を処したと思う。それは私 る。ことに、人間の本性のうちには、暗黙の、表面に現われ の抵抗がなしうるすべてである。自慢するわけではないが、 ない状態、ときにはその本人にさえも知られない状態があっ 同じような事情にあうならば、私はいつでもそうするであろて、これが突然の機会に出現し、めざめる。私の知恵がそれ う。私を染めているのは、しみではなくて、むしろ全般的なを洞察し予見することができなかったときにも、私はそのこ 染色である。私は表面的な、いい加減な、儀礼的な後悔を知とに関して私の知恵を不満に思うことはない。知恵の役目は らない。真の後悔は、私がそれを後悔と呼ぶまえに、あらゆその限界のなかにとどまっている。出来事が私を打ち負かし る面で私を責めるものでなければならない。それは、神が私たのである。 (=) もし出来事が、私の拒否した決心の方に を見るのと同じように深く全面的に、私の内臓をかきむしり 幸いするならば、救いようがない。私は私自身を非難しな 苦しめるものでなければならない。 い。私は、私の運を責めるが、私のしわざを責めはしない。 これは後悔と呼ばれるものではない。 仕事に関しては、私はやりかたがうまくないので、多くの 幸運を取り逃がした。それにしても、私の思慮は、そのとき フォキオンはアテナイ人たちに或る勧告を与えたが、この そのときの事情に応じて、適切な選びかたをした。私の思慮勧告は聞きいれられなかった。それにもかかわらず、事態 の特徴は、いつでも、最も容易で確実な方を選ぶということ は、彼の意見に反して、かえって繁栄に向かった。或る人が である。私は、私の過去の思案においては、われながら、自彼に言った。「どうだ、フォキオン、君は事態がこんなにう 分の規則にしたがって、そのときそのときの事態に賢明に対まく運んで満足しているか ? フォキオンは答えた。「こう 処してきたつもりである。いまから千年たった後にも、私なったことについては、私も満足している。けれども、私 は、ああいう勧告をしたことについて後悔してはいない。」 は、同じような機会には同じようにするであろう。私は事態 がいまどうであるかを言っているのでなく、私がそれにつし 私は、友人たちから意見を求められると、自由に、はっきり て考慮をめぐらしていたときに事態がどうであったかを言っ 言ってやる。私は、世間の人々が誰でもするように、「事態 ているのである。 はあぶないものであるから、私の考えとは反対になるかも知 @) あらゆる思慮の力は、時を得るか否かにある。機会やれない。そうなると、人々は私が意見を述べたことについて

2. 世界の大思想5 モンテーニュ 随想録<エセー><下>

とができない。けれども、そのときでも、もし誰かが私に身とっては、もしそれが疝痛の三度の発作と引き換えであるな 体のぐあいはどうかとたずねるならば、私は、。 ヘリクレスのらば、あまりにも高価につく。願わくは、健康を与えたま ように「これを見てくれれば、おわかりだろう」と言って、 ~ ドラクマの膏薬を塗りたくった私の手を見せるかも知れな われわれの医学を愛する人たちは、やはりそれ相当に、十 。それは、ひどい病気の明白なしるしであろう。そのとき分な、大きい、強い理由をもっているかも知れない。私は、 は、私の判断力もひどく狂っていることだろう。もし焦燥と私の意見に反対する意見を、決して憎みはしない。私は、私 恐怖がそれほど私をうち負かすならば、人はそこからして、 の意見と他人の意見との不一致を見て驚いたりしない。私 私の霊魂にもひどい熱が出ているのだと結論することができ は、私と考えや党派を異にするからといって、自分がそれら よう。 の人々の社会に対して相容れないなどとは思わない。それど ころか、むしろ反対に、多種多様こそは自然が従っていく最 私は自分でも十分にわかっていないこの立場を一生懸命に 弁護してきたが、それは、私が私の祖先から受けついだこのも一般的な様相であるから、 (O) しかも、身体におけるよ りも精神においていっそう一般的な様相であるから ( という 傾向、つまりわれわれの医学の薬や治療を嫌うこの自然的な っそう多く のも精神の方が、い っそう柔軟な実体であり、 傾向を、少しでも支持し強化して、これがたんに愚かで向こ の形体を受けいれやすい実体であるからである ) 、 (<) われ う見すな傾向ではなく、もう少し形態をもった傾向であるこ っそう稀れで われの気分や意図の一致を見ることの方が、い とを示すためであった。また、病気に苦しめられながらも、 私が人の勧めや脅しに反抗して聞きいれないのを見ている人ある、と私は思っている。世に、同じ意見が二つとあったた たちから、これをたんなる頑固と考えられたくないからであめしはない。同じ毛、あるいは同じ穀粒が、二つとないのと 同様である。われわれの意見の最も普遍的な性質は、多種多 る。あるいは誰か意地の悪い人が、これを一種の名誉欲と判 断するおそれがあるからである。わが家の庭作りや驢馬曳き様ということである。 にもできそうな行為から名誉を得ようなどとするのは、何と いう立派な望みであろう ? たしかに、私は、健康という堅 固で、肉も髄もある快楽を、名誉という想像的で霊的で空気 のような快楽と取り換えるほど、それほど空しく膨れあがっ た心をもってはいない。名誉は、たといエモンの四人息子の 名誉のようなものであっても、私のような気分をもつ人間に

3. 世界の大思想5 モンテーニュ 随想録<エセー><下>

「それは犬儒学者にふさわしい贈りものではない。」 これらの実例は、はじめに私が言ったことに役立つのでは ないだろうか ? 「われわれの理由は、しばしば事実に先ま 熱はたくさんの道をひろげ、隠れた孔を開いて、そこから新 わりをする。そして理由の権限を無限にひろげるので、理由 しい草に水分がのばってくるのか ? それとも熱は、大地を は無や非存在についても判断を行使するまでになる。」われ 固くし、緩んだ葉脈をひきしめ、細かい雨や、太陽の炎熱 われの創意の柔軟性は、どんな種類の夢想にも理由をこじっ や、北風のきびしい冷気などの害をふせいでくれるのか ? けることができるが、そればかりでなく、われわれの想像 ヴ、ルギリウス「農 ) も、同様に、ごくつまらない外見にあざむかれて誤った印象 0 イタリ を受けいれがちである。事実、私も、このことわざが昔から ) そういうわけ ^ いかなる貨幣にもその裏がある》 ( アの諺 広くおこなわれているというだけで、かって、脚のまっすぐ で、昔、クレイトマコスは言った。「カルネアデスは、人々 でない女から、普通より以上の快楽を受けたように思いこん から同意を奪ったことによって、いいかえれば、人々から意 で、それを彼女の魅力の一つにかぞえたこともあったくらい 見と軽率な判断を奪ったことによって、ヘラクレスの働きを である。 凌駕した。」カルネアデスのかくも逞しいこの思想は、私の トルクワト・タッソーは、フランスとイタリアとを比較し考えでは、昔、知識を誇る人たちの図々しさと、彼らの法外 て、われわれがイタリアの貴族よりも脚が細いことを認め、 の自惚れから、生まれたものである。アイソボスは他の二人・ この原因を、われわれが不断、馬に乗っているせいだとして の奴隷といっしょに売りに出された。買手は最初の者に向か いる。ところが、この同じ原因から、スエトニウスはまった って「何ができるか ? 」とたずねた。この男は自分をえら く見せようと思って、「あれもできる、これもできる」と、 く反対の結論を引き出している。というのも、彼は反対に、 ゲルマニクスはこの同じ訓練をつづけることによって、自分山ほども約東をした。二番目の者も、同じくらいの、いやそ の脚を太くした、と言っているからである。われわれの悟性れ以上の約東をした。アイソボスの番が来て、「何ができる くらい柔軟で気まぐれなものはない。それはテラメネスの靴 か ? ーとたずねられると、彼はこう答えた。「何もできませ 録 ん。なぜなら、前の二人が何もかも先取りしたからです。彼 . で、誰の足にも合う。悟性が裏表で多様であるばかりでな 想 らは何でもできます。」同様のことが、哲学の学派のあいだ く、素材が裏表であり多様である。或る犬儒派の哲学者がア にも起こった。或る人たちは、傲慢にも、人間的精神にあら ンテイゴノス王に向かってこう言った。「私に銀一ドラクマ ください。」すると、王は答えた。「それは王者としてふさわゆる事物の能力を帰した。そのために、他の人たちは、反感 と対抗心から、人間的精神には何もできないという意見を持 しい贈りものではない。」「では、一タレントをください。」

4. 世界の大思想5 モンテーニュ 随想録<エセー><下>

いだも働いているくらいである。けれども、精神に対して 5 は、節度のある連動を与えなければならない。なぜなら、身 (=) むしろそこに自分の判断と世才だけしか用いない人の 体は背負わされる荷物を、あるがままに受けとるが、精神方が、ずっと愉快に事をはこぶ。彼はさまざまな機会の必要 は、この荷物に自分勝手な尺度を与え、しばしば自分の犠牲に応じて、自由自在に、装おったり、屈したり、延期したり において、この荷物を大きくしたり重くしたりするからであする。目標に当たらなくても、苦しんだり悲しんだりせず に、さっそく新しい企てにとりかかる。彼はいつでも手綱を る。われわれは、同じ事物を、人それそれに、異なる努力、 異なる意志の緊張度をもっておこなう。一方と他方は、必ず握って歩いている。これに反して、あの激しい暴君的な意図 に夢中になっている者のうちには、、 力ならず無謀と不正が見 しも平行しない。事実、いかに多くの人間が、毎日、彼らに とってどうでもいい戦争に身を挺し、負けても次の眠りをさ られる。彼の欲望の激しさが、彼を拉し去る。それは向こう またげられるわけではないのに、戦闘の危険に突進していく 見ずな行動であり、運命がよほど力を貸してくれないかぎ り、何の効果も得られない。哲学の教えるところによれば、 ではないか ? むしろ、家のなかにいて、あえて見る気にも なれないこの危険の外にある人の方が、この戦争の結果に夢受けた侮辱を罰するためには、われわれはそれについての怒 りを取り除かなければならない。それは、その復讐が小さく 中になって、そこに自分の血と生命を賭けている兵士たちょ りも、心を悩ましている。私は、爪の幅ほども私から離れる なるためでなく、反対に、その復讐がそれだけ相手にきつく ことなしに、公務にたずさわることができた。 ( ) 私は、 重くのしかかるためである。そのためには、この激情はかえ 私を私自身から引き離すことなしに、私を他人に与えること って邪魔になるように思われる。 (o) 怒りは心を混乱させ ができた。 るばかりでなく、それだけですでに、復讐しようとする人々 (=) 欲望のあの強烈さは、われわれの企てを導くのに、役の腕を疲れさせる。この火は、腕の力を鈍らせ、消耗させ に立つよりもむしろ邪魔になる。それは、反対の出来事や、 る。 ( =) あせりも同様である。《あせりは遅れのもとであ 遅ればせの出来事に対して、われわれをいらいらさせ、交渉る。》 ( ク ウを九の九の「一一 ) 事を急げば、すでにそれだけで、脚 の相手に対して、われわれを疑いぶかく、とげとげしくさせ がもつれ、よろめき、動かなくなる。 ( ) 《あせりは自分で る。われわれが事物にとらわれ、それに引きまわされると 。セネ力「書 ) (=) たとえば、私が 自分の脚をもつれさせる》 ( 簡 どんよく き、われわれは事物をうまく導くことができない。 日常の生活で見るところによっても、貪欲は自分自身より以 上に大きな邪魔物をもたない。貪欲は、それが一生懸命にな ればなるほど、それだけ実りが少なくなる。普通には、貪欲 情念はつねに悪い案内者である。 スタテイウス「テ・ハ

5. 世界の大思想5 モンテーニュ 随想録<エセー><下>

の夫の前のものにばかり眼をつけていてはいけない。必要な不在ではない。私はかって、たがいに離れていることから、 ュ / 、刀し ラ・ポ ) まこ。 ばあいには、夫のうしろの方を見ることができるようでなけ利益と喜びを得たことがある。われわれ ( ンと私 ればならない。 に離れていることによって、人生の所有をいっそう充実さ (=) けれども、彼女たちの嘆きの原因を示すためには、彼せ、拡大させた。彼は、私のために生き、楽しみ、見たので 女たちの気持をこのうえもなくよく描いた詩人のことばを、 あり、私は、彼のためにそうしたのである。しかも、彼がい ここに引用するのがふさわしいのではあるまいか ? るのと同じように、完全にそうした。われわれがいっしょに いたと多 (J にま、。 とちらか一方が何もしなかった。われわれは あなたの帰りが遅いと、あなたの妻は気をまわす。「うちの 一つに融けあっていた。場所の分離は、われわれの意志の結 人は恋をしているのではないか ? 誰かに恋されているので びつきを、いっそう豊かにしてくれた。身体的な現前をあま ーないか ? いまごろ飲んでいるのではないか ? 何か空想 しささか、二人の霊魂の享受力の りに強く欲求することは、、 にふけっているのでよよ、、 ーオしカ ? 自分ひとりで楽しんでいる 弱さを暴露している。 のではないか ? 私がこんなに思い悩んでいるのに。」 テレンテイウス「兄 私に向かって「年寄りのくせに」と言う人もあるが、むし 弟たち』一の一の七 ろ反対に、若者たちこそ、世間一般の意見に自己を従わせ、 それとも、反対や反抗が、それだけで、彼女たちを養い育て他人のために自己を抑えるべきである。若者たちは、人々を も、自分をも、二つながら満足させることができるが、われ ているのではあるまいか ? あなたに不快な思いをさせるだ われ老人は、自分を満足させるだけで精いつばいである。自 けで、彼女たちは結構、楽しんでいるのではあるまいか ? 真の友情においては、私はそれによく精通しているが、私然的な楽しみがわれわれから失われていくにつれて、われわ は友を自分の方へ引き寄せるよりも、自分を友に与える。私れは人為的な楽しみによって、自分を支えていくことにしょ う。若者たちに、その快楽を追うことを許し、老人たちに、 は、たんに、彼が私を益するよりも私が彼を益することを望 ( ) 若いとき、 むばかりでなく、さらに、彼が私を益するよりも、彼が彼自それを求めるのを禁じるのは、正しくない。 身を益するようであってほしいと思う。彼が彼自身を益する私は自分の陽気な情念を、思慮によって蔽っていた。年をと ときこそ、彼が私を最も益するときである。また、もし不在ったいま、私は、悲しい情念を、我がままによって解放す が彼にとって快く有益であるならば、彼の不在は、彼の現前 る。さらに、プラトンの法律は、四十歳もしくは五十歳以前 に遍歴することを禁じている。それは遍歴をいっそう有益で 的よりも、私にとっていっそう好ましい。また、おたがいに通 信しあう手段があるかぎり、それは、本当の意味において、 教訓的なものにするためであった。同じ。フラトンの法律の第

6. 世界の大思想5 モンテーニュ 随想録<エセー><下>

対して反感をもっていた。事実、私の父などは、薬を見るこ : 、私はそれを分別によって支持し強固にしたおかげで、私 とさえ嫌悪した。私の父方の叔父で、聖職者であったガヴィ が現に持っているような意見が確立されたのである。事実、 ャック殿は、生まれつき病身な人であったが、それにもかか私は、味がにがいからといって薬をしりぞけるような考え わらず、この虚弱な生命を六十七歳まで持ちつづけた。彼は も、きらいである。そういうのは私の気質に合わないであろ しようしやく かって激しい高熱がつづいて苦しんでいたとき、医者たちのう。私の気質からすれば、健康は、いかに苦しい焼灼や切 指図で、彼が助けを求めようとしないならば ( 医者たちはた開をしてもらっても、買い戻すに値いするものである。 いていのばあい妨げになることを助けと呼んでいる ) 、きっ (0) ェビクロスの言うように、快楽は、それがあとからい と死ぬだろうと言いきかされた。彼はこの恐るべき宣告にま っそう大きな苦痛をひきだすならば、避けられるべきであ ったく驚いたが、「それなら、私はもうおしまいだ」と答えり、苦痛は、それがあとからいっそう大きな快楽をひきだす た。けれども、神はその後まもなくこの予言を空しいものに ならば、求められるべきであると思う。 した。 (<) 健康こそは貴重なものであり、実のところ、それの追 (=) 彼ら四人兄弟のうち、いちばん末の、しかもずっと年求のためには、われわれが、たんに時間、労働、苦労、財産 下の弟ビュサゲ殿だけは、この医術に服従した。私の思うを用いるばかりでなく、生命をさえも用いるに値いする唯一 に、それは彼が種々の学術と関係をもっていたからであろ のものである。というのも、健康がないならば、生きることも う。事実、彼は高等法院の参議であった。しかも、その結果われわれにとって苦痛になり有害になるからである。快楽、 は彼にとってかえって悪く、彼は外見上いかにも丈夫そうで知恵、学問、徳は、健康なしには、色あせ、消え失せる。哲 あったにもかかわらず、ただ一人サン・ミシェル殿を除い 学がわれわれにその反対の印象を与えようとして堅固な緊張 て、他の兄弟たちよりもずっと早く死んだ。 した議論を持ち出してくるならば、それに対して、われわれ てんかん (<) 私は医学に対するこの自然的な反感をそれらの人たちは、ただ。フラトンが癲癇か卒中にでもかかった姿を提示しさ から受け継いだのかも知れない。けれども、ただそういう理えすればいい。 そして、これを前提として、。フラトンがその 由だけしか存在しないのであったならば、私はこの反感をお霊魂のあの高貴で豊かな能力を発揮しうるかどうか考えさせ さえるようにつとめたことであろう。なぜなら、理性なしに てみるがいし 。われわれを健康に導く道ならばどんな道で われわれのうちに生じるこれらの気分は、すべて誤ったものも、私にとって、辛いとか高価につくなどとは言われえな であるからである。それは打破されなければならない一種の 。けれども、私はいくらか別の意見をもっており、そのた 病気である。私もそういう傾向をもっていたかも知れない めに奇妙にこの取引きそのものを疑わしく思わないではいら

7. 世界の大思想5 モンテーニュ 随想録<エセー><下>

また、われわれが恐れること最も少ない行為が、最も恐るべ い。なぜなら、反対の力が存在しないところには、堅忍もな き行為であるかも知れない。彼女たちの無言の罪が、最悪の く徳もないからである。 ほんとうは、こう言わなければならない。「たしかにおっ罪である。 しやるとおりです。けれども、私はそうたやすく、言うこと 最も単純な堕落女の方が、まだしも私をつまずかせない。 をきく女ではありません。」聖者たちでさえも、そういう言 マルティアリス ( 六の七の六 いかたをしている。もちろん、これは、本気で自分の冷静さ と無感覚を自慢し、真顔でそれを信じてもらおうと思ってい る女たちのばあいである。なぜなら、同じことを言うにも、 (o) 不潔なことをしなくても、それどころか、自分の知ら 気どった顔で、眼がロとは反対のことを言っているようなと ないうちに、彼女たちの純潔を失わせるような行為がいくっ き、あるいは、言っていることとは反対の意味をもっ特殊な もある。〈産婆は、若い娘が処女であるかどうかを手でさぐ 隠語を用いるようなとき、私はそれを結構なことだと思うか りながら、ときには悪意から、ときには不器用から、ときに 、こ賛美する者であるが、 らである。私は素朴と率直をおおし ! = い は偶然から、娘の処女を失わせた。〉 ( の ' 一名一 ) 或る それだけではやりきれない。もし素朴率直が、まったくの無 娘は、自分で処女膜をさぐったために、これを破り、或る娘 邪気でなく子供らしいものでないならば、それは淑女にふさ は、跳びはねているうちに、これを失った。 わしくないし、この交際には適しない。それは、たちまち厚 (=) われわれは、いかなる行為を彼女たちに禁じるべき かましさに変じる。彼女たちの偽装や仮面は、愚か者をしか か、これをはっきり規定することができないであろう。われ 欺くことができない。嘘もここでは名誉の座にある。嘘は、 われは、われわれのおきてを、一般的な曖昧なことばで言い 隠し扉からわれわれを真理へ導くまわりみちである。 あらわさなければならない。彼女たちの純潔についてわれわ もしわれわれが彼女たちの想像を抑えることができないな れのいだいている観念そのものが、笑うべきものである。な らば、われわれは彼女たちの何を抑えようとするか ? 行為 ・せなら、われわれの知っている極端な例のなかには、こうい をか ? だが、行為のうちには、外部に伝わらないものがた うのがあるからである。ファウヌスの妻ファッアは、結婚式 くさんあるし、そのために純潔が堕落することもある。 以来、いかなる男の前にも、ついそ姿を見せなかった。ま た、ヒェロンの妻は、夫の鼻の臭いのを感じなかった。これ 彼女は、しばしば、誰も見ていないところでするようなこと マルティアリス、 はすべての男に共通の性質だと考えていたからである。要す を、する。 ( 七の六一の六 るに、われわれを満足させるためには、彼女たちは無感覚に

8. 世界の大思想5 モンテーニュ 随想録<エセー><下>

あるとするならば、この紐が切れるということは、どう考え 四 )(o) 《或るものを失った悲しみと、それを失いはしない セネ力「書 ても不可能である。なぜなら、、 しったいどこから切れはじめ かという恐れは、精神にひとしく影響を与える。》 ( 簡』八八 それによって言いあらわそうとしているのは、「もしわれわ ると考えるべきだろうか ? あらゆる点が一度に切れるとい うことも、本性上ありえないことである。さらにそれに加えれが生を失うことを恐れるならば、人生の果実もわれわれに ということである。 て、「含まれるものは、含むものより大きい」とか「円の中とって真に楽しいものではありえない こう言うこともできるだろう。「わ 心は円周と同じ大きさをもっ」というようなことを確実な証それにしても、反対に、 明によって結論したり、「たがいにたえす接近しながら決しれわれは、この幸福がわれわれにとってあまり確実でないこ て相交わることのない二つの線ーを見いだしたりする幾何学とを見るからこそ、またそれがわれわれから奪い去られるこ とを恐れるからこそ、それだけいっそうしつかりと愛情をこ 上の命題、そのほか化金石、円の求積法など理論と実際とが 相反するようなことがらを思いあわせる人があるならば、そめて、この幸福を抱きしめる。」事実、火が寒い風に出会う の人は、おそらく、。フリニウスのこの大胆なことばを支持すと燃えあがるように、われわれの意志も反対のものによって る何らかの論拠を引き出すことであろう。〈不確実より以外かき立てられるということは、明らかに感知されることであ る。 に確実なものは何もない。人間より以上に悲惨で、思いあが 。たものは何もない。》 ( 第」一七 ( ) もしダナ工が青銅の塔に閉じこめられなかったならば、 彼女は決してユ。ヒテルの子をみごもらなかったであろう。 第十五章われわれの欲望は困難によって増 ( 誌」二の一九の二セ 大する (<) また、容易さから来る飽満くらい、元来、われわれの 好みに反するものはないし、稀有と困難くらい、われわれの (<) 「反対の理由をもたないような理由はない」と、哲学 好みを刺激するものはない。 ^ 何ごとにおいても、快楽は、 ビ 0 ン ) は一 = 〕っている。私はいま 者たちの最も賢明な一派 ( 派 われわれをそこから遠ざけるかも知れない危険に比例して、 。セネ力「恩恵に しがた、或る古人が生命を蔑視する理由として述べている次増大する〉 ( ついて』七の八 のような格言を噛みしめていたところ・である。「いかなる幸 福も、それを失ったときのわれわれの備えができていないな ガラよ、いやだと言っておくれ。喜びに苦しみがまじらない マルティアリ と、愛に早くも飽きがやってくる。 らば、われわれに快楽をもたらすことはできない。」 ( セ、

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361 随想録 ぜなら、反対は、彼女たちを刺激し、いっそう悲しみの方へ 的な気持は、とうの昔に棄て去った。 彼女たちを引きいれるからである。言い負かそうと思うと、 書物は、これを選ぶことを知っている人たちにとっては、 かえって病気がひどくなる。普通の談話にも見られるよう たくさんの快い性質をもっている。けれども、苦しみのない に、私がうつかり口に出したことでも、人がそれを否認して 楽しみはない。読書の楽しみも、ほかのいろいろな楽しみと かかると、私はむっとして、それに固執する。私に利害関係 同様、純粋無垢なものではない。それはそれなりに不都合が あり、しかも重大な不都合がある。そこでは、霊魂は働くのあることならば、なおさらである。しかも、こんなやりか が、しかし私が同じように大切に思っている身体は、そのあ たでは、あなたの治療は、はじめから手荒すぎる。そういう いだ活動せずにとどまっており、無気力になり陰気になるば ばあい、患者に対する医者の最初の応対は、やさしく、陽気 かりである。私にとってこれほど有害な、老境に向かう者に で、快いものでなければならない。顔をしかめた醜い医者 とってこれほど避けるべき不節制を、私は知らない。 は、うまくいったためしがない。だから、反対に、まずはし 以上のごときが、私の愛好する特殊な三つの仕事である。 めは、彼女たちの嘆きを助け、これに好意をもたなければな 私は、市民的な義務によって私が世間に対してはたさなけれらない。そして、これにいくらかの賛同と弁解を示さなけれ ばならない仕事については、触れないでおく。 この相互理解によって、あなたは先へ進むだけ ばならない。 の信用を得たうえで、そっと感づかれないように、彼女たち の治療に適するいっそう確固たる談話に移っていかなければ 第四章気分転換について ならない。 私は、もつばら、私のうえに眼を注いでいる周囲の人たち (=) 私はかって、ほんとうに悲しんでいる或る婦人を慰めを欺くことしか考えていなかったので、病気を塗りこめよう・ るように頼まれたことがある。というのも、婦人たちの悲嘆と思った。そういうわけで、私は経験によってはじめて、こ の大部分は、技巧的、儀礼的なものだからである。 れを説得するのに効果のないまずいやりかたであることに気 がついた。私の示す理由はあまりに鋭く、あまりに思いやり 彼女の眼には涙が溢れんばかりにたまっている。涙はそのま がなかった。あるいは私のやりかたはあまりに唐突で、あ ーももカ命令の来るの まの場所で、どんなふうに流れ出せま、、、、ロ ュヴェナリス まりに無頓着であった。私はしばらく彼女の悩みを慰めるの を待っている。 ( 六の一一七一一 に一生懸命になったあとで、はっきりした強い理由を示して この青念に頭から反対するのは、まずいやりかたである。なそれをいやそうとっとめることをやめた。というのも、私は

10. 世界の大思想5 モンテーニュ 随想録<エセー><下>

良なのか ? それならきっと彼らはキリスト教徒だ」と。 或る人々は、自分で信じていないことをあたかも自分が信 ( ) そのほかのすべての外観は、どの宗教にも共通である。 希望、信頼、奇蹟、儀式、悔い改め、殉教など、みなそうでじているかのように、世間に思いこませる。他の人々は、こ の方がずっと数は多いが、信じるとは何であるかを知りもし ある。われわれの真理の特徴は、われわれの徳にあるのでな ければならないであろう。徳こそはもっとも得がたい天来のないのに、信じていると自分で自分に思いこませる。 (<) また、われわれは現在わが国を圧迫している宗教戦争・ 特徴であるとともに、真理にもっともふさわしい作品である において、普通一般の戦争におけると同じく、出来事が動揺 からである。 ( ,-a ) してみると、キリスト教徒になったあの だったん し変化するのを見て、不思議に思う。それは、われわれがそ 韃靼王が、リョンに来て教皇の足に接吻し、われわれのおこ こにわれわれのものをしか持ちこまないからである。党派の ないのうちに見いだすことを期待していた神聖さをリョンで 一方における正義は、飾りとして口実としてそこにあるにす・ 確認しようとしたとき、わが聖ルイ王がしきりにそれを思い ぎない。なるほど正義はロで唱えられているものの、受けい とどまらせようとしたのも、当然である。われわれの放埓な 生活態度が、かえって韃靼王にかくも聖なる信仰に対する嫌れられてもいないし、宿ってもいないし、信奉されてもいな 。あたかも、正義が弁護士の口先にはあるが、当事者の心 ) 悪の念をおこさせるおそれがあったからである。もっとも、 その後、別の人にはま 0 たく反対のことがおこ 0 た。その人情のうちにはないようなものである。神は信仰と宗教には異 常な助けを与えなければならないが、われわれの情欲にまで は、同し目的でローマに行き、そこで当時の聖職者や民衆の 堕落を見たために、それだけ深くわれわれの宗教に帰依し助けを与える義理はない。宗教戦争においては、人間が宗教、 た。彼はこの宗教がこれほどの腐敗のなかにあり、かくもけをあやつり、自分のために宗教を利用している。本来なら ば、まったくその反対でなければならないだろう。 がれた手のなかにありながら、その尊厳と光輝を保っている (o) われわれは宗教をわれわれの手で引きまわしているの のは、よほどの力と神性がそこにあるにちがいないと考えた ではあるまいか ? まるで臘細工でもするように、かくもま・ からである。 録 (d) 「もしわれわれに一粒ほどの信仰があるならば、われつ直ぐで堅固な規範から、たくさんの反対の形を引き出して いるのではあるまいか ? そういうことが今日のフランスに、 想われは山をも移すことができるであろうーと聖書は言ってい 随るが、われわれの行為は、神性によって導かれ伴われるならおけるほどはっきり見られる時代があったろうか ? 宗教を、 右にとった者も左にとった者も、宗教を黒と言う者も白と一一一戸 ば、たんに人間的なものではなくなるであろう。 (o) 《有徳で幸福な生活にいたる近道は、信じることであう者も、みな同じように自分たちのはげしい野心的な企ての